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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第四章『故郷の底に眠るもの』

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第42話『下から来るもの』


 コツ……。


 石を叩く硬い音が、階段の底から響いてきたが、誰も身じろぎしなかった。

 アレンは左手を剣の柄に置いたまま、暗闇を見つめる。


 ケイムが掲げている魔法灯(まほうとう)の光は、長い階段の途中で闇に呑まれていた。下がどれほど深いのか、そこに何があるのかは分からない。


 ただ、何が近づいているのかは見えなくとも、音だけは確実に大きくなっていた。


 コツ……。


 今度は先ほどより、わずかに大きく響いた。


「……来てる。アレン」


 マナが声を押し殺す。

 アレンは視線を暗闇に据えたまま、低く応じた。


「……ああ。分かってる」


 そのまま左手で剣を抜き、階段の中央から半歩だけ外れる。

 右手首から先は動かない。いつものように、使えるのは左手一本だけだった。


 隣では、ドレイヴも背負っていた大剣をゆっくりと抜いていた。刃が留め具に触れないよう、普段より慎重な動きだった。


「……これ、やっぱり上がってきてるよね」


「……たぶんな」


「たぶんって、お前……どう聞いたって上がってきてるだろ」


「分かってるって」


「二人とも、静かに」


 ディアナの低い声に、二人はぴたりと口をつぐんだ。

 彼女は階段の縁へ観測結晶を近づけていたが、その内部に浮かぶ淡い光は不規則に揺れている。


「……おかしいわ」


「何が?」


 マナが声を落として訊いた。


「反応が、うまく掴めないの。下から何かが近づいている。それは間違いない。でも……周囲の術式と重なって、輪郭が取れない」


 ケイムは階段から目を離さないまま、短く訊いた。


「……数は?」


「分かりません。そこまでは判別できません」


「なるほど……一体だけとは限らない、ってことだね」


 わずかな間を置いて、ディアナは小さく頷いた。


 その直後――。


 コツ。


 コツ。


 先ほどまでより、音の間隔が短くなる。


 最初は、誰かが一段ずつ階段を上っているのだと思っていた。

 だが、近づくほどに違和感が増していく。


 人間の足音ではない。

 何本もの細いものが、ばらばらの間隔で石に触れているような音だった。


 コツ、コツ……。


 ずる。


 そこへ、何かを引きずる湿った音が混じる。

 アレンの背中を冷たいものが走った。


「……ドレイヴ」


 呼びかけるより早く、ドレイヴは一歩前へ出る。


「ああ。分かってる」


 階段の幅は、大剣を横へ振り切るには狭い。だが、上ってくるものを正面で止めるなら、彼が一番向いている。


 マナとディアナが後方へ下がり、ケイムも二人を守れる位置へ移る中、アレンはドレイヴの左後方へ回った。何かが飛び出してきたとき、すぐ横へ入れる位置を選んだのだ。


 それから数秒、音だけが近づいてくる。


 コツ。


 ずる。


 コツ、コツ。


 やがて、階段へ落ちる淡い光の端に、何かが触れた。


 黒い。


 最初に見えたのは、細長いものだった。腕でも、脚でもない。

 石段の角に巻きつくように伸びたそれは、先端を縮ませながら身体を引き上げていく。


「……あれ、触手……なの?」


 マナの声が強張った。その直後、答えるように二本目の触手が光の中から姿を現し、続いて三本目も這い出してくる。


 さらにその奥から、黒ずんだ肉の塊のような胴体が持ち上がった。人ほどの大きさはあるが、人に似た部分はどこにもない。


 節のない長い触手が胴体の周囲から伸び、その何本かを階段に突き立てながら身体を運んでいる。

 頭部らしき膨らみはあった。


 しかし――。


「……目が、ない」


 アレンの口から、確かめるような声が漏れた。

 目に当たるものはなく、穴さえ見当たらない。のっぺりとした黒い表面の下に、縦に裂けた口だけがある。


 それが階段を上りきる直前、不意に動きを止めた。

 アレンたちも動かないまま見据えていると、異形の身体がわずかに左右へ揺れ始めた。


 まるで、こちらの位置を探しているようだった。


「……見えて、ないのかな」


 マナが囁き終えるのと同時に、異形の頭部がくるりと彼女のほうへ向いた。


「……っ」


 マナは声を殺し、身を固くした。

 だが、怪物はすぐには飛びかからず、再び頭部を揺らした。その動きは、何かを探っているように見える。


 ディアナの表情がわずかに強張った。


「待って。これ、もしかして――」


 ふいに、アレンの胸の奥で微かな熱が脈打った。


 刻印。


 力は使っていない。それでも、刻印を宿した身体には通常とは異なる魔力がある。


 異形の動きが止まった。

 やがて、その頭部がぴたりとアレンの方角で止まる。


「……俺を見てるのか?」


 言い終えるより早く、黒い触手が石段を激しく弾いた。


「アレン、来る!」


 マナの声とほぼ同時に、怪物が一直線に飛び出す。

 その正面へドレイヴが割り込み、大剣を横に構えて突き出した。


「アレン、下がれ! こいつは俺が止める!」


 刃の腹が怪物の胴体を正面から受け止める。

 だが、それでも動きは止まらない。


「っ、なんだこいつ……!」


 一本の触手が大剣に絡みつき、もう一本がドレイヴの肩を越えてアレンへ伸びる。


「くそっ!」


 アレンは膝を折るように身を沈め、その一撃をかわした。

 頭上を薙ぎ払った黒い触手が背後の石壁に叩きつけられ、乾いた破砕音が地下空間へ響いた。


「アレン、下がって!」


 背後からマナが鋭く呼びかける。


 だが、怪物はドレイヴにもマナにも目もくれず、触手を大剣に絡めたまま身体を捻ると、力ずくでアレンへ迫ろうとした。


「おい、待てって! 俺を無視してんじゃねえ!」


 ドレイヴが苛立ちまじりに大剣を強く引くと、異形の身体が傾いた。

 その隙にアレンは左から踏み込み、胴体に剣を突き立てる。


 刃は肉へ沈んだが、浅い。手応えもあまりに柔らかすぎた。


「っ……!」


 怪物の身体が大きく歪み、剣を呑み込むように肉が蠢いた。


「アレン、駄目! すぐ離して!」


 ディアナが鋭く警告し、アレンは剣を引こうとした。


 だが、抜けない。

 その間にも、触手が一本、また一本とアレンの腕へ迫ってくる。


「……くそっ!」


 考えるより先に、アレンは魔力を引き込んでいた。

 最も得意とする雷魔法。


「雷よ、流れとなり、敵を撃て――カーレント!」


 アレンの左腕から紫白色の電撃が迸り、剣を伝った雷が怪物の身体へ一気に流れ込む。


 バヂッ――!


 狭い地下空間が一瞬、白く染まり、黒い触手が激しく跳ねた。胴体の表面が内側から膨れ上がり、裂けた口が大きく開く。


 だが、声は出ない。

 怪物の全身が激しく痙攣し、アレンの剣を締めつけていた肉がわずかに緩んだ。


「……今だ!」


 緩んだ肉を振りほどくように剣を引き抜き、アレンは一歩退いた。


 怪物は階段の縁で何度か触手を震わせたあと、力を失ったように崩れ落ちる。

 黒い身体が石床へ落ち、そのまま動かなくなった。


「……倒した、のかな」


 マナが警戒を解かず、杖を向けたまま呟く。

 その傍らで、アレンは肩で息をしながら、怪物からゆっくりと距離を取った。


「たぶん……今ので――」


「待って」


 ディアナの低い声がその言葉を遮った。彼女は倒れた怪物を見ず、階段の奥だけを見ていた。


「……静かにして」


 全員が口を閉じると、雷の残響が次第に消えていき、焦げたような臭いだけを残して地下は再び暗さを取り戻した。


 そこで初めて、聞こえた。


 コツ。


 アレンの顔から血の気が引く。


 コツ、コツ。


 一つではない。先ほどとは違い、階段のずっと下、さらにその奥から硬い何かが石へ触れる音が重なっている。


 コツ、コツ、コツ。


 ずる。


 コツ。


 ずる、ずる。


 その音は、次第に数を増していった。


「……おい、ちょっと待て」


 ドレイヴが眉をひそめ、階段の奥を覗き込む。


「まさか……あれ、全部さっきのやつじゃねえだろうな」


 誰も、すぐには答えられなかった。


 暗闇の底で、音だけが膨れ上がっていく。一体や二体ではない。

 それらは確実に、こちらへ近づいていた。


「アレン」


 ディアナが振り返り、鋭く問いかけた。


「今の魔法、出力はどのくらい?」


「普通だ。……カーレントだから中位魔法」


「その前に、何か使った?」


「いや。使ってない」


 答えを聞くなり、ディアナは観測結晶を確かめた。

 先ほどまで不規則に揺れていた内部の光は、今や激しく波打っている。


 そして、その揺れの中心にあるのは、倒れた怪物ではない。


 階段の下だった。


「……やっぱり、そういうことね」


「何か掴めたかい?」


 ケイムが訊くと、ディアナは観測結晶を階段へ向けたまま、視線を動かさなかった。


「この反応……私たちの魔力が大きく動いた直後に、明らかに増えてる」


 アレンは自分の左手へ目を落とした。


「……今の、俺の雷に反応したのか?」


「たぶん。その可能性は高いわ」


「でも待てよ。さっきのやつは、俺たちが魔法を使う前から上がってきてただろ」


「ええ。だから……反応しているのは、魔力だけじゃない」


 ディアナはそこで、床に倒れた異形を見た。


「――デスリーチャー」


「……知ってるのか?」


「記録で読んだだけ。地下裂隙(ちかれつげき)や古い封印遺跡で確認される異界種よ。目がない代わりに、音と魔力の変化で獲物を探す」


 マナは倒れた怪物を見つめた。


「じゃあ……さっき、わたしが話したときに反応したのは……」


「ええ。あなたの声を拾ったんだと思う。でも――」


 ディアナはアレンを見る。


「そのあと、すぐにアレンへ向かった」


 そこで一度、ディアナの言葉が途切れたが、アレンには彼女が何を言おうとしているのか分かった。


「……刻印か」


「ええ。記録では、デスリーチャーは刻印者を優先して狙う傾向がある」


 ドレイヴが露骨に顔をしかめた。


「なんだよ、それ。こんな地下じゃ、アレンだけ目印つけて歩いてるようなもんじゃねえか」


「そうなるわね。力を使わなくても狙われる可能性はある。でも――」


 ディアナは言葉を切ると、観測結晶を階段の奥へ向けた。

 そこから響く音は、さっきより明らかに増えていた。


「……今ので、はっきりしたわ」


「何が分かった?」


 アレンの問いに、ディアナは迷わず答えた。


「強い魔力を使えば使うほど……こいつらに自分たちの位置を教えることになる」


 その言葉が落ちた直後、階段の途中で何かが光を横切った。

 一瞬だけ見えたのは、黒い触手だった。


「来る!」


 アレンが剣を構えた。


「待って」


 ケイムの声が飛ぶ。


「今度は、強い魔法を撃たないで」


「でも、このままじゃ――」


「小規模な補助まで全部封じる必要はないよ。けど、さっきみたいな出力は駄目だ。そのぶん下にいる連中まで呼び寄せる」


 ケイムは階段の闇に意識を集中し、響いてくる音を数えるように耳を澄ませた。


「ここで一体倒すたびに、下の全部を集めてたら……きりがない」


 ドレイヴが大剣を肩の高さまで持ち上げる。


「じゃあ、基本は斬れってことか」


「うん。魔法は必要なところだけ。それが一番いい」


「なんだよ。最初からそう言ってくれりゃ分かりやすいじゃねえか」


「あなたは、何でも斬れば済むと思ってるでしょう」


 ディアナが間髪入れず返すと、ドレイヴは横目で彼女を見た。


「今回はそれで合ってんだろ?」


「……今回はね」


「なら、いいじゃねえか」


「来るぞ!」


 アレンの声に、二人は同時に前へ向き直った。


 二体目のデスリーチャーが階段を上りきったが、今度は飛び出してこない。

 その場で頭部を左右へ揺らし、音を探っている。


「全員、足音も抑えて。……できるだけ静かに」


 ディアナが声を潜めて告げると、アレンは呼吸を整えた。

 それ以降、声も互いに届くぎりぎりまで落とす。


 目のない頭部の正面を避けるように、ゆっくりと横へ動く。

 だが、デスリーチャーの頭部は、その動きに合わせるようにぴたりとアレンを追った。


「……やっぱり、俺の位置は分かるのかよ」


 その声を拾った瞬間、怪物が跳ぶ。


「来い! こっちは俺が止める!」


 ドレイヴが大剣を縦に構えると、飛び込んできた触手がその刃に絡みついた。


「アレン、今だ!」


「ああ、分かってる!」


 アレンは側面へ回り込み、間合いを詰めた。


 雷は使わない。身体にも剣にも流さず、純粋に左腕の力だけで切っ先を押し込む。

 狙うのは、先ほど倒した個体が雷を受けたあと、最も深く裂けていた場所――胴体と頭部らしき部分の境目だ。


 刃が沈む。


 だが、やはり一撃では足りず、触手がアレンへ向きを変えた。


「させるかよ!」


 ドレイヴが大剣を力任せに捻ると、絡みついた触手ごと怪物の身体が引かれ、アレンへ伸びていた一撃は大きく逸れた。


「マナ、今だ!」


「うん、分かった!」


 マナが杖を構えると、その先端へわずかな水が集まり始めた。


「水よ、針となり、敵を穿て――ヴァッサーナーデル!」


 細い水針が一筋だけ放たれる。

 普段なら複数を撃ち込む魔法だが、今は一点だけを狙い、アレンの剣が作った傷に正確に突き刺さった。


 水針が傷へ沈んだ途端、肉が内側から裂けるように弾けた。


「今だ、そこだ!」


 アレンは剣を引き抜くと、間を置かず同じ場所へもう一度深く突き入れた。

 今度は深く刺さり、怪物の全身が大きく縮む。触手が床を何度も叩き、ガッ、ガッ、と硬い音を響かせた。


「早く止めろ。あの音で余計に呼び寄せる」


「無茶言うなっての!」


 ドレイヴは大剣を床に押しつけるように踏み込み、絡みついた触手の動きを力ずくで封じた。


「ディアナ、今だ!」


「分かってる!」


 ディアナが即座に応じると、その指先から小さな紙片が放たれた。

 細い術式の線が描かれた封印符が、暴れる触手の根元に貼りつく。


 紙面が一度だけ淡く光った。大規模な封印魔法ではないが、それでも触手の動きは鈍った。


「今よ!」


「おう、任せろ!」


 ドレイヴが応じると同時に、大剣を一気に持ち上げた。


 普段なら力任せに叩きつけるところを、今回は刃を滑らせるように振り下ろす。

 鈍い手応えとともに胴体が深く裂け、アレンがそこへ剣を突き込んだ。


 怪物は数度痙攣したのち、やがて動かなくなる。

 マナが息を整えるが、階段の下ではまだ音が続いていた。


「休んでる暇はないよ」


 ケイムが短く急かす。


「もう次が来る」


 その言葉とほぼ同時に、闇の奥から二つの影が姿を現した。


「……二体いる!」


「ドレイヴ、右を止めろ! 左は俺が引きつける!」


「引きつけるも何も、お前狙いなら勝手に来るだろ!」


「だからだよ! 二体まとめて来られたらまずい!」


 アレンはそう返しながら、わざと数歩左へ移動した。

 すると、それに合わせるように二体のデスリーチャーが揃って頭部をアレンへ向けた。


「……くそ。二体とも俺かよ」


 その事実を目の当たりにした途端、喉がひどく乾いた。

 だが――逆に、これは利用できる。


「ドレイヴ! 右の一体だけ止めろ!」


「おう、任せとけ!」


 ドレイヴが即座に応じ、右側の個体へ大剣を突き出した。


 胴体を斬るのではなく、二体の間へ刃を差し込み、そのまま押し広げる。一体が階段の壁際へ押し込まれ、もう一体は遮るもののなくなった正面からアレンへ飛びかかった。


 アレンはそれを引きつける。


 一歩。


 もう一歩。


 触手が伸びる。

 ぎりぎりまで待って身体を横へ滑らせると、触手は空を切った。


「マナ、足元狙え!」


「足っていうか……触手だけどね!」


「分かってるって!」


 マナは返しながら、杖を低く構えた。

 水が床を薄く走る。攻撃するための量ではなく、数本の触手が石に接する箇所だけを濡らしていく。


 踏ん張りを失った怪物の胴体が、そのまま滑った。


「よし、今だ!」


 アレンが踏み込み、そのまま剣を振り下ろすと、触手の一本が切り落とされた。

 黒い肉片が石床へ落ちて激しく跳ね、その音に階段際へ押し込まれていたもう一体の頭部が反応した。


「……音にも、ちゃんと食いつくのか」


 ドレイヴが何かに気づいたように眉を上げた。


「だったら――」


「余計なことはしないで」


 何か言い出すより先に、ディアナがぴしゃりと遮る。


「まだ何も言ってねえだろ」


「大きな音を出して、まとめて誘導しようとしたでしょう」


「……なんで分かった?」


「あなたなら、それくらい考えると思ったから」


「……便利だなお前」


「そこで感心しないで!」


 マナがすかさず割って入る。

 床を滑ったデスリーチャーが触手を振り回し、アレンの足を狙った。


 アレンは左手の剣を逆手に持ち直し、足元へ伸びてきた触手を床際で受け止める。だが、そのまま触手が刃に絡みつき、強く引かれた勢いでアレンの身体が前へ持っていかれた。


「っ……!」


「アレン、離して!」


「……分かってる!」


 アレンはためらわず剣から手を離し、引かれる武器に固執することなく左へ跳んだ。


 剣が引かれるのを見て、ケイムが動いた。


 大規模な術式は使わず、伸ばした指先からほんの細い魔力の線を走らせ、アレンの剣に絡んでいた触手を横から弾いた。


 力ではなく角度だけを変えることで、拘束がわずかに緩んだ。


「アレン、今! 取って!」


「ああ!」


 アレンは左手を伸ばし、剣の柄を掴み直した。


「助かった!」


「どういたしまして。……でも次は、離す前に一言ちょうだい」


「そんな余裕なかったって!」


「……なら、仕方ないね」


 アレンが剣を取り戻したその横では、ドレイヴがもう一体を壁際へ押さえ込んでいた。


「おい、こっちもそろそろ限界だぞ!」


「分かった、今行く!」


 床を滑った一体がまだ体勢を立て直せずにいる隙に、アレンはドレイヴのもとへ駆けた。


 その横をマナの細い水流が走り、怪物の触手を一瞬だけ壁に押しつける。ほんの一秒にも満たない時間だったが、それで十分だった。


 ディアナが封印符を投げる。


 一枚。


 二枚。


 触手の付け根に貼りついた符が弱く輝き、その動きをさらに鈍らせた。


「ドレイヴ、合わせろ!」


「おう、任せろ!」


 呼吸を合わせるように、大剣が下から勢いよく跳ね上がり、怪物の胴体が持ち上がった。


 その下へアレンが滑り込み、剣を深く突き上げる。

 肉を裂く感触を確かめるより早く、アレンは横へ抜けた。


「もう一発いくぞ!」


 ドレイヴは大剣を両手で握り直すと、その刃を怪物の裂け目へ力任せに押し込み、そのまま体重をかけた。


 黒い胴体が深く裂け、触手が一斉に力を失う。

 残る一体も、マナの小さな水魔法で体勢を崩され、アレンの剣とドレイヴの大剣によって仕留められた。


 ようやく静けさが戻ったが、武器を下ろす者はいない。五人の注意は揃って階段へ戻った。


 コツ……。


 まだいる。

 だが、その音は先ほどより遠かった。


「……増えてないわね」


 ディアナが観測結晶へ目を落とした。


「少なくとも、今の戦闘では……反応全体の強さに、ほとんど変化はない」


「やっぱり、魔法を抑えたからか?」


 アレンが訊く。


「ええ。その可能性が高いわ」


 ドレイヴは大剣についた黒い体液を振り落とそうとして――ふと途中で手を止めると、大きな音を立てないよう布で拭った。


「ったく……ほんと面倒くせえ敵だな」


「でも、性質が分かったなら、戦いようはあるよ」


 マナが怪物の死骸を警戒しながら言った。


「今くらいの魔力と音なら……さっきみたいに、まとめて寄ってくることはないんでしょ?」


「おそらくね」


 ディアナは残っている封印符を数えながら答える。


「ただし、小規模でも魔法は魔法よ。魔力を使う以上、完全に気づかれないとは思わないほうがいい」


「じゃあ、俺は大剣でやる」


 ドレイヴが自分の武器を軽く持ち上げた。


「炎は……どうしても必要なときだけだな」


「ああ。俺も基本は剣で行く」


 アレンも左手の剣を見やった。

 片手で戦うことになり、右手を動かすために刻印を使うこともできない。いつもより選択肢は少ない。


 それでも――選択肢がないわけではなかった。


「マナはどうする?」


「ヴァッサーナーデルなら、数を減らして使うよ。それと……さっきみたいに足場を濡らすくらいなら、使う魔力も少なくて済むから」


「ええ。それがいいと思う」


 ディアナが頷いた。


「私は封印符を中心にするわ。完成した符に少量の魔力を流すだけなら、その場で大きな術式を組むより反応を抑えられる」


 ケイムがそこで自分を指した。


「じゃあ、僕は?」


 ドレイヴが間髪入れず答える。


「何もしない」


「ひどくない?」


「だって、一番でかい魔法術式を使えるのお前だろ」


「……まあ、そうなんだけどね。だからこそ、今は控えるよ」


 ケイムはそう言って、階段の闇を見下ろした。


「大規模術式は最後の手段にしよう。ここじゃ、強い魔法ほど有利……ってわけでもなさそうだ」


 アレンはその言葉を聞きながら、階段の先に広がる暗闇を見つめた。


 今までの戦いなら、敵が多いほど強い魔法を使い、相手が強ければ、さらに強い力をぶつける。それが当たり前だった。


 だが、ここでは違う。

 力を使えば倒せる。けれど、その力が次の敵を呼ぶ。


「……強ければ、それでいいってわけじゃないんだな」


「ええ。そういうことね」


 ディアナが静かに答えた。


「少なくとも……この地下では」


 マナは黒い手袋に包まれたアレンの動かない右手をじっと見た。

 何も言われなくても、何を考えているのかは分かる。


 だから、アレンは先に口を開いた。


「……刻印は使わない」


 マナが顔を上げた。


「……うん」


「普通の雷魔法ひとつで、あれだけ反応が増えたんだ。刻印まで使ったら……何が来るか分からない」


「そこまで分かってるなら、いいよ」


「……ほんと、信用ないな」


「あるよ」


 マナは少しも迷わず答えた。


「信用してるから……アレンが自分で言ってくれるの、待ってたの」


 アレンは何か返そうとして――やめた。

 代わりに、剣を握り直した。


「……じゃあ、これで決まりだな」


「ああ」


 ドレイヴが大剣を担ぎ直す。


「要するに、魔法なしで殴りゃいいんだろ」


「……斬れよ。剣なんだから」


「細けえこと言うなって」


「二人とも。音もできるだけ抑えてね」


「分かってるって」


 張りつめていた空気がほんのわずかに緩んだが、それも長くは続かず、ケイムが階段へ向き直った。


「……さて。問題はここからだね。この先をどう進むか――まずは、そこを決めようか」


 誰もすぐには答えなかった。

 来た道を戻ることはできるし、この異形が現れるまでは、そのつもりだった。


 だが、今は事情が変わっている。


 この階段の下から、異界種が上がってきた。それも一体ではない。


 ここを放置して地上へ戻れば、次に来る個体が階段を上りきるかもしれない。その先にはアレンの家跡があり、さらに先にはグリムフォードの町跡が広がっている。


「……確認した方がいいと思います」


 最初に口を開いたのはアレンで、その声にケイムがこちらへ視線を向けた。


「理由は?」


「こいつらが……どこから来てるのか、それだけでも」


 アレンは床に転がるデスリーチャーの死骸へ目を落とした。


「全部の巣を探すとか、奥まで調べるとか、そこまでするつもりはないです。でも……すぐ下に何があるのかも分からないまま戻るのは、危ないと思います」


 そこで一度、言葉を切る。


「それに……ここ、俺の家の下なんです」


 そのことだけは、どうしても他人事にはできなかった。


「何があるのか……自分の目で確かめたいです」


 マナが口を開きかけたが、アレンはそれより先に続けた。


「だからって、一人で行くつもりはない」


 その一言に、マナは口を閉じた。


「勝手に先へ行かない。危なくなったら戻る。魔法もできるだけ抑える。……それなら、少しくらい下を確認できないか?」


 ケイムはしばらく何も言わずにアレンを見ていたが、やがて、ほんの少し口元を緩めた。


「先回りして、言いたいことを全部潰されたね」


「言われると思ったんで」


「成長したじゃないか」


「それ、ドレイヴにも言われました」


「じゃあ、よほど珍しいことなんだね」


「……ケイムまで言うんですか」


「冗談だよ」


 ケイムは小さく笑い、階段の奥へ視線を戻した。


「でも、判断そのものには賛成だ」


 ディアナも静かに頷く。


「私も。少なくとも、入口の構造くらいは確認しておきたいわ。こいつらがどこから上がってきているのか分かれば……封鎖できる可能性もある」


「なら、決まりだな」


 ドレイヴが大剣を背へ戻しかける。


「待って」


「……なんだよ」


「すぐ抜けるように、そのまま持っていて」


「さっきまで音を立てるなって言ってただろ」


「音を立てずに、すぐ使える状態にして」


「注文多くねえか?」


「生きて帰るためよ」


「……はいはい、分かったよ」


 文句を言いながらも、ドレイヴは大剣を手にしたまま構え直し、マナもそれに続いて杖を握り直した。

 ケイムが魔法灯の明かりを弱めると、階段を照らしていた光は必要最低限まで落ちた。


「これ以上暗くすると、今度は足元が危ない。……明かりはこのくらいで行こう」


「なら、先頭は俺が行く」


 ドレイヴが大剣を前に据える。


「いや」


 アレンは階段の奥を窺った。


「俺が前に出る」


「なんでだよ」


「どうせ、向こうは俺を狙ってくる」


 ドレイヴの表情が険しくなった。


「……お前、まさか囮になる気じゃねえだろうな」


「囮になるつもりはないって」


 アレンはすぐに否定する。


「狙われるって分かってるなら、最初からそれ込みで動いた方がいいって話だ。俺が前。ドレイヴはすぐ後ろ。来たら俺が引くから、お前が止めてくれ」


 ドレイヴはしばらく黙って考えた。


「……分かった。ただし、勝手に突っ込むなよ」


「それ、お前にだけは言われたくない」


「はっ。じゃあ、お互い様ってことだな」


「……そういうことにしとく」


 アレンは剣先を下げ、先頭に立った。

 その後ろにドレイヴが続き、さらにマナ、ディアナの順で進む。


 最後尾はケイムが固める。


「音は、できるだけ抑えて」


 ディアナが念を押す。


「魔法も小規模なものだけ。敵が多すぎると判断したら……その時点で戦わず戻る。いい?」


「ああ、分かった」


 アレンは短く答え、階段へ足をかけた。


 一段。


 また一段。


 石は乾いており、苔もない。長い間放置された場所にしては、妙に足場がしっかりしていた。

 壁も同じ石材で造られている。上の小部屋よりさらに古く見えるものの、崩れた場所はほとんどない。


 五人の足音が小さく反響する中、誰も必要以上に話さなかった。


 途中で一つの曲がり角を抜け、さらに下へ進む。

 アレンは自分の呼吸と背後の四人の気配を確かめながら、慎重に階段を下りていった。


 さきほどまで聞こえていたデスリーチャーの音は、いつの間にか消えている。


 だが、それで安心できるわけではない。むしろ、どこにいるのか分からないことが、一段下りるごとに背筋に緊張を積み重ねていった。


「……待って」


 アレンが声を潜めると、全員の足が止まった。


「どうした?」


 すぐ後ろから、ドレイヴが低く訊く。


「……前だ。何かある」


 アレンは階段の先へ目を凝らした。

 弱い光の中に平らな床が見えている。階段の終わりだ。


 アレンは慎重に最後の数段を下り、左右へ剣を向けられるよう構えながら、下の空間へ足を踏み入れた。


 だが、何も襲ってこない。

 そこは細長い石の通路で、先ほどの小さな地下空間とは明らかに造りが違っていた。


 壁には大きな石が隙間なく組まれ、床には何かを引きずったような黒い跡が残っていた。


「……これ、見て」


 マナが足元を見た。


「デスリーチャーの跡か?」


「たぶん、そうね」


 ディアナはしゃがみ込まず、少し距離を取ったまま跡を確かめる。


「……まだ乾いてない。かなり新しいわ」


「じゃあ、やっぱりこっちから来たんだな」


 アレンは足元の跡を目で追った。

 黒い筋は通路の奥へ続いており、五人は互いに距離を保ちながら、その跡を辿って進む。


 角を曲がると、さらに短い通路が続いていた。


 そこで――アレンは足を止めた。


「……なんだよ、これ」


 正面を巨大な石壁が塞いでいる。


 ――いや。


 近づくにつれ、それが壁ではないことが分かった。

 中央には縦の継ぎ目があり、左右へ分かれるように二枚の巨大な石が並んでいる。


「……これ、扉なの?」


 マナがその高さを確かめるように見上げた。


 人の背丈を何倍も超える石扉で、地下室へ置くようなものではない。家の下に隠すにしても、あまりに大きすぎた。


 扉の表面には古い線が何本も刻まれていたが、先ほど家の下で見た封印術式とは形が違う。


 ただ、その下部には黒い汚れが何本も残されていた。

 デスリーチャーが這った跡だ。


 黒い筋は中央の継ぎ目の下端に集まり、指が数本入るほどの細い隙間へ消えていた。人間が通れる幅ではない。


 だが、剣の刃を包み込むほど柔らかいあの身体なら、そこを抜けられたとしても不思議ではなかった。


「こいつら……やっぱり、この向こうから来てるのか」


 ドレイヴが扉を睨みながら、低く言った。


「そう考えるのが自然ね」


 ディアナは警戒を解かないまま観測結晶を扉へ近づけると、その内部で淡い光が揺れた。


「反応は?」


 ケイムが訊いた。


「……向こう側までは拾えません。でも、この扉自体に強い封印反応はないです」


「開けられそう?」


「少なくとも、今見えている範囲では……触れた瞬間に術式が作動するような構造はありません」


「なら――」


 ドレイヴが扉へ手をかけようとする。


「待って」


「……今度はなんだよ」


「開けるなら、先に全員の位置を決めてから。何が出てくるか分からないわ」


「……はいはい、分かったよ」


 ドレイヴは渋々扉から手を離し、アレンは改めてその巨大な石扉を見上げた。


 この向こうから、デスリーチャーが来た。


 なら、開ければまた襲われるかもしれない。だが、ここまで来て何も確認せずに戻れば、結局同じことだった。


「俺とドレイヴが前に出る」


 アレンが扉を見たまま言う。


「開いたら、いったん下がる。何か出てきたら、この通路で止める」


「それと、扉を動かせば音が出るわ」


 ディアナが続けた。


「開けた直後は動かないで。まず、向こう側の音を確認しましょう」


「マナは俺たちの後ろだな」


 ドレイヴが続ける。


「その後ろにディアナとケイム。……それでいいだろ?」


「ええ」


 ディアナは頷くと、封印符を数枚、すぐに抜き取れる位置へ移した。

 ケイムも全員の位置を見回し、それを確認してから頷いた。


「いいね。じゃあ、開けようか」


 ドレイヴは大剣を、音が立たないようそっと床へ置くと、石扉の左側に両手を当てた。


 アレンも剣を鞘へ戻し、動かない右手の代わりに、左手だけを右側の扉に当てる。


「俺一人でいいぞ」


「片方だけ動いたら困るだろ」


「いや、お前……片手じゃねえか」


「うるさい。押すくらいならできる」


「……分かったよ」


「二人とも」


 マナの呆れた声が飛ぶ。


「今、そのやり取りする?」


「……悪い」


「こいつが言うからだろ」


「ドレイヴ」


「……はい」


 ケイムが小さく笑った。


「じゃあ、三つ数えるよ。合わせて」


 その一言で、緩んでいた空気が一気に引き締まる。


「一」


 アレンが足を踏ん張る。


「二」


 ドレイヴも肩へ力を込めた。


「三」


 二人は同時に踏ん張り、扉を押した。


 ――動かない。


「……重っ」


「もう一回! 今度はもっと押せ!」


 二人は足場を取り直し、今度は扉に体重まで預けた。


 ゴ……。


 低い音とともに石と石が擦れ、中央の継ぎ目がほんのわずかに開いた。

 その隙間から、冷たい空気が流れ出す。


「動いたぞ!」


「そのまま、止めるな!」


 二人は呼吸を合わせ、開いた隙間を少しずつ押し広げていく。


 ゴゴゴゴ……。


 巨大な二枚の石扉が、長い眠りから目覚めるように、ゆっくりと奥へ押し開かれていく。

 やがて隙間が人一人通れるほどまで広がった。そのときだった。


「そこで止めて!」


 ディアナが鋭く制し、二人は押す力を抜いた。

 ドレイヴが大剣を拾い上げ、アレンも剣を抜くと、二人は打ち合わせどおり、いったん通路側へ下がった。


 誰も隙間へ近づかず、石扉の擦れる音が消えるのを待って耳を澄ませる。


 新たに近づいてくる音はない。

 開いた隙間の向こうは暗く、ケイムが魔法灯を扉の向こうへ向けると、弱い光がその隙間を越えた。


 そして。


 そのまま――闇の奥へ吸い込まれていった。


「……え、何これ」


 マナが思わず小さく声を漏らした。


 光は数メートル先にも、十数メートル先にも壁を捉えない。

 ただ闇の中へ伸び、空間の輪郭を何ひとつ浮かび上がらせないまま、次第に小さくなっていく。


 アレンはその様子を見ながら石扉の隙間へ近づいた。


「待って、アレン。近づきすぎないで」


「分かってる。中には入らない」


 そう答えながら一歩手前で足を止め、アレンは慎重に扉の向こうを覗き込んだ。

 最初は何も見えなかったが、目が暗さに慣れるにつれ、少しずつ輪郭が浮かび上がってくる。


 床はある。


 ただ、その先はすぐに途切れていた。

 そして、その向こうには――。


「……おい、嘘だろ」


 ドレイヴがアレンの隣で思わず低く呟いた。


 遠い。


 暗闇の中に、巨大な何かの輪郭が浮かんでいる。


 それも一つではない。いくつもの輪郭が上下にも左右にも広がっていた。


 今いる通路とは比べものにならないほど広い空間が、石扉の向こうに続いている。天井さえ光では捉えられず、横幅も分からない。


 家の地下にあるはずの空洞。

 だが、目の前の広さは、どう考えてもそんな規模ではなかった。


 アレンは何も言えず、ただその闇を見つめていた。

 自分が十八年間暮らした家。その床から、わずか数メートル下にあった入口。


 そこから続く階段。


 そして、その先に――こんな場所がある。


「……これ」


 マナの声がかすかに震えた。


「地下室って……そんな広さじゃないよね」


 誰も、その言葉を否定できなかった。


 石扉の向こうでは、天井も壁も見えない闇が果てまで広がっていた。


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