第42話『下から来るもの』
コツ……。
石を叩く硬い音が、階段の底から響いてきたが、誰も身じろぎしなかった。
アレンは左手を剣の柄に置いたまま、暗闇を見つめる。
ケイムが掲げている魔法灯の光は、長い階段の途中で闇に呑まれていた。下がどれほど深いのか、そこに何があるのかは分からない。
ただ、何が近づいているのかは見えなくとも、音だけは確実に大きくなっていた。
コツ……。
今度は先ほどより、わずかに大きく響いた。
「……来てる。アレン」
マナが声を押し殺す。
アレンは視線を暗闇に据えたまま、低く応じた。
「……ああ。分かってる」
そのまま左手で剣を抜き、階段の中央から半歩だけ外れる。
右手首から先は動かない。いつものように、使えるのは左手一本だけだった。
隣では、ドレイヴも背負っていた大剣をゆっくりと抜いていた。刃が留め具に触れないよう、普段より慎重な動きだった。
「……これ、やっぱり上がってきてるよね」
「……たぶんな」
「たぶんって、お前……どう聞いたって上がってきてるだろ」
「分かってるって」
「二人とも、静かに」
ディアナの低い声に、二人はぴたりと口をつぐんだ。
彼女は階段の縁へ観測結晶を近づけていたが、その内部に浮かぶ淡い光は不規則に揺れている。
「……おかしいわ」
「何が?」
マナが声を落として訊いた。
「反応が、うまく掴めないの。下から何かが近づいている。それは間違いない。でも……周囲の術式と重なって、輪郭が取れない」
ケイムは階段から目を離さないまま、短く訊いた。
「……数は?」
「分かりません。そこまでは判別できません」
「なるほど……一体だけとは限らない、ってことだね」
わずかな間を置いて、ディアナは小さく頷いた。
その直後――。
コツ。
コツ。
先ほどまでより、音の間隔が短くなる。
最初は、誰かが一段ずつ階段を上っているのだと思っていた。
だが、近づくほどに違和感が増していく。
人間の足音ではない。
何本もの細いものが、ばらばらの間隔で石に触れているような音だった。
コツ、コツ……。
ずる。
そこへ、何かを引きずる湿った音が混じる。
アレンの背中を冷たいものが走った。
「……ドレイヴ」
呼びかけるより早く、ドレイヴは一歩前へ出る。
「ああ。分かってる」
階段の幅は、大剣を横へ振り切るには狭い。だが、上ってくるものを正面で止めるなら、彼が一番向いている。
マナとディアナが後方へ下がり、ケイムも二人を守れる位置へ移る中、アレンはドレイヴの左後方へ回った。何かが飛び出してきたとき、すぐ横へ入れる位置を選んだのだ。
それから数秒、音だけが近づいてくる。
コツ。
ずる。
コツ、コツ。
やがて、階段へ落ちる淡い光の端に、何かが触れた。
黒い。
最初に見えたのは、細長いものだった。腕でも、脚でもない。
石段の角に巻きつくように伸びたそれは、先端を縮ませながら身体を引き上げていく。
「……あれ、触手……なの?」
マナの声が強張った。その直後、答えるように二本目の触手が光の中から姿を現し、続いて三本目も這い出してくる。
さらにその奥から、黒ずんだ肉の塊のような胴体が持ち上がった。人ほどの大きさはあるが、人に似た部分はどこにもない。
節のない長い触手が胴体の周囲から伸び、その何本かを階段に突き立てながら身体を運んでいる。
頭部らしき膨らみはあった。
しかし――。
「……目が、ない」
アレンの口から、確かめるような声が漏れた。
目に当たるものはなく、穴さえ見当たらない。のっぺりとした黒い表面の下に、縦に裂けた口だけがある。
それが階段を上りきる直前、不意に動きを止めた。
アレンたちも動かないまま見据えていると、異形の身体がわずかに左右へ揺れ始めた。
まるで、こちらの位置を探しているようだった。
「……見えて、ないのかな」
マナが囁き終えるのと同時に、異形の頭部がくるりと彼女のほうへ向いた。
「……っ」
マナは声を殺し、身を固くした。
だが、怪物はすぐには飛びかからず、再び頭部を揺らした。その動きは、何かを探っているように見える。
ディアナの表情がわずかに強張った。
「待って。これ、もしかして――」
ふいに、アレンの胸の奥で微かな熱が脈打った。
刻印。
力は使っていない。それでも、刻印を宿した身体には通常とは異なる魔力がある。
異形の動きが止まった。
やがて、その頭部がぴたりとアレンの方角で止まる。
「……俺を見てるのか?」
言い終えるより早く、黒い触手が石段を激しく弾いた。
「アレン、来る!」
マナの声とほぼ同時に、怪物が一直線に飛び出す。
その正面へドレイヴが割り込み、大剣を横に構えて突き出した。
「アレン、下がれ! こいつは俺が止める!」
刃の腹が怪物の胴体を正面から受け止める。
だが、それでも動きは止まらない。
「っ、なんだこいつ……!」
一本の触手が大剣に絡みつき、もう一本がドレイヴの肩を越えてアレンへ伸びる。
「くそっ!」
アレンは膝を折るように身を沈め、その一撃をかわした。
頭上を薙ぎ払った黒い触手が背後の石壁に叩きつけられ、乾いた破砕音が地下空間へ響いた。
「アレン、下がって!」
背後からマナが鋭く呼びかける。
だが、怪物はドレイヴにもマナにも目もくれず、触手を大剣に絡めたまま身体を捻ると、力ずくでアレンへ迫ろうとした。
「おい、待てって! 俺を無視してんじゃねえ!」
ドレイヴが苛立ちまじりに大剣を強く引くと、異形の身体が傾いた。
その隙にアレンは左から踏み込み、胴体に剣を突き立てる。
刃は肉へ沈んだが、浅い。手応えもあまりに柔らかすぎた。
「っ……!」
怪物の身体が大きく歪み、剣を呑み込むように肉が蠢いた。
「アレン、駄目! すぐ離して!」
ディアナが鋭く警告し、アレンは剣を引こうとした。
だが、抜けない。
その間にも、触手が一本、また一本とアレンの腕へ迫ってくる。
「……くそっ!」
考えるより先に、アレンは魔力を引き込んでいた。
最も得意とする雷魔法。
「雷よ、流れとなり、敵を撃て――カーレント!」
アレンの左腕から紫白色の電撃が迸り、剣を伝った雷が怪物の身体へ一気に流れ込む。
バヂッ――!
狭い地下空間が一瞬、白く染まり、黒い触手が激しく跳ねた。胴体の表面が内側から膨れ上がり、裂けた口が大きく開く。
だが、声は出ない。
怪物の全身が激しく痙攣し、アレンの剣を締めつけていた肉がわずかに緩んだ。
「……今だ!」
緩んだ肉を振りほどくように剣を引き抜き、アレンは一歩退いた。
怪物は階段の縁で何度か触手を震わせたあと、力を失ったように崩れ落ちる。
黒い身体が石床へ落ち、そのまま動かなくなった。
「……倒した、のかな」
マナが警戒を解かず、杖を向けたまま呟く。
その傍らで、アレンは肩で息をしながら、怪物からゆっくりと距離を取った。
「たぶん……今ので――」
「待って」
ディアナの低い声がその言葉を遮った。彼女は倒れた怪物を見ず、階段の奥だけを見ていた。
「……静かにして」
全員が口を閉じると、雷の残響が次第に消えていき、焦げたような臭いだけを残して地下は再び暗さを取り戻した。
そこで初めて、聞こえた。
コツ。
アレンの顔から血の気が引く。
コツ、コツ。
一つではない。先ほどとは違い、階段のずっと下、さらにその奥から硬い何かが石へ触れる音が重なっている。
コツ、コツ、コツ。
ずる。
コツ。
ずる、ずる。
その音は、次第に数を増していった。
「……おい、ちょっと待て」
ドレイヴが眉をひそめ、階段の奥を覗き込む。
「まさか……あれ、全部さっきのやつじゃねえだろうな」
誰も、すぐには答えられなかった。
暗闇の底で、音だけが膨れ上がっていく。一体や二体ではない。
それらは確実に、こちらへ近づいていた。
「アレン」
ディアナが振り返り、鋭く問いかけた。
「今の魔法、出力はどのくらい?」
「普通だ。……カーレントだから中位魔法」
「その前に、何か使った?」
「いや。使ってない」
答えを聞くなり、ディアナは観測結晶を確かめた。
先ほどまで不規則に揺れていた内部の光は、今や激しく波打っている。
そして、その揺れの中心にあるのは、倒れた怪物ではない。
階段の下だった。
「……やっぱり、そういうことね」
「何か掴めたかい?」
ケイムが訊くと、ディアナは観測結晶を階段へ向けたまま、視線を動かさなかった。
「この反応……私たちの魔力が大きく動いた直後に、明らかに増えてる」
アレンは自分の左手へ目を落とした。
「……今の、俺の雷に反応したのか?」
「たぶん。その可能性は高いわ」
「でも待てよ。さっきのやつは、俺たちが魔法を使う前から上がってきてただろ」
「ええ。だから……反応しているのは、魔力だけじゃない」
ディアナはそこで、床に倒れた異形を見た。
「――デスリーチャー」
「……知ってるのか?」
「記録で読んだだけ。地下裂隙や古い封印遺跡で確認される異界種よ。目がない代わりに、音と魔力の変化で獲物を探す」
マナは倒れた怪物を見つめた。
「じゃあ……さっき、わたしが話したときに反応したのは……」
「ええ。あなたの声を拾ったんだと思う。でも――」
ディアナはアレンを見る。
「そのあと、すぐにアレンへ向かった」
そこで一度、ディアナの言葉が途切れたが、アレンには彼女が何を言おうとしているのか分かった。
「……刻印か」
「ええ。記録では、デスリーチャーは刻印者を優先して狙う傾向がある」
ドレイヴが露骨に顔をしかめた。
「なんだよ、それ。こんな地下じゃ、アレンだけ目印つけて歩いてるようなもんじゃねえか」
「そうなるわね。力を使わなくても狙われる可能性はある。でも――」
ディアナは言葉を切ると、観測結晶を階段の奥へ向けた。
そこから響く音は、さっきより明らかに増えていた。
「……今ので、はっきりしたわ」
「何が分かった?」
アレンの問いに、ディアナは迷わず答えた。
「強い魔力を使えば使うほど……こいつらに自分たちの位置を教えることになる」
その言葉が落ちた直後、階段の途中で何かが光を横切った。
一瞬だけ見えたのは、黒い触手だった。
「来る!」
アレンが剣を構えた。
「待って」
ケイムの声が飛ぶ。
「今度は、強い魔法を撃たないで」
「でも、このままじゃ――」
「小規模な補助まで全部封じる必要はないよ。けど、さっきみたいな出力は駄目だ。そのぶん下にいる連中まで呼び寄せる」
ケイムは階段の闇に意識を集中し、響いてくる音を数えるように耳を澄ませた。
「ここで一体倒すたびに、下の全部を集めてたら……きりがない」
ドレイヴが大剣を肩の高さまで持ち上げる。
「じゃあ、基本は斬れってことか」
「うん。魔法は必要なところだけ。それが一番いい」
「なんだよ。最初からそう言ってくれりゃ分かりやすいじゃねえか」
「あなたは、何でも斬れば済むと思ってるでしょう」
ディアナが間髪入れず返すと、ドレイヴは横目で彼女を見た。
「今回はそれで合ってんだろ?」
「……今回はね」
「なら、いいじゃねえか」
「来るぞ!」
アレンの声に、二人は同時に前へ向き直った。
二体目のデスリーチャーが階段を上りきったが、今度は飛び出してこない。
その場で頭部を左右へ揺らし、音を探っている。
「全員、足音も抑えて。……できるだけ静かに」
ディアナが声を潜めて告げると、アレンは呼吸を整えた。
それ以降、声も互いに届くぎりぎりまで落とす。
目のない頭部の正面を避けるように、ゆっくりと横へ動く。
だが、デスリーチャーの頭部は、その動きに合わせるようにぴたりとアレンを追った。
「……やっぱり、俺の位置は分かるのかよ」
その声を拾った瞬間、怪物が跳ぶ。
「来い! こっちは俺が止める!」
ドレイヴが大剣を縦に構えると、飛び込んできた触手がその刃に絡みついた。
「アレン、今だ!」
「ああ、分かってる!」
アレンは側面へ回り込み、間合いを詰めた。
雷は使わない。身体にも剣にも流さず、純粋に左腕の力だけで切っ先を押し込む。
狙うのは、先ほど倒した個体が雷を受けたあと、最も深く裂けていた場所――胴体と頭部らしき部分の境目だ。
刃が沈む。
だが、やはり一撃では足りず、触手がアレンへ向きを変えた。
「させるかよ!」
ドレイヴが大剣を力任せに捻ると、絡みついた触手ごと怪物の身体が引かれ、アレンへ伸びていた一撃は大きく逸れた。
「マナ、今だ!」
「うん、分かった!」
マナが杖を構えると、その先端へわずかな水が集まり始めた。
「水よ、針となり、敵を穿て――ヴァッサーナーデル!」
細い水針が一筋だけ放たれる。
普段なら複数を撃ち込む魔法だが、今は一点だけを狙い、アレンの剣が作った傷に正確に突き刺さった。
水針が傷へ沈んだ途端、肉が内側から裂けるように弾けた。
「今だ、そこだ!」
アレンは剣を引き抜くと、間を置かず同じ場所へもう一度深く突き入れた。
今度は深く刺さり、怪物の全身が大きく縮む。触手が床を何度も叩き、ガッ、ガッ、と硬い音を響かせた。
「早く止めろ。あの音で余計に呼び寄せる」
「無茶言うなっての!」
ドレイヴは大剣を床に押しつけるように踏み込み、絡みついた触手の動きを力ずくで封じた。
「ディアナ、今だ!」
「分かってる!」
ディアナが即座に応じると、その指先から小さな紙片が放たれた。
細い術式の線が描かれた封印符が、暴れる触手の根元に貼りつく。
紙面が一度だけ淡く光った。大規模な封印魔法ではないが、それでも触手の動きは鈍った。
「今よ!」
「おう、任せろ!」
ドレイヴが応じると同時に、大剣を一気に持ち上げた。
普段なら力任せに叩きつけるところを、今回は刃を滑らせるように振り下ろす。
鈍い手応えとともに胴体が深く裂け、アレンがそこへ剣を突き込んだ。
怪物は数度痙攣したのち、やがて動かなくなる。
マナが息を整えるが、階段の下ではまだ音が続いていた。
「休んでる暇はないよ」
ケイムが短く急かす。
「もう次が来る」
その言葉とほぼ同時に、闇の奥から二つの影が姿を現した。
「……二体いる!」
「ドレイヴ、右を止めろ! 左は俺が引きつける!」
「引きつけるも何も、お前狙いなら勝手に来るだろ!」
「だからだよ! 二体まとめて来られたらまずい!」
アレンはそう返しながら、わざと数歩左へ移動した。
すると、それに合わせるように二体のデスリーチャーが揃って頭部をアレンへ向けた。
「……くそ。二体とも俺かよ」
その事実を目の当たりにした途端、喉がひどく乾いた。
だが――逆に、これは利用できる。
「ドレイヴ! 右の一体だけ止めろ!」
「おう、任せとけ!」
ドレイヴが即座に応じ、右側の個体へ大剣を突き出した。
胴体を斬るのではなく、二体の間へ刃を差し込み、そのまま押し広げる。一体が階段の壁際へ押し込まれ、もう一体は遮るもののなくなった正面からアレンへ飛びかかった。
アレンはそれを引きつける。
一歩。
もう一歩。
触手が伸びる。
ぎりぎりまで待って身体を横へ滑らせると、触手は空を切った。
「マナ、足元狙え!」
「足っていうか……触手だけどね!」
「分かってるって!」
マナは返しながら、杖を低く構えた。
水が床を薄く走る。攻撃するための量ではなく、数本の触手が石に接する箇所だけを濡らしていく。
踏ん張りを失った怪物の胴体が、そのまま滑った。
「よし、今だ!」
アレンが踏み込み、そのまま剣を振り下ろすと、触手の一本が切り落とされた。
黒い肉片が石床へ落ちて激しく跳ね、その音に階段際へ押し込まれていたもう一体の頭部が反応した。
「……音にも、ちゃんと食いつくのか」
ドレイヴが何かに気づいたように眉を上げた。
「だったら――」
「余計なことはしないで」
何か言い出すより先に、ディアナがぴしゃりと遮る。
「まだ何も言ってねえだろ」
「大きな音を出して、まとめて誘導しようとしたでしょう」
「……なんで分かった?」
「あなたなら、それくらい考えると思ったから」
「……便利だなお前」
「そこで感心しないで!」
マナがすかさず割って入る。
床を滑ったデスリーチャーが触手を振り回し、アレンの足を狙った。
アレンは左手の剣を逆手に持ち直し、足元へ伸びてきた触手を床際で受け止める。だが、そのまま触手が刃に絡みつき、強く引かれた勢いでアレンの身体が前へ持っていかれた。
「っ……!」
「アレン、離して!」
「……分かってる!」
アレンはためらわず剣から手を離し、引かれる武器に固執することなく左へ跳んだ。
剣が引かれるのを見て、ケイムが動いた。
大規模な術式は使わず、伸ばした指先からほんの細い魔力の線を走らせ、アレンの剣に絡んでいた触手を横から弾いた。
力ではなく角度だけを変えることで、拘束がわずかに緩んだ。
「アレン、今! 取って!」
「ああ!」
アレンは左手を伸ばし、剣の柄を掴み直した。
「助かった!」
「どういたしまして。……でも次は、離す前に一言ちょうだい」
「そんな余裕なかったって!」
「……なら、仕方ないね」
アレンが剣を取り戻したその横では、ドレイヴがもう一体を壁際へ押さえ込んでいた。
「おい、こっちもそろそろ限界だぞ!」
「分かった、今行く!」
床を滑った一体がまだ体勢を立て直せずにいる隙に、アレンはドレイヴのもとへ駆けた。
その横をマナの細い水流が走り、怪物の触手を一瞬だけ壁に押しつける。ほんの一秒にも満たない時間だったが、それで十分だった。
ディアナが封印符を投げる。
一枚。
二枚。
触手の付け根に貼りついた符が弱く輝き、その動きをさらに鈍らせた。
「ドレイヴ、合わせろ!」
「おう、任せろ!」
呼吸を合わせるように、大剣が下から勢いよく跳ね上がり、怪物の胴体が持ち上がった。
その下へアレンが滑り込み、剣を深く突き上げる。
肉を裂く感触を確かめるより早く、アレンは横へ抜けた。
「もう一発いくぞ!」
ドレイヴは大剣を両手で握り直すと、その刃を怪物の裂け目へ力任せに押し込み、そのまま体重をかけた。
黒い胴体が深く裂け、触手が一斉に力を失う。
残る一体も、マナの小さな水魔法で体勢を崩され、アレンの剣とドレイヴの大剣によって仕留められた。
ようやく静けさが戻ったが、武器を下ろす者はいない。五人の注意は揃って階段へ戻った。
コツ……。
まだいる。
だが、その音は先ほどより遠かった。
「……増えてないわね」
ディアナが観測結晶へ目を落とした。
「少なくとも、今の戦闘では……反応全体の強さに、ほとんど変化はない」
「やっぱり、魔法を抑えたからか?」
アレンが訊く。
「ええ。その可能性が高いわ」
ドレイヴは大剣についた黒い体液を振り落とそうとして――ふと途中で手を止めると、大きな音を立てないよう布で拭った。
「ったく……ほんと面倒くせえ敵だな」
「でも、性質が分かったなら、戦いようはあるよ」
マナが怪物の死骸を警戒しながら言った。
「今くらいの魔力と音なら……さっきみたいに、まとめて寄ってくることはないんでしょ?」
「おそらくね」
ディアナは残っている封印符を数えながら答える。
「ただし、小規模でも魔法は魔法よ。魔力を使う以上、完全に気づかれないとは思わないほうがいい」
「じゃあ、俺は大剣でやる」
ドレイヴが自分の武器を軽く持ち上げた。
「炎は……どうしても必要なときだけだな」
「ああ。俺も基本は剣で行く」
アレンも左手の剣を見やった。
片手で戦うことになり、右手を動かすために刻印を使うこともできない。いつもより選択肢は少ない。
それでも――選択肢がないわけではなかった。
「マナはどうする?」
「ヴァッサーナーデルなら、数を減らして使うよ。それと……さっきみたいに足場を濡らすくらいなら、使う魔力も少なくて済むから」
「ええ。それがいいと思う」
ディアナが頷いた。
「私は封印符を中心にするわ。完成した符に少量の魔力を流すだけなら、その場で大きな術式を組むより反応を抑えられる」
ケイムがそこで自分を指した。
「じゃあ、僕は?」
ドレイヴが間髪入れず答える。
「何もしない」
「ひどくない?」
「だって、一番でかい魔法術式を使えるのお前だろ」
「……まあ、そうなんだけどね。だからこそ、今は控えるよ」
ケイムはそう言って、階段の闇を見下ろした。
「大規模術式は最後の手段にしよう。ここじゃ、強い魔法ほど有利……ってわけでもなさそうだ」
アレンはその言葉を聞きながら、階段の先に広がる暗闇を見つめた。
今までの戦いなら、敵が多いほど強い魔法を使い、相手が強ければ、さらに強い力をぶつける。それが当たり前だった。
だが、ここでは違う。
力を使えば倒せる。けれど、その力が次の敵を呼ぶ。
「……強ければ、それでいいってわけじゃないんだな」
「ええ。そういうことね」
ディアナが静かに答えた。
「少なくとも……この地下では」
マナは黒い手袋に包まれたアレンの動かない右手をじっと見た。
何も言われなくても、何を考えているのかは分かる。
だから、アレンは先に口を開いた。
「……刻印は使わない」
マナが顔を上げた。
「……うん」
「普通の雷魔法ひとつで、あれだけ反応が増えたんだ。刻印まで使ったら……何が来るか分からない」
「そこまで分かってるなら、いいよ」
「……ほんと、信用ないな」
「あるよ」
マナは少しも迷わず答えた。
「信用してるから……アレンが自分で言ってくれるの、待ってたの」
アレンは何か返そうとして――やめた。
代わりに、剣を握り直した。
「……じゃあ、これで決まりだな」
「ああ」
ドレイヴが大剣を担ぎ直す。
「要するに、魔法なしで殴りゃいいんだろ」
「……斬れよ。剣なんだから」
「細けえこと言うなって」
「二人とも。音もできるだけ抑えてね」
「分かってるって」
張りつめていた空気がほんのわずかに緩んだが、それも長くは続かず、ケイムが階段へ向き直った。
「……さて。問題はここからだね。この先をどう進むか――まずは、そこを決めようか」
誰もすぐには答えなかった。
来た道を戻ることはできるし、この異形が現れるまでは、そのつもりだった。
だが、今は事情が変わっている。
この階段の下から、異界種が上がってきた。それも一体ではない。
ここを放置して地上へ戻れば、次に来る個体が階段を上りきるかもしれない。その先にはアレンの家跡があり、さらに先にはグリムフォードの町跡が広がっている。
「……確認した方がいいと思います」
最初に口を開いたのはアレンで、その声にケイムがこちらへ視線を向けた。
「理由は?」
「こいつらが……どこから来てるのか、それだけでも」
アレンは床に転がるデスリーチャーの死骸へ目を落とした。
「全部の巣を探すとか、奥まで調べるとか、そこまでするつもりはないです。でも……すぐ下に何があるのかも分からないまま戻るのは、危ないと思います」
そこで一度、言葉を切る。
「それに……ここ、俺の家の下なんです」
そのことだけは、どうしても他人事にはできなかった。
「何があるのか……自分の目で確かめたいです」
マナが口を開きかけたが、アレンはそれより先に続けた。
「だからって、一人で行くつもりはない」
その一言に、マナは口を閉じた。
「勝手に先へ行かない。危なくなったら戻る。魔法もできるだけ抑える。……それなら、少しくらい下を確認できないか?」
ケイムはしばらく何も言わずにアレンを見ていたが、やがて、ほんの少し口元を緩めた。
「先回りして、言いたいことを全部潰されたね」
「言われると思ったんで」
「成長したじゃないか」
「それ、ドレイヴにも言われました」
「じゃあ、よほど珍しいことなんだね」
「……ケイムまで言うんですか」
「冗談だよ」
ケイムは小さく笑い、階段の奥へ視線を戻した。
「でも、判断そのものには賛成だ」
ディアナも静かに頷く。
「私も。少なくとも、入口の構造くらいは確認しておきたいわ。こいつらがどこから上がってきているのか分かれば……封鎖できる可能性もある」
「なら、決まりだな」
ドレイヴが大剣を背へ戻しかける。
「待って」
「……なんだよ」
「すぐ抜けるように、そのまま持っていて」
「さっきまで音を立てるなって言ってただろ」
「音を立てずに、すぐ使える状態にして」
「注文多くねえか?」
「生きて帰るためよ」
「……はいはい、分かったよ」
文句を言いながらも、ドレイヴは大剣を手にしたまま構え直し、マナもそれに続いて杖を握り直した。
ケイムが魔法灯の明かりを弱めると、階段を照らしていた光は必要最低限まで落ちた。
「これ以上暗くすると、今度は足元が危ない。……明かりはこのくらいで行こう」
「なら、先頭は俺が行く」
ドレイヴが大剣を前に据える。
「いや」
アレンは階段の奥を窺った。
「俺が前に出る」
「なんでだよ」
「どうせ、向こうは俺を狙ってくる」
ドレイヴの表情が険しくなった。
「……お前、まさか囮になる気じゃねえだろうな」
「囮になるつもりはないって」
アレンはすぐに否定する。
「狙われるって分かってるなら、最初からそれ込みで動いた方がいいって話だ。俺が前。ドレイヴはすぐ後ろ。来たら俺が引くから、お前が止めてくれ」
ドレイヴはしばらく黙って考えた。
「……分かった。ただし、勝手に突っ込むなよ」
「それ、お前にだけは言われたくない」
「はっ。じゃあ、お互い様ってことだな」
「……そういうことにしとく」
アレンは剣先を下げ、先頭に立った。
その後ろにドレイヴが続き、さらにマナ、ディアナの順で進む。
最後尾はケイムが固める。
「音は、できるだけ抑えて」
ディアナが念を押す。
「魔法も小規模なものだけ。敵が多すぎると判断したら……その時点で戦わず戻る。いい?」
「ああ、分かった」
アレンは短く答え、階段へ足をかけた。
一段。
また一段。
石は乾いており、苔もない。長い間放置された場所にしては、妙に足場がしっかりしていた。
壁も同じ石材で造られている。上の小部屋よりさらに古く見えるものの、崩れた場所はほとんどない。
五人の足音が小さく反響する中、誰も必要以上に話さなかった。
途中で一つの曲がり角を抜け、さらに下へ進む。
アレンは自分の呼吸と背後の四人の気配を確かめながら、慎重に階段を下りていった。
さきほどまで聞こえていたデスリーチャーの音は、いつの間にか消えている。
だが、それで安心できるわけではない。むしろ、どこにいるのか分からないことが、一段下りるごとに背筋に緊張を積み重ねていった。
「……待って」
アレンが声を潜めると、全員の足が止まった。
「どうした?」
すぐ後ろから、ドレイヴが低く訊く。
「……前だ。何かある」
アレンは階段の先へ目を凝らした。
弱い光の中に平らな床が見えている。階段の終わりだ。
アレンは慎重に最後の数段を下り、左右へ剣を向けられるよう構えながら、下の空間へ足を踏み入れた。
だが、何も襲ってこない。
そこは細長い石の通路で、先ほどの小さな地下空間とは明らかに造りが違っていた。
壁には大きな石が隙間なく組まれ、床には何かを引きずったような黒い跡が残っていた。
「……これ、見て」
マナが足元を見た。
「デスリーチャーの跡か?」
「たぶん、そうね」
ディアナはしゃがみ込まず、少し距離を取ったまま跡を確かめる。
「……まだ乾いてない。かなり新しいわ」
「じゃあ、やっぱりこっちから来たんだな」
アレンは足元の跡を目で追った。
黒い筋は通路の奥へ続いており、五人は互いに距離を保ちながら、その跡を辿って進む。
角を曲がると、さらに短い通路が続いていた。
そこで――アレンは足を止めた。
「……なんだよ、これ」
正面を巨大な石壁が塞いでいる。
――いや。
近づくにつれ、それが壁ではないことが分かった。
中央には縦の継ぎ目があり、左右へ分かれるように二枚の巨大な石が並んでいる。
「……これ、扉なの?」
マナがその高さを確かめるように見上げた。
人の背丈を何倍も超える石扉で、地下室へ置くようなものではない。家の下に隠すにしても、あまりに大きすぎた。
扉の表面には古い線が何本も刻まれていたが、先ほど家の下で見た封印術式とは形が違う。
ただ、その下部には黒い汚れが何本も残されていた。
デスリーチャーが這った跡だ。
黒い筋は中央の継ぎ目の下端に集まり、指が数本入るほどの細い隙間へ消えていた。人間が通れる幅ではない。
だが、剣の刃を包み込むほど柔らかいあの身体なら、そこを抜けられたとしても不思議ではなかった。
「こいつら……やっぱり、この向こうから来てるのか」
ドレイヴが扉を睨みながら、低く言った。
「そう考えるのが自然ね」
ディアナは警戒を解かないまま観測結晶を扉へ近づけると、その内部で淡い光が揺れた。
「反応は?」
ケイムが訊いた。
「……向こう側までは拾えません。でも、この扉自体に強い封印反応はないです」
「開けられそう?」
「少なくとも、今見えている範囲では……触れた瞬間に術式が作動するような構造はありません」
「なら――」
ドレイヴが扉へ手をかけようとする。
「待って」
「……今度はなんだよ」
「開けるなら、先に全員の位置を決めてから。何が出てくるか分からないわ」
「……はいはい、分かったよ」
ドレイヴは渋々扉から手を離し、アレンは改めてその巨大な石扉を見上げた。
この向こうから、デスリーチャーが来た。
なら、開ければまた襲われるかもしれない。だが、ここまで来て何も確認せずに戻れば、結局同じことだった。
「俺とドレイヴが前に出る」
アレンが扉を見たまま言う。
「開いたら、いったん下がる。何か出てきたら、この通路で止める」
「それと、扉を動かせば音が出るわ」
ディアナが続けた。
「開けた直後は動かないで。まず、向こう側の音を確認しましょう」
「マナは俺たちの後ろだな」
ドレイヴが続ける。
「その後ろにディアナとケイム。……それでいいだろ?」
「ええ」
ディアナは頷くと、封印符を数枚、すぐに抜き取れる位置へ移した。
ケイムも全員の位置を見回し、それを確認してから頷いた。
「いいね。じゃあ、開けようか」
ドレイヴは大剣を、音が立たないようそっと床へ置くと、石扉の左側に両手を当てた。
アレンも剣を鞘へ戻し、動かない右手の代わりに、左手だけを右側の扉に当てる。
「俺一人でいいぞ」
「片方だけ動いたら困るだろ」
「いや、お前……片手じゃねえか」
「うるさい。押すくらいならできる」
「……分かったよ」
「二人とも」
マナの呆れた声が飛ぶ。
「今、そのやり取りする?」
「……悪い」
「こいつが言うからだろ」
「ドレイヴ」
「……はい」
ケイムが小さく笑った。
「じゃあ、三つ数えるよ。合わせて」
その一言で、緩んでいた空気が一気に引き締まる。
「一」
アレンが足を踏ん張る。
「二」
ドレイヴも肩へ力を込めた。
「三」
二人は同時に踏ん張り、扉を押した。
――動かない。
「……重っ」
「もう一回! 今度はもっと押せ!」
二人は足場を取り直し、今度は扉に体重まで預けた。
ゴ……。
低い音とともに石と石が擦れ、中央の継ぎ目がほんのわずかに開いた。
その隙間から、冷たい空気が流れ出す。
「動いたぞ!」
「そのまま、止めるな!」
二人は呼吸を合わせ、開いた隙間を少しずつ押し広げていく。
ゴゴゴゴ……。
巨大な二枚の石扉が、長い眠りから目覚めるように、ゆっくりと奥へ押し開かれていく。
やがて隙間が人一人通れるほどまで広がった。そのときだった。
「そこで止めて!」
ディアナが鋭く制し、二人は押す力を抜いた。
ドレイヴが大剣を拾い上げ、アレンも剣を抜くと、二人は打ち合わせどおり、いったん通路側へ下がった。
誰も隙間へ近づかず、石扉の擦れる音が消えるのを待って耳を澄ませる。
新たに近づいてくる音はない。
開いた隙間の向こうは暗く、ケイムが魔法灯を扉の向こうへ向けると、弱い光がその隙間を越えた。
そして。
そのまま――闇の奥へ吸い込まれていった。
「……え、何これ」
マナが思わず小さく声を漏らした。
光は数メートル先にも、十数メートル先にも壁を捉えない。
ただ闇の中へ伸び、空間の輪郭を何ひとつ浮かび上がらせないまま、次第に小さくなっていく。
アレンはその様子を見ながら石扉の隙間へ近づいた。
「待って、アレン。近づきすぎないで」
「分かってる。中には入らない」
そう答えながら一歩手前で足を止め、アレンは慎重に扉の向こうを覗き込んだ。
最初は何も見えなかったが、目が暗さに慣れるにつれ、少しずつ輪郭が浮かび上がってくる。
床はある。
ただ、その先はすぐに途切れていた。
そして、その向こうには――。
「……おい、嘘だろ」
ドレイヴがアレンの隣で思わず低く呟いた。
遠い。
暗闇の中に、巨大な何かの輪郭が浮かんでいる。
それも一つではない。いくつもの輪郭が上下にも左右にも広がっていた。
今いる通路とは比べものにならないほど広い空間が、石扉の向こうに続いている。天井さえ光では捉えられず、横幅も分からない。
家の地下にあるはずの空洞。
だが、目の前の広さは、どう考えてもそんな規模ではなかった。
アレンは何も言えず、ただその闇を見つめていた。
自分が十八年間暮らした家。その床から、わずか数メートル下にあった入口。
そこから続く階段。
そして、その先に――こんな場所がある。
「……これ」
マナの声がかすかに震えた。
「地下室って……そんな広さじゃないよね」
誰も、その言葉を否定できなかった。
石扉の向こうでは、天井も壁も見えない闇が果てまで広がっていた。




