第41話『残っていた家』
白い骨の背中が、崩れた家々の向こうへ消えた。
「……追うぞ!」
アレンは迷いを振り切るように言い切ると、石の欠片が散らばる道を駆け出した。
すぐ後ろからドレイヴの重い足音が続き、そのさらに後ろをマナ、ディアナ、ケイムが追う。
鐘楼の広場で遭遇したスケルグールは、どこから来たのかを突き止めるため、あえて逃がした相手だった。
五人の包囲を抜けた怪物は、町の中心から離れる方向へ走り始めた。その方角を見た瞬間、アレンは気づいた。
『……俺の家の方だ』
偶然なのか。それとも、何か理由があるのか。
それを確かめるために、五人は怪物の後を追っていた。
「右だ!」
先を走るスケルグールが、崩れた石塀の角を曲がる。アレンもその後を追って角を曲がった。
町の中心部から離れるにつれ、建物の間隔が広くなっていく。商店や住宅の瓦礫は減り、代わりに荒れた畑と低い石垣が増えていった。
ここまで来れば、道を考える必要はない。何百回と通った道を、体が覚えている。
学校から帰るときも、町へ買い物に行くときも、子供の頃、日が暮れるまで遊んでから走って帰ったときも。
いつも、この道を通っていた。
「アレン、見失うんじゃねえぞ!」
「分かってる! まだ見えてる!」
ドレイヴに返しながらも、アレンは前方から目を離さなかった。
スケルグールの白い頭蓋が、一度だけ枯れ草の向こうに見える。怪物はさらに先へ、町外れへと走っていく。
そして――
「……やっぱり、そうか」
呟いた瞬間、アレンの足取りが一瞬鈍った。
前方に見えてきたのは、畑の端――道から少し外れた土地だった。
そこは、間違えようがない。
スケルグールは崩れた石垣を越えると、その脇に生い茂った雑草の中へ入り込んだ。
「待て、まだ逃がすか!」
アレンは声を張り、草むらへ踏み込んだ。
だが、茂みを抜けた先に、白い影はもう見えない。
辺りを探る。右には荒れた畑が広がり、左には崩れた農具置き場の残骸が残っていた。さらに奥には背の高い草が生い茂り、その先へ細い獣道のような隙間が続いている。
「くそっ、どこ行きやがった?」
追いついたドレイヴが、大剣を構えたまま首を巡らせ、辺りを警戒する。
「分からない。確かに今、ここを抜けたはずなんだけど……」
「ったく、骨だけのくせに、やけに足速えな。あいつ」
「骨だから軽いんじゃない?」
息を整えながら追いついたマナが、ぽつりと言う。
「……そういうもんなのか?」
「知らないよ」
「お前が言ったんだろ」
「思っただけだよ」
「二人とも」
ディアナの落ち着いた声が、二人のやり取りを遮った。
「まだ近くにいる可能性はあるわ。話すのは構わないけど、警戒は解かないで」
「……分かったよ」
ドレイヴは大剣を握り直し、周囲へ意識を戻した。
最後に追いついたケイムは、スケルグールが消えた草むらではなく、アレンの様子を窺った。
「この辺りかい?」
アレンは答えなかった。
いや、すぐには答えられなかった。
走っているあいだは、怪物の背中しか見ていなかった。けれど、こうして足を止めてしまえば、嫌でも目に入る。
そこにあったものが。
「……ここだ」
アレンはしばらく崩れた家跡から目を離せないまま、ようやく口を開いた。
「ここに……俺の家があった」
周囲に異変がないことを確かめると、アレンは左手の剣をゆっくりと鞘へ戻した。ドレイヴも大剣を背へ戻す。
それでも、ケイムとディアナの視線は、スケルグールが消えた草むらから離れていなかった。
風が、伸び放題になった草を倒していく。
その向こうに、家が残っていた。
――いや。
家だったものが、残っていた。
屋根はなく、二階部分もほとんど崩れ落ちている。外壁はところどころ腰ほどの高さまで残っているだけで、大半は折れた柱や梁とともに地面へ倒れていた。
雨に晒された木材は黒ずみ、焼け焦げた部分には苔まで生えている。
それでも、すべてが消えてしまったわけではなかった。
家を支えていた石造りの基礎や、崩落を免れた一部の床。壁の下端や、柱が立っていた跡。
それらが、地面に家の輪郭を残している。
「……思ってたより、残ってるな」
ドレイヴがぽつりと漏らす。その声には、いつもの勢いがなかった。
「うん……遠くから見たときは、もっと……何も残ってないように見えた」
マナも瓦礫の残る敷地を眺めながら、静かに言った。
アレンは何も返さず、敷地の中へ入った。
靴の下で、小さな木片がぱきりと折れる。その音に、アレンの足が止まった。
そこは、家が壊れる前なら玄関があった場所だった。
当然、扉はもうなく、枠さえ残っていない。だが、それでも分かる。
ここから入って、少し進めば廊下がある。そこを通れば――
目の前にある瓦礫が、一瞬だけ別の形に見えた。
壁や柱、扉、階段。
壊れる前の家の姿が、記憶の中から少しずつ輪郭を取り戻していく。
アレンは顔を上げた。
「……あそこ」
気づけば声が漏れていた。
マナたちも、その声に気づいたようにアレンの視線を追う。
「俺の寝室があったんだ。……二階の、こっち側」
二階は、もうどこにもない。
アレンが示した先に残っているのは、途中で折れた柱と、その向こうに広がる空だけだった。
あの朝、アレンはそこで眠っていた。
卒業試験が終わったばかりで、身体には疲れが残っていた。それでも、目が覚めれば昨日までと同じ一日が始まるのだと思っていた。
町の鐘が鳴り、着替えて、朝食を取る。それから、卒業したあとのことを考えればいい。
守備隊に入るか、魔術師を目指すか。それとも、両親の残した畑を継ぐか。
そんなことで悩んでいた。
今から思えば、あまりにも普通の悩みで、そして、あまりにも遠い。
『アレン!』
肩を揺さぶられ、目を開けると、そこには雨に濡れたマナがいた。
『……マナ?』
最初は、何が起きているのか分からなかった。
『鐘は鳴らない』
あの一言から、すべてが変わった。
「……アレン?」
隣から名前を呼ばれ、アレンはゆっくりと顔を戻した。
そこには、心配そうに顔を覗き込むマナがいた。
「……大丈夫?」
「……ああ」
短く答えてから、アレンはほんの少し間を置いた。
「ただ……ちょっと、思い出してただけだ」
マナはしばらくアレンの表情を窺っていたが、それ以上は何も聞かなかった。
アレンは再び歩き出し、瓦礫を避けながら、家だった場所の奥へと進んでいく。
足元に残された基礎や床を見れば、かつての間取りを追うことができた。
「こっちが台所」
自分で口にしながら、その場所へ近づいていく。
床は半分近く失われ、壁もない。調理器具も食器も、もう何ひとつ残っていなかった。
それでも、母がよく立っていた場所だけは覚えている。
料理の湯気や、食器が触れ合う音。生活魔法の淡い光。
そういうものが確かにあったはずなのに、今はただ風が通り抜けるだけだった。
アレンは少し歩いたところで足を止め、倒れた木材の前にしゃがみ込んだ。
「……これ」
「どうしたの?」
マナがそばへ寄る。
そこには、土と灰に半分埋もれた一枚の板があった。
黒く変色していたが、その端に残った金具には見覚えがあった。
「たぶん……棚だ」
「棚?」
「ああ。父さんが直したやつ」
後ろからドレイヴが覗き込む。
「どの棚だよ?」
「台所の近くにあっただろ。ほら、何回か傾いてたやつ」
「ああ……あれか」
ドレイヴの顔に、ようやく思い当たった様子が浮かぶ。
「でもあれ、直したあとも傾いてなかったか?」
「……あとで、また傾いたんだよ」
「それ、直ったって言わねえだろ」
「一回は直った」
「一回はって……じゃあ結局、直ってねえじゃねえか」
「……うるさいな」
アレンは小さく吐き捨てた。
だが、不思議と腹は立たなかった。
左手を伸ばし、黒く焦げた板の端へそっと触れる。
父が棚を直していた。ただそれだけの、何でもない日の記憶だ。
特別な話をしたわけでも、重大な秘密を教えられたわけでもない。家の中の棚が傾いたから、父が直した。
だからこそ、そんな日々がなくなるなど思っていなかった。
「……こんなのでも、残ってたんだな」
アレンが、ぽつりと呟いた。
家そのものでもなければ、父でも母でもない。ただの焦げた板だ。
それでも――確かに、ここにあったものの一部だった。
アレンは板に触れていた左手をゆっくりと離し、立ち上がる。
そのとき、少し離れた場所で立ち尽くすマナが目に入った。
「……マナ?」
呼びかけても、返事はなかった。
彼女が見ていたのは、家の裏手に残った低い基礎の一角だった。
そこには壁も扉もなく、今となっては、ただ石が一列残っているだけにしか見えない。
だが――アレンにも、すぐに分かった。
「……勝手口か」
マナが小さく頷く。
「うん……ここだったよね」
「ああ。間違いない」
あの朝、マナは玄関から入ってきたのではなかった。
何度も窓を叩いたが、それでもアレンが起きなかったため、勝手口へ回ったのだ。
そして、アレンの母が生前、何かあったときのためにと預けていた合鍵を使って、家の中へ入った。
もし、あの鍵がなかったら。
マナはあの朝、寝室まで来られなかったかもしれない。アレンも何も知らないまま、眠り続けていたかもしれなかった。
「……あの日」
マナが、扉の失われた場所から目を逸らさず口を開いた。
「わたし、ここから入ったんだよね」
「ああ」
「窓、何度叩いても起きないんだもん。本当に焦ったんだから」
「卒業試験のあとだったんだ。仕方ないだろ」
「だからって、あんなときまで寝てるとは思わないよ」
「俺だって、起きたら町が襲われてるなんて思ってなかった」
「……それは、そうだけど」
そこで、二人の言葉が途切れた。
マナの口元に浮かんでいた苦笑も、それにつれて静かに消えていく。
「……でも、あの鍵があってよかった」
マナは、それだけを言った。
アレンも少し間を置いてから、短く頷いた。
「……ああ。本当にな」
風が吹き、何もない勝手口を抜けて、崩れた家の中を通り過ぎていく。
あの朝、マナはそこから入ってきた。
けれど今は、その扉そのものがもうない。
◇
「アレン」
少し離れたところから、ディアナの声がした。
その声の硬さに気づき、アレンは振り返った。
ディアナは家の中央付近にしゃがみ込み、片手に観測結晶を持ったまま、もう片方の手を地面すれすれまで下げていた。
「みんな、ちょっと来て」
その声に、アレンたち三人が近づいていく。
ケイムは、すでにディアナの隣へ立っていた。
「どうした? 何かあったのか?」
ドレイヴが訊く。
「……反応がおかしいの」
ディアナは結晶の光を追いながら、手元を少し横へずらした。
透明な結晶の内部に浮かんでいた淡い光は、ある位置で突然揺れた。そこから十数センチ動かすと元に戻る。
「さっき、鐘楼の広場で地中を調べたでしょう。そのとき……ある深度から、観測結果そのものが返ってこなかった」
「ああ……あったな」
黒い反応が出たわけでも、魔力が零になったわけでもない。ただ、ある深度から先だけが観測できなくなる。ギデオンの言っていた黒点に近いものではないかと、先ほどケイムが話していた現象だ。
「……ここも、同じなのか?」
アレンが訊く。
「似てる。でも……同じじゃない」
ディアナは測定を続けながら、結晶をさらに地面へ近づけた。
「広場では、途中から観測そのものが途切れていた。でも、ここは違う。どこで途切れるのかが、はっきりしてる」
「……それって、どういうこと?」
マナが訊く。
「境界があるの。……ここには」
ディアナは確かめるように観測結晶を左右へ動かし、さらに方向を変えて同じ境界が現れることを確認した。
「……ここから、ここまで」
ディアナは地面に指を滑らせ、範囲を示した。
「この部分だけ、地中の反応が周囲と明らかに違う」
ケイムがその場にしゃがみ込み、示された地面を覗き込む。
「深さは、どのくらい?」
「……待ってください。今、絞ります」
ディアナは結晶を手元へ引き寄せ、術式を細かく調整した。
すると、結晶の内部に細い光の層が、一つ、二つ、三つと重なっていく。
深度を変えるたびに、光の形も変化していった。
「……表層は、普通ね」
ディアナが観測結果を確かめるように低く言う。
「その下も……家の基礎がある深さまでは、目立った異常はない」
さらに深く探った、そのときだった。
突然、結晶の中心で光が歪んだ。
マナがそっと身を寄せる。
「……今の、反応したよね?」
「ええ……私も見たわ」
ディアナは同じ深度へ、もう一度術式を合わせ直した。
すると、やはり光は歪む。
少し横へずらせば元に戻り、再び中央へ戻すとまた歪んだ。
「……二メートルほど下ね」
ディアナは測定を止め、足元の土を示した。
「そこに……空洞がある」
数秒、誰も言葉を返さなかった。
アレンは、その意味を飲み込むまで少し時間がかかった。
「……空洞?」
「ええ」
「この家の……真下に?」
「そういうことになるわ」
アレンは自分の足元を見下ろした。
崩れた床の下には、土がある。
十八年間、いったい何度ここを歩いただろう。
「地下室なんて、なかったぞ」
自分でも驚くほど、その言葉はすぐに出た。
それを聞いたドレイヴが腕を組む。
「お前が知らなかっただけってことはねえのか?」
「十八年住んでたんだぞ。そんなのあったら気づくだろ」
「いや、住んでたからって床の下まで全部知ってるわけじゃねえだろ」
「地下室なら、どこかに入口があるはずだ」
「隠し地下室とかよ」
「……なんで、うちにそんなもんがあるんだよ」
「知らねえよ。親父さんが何か隠してたとか――」
「ドレイヴ」
マナの声がわずかに低くなると、ドレイヴはすぐに口を閉じた。
「……悪い」
アレンも何も返さなかった。
父や母が知っていたのだと考えるのは簡単だ。だが、証拠はなく、ここで勝手に決めるべきではない。
ケイムは地面を見たまま、静かに口を開いた。
「まずは分けて考えよう。ここに空洞があることと、アレンの家に地下室があったことは、まだ同じ話じゃない」
「……どういうことですか?」
「家の真下に空間があるからって、それが家の一部だったとは限らないってこと」
アレンはケイムを見る。
「じゃあ……家が建つ前から、そこにあったとか?」
「うん。その可能性もある。ただ――今のところは、まだ可能性のひとつだね」
ケイムがディアナに問いかける。
「ディアナ、空洞の輪郭まで取れそう?」
「もう少し調べれば……たぶん」
ディアナは観測結晶を見つめたまま位置を変え、測定を続けた。
数分後には、地面の上に測定範囲を示す簡単な印が、ひとつずつ置かれていった。
「……この範囲ね」
家全体と比べれば、その範囲はかなり小さい。
位置は中央から少し奥で、アレンの記憶では、居間と台所の境目に近い場所だった。
「これ……自然にできた穴じゃないの?」
マナが足元を見ながら訊く。
「断定はできない。でも……自然にしては、形が整いすぎてる」
ディアナは最後の測定を終え、ゆっくり立ち上がった。
「少なくとも、このまま放っておくよりは調べる価値があるわ」
「なら、掘ろう」
アレンが間を置かずに言うと、四人がそろってアレンを見る。
「最初に黒い反応が記録された座標も、この土地だった。それで今度は、実際に空洞まで見つかった」
一度、息を吸う。
「俺は……確かめたいです」
ケイムはすぐには答えず、アレンの顔をじっと見た。
「……急いでる?」
「そりゃ……急ぎたくはなります」
「うん」
「でも、何があるか分からないし……下手に壊していいものじゃないかもしれない。それも分かってます」
アレンはそう言って、ディアナを見た。
「だから、掘るならディアナの指示に従う」
ディアナが目を細める。
「……それならいいわ」
その隣で、マナも頷いた。
「で、俺は?」
ドレイヴが自分を指差すと、ディアナは間髪入れずに言った。
「壊さないでね」
「まだ何もしてねえだろ!」
「だから先に言ってるの。これから壊す可能性が一番高いのは、あなたでしょう」
「お前、俺を何だと思ってるんだよ」
「力加減を考えるより先に、大剣を振る人」
「……あれは事故だ」
ケイムが二人のやり取りに苦笑を漏らした。
「まあまあ。今日は遺跡調査になるかもしれないからね。ドレイヴには力仕事を任せたい。ただし――ディアナの指示が出るまでは、何もしないこと」
「……分かったよ」
不満そうに口を尖らせながらも、ドレイヴは今度こそ素直に頷いた。
五人は作業を始め、そのあいだも交代で周囲への警戒を続けた。
◇
まず、残っていた床板と瓦礫を取り除いた。
大きな梁はドレイヴとケイムが運び、小さな破片はマナとアレンが避けていく。
アレンは右手を使わず、持ち上げられるものだけを左手で扱った。
重いものへ手を伸ばしかけると、
「それ、俺が持つ」
アレンが手を伸ばすより早く、ドレイヴが木材をひょいと持ち上げた。
「いや、それくらいなら持てる」
「持てるかどうかじゃねえよ。片手で持って、足にでも落としたら面倒だろ」
「……分かったよ」
アレンがあっさり引き下がると、ドレイヴは妙なものでも見るように眉を寄せた。
「なんだよ。素直すぎると逆に気持ち悪いな」
「……じゃあ返せ」
「それは嫌だね」
ドレイヴは木材を肩へ担いで、離れた場所へ運んでいった。
「……扱いづらいな、あいつ」
「アレンが素直になったから、調子が狂ってるんじゃない?」
マナが横から言う。
「俺が悪いのか?」
「違うよ。いいことだって言ってるの」
そう言って、マナは小さく笑った。
やがて床板の下が露出し、そこからはディアナの指示に従いながら土を取り除いていった。
深く掘りすぎず、先端の鋭い道具も強く突き立てない。何があるか分からない以上、少しずつ進める必要がある。
最初に出てきたのは普通の土で、その中には家が崩れた際に入り込んだ灰や、小さな石、木片が混じっていた。
観測で示された位置を外さないよう、そこから少しずつ掘り下げていった。
やがて、掘り下げた穴が二メートル近い深さに達する。
「この辺りよ」
ディアナが観測結晶で位置を確かめ、その底でドレイヴが慎重に土を削っていく。
一度、二度。
そして――
ガッ。
硬い音が響き、全員の動きが止まった。
「……当たったぞ」
手応えに気づいたドレイヴが手を止めると、ディアナがその場へ近づいた。
「そのまま。もう叩かないで」
「ああ、分かってる」
ドレイヴは慎重に手を伸ばし、表面に残った土を払い落とした。
すると、その下から灰色のものが現れた。
「石?」
マナが穴の底を覗き込み、アレンもその隣から目を凝らした。
最初は家の基礎だと思った。
だが――
「……違う」
アレンが呟いた。
家の基礎に使われている石とは違う。上に残っている基礎は、形の異なる石を組み合わせ、その隙間を接合材で埋めている。
だが、今土の下から現れたものは平らで、大きな石材がほとんど隙間なく並んでいた。
「もう少し出しましょう」
ディアナの言葉に従い、交代しながら周囲の土を取り除いていく。
すると、石の面が次第に広がっていった。
しかも、それは一枚ではなかった。
複数の平たい石が規則正しく組み合わされ、一つの床を形作っている。
「……石の床だな」
ドレイヴが、露出した石面を見下ろした。
「なんで家の床の下に、もう一枚床があるんだよ?」
しばし、答えは返らなかった。
ディアナも黙ったまま、上に残る家の基礎と、地下から現れた石材とを交互に見比べている。
「……違うわ」
「何がだ?」
「年代よ」
アレンが顔を上げた。
「見ただけで分かるのか?」
「正確な年代までは無理。でも……少なくとも、同じ時期に造られたものじゃない」
ディアナは石に直接触れず、表面すれすれまで指先を近づけた。
「加工の仕方が違う。石の組み方も。それに――こっちのほうが、明らかに古い」
「家の基礎よりも?」
「ええ。かなりね」
ケイムも隣へしゃがみ込み、露出した石床を覗き込む。
「となると……上の家を建てたとき、一緒に造られたものではなさそうだね」
「じゃあ……」
マナが露出した石床へ目を落とし、言葉を選ぶ。
「この家が建つ前から……ここにあったってこと?」
ディアナはすぐには頷かなかった。
「今の段階では――その可能性が高い。言えるのは、そこまでね」
「うん」
ケイムが静かに続ける。
「でも少なくとも、アレンの知らない地下室を家族が後から造った……そんな単純な話ではなさそうだ」
アレンは何も言わず、足元に現れた古い石床を見下ろした。
家が建つ前も、父や母がここで暮らす前も、自分が生まれる前も。
その頃から、この場所には何かがあった。
「……何なんだよ、これ」
思わず、言葉がこぼれた。
しかし、その問いに答えられる者はいなかった。
「……待って」
不意に、ディアナが低く言った。
ディアナが、石の表面にまだ薄く土の残る一角へ目を留めていた。
慎重に土を払うと、細い線が現れる。
傷ではない。一本の溝だ。
そこから別の線が伸び、交差しながら円を描いている。さらに土を取り除くにつれ、その模様は少しずつ広がっていった。
それを見た瞬間、ディアナの表情が変わった。
「全員、そこから離れて。石床には乗らないで」
声が一段鋭くなり、アレンたちは反射的にその場から後退した。
「……術式なの?」
マナが緊張を滲ませて訊く。
「ええ。たぶん――」
ディアナは刻まれた線を追いながら、観測結晶をかざした。
石に刻まれていた線が、結晶の淡い光を受けて浮かび上がる。
複数の線が重なり、輪を描き、いくつもの接続部へとつながっている。その外周を、消えかかった構造が取り囲むように残されていた。
「……封印術式」
ディアナが低く言うと、その一言でドレイヴの顔から冗談めいた色が消えた。
「……何を封じてる?」
「まだ分からないわ」
「でも、下の空洞を封じてるんじゃねえのか?」
「その可能性はある。でも――分からないうちから決めつけないで」
ディアナの声に迷いはなかった。
「ずいぶん古いね……」
ケイムも身を屈め、刻まれた線を追う。
「今使われてる形式とは、かなり違う」
「ええ。私もそう思います」
「読めそう?」
「……一部なら」
ディアナは観測結晶の位置を変え、術式を追うようにゆっくり動かした。
「かなり劣化してる。魔力も、ほとんど流れてない。でも……術式の構造自体は、まだ残ってる」
アレンの目は、石床に刻まれた古い線へ吸い寄せられた。
「じゃあ、これも……家が建つ前から?」
「ええ。そう考えるのが一番自然ね」
その言葉はすぐには消えず、アレンの胸の奥へ重く沈んだ。
家より古い石床。そして、そこへ刻まれた古い封印術式。
十八年間暮らした家の下に、そんなものがあった。
何も知らずに眠り、食事をし、学校へ通い、両親を思い出しながら暮らしていた。
わずか二メートルほど下に、何があるのかも知らないまま。
「……父さんたちは」
言いかけたところで、アレンは止まった。
知っていたのか――そう訊きたくなった。
だが、答えなどない。
ケイムがこちらを見る。
アレンは一度考え込み、それから自分に言い聞かせるように首を振った。
「……いや。今はまだ、分からないよな」
「うん。そうだね」
ケイムは短く頷くだけで、それ以上は何も言わなかった。
それでいい。
分からないものを、分かったことにしない。父も母も、もう答えられないからこそ、勝手に過去を作るべきではない。
「……開けられる?」
アレンが、石床を見たままディアナへ訊いた。
「慎重にやれば、たぶん」
「壊さずに?」
「もちろん。そのつもりよ」
ディアナは観測結晶をかざしたまま、術式を追っていく。
「封印そのものを全部壊す必要はないわ。石床の一部が開口部になってる。その部分を閉じている構造だけなら……切り離せると思う」
「危なくないの?」
マナが訊く。
「危険はあるわ」
ディアナは迷わず答えた。
「だから、全員すぐ動けるようにしておいて。何か起きてからじゃ遅いから」
「うん。それがいいね」
ケイムも頷き、家の周囲を見渡した。
「その前に、もう一度周りを見ておこう。さっきのスケルグールも、完全に離れたとは限らない。それに、あいつがこの敷地で消えたことも忘れないで」
五人はそれぞれ警戒を保ったまま、家の周囲を確かめていった。
怪物の姿も物音もなく、動いているのは風に揺れる草だけだった。
壊れた家のほかには、何も動いていない。
「……よし」
ケイムは全員の顔を見回し、短く頷いた。
「それじゃ、始めよう」
◇
石床の周囲に残っていた土をすべて取り除くと、そこで初めて全体の形が分かった。
四角形に近い石造床の中央には古い封印術式が刻まれ、さらに、その一辺には――
「……継ぎ目がある」
アレンが石床の一角を見つめて言った。
「ええ。そこね」
ディアナも継ぎ目を確認し、小さく頷く。
「ここが開口部になってる」
「取っ手は?」
ドレイヴが石板を覗き込む。
「ないわ」
「じゃあ、どうやって開けるんだよ?」
「封印術式で閉じる前提なら、外から簡単に開けられる造りにはしないでしょう」
「でも、それじゃ開けるとき困るだろ」
「だから、そのために術式があるの」
「……面倒くせえな」
「封印って、そういうものよ」
ディアナはそう言って石床の前へ膝をつき、観測結晶を構え直した。
「じゃあ……始めるわ」
観測結晶を横へ置き、杖先を封印術式へ近づけると、淡い光が走った。
石に刻まれた線の一部が、弱々しく反応する。
アレンは左手を剣の柄へ置き、ドレイヴはすぐに前へ出られる位置を取る。
マナは杖を構えたまま、ディアナとアレンの両方を視界に収め、ケイムは全員の動きを見渡せる位置へ下がった。
「……封印の核には触れない」
ディアナが自分に言い聞かせるように呟く。
「開口部につながってる経路だけ……そこだけを切り離す」
杖先が、術式の線をなぞるようにゆっくりと動き始めた。
一本の光が消える。だが、何も起こらない。
続いて、もう一本。
その瞬間、石の奥でかすかに何かが動いた。
カチ。
小さな音が響き、ドレイヴの重心が前へ移る。
「まだ」
ディアナが短く制した。数秒、杖先を止める。
そして、最後の一本まで慎重に術式の線を確かめていく。
「……よし。外すわ」
光が消えると、石床の一角にあった髪の毛ほどの継ぎ目が、ほんの少し開いた。
「……開いた」
マナの声が、かすかに強張る。
ディアナは観測結晶をかざした。
「急激な魔力変化は……なし」
「黒い反応は?」
アレンが間を置かずに訊く。
「今のところは、出てないわ」
「なら、持ち上げるぞ」
ドレイヴが一歩前へ出た。
「ゆっくりよ」
「分かってるって」
「……本当に、ゆっくり」
「二回言うな!」
「あなた相手なら必要でしょう」
「ドレイヴ」
ケイムが隣へしゃがみ込む。
「その話は、開けてからにしようか」
「……分かったよ」
ドレイヴは不満そうに息を吐き、ケイムと二人で石板の隙間へ道具を差し込んだ。
少しずつ力を加えると、石同士が擦れ合う。
ご……。
低い音とともに隙間が広がり、そこから冷たい空気が流れ出した。
その空気が、アレンの頬を撫でる。
湿ってはいない。むしろ乾いていて、長い間閉ざされていた空間の空気だと直感させる冷たさだった。
「あと少しだ。そのまま」
ケイムがタイミングを合わせるように声をかける。
「……せーの!」
二人は息を合わせ、一気に力を込めた。
石板が持ち上がり、横へずらされる。
その下には、黒い穴が開いていた。
五人は黒い穴を前に、しばらく動けずにいた。
マナが携帯用の魔法灯を近づけると、淡い光が穴の中へ落ちていく。
照らし出されたのは、石の壁と石の床だった。
「……部屋?」
マナが言う。
穴の下にあったのは、大きな地下室ではなかった。
数人が入れば、それだけで狭く感じる程度の小さな空間で、壁も床も石造りになっている。家の地下室と呼ぶには、どこか不自然だった。
アレンは穴の縁から中を覗き込む。
「こんなの……」
やはり、知らない。見たこともない場所だった。
アレンが言葉を失っている横で、ケイムが穴の奥を覗き込んだ。
「まず僕とドレイヴが降りるよ。中を確認して、安全なら三人も来て」
「なら、俺が先に行く」
ドレイヴはそう言うなり、穴へ身体を滑り込ませた。
深さはそれほどなく、石の凹凸へ足を掛けながら降りていくと、ほどなくして下へ着いた。
「……よし。今んとこ、何もいねえぞ」
「じゃあ、僕も行くよ」
続いてケイムが穴の中へ降り、そのあとにディアナ、マナが続いた。
最後に、アレンが降りていく。
「アレン、左手だけなんだから無理しないでね」
先に降りたマナが、下から声をかける。
「分かってる」
「右腕も、石にぶつけないようにして」
「分かってるって」
「その少し下、足を置けるところあるよ」
「見えてる。大丈夫だ」
アレンは左手で縁をしっかりと掴み、慎重に身体を下ろしていく。
途中まで降りたところで、下にいたドレイヴが肩を支えた。
「よし……離すぞ」
「ああ、頼む」
支えが外れ、アレンの両足が床へ着いた。
これで、五人全員が小さな地下空間へ降りたことになる。
ドレイヴは入口に最も近い位置へ残り、地下だけでなく、頭上の気配にも意識を向けていた。
頭上に開いた穴から細い光が落ちているものの、奥までは届かず、周囲は暗い。
魔法灯を掲げると、古い石壁が淡く浮かび上がった。
「……ここ、本当に俺の家の下なんだよな」
アレンが、信じきれないように呟く。
「ええ。位置は間違いないわ」
ディアナが答える。
奇妙だった。
頭上、ほんの数メートル上には、自分が十八年間暮らした家がある。
いや――あった。
その床を何度も歩き、転び、座り、食事をし、眠った。
そのすべての下に、この場所があった。
「観測結晶は?」
ケイムがディアナへ訊く。
「今、確認します」
ディアナは観測結晶をかざし、慎重に測定を進めた。
「……ここでも、黒い反応そのものは出てないわ」
「じゃあ……この空洞が原因ってわけじゃないの?」
マナの問いに、ディアナはすぐには頷かず、ゆっくりと首を振った。
「まだ、そこまでは言えない。反応が記録されたのは襲撃の三日前よ。今ここで何も出てないからって、無関係だとは決められないわ」
「なるほどな……」
ドレイヴは壁沿いに歩き、四方を確かめた。
「にしても……何もねえな、ここ」
その言葉どおりだった。
棚も箱も家具もなく、何かを保管していた痕跡さえない。
あるのは、ただの石壁と床だけだった。
「……この部屋、何のために造られたんだ?」
アレンが訊く。
「それを確かめるのは、これからよ」
ディアナは壁際へ寄り、刻まれた細かな痕跡をひとつずつ確認していった。
アレンも魔法灯の届く範囲を順に追った。
入口側、左右の壁、そして最後に正面。
そして――
「……待って」
不意にマナが足を止めると、魔法灯を持つ手もその場でぴたりと止まった。
「どうした?」
「……奥。何かある」
マナは薄暗がりを探りながら、ゆっくりと灯りをその先へ向けた。
地下空間の一番奥は、一見すると壁に見えていた。
しかし、光を横から当てたことで、そこに黒い輪郭が浮かび上がる。
床は、そこで終わっていなかった。
その先へ向かって、下へ落ち込んでいる。
アレンも足音を殺すように近づいた。
「……これ」
マナが、さらに奥へ光を向ける。
一段、その下にもう一段。さらにその先へ、石段が続いている。
「……階段、か?」
ドレイヴの声からも、いつもの軽さが消えていた。
全員が集まった先、小さな地下空間の奥には、さらに下へ続く石の階段があった。
幅は狭く、一人ずつ降りるのが精いっぱいだろう。
そして、その先は暗い。
「……地下室の下に、まだ続いてるの?」
マナが、闇へ沈む階段を見つめたまま呟く。
「もしかしたら、この空間自体が地下室じゃないのかもしれないわ」
ディアナは階段の造りを慎重に確かめる。
「ここは……下へ行くための、ただの通路?」
アレンは階段の奥に口を開けた暗がりを、じっと覗き込んだ。
家の下に空洞があり、そこへ入れば終わりだと思っていた。
だが、本当にあるものは――もっと下だ。
「灯りを貸してもらえるかい」
ケイムが手を差し出すと、マナは魔法灯を渡しながら念を押した。
「ケイム、勝手に降りたら駄目だよ」
「心配には及ばないよ。ちょっと照らして見るだけだ」
ケイムは階段の入口ぎりぎりまで身を寄せると、魔法灯を闇の先へゆっくりと差し出した。
白い光が、一段、二段、三段と階段を照らし、その先へ落ちていく。
さらに光量を上げると、より下まで階段が浮かび上がった。
だが、十段を越えても、その先はまだ暗い。
「もう少し先まで見えねえのか?」
ドレイヴが訊く。
「これ以上明るくしても……この距離じゃ、さすがに厳しいね」
ケイムはそう言いながら、魔法灯をさらに奥へ向けた。
光は細い階段へ吸い込まれていくが、その底までは届かない。
アレンは何も言わず、光が途切れる先を追った。
家より古い石床。古い封印術式。小さな地下空間。
そして、そこからさらに地の底へ続く階段。
自分が生まれる前。家が建つ前。
おそらく、ずっと前から。
ここにあった。
「……これ、どこまで続いてるんだよ」
アレンの低い声が、石壁の奥へ吸い込まれるように反響した。
返事はなく、ただ下から冷たい空気だけが上がってくる。
その隣へ、マナが静かに並んだ。
「……今は、降りないよね」
「分かってる」
「本当に?」
アレンは闇の先を見たまま、小さく息を吐いた。
「ここまで来たからって、何の準備もなしに突っ込んだりしないよ」
マナは少しだけアレンの横顔を確かめる。
「……うん。それならいい」
後ろで、ドレイヴが鼻を鳴らした。
「お前も、ようやく学習したじゃねえか」
「……お前に言われると、なんか腹立つな」
「褒めてんだぞ?」
「褒め方の問題だろ」
いつもなら、そこでマナが何か言っただろう。
だが、今回は何も言わなかった。
アレンも途中で口を閉じる。
そのとき、小さな音が聞こえた気がした。
「……今」
マナが何かに気づいたように、ぽつりと呟いた。
その声に、全員が動きを止める。
辺りは静まり返り、聞こえるのは頭上を抜ける風の音と、遠い地上から届く草の擦れる音だけだった。
「……何か、聞こえた?」
ケイムが声を落として訊く。
「……分からない。今、何か……」
マナも耳を澄ませながら、曖昧に答えた。
アレンは階段の奥へ意識を集中させた。何も見えない。耳を澄ませる。
数秒。さらに十数秒。
何も聞こえない。
気のせいか――そう思いかけた、そのときだった。
コツ……。
石を叩くような音が響いた。
アレンの左手が剣の柄へ動き、ドレイヴも一歩前へ出る。マナは杖を構え、ディアナは観測結晶を階段の奥へ向けた。
ケイムだけは、魔法灯を掲げたまま動かない。
誰も言葉を発しなかった。
音は、下から聞こえた。
階段の奥――光の届かない場所から。
再び静寂が落ちる。
そして。
コツ……。
もう一度、音がした。
さっきよりも、少しだけ近い。
アレンは暗闇から目を離さなかった。
何かが、階段を上ってくる。




