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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第四章『故郷の底に眠るもの』

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第40話『鐘の鳴らない町』


 正門の前には、三体のスケルグールが倒れていた。


 砕けた骨の間から淡い魔力の残滓が立ち昇り、朝の風に触れるたび、煙のように薄れていく。それらは、つい先ほどまで動いていた怪物だ。


 グリムフォードが襲われた日から、この場所に取り残されていたものではない。


『この個体……最近ここへ出てきたものよ』


 ディアナの言葉が、まだアレンの耳に残っていた。


 グリムフォードは壊滅し、住民の多くが失われた。生き残った者たちも、すでに町を離れている。今はもう、人の暮らしは残っていない。


 それでも、怪物は今もここへ現れている。


「……それじゃ、行こうか」


 ケイムの声に、アレンは胸の奥に溜まっていた息を吐き、正門へ向き直った。


 かつて町の入口を守っていた門は、今では半分ほどしか残っていない。片側の石柱は途中から折れ、門扉は地面へ倒れたまま、土と雑草に埋もれている。その向こうには、防衛用の砦だったものが瓦礫の山となって横たわっていた。


 五人は、ゆっくりと正門をくぐった。


 アレンがここを最後に見たときには、すでに正門は門としての役目を失っていた。

 冷たい雨に打たれる崩れた石壁。その向こうでは、骸骨たちが砦へ群がっていた。


 そして、その上空に現れた青白い光。

 記憶が蘇り、アレンの足が止まりかける。


「……アレン?」


 隣を歩くマナが、そっと呼びかける。

 アレンは答える代わりに、呼吸を整えて顔を上げた。


「……大丈夫だ」


 それだけ言うと、アレンは前を向いたまま歩みを進めた。


 大丈夫なのかどうかは、自分でもよく分からない。ただ、ここで立ち止まるために戻ってきたわけではなかった。


 やがてケイムとディアナが砦の手前まで来ると、ディアナは腰の鞄から細長い測定結晶を取り出し、杖の先へ固定した。


「まずは……ここから確認するわ。順番に見ていきましょう」


 透明な結晶に淡い光が灯り、ディアナがゆっくりと杖を動かす。それに合わせて光の筋は崩れた砦の壁から地面へ移り、最後に倒れた門扉をなぞっていった。


 アレンたち三人は、少し離れた場所からその様子を見守った。


「……何か出てる?」


 マナが、ディアナの手元を覗き込む。


「普通の魔力残滓(ざんし)ならあるわ。……かなり古いものだけれど」


「襲撃のときに残ったやつか?」


「その可能性が高いでしょうね。火、水、雷……いくつも重なってる。これじゃ、誰のものかまでは追えないわ」


 そこで言葉を切り、ディアナは測定結晶をわずかに傾けた。


「ただ……私たちが探している黒い反応は、ここにはない」


 ケイムは砦の瓦礫へ近づき、割れた石の断面すれすれまで手を寄せる。


「なら、門の周りも見てみようか。何か残ってるかもしれない」


 二人が調査を続ける間、ドレイヴは崩れた砦を黙ったまま見上げていた。

 それは、珍しいことだった。普段なら、瓦礫の大きさでも壁の壊れ方でも、何かしら言葉を挟む男だ。


「……覚えてるか?」


 しばらく黙っていたドレイヴが、不意に口を開いた。


「俺たちが、ここまで来たときのこと」


「ああ……覚えてる」


 アレンは砦の跡を見たまま、短く答えた。


「あのときは……ここまで来れば、何とかなるって思ってた」


 守備隊がいる。生き残った住民もいる。正門まで辿り着けば助かる――三人とも、そう思っていた。

 だが実際に目にしたのは、すでに壊された砦だった。


「俺さ……あの壁の上に、まだ兵士がいると思ってたんだよな」


 ドレイヴが、崩れた瓦礫の一角を顎で示す。


「一人くらいは生きててさ。俺たちを見つけたら、こっちに手ぇ振ってくれるんじゃねえかって」


 返事をする者はいなかった。アレンもまた、同じことを思っていたからだ。

 あの日の自分たちは、ここへ向かって逃げてきた。だが今日は、ここから町の奥へ入っていく。


 まるで、壊れた一日を逆向きに辿っているようだった。


「……砦にはないね」


 ケイムはそう言って立ち上がった。


「少なくとも、僕たちが探している黒い反応は、ここには残ってない」


「じゃあ……次は、町の中?」


 マナの問いに、ケイムは頷く。


「うん。順番に見ていこう。記録に残った座標だけを追うこともできるけど、それじゃ、襲撃の日に何が起きたのか……途中を見落とすかもしれないからね」


 アレンは、町の奥へ続く道を見やった。


「……俺たちが逃げてきた道を、今度は戻るのか」


「その方が、君たちには辿りやすいだろ?」


「辿りやすいっていうか……忘れろって言われても、無理ですけどね」


 ドレイヴはそう言って、気まずそうに頭を掻いた。


 それでも五人は歩き始める。正門から大通りへと、あの日とは逆の方向に。


     ◇


 グリムフォードの商店街は、音を失っていた。


 通りの両側には傾いた建物が並び、割れた窓から伸びた蔓草が外壁を覆っている。雨風に晒された看板は文字が読めないほど色褪せ、店先に残された棚も半ば崩れていた。


 歩く者の足音だけが、不自然なほど遠くまで響く。


 ここは、こんなに広い道だっただろうか。


 そう思いながら、アレンは通りを見渡した。昔はいつも人がいて、荷車を避けながら、買い物客の間を縫って歩かなければならなかった。店の主人同士が通りの向こうから声をかけ合い、子供たちが駆け回り、焼いたパンや香草、果物の匂いが混ざり合っていた。


 あの日は、そのすべてが血と雨の臭いに塗り潰されていた。


「……ここだな」


 ドレイヴの歩みが、不意に途切れた。

 そこは通りの端、壁の半分が崩れた建物の脇から細い路地が伸びている場所だった。


 ディアナもそこで立ち止まり、ドレイヴが見ている先を確かめる。


「……ここって、何があった場所?」


「俺たちが走ってきたの、この辺だ」


 ドレイヴは細い路地を指した。


「アレンが怪我してて、まともに走れなかったんだよ。それでもこいつ、止まろうとしなくてさ」


「……止まってたら、砦まで辿り着けなかっただろ」


「まあ、それはそうなんだけどよ」


「でもさ」


 マナが、少しだけ口元を緩める。


「砦で俺がここで止めるって言い出したの、ドレイヴの方だったよね」


「……」


「アレン、お前はマナを連れて逃げろって」


 ドレイヴは気まずそうに頭を掻いた。


「……よく覚えてんな」


「忘れるわけないでしょ、あんなの」


 アレンが鼻で笑う。


「ほんと、昔から変わってねえな。お前」


「それ、お前にだけは言われたくねえよ」


「俺は今なら、勝手に残るなんて言わねえぞ」


「その代わり、勝手に敵へ突っ込むだろ」


「敵がいたら前に出るのが俺の仕事だ」


「だから、そういう話じゃないって」


 呆れたようなマナの声には、ほんの少しだけ昔と同じ調子が戻っていた。

 アレンも口元を緩めかけたが、路面に残った黒ずんだ染みが視界に入り、その笑みは消えた。


 ただの汚れなのか、あの日の痕跡なのかは分からない。だが、確かめる必要もなかった。


 マナも同じものを見たらしく、口を閉じて杖を握り直す。


 ケイムは三人を急かさなかった。少し先まで歩いてから振り返り、静かに待っている。ディアナも測定結晶を下げたまま、何も言わなかった。


 やがて、アレンがゆっくりと歩き出した。


「……行こう」


 マナは一瞬、その背中を追ってから、小さく頷く。


「……うん」


 三人は再び、町の奥へ進んでいった。


 商店街の中央でもディアナは測定を行ったが、結果は変わらない。

 残っているのは、属性魔法の残滓や壊れた生活魔法の術式、魔法石から漏れた微弱な魔力だけだった。


 だが、探している黒い反応はない。


「……ここも違うわ」


 ディアナは結晶に浮かぶ光を確かめながら、静かに告げた。


「反応が……もう消えたってことか?」


 アレンが尋ねると、ケイムはすぐには頷かなかった。


「いや、まだそう決めるのは早いよ。記録されたのは襲撃の三日前だ。そもそも、その反応が地上に長く残るものなのかどうかも分かってない」


「でも、あのスケルグールが出てきたのは最近なんだろ?」


「ああ、そうだね」


「だったら……何かは残ってるはずだ」


 アレンは、町のさらに奥へ目を向けた。


「今も怪物が出てくる、その理由が」


 ケイムも町の奥を見やり、ひとつ頷いた。


「……僕も、そう思うよ」


     ◇


 魔法学校の門は片方だけが残り、もう片方は根元から折れて校庭へ倒れ込んでいた。


 校舎も無傷ではなく、片側が大きく崩れ、壁の多くが失われている。屋根には大きな穴が開き、窓硝子の大半は割れ、長く風雨に晒された教室の床には枯れ葉が積もっていた。


 それでも。


「……まだ、残ってるな」


 アレンは、崩れながらも残る校舎から目を離せないまま呟いた。


 崩落を免れた側には、まだ校舎の形が残っている。正面玄関の上に刻まれた校章も、ひび割れてはいたが、かろうじて読み取ることができた。


 アレン、マナ、ドレイヴの三人は、申し合わせたわけでもないのに、その場に立ち尽くしていた。


 ついこの前まで、毎日のように通っていた場所だ。


 朝になればここへ来て授業を受け、魔法の実技では失敗もした。試験が近づけば、その対策に追われた。放課後になれば、くだらない話をしながら三人で帰った。


 そんな日々の続きを、ずっと生きていくのだと思っていた。


「……入る?」


 マナが校舎を見たまま尋ねると、アレンは答えを返さないまま、しばらく懐かしい校舎を仰いでいた。


「……調査も、しといた方がいいだろ」


「ふふ。そういう理由にするんだ?」


「……いいだろ、別に」


 アレンが気まずそうに顔を横へ向けると、マナは小さく笑った。


 五人は残った正面玄関から校舎へ入り、砂と落ち葉が吹き込んだ廊下を進んでいく。歩くたびに、靴底が乾いた音を立てた。


 壁には、掲示物の跡が残っている。紙そのものが剥がれ落ちた場所もあれば、画鋲だけが残っている場所もある。中には、文字が雨に滲み、何が書かれていたのか分からなくなった紙もあった。


 アレンは廊下を歩きながら、無意識に教室の数を数えていた。


 一つ、二つ、三つ。


 曲がり角を過ぎると、身体が覚えていた。


 次の扉だ。


「……ここだな」


 ドレイヴが誰より先に足を止めたのは、三人が卒業前まで過ごしていた教室の前だった。


 扉は外れ、斜めに壁へ立てかけられている。ドレイヴが中を覗き込むと、半分ほどの机がまだ残っていた。


 黒板も割れてはいるものの、壁に掛かったままだ。教卓は横倒しになり、その周囲には天井材が散らばっている。


 ドレイヴはしばらく教室を見回したあと、妙に真剣な顔で言った。


「俺さ……今でも、ここの筆記試験受けてる夢見るんだよな」


 一瞬、誰も反応しなかった。


「……今でも?」


 マナが、半信半疑で聞き返す。


「ああ」


「何の試験?」


「術式理論」


 アレンは吹き出した。


「よりによって、一番駄目だったやつじゃないか」


「うるせえ」


「夢の中では、ちゃんと解けるの?」


「それがよ……」


 ドレイヴは思い出しただけでも嫌そうに顔をしかめた。


「問題用紙見ても、一問も分からねえんだ。で、焦って周り見たら、お前ら二人はもう全部終わってやがる」


「……それは悪夢だな」


「だから夢だって言ってんだろ!」


 マナが堪えきれず、肩を揺らして笑う。


「でも……現実も、そんなに変わらなかったよね」


「どこがだよ!」


「筆記試験の前の日になると、毎回アレンのところに聞きに行ってたでしょ?」


「あれは聞きに行ってたんじゃねえ。確認だ、確認」


「夜中に俺の家の窓叩いておいて?」


 アレンが呆れたように言う。


「仕方ねえだろ。術式構築のどこまでが試験範囲か分からなかったんだから」


「それを夜中に聞きに来る時点で、授業聞いてなかっただろ」


「聞いたよ! 忘れたんだ!」


「……同じだろ」


 ほんの数十秒だったが、壊れた教室の中で三人の声が重なった。

 まるで、ここが廃墟になる前と同じように。


 アレンは妙な感覚を覚えた。今にも廊下から教師が現れて、うるさいと怒鳴られるような気がする。

 窓の外を見れば校庭に生徒たちがいて、鐘が鳴れば次の授業が始まる。


 そんなはずはないことくらい、分かっている。

 それでも、この教室に立っていると、壊れてしまった日常の形だけが急に近くなる。


「……アレン」


 マナの声から、ふっと笑いが消えた。

 アレンが振り返ると、マナはいつの間にか廊下へ出ており、壁際の掲示板の一点に目を留めていた。


「……どうした?」


 近づくと、マナは答える代わりに、一枚の紙へそっと指を伸ばした。


 四隅のうち二つが外れ、斜めに垂れ下がった紙だった。雨が直接当たらなかったためか、ほかの掲示物より文字がはっきりと残っている。


 上部には大きく、


 ――卒業試験日程――


 と書かれていた。


 その下には、筆記と実技、それぞれの試験日が並んでいる。


 そして、最終試験の日付。

 三人がここを卒業した、その日だった。


 その日付だけが、妙にはっきりと目に入った。

 誰も、すぐには口を開かなかった。


「……これ」


 マナの指先が、紙の端へそっと触れる。


「まだ……残ってたんだ」


 その先の言葉は続かなかったが、アレンには何を言おうとしたのか分かった。


 まだ、それほど時間は経っていない。紙が朽ち果てるほどでもなければ、自分たちが子供だった頃の記録でもない。


 少し前。本当に、少し前のことだ。


 この日付の前日まで、三人は試験の結果ばかり気にしていた。ドレイヴは筆記の点数を心配し、マナは実技で失敗した箇所を何度も振り返り、アレンは卒業後に何をするか決められずにいた。


 そして、試験を終えた翌朝。


 鐘は鳴らなかった。


「……なんか、ずっと昔のことみてえだな」


 ドレイヴが、ぽつりと低く言った。


「……ああ。俺もそう思う」


 アレンは、掲示物から目を離さなかった。


 ルミノヴァへ運ばれ、ファランディアへ向かい、アルカナリウムとブランネリアを巡った。帝国との戦争に巻き込まれ、刻印と黒い扉に触れた。


 右手は動かなくなり、仲間を失いそうになった。自分自身も、何度も戻れないところまで踏み込みかけた。


 そのすべてが、この紙に書かれた日付のあとに起きたことだった。


「……なんか、変だね」


 マナが、掲示物を見つめたまま呟いた。


「何が?」


「こんなに、いろんなことがあったのに……」


 そこで一度、言葉を止める。


「まだ、これだけしか経ってないんだなって」


 アレンは何も返せず、日付の文字を追うことしかできなかった。


 少し離れた場所では、ディアナもその日付を読んでいた。彼女にとっても、この日付は卒業試験を終えた日だった。


 ケイムだけは、その日付に直接の思い出を持たない。それでもディアナもケイムも何も言わず、三人が歩き出すのを待っていた。


 しばらくして、ドレイヴが名残を断ち切るように教室へ背を向けた。


「……そろそろ、行くか」


「ああ」


 アレンが短く答えると、マナは最後にもう一度だけ掲示物へ目をやり、それから静かに頷いた。


     ◇


 学校を出る前にも調査を行ったが、結果は変わらなかった。


「……黒い反応は、なし」


 ディアナは結晶から目を離し、測定術式を閉じた。


「学校も違ったか」


 ドレイヴが、わずかに肩を落とす。


「少なくとも……地上ではね」


 その言い方に、アレンが顔を上げた。


「地上では?」


「今のところ、見ているのは建物や地面の表面に残った魔力だけだから」


 ディアナは校庭を見渡した。


「ただ、記録された座標は町外れよ。ここを深く調べるより、先へ進んだ方がいいと思う」


「なら、そうしよう」


 ケイムが静かに言った。


「次はどこだ?」


 アレンは校門の向こうを見やり、町の中心に残る崩れた鐘楼を捉えた。


「……鐘楼(しょうろう)だ」


     ◇


 鐘楼へ続く広場には、人影ひとつなかった。


 かつて町の中心だったその場所からは、朝、昼、夕方と、一日の区切りを知らせる鐘の音が町全体へ響いていた。


 アレンの家は町外れにあったが、それでも晴れた日なら聞こえた。学校へ行く時間も、仕事を始める時間も、帰る時間も、誰もが意識することなく、その音と一緒に暮らしていた。


 だが今、塔は下半分を残すだけだった。上部は大きく崩れ、鐘を覆っていた屋根も、鐘を吊っていた梁も失われている。


 鐘そのものも、もうそこにはない。

 アレンは足を止めた。


 あの日の朝。


『まだ鐘も鳴ってないだろ』


 寝ぼけた自分は、そう言った。

 そのとき、マナがぽつりと呟いた。


「……鐘は、鳴らない」


 聞き覚えのある言葉に、アレンは反射的に振り向いた。

 マナは、崩れた鐘楼を見上げたままだった。


「……覚えてるのか」


「忘れるわけないよ。……あの日のことだもん」


 風が二人のあいだを抜けるように広場を吹き抜け、雑草を倒し、壊れた窓枠を乾いた音で鳴らした。


 そのまま風は塔の残骸を抜けていった。

 それでも、鐘の音だけは戻らない。


「……ほんとに、もう鳴らねえんだな」


 ドレイヴが塔の残骸を仰ぎながら呟いたが、誰も何も返さなかった。

 風だけが、壊れた町を静かに通り抜けていく。


 やがてアレンは、崩れた塔から目を離さず口を開いた。


「……調べよう」


 過去を見るためだけに来たわけではない。

 鐘が鳴らなかったあの日の朝、何が起きていたのか。


 なぜ、怪物が今も現れるのか。

 自分の家の地下で、襲撃の三日前から何が始まっていたのか。


 どれも、知らなければならない。

 ディアナは広場の中央まで歩くと、周囲を見渡して足を止めた。


「ここなら遮るものも少ないわ。……少し、測定範囲を広げましょう」


 鞄から三つの測定結晶を取り出すと、ディアナは互いに距離を空けながら地面へ置いていった。

 三角形を描くように配置された結晶の間を、淡い白色の線が結んでいく。


 ケイムも、その場へしゃがみ込んだ。


「じゃあ、僕が深度を変えていく。ディアナは数値を追ってくれる?」


「分かりました」


「マナ、補助の記録を頼んでもいいかい?」


「うん。すぐ準備する」


 マナは頷くと、すぐに帳面を取り出した。

 その傍らで、アレンとドレイヴは自然と広場の外周を警戒する。


「……それじゃ、始めるよ」


 ケイムが地面に置かれた結晶へ手をかざすと、三角形を結ぶ白い線が強く光った。

 それに呼応するように、ディアナの手にした測定結晶に細かな数字と術式線が浮かび上がる。


「表層は……正常」


 ディアナが、表示を追いながら読み上げた。


「残留魔力あり。属性は混在……異常な周期は見られないわ」


「じゃあ、もう少し深く見るよ」


 ケイムの指先が、わずかに動く。


「一段目……正常」


 さらに深度が下がる。


「二段目も……正常」


 マナは黙って、読み上げられた値を帳面へ書き込んでいく。


「三段目――」


 そこで不意にディアナの声が止まり、アレンは振り返った。


「どうした?」


「……待って」


 ディアナは測定結晶を持ち上げて表示を確かめると、淡く光っていた術式線の一部が途中から不自然に途切れていることに気づいた。


「ケイム先生。少しだけ、深度を戻してください」


「分かった」


 ケイムが術式を調整すると、消えていた線が再び浮かび上がる。


「……ここまでは正常」


「じゃあ、もう一度。同じ深度までお願いします」


 ケイムがゆっくりと術式を下げていくと、先ほどと同じ深度で――再び測定値が消えた。


「……消えた?」


 マナが身を寄せて結晶を覗き込む。


「違う」


 ディアナはすぐに首を振った。


「値が零になったわけじゃない」


「……何が違うんだ?」


 ドレイヴが眉を寄せる。


「零なら、そこに魔力は存在しないって結果が出るの。でも、これは……」


 ディアナの指先が、何も表示されていない部分をなぞる。


「結果そのものが、返ってきてない」


 アレンはその意味を飲み込むまで、わずかに間を置いた。


「……つまり、見えてないってことか?」


「そう」


「でも、魔力がないってわけでもないんだろ?」


「ええ。ないとは言えない。でも……あるとも言えない」


「なんだよ、それ……」


 ドレイヴがますます分からないという顔をする一方で、ディアナは測定結晶から目を離さなかった。


「観測術式はちゃんと送れてる。途中までは届いてるし、地中へ通すための魔力消費にも異常はないわ」


 ディアナは結晶に浮かぶ術式線を追い、眉を寄せる。


「吸収されているなら、送った魔力に余分な減衰が出るはず。でも、それもない。なのに……その深度から先の情報だけが返ってこない」


「……つまり?」


 マナが、不安そうに尋ねた。


「まるで……そこだけが、観測の対象から抜け落ちてるみたい」


 その言葉を聞いた瞬間、アレンの胸の奥がざわついた。

 黒い扉、黒い結晶、測定具に残る点――そして、ギデオンの声。


『器が黒点へ届けば、目的は果たされる』


「……黒点」


 その言葉がアレンの口からこぼれると、ケイムが顔を上げた。


「……うん。僕も同じことを考えてた」


「ギデオンが言ってたやつか?」


 ドレイヴが尋ねる。


「ただ、彼が何を〈黒点〉と呼んでいたのか……そこはまだ、はっきりしてない」


 ケイムは地面の結晶へ視線を戻した。


「でも、もしあの言葉が『観測できない場所』を指していたなら……今の状態は、かなり近いかもしれないね」


「でも……」


 マナが周囲を見回す。


「黒い反応は、出てないんだよね?」


「ええ。何も出てないわ」


 ディアナは測定結晶を見つめたまま、わずかに眉を寄せた。


「……だからこそ、問題なの」


 彼女は測定結晶をアレンたちへ向けたが、その透明な内部には、黒い点も枝も浮かんでいなかった。


「アルカナリウムや地下施設で黒い反応を観測したときは、結晶そのものに異常が出た。でも……今回は、それとは違うわ」


「黒い何かがあるんじゃなくて……」


 アレンは足元へ視線を落とした。


「そこだけ、何があるのか分からないってことか」


「ええ。そういうことよ」


 ディアナが静かに頷くと、ケイムは同じ深度を保ったまま、観測位置だけを少しずつ横へずらしていった。


「……もう少し、範囲を広げて見てみよう」


 一つ目。


「正常」


 二つ目。


「……ここも正常」


 三つ目。


 そこで、ディアナの視線が止まった。


「待って……また途切れた」


 ケイムが、さらに観測位置を横へずらす。


「……戻った。ここは正常」


 ディアナは結晶を見つめたまま、わずかに眉を寄せた。

 異常があるのは一点だけではなく、広場の地中には観測結果が途切れる箇所が不規則に続いていた。


 単なる空洞でも、魔力のない地層でもない。そこへ観測を通したときだけ、その部分の結果が抜け落ちるのだ。


 アレンは無意識に、黒い手袋に覆われた右手へ目を落とした。

 いつもの麻痺以外に、右手に変化はない。頭の奥にも、黒い扉の気配はない。


「……俺の方は、何もない」


 アレンが先にそう告げると、マナはすぐに彼の顔を見た。


「……本当に?」


「ああ。右手も、頭の中も……いつもと同じだ」


 マナはしばらくその表情を見つめていたが、やがて小さく頷いた。


「……分かった」


 それ以上、何も聞かれることはなかった。アレンが自分から言ったからだ。

 ディアナはそのまま測定を続けていたが、やがて術式を止めた。


「……これ以上は、ここで続けても同じね」


 ディアナはそう言って、地面に置いた三つの結晶を順に回収した。


「地下に、観測できない領域がある。今のところ、確かなのはそこまでよ」


「じゃあ、この広場の下に何か埋まってるってことか?」


 ドレイヴが確かめるように地面を踏む。


「まだ、そこまでは言えないわ。形も分からないし、どこまで広がっているのかも掴めてないもの」


「……じゃあ、次はどうする?」


 アレンがケイムを見ると、ケイムは少し考えるように、町外れの方角へ目を向けた。


「予定どおり進もう。まずは、最初に記録された座標まで行ってみる」


 アレンの家。そこへ行く。

 分かっていたことなのに、その言葉を聞いた途端、胸の奥に重いものが落ちた。


 だが、そのとき。


 カラン――。


 乾いた音が響き、五人の動きが止まる。

 鐘ではない。金属が石に当たったような音だった。


 聞こえてきたのは、広場の奥。崩れた建物の影からだ。

 ドレイヴは即座に大剣の柄へ手をかけた。


「……いるぞ」


 その声に、アレンもすぐさま左手で剣を抜いた。マナが杖を構え、ディアナは測定結晶を持ち直す。

 ケイムだけが、全員を視界に収められる位置へ一歩下がった。


 カラン。


 再び音が響く。


 やがて瓦礫の向こうから、白いものが覗いた。頭蓋骨に続いて細い肩が現れ、錆びた装備を身につけた骸骨が、ゆっくりと路上へ出てくる。


「スケルグール……」


 マナが低く呟いた。


 一体。正門で倒した三体とは、別の個体だ。

 スケルグールは五人を認識した途端、錆びた剣を持ち上げると、次の瞬間には一気に距離を詰めてきた。


 それを見たドレイヴが大剣を構え、一歩前へ出た。


「……来るぞ。構えろ!」


 大剣と錆びた刃が衝突し、甲高い金属音が響いた。

 軽いはずの骸骨の身体からは想像できないほどの力が加わり、ドレイヴの靴が石畳の上をわずかに滑った。


「相変わらず、力だけは強えな!」


 ドレイヴは受けた勢いを殺すと、そのまま大剣を返した。

 刃は、スケルグールの胴を叩き潰す軌道へ入る。


「待て、ドレイヴ!」


 アレンが叫んだ。


「今度は何だよ!」


「そいつ、倒すな!」


 大剣が、胴を捉える寸前で止まった。


「はあ!?」


「正門にいた三体も、最近になって出てきたんだろ!」


 アレンはスケルグールから目を離さない。


「だったら、こいつを追えば……どこから来たのか分かるかもしれない」


 ドレイヴの顔が、露骨に歪んだ。


「そういうことは先に言え!」


「今思いついたんだよ!」


「じゃあ、どうすんだ! こいつ、普通に斬りかかってくるぞ!」


 その言葉を待っていたかのように、スケルグールが腕を振るう。

 ドレイヴは大剣の腹で受け止め、そのまま横へ逸らした。


「下がって!」


 マナの鋭い警告が飛び、同時に杖が振るわれた。


 細い水流が路面を走ってスケルグールの足元に巻きつく。倒すためではなく、踏み込む動きを鈍らせるためだ。


 その狙いどおり、骸骨の脚が一瞬止まった。


「ドレイヴ、右だ!」


 アレンが鋭く叫ぶ。


「分かってる!」


 ドレイヴは即座に反応し、身体を右へ滑らせた。アレンも反対側へ回り込む。

 倒すためではない。五人で緩く囲み、逃げ道を一方向だけ残すためだ。


 スケルグールは追撃しようと一歩進み――そこで動きを止めた。


 アレンとドレイヴを前に、マナ、ケイム、ディアナも距離を保ったまま位置をずらす。五人は半円を描くようにスケルグールを囲み、一方向だけを空けていた。


 逃げ道を確かめるように、骸骨の頭が小さく左右へ動く。

 先ほど正門で戦った三体は、壊れることも構わず向かってきた。だが、この個体は違う。


 あるいは、もともと別の目的があるのか。


 そして次の瞬間、スケルグールは空いた方向へ身体を返し、五人に背を向けた。


「逃げるぞ!」


 ドレイヴが叫ぶ。


「追う!」


 アレンは剣を下げ、そのまま駆け出した。


「詰めすぎるな!」


 すぐ後ろから、ケイムの声が飛ぶ。


「見失わない程度でいい。距離を保って追うんだ!」


 スケルグールは崩れた商店の脇へ飛び込み、そのまま細い路地を駆けていった。骨と金属がぶつかる乾いた音が、無人の町に連続して響く。


 アレンたちは、その音を追った。


 角を一つ、二つと曲がり、壊れた家々の間を抜けていく。


 スケルグールは振り返らない。人を探しているようにも見えず、ただどこかを目指すように走り続けていた。


「速えな、あいつ!」


 ドレイヴの声が前方から飛ぶ。


「お前が詰めすぎなんだ! 近づくな!」


「でも、離したら見失うだろ!」


「だからって追いついたら、逃がした意味ないだろ!」


「もう、二人とも! 走りながら喧嘩しないで!」


 呆れたマナの声がすぐ後ろから飛んできたが、それでも誰も足を止めなかった。


 広場から離れるにつれ、建物の数が減っていき、やがて町の中心を抜ける。すると、少しずつ見覚えのある道が増えてきた。


 アレンの呼吸が、わずかに浅くなる。

 この角も、草に覆われた石垣も、昔とは形を変えている。


 それでも、知っている。


「……待て」


 アレンの速度が不意に落ちると、少し先を走っていたドレイヴが肩越しに振り返った。


「今度は何だ?」


 その間にも、スケルグールはさらに先へ、町外れの畑が広がっていた方角へ走っていく。


 アレンはその後を追いながら、走り慣れた道の形を確かめた。

 倒れた標柱。二本並んだ古い木。そして、細く曲がった道。


 忘れるはずがない。学校へ向かうときも、町へ買い物に行くときも、マナが家へ来るときも、何百回、何千回と歩いてきた道だ。


 その道を、スケルグールが走っていく。


 アレンの足が一瞬だけ遅くなると、マナもそれに気づいたらしい。


「アレン……?」


 その先にあるものを、アレンは知っている。

 もう家はない。それでも、その土地だけは残っている。


 襲撃の三日前、黒い反応が最初に記録された場所だ。


 アレンは遠ざかるスケルグールの背を追いながら、低く言った。


「……俺の家の方だ」

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