第39話『帰る場所』
グリムフォードで記録されていた黒い反応の座標を知ってから、数日が経っていた。
街道は、緩やかな丘へ向かって伸びていた。
かつては荷馬車が行き交っていたはずの道も、今ではところどころ石畳が土に沈み、その隙間から伸びた草が風に揺れていた。道端の標柱は傾き、刻まれていた地名も苔と雨に削られている。
その道を五人が歩いていた。
先頭を行くのはケイム。その少し後ろをディアナが歩き、さらに後方では、アレン、マナ、ドレイヴの三人が並んで進んでいる。
グリムフォードへ戻ろうと最初に口にしたのは、アレンだった。ただし、同行者をこの五人に絞ったのはケイムだ。
帝国との戦争はまだ終わっていない。
各地の戦線では今も兵が必要とされ、刻鎖隊も例外ではなかった。故郷の地下で記録されていた正体不明の反応を調べるために、大規模な部隊を動かせる状況ではない。
調査の中心には、黒い反応と深く関わるアレン自身がいる。ケイムは戦線から必要以上の人員を割かず、この五人で向かうことを選んだ。
アレンは歩きながら、右腕を軽く持ち上げた。
肩は動く。肘も問題なく曲がり、前腕に力を入れても、数日前のような痛みはない。
地下施設での戦いのあと、一時は肘から先までまともに動かなくなっていた右腕も、今ではほぼ元の状態まで回復していた。
ただし――以前から残っている右手首から先の恒久的な麻痺。そこに変化はなかった。
それでも、今回新たな麻痺が腕に残らなかっただけで十分だった。
あの戦いでは、刻印を限界まで使い続けなかった。一人で抱え込まず、途中で止まった。
その結果が、今こうして右肘を動かせていることなのかもしれない。
マナは歩調を崩さないまま、アレンの右腕を横目で確かめた。
「……痛みは?」
「ない」
「肘は? 動かしにくくない?」
「普通に動く」
「痺れは? いつもと違う感じとか」
「ないって」
短く答えても、マナはなお腕の動きを追っていた。
「……本当に?」
アレンは少し面倒そうに息を吐いた。
「本当だって。ほら」
そう言って右腕を曲げ、肘を胸元まで持ち上げてみせた。
手首から先は垂れたままだったが、腕そのものは問題なく動いている。それを確認して、マナはようやく頷いた。
「……うん。それなら、いい」
「ディアナにも今朝、見てもらっただろ」
「今朝は今朝。今は今だよ」
「まだ数時間しか経ってないぞ」
「その数時間で無茶するでしょ、アレンは」
「してないだろ、別に」
「……今のところはね」
横を歩いていたドレイヴが、鼻で笑った。
「お前、ほんと信用ねえな」
「ドレイヴも人のこと言えないからね」
「は? 俺もかよ」
「止める側のくせに、気づいたら一緒になって突っ込んでるでしょ」
「敵がいたら殴るだろ。普通に」
「……ほら、そういうところ」
「なんでだよ。何が悪いんだ」
ドレイヴが、どうにも納得いかないという顔をした。
アレンは思わず口元を緩める。こんなやり取りをするのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
だが、前方にある丘が近づくにつれ、その笑みは自然に消えていった。三人の会話も、いつの間にか途切れている。
あの丘を越えれば、見える。
誰もそのことを口にはしなかったが、三人とも分かっていた。
アレンにとっても、マナにとっても、ドレイヴにとっても、その向こうにある場所が何なのか。
前を歩いていたケイムが、振り返らないまま声をかけた。
「もうすぐ着くよ」
「……そうだな」
アレンは前を見たまま答えた。声は、自分で思っていたよりも喉の奥に沈んでいた。
坂は少しずつ急になり、土を踏む足音だけが続いていく。
一歩、また一歩。
視界を塞いでいた丘の稜線が近づくにつれ、アレンは無意識に右手を握ろうとした。もちろん、指は動かない。代わりに左手が腰の剣帯に触れた。
この丘を知っている。
子供の頃から、何度も通った道だ。町を出るときも、町へ帰るときも、丘を越えればいつもグリムフォードがあった。
家々の屋根が並び、煙突から煙が上がり、遠くには鐘楼が見えた。砦の壁が見えれば、もうすぐ町だと分かった。
そんな景色が永遠に続くなどと、考えたことすらなかった。
失われるとは、思っていなかったからだ。
やがてケイムが丘の頂へ出て、そこで足を止めた。続いてディアナも止まり、アレンたちは数歩遅れて、その隣に並ぶ。
丘の向こうが開けた。
誰も、何も言わなかった。
グリムフォードが、そこにあった。
いや。
グリムフォードだったものが、残っていた。
町を囲んでいた家々の多くは屋根を失い、焦げた梁だけが空へ伸びている。崩れた石壁や倒れた柱が散らばり、道は土と灰に埋もれていた。
かつて町の中心へ続いていた大通りも、遠目にはただの灰色の傷のように見える。
そして、動くものがほとんどない。
人の姿も、荷車も、立ち上る煙もない。
風だけが、壊れた町を通り抜けていた。
「……グリムフォードだ」
マナが確かめるように町の名を口にした。その声は、ひどく小さかった。
その声を聞いた途端、アレンの中で、今見えているものとは別の景色が重なった。
魔法学校。つい少し前まで、三人で通っていた校舎。
卒業試験を終えたばかりで、これからどうするのかも決めていなかった。守備隊へ入るのか、魔術師を目指すのか、それとも町で別の仕事を探すのか。
何も決められないまま卒業した。それでも、時間はいくらでもあると思っていた。
明日になれば考えればいい。次の日になれば決めればいい。
そんなふうに思っていた。
今、丘から見える学校は片側が崩れ落ち、校舎だった形が辛うじて分かるだけで、壁の大半はなくなっている。
ドレイヴが何も言わず、その方向を見ていた。
いつもなら、何か一言くらい出るはずだった。つまらない冗談でも、くだらない悪態でも、教師への文句でも。
けれど今は、ただ黙っている。
アレンも何も言わなかった。言葉をかける必要はないと思った。
三人とも、同じ場所を知っている。そして、もう以前と同じ場所には戻れないことも知っている。
アレンは、廃墟となった町並みをゆっくりとたどった。
商店街には建物が並んでいるものの、店としての形を残しているものはほとんどなかった。
人が歩いていた通り。昼時になれば声が重なり、店先から食べ物の匂いが流れてきた場所。
学校帰りに何度も通った。どこかで買い物をするわけでもなく、三人でくだらない話をしながら歩いただけの日もある。
今となっては、どの店がどこだったのかさえ、丘の上からでは判別できなかった。
マナが唇を結ぶ。商店街を追っていた目が、やがてその先の鐘楼で止まった。
鐘楼は残っていた。
正確には、下半分だけ。
塔の上部は大きく崩れ、鐘があったはずの部分は失われている。
あの日の朝、鐘は鳴らなかった。
アレンが眠っている部屋へ駆け込んできたマナは、鐘楼にはもう誰もいないと言った。
いつもなら朝を知らせるはずだった鐘。町の誰もが聞き慣れていた音。
それが鳴らなかったことが、すべての始まりだった。
今も鐘は鳴らない。風だけが、塔の残骸を通り抜けていた。
そして、その先には町の入口に残る砦がある。
砦が視界に入った途端、アレンの胸の奥が鈍く縮んだ。
あの日、三人が最後の希望だと思って目指した場所。
守備兵がいる。砦まで行けば助かる。
そう信じて走った。
けれど、辿り着く前にすべてが終わっていた。
崩れた壁。怪物に覆われた砦。逃げ場のない道。
あの光景は、今でも忘れられない。
現実には、砦の残骸はもう静かだった。
壁に群がる怪物も、悲鳴も、炎もない。
ただ、壊れた石だけが積み重なっている。
「……変わってねえな」
ドレイヴが町を見たまま呟いた。押し殺したような声だった。
「……ううん」
マナが静かに首を振る。
「変わってるよ。……ちゃんと」
「……そうだな」
ドレイヴは息を吐いた。
「分かってる。分かってるけど……変わってねえように見えるんだよな」
アレンにもその感覚はよく分かった。
草は増え、さらに崩れた建物もある。土埃は雨に流され、血の痕もほとんど見えない。
時間は確かに進んでいる。
それなのに、自分の中に残っているあの日の景色だけが時間を止めたまま、目の前の町と重なっている。
「帰ってきた……のかな」
マナが呟いた。
誰に尋ねたわけでもなく、アレンもすぐには答えられなかった。
帰る家はない。家族もいない。
学校も、店も、鐘も、以前の暮らしも。
何ひとつ、元の形では残っていない。
それでも。
「……分からない」
アレンは町から目を離さないまま、少し間を置いた。
「でも……ここが俺たちの町だったことまで、変わるわけじゃないだろ」
マナがアレンを見る。その隣で、ドレイヴも町を見つめたままだった。
アレンは、丘を下り始めた。
「行こう」
ここへ来た目的を思い出す。
過去を懐かしむためではない。
グリムフォード襲撃の三日前から観測されていた黒い反応。その中心にあるのは、自分の家が建っていた土地の地下だった。
そこに何があるのか。なぜ、あの日より前から反応していたのか。
それを確かめるために、ここへ帰ってきた。
「俺たちは……調べに来たんだ」
アレンは自分に言い聞かせるようにそう言って、意識を前へ切り替えた。
「……ああ。そうだったな」
ドレイヴも一度だけ町を振り返ってから、前を向いた。
マナは少し遅れて、張っていた息を吐いた。
「……うん。行こう」
三人はそれ以上何も言わず、町の奥へ向かって歩き出した。
その後を追うように、ケイムとディアナも黙って丘を下り始めた。
◇
丘を下りきるにつれ、グリムフォードがどれほど壊れているのか、はっきりと見えるようになった。
町の外側に広がっていた畑は、すでに境目さえ分からない。倒れた柵を草が覆い、その向こうでは背の高い雑草が伸びている。
建物の焦げた匂いは、もうほとんど残っていなかった。代わりに漂っているのは、湿った土と朽ちた木、それに人の暮らしが途絶えた場所特有の、冷たい埃の匂いだった。
町の入口まで、あと少し。
アレンが左腰の剣に触れたとき、前方を歩いていたケイムが不意に片手を上げた。
「……止まって」
抑えた声だった。その一言だけで、全員の足が止まった。
ドレイヴはすぐさま背中の大剣へ手を伸ばし、マナも杖を構える。ディアナの表情からも、さきほどまで残っていた静かな感傷が消えていた。
アレンは、ケイムが見据える先を追った。
「……何かいるのか?」
ケイムは返事をせず、崩れた正門の奥を見据えている。
崩れた門。その手前の通路の奥から、硬いものが擦れ合う音がした。
ぎ……ぎ、と。
金属ではない。もっと乾いた音だ。
「どうしたの? 何か聞こえた?」
「……ああ。今、聞こえた」
ドレイヴが表情を引き締め、大剣を握り直す。
「ああ、俺にも聞こえた。……前だ」
薄暗い通路の先、崩れかけた石壁の向こうから、何かが姿を現した。
最初に見えたのは錆びた剣。続いて黒ずんだ胸当てが現れ、その上には――肉のない頭蓋があった。
「……骨」
アレンの声音が強張った。
一体。その後ろからもう一体が続き、さらに壁際の暗がりから三体目が姿を現した。
空洞の眼窩に光はない。それでも三体は、まるでこちらを認識しているかのように同時に首を向ける。
ぎちり、と骨が鳴った。
その音に、アレンの脳裏へ雨に濡れたグリムフォードの光景が蘇る。
錆びた剣。空虚な眼窩。そして、雷を受けても止まらなかった骸骨。
「スケルグール……」
マナが呟くと、ドレイヴが一歩前へ出た。
「……三体か」
「待て。いっぺんに行くな」
アレンは左手で剣を抜きながら、三体の位置を見定める。
通路は狭く、三体が横に並べるほどの幅はない。先頭に一体、その後ろに二体が続いていた。
「まとめて相手する必要はない。まず前の一体を引き離す」
「なるほど。いつもの形ってわけだな」
「ああ。ドレイヴが受けてくれ。俺が横に回る。マナは――」
「足を止めればいいんだよね」
「ああ。頼む」
それだけ確認すると、三人はそれぞれの位置へ動いた。
ケイムは門の奥から周囲まで警戒を広げ、ディアナも測定結晶を手に、ほかの反応がないか探っている。二人の意識は、目の前の三体だけでなく、そのさらに奥へ向けられていた。
何度も訓練してきた形だ。それだけで十分だった。
まず一体。確実に数を減らす。
「来るぞ!」
先頭のスケルグールが走り出した。
動きは人間より速くない。だが恐怖を知らず、防御もしない。
骨の脚で石床を蹴り、錆びた剣を頭上へ振り上げた。
「俺が受ける! 来い!」
ドレイヴが踏み込み、大剣と錆びた剣が激突した。
甲高い音とともに火花が散り、ドレイヴの腕が僅かに沈む。
「っ……こいつ、見た目より重いぞ!」
「そのまま押さえてて!」
マナが杖を向ける。
「水よ、針となり、敵を穿て――ヴァッサーナーデル!」
数本の水針がスケルグールの膝へ飛ぶが、骨に命中した水は弾けるだけだった。
「……やっぱり、効きにくい!」
「分かってる! それでいい!」
倒すためじゃない。狙いは関節だ。
水が膝と石床を濡らした瞬間、アレンが横から踏み込む。
剣を胴へ振るう――と見せかけ、その切っ先を敵の剣に引っ掛けた。
「ドレイヴ、今だ! 押せ!」
「おう、任せろ!」
ドレイヴが大剣に力を込め、正面から一気に押し込む。
横からアレンが腕を引くと、二方向から力を受けたスケルグールの上半身が捻れた。
だが、直後。
ばきり、と音がした。
「……っ?」
スケルグールは倒れなかった。
自分の肩関節を外したまま、腕だけを異様な角度へ回し、錆びた刃をアレンの顔へ迫らせる。
「アレン!」
身を反らすと、刃が鼻先を掠めた。
「こいつ……!」
人間の関節ならあり得ない動きだった。痛みもなく、壊れることすら構わず動く。
作戦どおりにはいかない。
「離れろ、アレン!」
背後からドレイヴが叫ぶ。アレンは迷わず剣を手放した。
「なっ――!?」
剣はスケルグールの腕に引っ掛かったまま残り、アレンは空いた左手を伸ばして敵の胸当てを掴んだ。
「こっちだ……!」
全体重をかけて引くと、濡れた石床に踏み込んでいたスケルグールの足が滑り、初めて深く体勢を崩した。
「ドレイヴ、今だ!」
「分かってる!」
大剣が横薙ぎに振り抜かれる。
狙ったのは頭ではなく、支えを失った脚だった。
鈍い破砕音とともに膝から下の骨がまとめて砕け、スケルグールが横倒しになる。その隙に、アレンは敵の腕に残っていた自分の剣を引き抜いた。
「これで……終わりだ!」
切っ先を頭蓋の眼窩へ突き込む。刃は奥まで入り、後頭部を突き破った。
全身の骨が一度激しく震え――力を失う。
倒れた拍子に胸当てがずれ、その奥で黒い魔力の塊が一度だけ脈打った。だが、それもすぐにほどけるように消えていった。
「一体、倒した!」
マナが告げるが、喜んでいる時間はなかった。
「待って、次が来る!」
二体目が、すでに目前まで迫っていた。
「よし、同じ形で――」
ドレイヴが前へ出ようとする。
「いや、待て! それじゃ駄目だ!」
アレンが叫んだ。
二体目のスケルグールは剣ではなく、両手で短柄の斧を構えている。しかも、一体目より一回り大きかった。
「こいつは受けるな! まともに食らうぞ!」
「なら、どうすんだ!」
「避けろ! 今はそれでいい!」
スケルグールが斧を振り下ろすと、ドレイヴは反射的に横へ身を投げた。
直後、轟音とともに石床が砕けた。
「うおっ!?」
斧が床に食い込み、石片が激しく飛び散る。
「まともに受けるな! 剣ごと持ってかれるぞ!」
「そういうのは先に言え!」
「今ので分かったんだよ!」
スケルグールが、床に食い込んだ斧を引き抜こうとする。
だが、刃は深く食い込みすぎていた。そのせいで、わずかに動きが止まる。
アレンはそこへ踏み込んだ。
しかし――。
「アレン、右!」
マナの鋭い警告に首を振ると、三体目が二体目の脇を抜け、アレンへ迫っていた。
「くそっ……もう来たのか!」
一体ずつ引き離して倒す――そのはずだったが、完全に崩れた。
三体目の剣がアレンへ突き出される。
避ければ、二体目を仕留める機会を失う。
「マナ、頼む!」
「うん、分かってる!」
説明するまでもなく、マナはすぐに杖を横へ振った。
「水よ、壁となれ――ヴェレンヴァル!」
アレンと三体目の間に水の壁が立ち上がり、スケルグールの剣がその水膜を突き破った。
止めきれない。だが、勢いは鈍っている。
その隙にアレンは身体を沈め、剣の下を潜り抜けた。
「ドレイヴ! 二体目はまだ倒すな!」
「ああ!? どういうことだ!」
「斧を振らせろ! そいつを使う!」
ドレイヴは一拍だけ動きを止めたが、すぐにその意図を察した。
「……なるほどな!」
ドレイヴは二体目の正面へ回り込み、その背後に三体目が重なる位置を取った。
「おら、こっちだ! 骨野郎!」
挑発するように大剣を振り上げると、スケルグールは斧を引き抜き、その刃先をドレイヴへ向けた。
斧が振り下ろされる。
ドレイヴは寸前で横へ跳んだ。斧の軌道上に残ったのは――三体目。
がんっ、と鈍い音が響き、二体目の斧が三体目の肩口に叩き込まれる。
骨が砕け、鎖骨と肩甲骨がまとめて崩れ、片腕が落ちた。
「今だ、ドレイヴ!」
アレンが叫ぶが、ドレイヴは三体目へ向かわなかった。
「そっちは任せた! アレン!」
そう言い残し、二体目へ突っ込む。
「俺はこいつをやる!」
勢いのまま大剣を振るうと、二体目のスケルグールが斧で受け止めた。
金属同士が、一度、二度、三度と激突する。
「ったく……舐めんなよ!」
ドレイヴが歯を食いしばる。
「力比べで、俺に勝てると思うな!」
真正面から、大剣ごと力任せに押し込む。
スケルグールの踵が石床を削りながら、じりじりと後ろへ下がっていく。
その先には、先ほど自ら砕いた床の亀裂があった。
「――そこだ!」
ドレイヴが一気に大剣を跳ね上げると、斧を持つ腕もつられて持ち上がった。
同時に、足元の亀裂にスケルグールの片脚が落ち込み、骨の身体がぐらりと傾く。
「うおおおおっ!」
大剣の柄頭が胸当ての中央に叩き込まれ、スケルグールの身体が勢いよく後方へ倒れた。
だが、片脚は亀裂に挟まったままだ。上半身だけが床へ落ち、腰骨が不自然に捻じれる。
そこへ、ドレイヴが大剣を逆手に持ち直した。
「そこで寝てろ!」
刃を頭蓋へ叩き落とすと、それは石床との間で砕け散った。
「よし、二体目!」
ドレイヴがすぐに顔を上げる。
「アレン、そっちは!」
「分かってる! 任せろ!」
残る三体目は、片腕を失ってなお止まっていなかった。
落ちた腕にも構わず、残された手で剣を握り直し、アレンへ向かってくる。
アレンは左手一本で剣を構えた。
正面から斬り合えば不利だ。こちらは片手で、相手には痛みがない。しかも、首を落とせば終わるという保証もない。
スケルグールが剣を振り上げる。
アレンは一歩下がり、さらにもう一歩、距離を取った。
「アレン、後ろ!」
マナが叫ぶ。
だが、背後は壁で、もう逃げ場はない。
スケルグールが一気に距離を詰めてくる。
「……ああ。分かってる」
アレンは敵から意識を外さず、静かに答えた。
下がったのは、追い詰められたからではない。ここまで来させたかったのだ。
足元には、さっき一体目が落とした錆びた剣が転がっている。
スケルグールが踏み込んだ瞬間、アレンは自分の剣を投げた。
「なっ――」
ドレイヴが声を漏らした。
投げた剣は敵ではなく、壁を狙っていた。刃が石壁に弾かれ、甲高い音を立てる。
跳ね返った剣は、スケルグールの横へ落ちた。
甲高い反響につられ、スケルグールの頭蓋がわずかにそちらへ振れる。
ほんのわずかな隙。それで十分だった。
アレンは身を沈め、床に落ちた錆びた剣を左手で拾い上げると、敵の足元へ滑らせた。
スケルグールが踏み込み、骨の足が錆びた刀身の上を滑る。
上半身がぐらりと傾ぐ。だが、倒れない。
「まだか!」
アレンは敵の横を駆け抜けざま、落ちていた自分の剣を拾い上げ、マナの脇を抜ける。
片腕を失ったスケルグールは、無理やり身体を捻りながら、それでもなお追ってきた。
そこへ。
「マナ、今だ!」
「うん、待ってた!」
マナが鋭く杖を振った。
「水よ、三重の渦となり、我を守れ――ヴェッサー・トリブス!」
マナを中心に三重の水流が立ち上がる。アレンを追って踏み込んできたスケルグールの両脚が、その外縁の渦へ呑み込まれた。
骨を砕くほどの威力はない。だが、片腕を失い、片足を滑らせ、体勢を崩している今なら十分だった。
渦に両脚をすくわれ、スケルグールの身体が傾いた。
「ドレイヴ、頼む!」
「おう、任せろ!」
待ち構えていたドレイヴが、大剣を横へ構える。
斬るためではない。剣の腹を正面へ向けていた。
渾身の一撃が叩き込まれ、巨大な剣の腹がスケルグールの胴体に直撃した。
骨の身体が吹き飛ぶ。
その向かった先には――アレンが立っていた。
左手には、拾い直した自分の剣。
「これで――!」
飛んできたスケルグールへ踏み込む。
狙うのは頭でも、首でもない。
一体目を倒したときに見えた。胸当ての奥、骨の中心に絡みついていた黒い魔力の塊。
頭蓋を破壊したあと、それも消えた。
なら――あれを断っても、止められるかもしれない。
「終わりだ!」
剣を突き出すと、肋骨の隙間を抜けた刃が、胸の奥にある黒い塊を貫いた。
スケルグールの全身が硬直する。
続いて、黒い魔力が亀裂のように胸から全身へ走った。
ぱき、と乾いた音がした。
次の瞬間、全身を繋いでいた力が消える。
頭蓋も、肋骨も、腕も、脚も。
すべての骨が空中でばらばらになり、石床へ降り注いだ。
乾いた音が、しばらく通路に響く。
やがて、静かになった。
「……三体」
マナが数えるように呟いた。
アレンは剣を構えたまま、床に散らばった骨を見つめる。
動く気配はなく、先ほど胸の奥に見えた黒い魔力の塊も、散らばった骨のどこにも残っていなかった。
「……終わった、か?」
ドレイヴが警戒を解ききらないまま、大剣を肩に担いだ。
「たぶんな」
「おい、たぶんって何だよ」
「こいつら、普通の生き物じゃないだろ。念のためだ」
「……まあ、そうだな」
三人とも、それきりしばらく散らばった骨を警戒し続けた。
やがてマナが張り詰めていた息をふっと吐いた。
「でも……最初に決めた作戦、途中から全然違うことになったね」
「二体目が来たあたりで、もう崩れてたからな」
アレンが答える。
「そりゃ、お前が急に『倒すな』なんて言い出すからだろ」
「じゃあ、あのまま倒せたのか?」
「……いや。あの時点じゃ無理だったけどよ」
「なら、いいだろ」
「そういう言い方が腹立つんだよ、お前は」
マナが思わず笑った。
「でも……三体とも、同じようには動かなかったね」
「ああ」
アレンは、床に散った骨を見下ろした。
一体目は関節を壊しても止まらず、二体目は力で押し切ろうとしてきた。三体目に至っては、片腕を失ってもなお追ってきた。
同じ怪物でも、同じ状況にはならない。
「作戦って……崩れたときのためにもあるのかもな」
アレンが床に散らばった骨を見ながら呟くと、ドレイヴが眉を上げた。
「なんだよ、急に」
「崩れたときに、何だけは守るのか。……それを決めとくために」
「……へえ。珍しく、それっぽいこと言うじゃねえか」
「珍しくは余計だ」
マナは二人のやり取りに口元を緩めたが、すぐに通路の奥を見据えた。
「……でも、まだ先があるよ」
その一言で笑みが消え、三人の表情も同時に引き締まった。
アレンは左手の剣を握り直す。
「ああ。……行こう」
床には、三体分の骨が散らばっている。
けれど、通路のさらに奥からは――まだ何の音も聞こえてこない。それがかえって、不気味だった。
三人は、最初に決めた陣形よりも僅かに互いの距離を近づけ、通路の奥へ進もうとした。
「待って。……少しだけ確認したい」
振り返ったときには、ディアナはすでに一体目のスケルグールのそばへしゃがみ込み、杖の先に取りつけた測定用の結晶を胸骨の近くへ静かに寄せていた。
「どうしたの?」
マナがそばまで近づく。
「この個体、少し調べておくわ」
ディアナは結晶の揺らぎを追いながら答えた。
淡い光が、わずかに揺れる。
続いて二体目、そして三体目と、同じように測っていく。
ケイムもディアナの手元を覗き込むように歩み寄った。
「何か引っかかる?」
「ええ。……少し」
ディアナの声音が慎重な響きに変わり、その様子が気になったアレンも、倒れたスケルグールのそばまで近づいた。
「こいつら、襲撃のときから残ってた個体じゃないのか?」
「その可能性もあるわ。今、それを確かめてるところ」
ディアナはそう答え、測定結晶を顔の前まで持ち上げ、その揺らぎを読み取った。
その眉間に、わずかな緊張が走った。
驚いたというより、予想していなかった結果を頭の中で組み直しているような顔だった。
「それで、どうなんだ?」
ドレイヴが待ちきれないように聞くと、ディアナは結晶の光を読みながら、わずかに眉を寄せた。
「……違うわ」
「違うって?」
「この残留反応は、襲撃の日からここに残り続けていたものじゃない」
アレンは足元に散らばる骨を見下ろした。
「じゃあ、こいつら……」
その先を促すように、ディアナは黙って三体の残骸を順に確かめた。
最後にもう一度だけ結晶の反応を照らし合わせ、それから言った。
「この三体……最近になって、ここへ現れたものよ」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
風が通り抜ける。
崩れ落ちた正門の向こうには、誰の姿もない町が続いていた。
「最近……って?」
アレンが聞き返した。
「ええ」
ディアナは測定結晶を手にしたまま立ち上がる。
「異界側の残留反応が、新しすぎるの。襲撃の日から残り続けた反応とは一致しない」
マナが顔を上げた。
「でも……スケルグールって――」
「異界と現世の狭間に現れる異界種だ」
その言葉を引き取ったのは、ケイムだった。いつもの軽さは、その声から消えている。
ドレイヴは、無人の町を見やった。
「……待てよ。それって、つまり」
最後まで言わなかった。言う必要もない。
全員、同じことに気づいていた。
グリムフォードの襲撃は、すでに過去の出来事だ。
あの日に出現した怪物も、壊された家も、崩れた砦も。この町に残されているものはすべて、あの日から取り残された残骸なのだと思っていた。
けれど、違う。
今倒した三体は、最近になって現れた。
アレンの意識は、壊れた正門の向こうへ戻った。
無人の通り。崩れた家々。遠くに残る鐘楼。
その向こうには、自分の家が建っていた土地がある。
そして、その地下では、襲撃前から黒い反応が観測されていた。
風が吹き抜ける。
鐘は鳴らず、人の声もしない。
すべてが終わったように見えるのに、ここでは今も何かが続いている。
アレンは町から目を離せなかった。
帰ってきた場所。
すべてが終わったと思っていた場所。
だが――グリムフォードでは、今も異界種が現れている。




