第38話『黒き残響』
ユリスが最初に呼んだのは、妹の名前だった。
「……リエナ」
掠れた声が、静かな病室へ落ちる。その声に寝台の脇に伏していたリエナの肩が震えた。
顔を上げた彼女の目は、赤く腫れている。眠っていたのか、それとも長いあいだ泣き続けていたのか、ユリスには判断がつかなかった。
「……お兄ちゃん?」
ユリスは、目の前の妹をぼんやりと確かめた。
目の前にいるのが妹のリエナだということは分かる。
けれど、なぜ彼女がここにいるのか。自分はなぜ寝台に横たわっているのか。天井に並ぶ白い魔法灯を見上げても、ここがどこなのか、すぐには思い出せなかった。
「ここ……研究棟じゃ、ないのか?」
リエナの表情が、一瞬だけ固まった。
「……違うよ」
「じゃあ、ここは……」
リエナはひと呼吸ためらってから答える。
「中央医療塔だよ。……ルミノヴァの」
「……ルミノヴァ」
ユリスは確かめるように、その名を小さく繰り返した。
知っている。当然、知っているはずの名前だ。
それなのに、一度頭の中を探らなければ、その場所が浮かんでこない。
首都。中央医療塔。
なぜ、自分はそこにいるのか。
記憶を辿ろうとした瞬間、頭の奥に鈍い痛みが走った。
「っ……」
「お兄ちゃん!」
リエナが弾かれたように立ち上がり、その拍子に椅子が床を擦って乾いた音を立てた。
「動かないで。……今、先生呼んでくるから」
「……待て」
ユリスは反射的に左手を伸ばしたが、その指はリエナの袖へ届く前に力を失った。
手そのものは動く。けれど、どこかがおかしい。
「……なんだ、これ」
左手を持ち上げて掌を見る。傷もなく、包帯も巻かれていない。
試しに寝具を撫でると、柔らかな感触が伝わったかと思えば、ふっと途切れる。もう少し位置を変えると、また布の感触が戻ってきた。
「手が……」
リエナは言いかけて、唇を噛んだ。
「まだ……感覚が戻ってないところがあるって」
「……戻ってない?」
ユリスは小さく聞き返したが、その言葉が何を意味するのか理解するまでにも時間がかかった。
右手で左手を掴む。指は曲がり、動かすこともできる。
だが、左手の一部では、右手に掴まれている感覚さえ消えていた。
「俺は……何してたんだ?」
リエナは答えず、ユリスは眉根を寄せた。
「じゃあ……実験は? どうなった?」
今度は、リエナの瞳に迷いが走った。
その反応を見て、ユリスは自分の記憶を探る。
研究施設へ行き、術式の説明を受けた。同意書に名前を書き寝台に横になる。
やがて身体へ魔力が流れ込んだ。
そして――。
「……そのあとが、ない」
思わず口に出していたが、記憶の断片さえ見つからない。
暗闇だったわけでも、眠っていた感覚でもない。
まるで紙の途中だけを刃物で切り取られたように、そこだけが存在していなかった。
「俺……いつから、ここにいる?」
リエナは少し間を置いて、ここへ運ばれてから今日までに経った時間を告げた。
「……そんなに経ってるのか?」
聞かされた時間と、自分の感覚がどうしても噛み合わない。
「でも……昨日、俺は――」
そこまで言って、ユリスの言葉が止まった。
昨日、自分は何をしていたのか。そもそも今日は何日なのか。
思い出せない。
その事実に気づいた瞬間、ユリスの呼吸が浅くなった。
「お兄ちゃん」
リエナが寝台のそばへ戻ってきた。
「大丈夫。先生も言ってた。今は……分からなくてもいいって」
「でも――」
「無理に思い出そうとしないでって。だから、今はいいの」
「……リエナ」
リエナはまっすぐ兄を見た。
「わたしは……ここにいるから」
その一言で、ユリスはようやく妹の顔を正面から見ることができた。
その頬には、まだ涙の跡が残っている。
自分はまた、この顔をさせたのか。
そう思ったとき、病室の扉が静かに開き、マナが治療師を伴って入ってきた。
「あ……」
目を覚ましているユリスの姿を見て、マナは足を止めた。
ほんの一瞬、張り詰めていたものがほどけたように、その頬が緩んだ。
「よかった……目、覚めたんだね」
「君は……」
「あ、そっか。……私、マナ。マナだよ」
「……いや、覚えてる」
ユリスがそう答えると、マナの表情に一瞬、驚きが浮かんだ。
ユリスは記憶を辿る。
覚えている。アレンと一緒にいた少女で、水属性の魔法を使い自分を止めようとしていた。
そこまでは思い出せる。
けれど、その先がない。
「アレンたちは……?」
「大丈夫。みんな、ちゃんと戻ってるよ」
「……戻った?」
ユリスが聞き返すと、マナは何か言いかけたが、その前に治療師が小さく首を振った。
「まずは検査をしましょう」
ユリスは頷き、まずは簡単な問いに答えていった。
自分の名前。妹の名前。ルミノヴァという都市名。そして、自分が研究に参加したこと。
そこまでは答えられた。
しかし日付を尋ねられると、実験に入る以前の日を答えてしまった。場所を訊かれたときも、一度は中央医療塔だと聞いたばかりなのに、研究施設の名を口にしかける。
さらに、魔力測定具を胸元へ当てられたときには、場がしんと静まった。
水晶の内部には、本来なら魔力の量に応じた光が灯るはずだった。
だが、ほとんど光らない。
「……壊れてるんじゃないのか」
ユリスがそう言うと、治療師は測定具を交換した。
二つ目も結果は同じで、水晶に浮かぶのはごく淡い明滅だけだった。魔力がないわけではないが、以前とは比べものにならないほど弱い。
ユリスは黙り込み、寝台脇に置かれた消灯中の魔法灯に目を止めた。
生活魔法。刻写術式を受けてから使えるようになった、ごく簡単なものだ。
刻写術式があれば、自分にもできることが増える。身体を動かせる。働ける。妹を守れる。
そう思ったからこそ、そのために――。
ユリスは右手を魔法灯へ向けた。
「お兄ちゃん……?」
「大丈夫。ちょっと、試してみるだけだ」
ユリスは意識を集中させ、頭の中に術式を思い浮かべた。
以前なら、考えるより先に身体の奥を何かが走った。自分自身のものとは違う、借り物の流れ。それを通せば、灯りへ魔力を送る程度のことはできた。
だが今は、何も起こらない。魔法灯は暗いままだった。
もう一度試しても、やはり何も起こらない。
三度目には、術式を組み上げる途中で、その形そのものが崩れた。
ユリスは手を下ろした。
「……使えない、のか」
誰も答えなかった。
けれど、ユリスにはその沈黙だけで十分だった。
ユリスの肩から、ゆっくりと力が抜けていく。
「俺は……」
言葉が続かない。しばらくして、ユリスはリエナのほうを見た。
「俺は、お前のために――」
「……わたしのためだったって、言わないで」
リエナは、ユリスの言葉を最後まで言わせず、その声を重ねた。
ユリスが言葉を止める。
リエナは泣いていたが、それでも言葉を引っ込めなかった。
「わたしのせいだった、なんて言ったら……怒るから」
「そんなこと言ってないだろ」
「同じだよ」
「違う。俺はただ、お前が――」
「お兄ちゃんが自分で決めたことなら……失敗したって、わたしも一緒に考える」
リエナは、逃がすまいとするように兄を見据えた。
涙も拭わず、声も震えていた。それでも兄から目を逸らさない。
「でも、わたしの人生を理由にして、お兄ちゃんの命を捨てないで」
ユリスの口が閉じた。
反論しようとしたのだろう。けれど、言葉は出てこなかった。
守りたかった。リエナが自分のせいで苦労しないようにしたかった。
自分に力さえあれば。身体がもっと動き、魔法が使えて、働くことができれば。
だからこそ、危険を承知で実験に参加した。それは自分で決めたことだと、そう思っていた。
だが、自分が死んだら。あるいは、二度と目を覚まさなかったら。
その理由を「リエナのため」と残してしまえば、妹は一生、それを背負うことになる。
自分が守るつもりだった相手に、自分の死の責任を渡すところだった。
「……俺」
ユリスの喉が、小さく動いた。
「そんなつもりじゃ……なかったんだ」
「うん」
「お前に、何か背負わせるつもりなんて――」
「うん。分かってる」
リエナは、ただ静かに頷いた。
「でも……そうなるところだったんだよ」
ユリスは何も言えず、左手を見下ろした。
感覚の抜け落ちた手。ほとんど感じられなくなった魔力。消えた記憶。そして、もう使えない魔法。
元へ戻ったわけではない。これからも、完全には戻らないかもしれない。
それでも、自分は生きている。
その事実だけが、重かった。
「……悪かった」
リエナの表情が曇ったのを見て、ユリスは一度言葉を切った。それでも続きを口にした。
「お前のためにやったことを……謝ってるんじゃない」
何をどう言えばいいのか探すように、短く息を吐く。
「お前に何も聞かないまま……お前まで巻き込むような決め方をした。それを謝ってる」
リエナは何も言わず、ただ寝台の上に置かれていた兄の左手に自分の手を重ねた。
「ここ……分かる?」
ユリスは少し間を置いてから、頷いた。
「……ああ。分かる」
「じゃあ……こっちは?」
リエナが触れる位置を少し変えると、今度は何も感じなかった。
「……分からない」
「そっか」
リエナはそれ以上何も言わず、ゆっくりと手を動かしていく。
「じゃあ……ここは?」
「……分かる」
その答えを聞いて、リエナはようやく少しだけ笑った。
「うん。じゃあ……分かるところからでいいよ」
ユリスは重ねられた手から目を離せないまま何も言わず、やがて、妹の手を握り返せる場所だけを探すように、かすかに指を曲げた。
◇
エドガーが逮捕されたのは、地下施設から搬出された直後だった。
救出に協力したことも、最後まで施設に残って術式の停止手順を伝えたことも、事実として軍務局へ報告されている。それでも、彼が拘束されることに異論は出なかった。
軍務局の聴取室――石造りの狭い部屋で、エドガーは机を挟んで軍務局員と向かい合っていた。両手には、拘束用の術式環が嵌められている。
少し離れた場所にはケイムとディアナが立ち、机の上には地下施設から回収された大量の研究記録が積み重なっていた。
参加者一覧。同意書。治療経過。刻写術式の実験記録。そして、救出された患者たちの状態をまとめた報告書。
「最後の救助活動については、処分を判断するうえで考慮される」
軍務局員が、書類を追いながら告げた。
「君の協力がなければ、救出できなかった者がいた。それも事実だ」
エドガーは黙って聞いていた。
「最終的な処分は、今後の審理で決まる。ただ、その点については情状として――」
「その前に、一つお願いがあります」
エドガーが静かに言葉を遮ると、軍務局員は顔を上げた。
「……何だ?」
「被害を受けた全員に、私から説明する場を設けてください」
「説明……?」
「研究の目的と危険性。実際に起きた障害。それから――私が、どこまで知った上で研究を続けたのか」
エドガーは、机の端に置かれた同意書に視線を留めた。
「……同意書は取りました」
声は低かった。
「危険についても、説明した」
誰も口を挟まなかった。
「それでも私は……彼らが、本当の意味では断れないと知っていた」
ディアナの表情がこわばった。エドガーは同意書から目を離さず続けた。
「身体が動かない者。魔力障害で職を失った者。家族を養えなくなった者……治療法はないと告げられた者」
そこで初めて、エドガーは顔を上げた。
「そんな彼らに、私は言ったんです。危険はあります。ですが、身体が動くようになる可能性はあると」
一度、言葉を切る。
「形式の上では、断ることもできた。選ぶのは本人だと……そういうことになっていた。けれど」
「……けれど?」
ケイムが先を促すと、エドガーは彼を見た。
「私には、分かっていたんです。その言葉を聞かされたあとで……いったい何人が、本当にやりませんと言えるのか」
ケイムは答えなかった。
「それでも私は……本人が選んだんだと、そう呼んだ」
エドガーの声に自嘲の色はなく、ただ事実だけを並べていた。
「本人が望んだ。危険も承知していた。署名もある。……だから、続けていいんだと」
「研究そのものが、間違っていたと考えているのか?」
軍務局員が尋ねると、エドガーはしばらく答えなかった。
「……いいえ」
ディアナが探るように目を細めた。
「傷ついた神経を魔力で代替する研究も、失われた身体機能を取り戻す研究も必要です。それは……今でも変わりません」
「では、自分の行いも正しかったと?」
「それは違います」
返事に迷いはなかった。
「研究が必要であることと、私が正しかったことは……同じではない」
エドガーは再び、机の上の同意書へ視線を戻した。
「私は……自分の研究を、正義と呼びすぎたんです」
その声には、かつてのような確信はなかった。
「結果として誰かを救えるなら……その途中で傷つく者がいても、許される。そう考えていました。本人が選んだのなら、その責任まで私が負う必要はない、と」
術式環の嵌められた手が、ゆっくりと研究記録の束へ伸びる。
「これは、刻写術式によって生じた損傷の一覧です」
続けて、別の束に手を置いた。
「こちらは神経障害が起きた条件。記憶欠損と魔力波形の相関。それから、中断後に回復した機能と……戻らなかった機能」
さらに一冊を取り出す。
「治療へ転用できる可能性がある情報は、すべて分けてあります」
軍務局員は一番上の報告書を指先で引き寄せた。
「……これを提出すれば、研究の全容まで立証されるぞ」
「承知しています」
「君自身の罪を重くする資料になるかもしれない」
「それも、承知しています」
「それでも出すのか?」
エドガーは一度だけ目を閉じた。
「……彼らの身体に残ったものまで、私の審理が終わるのを待たせる理由にはなりません」
ケイムは腕を組んだまま聞いていた。いつもの軽い笑みは消えている。
「……減刑の材料にするつもりは?」
「それをどう判断するかは……私が決めることではないでしょう」
「まあ、それはそうだね」
「ただ――」
エドガーが言葉を継ぐ。
「説明だけは、私自身にさせてください」
軍務局員は何も答えなかった。
「許してもらいたいわけではありません」
エドガーの声は静かだった。
「許すのか、許さないのか。それを決めるためにも……彼らには、何があったのかを知る権利がある」
やがて、軍務局員は記録の束を手元へ引き寄せた。
「……要望として記録しておく」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃない。君は、そういう立場ではないだろう」
「……ええ。そうですね」
エドガーは、それ以上何も言わなかった。
部屋を出る前、ディアナは一度だけ振り返る。
そこにいたのは、研究者としての誇りを失った男ではない。だが、自分の研究を正義と呼び、その言葉の陰に隠れていた男でも、もうなかった。
◇
地下施設の事件から数日後、黒い結晶の破片は中央医療塔ではなく、魔法院の解析室へ運ばれていた。
透明な封印容器の中には、光を反射しない黒い破片が静かに収められている。
アレンはその前に立ち、黒い手袋に覆われた右手を、無意識に身体の後ろへ引いていた。
「そんなに近づかなくていいわ」
それに気づいたディアナが横目で確かめた。
「今日は共鳴実験をするつもりはないから」
「……分かってる」
「なら、もう少し離れていてもいいのよ」
「そこまで怖がってないって」
「そう」
「……なんだよ、その顔」
「別に。何も言ってないでしょう」
隣では、ドレイヴが腕を組んだまま様子を見ている。
「怖いなら怖いでいいだろ。俺なんか、あれが急に動いたら机ごと叩き割るつもりだぞ」
「解析室ごと壊すなよ」
「壊すのは机だけだ」
「その机、高いんだよ」
ケイムが資料から顔も上げずに口を挟んだ。
「君の給金じゃ、ちょっと弁償できないくらいにはねぇ」
「なんでお前が値段知ってんだよ」
「私が申請したからさ」
「……ねえ。今、本当にその話する?」
マナの呆れた声に、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
だが、ディアナが水晶板を持ち上げた途端、全員の意識が再びそちらへ戻った。
「結論から話すわ」
ディアナが水晶板を見下ろすと、そこにはいくつもの波形が重なって浮かんでいた。
紫と青の波形。その中に、一本だけ黒い線が混じっている。
「まず……私たちが刻写術式について考えていた前提。その一つが間違っていた」
「前提?」
アレンが眉を寄せる。
「術式が、何を記録していたのか……そこよ」
ディアナは紫色の波形を指した。
「これは、雷鳴の刻印を通常発動させたときの記録」
続いて、黒い線へ指先を移す。
「それで、こっちが……地下施設の刻写術式に保存されていた波形」
アレンは二つを見比べた。
「……違うな」
細かな理屈までは分からなくても、それだけは見れば分かった。
形が似ている部分はあるが、同じものではない。
「そう。刻写術式は、刻印の力そのものを再現していたわけじゃない」
ディアナがそう言うと、ケイムが別の水晶板を机に置いた。
「じゃあ、いったい何を写していたのか。問題はそこだったんだ」
水晶板に新たな黒い波形が浮かび上がり、二本の黒い線がゆっくりと重なっていく。
その形は、ほとんど同じだった。
アレンは無意識に唾を飲み込んだ。
「これ……どこで記録したんだ?」
「アルカナリウムだよ」
ケイムの返答は短かった。
「君の刻印が……あの黒い扉と共鳴したときさ」
アレンの頭に、あの巨大な扉が蘇る。
黒い金属と無数の鎖。そして、その奥から自分を呼んだ声。
――鍵の一つが、戻った。
「記録されていたのは、君が放った雷そのものじゃない」
ケイムが黒い波形を指先でなぞる。
「君の刻印があの扉に触れたとき……向こう側から返ってきた反応なんだ」
「……向こう側」
マナの声から、いつもの柔らかさが消えた。
「じゃあ、それを……人の身体に流してたってこと?」
「結果だけ見れば、そうなるね」
「待ってくれ」
アレンが二人を見た。
「それなら……俺の中に残ってる、あの黒いやつも――」
「そこが二つ目よ」
ディアナが話を引き取る。
「あなたの体内に残っている黒い反応を、改めて分離して解析したの」
黒い手袋の下で、右手は何も感じない。それは、もういつものことだった。
地下施設で肘近くまで広がった麻痺は引いたものの、手首から先は変わらない。感覚のない指と、刻印を使わなければ動かない手。
そして、そのさらに奥には、自分でも感じ取れない黒いものがある。
「雷鳴の刻印が変質したものではなかったわ」
ディアナがはっきりと告げる。
「少なくとも……あなたの内側で、新しく生まれた反応ではない」
アレンは一瞬、その意味を理解できなかった。
「……俺の中から出てきたものじゃない、ってことか?」
「ええ」
マナがアレンを見ると、その表情に一瞬だけ安堵がにじんだ。
だが、すぐにその先へ思い至ったのか、顔をこわばらせた。
「じゃあ……それ、どこから来たの?」
ディアナは答える代わりに、水晶板に一本の線を引いた。
片方に人間、もう片方に巨大な円形術式。その二つを一本の細い線がつないでいる。
「アルカナリウムで確認された、三十三の刻印」
ディアナが水晶板に触れると、円周上に三十三の小さな点が灯った。
「以前、私たちは……刻印そのものが、巨大な封印術式へ接続されている可能性があると考えた」
「鍵、だったよな」
ドレイヴが言う。
「ええ。ただ……今思えば、“鍵”だけでは少し単純すぎた」
ディアナは人間側を示す点に指を置いた。
「刻印は鍵であると同時に……接続器でもある」
「接続……?」
「刻印者と封印術式をつなぐものよ」
そこでケイムが口を開いた。
「それにねぇ。通路っていうのは、片方からしか通れないとは限らない」
誰も口を開かなくなり、アレンは気づけば自分の右手を見下ろしていた。
「……じゃあ、俺が刻印を使うたびに?」
「そこまでは、まだ言えないわ」
ディアナがすぐに首を振る。
「刻印を使うこと自体が通路を開くのか。それとも、特定の条件が揃ったときだけ接続が強くなるのか……まだ分かっていない」
「でも……つながってはいるんだな」
「ええ」
アレンは答えを飲み込むように黙ったあと、もう一度口を開いた。
「……今も?」
「黒い反応が残っている以上、完全に切れているとは考えないほうがいいわね」
その言葉に、マナの手が無意識にアレンの袖に触れた。
引き留めるためではなく、そこにいることを確かめるような触れ方だった。
「じゃあ……あの扉が、俺の中にあるってことなのか?」
「違うわ」
ディアナは間を置かずに答え、アレンが顔を上げると、その視線を正面から受け止めた。
「あなたの中に、あの扉があるわけじゃない」
誤解を残さないように、言葉を区切る。
「つながっているのは、あなた自身じゃない。……あなたの刻印よ」
そして続ける。
「その刻印が、扉のある場所につながっているの」
アレンは何も言えなかった。
違いは大きい。だが、それで安心できる話でもない。
自分が扉そのものではなく、黒いものを生み出しているわけでもない。それでも、自分と扉との間には確かに道がある。
そして向こう側にいる何かは、その道をこちらへ向かって使うことができるかもしれない。
「……閉じられるのか?」
アレンが訊く。
「今は、まだ分からない」
ディアナは誤魔化さなかった。
「でも……前よりは進んでるわ」
「どこがだよ」
「何を閉じればいいのか。それが、少しずつ分かってきた」
ケイムが口元だけで笑う。
「敵が君の中にいると思っていたなら、君自身をどうにかするしかなかった。でも……外から通路を使っているのなら、話は変わる」
ケイムは机上の水晶板を指先で軽く叩いた。
「調べるべきなのは、君じゃない。通路と――その行き先だ」
「……行き先」
アレンが呟いた瞬間、ケイムの口元から笑みが消えた。
「ああ」
彼は机の端に置かれていた細長い金属板を手に取る。
「ちょうどねぇ……それらしいものが出てきたんだ」
金属板は、エドガーがギデオンから受け取った古代記録の複製だった。
表面には無数の細い刻線が走り、一定の間隔で小さな数字と記号が並んでいる。
ケイムがそこへ魔力を流すと、刻線の一部が淡く輝き、解析台の上に地図が投影された。
「最初はね、術式の構築記録だと思ってたんだけど」
ケイムが言う。
「黒い結晶の観測記録と照らしてみたら……どうも、別物らしいって分かった」
地図の上に、ひとつ目の光点が灯る。
「アルカナリウム」
続いて、二つ目。
「ファランディア近郊」
そして、三つ目。
「ルミノヴァ」
アレンたちがこれまで辿ってきた場所がひとつずつ地図の上に浮かび上がっていく。
「……これ全部、黒い反応が記録された場所なのか?」
「そう見ていいと思う」
ケイムはそう答えると、次の記録へ切り替えた。
四つ目の光が灯る。
アレンはそれを見るより先に、地図の形から気づいていた。
胸の奥が冷たくなる。
「……嘘だろ」
アレンの声が喉に引っかかると、マナも投影から目を離せないまま、小さくその名を口にした。
「……グリムフォード」
ドレイヴからも、いつもの軽口は出なかった。
焼け落ちた家、血に染まった大通り、崩れた砦。雨の中を歩いていた骸骨に、空から降りてきた光る者。
そのすべてが始まった町。
「でも……」
アレンは、投影された記録から目を離さなかった。
「俺の刻印が目覚めたのは、町が襲われた日だろ」
「そうだね」
「だったら……この反応だって、そのときに記録されたんじゃないのか?」
ケイムはすぐには答えず、代わりに記録時刻の表示を拡大した。
「……違うわ」
ディアナが低く言うと、マナは並んだ数字を目で追っていき、途中でその動きを止めた。
「……三日前?」
アレンが顔を上げる。
「襲撃の……三日前ってことか?」
「ええ」
ディアナの声にも緊張が混じる。
「この記録では、グリムフォードで最初に黒い反応が確認されたのは……町が襲撃される三日前よ」
部屋から音が消えたように感じた。
三日前――そのとき、自分はまだ魔法学校の卒業試験を終える前だった。
刻印者だと知ることもなく、黒い扉を見ることもなく、光る者と出会ってもいなかった。
「じゃあ……」
アレンの声は、自分でも分かるほど掠れていた。
「少なくとも……俺の刻印が目覚めたことが原因じゃないってことか?」
「そう考えていい」
ケイムが頷いた。
「グリムフォードで最初に記録された黒い反応は、君の刻印が表に出るより前から存在していた。少なくとも……君の刻印が目覚めたことで生まれたものじゃない」
それは、長い間アレンの中に残っていた問いに一つの答えを与える言葉だった。
グリムフォードが襲われた日、自分の刻印が目覚めた。だからこそ、何度も考えていた。
自分がいたから、町が襲われたのではないか。自分に何かがあったから、あの日すべてが壊れたのではないか。
だが、違う。
少なくとも、始まりは自分の刻印が目覚めるより前にあった。
そう分かったはずなのに、胸は軽くならなかった。
むしろ、そこへ別の重さが加わった。
「場所は?」
アレンが訊く。
「グリムフォードのどこで観測された?」
ケイムが地図を拡大すると、町の輪郭が現れた。
砦、大通り、商店街、墓地、魔法学校。地図はそれらを横切るように、町外れへと拡大されていく。
「……砦じゃねえな」
ドレイヴが地図を睨んだまま呟く。
「墓地でもないね」
マナの声も小さかった。
アレンの目は、光点が示す場所に吸い寄せられていた。
分かっていた。そこは地図上の細い道を抜けた先、町外れの畑の端。
もう存在しない、一軒の家だった。
「……俺の家だ」
誰もその言葉を否定しなかった。
「正確に言うとね」
ケイムが口を開く。
「君の家が建っていたその土地の地下だ」
アレンは、地図から目を離せなかった。
そこには、特別なものなど何もなかった。古い家と畑、物置。母が使っていた食器。父が直したあとも、少し傾いたままだった棚。
そして、卒業後にどうするかも決められないまま、あの朝まで自分が眠っていた部屋。
世界の秘密が眠っているような場所ではない。
そう思っていた。
「家の地下に……いったい何があるんだよ」
「分からない」
ケイムは首を振った。
「この記録に残っているのは、座標だけなんだ」
「……掘った記録は?」
「軍にはないよ。少なくとも、今確認できる範囲ではね」
「じゃあ……帝国は知ってるのか?」
「それも、まだ分からない」
「ギデオンは?」
ケイムはそこで、ほんの少し考えた。
「彼がこの金属板を持っていた以上……少なくとも、座標そのものは知っていた可能性が高い」
ドレイヴが低く舌打ちする。
「……また、あいつかよ」
アレンは答えず、地図から目を離さなかった。
逃げた日のことが浮かぶ。雨の中、壊れた町を抜け、砦を目指して走った三人。
自分たちは、あの日からずっと「何が起きたのか」を追ってきた。
怪物が現れ、光る者が降り、刻印が目覚めた。帝国が動き、黒い扉が開いた。
すべて、あの日から始まったと思っていた。
だが、違う。
三日前には、すでに何かが始まっていた。そして、その場所は――自分の家の下。
アレンは右手を見た。
動かない手。その手に刻印が現れるより前から、黒い反応はあの土地の地下にあった。
「……アレン」
マナが呼ぶ。その声には、何を言うべきか迷っているような響きがあった。
ドレイヴも黙ったままだ。二人にとっても、グリムフォードは失った故郷だ。「戻る」という言葉がただの移動を意味しないことくらい、アレンにも分かっていた。
しばらくして、アレンは顔を上げた。
「……帰ろう」
マナが虚を突かれたように瞬いた。
「グリムフォードへ?」
「ああ」
アレンは、地図の上に灯る小さな光点を見た。
「俺たちが逃げた、あの日のことじゃない」
そこでひと呼吸置く。
「その前に……何が始まってたのか。確かめに行く」
マナはすぐには答えなかったが、やがて小さく頷いた。
「……うん」
ドレイヴが鼻から息を吐いた。
「で、地下なんだろ?」
「……ああ」
「なら、掘ることになったら俺に任せろ」
アレンが横を見る。
「そこなのか?」
「そこだろ。地下にあるなら、掘らなきゃ始まらねえじゃねえか」
「先に魔法で調べるって発想はないのかよ」
「調べたって、最後は掘るだろ」
「まだ掘るって決まったわけじゃないよ」
マナが苦笑すると、三人の間の強張りがほんの少しだけほどけた。
わずかな変化だった。それでも三人の間には、昔と同じ空気が戻ってくる。
もちろん、完全にではない。戻れるはずもなかった。
グリムフォードにあった家も、町も、あの日より前の自分たちも、もう元には戻らない。
それでも、戻れないことと帰れないことは同じではない。
アレンは地図に残る光へ目を戻した。
今度は逃げるためではない。
始まりを確かめるために、帰る。
◇
場所の分からない暗い部屋に、無数の光が浮かんでいた。
壁も天井も見えない暗闇の中央には、複雑な円環を幾重にも重ねた観測具が置かれ、その前に黒い外套をまとった男が立っている。
ギデオン。
顔の半分を覆う仮面の下で、左目を中心に刻まれた紋様が淡く光っていた。
因果の刻印。
観測具の上には、その刻印が現在までの情報から導き出した、いくつもの未来予測の残像が映し出されている。
一つ目は、地下施設の奥。
アレンが黒い扉を開き、黒い光が溢れたところで、観測そのものが途切れる。
二つ目は、寝台の上。
ユリスの心拍が止まり、その傍らにはリエナがいる。
三つ目は、崩落した地下施設。
入口は軍によって封鎖され、黒い結晶も、刻写術式の記録も、すべて地下へ残されている。
どれも事前に観測されていた破局の一部であり、現時点の情報から導き出された確率の高い未来だった。
アレンという人間の性格。ユリスという人間の選択。エドガーという研究者の思想。
さらに、地下施設の構造と救出へ向かった者たちの能力。
それらを組み合わせれば、いくつもの分岐は最終的に二つの大きな流れへ収束するはずだった。
だが、現実は違った。
地下施設では、アレンは黒い扉を開かず、ユリスは生きている。地下施設からは、必要な人間と記録も回収された。
観測具の中央に現実の結果が映し出される。
いや――映し出されていない。
事件の中心だけが、ごっそりと抜け落ちていた。
そこにあるのは、黒い空白。
未来の枝そのものが存在しないわけではない。ただ、観測できなかった場所だけが、染みのように黒く残っている。
ギデオンは、その空白を見つめた。
「……」
驚いた様子も、苛立ちもない。
ただ、新たな情報を得た研究者のように、ギデオンは黒い部分を一つずつ確かめていく。
二つの大きな流れへ至るまでにも、いくつもの枝があった。
アレンが一人で刻印を使う未来。仲間がアレンを止め、黒い結晶を破壊する未来。そして、崩落を優先して撤退する未来。
どの枝も、確かに観測されていた。
しかし、現実へつながった枝だけが見えない。
ギデオンの指が観測具の縁に触れる。
「未来が変わったのではない」
ギデオンの声だけが暗闇に響いた。
その先にあるのは、観測されていた未来と現実の間に生まれた黒い空白。
「黒点の中で、別の道を作ったか」
因果の刻印が、かすかに明滅した。
仲間に役割を渡し、一人で決めなかった。用意されたどの道も選ばず、複数の人間が同時に別の行動を取った。
合理性だけでは一本に絞れない判断。それが観測の外側へ道を押し出したのかもしれない。
ギデオンは興味を示すように首を傾けた。
それから観測具の記録を切り替えると、いくつもの座標が浮かび上がった。
アルカナリウム。ファランディア近郊。ルミノヴァ。
そして、グリムフォード。
ギデオンの指がその一点に触れると、光が広がり、町の輪郭が暗闇の中に浮かび上がる。
町外れにあった一軒の家。その土地の地下。
「ならば次は、君が選ぶより前に始まった道を見せよう」
観測具の光が消え、暗闇が戻る。
その奥深く、まるでここではない場所から届いたかのように――
ゴン――。
黒い扉を叩く音が一度だけ響いた。




