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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第三章『選ばれなかった者の選択』

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第37話『第三の道』


 静寂は、一秒も続かなかった。


 ゴン――。


 黒い結晶が脈打った直後、地下施設そのものが地の底から殴り上げられたように、大きく揺れた。


「っ――!」


 アレンが足を踏ん張った直後、天井に亀裂が一気に走り、石片が降り注いだ。


「始まったぞ!」


 ドレイヴの声と同時に、通路のさらに奥で、先ほどとは別の二体の魔導人形が動き出す。


 胸部に赤い光を灯した人形たちの動きは、先ほどまで見てきた不自然な歩行試験とは違っていた。木と金属を継ぎ合わせた両腕を前へ突き出し、そのまま床を蹴る。


 速い。


「ドレイヴ!」


「分かってる!」


 大剣を引き抜き、ドレイヴが前へ出る。

 その刃が魔導人形の腕を受け止め、甲高い金属音とともに火花が弾けた。


「うおっ!」


 一歩押し込まれながらも、ドレイヴは腰を落として押し返す。


 だが、そのまま追うことはせず、人形を倒し切ろうともせずに大剣の腹で横へ弾き飛ばした。

 壁へ叩きつけられた人形が起き上がる前に、もう一体が横から迫る。


「火よ、来い!」


 ドレイヴの全身を赤い魔力が包む。

 赤い魔装が身体へ密着し、肩から腕、胸、脚へと炎のような光が走った。


 そこへ、魔導人形の拳が脇腹へ叩き込まれる。


「ぐっ……!」


 脇腹の奥まで鈍い衝撃が響く。

 それでもドレイヴは動かず、片腕で人形を押さえ込むと、大剣の柄をその腹へ叩き込んだ。


「邪魔だ!」


 人形が後ろへ転がった、その頭上で天井が裂けた。


「ドレイヴ、上!」


 マナの声が響くと同時に、天井の一部が巨大な石板となって落下する。

 ドレイヴは大剣を床へ突き立てると、両手を離して一歩踏み込んだ。


「おおおおっ!」


 落下してきた石板を肩で受け止める。轟音とともに床が沈み、靴底の下へ亀裂が広がった。

 ドレイヴの膝が僅かに曲がった。それでも、天井はそこで止まった。


「ドレイヴ!」


「こっちはいい! 前だけ見てろ!」


 アレンが振り返るより早く、怒鳴り声が飛ぶ。


「俺はここから動かねえ!」


 肩に石板を載せたまま、ドレイヴが歯を剥く。


 赤い魔装が全身を覆うように燃え上がり、通路の向こうでは弾き飛ばした魔導人形が再び立ち上がろうとしている。


 頭上では、さらに新たな亀裂が伸びていく。それでも彼は退かなかった。


「だから、お前らは自分の仕事だけ見てろ!」


 アレンは一度だけドレイヴを振り返り、すぐ正面へ意識を戻した。


「……分かった」


 それ以上は言わない。


 ドレイヴが守っているのは、敵を倒すための前線ではない。マナがユリスに触れ続け、ディアナが術式を解き、アレンが最後の二秒を使う――そのための場所だ。


 だからアレンも、自分の仕事だけを見る。


「マナ!」


「うん、もう始めてる!」


 マナはすでにユリスの寝台脇に膝をついていた。


 杖の先から生まれた淡い水は塊にならず、何十本もの細い流れへと分かれていく。


 最初の一本がユリスの胸に触れ、次いで首筋、脇腹、肩、両腕へと広がる。さらに細く分かれた水は、皮膚の上を神経の走行に沿うように巡っていった。


 やがて透明だった水に淡い光が混じり、赤、青、白の色彩となって、ユリスの血流や心拍、神経反応を明滅とともに浮かび上がらせていく。


「心拍は速い……でも、まだ保ってる」


 マナは自分へ言い聞かせるように呟く。


「呼吸筋の反応が弱い。右側が少し遅れてる……」


 水の一本が震えると、マナはすぐに杖先をずらした。


「じゃあ、こっちから回す」


「マナ、今は神経伝達の代替だけに集中して」


 ディアナが術式の前から告げる。


「治療まで同時にやろうとしないで」


「うん、分かってる」


 返事は早かった。マナ自身が一番分かっている。


 これは治癒ではない。壊れた神経や失われた記憶を戻すのではなく、刻写(こくしゃ)術式が担っていた信号だけを、水の魔力で一時的に肩代わりする。


 心臓、呼吸筋、脊髄側の主要経路。身体が自分自身の命令を取り戻すまで、その隙間を埋め続ける。


「ユリス」


 マナが呼ぶと、ユリスの瞼がかすかに震えた。


「聞こえる?」


「……はい」


 掠れた返事。


「今から、身体の中を流れてる術式を外すね」


「……分かりました」


「少し、苦しくなるかもしれない」


「……はい」


「怖かったら、ちゃんと言ってね」


 ユリスはすぐには答えず、胸の上に残る黒い刻写痕を見下ろした。

 その線は、まだ心臓へ向けて少しずつ伸びていた。


「……怖いです」


 短い言葉だったが、誤魔化しはなかった。

 マナは杖を握る指に、もう一度力を込めた。


「うん。……わたしも怖いよ」


 水の流れを一本、さらに細くする。


「だから、ずっと測ってる。少しでも変わったら、すぐ止めるから」


 ユリスが小さく頷く。


 その間にも、マナの顔からは少しずつ血の気が失われていった。心拍、血流、神経、呼吸。そのすべてを観測しながら一部を肩代わりし続ける水路は、一本増やすたびに魔力を奪う。


 ユリスの身体全体を、一瞬たりとも見失えない。


「……マナ」


 アレンが声をかける。


「大丈夫」


「まだ何も言ってないだろ」


「顔見れば分かるよ」


 いつもなら少し笑うところだったが、今は笑わなかった。


「アレンは、自分の腕を見てて」


「……分かった」


「こっちは、わたしが見てるから」


 言われて、アレンは右手の状態を確かめた。


 感覚はない。手首から先だけではなく、今は肘の少し手前まで、自分の身体なのに触れられている感覚が返ってこない。


「ディアナ、神経伝達路できた!」


「そのまま維持して!」


「うん、このまま保つ!」


 ディアナは黒い術式の前へ杖を置いた。


 床には、黒い結晶から伸びた線が何層にも重なっている。刻写補助、神経伝達、生命維持。そして、その間へ後から食い込んだ共鳴経路。


 これは、一つの術式ではない。


 継ぎ足し、補修し、さらにその上から別の構造を被せた結果、どこか一部を切れば別の部分まで崩れる構造になっている。


「エドガー」


「ああ、ここだ」


 エドガーが差し出した携帯端末の画面には、何十もの研究記録が並んでいる。

 彼自身が何年も積み重ねてきた術式の変更履歴だ。


「最初の神経補助はこの層だ」


「生命維持を共通化したのはどこから?」


「その三段階あとだ。記録番号四十一から」


「共鳴経路を入れたのは?」


「……五十八」


 僅かな沈黙。


「黒い結晶の出力が不安定になった。安定させるために追加した」


「解除試験はしてる?」


「していない」


 ディアナの手が止まる。


「……一度も?」


「完全停止させれば、患者の神経反応まで失われる可能性があった」


「それで、一度も止めなかったの?」


「ああ」


「停止時の安全処理は?」


 エドガーは答えなかったが、その沈黙だけで十分だった。


「……ないのね」


 通常なら、制御を外れた術式を安全に終わらせる封止文(ふうしぶん)がある。


 だが、ここに積み重なっているのは、動かすための命令ばかりだった。

 続けろ。補え。維持しろ。流し続けろ。

 終わるための命令が、どこにもない。


「終わらせることを、最初から考えてなかったの?」


「違う」


 エドガーが低く答えた。


「考えていなかったわけじゃない。ただ……」


「成果が出る前に、止めたくなかったのね」


 ディアナの言葉に、エドガーは口を閉ざした。

 責めるような声ではなかった。だからこそ、言い逃れもできない。


 ディアナは端末をエドガーへ返すと、空いている術式板の上に杖先を触れた。

 銀色の線が一本、術式板へ刻まれた。


「……何をするつもりだ?」


「書くのよ」


「今からか?」


「ええ。今だから書くの」


 起点、対象、属性、効果、そして封止。

 ディアナは、既存の黒い術式に触れないぎりぎりの場所に、新たな術式を書き始めた。


「術式は、作った人間の命令に従う」


 一本、さらにもう一本と、黒い線の外側を囲むように銀色の文字が連なっていく。


「だったら、終わり方が書かれていないなら、私が書く」


 エドガーが新しい封止文を見る。


「それでは、外周を解いた瞬間に生命維持側へ負荷が落ちる」


「そこはマナが受けるわ」


「彼女一人では――」


「三秒よ」


 ディアナは言い切った。


「必要なのは、その三秒だけ。そのために全員ここにいる」


 エドガーはマナ、天井を支えるドレイヴ、そしてアレンの順に見渡した。


「……なら、順番はこうだ」


 エドガーは杖を取った。


「外周の補助は二つ飛ばせ。そこはもう機能していない」


「根拠は?」


「昨日の記録から、反応が消えている」


「確認するわ」


 ディアナが測定結晶を当てる。


「……本当ね」


「次は神経補助の副路を外す。切り替わる瞬間だけ主路に負荷が集中する。だが、水路があれば耐えられる」


「負荷が跳ねるのは何秒?」


「二秒半だ」


「なら、足りるわ」


 ディアナが杖を滑らせると、黒い線が一本、光を失う。途端に、ユリスの身体が跳ねた。


「っ……!」


「心拍、上がってる!」


 マナの声。


「でも、まだ維持できる!」


「分かった。次、いくわ!」


 銀の封止文がさらに内側へ食い込み、黒い線が一つずつ光を失っていく。そのたびに、残った別の線が太さを増した。


 エドガーも隣で術式を支える。今まで患者を黒い結晶へつないできたその手で、今度はそこから外すために魔力を流していく。


「ここの圧を下げろ!」


「分かってる!」


「違う、そこじゃない。二層下だ!」


 ディアナの杖が止まる。


「……こっち?」


「そうだ。そこを先に外すと、共鳴が露出する」


「なら、そこは後回しね」


「ああ、それでいい」


 確認は短く、迷っている時間もない。


 それでもディアナは、エドガーの指示をそのまま信じてはいなかった。一つ聞くたびに自分で測り、記録と照合し、安全を確かめてから術式を解いていく。


「外周、あと三層!」


 ディアナが告げる。


「エドガー、生命維持は切らないで!」


「分かっている!」


「出力をもう少し落として! その分の負荷をマナへ移す!」


「それ以上落とせば――」


「マナ、まだいける?」


「いける! まだ大丈夫!」


 返事は即座だったが、それが終わるより早く、水の一本が破裂した。


「っ!」


 マナの肩が揺れたが、すぐに別の水流を伸ばし、切れた経路へ繋ぎ直した。

 額から汗が落ち、呼吸も浅くなっている。それでも測定を止めることはなかった。


「心拍は保ってる……血流も落ちてない。神経反応も、まだある」


 自分自身の魔力がどれほど減っているのか、今のマナにはそれを確認する余裕すらなかった。

 意識を向けるのはユリスだけ。その身体に、自力の反応が戻るまで。


「私は……」


 エドガーが呟いたが、ディアナの手は止まらない。


「私は……この術式で、救えた人間も見た」


「知ってるわ」


「三年前、歩けないと言われた患者が自分の足で歩いた。動かなかった手で、息子の手を握った者もいる。だから私は――」


 エドガーの言葉が詰まった。

 その成果が嘘ではなかったからこそ、彼は止まれなかった。


 ディアナは最後から二つ目の外周を解き、黒い線が消える。


「エドガー」


「……何だ」


「助けた人がいるからって、傷つけた人がいなくなるわけじゃない」


 杖先は揺れなかった。


「でも、傷つけた人がいるからって、助けたことまで消えるわけじゃない。どっちも同じよ」


 エドガーは何も答えず、やがてゆっくりと頷いた。


「……ああ」


「だから今は、助けて」


「分かった」


 それだけだった。


 責任の話は、ここで終わらせることではない。今はただ、生きている者を死なせない――その一点だけを、二人は共有した。


 直後、天井が大きく沈んだ。


「ぐっ……おおおおっ!」


 ドレイヴの足元がさらに割れ、支えていた石板の横から小さな瓦礫が崩れ落ちる。そのうちの一つが肩を打った。


「ドレイヴ!」


「だから、こっち見るなって言っただろ!」


 通路では、魔導人形が再び迫っている。

 ドレイヴは肩で天井を支えたまま、大剣も床へ突き立てているため動けない。


 その目前で、人形の腕が振り上がった。


「くそっ……!」


 ドレイヴは石板を肩へ載せたまま片脚を振り抜き、人形の胸へ蹴りを叩き込んだ。

 赤い灯りが揺れ、巨体が後ろへ下がる。


 だが、もう一体。


「来るなら来い!」


 火の魔装が強く輝く。


「悪いが今は、お前らに構ってる暇ねえんだよ!」


 拳を受け、肩が沈む。頭上の瓦礫が軋んだが、それでもドレイヴは一歩も退かなかった。

 人形を壊す必要はない。あと少し――後ろにいる四人が作業を終えるその時まで、そこに立っていればいい。


「ディアナ!」


「最終層まで来たわ!」


 銀の術式線の向こうに、ユリスの胸から黒い結晶へ伸びる最後の共鳴経路が現れた。

 それは細い。けれど、ほかの何よりも濃かった。


「アレン、お願い!」


「ああ、任せろ!」


 アレンはユリスの寝台へ一歩近づいた。

 右腕は垂れたままで、手首から先は動かない。肘だけは、まだかろうじて曲がる。


 遮断が始まったら、動かすのは二秒だけ。


 「二」が来るまでに手を離す。


 最後の一秒は、ディアナとマナへ渡す。


「マナ!」


「仮神経路、まだ維持できてる!」


「エドガー!」


「生命維持はいつでも切り替えられる!」


「ドレイヴ!」


「おう、いつでも来い!」


 ディアナが床へ杖を突き立てると、銀色の封止文が一斉に光った。


「外へ合図を送るわ!」


 通信結晶は使えない。だから、旧導魔路の供給そのものを揺らす。

 旧導魔路を流れる魔力が、決められた間隔で二度揺れた。


 開始要求。

 境界の外で待つケイムへ、言葉ではない合図が伝わっていく。


     ◇


 旧診療所の地下。


 閉ざされた入口の外で、ケイムは観測結晶の変化を見ていた。


「……来たね」


 床一面へ広げた旧導魔路の地図。その上に置かれた複数の封止具が、一斉に淡い光を帯びる。

 狙うのは、施設へ向かう基幹路のうち、黒い結晶の共鳴系へ分岐する一本だけだ。


 そこだけを三秒止める。


 短すぎれば意味がない。だが、共通基幹につながる経路を長く止めれば、ほかの生命維持側まで影響が及ぶ。


 ケイムは指を封止具へ置いた。


「全員、そのまま。配置から動かないでくれ」


 軍務局の兵たちが息を殺す中、ケイムは目を閉じた。

 地下にいる者たちの姿は見えず、何をしているのかも分からない。


 それでも、彼らが三秒を求めたのなら、自分はその三秒を作る。


「遮断開始」


 封止具を押す。


     ◇


 世界から音が一つ消えた――アレンには、そう感じられた。

 三秒だけが、異様なほど長く引き伸ばされたようだった。


 これまで床の下を絶えず流れていた旧導魔路のうち、黒い結晶へ向かう一系統が途切れ、その光が一瞬だけ弱まった。


「来た!」


 ディアナの声を合図に、アレンは右腕へ雷を流した。


 雷の糸。攻撃のためでも、焼くためでも、砕くためでもない。

 細く、もっと細く――一本の神経をなぞれるほどまで絞った雷を、感覚のない右腕へ通す。


 紫の光が手首から指先へ這い、動かなかった指が震えた。

 一本、二本と動き、やがて掌が開く。


「……動け」


 アレンは右手を前へ出し、ユリスの胸に触れた。

 感触はない。皮膚の温度も、服の布地も分からない。それでも、自分の目で位置を確かめる。


 雷を流すと、細い紫の糸がユリスの胸元から刻写痕(こくしゃこん)へ入り込んだ。


 黒い経路に触れた途端、視界が変わる。


 肉体の中を見るわけではない。魔力の経路が、暗闇の中に浮かぶ線として認識される。

 幾つもの分岐。神経。生命維持。マナの水。ディアナの封止文。


 そして、その奥に黒い一本。


「見えた……!」


 アレンは歯を食いしばり、雷の糸をさらに奥へ入れる。

 直後、右腕の内側で何かが裂けた。


「っ……!」


 感覚のないはずの腕だったが、麻痺の境界に近い肘の内側だけは違った。


 焼けた針を突き込まれたような痛みが弾け、筋肉が雷の動きについていけない。紫の筋が皮膚の下で明滅するたび、筋繊維が悲鳴を上げる。


 アレンは呼吸を止めた。


 あと少し。見えている。


 ユリスと黒い結晶を繋ぐ最後の経路へ、雷の糸はすでに届いていた。


     ◇


「一」


 入口の外でケイムが数える。


     ◇


 ほんの僅か。あと僅かに出力を上げれば、切れる。

 自分で切れる。


 出力を上げようとした、そのとき。


 ゴン――。


 聞こえるはずのない音が、頭の奥で響いた。

 景色が暗くなり、石壁も、仲間も、黒い結晶も遠ざかっていく。


 アレンの意識の奥に、あの黒い扉が浮かんだ。

 鎖に閉ざされた巨大な扉には隙間ひとつない。それでも、その向こうから声だけが届く。


 ――続けろ。


 右手の雷が震える。


 ――お前なら一人で救える。


 黒い経路が、はっきりと見えた。


 本当に、あと少しなのだ。

 雷を強くすれば自分で切れる。


 マナが決めた二秒を、〇・一秒越えるだけでいい。


 ――お前ならできる。


「……っ」


 アレンの指がユリスの胸元に食い込み、雷が僅かに強くなる。


 あと少し。あと――。


「アレン、止めて!」


 マナの声が割り込んだ途端、アレンの思考が止まる。


 目の前には、最後の一本が残っている。まだ切れていない。

 ここで止めるのか。まだ最後の一本は残っている。


 もしディアナの封止が間に合わなければ。マナが耐えられなければ。誰かが失敗すれば、ユリスは死ぬ。


 自分なら切れる。自分が最後までやればいい。


 ――俺がやる。俺が残る。俺が責任を取る。


 何度も戻りかけた、いつもの答えだった。


 ギデオンが読んでいたのも、きっとこの道だ。目の前で救える人間がいるなら、アレン・ライオネットは自分が壊れる方を選ぶ。


 ――続けろ。


 黒い扉の声が響く。

 右腕の奥で、筋肉がまた裂けた。


「アレン!」


 マナがもう一度叫ぶ。

 アレンは、なお残る最後の経路を見据えた。


 だからこそ、止める。


 雷が消え、紫の光が右腕から引いていく。共鳴経路はまだ残っていた。それでもアレンは、右手をユリスの胸から完全に離した。


 自分の意思で、一切の雷を流さず、残った仕事にも手を出さない。


「俺の仕事は、ここまでだ!」


     ◇


「……二」


 入口の外で、ケイムが数える。


     ◇


 その合図と同時に、世界が動いた。


「封止、入れるわ!」


 ディアナの杖が振り下ろされると、外周に組み上げて待たせていた銀色の文字が、アレンの雷の退いた場所へ一気に流れ込んだ。


 それは残された黒い経路に、一重、二重、三重と絡みついていく。


 切るのではない。包み込み、行き先を失わせる。


「マナ!」


「うん、こっちは任せて!」


 ユリスを巡っていた水が、一斉に胸へ集まり心臓を囲む。

 血流を押すのではなく、神経へ一度だけ強い信号を送る。


「動いて!」


 水の輪が収縮し――。


 どくん――!


 ユリスの胸が大きく持ち上がる。


     ◇


「三」


 入口の外でケイムが最後の一秒を数え、間を置かず封止具を解除する。


「遮断終了」


     ◇


 遮断していた一系統へ魔力が戻る。


 だが、黒い結晶へ向かう共鳴はすでにディアナの封止文に包まれ、マナの水路がユリス側の生命維持を受けていた。


 三秒の遮断は終わった。それでも、切り替えは成立していた。


「今よ、ドレイヴ!」


「おう、待ってたぜ!」


 ドレイヴが肩に載せていた石板を両腕で押し上げた。


「おおおおおっ!」


 肩で支えていた石板を力任せに横へ投げ捨てると、巨大な瓦礫が通路へ落ち、人形ごと塞いだ。


 ドレイヴは床へ刺していた大剣を引き抜く。

 狙うのは黒い結晶ではない。その根元にある、結晶を固定している金属具だ。


「壊すのは――そこだけだ!」


 大剣を振り下ろすと金属が潰れ、固定具が砕けた。

 支えを失った黒い結晶が、大きく傾く。


「エドガー、今だ!」


「ああ、閉じる!」


 エドガーは制御盤の前へ飛び込んだ。

 自動停止は使わない。停止した先の処理が存在しない術式を、自動制御へ任せることはできないからだ。


 端末を開き、手動で一つずつ経路を閉じていく。


「刻写補助、停止!」


 一本。


「神経伝達、外部供給解除!」


 二本。


「生命維持――共通基幹を維持!」


 三本。


 最後に、黒い結晶へ直接伸びていた供給路へ手を置いたところで、エドガーの指が止まった。

 エドガーは指を置いたまま、黒い結晶を見据えた。


 ここから、多くの結果が生まれた。


 歩けた。握れた。魔法を灯せた。

 そして同時に、名前を失い、家族を忘れ、止まれなくなった。


 エドガーは目を閉じる。


「……閉鎖」


 エドガーが指を押す。


 遮断されていた供給はすでに戻っているが、黒い結晶へ流れ込もうとする魔力は、ディアナの封止文に阻まれていた。

 マナの水路がユリス側の生命維持を受け、エドガーが閉じた刻写術式も、もう再起動しない。


 そして、供給を閉じられ、固定も失った黒い結晶の内側で、黒い光が激しく揺れた。


 ピシ。


 小さな亀裂が一本、刻まれる。


「離れて!」


 ディアナが叫ぶ。


 ピシ、ピシ、ピシ――。


 亀裂が一気に広がり、アレンは左腕で顔を庇った。

 やがて、黒い結晶が内側から砕けた。


 爆発ではなく、轟音もない。ただ、限界まで張りつめていたものが役目を失ったように、無数の破片へと崩れ落ちた。


 黒い光が消え、床を走っていた術式線のうち、黒い結晶へつながるものだけが一つずつ暗くなっていく。


「ユリス!」


 マナの声に、アレンが寝台を見る。


 胸元まで迫っていた刻写痕は、あと指一本分の距離を残して止まっていた。

 刻写痕の先端が薄くなり、さらに色を失って、やがて皮膚へ染み込むように消えていく。


「……消えてる」


 アレンが呟く。


「刻写痕が……消えてる」


 だが、刻写術式が完全に消えた直後、ユリスの胸がふっと止まった。自力の拍動へ切り替わるはずの瞬間、水の明滅も途切れる。


 マナの顔から、表情が消える。


「……心拍は?」


 水に指を触れたが、返事はない。


「ユリス?」


 もう一度測る。


「……止まってる」


「マナ!」


「静かにして!」


 鋭い制止に、アレンもドレイヴも口を閉じる。


 マナは震える両手で杖を握った。魔力はもうほとんど残っていない。

 それでも、ユリスの胸へ水を集める。


「水よ、痛みを鎮め、傷を包め――アクア・リクィエム」


 掠れた声とともに、治癒魔法の淡い光がユリスの身体を包む。

 傷を消すためではない。身体が戻ろうとする力を支えるためだ。


「お願い……戻って」


 水が胸から全身へ流れていくが、反応はない。

 ユリスの顔から、力が抜けている。


「マナ、俺の魔力を――」


「駄目!」


 アレンの言葉を遮る。


「今、違う属性の魔力を入れたら、水路が崩れる!」


「じゃあ、どうすれば――」


「待って!」


 マナは片手を杖から離し、外套の内側へ手を入れた。


「これ……」


 取り出したのは、リエナから預かっていた小さな金属製の火入れだった。兄が昔から使っていたものだという。


 魔法具でも、治療具でもない。


 ただ、ユリスのものだった。

 マナはユリスの右手を開き、動かないその手に小さな金属製の火入れを握らせた。


「ユリス」


 その手を両手で包む。


「帰るんでしょ」


 水の光が弱く揺れる。


「リエナが待ってるよ」


 返事はない。


「力があるとか、ないとか……そんなのじゃない」


 マナの声が震える。


「だから、ちゃんと自分で帰ってきて」


 沈黙の中、アレンは何もできなかった。

 自分の仕事は終わった。終わったあとまで奪わず、マナへ、そしてユリスへ任せる。


 その選択から、逃げない。


「……頼む」


 アレンが小さく呟く。

 誰に向けたのか、自分でも分からなかった。


 そのとき、ユリスの指が動いた。


「……っ」


 マナの肩が強張る。

 ほんの僅かに、小さな金属製の火入れに触れていた人差し指が内側へ曲がった。


「ユリス……聞こえる?」


 唇が動くものの、音にはならない。


 人差し指がもう一度曲がる。

 同時に、水の中へ針先ほどの赤い光が戻った。


 どくん。


「心拍が……!」


 マナが顔を近づける。


「ユリス、聞こえる?」


「……リ」


 掠れた息。


「何? もう一度言って」


「……リエナ」


 もう一度。


 どくん。


「戻った……!」


 マナの声が裏返る。


「心拍、戻ったよ!」


 ユリスの胸が、弱く不安定ながらもゆっくりと上下している。


 水の術式でも、刻写術式でもない。

 ユリス自身の心臓が動き、自ら呼吸している。


「……よかった」


 マナの肩から力が抜け、倒れそうになった身体を杖で支えた。


「マナ!」


 アレンが左手を伸ばす。


「大丈夫……」


「大丈夫な顔してないだろ」


「今は……ユリスを見て」


「ユリスも見る。でも、お前もだ」


「……そういうとこだけ、ちゃんと学習するんだね。ずるいよ」


 息だけの笑いが漏れ、その横でドレイヴが大剣を床へ置いた。


「……で、終わったのか?」


「まだよ。確認が先」


 ディアナは即答した。

 彼女も床に膝をつき、魔力を使い切りかけた指先を僅かに震わせている。


 それでも、測定結晶を一つずつ確認していく。


「生命維持の共通基幹……正常」


 隣の表示へ。


「ほかの経路も、落ちてない」


 もう一つ。


「術式停止……確認」


 最後に、黒い結晶があった場所へ結晶を向ける。


「共鳴反応……下がってる」


 数秒待っても、黒点は増えない。


「……再上昇なし」


 ディアナが長く息を吐いた。


「黒い結晶は停止してる。ほかの生命維持も、ちゃんと残ってるわ」


「ってことは……」


 ドレイヴが辺りを見回す。


「誰も死んでねえんだな?」


「少なくとも、今確認できる範囲ではね」


「よし」


 ドレイヴの拳に力がこもる。


「……よし!」


 二度目は、噛み締めるような声だった。

 ドレイヴはその場へ座り込みそうになったが、途中で天井を見上げた。


「……いや、待て。ここ、まだ崩れるんだった」


「思い出すの遅いわよ」


「さっきまで俺が支えてたんだぞ!」


「だったら、なおさら出口を探すの。休むのは外に出てから」


「鬼かよ!」


「それだけ言えるなら、まだ元気ね」


「その判断基準おかしいだろ!」


 いつものやり取りを聞きながら、アレンは右腕を持ち上げようとした。


 だが、動かない。


「……あれ?」


 作戦前は、感覚が鈍っていても肘はまだ曲げられた。

 だが今は、肘から先すべてが自分の意思に反応しない。


 アレンは左手で右前腕を掴んで持ち上げたが、手を離すとそのまま力なく落ちた。


「アレン?」


 マナが気づいた。


「右腕、どうしたの?」


「……動かない」


 空気が変わった。


「どこまで?」


「肘から先。さっきまでは曲げられた。でも、今はもう全部だ」


 マナが右腕へ水を沿わせ、ディアナも測定結晶を当てる。


「筋肉がかなり傷んでる。今日、何度も雷で無理やり動かしたから……」


「途中で、裂けた感じはした」


「感じたなら、そのとき言ってよ」


「二秒の途中だったんだ」


「だからって――」


「マナ」


 ディアナが測定結晶から目を離さず告げる。


「恒久的な麻痺が肘まで進んだ反応とは違うわ。もともと麻痺していた部分は神経反応がほとんどない。でも、今動かない部分には反応が残ってる」


「じゃあ……まだ?」


「断定はできない。でも、刻印の雷による負荷と筋損傷で、一時的に運動機能が落ちている可能性が高いわ」


 マナも頷いた。


「たぶん、数日は肘から先を動かせない。少なくとも、その間は絶対に使わないで」


「……分かった」


 マナが目を細める。


「今、でもって言いかけなかった?」


「言いかけただけだ」


「同じだよ」


「分かったって。使わない」


 ドレイヴが鼻で笑った。


「珍しく聞き分けいいじゃねえか」


「お前まで言うなよ」


「右腕動かねえんだ。嫌でも休むしかねえだろ」


「左手は動く」


「そういう話じゃねえ!」


 アレンの口元が僅かに緩んだ。


 そして、ふと黒い結晶があった場所を振り返る。

 黒い破片が床に散っているが、もう脈打ってはいない。右手の刻印にも反応はなかった。


 アレンは意識を内側へ沈める。


 何も聞こえない。


 ゴン、という音も、声もない。黒い扉の姿さえ浮かばなかった。


 開いていない。


 あの向こう側へ続く道は、ここには生まれなかった。


 ギデオンが予測した二つの道――自分一人でユリスを救い、黒い扉をさらに開く道。あるいはユリスを見捨て、仲間とほかの実験体を守る道。


 そのどちらにもならなかった。

 黒い結晶は砕け、扉は閉じたまま。それでもユリスは生き、ほかの実験体の生命維持も残っている。


 アレンはユリスの傍らにいる仲間たちを見る。自分が止まった場所から、四人が続きを引き受けていた。


「……そうか」


 アレンの口から、自然に言葉が漏れた。


「何?」


 マナが振り返る。


「いや……何でもない」


 アレンは左手で、動かない右腕を膝の上へ置いた。

 いつもなら、その重さは自分が失ったものの証明にしか思えなかった。


 けれど、今は少し違う。


「止まっても……それで終わりじゃないんだな」


 マナは数秒何も言わず、やがて小さく笑った。


「当たり前でしょ」


 ドレイヴも聞いていたらしい。


「お前が止まったくらいで、終わるわけねえだろ」


 大剣を肩へ載せる。


「そのときは、俺たちが動く番だ」


「……ああ」


 アレンは頷いた。


 マナが命をつなぎ、ディアナが終わり方を書き、ドレイヴが場所を守った。エドガーが術式を閉じ、外ではケイムが三秒を作った。


 そしてアレンは、二秒で止まった。

 誰か一人では、辿り着けなかった答えだった。


 黒い破片の間で、小さな光が最後に一度だけ瞬き、消える。


 今度は、何も起こらない。


 扉を叩く音も、決められた未来へ戻そうとする声もない。

 マナの水の中で、ユリスの心臓がもう一度、確かに脈打った。


 どくん。


 その音を聞きながら、アレンは動かない右手の重さを、膝の上へ静かに預けた。


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