第36話『因果の檻』
ルミノヴァの地下で、眠っていた線が一斉に目を覚ました。
最初に異変を捉えたのは、旧診療所の地下に残されていた観測結晶だった。
石壁の向こう――アレンたちが消えた旧導魔路の入口を囲むように、六つの結晶が置かれている。そのうち一つの中心に、針の先ほどの黒い点が浮かんだ。
次の瞬間、反応した結晶は二つに増えた。
さらに四つ、そして六つ。
すべての結晶に、同じ黒い点が浮かび上がった。
「……来たね」
ケイム・ホグナーは床に片膝をついたまま、結晶の変化を追っていた。
入口が閉じてからというもの、地上側ではほとんど何もできなかった。通信結晶は沈黙したままで、壁の向こうへ干渉しようとすれば、アレンたちが通過するときに利用した境界術式そのものを壊す危険がある。
だからケイムは、軍務局から運ばせた旧導魔路の図面と、診療所に残されていた設備記録を片端から床へ広げていた。
黄色く変色した紙には、途中で途切れた経路や、廃止済みを示す赤い斜線が残されている。中には、正式な記録から削られ、余白だけが不自然に残された区画もあった。
その上へ小型の測定結晶を置き、現在の魔力流量を重ねていく。
黒い点は、その一つ一つへと増えていた。
「中央医療塔の旧経路……反応あり」
ケイムの指が地図の一本をなぞる。
「旧魔法院側にも出てる」
別の結晶に黒い点が灯る。
「都市結界の基幹路……軍務施設」
最後の結晶を確かめたところで、ケイムの口元からいつもの薄い笑みが消えた。
「……全部、反応してるのか」
現在の都市導魔網ではない。
何年も前に役目を終えた古い魔力輸送網――地図から消された経路まで含め、ルミノヴァの地下へ張り巡らされた旧導魔路のほぼ全域を、同じ反応が走り始めている。
ケイムは一枚の紙を引き寄せた。
エドガーの旧診療所と、その地下施設。中央医療塔、旧魔法院、都市結界、軍務施設。
残っている図面だけでは、線は途中で何度も途切れている。
だが、反応が通った場所から逆算すればいい。
「地図にないからって、道までないとは限らない」
ケイムは独り言のように呟きながら、途切れた線と線の間へ鉛筆を走らせた。
「むしろ、消された場所の方が今は分かりやすいね」
黒い反応が流れている。
なら、その先には経路がある。
正式図面から削除された枝や、封鎖されたはずの分岐。さらに、エドガーの施設から伸びる太い一本の経路。
それらをつないでいくと、地下施設の構造が少しずつ浮かび上がってきた。
中央には反応が集中する地点――おそらく黒い結晶があり、そこから実験区画へ向けて複数の経路が伸びている。さらにその外側で、旧導魔路へ接続しているように見えた。
単純な研究施設ではない。
結晶を中心として、施設全体とルミノヴァ地下の古い設備網が、一つの術式として接続されている――そう考えた方が、反応の流れには説明がつく。
「……治療だけなら、ここまで広げる必要はない」
エドガーが神経治療を研究していたことは知っている。
魔力を流せない人間へ一時的に外部の魔力経路を作り、動かなくなった神経の代わりに術式で身体へ信号を送る。
そのためなら、精密な生命維持設備も、大容量の魔力供給も必要になる。
だが、都市の地下全体へつなぐ理由はない。
そして、アルカナリウムから持ち去られた黒い結晶と古代記録。この施設で検出された黒い反応。
もし、その二つが同じ線でつながっているなら。
「……エドガーが欲しかった設備と、ギデオンが欲しかった構造が……重なってる?」
ケイムは地図へ目を落とした。
ギデオンが渡したのは、偽物だけではないはずだ。
実際に神経を動かし、麻痺した身体へ反応を戻せる。本物の結果があったからこそ、エドガーは自分の意思で続きを求め、患者を集め、危険を知っても止まらなかった。
「操られていたわけじゃない」
ケイムの声が低くなる。
「……そこが、一番厄介なんだろうね」
ギデオンは、人間の身体を糸で引く人形師ではない。
因果の刻印も、相手の意思そのものを奪う力ではなかった。
その人物が何をしてきたか。何を恐れ、何を守ろうとし、何を捨てられないのか。積み上がった情報から次の選択を読み、必要なら、その可能性をほんの僅かだけ傾ける。
未来を決めるのではない。選びやすくするだけだ。
だからこそ、人間は自分の足で罠へ入っていく。
ケイムは地図の中央――地下施設の位置へ指を置いた。
「……アレンなら、どうするかな」
答えを探すための問いではない。
すでに知っている人間が、どう動きやすいのかを確かめるための問いだった。
目の前には、自分と同じように力で身体を動かしている人間がいる。その人間が苦しんでいて、自分なら代わりになれるかもしれない。
そう思ったとき、アレン・ライオネットは何を選ぶのか。
「第一の道」
ケイムは黒い結晶からアレンを示す一本の線を引いた。
「もし、ユリスに集中した黒い反応を別の器へ移せる構造なら……アレンは、自分を代わりにしようとする」
それはギデオンにとって、最も読みやすい結果だ。
アレンが器となり、黒い結晶に蓄えられていた反応が雷鳴の刻印へ流れ込む。もし、それが黒い扉との接続を強める仕組みなら。
アルカナリウムで一度開いた扉が、今度はさらに深く開く可能性がある。
そこで、ケイムの指が止まった。
だが、アレンは一人ではない。
ブランネリアで、一人で刻印を使わないと決めた。マナが止め、ドレイヴも止める。
ディアナなら、危険な接続源そのものを遮断する方法を考える。
「じゃあ、第二の道」
今度は黒い結晶へ斜線を引いた。
「仲間がアレンを止める。その上で、黒い結晶を破壊する」
黒い反応は断てる。扉への接続も止まる可能性が高い。
だが、設備記録を見る限り、黒い結晶は生命維持、神経補助、魔力循環と同じ基幹へ食い込んでいる可能性が高い。
「もし黒い結晶が、この基幹の中心なら……」
その先を口にする必要はなかった。
結晶を壊せば、生命維持まで止まる可能性がある。巻き込まれるのはユリスだけではなく、地下施設へ接続されている実験体全員だ。
黒い反応を止める代わりに、助けようとしていた者たちが死ぬ。
それでも、ギデオンにとっては結果になる。
アレンが何を選ぶのか。仲間が何を守るのか。そして救えなかったとき、次にどう変わるのか。
そのすべてを観測できる。
「……悪趣味にも程があるね」
ケイムは低く吐き出し、三本目の線を引いた。
「それでも、壊せないなら」
救助を断念し、危険区域として地下施設ごと封鎖する。
軍務局なら、十分に選び得る判断だ。
黒い結晶を破壊しなければ、少なくとも生命維持を即座に断つ危険は避けられる。アレンをそれ以上、黒い扉へ近づける必要もない。状況が分からないのなら、一度閉じ込めて増援を待てばいい。
判断としては、間違っていない。
しかし、黒い反応は残る。
旧導魔路の中に。黒い結晶の中に。そして、接続経路の中に。
「……あとで、また使えるね」
ケイムの鉛筆が止まった。
第一は、アレンが自分を犠牲にする。
第二は、仲間が結晶を破壊する。
第三は、救助を断念して施設を封鎖する。
ケイムは三本の線を見比べた。
「……どれを選んでも、完全には潰れない」
扉が開けば、その直前と直後を観測できる。結晶が壊れても、その結果を観測できる。封鎖されれば、残った反応を再利用できる。
本人たちは、自分の意思で選んでいる。強制されてはいない。
それでも、どの道も敵の欲しい場所へ続いている。
ケイムは、三本の線に囲まれた中央の空白へ目を落とした。
「因果の……檻か」
逃げ道はあり、扉も開いている。
それでも、その先がすべて同じ者の手の中へ戻るのなら、檻と変わらない。
ケイムはしばらく紙上の三本の線を追っていたが、やがて眉を寄せた。
「……いや」
三つの道には、一つだけ同じ前提がある。
どの道も、その途中までギデオンに見えているという前提だ。
本当に、そうなのか。
ケイムは鉛筆を置き、別の記録板を引き寄せた。
アルカナリウム事件。ギデオンの因果の刻印。そこで観測された反応。そして、エドガーの施設へ入ってからも地上側で記録され続けていた、旧導魔路の微細な流量。
黒い反応が広がる少し前、その記録の中に穴があった。
数値が低いわけでも、乱れているわけでもない。そこだけが、存在しない。
観測結晶に浮かんだ黒い点とは別に、因果の刻印に関する記録には黒点という語が残されている。
観測できない存在や現象が、無数の可能性の中で黒い空白として抜け落ちる領域だ。
その性質が、頭の中でつながった。
ケイムは記録板の欠落部分を指でなぞる。
因果の刻印は万能ではない。未来そのものを見ているのではなく、過去と現在の情報から伸びる因果を追っている。
なら、観測できない領域へ入った因果は、その間だけ欠ける。
「もし、この欠落が黒い扉との接続に対応しているなら……少なくとも、その間の因果は追えない」
ケイムは立ち上がった。
黒点。
入る直前までは読める。出た直後の結果も見える。
けれど、その中で何が起こったのかまでは分からない。
アレンが何を見たのか。ユリスが何を思い出したのか。そして、二人が何を選んだのか。
そこだけは――
「ギデオンにも、見えていない可能性が高い」
先ほどまで紙を埋めていた三本の線が、急に違って見えた。
ギデオンは、アレンが黒点へ入るところまでは予測していたのだろう。そこから出てきたあと、何が起こり得るかも複数の道として用意している。
だが、中で生まれた選択までは知らない。
ならば、黒点の中で変わった人間は、入る前と同じようには動かないかもしれない。
「用意された道から選ぶ必要はない……か」
ケイムは三本の線の外へ、新たな線を引こうとした。
だが、途中で鉛筆を止める。
「いや。それを決めるのは僕じゃないね」
結局、線は引かなかった。
代わりに、旧導魔路の分岐へ指を移した。
「なら、こっちでできることを探そうか」
◇
地下では、黒い脈動が止まらなかった。
ゴン――。
壁の向こうで響いた音が、少し遅れて別の方向からも返ってくる。
ゴン――。
一つの音が地下の網を伝い、ルミノヴァのさらに奥へと広がっていった。
「……気持ち悪いな」
ドレイヴが大剣を構えたまま、壁を睨んだ。
「まるで、結晶が何個もあるみてえだ」
「結晶が増えたわけじゃないわ」
ディアナは床へ測定結晶を置きながら答えた。
「旧導魔路そのものが反応を運んでるの。今は、一つの脈動が複数の経路を巡って戻ってきてる」
「だったら、元をぶっ壊せば止まるんじゃねえのか?」
「駄目だ!」
返事をしたのはエドガーだった。
その声は思った以上に大きく響き、全員の視線が彼へ集まる。
エドガーは黒い結晶のそばに立ったまま、唇を強く結んでいた。
「……駄目だ」
今度は低い。
「その結晶は、もう刻写術式の核だけじゃない。お前たちが見た生命維持の共通基幹にも、直接食い込んでいる」
「生命維持が共通基幹なのは分かってる。……じゃあ、その中心に、この結晶があるのか?」
アレンが問い返すと、エドガーは頷いた。
「神経反応が低下した被験者を維持するため、結晶から補助魔力を送っている。呼吸、心拍、神経信号……全員、同じ基幹術式につながっている」
「……そのこと、今まで言わなかったの?」
マナの声は静かで、怒鳴ってはいなかった。
それでも、エドガーはすぐには答えられなかった。
「……黒い結晶から補助していることは、分かっていた。だが、ここまで一体化するはずではなかった」
「そういう話じゃないよ」
マナは壁際のユリスを見やった。
自分の名前を取り戻した青年は、壁際に座り込んでいる。意識はあるものの顔色は悪く、黒い刻写痕も消えていない。
肩から胸へ伸びた線は、脈動に合わせて僅かに濃くなっていた。
「じゃあ、この結晶だけ壊したら……ユリスはどうなるの?」
「……生命維持が切れる」
「それだけ?」
エドガーが目を伏せる。
「……ほかの被験者も、同じだ」
ドレイヴが大剣の切っ先を床へ落とした。
「……くそ」
黒い結晶だけを切り離せば終わる――そう考えかけた道は、そこで塞がれた。
今のままでは切り離せない。守ろうとしている人間の命が、敵の装置へつながれている。
「じゃあ、この施設を閉じるしかねえのか?」
ドレイヴが聞く。
「外から増援呼んで、もっと詳しい奴らを連れてきて――」
「それも難しいわ」
ディアナが遮った。
「入口は閉じてる。通信も切れたまま。それに、この反応を放っておけば、旧導魔路のどこまで侵食するか分からない」
「じゃあ、どうしろってんだよ」
「今、考えてる」
「そんな時間あるのか?」
「ないから急いでるの!」
ディアナの声が思わず強くなったが、すぐに彼女は口を閉じた。測定結晶を握る指先が白くなっている。
アレンは何も言わず、黒い結晶を見据えた。
黒い空間。巨大な扉。そして、その前に立っていたユリス。
――ユリスの苦痛をすべて引き受ければ、彼を救える。
確かに、あの瞬間、選びかけた。
自分一人が代わりになる道を。
もしマナの声が届かなければ、今頃どうなっていたか分からない。
「……俺が引き受けるのは、駄目だ」
ぽつりと口にすると、ドレイヴが振り返る。
「急に何の話だ?」
「黒い扉の中で、そう言われた」
「何を?」
「ユリスの苦痛を、俺が全部引き受ければ助けられるって」
地下室の空気が変わった。
マナは驚かなかった。あのとき、自分の声がアレンへ届いたことを知っている。
だが、ディアナとドレイヴにとっては初めて聞く話だった。
「お前……」
ドレイヴが一歩近づく。
「まさか、本気でやろうとしたのか?」
「……一瞬だけな」
「アレン!」
「でも、やらなかった」
アレンはドレイヴと正面から向き合った。
「一人で決めるなって聞こえたから」
マナの方は見なかった。見てしまえば、あの黒い空間で聞こえた声まで思い出してしまいそうだった。
「だから、あの方法は使わない」
「当たり前だ!」
「分かってる」
「分かってる奴は、最初から考えねえ!」
「だから今、言ったんだろ」
ドレイヴが言葉に詰まる。
怒っているのは分かった。だが、アレンが隠さず口にしたせいで、それ以上責める場所を失ったようだった。
「……ったく」
大剣の柄を握り直し、ドレイヴは顔を背けた。
「次からは、考え込む前に言え」
「無茶言うなよ」
「お前には、それくらいでちょうどいいんだよ」
マナが二人の間へ割って入るように言った。
「今は、その方法は使わないって決めた。それでいいよ」
「ああ」
「でも、結晶も壊せない」
「ああ」
「閉じ込めたまま待つのも危ない」
「……ああ」
さっきまで見えていたのは、引き受けるか、壊すか、封鎖するか。その三つだけだった。
だが、どれもそのままでは選べない。
アレンは黒い結晶を見据えた。
「……ほかにないのか?」
問いかけた相手はディアナだった。
「壊すか、残すかじゃなくて……別のやり方は」
ディアナは答えず、測定結晶を一つ床へ置き、さらにもう一つ並べた。
そして、黒い結晶からユリスへ続く術式線を杖先の光でなぞっていく。
生命維持、刻写術式、神経補助、共鳴。
重なり合った幾つもの流れを、一本ずつ分けるように観測する。
「エドガー」
不意の呼びかけに、エドガーが反応した。
「生命維持は、最初から黒い結晶だけで組んだの?」
「いや」
「最初は?」
「通常の補助術式だ。だが、刻写が進むにつれて神経反応が不安定になった。外部術式との同期がずれて……それで、黒い結晶側から補助する形に変えた」
「その変更、一度にやったの?」
「違う。段階的だ」
「順番は残ってる?」
エドガーの視線が端末へ滑る。
「記録なら、端末に……」
「記録を読む時間はない。術式そのものから追える?」
「……追える」
「なら、見て」
ディアナが場所を空けると、エドガーはためらいながらも杖を取り出した。
二人の魔力光が、黒い術式線の上で重なる。
「外周が刻写補助、その内側が神経伝達……ここから先が生命維持だ」
「共鳴は?」
「最後に追加された。刻写補助と神経伝達の間に割り込ませてある。黒い結晶の出力が不安定になったとき、安定させるために……」
エドガーの声が途切れた。
術式の順番を口にするほど、自分が何をしていたのかが明確になっていく。
治療のために追加し、安定させるために接続した。その一つ一つが、最終的に人間を黒い結晶から切り離せない構造へ変えていた。
「逆にできるわ」
ディアナが言った。
「……何?」
アレンが聞くと、彼女は黒い線を見たまま答える。
「一気に壊すから、全部止まるのよ」
杖先が外側の線へ触れる。
「なら、壊す前に戻せばいい」
「戻す?」
マナが聞き返す。
「生命維持の共通基幹を、黒い結晶に依存する前の補助術式へ段階的に戻すの」
ディアナは皆を見回した。
「黒い結晶との接続を切るのは、そのあと。ほかの被験者は共通基幹ごと戻せる。でもユリスは、今の神経反応では切り替えの数秒を支えきれない」
数拍、誰も言葉を発しなかった。
最初に反応したのはドレイヴだった。
「できんのか?」
「簡単ではないわ」
「できるかできねえかで言え」
「理論上はできる」
「じゃあ、それでいい」
「最後まで聞いて」
「難しい説明はいらねえ。俺が何を壊して、何を支えりゃいいのかだけ――」
「あなたにも役目があるんだから、黙って聞いて」
「……はい」
ディアナは床の術式線を五か所、杖先で示した。
「工程は五つ」
最初にマナを見る。
「一つ目。マナ」
「うん」
「水の魔力で、一時的な神経伝達路を作って」
「神経を……水で?」
「治癒魔法で、損傷した場所に魔力を沿わせるでしょう。それをもっと細くするの。治す必要はない。ただ、信号を通すための道を作って」
マナはユリスの胸元へ伸びる刻写痕を見る。
「どこから、どこまで?」
「心臓から脊髄側の主要経路。そこから腕と呼吸筋へ分ける。全部を再現する必要はないわ。生命維持を切り替える、その数秒だけ通ればいい」
「……分かった」
声は小さかったが、迷いはなかった。
「二つ目」
ディアナは自分の杖を術式へ向ける。
「私が刻写術式を外側から逆順に解体する」
「逆順?」
アレンが聞く。
「この術式は、神経の上に層を重ねるように追加されているの。外側から順に剥がせば、元の生命維持を残したまま共鳴経路まで辿れる」
「間違えたら?」
「下の層まで切ってしまう」
「……それ、ユリスはどうなる?」
「危険よ」
「危険って……」
「だから、間違えない」
ディアナの答えは短かった。
「三つ目」
今度はドレイヴへ杖先が向く。
「あなた」
「おう」
「魔導人形と施設の崩壊を止めて」
「二つあるぞ」
「知ってる」
「どっちが先だ?」
「同時」
「無茶言うな!」
「黒い結晶の接続を外し始めたら、施設側が異常と判断する可能性が高い。魔導人形が再起動する。それに、旧導魔路の出力を落とせば固定術式も不安定になる」
「つまり、人形ぶっ飛ばしながら天井も支えろってことか?」
「そういうこと」
「簡単に言いやがって……」
ドレイヴは愚痴りながらも通路側を確かめた。
停止していた魔導人形の胸部には、すでに弱い光が戻り始めている。
「分かった。そこは俺がやる」
「壊す場所は選んで」
「分かってるよ」
「床の基幹線には、絶対に剣を当てないで」
「分かってる!」
「結晶の固定具も、まだ壊さないで」
「だから分かってるって!」
ディアナはそこで一度息を吐き、四つ目を示した。
「旧導魔路からの魔力供給を止める」
「ここから?」
マナが尋ねる。
「無理よ。内側から基幹を閉じたら、こっちの生命維持まで同時に落ちる。外側の分岐で止める必要がある」
「じゃあ、誰が――」
アレンは途中で気づいた。
「ケイムか」
「ええ」
ディアナは小さく頷く。
「地上から旧導魔路の構造を追えるのは、ケイム先生だけよ」
「でも通信は切れてるぞ」
ドレイヴが胸元を指した。
「さっきから何度やっても、雑音しか返ってこねえ」
「言葉は送れない」
ディアナは床へ手を触れた。
そこには黒い反応とは別に、旧導魔路本来の淡い魔力が今も流れている。
「でも今、旧導魔路そのものは地上までつながってる」
「……それを使うのか?」
「魔力を送るんじゃない。流量を一瞬だけ変えるの」
ディアナは測定結晶を一つ、術式線の上へ置いた。
「保守時の遮断試験と同じよ。短い負荷変化なら、地上の観測側でも拾える」
「ケイムが気づかなかったら?」
「気づくわ」
「なんで言い切れんだよ」
「今頃、先生が地上で何してると思う?」
ドレイヴは少し考えた。
「……地図を床いっぱいに広げてる」
「私もそう思う」
マナが呟くと、アレンも頷いた。
「たぶん、寝転がる場所もなくしてるな」
「そこまで言う?」
「ケイムならやるだろ」
束の間、張りつめた空気がほどけたあと、ディアナは測定結晶へ魔力を流した。
旧導魔路の基幹線が、僅かに明滅する。
一度。
間を置いて、二度。
そしてさらに長い間を置き、三度。
「これで、こっちが生きてることと、外側で遮断してほしいことは伝わるはずよ」
「最後に三回なのは?」
「最初の一回と二回が、保守時に使う遮断要求の符号。最後の三回が停止時間を示す。三回――つまり、三秒」
ディアナは答えた。
「三秒だけ止めるの?」
「それ以上は駄目。旧導魔路からの供給が完全に落ちたら、マナが作る仮の神経路だけで生命維持を支えることになる。長くはもたないわ」
「一秒じゃ?」
「短すぎる。共鳴が切れきらない」
「始めるタイミングは?」
アレンが尋ねる。
「作戦の直前に、今度は一度だけ長く流量を落とす。それを開始の合図にする」
最後に、ディアナはアレンをまっすぐ見た。
「五つ目」
地下室から人の声が消え、遠くから響く脈動だけが残った。
「アレン」
「ああ」
「ケイム先生が魔力を止める三秒の間に、あなたがユリスと黒い結晶の共鳴だけを切る」
「俺が?」
「雷で」
アレンは自分の右手を見た。
「刻印の雷を使うのか?」
「通常の雷魔法じゃ強すぎる。それに外から流せば神経全体へ広がるわ。あなたが右腕に使っているのと同じように、細く制御した雷を共鳴経路だけに流す必要がある」
「……ユリスの神経に?」
「触れることになる」
マナがすぐに尋ねた。
「危険は?」
ディアナは答える前に、ユリスの神経反応を測定した。
「あるわ」
「どのくらい?」
「三秒を超えたら危険」
アレンはディアナを見返した。
「三秒を超えたら?」
「ユリスの神経が焼ける」
誰も動かないまま、ディアナは言葉を続けた。
「でも、短すぎても駄目。共鳴が残れば、黒い結晶側からまた接続される」
「じゃあ……三秒ちょうど?」
マナが尋ねる。
「旧導魔路を止めるのは三秒。でも、アレンが雷を流す時間は神経反応を見ながら決める。三秒は上限よ」
ディアナはマナを見る。
「時間を見るのは、あなた」
マナの指が杖を握り直した。
「わたしが?」
「アレン自身には数えさせない」
その意味は、全員に分かっていた。
三秒。あと少し。もう少しならまだいける。
アレンが最も危険になるのは、そうした判断を自分一人で始めたときだ。
「マナが止めてって言った瞬間に、止める」
ディアナはアレンへ言う。
「0.1秒でも延ばさないで」
「分かった」
「アレン」
今度はマナが呼んだ。
「わたしが止めてって言ったら?」
「止める」
「自分では、まだできるって思っても?」
アレンはユリスの顔を確かめた。ユリスもまた、こちらを見ていた。
黒い空間で、一度、二人は自分の名前を選び直した。
あれを無かったことにはしたくない。
だからこそ。
「……止める。そこから先は、お前たちに任せる」
マナの張りつめていた頬が、わずかに緩んだ。
「うん」
ディアナが測定結晶へ目を落とす。
「なら、手順を詰めるわ」
◇
地上では、ケイムの前に置かれた一つの結晶が規則正しく明滅した。
一度。
間を置いて、二度。
そして、少し長い間のあとに三度。
「……これは」
自然な揺らぎではない。黒い反応の脈動とも違う。
旧導魔路の保守試験で使われる、意図的な流量変化だ。
「……ディアナだね」
返事はない。それでもケイムは結晶を床へ置き、波形を確かめた。
基幹への遮断要求。最後は三回。
「三秒か」
ケイムはすぐに地図を引き寄せ、施設へ直接つながる太い経路を追った。
止めるのは、そこだけ。現在の都市導魔網へ影響を出さず、ほかの旧経路へ黒い反応を押し戻さないように。
三秒。
「……なかなか無茶を言うね」
そう口にしながらも、ケイムの手はすでに動いていた。
周囲の兵へ指示を飛ばし、複数の封止具を旧導魔路の分岐位置へ配置させる。自分は中央に残り、あとは地下から送られる、一度だけ長く流量が落ちる開始合図を待つ。
三秒だけ完全停止させ、その直後に供給を戻す。早すぎても駄目で、遅くても駄目だ。
そして、その三秒で地下側が何をするつもりなのか、そこまでは分からない。
ケイムは先ほどの地図を見た。
三本の道と、その中央に残された空白。
「……そうか」
口元に、小さな笑みが戻る。
「君たちも、そこに線を引いたんだね」
何をするのかまでは見えない。それでいい。
見えない場所があることこそ、今は唯一の可能性だった。
◇
作戦の準備が進むにつれて、地下室の空気は変わっていった。
恐怖が消えたわけではない。黒い反応は今も広がり、魔導人形の魔法石も明るさを取り戻し始めている。天井の継ぎ目からは、細かな砂が落ちていた。
それでも、先ほどまでとは違う。
何をすればいいのか。誰が何をするのか。
それだけは、もう決まっていた。
「神経経路、もう一回確認するね」
マナがユリスのそばへ膝をつく。
「少し冷たく感じるかもしれないよ」
「……はい」
ユリスはまだ疲れた顔をしていたが、自分の名前を口にしたときの意志は残っている。
「俺は……何をすればいいですか」
「今は、何もしなくていいよ」
マナは答えた。
「呼吸だけゆっくりして。苦しくなったら、すぐ言って」
「でも……」
「言うのも、ちゃんと役割だから」
ユリスはためらうように伏し目になり、それから頷いた。
「……分かりました」
少し離れた場所では、ディアナとエドガーが刻写術式の層を確認している。
「この外周が、最後に加えたものね?」
「ああ」
「その下は?」
「神経補助だ」
「生命維持と共有しているのは?」
「ここから内側だ」
「……なるほど」
ディアナは床へ新しい符を並べ、それを見たエドガーの眉がわずかに上がる。
「外側から剥がしたあと、そこに封止文を入れるのか」
「ええ」
「それでは魔力が逆流する」
「だから、マナの水路へ逃がす」
「負荷が大きすぎる」
「三秒だけなら持たせるわ」
「……理論上は、だろう」
その言葉で、ディアナの指先が止まった。
エドガー自身も、口にしたあとで気づいたようだった。
理論上。可能性。
患者へ何度も使ってきた言葉だ。
ディアナは、彼を責めなかった。
「そうね」
ただ、それだけ答える。
「理論上は、ね」
「……」
「だから、異常が出たら止める」
エドガーを見る。
「あなたのやり方とは、そこが違うわ」
エドガーは何も返さず、やがて静かに頷いた。
「……必要な数値は、全部出す」
「お願い」
責任を消すためではない。今、生きている人間を助けるための――それだけの会話だった。
「こっちは準備できてるぞ!」
通路側からドレイヴが叫ぶ。
「まだ何も始まってないのに、大声出さないで!」
「聞こえねえと思ったんだよ!」
「同じ部屋でしょ!」
「お前らが小せえ声で喋ってたんだろ!」
そのやり取りを聞きながら、アレンは黒い手袋の端に左手を掛け、少しだけずらした。
露わになった右手首に、見た目の変化はない。腫れてもおらず、皮膚の色もいつもと同じだ。
アレンは左手の指で右手首を押した。
何も感じない。それ自体は、いつものことだった。
もう少し上を押してみる。
やはり、何も感じない。
「……?」
アレンの左手が、そこで固まった。
さらに上へ滑らせ、前腕の途中を押す。
それでも、何も感じない。
そこは、これまで感覚が残っていた場所だった。
肘に近いところまで左手を滑らせて、ようやく鈍い圧迫感が戻った。
「……くそ」
掠れるほどの声だった。
けれど
「アレン?」
マナには聞こえた。
すぐに振り向く。
「今、何したの?」
「……」
黙っていればいい――そんな考えが、一度だけ頭をよぎった。
感覚だけだ。右手はもともと動かないし、使うのも三秒だけ。
ここまで準備した。ユリスも待っている。今言えば、止められるかもしれない。
けれど、その考えが浮かんだこと自体に、アレンは嫌気が差した。
「マナ」
「何?」
「感覚がないところ、広がってる」
マナの顔つきが険しくなった。すぐに立ち上がると、アレンの右腕へ寄る。
「どこまで?」
「自分で触った限りだと、前腕のほとんどだ」
マナは返事をせず、杖を右腕へ向けた。
淡い水色の光が手首を包み、魔力反応、神経反応、血流を一つずつ確かめていく。
ドレイヴとディアナも近づいた。
「どうだ?」
ドレイヴが聞く。
「待って」
マナは短く返すと、淡い光をゆっくりと腕の上へ進ませ、肘のあたりで止めた。
「さっきより広がってる」
ディアナも測定結晶を近づけた。
「雷鳴の刻印の出力は?」
「今は上がってない」
「黒い反応は?」
「右腕には出てない。でも……黒い空間に入ったあとの負荷が残ってる可能性はある」
マナは杖を下げないまま告げた。
「中止しよう」
即答だった。
「マナ」
「駄目」
「まだ何も言ってないだろ」
「続けるって言うつもりでしょ」
アレンは言葉に詰まった。
「作戦前に感覚麻痺が進んだんだよ。これから刻印を使うのに、原因が分からないまま始められない」
「でも――」
「アレン」
「……俺は続けたい」
マナの唇が結ばれる。
「ユリスをここまで戻せた。方法も見つかった。あと少しなんだ」
「そのあと少しで、何回無茶したと思ってるの?」
「分かってる」
「分かってないから――」
「でも、俺一人で決めるつもりはない」
その言葉でマナの声が止まり、アレンは三人の顔を順に確かめた。
「続けたい。でも……この状態でやれるかは、俺一人じゃ決めない。みんなで決めよう」
ドレイヴは黙ったまま、その言葉を受け止めた。ディアナも右腕からアレン自身へ意識を移す。
アレンは、自分でも不思議なほど落ち着いていた。
怖くないわけではない。感覚のない範囲が、また広がった。それがどこまで進むのかも分からない。
それでも、だからといって隠したまま進むことだけはしたくなかった。
「状況を見てくれ」
アレンが言う。
「無理そうなら、そこで止める」
「本当だな?」
ドレイヴが尋ねた。
「ああ」
「三人がやめろって言ったら?」
「止める」
「二人なら?」
「多数決かよ」
「いいから答えろ」
「……止める」
「よし」
「何がよしなんだよ」
ドレイヴは鼻から息を吐いた。
「前よりはマシだ」
マナはまだ不安そうだったが、もう一度、右腕へ杖を向けた。
「感覚がないのは、手首から肘の少し手前まで。今のところ、これ以上は広がってない」
「筋肉側は?」
ディアナが聞く。
「動かないところは前と同じ。感覚だけが、肘の少し手前まで広がってる」
「刻印の経路は?」
「通ってる」
ディアナが測定結晶を確認する。
「少なくとも、測っている間に麻痺は広がっていない。刻印の経路も通ってる。だから、雷を流すこと自体はできるわ」
「三秒、もつのか?」
アレンが聞くと、ディアナはすぐには答えなかった。
黒い結晶、ユリス、マナが作る予定の水路、刻写術式、そしてアレンの右腕。
それらを、順に確かめていく。
「三秒は勧めないわ」
「じゃあ、中止だよ」
マナが言う。
「待って」
今度はディアナが止めた。
「手順を変えればいい」
「どう変えるの?」
「アレンに任せる部分を減らす」
ディアナは床の術式図へ戻った。
「今の手順だと、私が共鳴経路の手前まで解体して、旧導魔路が止まってから、アレンが三秒で最後を切る予定だった」
「ああ」
「アレンに任せる最後の一層を、先に私が剥がす」
「供給が流れたままで?」
エドガーが反応した。
「危険だ」
「分かってる」
「共鳴層を先に剥がせば、生命維持側へ黒い反応が流れ込む」
「だから、その前にマナの仮神経路を完成させる」
ディアナはマナを見る。
「できる?」
マナは術式を見つめ、しばらく考えたあとで頷いた。
「今の予定より先に水路を通しておけば……受けられると思う」
「どのくらい?」
「長くは無理。でも、切断が終わるまでなら」
「なら、そこで支えて」
ディアナは続ける。
「私が外周をもう一層先に解体する。ケイム先生が旧導魔路を止める時間は、三秒のまま」
「アレンは?」
「雷を流すのは二秒だけ」
地下室が静かになる。
「……二秒」
アレンが繰り返した。
「ええ。一秒短くする」
「それで切れんのか?」
ドレイヴが尋ねる。
「私が最終層の直前まで解体できれば」
「できなかったら? 途中まで準備してても、人形が動き出しててもか?」
「条件が揃ってなければ始めない。アレンには使わせない」
ディアナは即答した。
ドレイヴは少し考え、頷いた。
「俺はそれでいい」
アレンが彼を見る。
「いいのか?」
「三秒より二秒の方がマシだろ」
「理由、それだけか?」
「難しいことは、こいつらが考えてる」
ドレイヴはマナとディアナを顎で示した。
「俺は、お前の腕が悪くなってんなら、使う時間は減らした方がいいと思う。それだけだ」
「……分かった」
次に、ディアナはマナへ問いを渡した。
「あなたは?」
「……」
マナはすぐには答えなかった。
右手首から肘の少し手前まで。数センチどころではなく、ここへ来るまで保たれていた感覚が、前腕のほとんどから消えている。
それがアレンの呪縛にとって何を意味するのか、マナは誰より近くで見てきた。
「本当は、今でも中止したい」
「うん」
アレンは反論しなかった。
「医療塔に戻って、ちゃんと検査してほしい」
「うん」
「右手がこれ以上悪くなるのも嫌」
「……ああ」
「でも」
マナはユリスの顔色を確かめた。
「ここで何もしなかったら、ユリスたちを助けられないかもしれない」
それからディアナへ問いかける。
「二秒なら?」
「三秒より、アレンへの負荷は減るわ」
「ユリスは?」
「私が先に解体できれば、その分、切断に必要な時間も短くできる」
「失敗したら?」
「始めない」
マナは最後にアレンを見た。
「二秒目で、わたしが『止めて』って言う」
「ああ」
「言った瞬間に止める」
「ああ」
「共鳴がまだ残って見えても?」
「止める」
「自分では、あと少しだって思っても?」
「止める」
「……絶対?」
アレンは黒い手袋を見た。
また少し広がった失われた感覚。その腕を左手で一度だけ押さえる。
「絶対に止める」
マナは長く息を吐いた。
「……分かった。なら、わたしも賛成する」
残ったのは、アレン自身だった。
三人が、アレンの答えを待つ。
以前なら、こんなふうに自分の意見を最後まで待たれることはなかった。
いつも自分が先に、「俺がやる」「俺ならできる」「俺が責任を取る」と決め、他の人間が選ぶ余地まで消していたからだ。
黒い扉も同じだった。
代わりになるか、見捨てるか――二つしかないように迫ってきた。
けれど、ユリスは名前を選び、アレンも一人で代わりになることを拒んだ。
その選択を、今度は現実の中でも続ける。
「俺も、それでやりたい」
アレンが答えると、ディアナは頷いた。
「じゃあ、変更点を確認するわ」
床に五つの光点が並んだ。
「マナが先に仮の神経伝達路を完成させる。私は予定より一層深く、共鳴の最終層の直前まで剥がす。ドレイヴとケイム先生の役目は変わらない」
そして最後の一点を示す。
「アレン。あなたが雷を流すのは、最初の二秒だけ」
「ああ」
「二秒目で、マナが止めるように言う」
「そこで止める」
「残りの一秒は?」
「俺は何もしない」
ディアナの口元がかすかに動いた。
「正解」
ドレイヴが大剣を肩へ担ぐ。
「やっと分かりやすくなったな」
「最初から同じことを説明してたでしょう」
「長かったんだよ」
「あなた向けなら、五行もいらないわね」
「なんだそれ」
「守る。壊しすぎない。動くな。以上」
「三行じゃねえか!」
マナがふっと笑い、アレンの口元にもわずかな笑みが浮かんだ。
だが、すぐに。
ゴン――。
黒い脈動が地下を走り、二人の笑みが消える。
通路の向こうでは、人形の胸部が赤く灯った。一体、そして二体。
天井から砂が落ち、細かな亀裂が走る。黒い結晶の内部では、光が心臓のように収縮していた。
時間はない。
それでも、役割はもう決まっていた。
マナが命をつなぎ、ディアナが術式をほどく。ドレイヴが場所を守り、ケイムが地上から三秒を作る。
そしてアレンは、自分に任された二秒だけを使う。
誰か一人が、すべてを終わらせるのではない。
「配置について」
ディアナが告げると、マナはユリスの横へ、ドレイヴは通路側の崩れ始めた天井の下へ移動した。
ディアナは黒い結晶と術式の境界へ向かい、アレンはユリスから数歩離れた共鳴経路の前に立つ。
右腕を下ろす。
手は動かず、感覚麻痺は肘の少し手前まで広がっている。
そのことを、今は三人とも知っている。
アレンは仲間たちを見た。
マナが頷き、ドレイヴが大剣を構える。ディアナも杖を上げた。
地上ではきっと、ケイムが開始合図とその先の三秒を待っている。
ゴン――。
黒い結晶が、もう一度脈打った。
まるで、決められた未来から外れるなと告げるように。
アレンはその音を聞きながら、左手を右手首へ添えた。
「……今度は」
誰に向けたわけでもなく、短く呟く。
「俺たちで決める」
そして、彼らが選んだ、用意されていない道へ踏み出す直前。
地下室に、張り詰めた静寂が落ちた。




