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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第三章『選ばれなかった者の選択』

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第35話『黒い扉の前で』


「……俺は、誰だ?」


 ユリスの声が聞こえた。

 ほんの数歩先から届いたはずなのに、その声はひどく遠い。


 アレンは答えようとした。

 ユリスの名前を知っている。ここへ来た理由も、彼を待っている少女の名も知っている。

 だから、あとは口を開けばいい。


 ――ユリス・フェーンだ。


 そう言えばいい。

 だが。


 ゴン――。


 黒い結晶が脈打った。

 地下室の床が揺れたわけではない。耳で聞いた音でもない。


 身体の奥――意識そのものを叩かれた。


「っ……」


「アレン?」


 マナの声。


 感覚を失っているはずの右手の指先から、熱に似た感覚が走った。

 手首、前腕、肘――そして胸の奥へと、一気に駆け上がっていく。


「待って、反応が――」


 ディアナの声が途切れた。

 薄暗い地下室も、黒い結晶も、寝台にいるユリスも。


 すべてが、黒に塗り潰された。


     ◇


 音も光もない。

 地面があるのかさえ分からない。


 それでも、アレンは立っていた。


「……ここは」


 自分の声すら、空間には響かない。

 口から出た言葉が、そのまま頭の中へ戻ってくる。


 以前とは違う。


 最初にここへ来たときは、果てのない白の中に巨大な黒い扉だけがあった。

 あの暴走のときは、黒い水面へ紫色の雷が降り続けていた。


 だが今は、水面も雷もない。空も地面も境界も、すべてが黒い。

 どこまでが自分で、どこからが闇なのかさえ分からない。


 そして、その闇の中に扉はあった。


 アレンは動けなかった。


 見上げた先には、以前と同じ巨大な黒い扉がそびえている。

 城門などという言葉では足りない。


 天井もない空間で、なお先端が見えないほどの高さを持ち、光を反射することもなく、ただそこだけが周囲よりさらに深い黒として存在している。


 その表面には、見覚えのある巨大な鎖。


 一本一本に、今も理解できない文字が刻まれていた。


「……減ってる」


 声が漏れた。

 数えられるような量ではなかったはずだ。幾重にも、何重にも、扉を締めつけていた。


 だが、ひと目で分かる。


 以前より明らかに少ない。

 扉の黒い表面が見える場所も増えている。


 何本かの鎖は途中で千切れ、垂れ下がったまま闇の底へ消えていた。別の一本は、今にも外れそうなほど緩んでいる。


 ゴン――。


 扉の向こうで、何かが動いた。

 それと同じ間隔で、アレンの胸の奥も震える。


「……また、お前か」


 返事はない。

 代わりに流れ込んできたのは、言葉でも声でもなかった。


 意味だけが、頭蓋の内側へ直接押し込まれる。


 ――鍵。


「……」


 アレンの奥歯が軋む。

 聞き覚えのある呼び方だった。


 アルカナリウムで何度も浴びせられた呼び方。帝国からも、扉の向こうの何かからも。

 自分の名前を奪うように、役割だけを押しつけてきた言葉。


「俺は――」


 言い返そうとして、アレンは気づいた。


 扉の前、少し離れたところに人がいる。

 黒い空間に溶け込むように、一人の青年が立っていた。


「ユリス?」


 呼びかける。


 だが、青年は反応しない。

 アレンは近づきかけて、足を止めた。


 ユリスの身体には、無数の黒い線が走っている。地下室で見た刻写痕(こくしゃこん)とは比べものにならないほどの数だった。


 首筋から胸へ、胸から腕へ。さらに脚や背中、指先にまで、黒い線は全身を這うように広がっている。


 それは皮膚の上を這っているだけではない。

 身体そのものを書き換えようとしているように見えた。


 黒い線は、すでに顔にまで届いていた。頬を横切り、唇を縁取り、目元へと伸びている。


 だが、異様なのはそれだけではない。

 顔そのものが、曖昧になっていた。

 輪郭は闇へ溶け、目鼻の位置さえ少しずつ失われつつある。


 アレンは、その姿にぞっとした。


 脳裏に浮かんだのは、排水路で見つかった男だった。

 自分の名前を忘れ、娘の顔を忘れ、帰る家さえ分からなくなった男。


 刻写(こくしゃ)術式は、神経と記憶を同じ経路として扱い、身体を動かす代わりに記憶を削る。

 名前も、顔も、場所も、大切な記憶も。


 そして最後には、何のために力を欲したのかさえも。


「ユリス!」


 今度は、さらに強く呼びかけた。

 すると、青年の肩がわずかに跳ねた。だが、それでも振り返らない。


 そのとき――


 ――器。


 また、意味が流れ込んできた。


 だが今度は、アレンへ向けられたものではない。目の前にいる青年へ向けられたものだと、説明されなくても分かった。


「……器?」


 その言葉に呼応するように、ユリスの身体を覆う黒い線が一斉に脈打ち、顔の輪郭がさらに崩れていく。


「やめろ!」


 アレンは駆け寄ろうとした。


 しかし、足元に黒い波紋が広がったかと思うと、ユリスとの距離が引き伸ばされる。

 一歩進むたびに、その一歩分だけユリスが遠ざかっていった。


「くそ……!」


 走る。

 届かない。それでも、アレンは止まらなかった。


 すると、三つ目の意味が落ちてきた。


 ――残響。


 それが誰を指した言葉なのか、分からない。


 アレンなのか。ユリスなのか。あるいは、名前や記憶など、この場所にとってはすべて過ぎ去った音の残りにすぎないということなのか。


 鍵。

 器。

 残響。


 それ以外は必要ない――そんな意思だけがはっきりと伝わってくる。


「俺のことを、勝手に決めるな」


 アレンは吐き捨てるように言い、黒い波紋を踏み越えた。


 距離は詰まらない。

 それでも、もう一歩踏み出す。


「俺は……鍵じゃない」


 その言葉に、扉を縛る鎖が小さく鳴った。


 以前も、同じことがあった。

 名前を口にしたとき。自分が何者なのかを、自分自身で決めたとき。


 外れかけていた鎖は、元の位置へと戻った。


 なら――。


 アレンは足を止めた。

 まず向き合うべきは、ユリスではない。自分自身だ。


 扉の向こうにいる存在と向き合う。

 わずかな隙間の奥で、赤黒い光が揺れていた。

 それが瞳なのか、ただの光なのか、以前ほどはっきりとは見えない。


 だが、こちらを見ている。

 それだけは分かった。


「俺はアレン・ライオネットだ」


 黒い空間へ、名前を叩きつける。

 返事はない。


「鍵なんかじゃない」


 なお前へ出る。


「刻印でもない」


 その言葉とともに、足元の黒い波紋が消えた。


「アレン・ライオネットだ」


 今度は、ユリスとの距離が縮まる。


 あと数歩。


 アレンは青年の正面へ回り込んだ。

 そこにあるはずの顔は、ほとんど消えかけていた。


 目も口もある。

 だが、誰の顔だったのか思い出せないかのように、特徴だけが抜け落ちている。


「……お前は?」


 ユリスが僅かに顔を上げた。


「聞こえてるだろ」


 アレンは目を逸らさない。


「俺はアレン・ライオネットだ」


「……お前は、誰だ?」


 ユリスの唇が動く。

 だが、声は出ない。


 もう一度、何かを言おうとする。それでも、言葉は音にならなかった。

 やがて青年は自分の胸へ手を当て、黒い線に覆われた指をかすかに震わせた。


「ユリス」


 アレンは、その名前を呼んだ。

 青年の肩が小さく動く。


「それがお前の名前だ」


「……ユ……」


 だが、黒い線が喉元まで這い上がり、言葉はそこで消えた。


「思い出せないなら、俺が知ってることを言う」


 アレンは、そのまま続けた。


「リエナが待ってる」


 その名を口にした瞬間、ユリスの指先がぴくりと動いた。

 アレンは、その反応を見逃さない。


「リエナ」


 もう一度、今度ははっきりと告げる。

 すると、黒い線に覆われた顔が僅かにこちらへ向いた。


「……り、え?」


「ああ」


 アレンは頷く。


「お前の妹だ。中央医療塔で、魔法灯を自分で点けられなかったって、お前が気にしてたとき……あいつ、お前に言っただろ」


 ユリスの瞳の奥に、かすかな動揺が走った。


「今日は薬も受け取れたし、わたしもちゃんと歩けた。だから、何もできなかった日じゃないって」


 ユリスの唇が震える。


「……何も」


「そうだ」


 すると、闇の一角に淡い色が差した。


 そこに浮かんだのは、中央医療塔の長椅子だった。

 魔法灯を見上げるユリス。その傍らで、リエナが兄の顔を覗き込んでいる。


 ――だから、何もできなかった日じゃないでしょ?


 アレンが覚えているのと同じ光景だった。

 だが、それが誰の記憶としてこの場所に浮かんだのかは分からない。


 映像はすぐに闇へ溶けたが、ユリスの顔には一つだけ輪郭が戻っていた。


 目元だ。


 初めて中央医療塔で会ったときと同じ、疲れているのに誰かを気遣う目だった。


「お前が自分でここへ来たことも、リエナは知ってる」


 ユリスの表情が強張り、それに呼応するように、黒い線が再び脈打った。


「……俺が」


「ああ。自分で同意書に名前を書いた。治療を受けることは、力が欲しくて自分で決めた」


 否定はしない。

 ギデオンに操られたわけでも、エドガーに無理やり連れてこられたわけでもない。


 ここへ来ることを選んだのは、ユリス自身だ。


 その選択まで否定してしまえば、ユリスが何を望み、何に追い詰められてここへ来たのかまで消してしまう。


 だからこそ、その選択にはなかったものまで奪われていいわけではない。


「でも」


 アレンは距離を詰める。


「名前を忘れたいって選んだわけじゃない」


 ユリスが顔を上げた。


「リエナのことまで忘れたいなんて、一度も言ってない」


「……リエナ」


「そうだ」


「俺は……あいつの」


 黒い筋が頬を走り、再び顔が崩れかける。

 アレンは、さらに語気を強めた。


「リエナの兄だからって、お前が全部背負って苦しまなきゃいけないわけじゃないだろ!」


 ユリスの動きが止まった。


「リエナは、自分のせいでお前が苦しむことなんて望んでない」


 黒い扉の奥が、僅かに震える。


「薬代が足りない。仕事もない。魔法も使えない。だから、自分がもっと何かできればって……ずっとそう思ってたんだろ」


「……」


「でも、リエナはそんなこと望んでない」


 アレンは、調査の最中に聞いた少女の言葉を思い出す。


 リエナも、兄が自分の治療費を稼ぐために働いていることを気にしていた。

 それでも、兄が自分のために壊れていくことまで望んでいるはずはない。


「お前が力を持って帰ってくることだけを待ってるんじゃない」


 ユリスの表情に迷いが差す。


「お前が帰ってくるのを、待ってる」


 沈黙。


「魔法が使えるお前じゃない」


 さらに一歩。


「金を稼げるお前でもない」


 あと一歩。


「ユリス。お前を待ってる」


 青年の唇から、息が漏れた。


「……ユリス……」


「ああ」


「ユリス……」


 アレンは答えない。


 今度は、自分の口で言わせる。

 ユリスの両手が震え、その黒い筋の下から肌の色が少しずつ戻っていく。


「俺は……」


 声が詰まる。

 それでも、ユリスは逃げなかった。


「俺は……ユリス……」


 その瞬間、扉の奥から低い圧力が押し寄せる。


 ――器。


 ユリスの身体が揺らぐ。

 アレンは、すぐに言い返した。


「違う!」


 ――器。


「名前を言え!」


「俺は……」


 ユリスが歯を食いしばる。

 黒い線に覆われた顔に、初めて明確な表情が戻った。


 苦痛と恐怖。


 それでも、その奥には確かな意思があった。


「ユリス……」


 息を吸う。


「ユリス・フェーンだ」


 ガァン――!


 巨大な金属音が、黒い空間を貫いた。


 扉から外れかけていた鎖の一本が跳ね上がる。闇の底へ垂れ下がっていたはずのそれは、何かに引き戻されるように宙を走り、そのまま巨大な扉へ巻きついていった。


 一周、二周、三周。


 そして最後に、文字の刻まれた留め具が黒い表面へ叩きつけられる。

 外れかけていた鎖が一本、扉へと戻った。


「……戻った?」


 アレンの目は、巻き戻った鎖へ吸い寄せられた。


 ユリスは刻印者ではない。三十三の刻印とつながっていると考えられてきたこの封印に、本来なら関係がないはずだ。


 それなのに――もし今の変化が、ユリスが人間としての名を取り戻したことに呼応したのなら。

 刻印者ではない人間まで、この封印に関わっていることになる。


 その意味へ思考を伸ばしたそのときだった。

 黒い空間そのものが、アレンへ触れた。


「――っ!」


 冷たい。


 同時に、熱い。

 相反する感覚が重なったまま、何かが身体の内側へ入り込んでくる。


 そして、言葉にならない誘惑が流れ込んだ。


 アレンはユリスを見る。

 全身には、なお黒い線が残っている。名前を取り戻したからといって、苦痛が消えたわけではない。


 刻写術式に削られた記憶が、すべて元に戻った保証もない。身体も傷ついている。

 このまま現実へ戻れば、何が残るのか分からない。


 そのすべてを――


 ――引き受ければいい。


 アレンの喉の奥で息が詰まった。

 意味だけが、優しく染み込んでくる。


 ユリスの痛みも、刻写痕(こくしゃこん)も、失われかけた記憶も、刻写術式によって傷ついた身体も。

 そのすべてをアレンへ移せばいい。


 ――器。


 今度は、その言葉が向けられた先はユリスではない。

 アレンだった。


「……俺が?」


 返事はない。

 だが、答えは分かっていた。


 代わればいいのだ。


 ユリスの代わりに、アレン・ライオネットが新しい器になればいい。

 そうすれば、ユリスは助かる。


 ――そう思わせる意味が、疑う隙間さえ与えず染み込んでくる。


 リエナのもとへ帰ることができる。

 少なくとも、これ以上は何も失わずに。


 名前も、取り戻しかけた記憶も、妹との時間も、そのまま抱えて。


「……それで、助かるのか」


 闇が脈打つ。


 それは、まるで肯定するかのようだった。少なくとも、アレンにはそう感じられた。

 ユリスの腕を覆っていた黒い線の一本が皮膚から浮かび上がり、糸のように宙を漂いながらアレンへ伸びてくる。


 やがて、その先端が右手へ触れた。

 すると、感覚のないはずの指が熱を持つ。


 続いてもう一本、さらに一本と黒い線がユリスの身体を離れ、次々とアレンへ向かってきた。

 それらが移るたびに、ユリスの顔から苦痛が薄れていった。


「……」


 アレンは動けなかった。


 これで救える。

 頭に浮かんだのは、それだけだった。


 自分の右手は、もう動かない。刻印の呪縛も進んでいるし、黒い扉の反応も、もともと自分の中にある。


 なら――。


 最初から壊れ始めている自分が引き受ければいい。

 それでユリス一人を救えるのなら、悪くない。


 左手が上がり、ユリスへと伸びる。


 触れればいい。

 たぶん、それだけで終わる。


「……アレンさん?」


 ユリスの声がした。

 それでも、アレンは答えなかった。


「何を……」


「ユリス、お前は帰れ」


 口から出た言葉は、驚くほど静かだった。


「リエナが待ってる」


「でも……」


「俺は大丈夫だ」


 そう言い切った途端、どこかで何かが強く引っかかった。


 大丈夫。


 その言葉を、これまで何度使っただろう。

 右手が動かなくなったときも、痺れが腕へ広がったときも、雷が止まらなくなったときも。


 心配するマナへ。怒るドレイヴへ。そして、自分自身へ。

 大丈夫だと、何度も言ってきた。


 黒い線がアレンの手首へ巻きつき、そのまま腕へ這い上がろうとする。


 その瞬間――。


『――レン!』


 音が割れた。


 遠い。


 声なのか、それとも現実で呼ばれている感覚が、この場所まで滲んできたのか分からない。


『アレン!』


 それでも、マナだということだけは分かった。

 黒い空間がその声を押し潰すように、闇をさらに厚くしていく。


 アレンは手を伸ばしたまま、ユリスを見た。


 あと少し。

 これで一人を救える。


 なら――。


『やめて!』


 今度は、マナの声がはっきりと届いた。


『一人で決めないで!』


 その言葉に、アレンの左手が止まった。


「……」


 その言葉だけが、黒い世界に残った。


 そして、もう一つ。


 旧導魔路へ入る前、帳面に残した言葉が蘇る。


 ――誰かを助けるとき、自分だけを数から外さない。


 全員で帰る道を、最後まで諦めない。

 その約束を守るために、四人でここまで来た。


「……危なかった」


 アレンは小さく呟いた。

 救う方法を見せられた瞬間、古い考え方へ引き戻されかけていた。


 伸ばしていた左手を引くと、黒い線が指へ絡みつこうとする。アレンはそれをすぐに振り払った。


 ――器。


「違う」


 闇が震えた。


 ――苦痛は移る。


「それで?」


 ――器が受ければ、ひとつは救われる。


 その言葉を聞きながら、アレンは静かに扉を見上げた。


「それで……救ったことになるのか?」


 返事はない。


「ユリスを助けるために、今度は俺が代わりに壊れる」


 黒い線が右腕を這う。


「リエナのところへ帰すために、俺はマナやドレイヴのところへ帰れなくなる」


 線が止まった。


「それじゃ同じだろ」


 ユリスを見る。


「誰か一人に全部押しつけるだけだ」


 エドガーは、ユリス自身が選んだと言った。ユリスも、自分で決めたと言っていた。


 だが、ギデオンは、その選択肢を生み出すための材料を置いた。絶望した人間がどちらへ手を伸ばすか、分かったうえで。


 今、扉の向こうにいる何かも同じだ。


 ユリスを救うか、自分を守るか。

 差し出しているのは、その二つだけだった。


「俺一人が代わりになることを、救うとは呼ばない」


 黒い扉が震え、その隙間の奥で赤黒い光が大きく揺れた。


 ――なら、器は失われる。


「決めるのはお前じゃない」


 アレンは一歩、ユリスの横に並んだ。


「俺でもない」


 ユリスが驚いたようにアレンを見る。


「戻ってから考える」


「……戻ってから?」


「ああ」


「助かる方法が……あるんですか」


「分からない」


 アレンは即答した。

 ユリスが僅かに目を瞬く。


「今は分からない。でも、ここで俺一人が勝手に決めるよりは、ずっとましだ」


 外には、マナもドレイヴも、ディアナもいる。さらにケイムもいる。


 そして、リエナが待っている。


「お前も、勝手に決めるな」


「……俺は」


「一回やっただろ」


 ユリスは黙った。


「リエナに何も言わず、一人でここまで来た」


「……」


「まあ……俺も人のこと言えないけどな」


 アレンの口元に、一瞬だけ苦い笑みが浮かぶ。


「だから今度は、戻ってから決めよう」


 黒い空間に細い亀裂が走り、その向こうから青い光が漏れた。

 マナの魔力に似た色だった。


「ユリス」


 アレンは横にいる青年へ顔を向けた。


「名前、忘れるなよ」


 ユリスはしばらく黙っていた。


 やがて。


「……ユリス」


 自分へ確かめるように言う。


「ユリス・フェーン」


「ああ」


 亀裂が広がり、黒い線がユリスの顔から剥がれ落ちていく。


 すべてではない。身体には、まだ残っている。

 それでも、もう顔は曖昧ではなかった。


 中央医療塔でアレンの手袋を拾った青年。消えない小さな火を見て泣いた青年。そして、妹の名を呼ぶときだけ、声が少し柔らかくなる兄。


 そこにあるのは、ユリス・フェーンの顔だった。


 ゴン――。


 最後に、扉の奥から大きな脈動が届く。


 アレンが振り返る。

 そこには、鎖の減った巨大な黒い扉と、今しがた新たに一本だけ戻った鎖があった。


 その向こうで、何かがじっと二人を見ている。


 ――残響。


 再び意味が流れ込んできた。

 だが今度は、アレンはもう振り返らなかった。


     ◇


「アレン!」


 身体が強く揺さぶられた。


「――っ!」


 息が戻り、肺へ冷たい空気が一気に流れ込む。

 アレンは激しく咳き込んだ。


「アレン、聞こえる!?」


「……マ、ナ」


 滲む視界の向こうに、マナの顔があった。

 片膝をつき、両手でアレンの肩を掴んでいる。


 その背後では、ドレイヴが大剣を構えたまま黒い結晶を睨みつけ、ディアナが床へ幾重もの封止術式を走らせていた。


「戻った!」


 マナの声が震える。


「ディアナ、アレンが――」


「聞こえてる!」


 ディアナは振り返らない。


「意識は!?」


「返事できる! 呼吸も戻ってる!」


「右手は?」


 問われて、アレンは右腕を確かめた。

 手袋のない右手には、青黒い雷の紋様が走っている。指は相変わらず動かない。


 だが、そこに黒い線はない。


 少なくとも、ユリスから何かを引き受けた痕跡は見えなかった。


「……変わってない」


「本当に?」


「ああ。右手は……いつもどおりだ」


「それ、安心していい言い方じゃないよ」


 いつものマナらしい返しだった。

 その声を聞いた途端、アレンはようやく現実へ戻ってきたのだと実感した。


「……ユリスは?」


 アレンは身体を起こした。


「待って、急に起きないで――」


「ユリス!」


 寝台へ目を向けると、エドガーがユリスの肩を支えていた。


 黒い刻写痕は、首筋や腕、胸元にまだ残っている。

 だが、先ほどまで虚ろだった目には焦点が戻っていた。


 荒い呼吸を繰り返しながら、ユリスは周囲を確かめる。


 エドガー。ディアナ。ドレイヴ。マナ。

 そして、アレン。


「……アレンさん」


 アレンの肩から力が抜けた。


「俺が分かるのか?」


「……はい」


 ユリスは自分の両手を見下ろした。


 掌には、もう炎はない。


 それでも、その目からは先ほどまでの恐怖が消えていた。


「俺は……」


 胸元を押さえる。


「ユリス・フェーンです」


 エドガーが息を止め、何か言おうとしたものの、言葉にはならなかった。

 ユリスはそんな彼を見たあと、ゆっくりと室内を見回した。


「リエナは……?」


「医療塔にいる」


 アレンが答える。


「お前を待ってる」


「……そう、ですか」


 ユリスは目を閉じ、その口元がほんの僅かに緩んだ。

 その瞬間、ディアナの測定結晶が甲高い音を立てた。


「――全員、離れて!」


「今度は何だ!?」


 ドレイヴが叫ぶ。

 ディアナの前に浮かぶ複数の測定結晶。そのすべての中心で、黒い点が膨れ上がっていた。


「反応が下がらない……!」


「でも、アレンは戻っただろ!」


「違う! 今度はアレンじゃない!」


 ディアナの杖先が黒い結晶へ向けられる。

 その表面の奥には、黒い光が灯っていた。


 一度、二度と脈打つ。


 そして三度――。


 ゴン――。


 低い音とともに、地下室全体が揺れた。


「……結晶が、止まってない」


 エドガーの顔から血の気が引く。

 アレンはすぐさま振り返った。


「何だ?」


「黒い結晶が……」


 エドガーの声が掠れた。


「完全に起動している」


「止められないの!?」


 マナが問いかけると、エドガーが装置へ手を伸ばしかけた。


「触らないで!」


 ディアナが鋭く制する。

 その直後、床を走る古い術式線が一斉に黒く染まった。


「下がれ!」


 ドレイヴがマナの前へ出る。


 だが、黒い光が襲いかかってくることはなかった。

 代わりに、その反応は床から壁へ、壁から天井へ、そして地下室の外へと広がっていく。


 まるで暗い血管を何かが流れていくように、黒い反応だけが次々と伝わっていった。


「……どこへ行ってる?」


 アレンが問いかける。


 ディアナは測定結晶を見つめたまま、答えなかった。

 答えが分からないというより、信じたくないものを前にしているようだった。


 何度も数値を確かめている。


「ディアナ?」


「……旧導魔路」


 ようやく、声が出た。


「この施設だけじゃない」


 黒い点が、測定結晶の内部で次々と枝分かれしていく。


 一つ、二つ、四つ、八つ。


 それでも、増殖は止まらなかった。


「ルミノヴァ地下の旧導魔路全体に……反応が広がってる」


 アレンは足元へ目を落とした。

 その反応の先には旧導魔路がある。


 中央医療塔、旧魔法院、都市結界、軍務施設――かつて大量の魔力を必要とする場所を結んでいた古い地下の網だ。


 地図から消された経路まで含め、そのすべてへ。


 ゴン――。


 遠くで、何かが脈打った。

 今度は目の前の結晶からではない。


 壁の向こう、さらに遠く。

 ルミノヴァの地下深くからだった。


 遠い脈動が一つの経路から、また別の経路へと伝わっていく。


 眠っていた旧導魔路が、黒い反応によって次々と呼び起こされ始めていた。


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