第34話『力を与える医師』
「俺は、自分でここへ来た」
ユリスの言葉が、薄暗い地下室に残った。
誰も、すぐには返せなかった。それは助けを求める声ではなく、脅されて言わされているようにも聞こえなかった。
寝台の上で上半身を起こしたユリスは、青ざめた顔で荒い呼吸を繰り返していた。それでも、アレンたちから目を逸らしてはいなかった。
腕には細い金属環が巻かれ、そこから何本もの導線が床へ伸びている。さらに、首筋から胸元へかけて、黒い線が皮膚の下に浮かんでいた。
排水路で見つかった男と同じ、一定の形を持たない刻写痕。
アレンには、とてもこのまま治療を続けていい状態には見えなかった。
「でも、その術式は……」
「……分かってます。それでも、止めないでください」
アレンが言い終える前に、ユリスが静かに言葉を重ねた。
その声は弱かったが、意思まで弱ってはいなかった。
「俺は……帰るために、ここへ来たんじゃないんです」
「じゃあ、何しに来たんだよ」
ドレイヴが低い声で問い返す。
「……力を、もらうためです」
「そのためなら……記憶が消えたって、構わねえってのか?」
ユリスの口元が、わずかに強張った。
答えを探しているのではない。すでに持っている答えを口に出すことを、躊躇っているような顔だった。
「……はい。それも、聞いています」
「聞いてるって、お前――」
「ドレイヴ」
言い募ろうとするドレイヴを、マナが静かに制した。
ドレイヴは奥歯を噛みしめたものの、それ以上は詰め寄らない。大きな手は大剣の柄に触れたままで、敵が襲ってくれば、すぐにでも動ける構えだった。
だが今、目の前にいるユリスは敵ではない。
無理やり連れ出そうとすれば、今度は自分たちが本人の意思を力で押し潰すことになる。それが分かっているからこそ、誰も動けなかった。
「……なるほど」
金属架台の向こうから、低い男の声がした。
ドレイヴが一歩前へ出る。それと同時に、ディアナも杖を持ち上げた。
黒い結晶を収めた金属架台の向こうから、一人の男が姿を現す。
長く使い込まれた白衣の袖口には薬品の染みが残り、痩せた頬の下には深い隈が浮かんでいた。それでも歩みは落ち着いており、逃げ道を探す様子もなければ、武器を持っているようにも見えなかった。
「エドガー・ヴァイス」
ディアナが、確かめるようにその名を呼んだ。
「……ええ」
男――エドガーは、否定もせず静かに応じた。
「あなた方がここまで来ることも……考えてはいました」
「だったら、なんで逃げなかった」
ドレイヴが睨み据えた。
「……なぜ、逃げる必要がある?」
「何人もこんな目に遭わせといて……よくそんなこと言えるな」
「彼らは患者だ」
エドガーの声は低く、揺らがない。
「囚人でもなければ、実験のために攫ってきた者でもない」
「何が違うんだよ!」
「違う」
声を荒らげたドレイヴに対しても、エドガーの調子は変わらなかった。
「少なくとも、そこを同じにしてしまえば……彼らが自分で選んだという事実まで、こちらが奪うことになる」
「……自分で選んだ、だと?」
「全員、施術に入る前に改めて説明を受けている。そのうえで――それでも続けると、自分で決めた」
ドレイヴが堪えきれないように一歩前へ出る。アレンはその腕を掴み、そこで押しとどめた。
「待て、ドレイヴ」
「……アレン」
「まず、話を聞こう」
「こいつの言い分を信じるってのかよ」
「信じるかどうかは、聞いてから決めればいいだろ」
それに、とアレンは寝台のユリスを示した。
「ユリス自身が……自分でここへ来たって言ってる」
ドレイヴは何か言い返しかけ、やがて肩の力を僅かに抜いた。
「……くそ」
吐き捨てるように呟いたドレイヴは、渋々と半歩だけ退いた。
エドガーは四人の様子をひと通り見渡すと、寝台へ歩み寄った。
「ユリス。……右手は上げられるか?」
「はい。上げられます」
ユリスは短く答えると、確かめるように右腕を持ち上げた。その動きに、不自然な震えはない。
アレンは眉を寄せた。
初めて会った日のユリスを覚えている。中央医療塔の廊下で、魔法灯の起動板へ何度も魔力を流そうとしては、火花すら安定させられなかった青年。
魔力そのものがないわけではない。集めることはできても、術式へ流し込むまでに崩れてしまう。
何度やっても、結果は同じだった。
「魔力を集めて」
エドガーがそう言うと、ユリスは掌を上へ向け、静かに目を閉じた。
やがて、地下室に漂っていた魔力が、ごくゆっくりと動き始めた。
「……集まってる」
マナが囁いた。
アレンにも、何が起きているのか分かった。
空気中から引き寄せられた魔力が、ユリスの腕を通って掌へ集まっていく。以前のように散ることも、途中で途切れることもない。
細い流れはいくつも重なり合い、そのまま掌の中央に留まり続けた。
やがて、指先に小さな炎が灯る。
攻撃魔法には程遠い。暗い部屋で指先を照らす程度の、ごく弱い火属性の生活魔法。
それだけだった。
「……見えますか」
ユリスが掠れた声で言う。
その視線は、アレンたちにもエドガーにも向いていない。ただ、自分の掌に灯った小さな炎だけを見つめていた。
「消えない」
炎は揺れていたが、それでも消えることはなかった。
「……これ、俺が集めてるんです」
ユリスの頬を、一筋の涙が伝った。
「誰かに魔法石を貸してもらったわけじゃない。誰かに先に術式を組んでもらったわけでもない」
指先はかすかに震えていたが、それでも炎が消えることはなかった。
「俺が集めた魔力で……俺が自分で灯してるんです」
その顔を見た瞬間、アレンは胸を突かれたようで、声が出なかった。
心の底から、嬉しそうだった。
きっと、何年も待っていたのだ。誰かにとってはできて当然で、町の子供でさえ覚えるような生活魔法を使えるその日を。
火を起こす。灯りを点ける。魔導具へ起動のための魔力を流す。
その一つ一つを、ユリスはこれまで何度失敗してきたのだろう。
あの日、中央医療塔でアレンが魔法灯を点けたときも、ユリスはそれを見上げていた。
――そのきっかけを作れるだけで十分すごいですよ。
あのときは、よく分からなかった。
けれど今なら少しだけ、その言葉の重さが分かる。
「これが刻写術式の成果です」
エドガーが言った。
「刻印そのものを与えたわけではない。刻印者の発動時に生じる魔力波形を記録し、神経と魔力回路へ写している」
ディアナの表情が引き締まった。
「……それで、本来なら崩れるはずの魔力経路を、外側から補正しているのね」
「そうだ」
「神経と記憶を、同じ経路として扱う危険も……分かったうえで?」
エドガーは一拍置いてから答えた。
「……分かっている」
「なら――この黒い線が、どこへ向かっているのかも?」
ディアナは、ユリスの胸元を示した。
衣服の隙間から覗く刻写痕は、鎖骨の下で幾つにも枝分かれしていた。
「今のところ、主要な記憶領域への侵食は……まだ限定的だ」
「……限定的?」
ドレイヴが、鼻で短く息を吐いた。
「あの男は、娘の顔も……自分の名前さえ分からなくなってたんだぞ」
エドガーの瞳が、わずかに揺れた。
「……彼は、生きていたのか」
「ああ。生きてたよ」
ドレイヴは低く答える。
「三年も動かなかった脚で走ってた。兵士が追いつけねえくらいにな」
エドガーは何も言わない。
「……それで、お前は成功だって言うのか?」
「……」
「歩けるようになりゃ、それで成功なのかよ。娘の顔を全部忘れちまっても」
エドガーから返事はなく、代わりにユリスが掌を閉じかけた。
小さな炎が揺れ、その光が指の隙間から漏れた。
「……俺は、やめません」
その声に、全員の注意がユリスへ戻る。
「ユリス……」
「聞いてます。記憶を失うかもしれないことも、身体が今より悪くなるかもしれないことも……それに、死ぬかもしれないってことも」
息を整えながら、ユリスは一つずつ言葉にした。
「それでも……俺が決めたんです」
「……リエナにも話さないまま?」
アレンが静かに問いかけると、その名が出た瞬間、ユリスの指が止まった。
掌の炎が、一度だけ揺らいだ。
「……話せなかったんです」
「どうして?」
「話したら、止められるからです」
「当たり前だろ」
「……だから、話せなかったんですよ」
ユリスの声が、ほんの少し強くなった。
「止められたら……俺、たぶん安心してた」
「安心……?」
「これで仕方ないって、思えたからです」
ユリスは、掌に灯る炎を見下ろした。
「生まれつきなんだから仕方ない。治すような病気じゃないんだから仕方ない。できる仕事をやればいい。魔法が使えなくたって、生きてはいける……」
一つ口にするたび、胸の奥へ押し込めてきたものが、少しずつ声に滲んでいく。
「ずっと……そう言われてきました」
アレンは、口を挟めなかった。
「誰も悪くないんです。治療師だって、できないものはできないって言うしかない。リエナだって……俺を責めたことなんて、一度もない」
閉じかけていたユリスの掌が、もう一度ゆっくりと開かれる。
そこには、まだ炎が灯っていた。
「でも……仕事を断られるたびに思ったんです。俺にも魔法が使えたらって」
ユリスの唇が、わずかに歪んだ。
「昇降機を動かせないから駄目。荷車の補助術式も使えないから駄目。火入れひとつ満足にできない奴には任せられないって……何度も、何度も言われました」
掌の炎が、震える横顔を淡く照らす。
「ユリス……」
「リエナの薬代が足りないときだって、俺にできたのは……また次の仕事を探すことだけだった」
掌に灯る炎の光が、震える横顔を淡く照らす。
「だから……これを失いたくないんです」
ユリスはゆっくりと顔を上げた。
「これさえ失ったら……俺はまた、何もできない自分に戻る」
その言葉に、アレンの胸の奥が鈍く痛んだ。
何もできないわけじゃない――そう否定したかった。
魔法が使えなくても、ユリスは妹を守っていた。働き、薬を買い、食事を作り、熱を出した妹の額に手を当てていた。
けれど――それをアレンが言っていいのか。
右手が動かなくなったとき。もう剣を握れないかもしれないと告げられたとき、自分は何を考えていた。
役に立てなくなる。戦えなくなる。仲間を守れなくなる。
自分に残されたものを、必死で探した。
その苦しさなら、アレンにも覚えがある。
だからこそ、何か伝えられることがあるのではないかと思った。
アレンは左手を右手首へ伸ばし、黒い手袋を掴むと、ゆっくりと引き抜いた。
「……アレン?」
マナがすぐに反応した。
「大丈夫。力は使わない」
アレンは短くそう告げると、手袋を完全に外し、そのまま腰帯へ挟んだ。
露わになった右手には青黒い雷の紋様が刻まれ、手首から先は力なく垂れている。五本の指は動かず、触れられても分からない。
アレンは左手で右手首を支え、その手をユリスに見せた。
「……俺の手も、今は動かない」
ユリスは何も言わず、アレンの右手を見つめた。
「刻印の雷を流せば手は動く。剣だってちゃんと握れる」
アレンは、力なく垂れた指先へ視線を落とす。
「でも……雷を止めたら、また動かなくなるんだ」
不意に、ハルヴァの言葉が脳裏をよぎった。
治ったんじゃない。壊れた身体を、さらに身体を壊す力で動かしているだけだ。
「動かせることと、治ったことは……違う」
「……俺と一緒にしないでください」
ユリスの声が、低く沈んだ。
「一緒だなんて言ってない」
「同じですよ」
「ユリス……」
「あなたは、最初から使えたでしょう」
押し殺していた感情が、とうとう声に滲んだ。
「魔法も剣も……ずっと使えてた」
掌の炎が、大きく揺らぐ。
「失って初めて困った人と……最初から何も持ってなかった人間は、違う!」
アレンは言葉を失った。
「あなたには、できてた頃がある。戻りたいって思える場所がある。でも俺には……そんな場所すらないんです」
「……」
「最初から力を持ってた人に……俺の何が分かるんですか」
反論は喉元まで来て、それ以上出なかった。
怒鳴り返すこともできない。自分だって苦しんだと言えば、それは事実だった。右手を失った恐怖も、戦えなくなる焦りも嘘ではない。
だが、それを並べたところで、ユリスが生きてきた年月が同じになるわけではなかった。
アレンは右手を下ろす。左手で支えなければ、指先は重力に従うように力なく垂れた。
「……分からない」
ようやく口から出たのは、その一言だけだった。
ユリスは、それを聞いてわずかに眉を寄せた。
「俺には、たぶん……お前のことを全部分かるなんて、言えない」
「なら――」
「でも」
アレンはそこで言葉を切り、次の言葉を探すように一度唇を結んだ。
このまま続ければ、自分の正しさを押しつけるだけになる気がした。
何を言えばいい。何なら言える。
答えを探しても、見つからなかった。
「だからって……こいつに任せていいって話にはならないだろ」
「アレン」
今度はマナが、穏やかに割って入った。責めるような声ではない。
マナはアレンの横を通り、ユリスの前に立つと、その掌に灯る炎をしばらく見つめた。
「……きれいだね」
ユリスが、意外そうにマナを見た。
「こんな……小さい火が?」
「うん」
マナは迷わず頷いた。
「だって、それ……ユリスさんがずっと灯したかった火なんでしょ?」
ユリスの表情が、ほんのわずかに緩む。
「だから、わたしはこれをそんなものって言いたくない」
「……」
「やめろって言われたからやめるのも違うと思う。助けに来たわたしたちが、勝手に消していいものでもない」
そこでマナは、エドガーへ向き直った。
「でも……だからこそ、ちゃんと聞いておきたいことがあります」
エドガーは何も言わず、続きを待った。
「同意書には、記憶について……『記憶障害』としか書かれていませんでしたよね」
その言葉にドレイヴがわずかに反応し、ディアナもまた、エドガーを注意深く見つめた。
「書面にはなかった、家族の顔も……自分の名前さえ分からなくなる可能性まで。そこまで、施術の前に口頭で説明したんですか?」
「……ああ。最終確認に入る前に伝えた」
「術式を使い続ければ、それだけ記憶の欠落が進むかもしれないことも?」
「それも伝えた」
マナはゆっくりとユリスへ視線を戻した。
「……ユリスさん。本当に、聞いたの?」
「……はい」
ユリスは一度息を置いてから、はっきりと答えた。
「施術を受ける前に……書面にないことも含めて、全部、聞きました」
マナはそれ以上何も言わず、まぶたを伏せた。迷いが一瞬だけよぎる。
もし危険を隠していたのなら、話は単純だった。騙した研究者と、騙された患者。そう分けることができた。
けれど、違う。
危険について聞き、理解したうえで、それでもユリスは施術を受ける意思を変えなかった。
その事実まで否定することはできない。
「なら、私は説明すべきことは説明している」
エドガーが静かに言った。
「危険を隠したつもりはない。無理に受けさせてもいない。途中でやめられることも、最初に伝えてある」
「……その人たちは、どうやって選んだんですか?」
「何?」
「治療を受ける人です」
マナの声音は、穏やかなままだった。
「誰に声をかけるのか……何を基準に決めたんですか?」
エドガーは、すぐには答えなかった。
「既存の治療では改善が見込めず、それでも機能の回復を強く望んでいる者を中心に――」
「……つまり、既存の治療では救えなくて、それでも今の状態を変えたい人を選んだんですね」
エドガーの言葉が止まる。
「私は、治療を強制してはいない」
「はい」
マナは小さく頷いた。
「ユリスさんも、自分で選んだんだと思います」
ユリスの瞳が、わずかに揺れる。
「そのことまで、わたしはなかったことにしたくありません」
そう言ってから、マナはもう一度エドガーを見た。
「でも先生は……その人がどれだけ追い詰められてるかも知ってたんですよね」
「患者の事情も知らずに、治療などできない」
「だから、その事情が……この治療へ手を伸ばす理由になることも、知っていたんですよね」
沈黙が落ちた。
「私は、手段を与えた」
エドガーが低く返す。
「では、中央医療塔は、治せない患者に何を与える?」
「……」
「経過観察。訓練。補助具。生活指導……そして最後には、この状態と付き合って生きていくしかないと告げる」
抑え続けていたものが、少しずつエドガーの声にも滲み始めた。
「それを……安全と呼ぶのか?」
エドガーは寝台脇の台へ手を伸ばした。
「三年間歩けなかった男が、もう一度、自分の脚で立った」
別の記録板を手に取った。
「両腕の神経を損傷した患者は、自分の手で食事を取れるようになった。魔力回路を形成できなかった患者は、初めて自分で術式を維持できた」
そして、ユリスへ視線を向けた。
「彼も今、自分の意思で魔力を集めている」
ユリスの掌に灯る小さな炎は、今も消えていない。
「それでも、何もするなと言うのか。危険だから諦めろと?」
エドガーの声が、わずかに強くなる。
「安全な場所から、今の人生を受け入れろと説得することが……医療なのか?」
マナは、すぐには答えなかった。
エドガーの言葉の中にも、嘘ではないものがある。彼は本当に、治せなかった者へ力を与えようとしたのだろう。
患者が一歩歩けば喜び、小さな灯りをともせば、その光を成功だと思ったのかもしれない。
それ自体まで偽物だったとは、アレンにも思えない。
「何もしないでって、言ってるんじゃありません」
しばらくして、マナが静かに口を開いた。
「危険な治療を研究するな、とも……わたしには言えません」
エドガーの眉が、わずかに動く。
「だったら――」
「でも、それを……本当に選択肢って呼べるんですか?」
エドガーの言葉が止まった。
「治る方法はありません。今のままでは、できる仕事も限られます。家族を支えることも難しい。でも――命や記憶を失うかもしれない治療ならあります」
マナは、一つひとつ確かめるように言葉を置いていく。
「その二つだけを目の前に並べて……『好きなほうを選んでいい』って。それで、本当に選ばせたことになるんですか?」
「私は、彼らの人生をそうしたわけでは――」
「そうしたのは先生じゃありません」
マナは首を横に振った。
「ユリスさんが苦しんできたことも、魔法を使えない身体で生まれたことも……先生のせいじゃない」
「なら――」
「でも、その苦しさがあるからこそ……この治療を断れない人がいることは、先生も分かってたんですよね」
エドガーは言い返さなかった。
「だから、そういう人たちを探して……案内を送った」
「……」
「危険は説明した。最後に決めたのは本人だ。だから、その先は本人の責任だって……それで済ませられるんですか?」
「そんなことは――」
そこで初めて、エドガーの声が途切れた。
マナはそれを見ても、責め立てるように言葉を続けることはなかった。
「ユリスさんが選んだことは……ユリスさん自身のものです」
マナは、まっすぐユリスへ向き直った。
「それは、誰にも奪えないと思う」
「……はい」
「でも……選んだ人に、全部の責任まで返してしまうのは違う」
マナの視線が、ユリスの胸元に刻まれた刻写痕へ落ちる。
「選べるものを並べて、そこから選ばせた人にも……背負う責任はあるはずです」
エドガーの指は、記録板の縁にかかったまま止まっていた。
エドガーは口を開きかけ、そのまま閉じた。
その沈黙を破ったのは――人の声ではなかった。
ゴン、と。
地下のさらに深い場所で、巨大な何かが脈打った。
「……何だ?」
ドレイヴが大剣を抜く。直後、部屋の奥に据えられた黒い結晶が、大きく脈打った。
いや、光ったのではない。
周囲の明かりが、結晶の内側へ吸い込まれていく。
「全員、離れて!」
ディアナの警告と同時に、床に刻まれた術式が一斉に黒く染まり始めた。
「エドガー、止めて!」
「待て――私じゃない。起動していない!」
エドガーは表情を変えると、制御盤へ駆け寄った。
手動停止の符に指を走らせるが、反応はない。
「術式が……別の系統に切り替わってる?」
「別系統?」
ディアナはすぐに観測結晶へ測定具を向けた。
透明だった石の中心には黒い点が浮かび、そこから蜘蛛の脚のような線がじわりと広がっていく。
「……違う。これ、治療術式じゃない」
その瞬間、アレンの右手の甲から、痛覚とも触覚とも違う、熱にも似た反応が意識へ走った。
「っ……」
「アレン?」
マナがアレンを振り返る。
「右手が……勝手に反応してる」
「刻印、使ってないよね?」
「ああ。何もしてない」
直後、黒い結晶が二度目の脈動を起こし、その隣に固定されていた薄い金属板に白い線が浮かび上がった。
古代文字――見覚えがある。
アルカナリウムで、ギデオンが黒い結晶とともに持ち去った記録。
「まさか……」
ディアナの顔から、さっと血の気が引いた。
金属板の中央に小さな光点が生まれ、その光が波紋のように広がった直後、ひび割れた魔法通信のような雑音が響いた。
やがて、その向こうから男の声が流れ出す。
『治療の成功は必要ない』
アレンの身体が硬直した。
忘れるはずがない。どれほど雑音に歪んでいても、戦場の轟音の中でさえ異様なほど平坦に届いた、あの声を。
「……ギデオン」
ドレイヴが、はっと振り返った。
「……何だ?」
「この声……あいつだ」
アレンは、黒い結晶を睨みつける。
「アルカナリウムにいた……ギデオンの声だ」
それでも、記録は止まらなかった。
『器が黒点へ届けば、目的は果たされる』
「黒点……?」
エドガーが低く呟く。その反応は、まるで今初めて耳にした言葉であるかのようだった。
「……どういう意味だ」
ドレイヴが剣先を向ける。
「お前が知らねえはずないだろ!」
「知らない」
「とぼけんな!」
「本当に知らない!」
そこで初めて、エドガーの声が大きくなった。
「私に渡された資料には、そんな言葉は一度も――」
言いかけたところで、エドガーは言葉を止めた。
自分が何を口にしたのか、そこでようやく気づいたようだった。
ディアナの声色が変わった。
「……渡された?」
エドガーの視線が、黒い金属板へ落ちる。
「この結晶も、記録板も……私が作ったものじゃない」
アレンの右手から伝わる、熱に似た反応がさらに強まった。
「誰から渡されたんだ」
「名乗った名は――」
「……ギデオンだ」
アレンが、その先を遮った。
確信があった。あの男なら、やる。
剣で脅す必要も、命令する必要もない。相手が何を望み、何を恐れ、どちらを選ぶのかを見極め、その先に自分の望む結果がある道だけを、ほんの僅かに傾ける。
「でも……おかしいわ」
ディアナは金属板に刻まれた文字を追いながら、低く呟いた。
「もし最初から、治療以外の目的がある実験だったなら……どうして神経補助そのものは、ちゃんと機能してるの?」
「機能する」
エドガーは、間を置かずに答えた。
「理論そのものは本物だ」
そう言って、黒い結晶へ目を向ける。
「私は何度も検証した。刻印者の魔力波形を神経信号の代わりに使う理論も、損傷した回路を別の経路から補助する方法も……そこに偽りはなかった」
「……だから、続けたんだな」
アレンの声が低く沈むと、エドガーはわずかに眉を寄せ、こちらを見た。
「……何だ?」
「ギデオンは……あんたを操ったわけじゃない」
エドガーは何も答えない。
「研究そのものは、あんた自身のものだった。そこへあいつが、本当に成果の出る材料と記録を差し込んだ」
エドガーの目に、動揺がにじんだ。
「小さくても結果は出る。なら、もっと調整すれば次はもう少し長く動かせる。次は、もっと安定させられる……そう思った」
エドガーが、低く認めた。
その言葉に重なるように、アレンの脳裏へギデオンの声が蘇った。
――無数に枝分かれする可能性の中から。
――君の刻印が反応する道へ。
――流れを少し傾けただけだ。
「……その先へ進むって、読まれてたんだ」
マナの表情が強張る一方で、ディアナは険しい顔のまま、金属板の文字を追い続けた。
「……待って。ここ」
指先が、古代文字の一列をゆっくりとなぞる。
「これ……治療結果の記録じゃない」
「じゃあ、何が書いてある?」
「刻写された対象が……どこまで黒い反応に近づいたか、それを測ってる」
「そんな……」
エドガーは制御盤から離れ、金属板へ食い入るように近づいた。
「違う。この項目は、波形定着率を補助するための記録のはずだ」
「表面上は、そう見える」
ディアナの声が硬くなる。
「でも、その下に別の術式が重ねられてる。これは神経補助の成功率を測ってるんじゃない」
白い線の下から、隠されていた黒い文字列が浮かび上がった。
「対象者を……何かへの接続先として観測してる」
エドガーが確かめるように金属板へ手を伸ばしたものの、その指は文字へ触れる寸前で止まった。
「私は……」
掠れた声が、ようやく漏れた。
「私は……身体を取り戻すための術式だと、そう思って……」
「……たぶん、それは間違ってなかったんだと思います」
マナがそう告げると、エドガーが顔を上げた。
「少なくとも……その部分までは」
「だったら、私は――」
「だからこそ、先生は選んだんでしょう?」
その言葉にエドガーの顔が強張ったが、マナの声には慰めも責める響きもなかった。
「使える材料と記録を受け取って……それを使って、続けると決めた」
「……」
「ギデオンが何を考えていたのか知らなかったとしても、患者さんを選んだのは先生です」
エドガーの目が、ゆっくりと伏せられる。
「危険が増えてるって分かってからも……続けたのも」
「……ああ」
長い沈黙のあと、エドガーは小さく答えた。
「私だ」
ドレイヴの剣先が、わずかに下がる。
「……私が、選んだ」
それは逃げるための言葉ではなく、むしろ、これまで患者へ向けてきた「選んだ」という言葉を、初めて自分自身へ向けたようだった。
「なら――」
アレンが口を開きかけたとき、黒い結晶が三度目の脈動を起こし、今度は部屋全体が揺れた。
「っ!」
アレンの右手に、突如として紫色の光が走った。
「アレン!」
「違う、俺じゃない!」
アレンは反射的に右手を押さえた。
魔力など、まったく集めていない。刻印へ命令もしていない。それなのに、手の甲から指先へ伸びる紋様が、布もない肌の上で強く明滅している。
黒い結晶も、それと同じ間隔で脈打った。
脈打つたび、右手の甲から熱に似た反応が走り、結晶の奥に浮かんだ黒点が少しずつ大きくなる。
やがて、アレンの右腕を内側から引かれるような感覚が走った。
「離れろ、アレン!」
ドレイヴがアレンの肩を掴み、強引に後ろへ引いた。
「待って!」
マナの切迫した声が割り込んだ。
「ユリスさんが……!」
その一言に、アレンは弾かれたように振り返り、掌に灯っていた小さな炎が激しく揺れるのを見た。
「……何だ、これ」
ユリスが自分の胸元へ手を当てた。
皮膚の下に留まっていた黒い刻写痕が動き、一斉に枝を伸ばし始める。
鎖骨から胸へ、脇腹から心臓へ。
「エドガー!」
ディアナが鋭く告げる。
「進行が速くなってる!」
「分かっている!」
エドガーはすでに寝台へ駆け寄っていた。
「ユリス、魔力を止めろ! 今すぐ、その炎を消すんだ!」
「止め……っ」
「術式に流すな! 全部止めろ!」
ユリスは苦しげに息を詰め、掌を強く握り込んだが、それでも炎は消えなかった。
「なんで……止まらない……?」
「外から魔力を引っ張られてる!」
ディアナが測定結晶の反応を追う。
「ユリスさん自身が流してるんじゃない。意思とは関係なく、術式に吸われてる!」
「じゃあ、切れないのか?」
ドレイヴがすぐに問い返した。
「導線も術式も、今ここで無理に遮断したら……反応がどこへ逃げるか分からない!」
マナは迷わずユリスのすぐ脇へ身体を滑り込ませ、杖を構えた。ただし、魔力は流さない。
排水路では、治療師が術式を向けた瞬間、刻写痕がその魔力を取り込み、男の身体を勝手に動かしていた。
「ユリスさん、聞こえる?」
「……ああ」
「わたしを見て。こっち」
ユリスがゆっくりと顔を上げたものの、視線の焦点はまだ定まっていなかった。
「……自分の名前、言える?」
「ユリス……」
掠れた声が漏れる。
「ユリス・フェーン」
「……うん。名前は分かってる」
マナの声に、わずかな安堵が混じった。
「今いる場所、分かる?」
「ここは……」
ユリスの眉間に深い皺が寄る。
「地下……治療……」
「大丈夫。急がなくていいから」
「……リエナのことは、分かるか?」
思わずアレンの口からその名がこぼれ、マナがアレンを見る。
「アレン……」
「ユリス。リエナが待ってる」
その名前を聞けば、きっと戻ってくる――そう思ったわけではない。ただ、ユリスが何のためにここへ来たのか、その理由までまだ彼の中に残っているのかを確かめたかった。
「リエ……」
ユリスの唇がかすかに動いたものの、その先の言葉は続かなかった。
「……ユリス?」
アレンの胸の奥が、すっと冷えた。
「リエナだ。お前の妹だろ」
「……妹」
ユリスは確かめるように呟き、掌の炎を見下ろした。小さな炎は、まだそこにある。
けれど、先ほどまであれほど嬉しそうに見つめていたはずなのに、ユリスの顔にはもう喜びがなかった。
まるで、知らない誰かの手に灯った、知らない炎を見るような目だった。
「止めろ!」
エドガーが制御盤へ手を叩きつけた。
「術式を止めろ! 今すぐ停止させろ!」
停止符が赤く激しく点滅しているにもかかわらず、反応はなかった。
「……なぜ止まらない……!」
答えるように黒い結晶がさらに強く脈打つと、同時にアレンの右手の刻印も強く光った。
紫の紋様と、結晶の中心に浮かぶ黒点。その二つが、まるで互いの存在を確かめるように、同じ周期で明滅する。
「刻印反応が上がってる!」
ディアナが測定具を見ながら叫んだ。
「俺は何も――」
意識の奥で、ずっと遠くから重い何かを叩く音がした気がした。
ゴン。
その瞬間、アレンの呼吸が止まる。
黒い扉――あの向こう側から聞こえていた音だった。
「……くそ」
右手を左手で掴み、身体に押しつけたが、それでも共鳴は止まらない。
その傍らで、ユリスが喉の奥から小さく呻いた。
「う……あ……」
胸元の〈刻写痕〉が、さらにじわりと広がっていく。
「ユリス!」
エドガーが駆け寄り、その肩を支えた。
「こっちを見ろ。私を見るんだ!」
ユリスは苦しげにエドガーへ顔を向ける。
「分かるか? 私はエドガーだ」
「……エドガー……」
「そうだ」
ほんの一瞬だけ、エドガーの表情が緩んだ。
「なら……君は? 自分の名前を言えるか?」
その問いに、ユリスの目から動きが消えた。
唇が開き、名前を言おうとする。けれど、それは音にならなかった。
やがて掌の炎がふっと消え、残ったのは、黒い結晶の脈動とアレンの刻印が放つ紫色の明滅だけだった。
ユリスは自分の両手を見つめ、次にエドガーへ、マナへ、ドレイヴへ、ディアナへと視線を移し、最後にアレンを見る。
その目には、知らない場所へ放り出された子供のような、どうしようもない恐怖が浮かんでいた。
そして。
「……俺は、誰だ?」




