第33話『地下に残る声』
しばらく、誰も動かなかった。
壁一面を埋め尽くした黒い人影だけが、無音のまま同じ動作を繰り返している。
歩いては転び、また立ち上がる。
動かない腕を持ち上げ、何かを書いては消し、また書く。
そして、誰かの名を呼ぼうとして、声にならないまま最初へ戻る。
その一つひとつの動きが、旧診療所で見た記録の断片と重なっていた。
「……これ、いったいどこまで続いてんだよ」
ドレイヴは壁から目を離さないまま、低く呟いた。
だが、答える者はいない。
ディアナは測定結晶を黒い影へ近づけたものの、透明な結晶の奥には、生体反応を示す光がいつまで経っても浮かばなかった。
「……やっぱり。少なくとも、人そのものじゃない」
ドレイヴが眉を寄せる。
「じゃあ、これは何なんだよ?」
「……分からない」
ディアナは結晶を見つめたまま、迷わずそう認めた。
「ただの映像なら、こんなふうに壁の術式に残り続けるはずがない。かといって、魔力の残滓にしては……動きが正確すぎる」
壁の女性は転び、両手を床について身体を起こすと、再び歩き出した。
数歩先で誰かへ手を伸ばし、そしてまた最初へ戻る。
アレンはその動きを見ながら、無意識に自分の右手へ目を落とした。
黒い手袋に覆われた指は動かない。
旧診療所の記録に残っていた患者たちも、最初はそうだった。
動かなかった腕、歩けなかった脚。失われた身体の機能を、刻写術式が一時的に取り戻させた。
もし壁に残っているのが、そのときの動きだとしたら。
「……行こう」
アレンが壁から顔を背けるようにして言うと、マナはその声に反応した。
「アレン、大丈夫?」
「ああ。大丈夫だ」
「……右手は?」
アレンは一度、手袋に覆われた右手を確かめた。
「変わってない。さっきから同じだ」
そう答えてから、少し間を置く。
「でも……何か変だったら、すぐ言う。隠さない」
マナは何も言わずに数秒間アレンの顔を見つめると、やがてその言葉を確かめるように頷いた。
「……うん。なら、いい」
「それでいいわ」
ディアナも測定結晶を下ろした。
「ここで調べ続けても、今ある情報だけじゃ判断できないわ。だったら……術式の起点を探した方が早い」
「つまり、奥へ行くしかねえってことだな」
ドレイヴが大型剣の柄を握り直す。
「ええ。ただし、壁には触れないで」
「分かってるって」
「あなた、その返事をした直後に触ろうとするでしょう」
「しねえよ」
「さっき、黒い染みに顔近づけてただろ」
アレンが横から言う。
「あれは見てただけだ」
「……かなり近かったよ」
マナまで加わると、ドレイヴは二人を見回し、眉をひそめた。
「お前らさ、こういうときだけ俺に厳しくねえか?」
「普段の行動の結果でしょうね」
ディアナが淡々と言い切る。
「おい、ディアナ。お前までそっちに回るのかよ」
ほんの一瞬だけ、張り詰めた空気が緩んだ。
だが、その間も壁の影は動き続けている。
笑うことも、こちらを見ることもない。ただ、かつての――おそらく実験中のある一瞬だけを永久に繰り返している。
四人は再び歩き始めた。
先頭をアレンが進み、そのすぐ後ろにディアナ、さらにマナとドレイヴが続く。
杖先の白光が進むにつれ、壁の影も次々と照らし出されていった。
片腕を何度も上げる男。数歩だけ走り、途中で膝をつく少年。身体を丸め、腹部を押さえ続ける女。そして、何もない空間へ両腕を伸ばし続ける者。
その動きはそれぞれ違っていたが、共通していることがあった。
すべてが途中で終わり、最初へ戻る。
誰一人として、その先へ進めない。
「……なんか、嫌な場所だな」
ドレイヴが声を落とした。
「地下だからってだけじゃねえ。何つうか……妙に気味が悪い」
「人がいた痕跡だけ、残ってるから?」
マナが静かに問い返すと、ドレイヴは少し黙り込み、それから周囲を見渡した。
「……ああ。たぶん、それだ」
それ以上、ドレイヴは何も言わなかった。
進むにつれて壁の影は少しずつ減っていき、代わりに別の音が聞こえ始める。
ゴウン。
……ゴウン。
重く低い振動が、一定の間隔で床の下から響いてくる。
その音に、四人の足が止まった。
「……機械の音?」
マナが耳を澄ませると、ドレイヴも音のする方を探った。
「ああ。それに……まだ動いてるみてえだな」
ディアナが床へ杖を向けると、古い術式線の一部に、かすかな光が走った。
「……完全に死んだ導魔路じゃないわ」
「でも、さっき今の導魔網にはつながってないって言ってたよね?」
マナが確かめるように聞く。
「ええ。だから……外とは切り離されたまま、独立して動いてる可能性が高い」
「独立って?」
アレンが眉を寄せた。
「外から魔力を送り続けてるんじゃない。内部だけで循環させて……今も動かしてるのかもしれない」
ゴウン。
再び音が響く。今度は振動が足裏へ強く伝わった。
アレンが通路の奥をうかがうと、白い杖光の届かない先で、何かが淡く反射した。
「……なあ、あれ何だ?」
ドレイヴが大型剣を少し持ち上げる。
「光ってる……のか?」
「違う」
マナが目を細めた。
「あれ、光ってるんじゃない。……何かが反射してる」
四人は自然と足を緩め、一歩、さらに一歩と慎重に進んでいく。
やがて通路が少し広がり、その角を曲がったアレンの身体が硬直した。
最初に目に入ったのは、硝子だった。
床から天井近くまで届く巨大な透明槽が、左右の壁沿いに並んでいる。
一つ、二つ、三つ。その先に、もう一つ。
白く濁った液体で満たされた槽の中に、人がいた。
「……人?」
マナの声が掠れた。
槽の中にいたのは、薄い治療衣を着た男や女、若者たちだった。年齢も体格もばらばらで、全員が目を閉じたまま液体の中へ沈められている。
胸には細い管が伸び、首筋には測定具、腕や脚には複数の金属端子が取り付けられていた。
そして。
「……黒い線」
アレンが呟く。
眠る男の首元からは、皮膚の下を這うように黒い筋が伸びていた。肩から腕、胸へと続き、そこで金属端子へ集まっている。
その先は別の黒い術式線となって槽の外へ伸び、床へ落ちると、隣の槽から伸びるものと重なりながら、さらに奥へ続いていた。
一本ではない。十本でもない。
槽の数だけ伸びた術式線が床一面を走り、互いに交差しながら、旧導魔路のさらに奥へ集まっている。
まるで巨大な血管だった。
アレンが一歩前へ出ようとする。
「待って」
マナが袖を掴んで止めた。
「そのまま行かないで。……先に、わたしが確認する」
そう言って杖を向けると、その先端に淡い水光が灯った。
マナは槽そのものへ魔力を流し込むことなく、透明な表面に薄い水膜を広げていく。
すると内部の液体がかすかに揺れ、青白い波が眠っている男の胸元に重なった。
マナはその反応をじっと追った。
「……心拍がある」
マナの表情が強張る。続けて隣の槽へ杖を向けた。
「この人も……ある」
さらにその隣へ。
「……生きてる。みんな」
その言葉に、ドレイヴの表情が変わった。
「だったら、こんなとこから出してやらねえと」
大型剣から片手を離し、最初の槽へ近づく。
「ドレイヴ、待って」
「でもよ、こん中でずっと寝かされてんだぞ。だったら、こいつを割れば――」
「触らないで!」
ディアナの鋭い声が通路いっぱいに響き、ドレイヴの手は槽に触れる寸前で止まった。
「……何だよ?」
「その黒い線。……待って」
ディアナはすでに床に片膝をつき、黒い術式線を凝視していた。
測定結晶を一本の術式線へ近づけると、白い光が黒い線に沿って走り出す。
最初の槽から隣の槽へ、さらに床の下、壁際の術式、その奥へ。
一本だけを追っていたはずの光は、途中で何本もの線へ枝分かれしていった。
「……これ」
術式線を追っていたディアナの表情が、ふっと固まった。
「どうした?」
「……待って。念のため、もう一度見る」
ディアナは返事を急がず、別の術式線へ静かに光を流した。
反応は同じだった。
さらに別の線を確かめても、やはり結果は変わらない。
「ディアナ?」
マナに呼ばれ、ディアナはようやく顔を上げた。ゆっくりと立ち上がる。
「……この槽、一つずつが独立して動いてるわけじゃない」
「どういうことだ?」
アレンが眉を寄せると、ディアナは並ぶ槽を示した。
「全部……同じ術式につながってるの」
ディアナは床一面の黒い術式線を見渡した。
「生命維持と魔力供給だけじゃない。心拍も、呼吸も、神経反応も――一人ひとりの生体信号まで、同じ循環の中に組み込まれてる」
「同じ術式って……一つに?」
アレンが聞き返す。
「ええ」
ディアナの声音が沈んだ。
「ここにいる全員で……一つの巨大な術式を作ってるの」
ドレイヴは槽へ伸ばしかけていた手を、ゆっくりと下ろした。
「……じゃあ、もしこいつを壊したら?」
ディアナはすぐには答えなかった。ほんの一瞬だけ、言葉を選ぶような間が落ちる。
「……術式全体が停止する」
「それで?」
ドレイヴが低く促す。
「生命維持も……止まる」
マナの顔からさっと血の気が引き、アレンの目は床一面を這う黒い術式線に吸い寄せられた。
「……全員、なのか?」
「可能性の話じゃないわ」
ディアナは測定結晶を握り直した。
「少なくとも、今の構造のままなら――この生命維持術式を止めた瞬間、ここにいる全員の心臓が止まる」
ゴウン。
地下の奥で、機械がまた一度鳴った。
今度は、その音が巨大な心臓の鼓動のように聞こえた。
そのとき。
かつん。
石の向こうで、小さな音がした。
四人が同時に黙り込む。
かつん。
再び音が響き、今度は少し近い。
金属が石床へぶつかるような音に、ドレイヴはすぐさま剣を抜いた。
「……誰かいるぞ」
「待って」
ディアナが制するように片手を上げ、測定結晶を前へ差し出す。
「生体反応は――」
かつん。
暗い通路の向こうから、人影が現れた。
だが、それは人ではない。
古い魔導人形のように見えた。
木と金属で作られた胴体に、交換可能な腕と脚。かつて魔道師が新しい魔法の開発に使っていたものだろう。
顔には目も口もない。
その人形が、一歩、また一歩と右脚を引きずりながら歩いていた。
そして五歩進んだところで止まり、身体を反転させると、元の位置まで戻っていく。
そこまで来ると、人形はまた同じように歩き始めた。
「……何だ、あれ」
ドレイヴが剣先を下げたまま言う。
人形は四人を見ていない。そもそも、見るための目がない。
一歩、また一歩と、同じ歩幅、同じ姿勢で進んでいく。
そして同じ場所に差しかかるたび、右脚がかすかに震えた。
五歩目で反転し、元の位置へ戻っていく。
「……魔導人形か?」
アレンが目を凝らす。
「違う」
ディアナは間を置かずに答えた。
「少なくとも、普通の魔導人形じゃない。使われてる制御術式が違う」
その言葉が終わるのとほぼ同時に、別の音が響いた。
どん。
奥の壁際で、作業用人形が立ち上がった。
魔導人形よりも大きく、荷物を運ぶために作られたらしい太い両腕と頑丈な脚を持っている。
それが突然、走り出した。
ただし、向かう先は四人ではない。
横へ、壁へ向かって三歩、四歩、五歩。
両腕で何かを抱えるような姿勢のまま、壁に激突する。
どん。
その場で止まると、ゆっくり後ろへ下がって元の位置へ戻り、そしてまた走り出した。
どん。
「……逃げてる?」
マナが呟いた。
さらに一体、床に倒れていた人形が上体を起こし、何もない空間へ片腕を伸ばした。
指のない木製の手を、何度も何度も前へ差し出す。
届かないまま手を戻し、また差し出す。
さらに奥では、別の人形が膝を抱えていた。
身体を丸め、右脇腹を押さえて耐える。やがて力を抜くが、すぐにまた身体を丸め、同じように右脇腹を押さえる。
その動きを、何度も何度も繰り返していた。
「……人形じゃない」
ディアナの口調が硬くなり、アレンはその気配に振り返った。
「……何が?」
「少なくとも、あれを動かしているのは……人形のために組まれた術式じゃない」
ディアナが床を這う黒い術式線へ杖を近づけると、人形へ入り込んでいる線は、生存者の槽へつながるものより細いことが分かった。
それでも、その構造はよく似ていた。
「これ……記録よ」
「記録?」
「ええ。身体の動きだけを切り離して保存してある」
ディアナの指先がかすかに震えた。
「筋肉へ送られた命令。関節の角度。どこへ、どれだけ力を入れたか……その瞬間に神経が出した動作命令まで。それを術式にして、別の器へ流し込んでる」
「じゃあ……こいつらがやってるのは」
ドレイヴは、壁へ向かって何度も走り続ける作業人形を見やった。
ディアナはその視線を追い、答えた。
「被験者が実際にした動きでしょうね」
五歩進んでは壁へ衝突し、元の位置へ戻る。
そして、また五歩。
「逃げようとした……?」
マナの声が掠れた。
隣の人形は、誰もいない場所へ腕を伸ばしていた。
その手の先には何もない。それでも、何かを掴もうとするように、腕を伸ばし続けている。
「これは……」
アレンは続きを言えなかった。
家族や友人――あるいは、他の誰か。
最後まで手を伸ばした相手がいたのかもしれない。けれど、その相手が誰だったのかは残っていない。
残されたのは、動きだけだった。
歩き、逃げ、手を伸ばし、痛みに耐える。
それだけが身体から剥がされ、人形へと流し込まれ、地下で繰り返されている。
「気持ち悪いとか、そういう話じゃねえぞ……」
ドレイヴが吐き捨てる。
「死んでもねえ奴から、こんなもんまで抜いてんのかよ」
それまで同じ動きを繰り返していた人形の一体が、ふいに止まった。
木製の頭部だけが、ゆっくりと横へ回転する。
やがて、目のない顔が四人の方を向いた。
「……来る」
アレンが剣へ手を伸ばしたその次の瞬間、人形たちの黒い術式線が一斉に脈打った。
走り、歩き、手を伸ばし、耐える。
それまで別々に繰り返されていた動作が、今度は四人に迫る形に変わった。
「下がれ!」
ドレイヴが前へ出る。
大型剣が横薙ぎに振られ――
「胴を斬らないで!」
ディアナの声が飛ぶと、ドレイヴは強引に軌道を変えた。
剣の腹が作業人形の肩に当たり、鈍い音を立てる。
「急に言うな!」
「胴を通る術式線が槽へ戻ってる!」
「だったら、どこなら斬っていい!」
「待って、今見る!」
「今かよ!」
腕を伸ばしていた人形が横から飛び込んだ。
動きそのものは単純で、腕を前へ伸ばす。ただ、それだけだった。
だが、人間より重い木と金属の身体が勢いをつけて突っ込んでくれば、まともに受けるわけにはいかない。
アレンは左手で一本目の剣を抜いた。右手は動かず、もう一本は鞘に残ったまま。それでも、迷っている時間はなかった。
「マナ」
「見てるよ」
「右手だけ動かす」
「時間は短くして」
「ああ」
アレンは右手へ意識を向けた。
雷鳴の刻印。その奥にある力を、必要な場所だけへ流す。
麻痺した手首から先――筋肉を動かすための細い道だけに意識を絞る。
青白い雷が黒い手袋の下を走り、動かなかった指がぎこちなく曲がった。
右手が二本目の剣の柄を掴む。
抜刀。
二本の刃が、暗い地下へ姿を現した。
風の双剣。その刃に宿る風属性の魔力が、アレンの動きに応じて低く鳴る。
「アレン、刻印出力は低いまま!」
「分かってる!」
その人形が迫る中、アレンは斬らずに双剣を交差させ、そのまま外側へ振り抜いた。
刃にまとわりついていた風が、一気に膨らんだ。
「――っ!」
爆発するような風圧が通路を走り、正面から迫っていた人形二体を床から浮かせ、数歩先へと吹き飛ばした。
壁には当てず、槽からも離し、広い通路の中央へ転がす。
「ドレイヴ!」
「分かってる!」
ドレイヴが踏み込み、起き上がろうとした作業人形の前で大型剣を振り上げた。
狙うのは胴ではなく、右膝。刃を立てず、剣の厚い腹と重量で関節部だけを叩く。
ばきん。
金属軸が砕けた。それでも人形は立ち上がろうとし、同じ「逃げる」動作を繰り返すために脚へ力を送る。
しかし膝が支えられず、その場に崩れた。
そのまま反転し、次に狙うのは肘だった。
誰かへ手を伸ばすような動きを繰り返していた人形の腕、その関節だけに柄頭を叩き込む。
木と金属が割れ、腕は途中で止まった。
その間も、ディアナが追っていたのは人形ではない。床――何十本も交差する黒い術式線だ。
測定結晶の光を頼りに、その一本一本を追っている。
「右から三本目は触らないで! 第二槽へ戻ってる!」
「どっちから見て右だよ!」
「私から見て右!」
「俺には左だろ!」
「じゃあ左!」
「最初からそう言え!」
「動かないで! 線が重なる!」
ディアナが杖を床に突くと、白い術式光が円を描いた。
「巡る魔力よ、術式を閉ざせ――アルカンシュロス!」
白銀の封止線が黒い術式線の間へ入り込む。
それは切断ではない。槽へ戻る経路には触れず、人形側へ流れ込む枝の起点と効果式の接続だけを遮った。
すると、一体の人形が急に速度を落とした。
「そこ!」
ディアナが叫ぶ。
「その個体は止めていい! 生存者側の線は保護した!」
「おう!」
ドレイヴの大型剣が低く走り、足首、膝、肩――三つの関節だけを立て続けに砕く。
人形は倒れた。
それでも動作の記録は止まらず、壊れた腕が床を擦りながら、前へ、前へと伸びていく。
誰かへ届こうとするように。
「……くそ」
ドレイヴは一瞬だけその動きを見下ろしたが、剣を胴へ落とすことはしなかった。
「次はどいつだ!」
「左奥!」
ディアナが答える。
「脚だけ! 腕の線は第四槽と共有してる!」
「分かった!」
今度は迷わず、ドレイヴが駆ける。
大型剣を武器というより巨大な工具のように扱い、指定された関節だけを砕いていく。
破壊できるのに、あえて破壊しない。力任せに斬れば早いが、その一撃が槽の人間へどう返るか分からない。
だからこそ、必要な場所だけを壊す。
それはドレイヴにとって得意な戦い方ではなかった。それでも一度もディアナの指示を無視しなかった。
「ドレイヴ、後ろ!」
マナが叫ぶ。
痛みに耐える動作を繰り返していた人形が、床を這うように迫っていた。
ドレイヴが振り返るより先に、アレンは双剣を横へ向ける。
今度は、強い風ではない。床すれすれに風圧を走らせ、人形だけを横へ転がした。
「助かった!」
「前見ろ!」
「見てる!」
「今、後ろ向いただろ!」
「うるせえ!」
マナは戦闘へ加わらず、槽の間を動いていた。
一つ、次、その次へと水光を薄く広げ、内部の生命反応を確かめていく。
「第一槽、心拍維持!」
次へ。
「第二槽も大丈夫!」
奥へ走る。
「第三槽、心拍が少し速い! ディアナ、さっき封じた線と関係あるかも!」
「確認する!」
ディアナの杖先が動く。
「……違う。人形停止の反動じゃない。術式全体の流量が上がってる」
「流量?」
アレンが人形を風で押し返しながら聞く。
「私たちが侵入したことに反応してる!」
床を走る黒い術式線が光を増した。
ごうん、と施設全体を揺らす低音が響き、槽の内部では細かな泡が立ち始める。
「マナ!」
「大丈夫! まだ全員、生きてる!」
「……なら、このまま先へ行くぞ!」
アレンは短く息を吐いた。
右手は剣を握れるだけ。それ以上は使わない。
そう決めて双剣を大きく交差させると、人形たちが一斉に迫ってきた。
「ドレイヴ、伏せろ!」
「おう!」
アレンの声に反応し、ドレイヴが即座に身体を沈めた。
その頭上を越すように、アレンが双剣を振り抜く。
風が通路いっぱいに膨れ上がり、人形たちの身体を浮かせた。前列が後列にぶつかり、そのまままとめて奥へ押し戻されていく。
破壊はしない。槽にも当てない。
ただ、距離を作るためだけに。
「今だ!」
ドレイヴが飛び込み、立ち上がろうとする人形から順に関節を砕いていく。
ディアナはなおも床を走る術式線の流れを読み続けていた。
「それは脚だけ! そこなら切っていい!」
「次!」
「右腕!」
「次!」
「――待って!」
ドレイヴの大型剣が、振り下ろされる寸前でぴたりと止まった。
刃の下には黒い術式線が一本あり、人形の肩から床へ入り、そのまま槽へと続いている。
「そこは駄目。生存者側に直接つながってる」
ドレイヴが慌てて剣を引いた。
「……危ねえな」
「だから、待ってって言ったでしょう」
次の瞬間、ドレイヴが最後の一体の膝を砕き、人形たちは床に散らばった。
それでも完全には静かにならない。
壊れた関節をなおも動かそうとし、進めない脚が床を掻く。曲がらない腕は前へ出ようと震え、身体を丸められなくなった人形の胴が、一定の間隔で軋んだ。
きい。
きい。
きい。
地下に残された動作だけが、終わることを許されないまま繰り返されている。
「……行こう」
マナがそう言うと、誰も反対しなかった。
アレンは右手へ流していた刻印の力を切ろうとした。
「待って」
マナが制した。
「刻印の力、急に切らないで。……ゆっくりでいいから」
「ああ。分かってる」
アレンはまず左手の剣を鞘へ戻し、空いた左手で右手の剣を受け取ると、もう一方の鞘へ収めた。
それから、指を動かしている雷を一本ずつ減らしていく。
小指、薬指、中指。
最後に、人差し指と親指。
右手から光が消え、指は再び動かなくなった。
「……切った」
「うん。ちょっと確認するね」
マナはアレンの手首に指を添える。
「脈は大丈夫。……痺れも、広がってないよ」
「ああ」
アレンは頷いた。
そのときだった。
――ざ。
何かが聞こえた。
いや、音ではない。
頭蓋の内側を、何かが指先でなぞったような感覚だった。
アレンの歩みが止まる。
視界は変わっていない。石の通路も、透明な槽も、床に倒れた人形もそこにある。
マナも、ドレイヴも、ディアナもいる。
全員いる。
それでも一瞬だけ、もっと深い場所にある黒い扉の輪郭が、意識の底に浮かんだ。
開いてはいない。鎖も見えない。
ただ、その向こう側に何かがいる。
――ざ。
まただ。
今度は、さっきより近い。
「アレン?」
マナが名前を呼ぶ。
「……声みたいなものがする」
三人が立ち止まり、マナが尋ねた。
「どんな?」
アレンは自分の内側へ意識を向ける。
意味はなく、音にすらなっていない。
それでも、こちらへ何かが伸びてきている感覚だけは分かった。
「まだ、言葉にはなってない。でも……俺を探してる。そんな感じがする」
ドレイヴの顔から、さっきまでの軽さが消えた。
「……黒い扉の、あれか?」
「たぶん」
「たぶんって……はっきりしねえのか?」
「見えてるわけじゃない。けど……同じなんだ。あのときと、同じ感じがする」
アレンが言い終える頃には、ディアナはすでに動き始めていた。
測定結晶をアレンの右腕へ近づけると、透明だった結晶の中心に、針の先ほどの黒点が浮かび上がった。
「……上がってる」
「刻印の反応か?」
「違う。雷鳴の方はむしろ落ちてる」
ディアナは結晶から目を離さない。
「上がってるのは……黒い方よ」
その瞬間、黒点が二つに割れ、枝のような影が結晶内部へ伸び始めた。
「アレン、今は何もしないで」
「……分かった」
「右手も、そのまま。無理に力を戻そうとしないで」
「してない。大丈夫だ」
「なら、そのままでいて」
ディアナはアレンの足元に杖を置くと、白銀の円を広げた。
外側、内側、さらにその間を走る細い封止線。
「外周封止、閉鎖!」
封印の光が立ち上がる。
それはアレンを縛るためではなく、右手そのものにも触れない。周囲へ浮き上がりかけていた黒い反応だけを囲むように、白銀の術式が閉じていく。
やがて、測定結晶の黒点が止まった。
「……止まった」
ディアナが言う。
さらに数秒が過ぎると、黒い枝が一つ、また一つと縮んでいった。
最後には、針先ほどの点だけが残った。
「……下がったわ」
マナがアレンの顔を覗き込む。
「アレン、声は? まだ聞こえる?」
アレンは答えず、意識をもう一度自分の内側へ沈めた。
――ざ。
その感覚は、さっきよりもずっと遠くなっていた。
「まだいる。でも……さっきより遠い」
「なら、そのままでいて」
ディアナは術式を保ったまま、ゆっくりと立ち上がる。
「完全に消えたわけじゃない。だから、封じ込めたとは言えないけど……反応が大きくなる前に、外側だけは閉じられた」
「……俺が言ったから、間に合ったのか?」
「ええ」
ディアナは短く、はっきりと答えた。
「もう少し遅ければ、黒い反応と施設側の術式がどこまで干渉したか分からなかった」
アレンは測定結晶に残る黒点を見た。
小さいが、それでも消えてはいない。
「すぐに言って正解だったよ」
マナが静かに言う。
奥から響く機械音はさらに大きくなり、そのたびに床を走る黒い術式線が明滅した。
ごうん。
ごうん。
「……進めそう?」
マナがディアナを振り返ると、ディアナは測定結晶を確かめてから頷いた。
「ええ。進めるわ。……反応も、下がったまま」
ディアナは測定結晶を見ながら、外周封止をゆっくりと解いていった。
それでも、黒点が増えることはなかった。
「ただし、ここからは私が術式線を確認してから動いて」
「え、俺が前じゃねえのか?」
「前にはいていいわ。勝手に踏み込まないで、って意味よ」
「だったら最初からそう言え」
四人は再び歩き始める。
奥へ進むほど、後から持ち込まれた設備が増えていった。旧導魔路そのものは古いのに、そこへ組み込まれた設備だけが異様なほど新しい。
壁へ固定された生命維持管、黒い結晶を組み込んだ制御器、古代のものとも現代のものとも判断しにくい金属板。
新旧の技術が無理やり縫い合わせられ、一つの巨大な身体を作り、その血管のように黒い術式線が全域を走っていた。
「止まって」
ディアナがそう言うと、三人は即座に従った。
彼女は床を調べ、一本の線に白い印を付けた。
「ここから先、床の中央は踏まないで。左右の石だけを使って」
「……踏んだらどうなる?」
ドレイヴが嫌そうに聞く。
「第三槽と第四槽につながってる術式があるの」
「……聞かなきゃよかった」
「いや、そこは聞いといた方がいいだろ。お前、今真ん中踏もうとしてただろ」
「止めただろ」
「そういう問題じゃないよ」
マナにぴしゃりと言われ、ドレイヴは何も返さず渋々壁際へ寄った。
そのまま数歩、さらに数歩と進む間も、マナは通り過ぎる槽を一つずつ確かめていく。
「……生命反応、ある」
隣の槽へ水光を滑らせる。
「この人も……大丈夫」
さらに、その隣へ。
「……うん。生きてる」
同じ確認を重ねているだけなのに、その言葉は槽を一つ越えるたび、少しずつ重くなっていった。
生きているから、壊せない。
けれど、生きているからこそ急がなければならない。
救うために施設を止めたい。しかし、止めれば死ぬ。
その矛盾が、四人の歩幅を狭くしていた。
やがて通路の終わりに、黒い扉が現れた。
アレンの中にあるものとは違う。現実の扉だ。
表面は黒い金属で覆われ、中央には円形の制御具が埋め込まれている。そこへ、床を走ってきた黒い術式線がすべて集まっていた。
「……ここか」
ドレイヴが低く呟いたが、ディアナは返事をせず、扉へ一歩近づいた。
「……待って」
「いや、まだ何もしてねえぞ」
「あなたに言ったんじゃないわ」
「じゃあ誰に言ったんだよ」
ディアナは扉を見据えたまま、ひとつ呼吸を整えた。
「……自分に」
ディアナはしゃがみ込み、線を一本、もう一本と慎重に追っていく。
「これは……生命維持の線ね」
ディアナは杖先をずらし、別の術式線を追う。
「こっちは、人形へ動作記録を送ってた系統」
さらに一本。
「……これも違う」
「扉を開ける線は?」
「今、探してる」
そのやり取りの脇で、マナが壁際へ続く狭い空間に気づいた。
「……アレン」
「ん?」
「こっち。まだ槽がある」
アレンはマナが示す先を確かめ、後に続いた。
扉の横、壁の奥に隠れるように、一つだけ別の区画が設けられている。
そこにも透明な槽があり、構造は同じだった。白く濁った液体の中に、人間がいる。
最初は顔が見えなかった。
黒い髪が水の中に浮かび、額にかかっている。頬は以前より痩せ、腕には黒い線が走り、胸元からは生命維持の管が伸びていた。
それでも、見間違えるはずがない。
「……ユリス」
アレンの口から、掠れるようにその名が漏れた。
マナは槽へ駆け寄りかけ――
「……待って」
と、自分自身を制するように踏みとどまった。
杖を上げ、槽の中に目を凝らす。
「先に……生命反応、確認するね」
淡い水光が静かに槽の表面に広がっていく。
一秒、二秒と確かめたあと、強張っていたマナの肩がわずかに下がった。
「……生きてる」
その言葉を聞いて、アレンはゆっくりと槽の前へ立った。
「……ユリス」
返事はない。
アレンは眠るユリスから目を離さず、もう一度呼びかけた。
「ユリス……聞こえるか?」
だが、白い液体の中で男は目を閉じたまま、眠り続けていた。
初めて出会ったときの姿が頭をよぎる。
小さな火すら満足に扱えず、それでも仕事を選べるようになりたいと言っていた青年。
自分の身体を変え、力を得たいと願っていた。
その願いに、誰かが手を伸ばした。
けれど。
「助けに来た」
アレンは透明な壁越しのユリスに言った。
「ここから出す。だから――」
そのとき、ユリスの瞼がかすかに動いた。
「……アレン」
マナの声に緊張が滲むと、ディアナとドレイヴもすぐに槽のそばへ寄った。
「生命反応は?」
「変わってない。でも……起きるかも」
次の瞬間、ユリスの目がゆっくりと開いた。
その目に、眠りから無理やり引き戻されたような濁りはなかった。
焦点は合っている。目の前にアレンがいることを、はっきり理解している。
「ユリス」
アレンは透明な壁に左手を当てた。
「聞こえるか?」
ユリスの瞳だけがゆっくりと巡り、アレン、マナ、ドレイヴ、ディアナを順に捉えていく。
やがてアレンのところで止まると、口元に接続された呼吸管の脇で、唇がかすかに動いた。
槽の外に設置されていた伝声術式が、そのかすかな振動を拾う。
声が出た。
「……助けなんて、頼んでない」
アレンの左手が、透明な壁に触れたまま止まった。
「……何?」
思わず聞き返す。
だが、ユリスはアレンから目を逸らさなかった。
眠らされ、拘束され、身体には黒い線が走っている。それでも、その目に混乱も怯えも、助けを求める色もない。
そして、ユリスは告げた。
「俺は、自分でここへ来た」




