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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第三章『選ばれなかった者の選択』

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第32話『三人で行く』


 道は見つかった。だが、それだけだ。


 旧診療所の地下最奥。機材庫の奥では、石壁の一部がわずかに横へずれ、黒い長方形の隙間を覗かせていた。だが、その幅は腕一本を差し入れることさえ難しいほど狭い。


 その向こうには、確かに旧導魔路がある。使われなくなった太い導魔管と石造りの保守路。その壁面には、消えかけた古い術式が埋め込まれている。


 細い隙間から冷たい空気が流れ込み、舞い上がった埃がマナの水光の中を漂っていた。


「……止まったな」


 ドレイヴは壁を睨んだまま、確かめるように呟いた。

 その呟きに、アレンは返事をせず、感覚のない右手を見下ろした。


「……ああ。止まった」


 手は動かず、雷鳴の刻印も発動していない。それでも、右手の奥では何かが脈打っていた。

 痛みでも、熱でもない。そもそも今の右手には、そのどちらを感じる感覚も残っていないはずだ。


 それなのに、分かる。


 壁の向こうに、自分の中にあるものと同じ何かが存在している。


「アレン」


 マナの声が飛ぶ。


「今はどう?」


 アレンは動かない指先を確かめた。


「……さっきと同じだ。麻痺もいつもの範囲。手首より上、前腕には広がってない」


「……黒い扉は?」


「見えてない」


 マナは測定結晶の反応を確かめる。異常がないことを見届けてから、ようやく一度だけ頷いた。


「……分かった」


 それを聞いて、ディアナは壁の前へしゃがみ込み、杖先に取りつけた結晶を露出した金属枠へ近づける。


 すると、透明な結晶の内部に黒い点が浮かび、枝のように細く広がっていった。


「……術式は生きてる」


「なら、開けられるのか?」


 ドレイヴが聞き返す。


「まだ分からないわ。今のは開いたんじゃない。途中まで起動して……そこで止まったように見える」


「途中で止まった?」


「ええ。起動するには、何か条件が足りてない」


 ディアナが金属枠の右端から左端へ杖を滑らせると、白い測定光が石壁をなぞり、長年の汚れに埋もれていた線を浮き上がらせていく。


 そこには起点符、対象宣言、効果式など、少なくとも読み取れる範囲で術式の基本要素の一部が残っている。


 ただし、その中央だけが黒く潰れていた。


「……読めない」


「読めねえって……壊れてんのか?」


「いや、違う」


 ケイムがディアナの横にしゃがみ込む。


「壊れたんじゃない。そこだけ……今の術式体系では読める形で記述されていないんだろうね」


「ええ……たぶん」


 ディアナが黒い部分へ測定結晶を近づけると、再び結晶内部に細い影が走る。


「通常の魔力が条件じゃない。属性も、魔力量も……どちらも術式を開く鍵にはなってないわ」


 アレンは壁を見つめた。


「じゃあ……俺の右手が近づいたから、開いたんじゃないのか?」


「その可能性は高いわ」


「なら……もっと近づけばいいだろ」


 ディアナも立ち上がる。


「私は術式のほうを見るわ。何か変化が出たら、すぐ止める」


「分かった」


「……で、俺は?」


 ドレイヴが自分を指さす。


「何もしないで」


「またそれかよ」


「今は、って意味よ」


「だったら最初からそう言え」


「同じでしょう」


「全然違えよ」


 その横で、ケイムが小さく肩をすくめる。


「ドレイヴ。何か起きたら、アレンを壁から引き離してくれ」


「ほら、それだよ。最初からそう言ってくれりゃいいんだ」


 ドレイヴは大剣の柄から手を離し、アレンの斜め後ろに立つ。


「おい。急にぶっ倒れんなよ」


「俺に言う前に、お前も引っ張りすぎるなよ」


「そんときは諦めろ」


「……何をだよ」


「肩関節」


「やめろ」


 ほんの一瞬だけ、張り詰めていた空気が緩んだ。けれど、誰も笑わない。

 アレンは左手で力なく垂れた右手首を支え、肩と肘を動かしながら、右腕をゆっくりと持ち上げる。


 黒い手袋に覆われた指先が、金属枠へ近づいていく。

 一歩近づくと、右手の奥で脈動が強くなった。


「反応、上がってる」


 マナが間を置かず告げる。


「……まだ大丈夫だ」


「大丈夫かどうかじゃない。何が変わったの?」


「……右手だけだ。前腕には、まだ来てない」


「分かった」


 アレンは呼吸を整え、さらに半歩だけ距離を詰めた。金属枠まではあと僅か。


 左手で右手首を支えたまま、掌を壁に押し当てる。

 その途端、黒い線が爆ぜた。


「っ……!」


 石壁いっぱいに細い亀裂のような黒い光が走り、ドレイヴは反射的にアレンの肩を掴む。


「離すか!?」


「待って!」


 ディアナの鋭い声が飛ぶと、石壁の中央から低い振動が響き始めた。


 先ほど止まっていた壁が再び横へ滑るように開き、腕一本分、肩幅、人一人と、少しずつ隙間を広げていく。


 さらに開いた壁は、最後には二人が並んで通れるほどの幅となり、重い音とともに止まった。


 その向こうに、暗い保守路が姿を現す。

 マナの水光が奥へ伸びていく。十歩、二十歩――その先は闇へ呑まれ、見えない。


「……開いた」


 ドレイヴが呟くなか、アレンは壁へ押しつけた右手を見つめた。


 雷は出ておらず、刻印も光っていない。


「ディアナ」


「ええ」


 呼ばれても、ディアナは術式から目を離さない。


「……やっぱり、これが鍵ね」


「黒い反応が?」


「正確には違う。この入口がアレンの中にある黒い反応を認識してる」


 ケイムが金属枠へ歩み寄る。


「アルカナリウムの黒い結晶と同じ系統の仕組みなら、そこまでは不思議じゃない。ただ……」


「ただ?」


「どうやら、君が触れていることまで条件に含まれてるみたいだね」


 アレンは眉を寄せる。


「……触れてないと駄目なのか?」


「ええ。確かめましょう」


 ディアナが答える。


「アレン。そのまま右手を……ほんの少しだけ離して」


「どれくらいだ?」


「指一本分。それで十分よ」


 アレンは小さく頷き、左手で右手首をゆっくりと引いた。掌と金属枠の間に僅かな隙間ができた途端――。


 ゴゴ――。


 壁が動いた。


「戻せ!」


 ドレイヴが叫ぶと、アレンは右手を押し戻した。

 壁はそこで一度止まり、すぐに逆方向へ動いて、元の開口幅まで戻る。


 その様子を前に、全員が黙り込んだ。


「……触れてる間だけ、か」


 アレンが低く呟く。


「ええ。そうみたいね」


 ディアナは床際に残る術式痕を追った。


「この壁が普通の扉みたいに開いたり閉じたりしてるわけじゃない」


「……どういう意味だ?」


「アレンが触れている間だけ、術式がこの場所の一部を“通路”に置き換えてるの。手を離した瞬間、その置き換えが解けて、元の壁へ戻り始める」


 ドレイヴが入口の奥を覗き込む。


「じゃあ、こいつがここに残ってりゃ、俺たちは入れるってことだろ?」


「……お前たちはな」


 アレンが短く返す。その先を口にしなくても、全員には分かっている。

 最後にアレンが入ろうとした瞬間、手を離さなければならない。そして、その瞬間に入口は閉じる。


「……中から触れたら、どうなるの?」


 マナが入口を見つめたまま尋ねる。


「同じ場所に術式があるとは限らないわ」


 ディアナは小さな観測結晶を一つ取り出した。


「……確かめるなら、実際に中へ入るしかない」


     ◇


 最初に旧導魔路へ入ったのは、軍務局から駆けつけた探索班の兵士だった。


 ケイムが地上へ緊急連絡を送り、旧診療所の周囲が封鎖されるまで、およそ二十分。その間も、ディアナは入口の術式を調べ続けている。


 ユリスへの次の刻写予定時刻は深夜だが、正確な残り時間は分からない。ただ、時計の針だけが進んでいく。


 到着した探索班の兵士は腰に命綱を結び、アレンが入口へ触れている間に通路の奥へ入った。


 十歩、二十歩と進んだところで、いったん停止する。


「内側の壁面、確認します!」


 声はまだ届いており、兵士はそのまま入口の反対側を調べ始める。


 それから数分後。


「こちら側には、開閉術式がありません!」


「裏側の金属枠は?」


 ディアナが声を張る。


「ありません! 枠自体がない。ただの石壁です!」


 その返答に、ケイムの表情からわずかに軽さが消えた。


「……一度、閉じてみようか」


 アレンが振り向く。


「大丈夫なんですか?」


「命綱はある。閉じた直後に、君がもう一度触れればいい。まずはそれで確かめよう」


 兵士を入口から十分に下がらせ、命綱にも余裕を取らせる。中の兵士と合図を交わしてから、アレンは右手を壁から離した。


 重い音とともに壁が動き始め、数秒後には入口が完全に閉じる。命綱は石壁の手前で床へ落ち、壁面で不自然に途切れて見えた。


 切断されたわけではない。向こう側にあるはずの部分だけが、この側からは存在しないもののように消えている。


「……おい」


 ドレイヴの顔が強張る。


「まさか……向こうで挟まれてんじゃねえだろうな」


「今、もう一度開ける」


 アレンは左手で右手首を支え、そのまま掌を壁に押しつけた。


 黒い線が走り、壁が開いていく。向こう側では、探索班の兵士が大きく息を吐いた。

 命綱も、何事もなかったかのように元へ戻っている。


「怪我は?」


「ありません!」


「閉じてる間、そっちから入口に何かできたか?」


 ケイムの問いに、兵士は首を横へ振る。


「いえ。魔力を流しても、叩いても反応なしです。壁の向こうの音も、まったく聞こえませんでした」


「通信結晶は?」


「それも完全に途切れました」


 兵士が入口をくぐってこちら側へ戻ってくると、ディアナは開いたままの入口をしばらく黙って見つめていた。


「……やっぱり、そうなるわね」


「何が分かったの?」


 マナが尋ねる。


「中へ入ったら……外から助ける手段がほとんどない」


 ディアナの声は冷静だ。だからこそ、その言葉だけが重く残った。


「少なくとも、アレンが中へ入ったあと、外に残った人間だけでこの入口を開く方法はないわ」


「……別の出口は?」


「それも分からない。旧導魔路の図面自体が、完全じゃないの」


 ケイムが軍務局から運ばれてきた古い地図を広げると、黄色く変色した紙の上には、現在の都市導魔網と重なるように何本もの古い経路が描かれている。


 ただ、その多くは途中で線が途切れていた。


「中央医療塔、旧魔法院、都市結界、軍務施設……このあたりまでは接続記録が残ってる。ただ、廃止のときに埋められた経路と、地図から消された経路が混ざってるんだ」


「じゃあ、ここからエドガーが使ってる施設に繋がるのはどれだ?」


 ドレイヴが地図を覗き込む。


「……分からない」


 ケイムは誤魔化さずに答える。


「そもそも、この入口自体が正式な図面には載ってないからね」


 沈黙が落ちる。


 壁の向こうへ入ることはできる。だが、帰ってこられる保証はない。ユリスがどこにいるのかも、その先に何が待っているのかも分からない。


 それでも、深夜まで残された時間だけは確実に減っていく。


 そのとき。


「……現状では、一名を先行させるのが妥当でしょう」


 軍務局の探索班を率いる士官が、静かに口を開いた。

 その一言で地下の空気が張り、全員が士官を見た。


「……誰を行かせるんだ?」


 ドレイヴが聞いたが、答えは聞くまでもない。

 士官の目は、すでにアレンを捉えていた。


「……ライオネット隊員です」


 その瞬間、マナの指が杖を強く握り込む。


「アレンだけ……ですか?」


「入口が彼の反応にしか応じない以上、それが最も合理的です」


「でも、中からは開けられないって……今、確認したばかりですよね」


「ええ。承知しています」


「それなら――」


 マナが言葉を切るのを待ってから、士官は静かに続けた。


「だからこそ、です」


「先ほどの試験では、接触が切れてから完全に閉じるまで、数秒の猶予がありました。ライオネット隊員一名なら、その間に通過できる可能性があります」


「だったら、俺たちが先に入って、最後にアレンが通ればいいだろ」


 ドレイヴが返すが、士官は静かに首を横へ振った。


「それが一番危険です。もしライオネット隊員が通過できなければ、先に入った三名は、入口を開く鍵を失ったまま内部に取り残される。それに……閉じかけた境界へ身体を入れる危険もある」


 士官は入口を示す。


「閉鎖までの数秒を使うなら、ライオネット隊員一名を先行させるべきです。内部へ入り、まず別の出口を探してもらう。そこまで到達できれば、外部との連絡手段を確保し、救助班を入れられる可能性があります」


「……見つからなかったら?」


 ドレイヴの声が低くなる。


「その場合は、別の手段を検討します」


「アレンを中に残したままか?」


 一拍、間が空く。


「……そうなる可能性はあります」


 ドレイヴが一歩前へ出る。


「お前――」


「ドレイヴ」


 アレンが低く呼び止めた。


 士官の言っていることは分かる。四人が消えるより、一人。危険に晒す人数は少ない方がいい。自分なら入口を開けられるし、ユリスの刻写予定時刻も迫っている。


 一人で行けばいい。


 そう考えたとき、力なく垂れた右手が目に入った。

 黒い手袋の下では、五本の指が何も感じないまま垂れている。


 自分だけなら、マナも、ドレイヴも、ディアナも危険に晒さずに済む。もし帰れなくても――。


 そこまで考えて、アレンは気づいた。

 また、自分一人で答えを決めようとしている。


 守るためだと思って、一人で抱え込む。それをもう繰り返さないと決めたはずだった。


『一人で使わなきゃ助からない状況を、最初から作らないの』


 中庭でマナに言われた言葉が蘇る。


『お前一人には決めさせねえ』


 ドレイヴの声も。

 あの言葉を交わしたのは、刻印をどう使うか話していたときだった。けれど、根にあるものは同じだ。


 自分一人で答えを決めない。

 その約束を守るべきなのは、きっとこういうときだ。


 士官はケイムを見る。


「ホグナー隊長。こちらとしては、単独での先行を推奨します」


 ケイムはしばらく入口を見つめていたが、やがてアレンへ問いを向けた。


「……アレン。君は、どうしたい?」


 アレンは一度だけ目を閉じ、短く息を吐いてから顔を上げた。


「……俺一人なら、入れる」


 その言葉にマナの表情が強張り、ドレイヴは何も言わない。


「……でも、一人では行きません」


 士官が眉を寄せる。


「理由を聞いても?」


「中で黒い反応が強くなったら……俺一人じゃ、判断できないからです」


 アレンは右手をわずかに持ち上げた。左手で支えなければ、その形を保つことさえできない手。


「俺には、この反応が何なのか分からない。それに、もし刻印まで暴走したら……一人じゃ止められない」


 アレンはまずマナへ向き直る。


「状態を見てくれる奴が必要です」


 次はドレイヴへ。


「俺が止まれなくなったら……止める奴も」


 最後にディアナへ。


「術式に何か起きたとき、調べられる奴も必要です」


「それは、全員を危険に晒す理由にもなる」


「……分かってます」


「なら――」


「でも、俺一人を入れるのだって、安全な案じゃない」


 アレンは士官から目を逸らさなかった。


「俺が中で倒れたら、ここにいる誰も入口を開けられない。何を見つけたのかも伝えられない。俺が帰れないだけじゃなくて……そこで全部、途切れる」


「……」


「だったら、単独で行くのが一番合理的だとは思いません」


 言い切って、アレンは肩の力をわずかに抜いた。


「それに……」


 隣の二人を見る。


「一人で決めないって、約束してるんで」


 ほんの一瞬、士官は答えに困ったような顔をした。軍務上の議論へ「約束」という言葉を持ち込まれるとは思っていなかったのだろう。


 その様子を見て、ドレイヴが鼻を鳴らす。


「……そういうことだ」


「いや、まだお前が行くって決まったわけじゃないだろ」


「行くに決まってんだろ」


「いや、だから――」


「アレン一人で行かせるくらいなら、俺も行く。それだけだ」


「……わたしも」


 マナが間を置かず続ける。


「三人で行くよ」


 アレンは言葉を失い、二人の顔を見る。


 グリムフォードからずっと、何度もそうしてきた。逃げるときも、戦うときも、戻るときも。


 だが――。


「三人では無理よ」


 ディアナが淡々と言うと、三人が揃って彼女を見た。


「……なんだよ、その言い方」


 ドレイヴが顔をしかめる。


「今、ちょっといいところだっただろ」


「いいところでも、無理なものは無理よ」


「……どういうことだ?」


 アレンが聞き返すと、ディアナは床に置いていた観測結晶を杖先で示した。


 一つ、二つ、三つ。そして四つ目。


「四人で行く方法なら、あるかもしれない」


     ◇


「先に言っておくけれど」


 ディアナは床に四つの観測結晶を並べた。


「……成功する保証はないわ」


「そこを何とかするのが、お前の仕事じゃねえのか?」


「保証できないものを、できるように言わない。それも私の仕事よ」


「……面倒くせえな」


「命を預けるなら、そのくらい慎重でちょうどいいでしょう」


「……まあ、それはそうだけどよ」


 旧診療所の最奥は、即席の研究室へ変わっている。


 壁際には軍務局の測定器具が並び、床には旧導魔路の図面が広げられている。四つの観測結晶から伸びた細い銀線は、中央に置かれた一枚の水晶板へ集まっていた。


 アレンはその前に座り、左手で右手袋を外していた。片手では時間がかかるが、以前なら苛立っていたその動作も、今は急がない。


 薬指が布に引っかかるたび、左手で位置を確かめ、一本ずつ伸ばしていく。


 やがて最後まで手袋が抜けると、青黒い雷の紋様が露わになった。


 その奥には、刻印とは違う反応が眠っている。


「アレン、右手をここへ」


 ディアナが一つ目の観測結晶を示すと、アレンは左手で右手を持ち上げた。


 透明な結晶へ掌を近づけると、その中心に黒い点が浮かび上がる。


「……やっぱり、反応する」


 ディアナが目を細めて杖を動かすと、黒点の周囲へ白い術式線が広がった。


「この結晶……中央医療塔で、アレンの残留反応を記録したものだよね?」


 マナが尋ねる。


「ええ。普通なら属性と魔力量を測るものよ。でも、この黒い反応は……どっちにも当てはまらない」


「じゃあ、何を測ってんだ?」


 ドレイヴが首を傾げる。


「測ってるわけじゃないの。“そこにある”っていう反応だけを拾ってる」


「……悪い。さっぱり分からん」


「でしょうね」


「お前、今ちょっと馬鹿にしただろ」


「事実を言っただけよ」


 ディアナは二つ目の結晶を一つ目の隣に置く。


「黒い反応そのものを複製することはできないわ。そもそも正体すら分かってないんだもの。そんなことをするつもりもない」


「じゃあ……何を分けるんだ?」


 アレンが聞く。


「観測結果よ」


「結果?」


「黒い反応そのものを複製するんじゃない。四つの結晶に、同じ瞬間の“観測結果”を持たせるの」


 ディアナは、金属枠に残る術式線を示した。


「入口が見ているのは、あなたの掌そのものじゃない。黒い反応の有無と、接触している位置。だから、この四つを連動させて位置関係まで固定する」


 そう言って、四つの結晶へ杖を向ける。


「四点の反応と位置関係を、接触した瞬間の観測状態に近いまま保てれば……入口には、“接触がまだ続いている”と認識させられるかもしれない」


 アレンは少し考えてから、四つの結晶を見る。


「……要するに、俺がまだそこに触ってるように見せるってことか?」


「厳密には違うけど……今はそれでいいわ」


「おい」


 ドレイヴがじろりとディアナを見る。


「俺が似たようなこと言ったときは、正確じゃないって散々言うくせに」


「今は説明を短くする必要があるからよ」


「俺のときだって必要だっただろ!」


 そのやり取りに、マナの口元がふっとほころぶ。自分でも気づいたのか、すぐに表情を引き締めた。


「それで……四つに分けたら、どうなるの?」


「アレンが直接壁に触れていなくても、四つの結晶が同時に反応を拾い続けている間は、入口に“まだ触れている”と認識させられる可能性があるわ」


 ディアナは四つの結晶を、アレンを基準に位置関係を作るよう床に並べた。


「ただし、四つを一か所にまとめることはできない。結晶同士の距離は一定に保つ必要があるわ。離れすぎれば観測が切れるし、逆に近づきすぎても位置が重なって、一つの反応として認識される」


「……要するに?」


 ドレイヴが聞く。


「四人で一つずつ持って、固まって歩く」


「よし。分かった」


「……本当に、そういう説明だけは早いわね」


「難しい話が終わるまで待ってただけだ」


 ディアナは話を打ち切るように、四つの結晶へ杖先を戻した。


「ただし、この補助術式で接触状態を偽装できるのは、境界を通過している間だけよ」


「……どういうこと?」


「四つの結晶が全部向こう側へ渡ったら、外側の判定術式との接続が切れる。つまり、入口を開けたままにはできない」


「じゃあ、俺たちが入ったあとに救助班を通すのは?」


「無理ね。最後の結晶が境界を越えた時点で、この補助術式は終わる」


 アレンは床に並ぶ四つの結晶を確認する。


「……一人一つ持つのか?」


「ええ。ただし、基準はあなたよ」


 ディアナがアレンを指す。


「四つの結晶で、あなたを基準にした接触位置を仮固定する。だから四人の間隔が規定範囲から外れたら……その瞬間に分岐が崩れる」


「崩れたら?」


 マナが静かに尋ねると、ディアナは答える前に一瞬だけ口を閉じた。


「……入口が閉じるわ」


「通ってる途中でも?」


「ええ。途中でも」


「そのときは……どうなる?」


「分からない」


 ディアナは目を逸らさず、そう答える。


「ただ……さっき、命綱が壁の向こうから消えたでしょう」


 誰も動かなかった。


「壁そのものが動いて、挟むわけじゃない。この場所を“通路”として維持している術式が切れるの」


 ディアナは間を置く。


「身体の半分が向こう側に、半分がこちら側に残ったまま切れたら……」


 その先は言わなかったが、言う必要もない。

 ドレイヴは反射的に、自分の腹を押さえた。


「……なあ。もうちょい、ましな方法はねえのか?」


「今のところは、これしかないわ」


「……失敗する確率は?」


「出せない」


「何割とか、そういうのも?」


「前例がないもの」


「五分五分……とかでも?」


「根拠のない数字を聞けば、安心できる?」


「……しねえな」


「なら聞かないで」


「……はい」


 珍しく素直に引き下がったドレイヴに、アレンの口元がわずかに緩む。だが、表情はすぐに引き締まった。


「試せるか?」


「小さな範囲なら……まず試せるわ」


 ディアナは四つの結晶を、試験用の位置に並べた。


「アレン。最初はあなた一人で、中心に立って。入口には触れたままで」


「分かった」


 アレンは指示された位置に立つと、右手を金属枠に押し当てる。

 入口が開くのを確認し、ディアナは一つ目の結晶に杖先で触れた。すると、その内部に黒点が浮かぶ。


 続けて二つ目、三つ目、四つ目へと杖先を移していく。

 やがて四つすべての結晶に、同じ黒い点が現れた。


「分岐開始」


 銀色の線が結晶同士を結んでいくが、それはアレンの右手から伸びているわけでも、黒い力を吸い出しているわけでもない。


 ただ、四つの結晶が同じものを見ている。


「手を離して」


 ディアナが言うと、アレンは壁から右手を離した。


 ゴ――。


 壁が僅かに震え、マナの肩が強張る。


 だが――入口は閉じない。

 そのまま、開いている。


「……成功した?」


「まだよ」


 ディアナの額には、うっすらと汗が浮かんでいた。


「アレン。そのまま……一歩だけ前へ」


 アレンは呼吸をひとつ整え、指示どおり一歩踏み出す。

 すると、四つの結晶に浮かんでいた黒点が僅かに揺らぐ。


 ゴゴ――。


 それに呼応するように、石壁が数センチ戻った。


「止まって!」


 アレンが即座に足を止めると、ディアナは杖を振って銀線の形を修正する。

 それに合わせるように、壁の動きも止まった。


「……位置の補正が必要ね」


「それ、通りながらやるの?」


 マナが尋ねる。


「ええ」


「……誰が?」


「私がやるわ」


「歩きながら?」


「そう」


「わたしたちの位置も見ながら?」


「ええ。全部見ながら」


「……大丈夫?」


 ディアナはそこで初めて、マナを見た。


「大丈夫、とは言わないわ」


「……うん」


「でも、やるなら……できるように組む」


 その言葉にマナが静かに頷く一方、ケイムは腕を組んだまま、四つの結晶を見ていた。


「……私からも、一つ条件を足す」


「何です?」


「通過中は、刻印を使わないこと」


 アレンは頷く。


「分かってます」


「黒い反応が強くなってもだ」


「……はい」


「雷鳴の刻印と黒い反応が干渉したら、観測結晶がどちらを拾うか分からない」


 ディアナも小さく頷いた。


「私も同意です。入口の途中で観測波形が変わったら……その場では補正できません」


「つまり、何か起きても我慢しろってことか?」


 ドレイヴが眉を寄せる。


「違うよ」


 マナが返した。


「何か起きたら、ちゃんと言うの」


 そう言って、アレンを見る。


「……我慢しないで」


「……ああ」


     ◇


 突入の準備が始まった。


 旧診療所の外では軍務局の兵士たちが周囲の路地を封鎖し、地下から運び出された古い導魔路の図面が即席の指揮台に広げられている。


 救助班、治療班、術式技師。誰も中へ入れる保証はない。

 それでも、戻ってくる者を受け取るための準備だけは進められていた。


「僕は地上に残るよ」


 地下へ戻る階段の前でケイムが声をかけると、アレンは振り返る。


「……来ないのか?」


「残念だけどね」


 口調はいつもと変わらなかったが、その目は笑っていない。


「旧導魔路は死んでるように見えるけど、今の都市導魔網と完全に切れてるわけじゃない。まだ何本か、枝が残ってる」


「……中で何か起きたら?」


「その影響が、都市側へ逆流する可能性がある」


 ディアナが顔を上げる。


「遮断はできますか?」


「一部だけならね」


「全部落としたら?」


「第四水路区の導魔灯と給水設備、それに治療施設の一部まで止まる」


「それは駄目だろ」


 ドレイヴが口を挟む。


「だから全部は切らない。僕が上で流れを見ながら、必要なところだけ切るよ」


「……一人で?」


 マナの問いに、ケイムが目を細めた。


「まさか、それを君たちに言われるとは思わなかったな」


「約束するのは、アレンだけじゃないので」


「……なるほどね」


 ケイムは地上へ続く階段を見る。


「救助隊も、軍務局の術式技師もいる。都市側で何か起きても、全員で確認してから動くよ」


「ならいい」


 アレンが短く答えた。


「ずいぶん厳しくなったねぇ」


「誰の小隊だと思ってるんだ」


「僕のはずなんだけどな」


「だったら、ちゃんと守れよ」


「はいはい」


 ケイムは軽く答えると、四人の顔を順に見る。


「……必ず戻れ、とは言わない」


 ドレイヴが眉を上げる。


「いや、そこは言えよ」


「保証できないことを言うのは、嫌いなんだ」


 ケイムは少しだけ間を置いて、続けた。


「ただ――戻る方法を探すのは、最後までやめるな。こっちも同じだ」


 アレンは短く頷く。


「……分かった」


 ケイムは踵を返して数歩進んだところで、一度だけ振り向く。


「それと、アレン」


「……何だ?」


「中で、自分にしかできないことを見つけても――」


 ケイムの目が、アレンの右手へ落ちる。


「それだけで、一人でやる理由にはならないからね」


 アレンはすぐには答えなかった。


「……分かった」


 それを聞くと、ケイムは今度こそ地上へ上がっていった。


     ◇


 ケイムが地上へ戻ったあと、入口のすぐ前には、突入する四人が並んでいた。


 その胸元には四つの観測結晶が、それぞれアレン、マナ、ドレイヴ、ディアナに固定されている。アレンの結晶を基準として、三本の銀色の術式線がほかの三人へ伸びていた。


 陣形はアレンを先頭側の中心に置き、マナが右後方、ディアナが左後方、ドレイヴが最後尾につく。前後の距離は一歩半、マナとディアナの左右の間隔は腕一本分。


 四人は、崩れれば入口が閉じる小さな陣形を組む。少しでも形が崩れれば、観測が乱れる。


「最後に、もう一度だけ確認するわ」


 ディアナが一同を見回した。


「歩幅は私が合わせる。勝手に前へ出ない。遅れない。それから――入口を抜ける途中は、何があっても急に動かないで」


「何があってもって……敵が出てもか?」


 ドレイヴが眉をひそめる。


「入口を抜けるまでは戦わない」


「殴られても?」


「避けたら陣形が崩れるわ」


「じゃあ、黙って殴られろってのか?」


「あなたなら、一発くらい平気でしょう」


「そういう問題じゃねえだろ!」


 ディアナは一拍置く。


「……敵がいるとは言ってないわ」


「だったら先にそれを言え!」


「だから、念のためよ」


 ディアナはそう言って、アレンへ向き直った。


「一つ目。何か異変を感じたら、その時点ですぐに言って。痺れ、耳鳴り、視界の異常。黒い扉や声、それから黒い反応も。少しでもあれば、全部よ」


「ああ」


「『少しだけだから』『まだ耐えられるから』は、なし」


「……分かった」


 ディアナの目が、わずかに鋭くなる。


「今の間は?」


「いや……条件が増えたなと思っただけだ」


「ならいいわ」


 マナが続けた。


「二つ目。前に決めた約束は、そのままね。仲間に止めろって言われたら、まず止まる。今回は停止の合図をわたしに統一する。わたしが停止って言ったら、理由を聞く前に刻印を切って」


「でも、今は使わないんだろ?」


「今だけじゃないよ。中に入ったあとも含めて」


「……ああ。分かった」


「三つ目」


 マナは全員を見渡した。


「誰か一人の判断だけで、作戦を変えないこと。誰かが残るとか、一人で先に行くとか……そういうことを考えたら、決める前に必ず口にして」


 最後の言葉だけは、まっすぐアレンへ向けられていた。


「自分一人が危険を引き受ければ済むって思っても、それを勝手に答えにしないで」


「……分かってる」


「本当に?」


「ああ」


 ドレイヴが小さく鼻を鳴らす。


「今、なんか言おうとしてやめただろ」


「……何もない」


「だったらいいけどな」


「四つ目」


 マナの声が、少しだけ低くなる。


「助ける人の命と、わたしたちの命を……最初から天秤にかけないこと」


 アレンが眉を寄せる。


「……どういう意味だ?」


「ユリスを助けるには、誰かが犠牲になるしかない――最初から、そう決めつけないってこと。逆も同じ。わたしたちが危ないから、ユリスを置いていくしかないって……最初から諦めるのもなし」


「でも、本当にどっちかしか選べないときは?」


「そのときに考える」


 マナは迷わず答える。


「そのときが来る前から、答えは二つしかないって決めない。ほかの方法を最後まで探すの」


 ディアナの灰色の瞳が動く。


「……そう」


 ディアナは静かに頷いた。


 マナは胸元から帳面を取り出し、以前の約束を書いた頁を開く。


 アレンはそこに記された文字を追った。


 帳面には、ブランネリアで自分が書いた言葉が残っている。


 全員で帰る道を、最後まで諦めない。


 ――誰かを助けるとき、自分だけを数から外さない。


 約束しただけでは意味がない。今、守らなければ意味がない。


 答えを最初から一つに決めてしまわないために。


「……分かった」


 アレンは呼吸をひとつ整えた。


「四つとも守る」


「うん。わたしも守る」


 マナが答えた。


「私も異論はないわ」


 ディアナも静かに続く。


「じゃあ、俺も守る。ただ――一個だけ言い直しとく」


 ドレイヴが顔を上げた。


「勝手に残るな。全員で入る。で、全員で出る。そこは絶対だ」


「……」


「誰かが残って扉を押さえるとか、敵を止めるから先に行けとか……そういうの、全部なしだからな」


「それ、お前もだぞ」


 アレンが言った。


「あ?」


「療養院で、梁を一人で支えようとしてただろ」


「あれは、ほかに方法がなかったんだよ」


 マナが口を挟む。


「でも今の約束だと、ほかに方法がないって一人で決めるのも駄目なんじゃない?」


「……」


 ドレイヴが黙り込む。


「……面倒くせえな、この約束」


「増やしたの、お前だろ」


「分かったよ!」


 ドレイヴは大きく息を吐いた。


「俺も勝手に残らねえ。……これでいいだろ」


「うん」


 マナが小さく笑う。


「じゃあ、帰ったらちゃんと書き足そうね」


「……本当に書くのかよ」


「約束だからね」


 マナが帳面を閉じる。


 アレンはその表紙を見た。


 帰ってから――その言葉が、不思議と胸に残る。


 帰る場所があるからこそ、約束になる。


 帳面が閉じられると、アレンは一度だけ呼吸を整え、入口へ向き直った。


「……始めるぞ」


「うん」


「お願い」


「よし。さっさと行こうぜ」


 三人の声が間を置かず返ると、アレンは左手で右手首を支えた。


 肩と肘を動かし、金属枠に掌を当てる。黒い線が石壁を走る。


 ゴゴゴ――。


 壁が横へずれるように開き、その向こうから冷気と埃、古い石と金属の臭いが流れ込んでくる。


 その先には、暗闇が広がっていた。


「第一観測――接続」


 ディアナの杖先に光が灯ると、アレンの胸元の結晶、その中心に小さな黒点が浮かんだ。


「……第二」


 続いて、マナの結晶にも同じ黒点が現れる。


「第三」


 次はドレイヴ。


「第四」


 そして最後に、ディアナ自身。


 四つの結晶すべてに同じ黒点が宿ると、細い銀色の線が伸び、四人をひとつにつないでいく。


 ディアナは四人の位置を素早く確認する。


「……全員の位置、確認」


 その声が、わずかに鋭くなる。


「アレンが中央。マナは右後方、私は左後方。ドレイヴは最後尾」


「なんで俺だけ最後なんだよ」


「一番大きいから」


「……またそれかよ」


「それに、最後尾なら誰かが崩れたとき、前へ押し戻せるでしょう」


「だったら最初からそっちを言え!」


「ドレイヴ、集中して」


 マナの一言で、二人とも口を閉じた。


 アレンは呼吸をひとつ整え、右手を壁から離す。


 ゴ。


 石壁が僅かに震えたものの、入口は閉じない。


「維持できてる」


 ディアナが銀線を確かめながら言った。


「……一歩」


 アレンが進むと、それに合わせて銀色の線が伸びる。


「次、マナ」


「うん」


 一歩。


「私も行く」


 ディアナが続く。


「ドレイヴ」


「分かってるって」


 ドレイヴも一歩踏み出す。


 四人は小さな陣形を保ったまま、さらに一歩、入口へ近づいた。


 アレンの足元から境界までは、あと一歩。


 最後尾のドレイヴまで抜けきるには、まだ数歩ある。


「もう一歩」


 アレンの右足が旧導魔路へ踏み入ると、冷たさが靴底から伝わってくる。


「異変は?」


 マナが聞く。


「右手の反応が……少し強くなってる」


「どこまで来てる?」


「手首まで。前腕には来てない」


「ほかには?」


「今のところ、ない」


 ディアナが銀線へ目を走らせる。


「……続行するわ。次」


 一歩進み、身体の半分が境界を越えた途端、アレンの胸元の観測結晶が黒く明滅する。


「止まって!」


 四人が同時に足を止めると、入口が軋んだ。


 ゴゴ――。


 石壁が数センチ戻る。


「ディアナ!」


「位置は崩れてない!」


「じゃあ、何なんだよ!」


「反応が……さっきより強くなってる!」


 アレンの右手、その奥で何かが脈を打つように蠢く。


 一度、二度。心臓とは違う周期。


 そのたびに頭の奥へ黒い景色が滲んでいく。


 巨大な扉。無数の鎖。そして、暗闇のさらに向こう。


 アレンは奥歯を噛み締めた。


「アレン?」


 マナの声が、すぐ近くから届く。


「……見えた」


「何が?」


「黒い扉だ。一瞬だけ……見えた」


「声は?」


「いや。声はない」


 アレンは、自分でも確かめるようにそう言葉にした。


 一つずつ、何も隠さない。


 そのとき、壁がさらに僅かに動く。


「黒点が……ずれてる」


 ディアナの額を、汗が一筋伝った。


「アレンの反応が強くなってる。そのせいで、残り三つの結晶まで中心に引っ張られてる」


「直せる?」


 マナが尋ねる。


「……直す」


「できるかどうかじゃなくて?」


「今、直すの」


 ディアナが杖を振るうと、銀色の術式線が形を変え、四つの結晶の間隔を補正する。


「ドレイヴ、足は動かさないで。そのまま上体だけ後ろへ!」


「後ろ、壁だぞ!」


「分かってる。腰だけ引いて!」


「簡単に言うな!」


 ドレイヴは踵を踏ん張ったまま、無理やり上半身を反らす。


「マナ、右へ。拳一つ分だけ!」


「うん!」


「アレンはそのまま! 動かないで!」


「分かってる!」


 石壁の境界がアレンの肩すれすれまで迫っている。触れてはいないが、耳元では岩が擦れる重低音が響いていた。


 避ければ陣形が崩れるため、アレンは動けない。


 その間にも右手の奥の脈動は強まり、黒い扉と鎖が頭の奥に浮かぶ。


 その向こうで、何かがこちらを見た気がした。


 アレンは顎に力を込める。


「……っ」


 右腕へほんの少しだけ雷を流したくなる。


 制御するために。反応を押し返すために。


 だが――。


『わたしが停止って言ったら、アレンは刻印を止める』


 今は逆だ。最初から、使わないと決めた。


 アレンは左手を強く握る。


「補正、完了!」


 ディアナが杖で床を叩くと、四つの黒点が同時に止まり、それに合わせるように石壁の動きも止まった。


「行ける!」


「次!」


 アレンが一歩踏み込むと、続いてマナ、ディアナ、ドレイヴも進む。


 境界が腰を越えた。


「もう一歩!」


 息が詰まり、銀線が震える。


 入口の外では、軍務局の兵士たちがこちらを見ている。そのさらに先には階段があり、その上には地上――ルミノヴァがある。


 日常のある場所。


「進んで!」


 一歩進み、アレンの全身が旧導魔路へ入る。


 それに続いてマナ、ディアナが境界を越え、最後にドレイヴが踏み込んだ。


「よし、俺も入ったぞ!」


「まだ動かないで!」


「もう入っただろ!」


「結晶が境界を越えるまで!」


「……分かった!」


 ドレイヴの胸元にある観測結晶が、ようやく境界を越えきる。


「切る!」


 ディアナが杖を振り下ろすと、三本の銀線が一斉に消え、結晶に浮かんでいた黒点も消失した。


 直後、轟音とともに四人の背後で入口が閉じ、巻き起こった風に押されるようにドレイヴが前へよろめく。


 そのまま、ディアナの肩にぶつかった。


「痛っ――」


「悪い!」


「ちょっと、重い!」


「仕方ねえだろ!」


「何が仕方ないのよ!」


「……二人とも」


 マナの声が割って入ると、二人は同時に口を閉じた。


 アレンが振り返ると、そこには何の継ぎ目もない石壁があるだけだった。


 金属枠も、黒い線もない。


 入口があった痕跡さえ、残っていない。


「……入ったんだな」


「ああ。全員、ちゃんと入ってる」


 ドレイヴが確かめるように、壁に拳を軽く当てる。


「……ほんとに何もねえな」


「触らないで」


「軽くだって!」


「軽くでも駄目よ」


 ディアナは言いながら、観測結晶を確かめる。


「……全部正常。結晶にも破損はないわ」


「アレンは?」


 マナがアレンのそばへ寄る。


「黒い扉は?」


「消えた」


「耳鳴りとかしてない?」


「ない」


 マナは結晶の値も確かめる。


「通信は?」


 ドレイヴが尋ねると、ディアナは小さな通信結晶を取り出し、表面に指を添えた。


「ケイム先生、聞こえますか」


 返ってきたのは、かすかな雑音だけだった。結晶の光が二度、弱く揺れ、それきり沈黙する。


「……予想どおり、駄目ね」


「完全に切れたのか?」


「ええ。さっきの試験と同じ。境界を越えた時点で、外との通信は切れてる」


「ってことは、ここから先は本当に俺たちだけか」


 ドレイヴが大剣を抜く。


「何が出てくるか分からねえ。だったら俺が前に――」


「待て」


 アレンが止めた。


「何だ?」


「……この先は、俺が先に行った方がいいと思う」


「……なんでだ?」


 アレンは、自分の右手を軽く示す。


「この先でも黒い反応が出るなら、たぶん俺が一番先に気づける」


 マナには、


「異変があったら、すぐ言う」


 ディアナには、


「術式があったら、そこで止まる」


 そしてドレイヴには、


「何か出たら……そのときは前を頼む」


 アレンは三人を見る。


「……それでいいか?」


「……ならいい」


 ドレイヴは納得したように、大剣を下げた。


「だったら最初からそう説明しろよ」


「今しただろ」


「お前にしちゃ珍しく、ちゃんとな」


「……うるさい」


 マナが小さく笑う。


「じゃあ、行こう」


 アレンは頷き、通路の奥を見る。


「ああ。ユリスを探す」


 ディアナの杖先に白い光が灯り、細い保守路を照らし出す。


 左右には長年使われていない導魔管が走り、その金属表面は腐食して、ところどころに黒い染みがこびりついている。


 床にも古い術式線が残されていた。現在のルミノヴァで使われている青白い導魔線とは異なり、幾重にも複雑な記号が連なっている。


「ずいぶん古いな……」


 ドレイヴが壁を見回しながら呟く。


「今の導魔網に切り替わる前の形式よ」


 ディアナが杖先の光を壁へ向けた。


「でも……」


「どうした?」


「ここだけ、妙に残留反応が多いの」


 その言葉に、アレンも黒い染みを追った。


 黒い染みは、最初は煤だと思っていた。古い魔力輸送路なら、焼けた跡が残っていても不思議ではない。


 だが――。


「……待て」


 アレンが不意に足を止めると、後ろの三人もつられるように動きを止めた。


「どうしたの?」


 マナが声をかける。


「今……動かなかったか?」


「何が?」


 アレンは答えず、壁の一角を指す。


 そこにある一つの黒い染みが、人の掌ほどの大きさから縦へ伸びていく。


 ゆっくりと、まるで影が立ち上がるように。


「……下がって」


 ディアナが杖を構えると、ドレイヴも大剣を前へ出し、マナは水の膜を薄く展開した。


 その間にも黒い染みはさらに伸び、頭、肩、胴、腕、脚の輪郭を形作っていく。


 やがて、それは人の形になった。


「何だ、こいつ……」


 ドレイヴの声が低くなる。


 一つではない。その隣、さらに隣、奥の壁、反対側に、黒い影が一つずつ浮かび上がっていく。


 十、二十――もう数えられない。


 古い保守路の壁一面に、無数の人影が現れていた。


 だが、誰も四人に襲いかかってはこない。ただ、それぞれが動いている。


 一人の影が、右脚を引きずりながら壁の中を歩く。


 一歩進んでは止まり、また一歩進んで転ぶ。立ち上がると最初の位置へ戻り、再び同じ動きを繰り返す。


 別の影は椅子に座り、動かない右腕を左手で持ち上げている。


 前へ伸ばし、指を閉じようとする。


 一度目は動かない。二度目、三度目――やがて五本の指が、ゆっくりと何かを握る。


 その前には、誰もいない。


 それなのに、アレンは旧診療所で見た記録映像を思い出した。


 何年も動かなかった手で、息子の手を握った男。


「……同じだ」


 思わず、声が漏れる。


「何が?」


 マナがアレンを見る。


「……あの記録と同じだ」


 その言葉に、ディアナも影の動きを追った。


「……ええ。私も今、気づいた」


 その灰色の瞳から、いつもの冷静さが一瞬消えた。


 さらに奥では、女性の影が歩いている。何度も転び、何度も立ち上がり、最後には両腕を前へ伸ばす。


 家族へ歩み寄った、あの女性。


 また別の影は、震える指で何かを書いている。途中で手を止めると、自分の書いたものを見つめ、首を傾げる。


 そして消し、また書く。


 その動作を、何度も繰り返していた。


「魔力反応は?」


 ドレイヴが壁を見たまま尋ねる。


「……ないわ」


 ディアナは測定結晶を壁へ向け、反応を確かめた。


「少なくとも、生きた人間の反応ではない」


「じゃあ……幻覚?」


 マナが静かに問い返す。


「……それとも違うわ」


 ディアナの声が、わずかに掠れる。


「術式の残留情報……でも、こんな形で残るなんて……」


 アレンは、壁を埋め尽くす影から目を離せなかった。


 黒い影の一つが、何度も同じ形に口を動かしている。声はないが、何かの名前を言おうとしているように見える。


 けれど、その名前は最後まで形にならない。

 影はまた最初へ戻り、口を開く。そこで止まり、忘れたように、また同じ動きを繰り返す。


 その背後では、さらに多くの人影が壁へ浮かび始めていた。


 もし、これがこの場所に残された被験者たちの動きなのだとしたら。

 動かなかった身体を動かした者。歩けなかった脚で歩いた者。失った力を、一度だけ取り戻した者。


 そして――その代わりに、何かを忘れていった者たち。


 刻写術式(こくしゃじゅつしき)が、人の動作だけを残したのか。


 それとも、ここに残っているのは別の何かなのか。


 今はまだ、誰にも分からない。


 ただ壁一面の無数の人影だけが、声もなく、同じ瞬間を何度も繰り返していた。


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