第31話『刻写痕』
十年前に閉鎖された診療所には、患者を迎える灯りがひとつもない。
ルミノヴァ第四水路区、十七番。
表通りから二本入った細い水路沿いに、エドガー・ヴァイスの旧診療所は建っていた。
二階建ての石造りで、正面玄関の上には、かつて神経魔術診療所だったことを示す看板の跡だけが残っている。文字は削り取られ、枠に溜まった雨水は黒ずんでいた。
左右の建物はとうに倉庫や工房へと変わり、細い路地を行き交う人影も少ない。離れた大通りから導魔車の音が聞こえてくるほかは、静まり返っている。
「……ここだ。間違いない」
ケイムが古い登録台帳と目の前の建物を見比べる。
「エドガー・ヴァイス名義。閉鎖届は十年前に出てる。それ以降、診療施設としての登録は――ない」
アレンが眉を寄せた。
「……待て。旧第四治療棟が閉じたのって、十二年前だったよな?」
「ああ。だから、二年ずれてる。中央医療塔を去ったあともここを使ってたのか、それとも登録だけが残ってたのか……台帳から分かるのは、そこまでだね」
「十年ねえ……」
ドレイヴが玄関の横へ回り、窓を覆う板を見上げる。
「いや、こいつは十年どころじゃねえだろ。見た感じ、二十年くらい誰も入ってねえぞ」
アレンは答えず、足元に視線を落とした。
石畳と玄関の間には細かな砂埃が積もり、雨が降れば流され、乾けばまた積もる。その繰り返しでできた灰色の層の上に、いくつか不自然な跡が残っている。
靴跡だった。
それも、一つではない。
「いや……待て」
アレンがその場にしゃがみ込み、地面に目を凝らす。
「人は来てる。ここ、足跡が残ってる」
ドレイヴも隣にしゃがみ、顔を近づけた。
「……ほんとだ。しかも新しいな」
「ああ。雨が降ったあとについた跡だ。昨日……いや、一昨日くらいかもしれない」
「何人いたかまでは分かるか?」
「そこまでは無理だ。でも――正面から入った奴は、そう多くない」
足跡の多くは、建物の壁際へ向かう途中で途切れている。
「……裏へ回りましょう」
ディアナがそう言って先に歩きだし、建物の裏側へ回ると、小さな中庭があった。
枯れた薬草棚に、割れた水瓶、錆びついた洗浄器具。そこまでは、十年間放置された診療所そのものだ。
しかし、地下へ続く外階段だけは違っていた。
積もった落ち葉は左右へ押し退けられ、階段の中央だけ石肌が露出している。その最下部には厚い鉄扉があり、表面は赤茶色に錆びているものの、取っ手の周囲だけは金属本来の鈍い色を残していた。
「上はもう捨てて、使ってたのは下だけ……ってことか」
ドレイヴが大剣の柄に手をかける。
「十分ありそうだな」
アレンが鉄扉へ近づいたそのときだった。ディアナが横から杖を伸ばし、行く手を遮る。
「触らないで」
「……まだ何もしてないだろ」
「今、触ろうとしたでしょう」
「そこまで分かるのか?」
「分かるんじゃないわ。今までのあなたを見てれば、予測できるだけよ」
ドレイヴが鼻を鳴らした。
「はっ。それなら俺でも分かるぞ」
「……お前まで言うなよ」
わずかな軽口のあと、空気が元に戻る。
ディアナは杖の先に測定結晶を取りつけると、扉の縁をゆっくりとなぞった。すると白い光が走り、錆の下から細い術式の線が浮かび上がる。
「封鎖術式は古いものね。閉鎖された当時の型と一致してる」
「じゃあ……封印そのものは、破られてないの?」
マナが尋ねる。
「表面上は、ね」
ディアナの杖先が、蝶番の近くで止まった。
「ただ……その内側に、別の術式が重ねられてる」
「別の術式?」
「ええ。閉鎖術式には手をつけず、正規の封印が残ってるように見せたまま――扉だけは開け閉めできる。そういう組み方ね」
ドレイヴの眉が寄る。
「つまり、ずっと閉まってるように見せかけて……中には出入りしてたってことかよ」
「そういうこと」
ディアナは鉄扉から目を離さないまま、杖を握り直す。
「……下がって」
短い詠唱とともに白い線が扉を囲んだ。
「巡る魔力よ、術式を閉ざせ――アルカンシュロス」
後から重ねられた術式の外周だけが白く閉ざされ、その奥に隠されていた迂回経路が一本ずつ浮かび上がる。ディアナが杖先をその経路へ沿わせると、やがて、鉄扉の奥で小さく錠の外れる音がした。
それでも、誰もすぐには扉を開けない。
アレンは左手で剣の柄に触れ、ドレイヴは一歩前へ出る。マナは杖を構え、ディアナは測定結晶を確認した。
最後に、ケイムが周囲に視線を巡らせる。
「……よし。行こうか」
ドレイヴが扉を引くと、地下から冷たい空気が吹き上がってきた。
薬品と湿った石、それに混じって、焦げた金属のような臭いがする。
閉ざされて十年経った場所の空気ではない。
◇
地下へ続く階段の魔法灯は消えていた。
マナが杖の先に淡い水光を灯し、アレンたちは一段ずつ下りていく。途中の壁には古い案内板が残されており、第一処置室、第二処置室、神経観測室、記録保管室と並んでいる。
いずれも文字は薄れ、ところどころに黒い染みが浮いていた。
「……昔から、地下を使ってたんだな」
アレンが周囲を見ながら呟く。
「神経魔術は、外からの魔力に影響されやすいんだ」
ケイムが答えた。
「その点、地下なら地上より観測環境を一定に保ちやすい。ここを建てた頃のエドガーなら……たぶん、それだけの理由だったはずだよ」
「じゃあ、今は?」
アレンがそう聞くと、ケイムはすぐには答えず、わずかに間を置く。
「……どうやら、別の理由も増えたらしいね」
階段を下りきった先で、全員が足を止めた。
廊下は綺麗だった。壁には古い亀裂が走り、天井の漆喰も一部剥がれ落ちている。それなのに、床にはほとんど埃がない。
誰かが、つい最近までここを歩いていた。
廊下脇の小部屋には空になった薬瓶が並び、洗浄済みの布が金属箱に畳まれている。処置室の寝台には新しい革帯があり、床の排水溝には、乾ききっていない洗浄液がわずかに溜まっていた。
マナは触れないよう、杖先をそっと近づける。
「……まだ魔力が残ってる」
「どれくらい前のものだ?」
「断定はできないけど……そんなに経ってない。たぶん、数日以内」
「ってことは……ここを使ってたのは、つい最近ってことかよ」
ドレイヴが小さく舌打ちすると、アレンは部屋の中を見回す。
「……血は?」
「少しだけ、残ってる」
マナの杖先が、寝台の脇で止まった。
「一度、洗い流してるみたい。でも……完全には消えてない」
「じゃあ、ここに怪我人がいたのか?」
「それだけじゃ、まだ分からないよ。採血かもしれないし……何か処置をして、そのときに出た血かもしれない」
アレンは頷き、寝台へ近づいた。
革帯の内側には、浅い引っ掻き傷がいくつも残っている。押さえつけられた誰かが、爪を立て、何度も指を曲げた跡だ。
その横にある金属製の台からは、何本もの細い導線が伸びている。腕や脚、首筋など、人間の神経が集まる場所に貼りつけるための端子。
「……どう見ても、治療に使う器具じゃねえな」
ドレイヴが低く呟く。
「形だけなら、神経刺激装置で間違いないわ」
ディアナは寝台の横にしゃがみ込み、導線を一本持ち上げた。
「でも……これに流していたのは、普通の魔力じゃない」
導線の先端に測定結晶を触れさせても、最初は何も起こらなかった。
やがて、透明だった結晶の奥に、細い黒い影が一筋だけ浮かぶ。
その瞬間、アレンの右手の甲――感覚を失っているはずの場所から、熱に似た反応が直接意識へ届いた。
マナが声を上げるより先に、アレンは左手を上げる。
「……待て。今、反応した」
全員の視線がアレンに集まった。
「右手だけだ。さっきまでは何もなかった。導線を測ったその瞬間に……一度だけ」
「痛みは?」
「……いや。痛くはない」
ディアナが測定結晶を導線から離すと、それに合わせるように黒い影もすっと消えた。
「……反応の傾向は一致してる」
「何と?」
「中央医療塔で観測した、あなたの黒い反応の残滓よ。完全に同じものとは言い切れない。でも……少なくとも、通常の七属性には分類できない」
ドレイヴが処置室の奥へ目を向ける。
「じゃあ、排水路で見つかった男に残ってた……あの黒い線と同じものなのか?」
「可能性はある」
ケイムが低く答えた。
「ただ、その反応の元にアルカナリウムから奪われた黒い結晶が使われていたかどうかまでは分からない」
その声に、いつもの軽さはない。
「……まだ決めつけるのは早いね。まずは記録を探そう」
アレンは寝台から離れる。
目の前にあるものを壊せば、何かが止まるような気がした。だが今は、何を壊すべきなのかさえ分かっていない。
「手分けした方が早い。ディアナは装置、マナは患者の痕跡を見てくれないか」
「ええ」
「うん。やってみる」
「それからドレイヴ。重そうな棚があったら動かしてくれ」
「……お前、俺を何だと思ってんだよ」
「一番向いてるだろ?」
「……くそ。否定しづれえ」
ケイムが周囲を見回す。
「その分け方でいこう。ただし、何か見つけても一人で先へ行かないこと。それとアレン――右手がもう一度反応したら、その場で止まること」
「……分かってるって」
◇
記録保管室は、廊下の一番奥にあった。
扉を開けた瞬間、黴びた紙と古い薬品の臭いが鼻につく。壁一面には棚が並び、その半分には十年以上前の日付が記された診療記録が残されていたが、残り半分は空になっている。
持ち出されたのだ。
アレンが机へ近づくと、そこにも紙の束はなかった。代わりに、薄い金属板が十数枚と、拳ほどの透明な結晶がいくつも並んでいる。
「ディアナ!」
声をかけると、廊下の向こうからすぐに足音が返ってきて、真っ先にドレイヴが顔を出す。
「どうした、何か見つけたか?」
「ああ。記録が残ってる」
ドレイヴが机の上を覗き込んだ。
「……で、読めるのか?」
「それを俺に聞くなよ」
「だよな。悪かった」
続いてディアナとマナが入り、最後にケイムが姿を見せる。
ディアナは一番上の金属板を手に取ると、表面を覆う細かな術式へ目を走らせ、わずかに眉を寄せた。
「記録用の術式ね。でも……残ってるのは患者記録だけじゃない」
「他にもあるのか?」
「ええ。施術そのものの構造まで記録されてる」
ディアナは机の中央に金属板を置き、その周囲に四つの測定結晶を並べる。
「……少し時間をちょうだい。読み解いてみる」
杖先から白い魔力が流れ込むと、金属板に刻まれていた文字が浮かび上がり、その上に無数の細線が立体的に重なっていく。
神経、魔力回路、筋組織。その三つを結ぶように、見慣れない波形が何本も走っている。
アレンには内容までは理解できなかったが、一つだけ見覚えがあった。
神経へ魔力を迂回させ、筋肉へ直接命令を送る構造。
「……これ、前にケイムが話してたやつだ」
アレンは自分の右手へ視線を落とした。
「俺が右手を動かすときと……考え方は同じなんだろ?」
「ええ。あなたは雷鳴の刻印から生じる雷を、本来なら神経を通って届くはずの命令の代わりに、直接筋肉へ流してる」
「ああ」
「この術式も、出発点は同じよ。ただ――」
ディアナは術式へ目を戻す。
「ここから先が、まるで違う」
ディアナが別の金属板を重ねると、立体術式の中央に新しい波形が現れた。
アレンは浮かび上がった術式を見つめる。
「……前に見つけた刻写術式と同じか」
「ええ。刻印そのものじゃなく、発動したときの身体反応だけを写す。そこは同じよ」
ディアナはさらに記録を重ねる。
「でも今回は違う。施術の構造と、その後に身体へ何が起きたのかまで残されてる」
「……副作用も?」
「おそらくね」
そこで、ケイムが口を開いた。
「エドガーが昔研究していたのは、普通の魔力で神経の働きを補う方法だ。この記録を見る限り……その研究を土台にして、あとから私が渡した理論まで取り込み、その先へ進めたらしい」
ディアナが次の記録を開く。
「問題は、こっち」
立体図の神経網に、黒い線が混じった。
その線は腕から肩へ、脚から腰へ、そして首へと、神経に沿うように伸びている。
「これ……」
マナの表情が強張る。
「排水路で見つかった人にあったのと……同じだよね」
「ええ」
ディアナの声が、わずかに低くなった。
「記録では――刻写痕と呼ばれてる」
黒い線には一定の形がない。
刻印のような紋章ではなく、細い血管が皮膚の下へ浮き上がったように枝分かれしている。
「刻写術式を使うたびに、痕は神経に沿って移動していく。末端から……少しずつ、身体の中心へ」
「身体の中心って……どこまで行くんだよ」
ドレイヴが眉をひそめて尋ねると、ディアナの杖先が二か所で止まった。
頭部と、胸。
「脳と、心臓よ」
その言葉を境に、室内から音が消えた。
「……なんで、それで記憶まで消えるんだ?」
アレンが低く問いかける。
「まだ全部は分からない。でも、記録には……理由らしいものが残ってる」
ディアナは術式の一部を拡大する。
「この技術は、神経を流れる情報を読み取って、そこへ別の反応を書き込む。でもそのとき――身体を動かすための神経信号と、記憶に関わる反応を、完全には区別できてないの」
「記憶……」
マナが小さく呟く。
「人の身体にとっては……どっちも、神経を通る情報だから?」
「考え方としては近いわ。正確には、もっと複雑だけど……少なくとも、この術式にはその境界が見えてない」
ディアナの杖先が黒い線を指す。
「身体を動かすために、外から反応を書き込む。そのたびに――もともとそこにあった情報が、少しずつ削られていく」
「……だから、忘れていくのか」
アレンの脳裏に、隔離治療室の男が浮かんだ。
三年ぶりに娘を抱けたと言っていた。けれど、その娘の顔を、もう思い出せなくなっていた男。
「名前や顔、場所……昔の出来事まで。何を失うかは、人によって違う」
ディアナは記録を読み進める。
「ただ、使った回数が増えるほど……欠けていくものも広がってる。それに――」
そこで、彼女の指が止まった。
「最後には、自分がどうして力を欲しがったのか……その理由まで、失ってる」
アレンは返事ができない。
ユリスは、ただ魔法を使いたかったわけではない。火を灯し、働き、自分で仕事を選びたかった。そして、リエナを守れる兄でいたかった。
そのために手に入れた力が、最後にはその願いそのものを奪う。
「……それで治療って言えるのかよ」
ドレイヴが吐き捨てるように言うが、ディアナは答えない。
代わりに、机の端に置かれていた小さな透明結晶を手に取る。
「これは映像記録みたい」
記録板に接続すると、結晶の中に白い光が満ち、壁の前に淡い像が投影された。
◇
最初の記録には、歩けなかった女性が、自分の足で家族のもとまでたどり着く姿が残されていた。
だが十日後には日付を、二週間後には自宅までの道を、三週間後には家族の一人を思い出せなくなっている。
映像が切り替わる。
次に現れたのは、事故で右腕の神経を損傷し、肘から先が何年も動かなかった中年の男だった。
向かいの椅子には、十歳にもならない少年が座っている。
『握れますか?』
エドガーが尋ねると、男は右手を見た。
指が震え、ゆっくりと曲がっていく。それだけで、男の目から涙が落ちた。
『……こっち来い』
少年が立ち上がる。
男は震える右腕を伸ばし、重なった少年の手を、動かなかった五本の指でぎこちなく握った。
『父さん?』
『……ああ』
男は、確かめるように笑う。
『分かる。大丈夫だ……ちゃんと、分かるぞ』
少年が強く握り返した。
その瞬間だけを切り取れば、誰が見ても奇跡だった。
次の記録では、男は右手で杯を持ち、その次では文字を書いている。
さらに次の記録へ移ると、治療師が少年へ視線を向けた。
『……この方の名前を言えますか?』
男は笑ったまま、答えない。
『息子さんです』
『息子……』
男が少年を見ると、少年も黙って見つめ返している。
長い沈黙のあと、男は小さく頷いた。
『ああ……そうだ。息子だ』
『では、お名前は?』
その瞬間、男の笑みが消える。
『……待ってくれ』
右手が何度も開いては閉じる。
『知ってるんだ。ちゃんと知ってる』
指は動く。もう、何の不自由もなく動いている。
『……知ってるはずなんだ』
それなのに、動きを取り戻したその手で、最初に握った相手の名前だけが出てこない。
マナは、杖を握る指に力を込めた。
「……止めて」
ディアナがすぐに映像を止める。
白い像が消え、壁には染みの浮いた石だけが残った。
「……もう、十分」
マナはそう言ったが、視線は床へ落ちたまま。
その隣で、ドレイヴがゆっくりと拳を握る。
「……エドガーは、これを見てたんだよな」
「ええ」
「見てたのに……それでも、続けたのか?」
ディアナが別の記録を開く。日付は、先ほどの映像より後だった。
今度は患者ではなく、エドガー本人が映っている。白衣姿の男は机の前に座り、何枚もの記録を広げていた。
疲れた顔をしている。目の下には濃い影が落ち、声にも以前のような張りはない。
それでも、記録を読む目だけは止まっていなかった。
『第十四例。運動機能の回復率は予測値を上回った』
紙をめくる。
『記憶欠落については、波形の強度と継続時間に相関が見られる』
さらに、もう一枚。
『短期記憶の脱落から始まる例が多い。一方で、人物記憶から欠落する例も確認された』
エドガーはそこで長く黙り、指先を机の上で止める。
『……失われる記憶の範囲を限定できれば、治療として成立する』
ドレイヴの顔が険しくなった。
「……限定できてねえだろ、それ」
「ええ」
ディアナが静かに答える。
「少なくとも、限定できると証明されたわけじゃない」
映像の中では、エドガーがさらに記録を重ねていく。
ディアナは映像と手元の記録を見比べながら言った。
「失われる記憶は、一例ごとに違う。順番にも規則性がない。神経経路との関係だって、まだ証明されてない」
口調は冷静だったが、金属板を押さえるディアナの指先は白くなっている。
「……これでは、患者の希望を仮説検証のための条件として扱っているのと同じよ」
映像の中のエドガーには届かない。それでも彼女は、はっきりと言い切った。
ケイムは何も言わない。
アレンが横を見ると、その視線はエドガーではなく、机に積まれた患者記録へ向けられていた。
「……ケイム」
マナが小さく呼ぶ。
「エドガーって……昔から、こういう人だったの?」
ケイムは、すぐには答えなかった。
「……いや」
しばらくして、短く言う。
「少なくとも、僕が知ってる頃はね。……だから、余計に厄介なんだろう」
アレンには、その言葉だけで十分だった。
以前に聞いた言葉が、ふと脳裏によみがえる。
――救えたという結果を、疑えなくなった。
その行き着いた先が、今ここに残っている。
アレンは動かない右手を左手で握った。自分にも、その誘惑は分かる。
前より少し動いた。次は、もう少し長く剣を握れた。なら、その次はもっと――。
そんな積み重ねが、いつの間にか止まれない理由へ変わっていくことを。
◇
記録の確認を始めてから、どれほど時間が経ったのか。
地下には窓がなく、外がまだ明るいのか、それとも夕暮れが近いのかさえ分からない。
アレンは何枚目かの名簿を閉じた。
「……ない。こっちには載ってない」
「わたしのほうも」
マナも手元の名簿から目を上げる。
古い患者名簿に施術記録、移送記録、薬品使用表。どれを確認しても、今ユリスがいる場所は記されていない。
ドレイヴは壁際の棚をずらし、その裏まで覗き込んだ。
「……何もねえぞ」
「隠し部屋とかは?」
「いや。この壁は厚い。奥に空間がある感じじゃねえな」
アレンは机の前へ戻る。
「でも、ユリスがここに来てたなら……何か記録が残ってるはずだろ」
「消された可能性はあるわ」
ディアナが答えた。
「ただ、それなら不自然ね。ほかの患者の記録はここまで残ってるのに、ユリスのものだけ消す理由がない」
「……まだ施術前なら、記録の場所が違うんじゃない?」
アレンが振り返る。
「どういうことだ?」
「さっきから見てるの、施術が終わった人の記録ばかりでしょ」
マナは机の横の細い木箱へ手を伸ばした。
「これ……予定表なんじゃない?」
中から取り出したのは、薄い水晶板だった。
ディアナがそれを受け取り、術式を起動すると、青白い文字が次々と並ぶ。
患者番号、症状、波形分類、事前適合試験、実施予定。
「これだ」
アレンは身を乗り出した。
上から順番に並ぶ患者情報には、見覚えのある内容があった。排水路で発見された男、映像に残っていた女性、息子の手を握った父親。
そして、その下の最終行に文字が浮かぶ。
――ユリス・フェーン。
「あった!」
マナの声が震えるなか、アレンは記録へ顔を近づける。
先天性魔力回路不安定。火属性術式形成困難。
基礎魔力量は許容範囲。神経伝達は正常、精神反応も安定している。
その下には、これまでの施術記録にもあった項目がある。
――刻写波形適合率。
その数字を見た瞬間、ディアナの表情が変わった。
「……高い」
「どれくらい?」
「今までの記録で……一番高い」
「だから、ユリスが選ばれたのか?」
「そこまでは分からない。適合試験をした結果、高かったのか……それとも最初から、何か別の条件で選ばれていたのか。この記録だけじゃ判断できないわ」
「でも……危ないんだろ?」
「ええ」
ディアナは水晶板を拡大する。
「適合率が高いからって、安全って意味じゃない。刻写された反応が……身体に定着しやすいってことよ」
「定着しやすいと、どうなる?」
「……長く使える可能性がある」
「それって……」
マナの声がそこで止まり、その続きをディアナが引き取る。
「つまり……記憶を削りながら、それでも使い続けられる可能性が高いってことよ」
「……くそ」
アレンの口から押し殺した声が漏れ、視線が最後の欄で止まる。
予定表の上端に示された日付は、今日になっていた。
――次回刻写予定。
その下には、たった二語だけが記されている。
本日、深夜。
「……ディアナ」
「ええ。見えてる」
アレンは反射的に壁の時計を探したが、針はとうに止まっていた。
「……今、何時だ?」
ケイムが懐から時計を取り出し、蓋を開いた瞬間、その表情がわずかに硬くなる。
「……十六時だ。深夜まではまだ時間がある。だが、行き先を探す時間と、そこまでの移動時間を考えれば……猶予があるとは言えないね」
「場所は?」
アレンが水晶板を指す。
「移送先も、そこに書いてあるはずだろ」
ディアナが予定表を下へ送ると、搬送欄が現れた。
しかし、そこにあるのは文字ではなく、黒く潰れた細長い帯。
「……消されてる」
「戻せないのか?」
「やってみる」
ディアナの杖先がすぐさま術式の上を走り、白い術式が黒い帯を囲む。
一度、二度と探るうちに、文字の痕跡らしきものが浮かび上がるが、すぐに消えた。
「駄目ね。単に消したんじゃない。記録に残ってた魔力そのものを、抜き取ってる」
「じゃあ……ここまで来て、肝心の場所が分からねえってのかよ!」
ドレイヴの拳が机を叩き、その衝撃で水晶板が跳ねて硬い音を立てる。
「ドレイヴ」
「……分かってる。壊してねえよ」
そう言いながらも、その声は苛立ちを隠せていない。
アレンは周囲を見回す。
ユリスの記録がここに残り、適合試験も受けている。それでも今は、別の場所へ移されている。
なら、そのための道があるはずだ。
表の路地から何人もの患者を運べば目立つ。車両を使ったとしても、人目を避け続けるのは難しい。
なら――。
「……地下から運び出したんじゃないか?」
アレンは廊下へ出る。
壁と天井には、使われなくなった古い導魔管が何本も走っている。
「ケイム。この導魔管って、今の設備じゃないんだよな?」
「ああ」
「なら昔は、こういう施設同士で魔力を運んでたんじゃないのか?」
ケイムの足が止まった。
ディアナも導魔管を見上げる。
「……旧導魔路」
「旧導魔路?」
ドレイヴが眉をひそめた。
「今の都市導魔網が整備される前に使われていた、魔力の輸送路よ。古い水路の一部には、保守用の通路と並んで造られていた区画があるの」
ディアナはわずかに考え込み、続ける。
「排水路で手がかりが出た東部旧水路第七区画も……旧設備網につながっている可能性はあるわ」
「地下で、どこまでつながってたんだ?」
「中央医療塔、旧魔法院、都市結界の基幹設備、それに軍務施設。大量の魔力を必要とする場所を、地下で結んでいた」
「ってことは、人も通れるのか?」
「保守路が残っている区画ならね」
そこで、ケイムの声が低くなった。
「ただし、今は封鎖済みだ。都市設備を切り替えたときに、ほとんどは埋められてる。……地図から消された経路もある」
アレンは少し黙ってから、ケイムを見る。
「エドガーがこの診療所を建てたのって……いつなんだ?」
「旧導魔路がまだ一部使われていた頃だよ」
その答えを聞いた瞬間、アレンは廊下の奥へ目を向ける。
「だったら……まだ入口が残ってるかもしれない」
「ええ。可能性はあるわ」
ディアナはすぐに測定結晶を持ち直した。
「でも……壁も床も、一つずつ当たっていたら時間がかかりすぎるわ」
「……分かってる」
アレンは短く答え、右手へ視線を落とす。
さっき、導線に残っていた黒いものに一度だけ反応した。
もし、出入りに使われた仕掛けにも、同じ黒い反応が残っているなら。
「俺の右手が反応した場所を探す」
「アレン」
マナの声が鋭くなる。
「刻印は使わない。力を流すんじゃなくて、近づいたときに反応するか確かめるだけだ」
ケイムがアレンの右手を見る。
「……手段としてはあり得る。ただし一人ではやらない」
ディアナも測定結晶を構えた。
「私が反応を測る。マナは右腕の状態を見て。強くなったら、その場で中止よ」
アレンは頷く。
「分かった。それでいこう」
「なら俺も付き合うぞ」
ドレイヴが大剣を肩に担ぎ直す。
「壁をぶっ壊す必要が出たら、すぐ呼べよ」
「いや、まだ壊すなよ」
「分かってるって」
「……その返事が一番信用できないのよ」
ディアナが淡々と言った。
◇
五人は地下を一室ずつ回った。
処置室、薬品庫、洗浄室、古い診察室。アレンは右手を壁へ近づけるたび、自分の身体の奥へ意識を向ける。
しかし、何もない。次の部屋でも、そのさらに奥でも反応はなかった。
時間だけが過ぎていく。
「……ここで最後よ」
ディアナが足を止める。
地下の最奥にある、かつて機材庫として使われていたらしい小部屋には、空になった棚と壊れた荷車が残されているだけだった。
窓はなく、奥へ続く扉も見当たらない。
「……なんだよ。外れか」
ドレイヴが肩の力を抜き、息を吐く。
アレンは部屋へ入り、まず左側の壁へ右手を近づける。何もない。
続いて右側を確かめるが、そこにも反応はない。
最後に正面へ向き直り、ひび割れた石壁へ右手を近づける。
その瞬間、右手の甲から、これまでより強い反応が返ってきた。
「……っ」
痛みはない。だが、感覚などないはずの場所から、冷たい熱だけが頭の奥へ突き抜ける。
「アレン?」
「あった……反応だ」
その声に、マナがすぐ隣まで寄る。
「どこ?」
「右手。……さっきより強い」
「広がってる?」
アレンは右腕へ目を落とした。
「いや。まだ手の甲だけだ」
「じゃあ、下がって」
ディアナが測定結晶を構えると、透明な結晶の奥に黒い影がゆっくりと浮かび上がる。
今度は――消えない。
「……記録、取れてる」
「雷鳴の反応か?」
ドレイヴが低く尋ねる。
「違う」
ディアナは結晶から目を離さない。
「雷属性の反応が……一つも出てない」
その直後、アレンの右手がもう一度脈打つ。
ドクン、と。
心臓とは違う異質な拍動に呼応するように、正面の壁が黒く光った。
「……なんだ、あれ」
ドレイヴがすぐに大剣を抜く。
「待って! 誰も触らないで!」
鋭いディアナの声が飛ぶ。
石壁を髪の毛ほどの黒い線が一本、二本と走り、枝分かれしながら広がっていく。
まるで巨大な神経が、壁の内側に浮かび上がったようだった。
アレンは息を呑む。
「……刻写痕、なのか?」
「違う」
ディアナは即座に否定した。
「人間の神経反応じゃない。これは……何かの術式が、今ここで起動してる」
黒い線が長方形を描くように伸び、古い石壁の一部を囲んでいく。
その中央に見たことのない記号が浮かぶと同時に、アレンの右手にこれまでで最も強い反応が走った。
「……くそっ」
思わず右腕を押さえる。
手は動かず、雷も出ていない。それなのに、壁の向こうから何かに引かれているような感覚だけがある。
「アレン、もっと離れて!」
「離れてる!」
アレンはさらに一歩後ろへ下がったが、それでも右手の反応は止まらない。
ケイムが壁に鋭く視線を走らせる。
「……待て」
黒い長方形を縁取るように、長年の汚れに埋もれていた金属の枠が少しずつ姿を現す。
「これは……」
次の瞬間、低い振動が部屋全体を揺らし、石壁の中央に縦の亀裂が走った。
違う。亀裂ではない。
最初からそこにあった継ぎ目だ。
ゴゴ、と重い音を立てながら、壁の一部がわずかに奥へ沈み、そのまま横へずれる。
だが、人ひとりが通れるどころか、腕を差し入れることさえできない細い隙間を残して、そこで止まった。
その隙間から冷たい空気だけが噴き出し、長く閉じ込められていた埃が舞う。マナの水光が大きく揺れた。
アレンが目を凝らすと、隙間の向こうには石造りの狭い保守路が見える。
左右には使われなくなった太い導魔管が走り、その表面には消えかけた古い術式が残っていた。
ケイムが壁を確かめるように、一歩だけ近づく。
「……間違いない」
「これが……旧導魔路?」
「ああ。どうやら、まだ残っていたみたいだね」
アレンの右手がもう一度、強い脈動を返す。
通路の奥、光の届かないはずの闇の中で、何かがほんの一瞬だけ黒く光った。
ユリスへの次の刻写まで、残された時間は多くない。ユリスのいる場所は、まだ分からない。
けれど――道は見つかった。
十年前に閉じられたはずの診療所の地下から、誰にも使われていないはずの都市の古い血管の奥へと続く道。
壁の向こうの暗闇が、静かに口を開けていた。




