第30話『選ばされた者たち』
「なのに……娘の顔が、分からない」
男の声が途切れても、隔離治療室では誰も言葉を発しなかった。
油灯の炎が、寝台脇の金属器具へ揺れる影を落としている。
魔力を吸収する黒い線への対策として、室内の導魔設備は停止されていた。中央医療塔の一室でありながら、そこだけが都市の魔法から切り離されたように暗い。
男は両腕を胸の前へ差し出し、見えない何かを抱いていた。
家族から、自分の娘だと教えられた少女。その身体を抱き上げた重さも、首へ回された細い腕の感触も覚えている。
それなのに、名前も顔も思い出せない。
治療師が一歩近づくと、男は腕を下ろし、顔を背けた。
「少し……一人にしてくれ」
掠れた声だった。
治療師は問いかけず、寝台脇の椅子を離した。
「すぐ外におります。身体に異変を感じたら、声を上げてください」
治療師に促され、アレンたちも隔離治療室を出た。
前室との境に設けられた厚い観察硝子の向こうで、男は返事もせず、自分の意思で動かせるようになった右脚を、布団の上から何度も撫でている。
喜ぶことも恐れることもできずにいるようだった。
アレンは、黒い手袋に覆われた右手へ目を落とした。
感覚もなく、自分の意思では動かない指。刻印の雷を流せば一時的に動き剣も握れる。
その代わりに失うものが、身体ではなく記憶だったなら。
マナの顔を忘れる。ドレイヴと過ごした時間も、グリムフォードで何が起きたのかも、自分がなぜ戦おうとしているのかも分からなくなる。
それでも、動く手を選んだだろうか。
「アレン」
マナに呼ばれ、顔を上げる。
「右手……何か、変わった?」
「いや。痛みもないし、冷たくもない」
「……そっか」
マナは頷いたが、視線はしばらく右手に残っていた。
リエナは壁際に立ち、男を見つめている。その姿に兄を重ねているのは明らかだった。
ユリスが治療を受けると決め、自分の名で同意書へ署名した。その意思を否定せず、それでも連れ戻す。
先ほどまで、そう話していた。
だが、治療の果てを目の前で見せつけられても同じ言葉を信じ続けるのは容易ではない。
リエナの指が、胸元の同意書へ食い込んでいる。
「……行きましょう」
不意に、ディアナが告げた。
「ここにいても、この人の記憶は戻らない。それなら、残っている五人を捜す手掛かりを追うべきよ」
ドレイヴが顔を上げる。
「待て。見つかってねえのは、四人じゃなかったか?」
「ユリスより前に失踪したのは五人。この人はその一人だから、所在が分からないのはあと四人」
ディアナはリエナへ目を向けた。
「そこへ六人目のユリスを加えれば、まだ見つかっていないのは五人よ」
リエナは同意書を抱き直した。
「その中に……兄もいるんですね」
「ええ」
ディアナは目を逸らさなかった。
「だからこそ、急ぐ必要がある」
◇
中央医療塔の地下記録室には、夜明け前とは思えないほど多くの職員が出入りしていた。
軍務局が過去の捜索で収集していた記録、各治療院から取り寄せられていた診療記録、失踪当時に家族や雇用主が提出した証言。それらは長机に収まらず、壁際の台にも積まれている。
窓のない部屋を照らす魔法灯の下に、六人分の診療記録が並べられていた。
先に失踪した五人と、六人目のユリス・フェーン。
その横には、家族の保管物や失踪現場から回収され、軍務局が証拠として保管していた六人分の参加同意書の控えがある。リエナが持参したユリスの一枚も、保護板の上へ並べられていた。
「偽造って線はないのか?」
ドレイヴが尋ねる。腕を組んだ拍子に脇腹が痛んだのか、わずかに顔をしかめた。
「今のところ、その可能性は低いわ」
ディアナは測定結晶を最初の同意書へ滑らせた。筆圧と魔力の痕跡が、淡い光となって浮かぶ。
「保護した男性の署名は、過去の申請書と一致した。ほかの四人も、失踪当時の捜索で回収されていた書類と照合済みよ」
最後に、結晶をユリスの同意書へ移す。
「ユリス・フェーンの署名も同じ。中央医療塔に提出されていたリエナの治療申請書に、兄が代筆した記録が残っていたから、比較には十分だった」
リエナは机の前に立ち、兄の名を見つめた。
ユリス・フェーン。
整ってはいないが、一文字ずつ真面目に書いたことが伝わる筆跡だった。
「……兄の字です。間違いありません」
ドレイヴは腕を解いた。
「じゃあ、全員……本当に自分から治療を受けに行ったってことか?」
「少なくとも、この同意書に署名した時点ではね」
「それなら、誘拐じゃねえのか?」
「署名があることと、本人が自由に選べたことは同じじゃないわ」
マナは六枚の同意書へ目を落とした。
「危険については……どこまで説明されていたの?」
「神経への負荷、魔力回路の損傷、意識の混濁、術式への依存。最悪の場合、死亡する可能性もあると書かれている」
ディアナは同意書の中央をなぞった。
「ただ、記憶障害という記載はあるものの、家族の顔や自分の名前まで失う可能性や、術式を使うほど欠落が進む危険についてはどこにも説明されていない」
「隠してたのか?」
「研究者が、記憶障害の深刻さをどこまで把握していたのか。知っていて曖昧な表現に留めたのか。今はまだ分からないわ」
「どっちだろうが……あの男は、娘の顔を忘れてる」
ドレイヴの声が低くなる。
「名前を書いたからって、何をされても仕方ねえって話にはならねえだろ」
「ええ。ならない」
ディアナは即座に同意した。
「だから、何を説明され、何を伏せられ、どんな状況で署名したのかを調べる必要がある」
アレンは端の記録へ手を伸ばした。
排水路で発見された男。事故による神経損傷と右脚の完全麻痺。治癒魔法で改善せず、三年前に歩行機能の回復は困難と診断されている。
次は両腕の神経を損傷した女性。その次は、幼い頃から四肢の麻痺が進行している青年。
四冊目には治癒魔法が反応しない慢性障害。五冊目には、生まれつき魔力回路が正しく形成されず、魔法を発動するたび激しい痙攣を起こす患者。
そして六冊目。
ユリス・フェーン。
アレンが表紙を開くと、診断欄に記されていたのは怪我でも病気でもなかった。
生来、魔力回路が細く不安定。
集めた魔力の大半が術式へ流し込む際に散逸し、生活魔法さえ安定して発動できない。治癒魔法で回復させるべき損傷はなく、中央医療塔で行える処置は、魔力の流し方を補助する訓練に限られる。
「ユリスは、ほかの五人と違って、身体を動かせないわけじゃないんだな」
「ええ」
ディアナが記録を覗き込む。
「彼の場合は身体機能ではなく魔力回路の問題よ。魔力がないわけじゃない。でも、術式として形になる前に流れが崩れる」
「生活魔法すら使えないって……実際、どれくらい困るんだ?」
答えたのはリエナだった。
「火をつける魔法も、魔法灯を起動する補助術式も……兄は何度も失敗します」
記録を見つめたまま、言葉を継ぐ。
「一度ついてもすぐ消えてしまう。水を温めるだけでも時間がかかって……仕事で使う荷車の補助術式も、倉庫の昇降機も動かせません」
「それで……日雇いの荷運びをしてたの?」
「はい。魔法を使わなくてもできる仕事を、ずっと探していました」
リエナの指が記録の端へ触れる。
「でも、ルミノヴァではほとんどの仕事に魔法が必要です。清掃も店の手伝いも工房も、簡単な術式を使えることが条件になっているところが多くて」
魔法は都市の隅々まで入り込んでいる。
通りを照らす魔法灯。荷物を運ぶ昇降機。水を引く導魔管。店の冷蔵庫も工房の炉も、治療院の器具も魔力で動く。
誰もが使えることを前提にした都市で、生活魔法すら安定しない者が選べる仕事は少ない。
「雇ってもらえても、長くは続きませんでした」
淡々とした声とは裏腹に、記録を押さえる指には力がこもっていた。
「兄は力仕事なら誰にも負けないって言っていました。でも、魔法が使えないと分かると、危ないから任せられないって断られるんです」
アレンは、ルミノヴァへ戻った日に会ったユリスを思い出した。
荷物を抱え、汗を浮かべながらも穏やかに笑っていた青年。アレンの動かない右手を見て、自分と似たものを見つけたような目をしていた。
――動かせることはある。でも、治ったわけじゃない。
そう答えたアレンへ、ユリスは、それでも動かせるなら十分だと呟いた。
あの言葉が、今になって重さを増す。
ユリスが欲しかったのは、敵を倒す力ではない。
誰もが使える生活魔法。安定した仕事。妹の治療費を、明日の雇い口に怯えず稼げる生活。
「兄は、わたしの治療費を稼ぐために働いていました」
リエナが言った。
「でも……それだけじゃないんです」
マナが少女を見る。
「兄は、自分で仕事を選べるようになりたかったんだと思います」
リエナの唇がわずかに歪んだ。
「魔法さえ使えれば、もっとましな仕事に就ける。毎朝、雇ってくれる場所を探さなくて済む。それに……わたしに、今日は仕事がなかったなんて嘘をつかなくて済むって、何度も言っていました」
一度目を閉じ、呼吸を整える。
「わたしがいたから、兄は危険な治療を選んだんだって……ずっと思っていました。でも――兄は、自分のためにも魔法を使いたかったんです」
アレンは静かに頷いた。
「それまで、なかったことにはできない」
リエナが顔を上げる。
「でも……選べる道が一つしかなかったなら、それを本当に、自分で選んだって言えるんでしょうか」
誰もすぐには答えられなかった。
未知の治療を受けるか。魔法を使えないまま、限られた仕事を続けるか。
その二つを差し出された人間が、前者へ手を伸ばした。同意書には本人の名がある。
だが、そこへ至るまでに奪われていた選択肢までは、紙に残らない。
「選んだんじゃねえ。……選ばされたんだ」
ドレイヴは六冊の記録を見渡した。
ディアナの眉がわずかに動く。
「本人たちの意思まで、すべて誰かに押しつけられたものとして扱うのは違うわ」
「分かってる」
ドレイヴは苛立ちを押し殺した。
「こいつらは治りたかった。使えなかった魔法を使いたかった。それが嘘だなんて言ってねえ」
机の上で拳が固く握られる。
「でも、狙われたのは……断ったら何も変わらない奴らばかりだ。そいつらにだけ、危険な治療を差し出した」
六冊の記録から目を離さない。
「それを、好きに選べって言われたとは思えねえ」
「……ええ」
ディアナは否定しなかった。
マナは六枚の同意書を見つめ、声を落とす。
「希望を見せることと、逃げ道を残すことは同じじゃないよ」
アレンはユリスの記録を閉じた。
「連れ戻そう」
リエナの視線が向けられる。
「ユリスが選んだことを、間違いだったと決めつけたいわけじゃない。何を得て、何を失うのか。全部知ったうえで、もう一度、自分で選べるところまで戻したい」
「昨日、アレンさんは……兄が治療を続けたいと言ったら、まず理由を聞くって言いました」
「ああ。その答えは変わらない。そのあとも、一人で決めさせたままにはしない」
リエナは兄の名を見下ろし、やがて同意書から手を引いた。
◇
六人の診療記録を調べても、刻写術式への適性を示す身体的な共通条件は見つからなかった。
病名も障害の部位も、魔力量も属性も年齢も異なる。
共通しているのは、既存の治療や訓練では問題を解決できず、今の暮らしを変えられるなら危険な治療へ手を伸ばすだけの理由があったことだった。
「……やっぱり、治らないと言われた人間や、このままじゃ生活を変えられない人間を選んでる」
「選んだのがエドガーだとは、まだ断定できないわ」
ディアナが答える。
「旧第四治療棟の研究記録と設備を見る限り、関わっている可能性は高い。でも、十二年前に中央医療塔から姿を消した研究者の技術を、別の誰かが利用している可能性もある」
「黒い結晶と古代記録を持ち込んだ奴もいる」
ドレイヴが声を落とした。
「ギデオンか帝国が材料だけ渡して、別の研究者にやらせてる可能性もあるってことか」
「ええ」
ディアナは、六人のもとから回収された治療案内書が収められた木箱へ手を伸ばす。
「だから確かめるべきなのは、誰が研究を始めたかじゃない。この六人を選び、案内を送ったのが誰なのか――そこよ」
蓋を開く。
封書に同封されていた六人分の治療案内書は、対象となる症状こそ異なるが、紙質も文字の配置も封止術式の構成も似ていた。
麻痺した筋肉の再活性化。損傷した神経伝達の代替。不安定な魔力回路の補助。
既存の治癒魔法で回復できない機能を、一時的に取り戻す新しい治療法。
ディアナは一通を魔法灯の下へ置き、杖の先へ測定結晶をつけた。
白い光が紙の縁を走る。飾り模様にしか見えなかった細線が、幾重にも重なる術式となって浮かび上がった。
「指定された受取人以外が開封すると、記載内容の一部が消える――医療用の封止術式よ」
「前に調べた案内と同じか?」
「基本構造は同じ。でも今回は六通を重ねて比べられる」
杖を払うと、六通分の術式が半透明の層となって重なり、一つの複雑な構文を形作った。
「受取人の症状に合わせ、対象宣言と安定式だけが書き換えられている。それ以外は、ほとんど同じね」
「ユリスの案内にだけ、違うところはあるの?」
「ええ。魔力回路が不安定でも、開封時に術式を壊さないよう調整されている」
ディアナは、その層を拡大した。
起点符と対象指定の構文の間に、細かな安定式が挟まれている。
「本来は必要ない処理よ。術式を読むために流した魔力が乱れても、受取人へ逆流しないよう組まれている」
「……安全のためってことか?」
「少なくとも、案内状を開いた時点でユリスを傷つけるつもりはなかったようね」
「だからって、信用できるわけじゃねえだろ」
「もちろんよ」
ディアナは術式の末端を拡大した。
「問題は……こっち」
封止文を閉じる直前。術式が完成しているはずの場所に、小さな補助符が一つ加えられていた。
ディアナは旧第四治療棟の研究記録を開き、その頁を案内状の横へ置く。
損傷した神経へ外部から魔力信号を送り、筋肉を動かす試験術式。
十二年前、エドガー・ヴァイスが記した研究構文だった。
二つの術式を測定結晶へ通す。
用途も規模も異なる術式が、最後の一か所だけ同じ形で重なった。
「……同じだ」
マナが息を呑む。
「ええ」
ディアナの声が硬くなる。
「この補助符がなくても術式は成立する。全体が崩れたとき、患者へ流れ込む魔力を弱めるための安全処理よ。でも、今の中央医療塔では使われていない」
「十二年前の書き方ってことか?」
「それだけじゃない」
ディアナは研究記録の署名欄を指で押さえた。
「同じ時期の研究者でも、この処理を使った者はいない。エドガーが自分の術式だけに加えていた……個人的な癖よ」
ドレイヴの顔から迷いが消える。
「なら、もう決まりじゃねえか」
「少なくとも、案内状を書いたのはエドガー本人か、彼の術式を細部まで知る人物ね」
「そんなところまで知ってる奴がいるのか?」
「研究記録の一部は、旧第四治療棟が閉鎖される直前に持ち出されている」
ケイムが静かに答えた。
先ほどから、空中の二つの術式を黙って見つめている。
旧第四治療棟でエドガーの名を挙げたときのように、過去を探る表情ではない。
見覚えのあるものを、否定できない形で突きつけられた者の顔だった。
「この補助符だけを研究記録から写した可能性もある。ただ、その場合でも、書いた人間はエドガーの研究を深く理解している。形だけ真似ても、患者ごとに安定式は調整できない」
「ケイムは……この書き方を知っていたの?」
マナが尋ねる。
「そうだね」
短い答えに、ディアナが目を向けた。
「……研究記録で読んだだけ?」
ケイムはすぐに答えなかった。
視線を下ろし、六冊の診療記録を順に見る。
娘の顔を失った男。両腕の神経を損傷した女性。四肢麻痺の青年。慢性障害を抱えた患者。魔法を使うたび痙攣を起こす者。
そして、生活魔法さえ安定しないユリス・フェーン。
「直接、見せられたことがある」
「……エドガーに?」
「ああ」
ドレイヴが身を起こす。
「前に調べたときは、そんな話してなかっただろ」
「聞かれなかったから――なんて言い訳はしないよ」
ケイムの声から、いつもの軽さは消えていた。
「旧第四治療棟の記録を確認した時点では、今回の研究へ私の資料が使われたと示す証拠はなかった。だから、彼が過去に何を研究していたかを伝えることだけを優先した」
ケイムは一度、言葉を切った。
「だが、私自身が理論資料を渡していた事実まで伏せたのは、私の判断だ。証拠がなかったとしても、先に話すべきだった。判断を誤った」
「どこまで関わってた、だと?」
ドレイヴが低く繰り返す。
「何をしたんだ」
ケイムは机の端へ両手をついた。
「エドガーから、刻印者の呪縛について意見を求められたことがある」
アレンの右手が、黒い手袋の中で重くなる。
「呪縛で神経機能を失った刻印者が、力を使っている間だけ身体を動かせる現象についてだ」
視線がアレンの右手へ向く。
「アレンが刻印の雷を流し、麻痺した指へ直接命令を送っているのと同じ現象だよ」
「待て。エドガーは、十二年前からそれを研究してたんじゃないのか?」
「研究自体は、旧第四治療棟にいた十二年前から続けていた。ただ、当時は通常の魔力で神経の働きを補う段階で、効果は安定せず、外から送れる命令にも限界があった」
ケイムは一度、言葉を切った。
「私が彼から相談を受けたのは、旧第四治療棟が閉鎖された直後――エドガーが姿を消す前だ。研究を続けるべきか迷っていた彼から、刻印者の呪縛について意見を求められた」
「そこへ……刻印の反応を利用する方法を教えたんですね?」
ディアナの問いに、ケイムは頷いた。
「渡したのは、理論上の資料だけだ」
記録室の空気が沈んだ。
「刻印の発動時、どんな魔力波形が神経を迂回するのか。なぜ、呪縛で動かなくなった手足が能力を使う間だけ反応するのか。当時、把握していたことをまとめた資料だ」
「刻写術式の作り方まで教えたのか?」
「違う」
ケイムは間を置かず否定した。
「人体へ刻印の反応を写す方法も、黒い結晶を使う方法も渡していない。伝えたのは、刻印者の身体で何が起きているか、その理論だけだ」
ドレイヴの拳が机へ叩きつけられた。
六通の案内状が跳ね、保護板の上で乾いた音を立てる。
「その理論を使った結果、あの男は……娘の顔まで忘れたんだぞ」
「ああ」
「ユリスだって、今頃どうなってるか――」
「分かっている」
「分かってねえだろ!」
ドレイヴは椅子を蹴るように立ち上がり、机越しにケイムへ詰め寄った。外套の胸元を掴みかけた拳が、寸前で止まる。
ケイムは避けなかった。
「お前が資料を渡してなけりゃ、エドガーは……こんな研究、完成させられなかったかもしれねえ」
「そうかもしれない」
「証拠がなければ、黙っていていい話だったのかよ」
「いいや。判断を誤った」
反論も、弁明もなかった。
「私は人体へ施術する手順を作っていない。記憶を代償にする術式も考えていない。アルカナリウム遺跡の古代記録も、当時は知らなかった」
「だったら――」
「それでも、土台になった知識を渡したのは私だ」
ドレイヴの言葉が止まる。
「知識を渡したこと自体が罪なのかは、まだ分からない」
ケイムは逃げずに、一言ずつ口にした。
「だが、その知識が誰を傷つけたのか――確かめる責任はある」
誰も動かなかった。
導魔管を流れる魔力の低い振動だけが足元から伝わるなか、ドレイヴの拳はケイムの胸元へ届く寸前で止まっていた。
「……責任って、何をするんだよ」
「エドガーを見つける」
ケイムは即座に答えた。
「研究を止め、残っている五人を連れ戻す。そのうえで、彼らの身体と記憶に何が起きているかを調べる」
「記憶は……戻せるのか?」
「分からない」
「また、それかよ」
「根拠もないのに、戻せるとは言えない」
ケイムの指が机の縁へ食い込む。
「戻せると約束し、また別の危険な施術へ誘えば……私もエドガーと同じことをする」
ドレイヴは睨みつけたまま、やがて拳を下ろした。
「……必ず見つけろ」
「ああ」
「ユリスも、残りの四人も……全員だ」
「分かっている」
ドレイヴは椅子へ戻った。顔を背け、固く握った拳を解こうとはしない。
「ケイムは、どうしてその資料を渡したんだ?」
アレンが尋ねた。
責めたいわけではない。その問いは、アレン自身にも無関係ではなかった。
「危険だとは……思わなかったのか?」
「思ったよ」
ケイムは静かに答えた。
「刻印の反応をそのまま人間へ流し込めば耐えられない。だから渡したのは、現象を理解するための理論だけだ。エドガーなら危険な部分を切り離し、医療へ応用できるかもしれないと考えた」
「信用してたんだな」
「研究者としてはね」
ケイムは空中の術式を見上げた。
「彼は、歩けなかった患者が一歩でも進めば、誰よりも喜ぶ人だった。魔法を使えない子どもが小さな灯りをともしたときも、成功率より先に、その子の顔を見るような人だったよ」
「それなら……どうして」
マナの言葉が途切れる。
「救えたという結果を、疑えなくなったんだろう」
ケイムが答えた。
「一人が歩けた。次の一人も、一時的とはいえ腕を動かせた。そうした結果を重ねるうちに……失われるものより、得られたものだけを見るようになった」
アレンは右手へ目を落とした。
雷を流せば動き、剣も握れる。だが、それは治ったこととは違う。
「もしユリスが魔法を使えるようになっていても……それだけじゃ、成功とは言えないんだな」
「ああ」
ケイムは頷いた。
「火をともせたという結果だけなら、成功と呼べるかもしれない。だが、そのために何を失い始めているのか。そこまで確かめなければ、治療とは言えない」
アレンの脳裏に、何度も火入れへ魔力を込めていたユリスの姿が浮かぶ。
小さな火を望み、仕事を選べるようになりたいと願った兄。その願いまで術式に食われてしまうとしたら。
「案内状から追えるのは……ここまでね」
ディアナが術式を閉じると、白い線がほどけ、机には灰色の紙だけが残った。
「エドガー本人が書いた可能性は高い。でも、送信元も現在地も隠されている」
「旧第四治療棟で見つけた紙には、東部旧水路第七区画って書いてあった」
ドレイヴが声を落とした。
「排水路の男は、そこから逃げてきたのかもしれねえ。旧第四治療棟は、俺たちが着いたときには、設備も患者も運び出されたあとだった」
「ええ。旧第四治療棟は施術場所ではなく、患者や設備を移すための中継地点として使われていた可能性があるわ」
「なら、次は第七区画か?」
「あの住所は、私たちに読ませるため意図的に残されていた。今もそこにいる保証はないわ」
ディアナは机に並んだ資料を見渡した。
「ほかに、相手が隠そうとして消し損ねた痕跡がないか、もう一度洗い直す必要がある」
ディアナが次の資料へ手を伸ばしかけたとき、紙の擦れる音がした。
「待ってください」
リエナが小さく声を上げると、全員の視線が集まった。
その視線の先で、リエナはユリスの参加同意書を見つめていた。
「この下のところ……どうして何も書かれていないんですか?」
指が示したのは用紙の最下部。
署名欄の下にある、受入機関、担当治療師、搬送先――本来なら治療施設の情報が記される欄だった。
そこには文字も印章もない。
「治療先を伏せる契約だったんじゃないのか?」
「軍務局の調査記録にも、施設を秘匿するため意図的に記入しなかったとある。私も署名の照合を優先して、その判断を前提にしていた」
ディアナはユリスの同意書を持ち上げ、魔法灯へ透かした。
「でも……リエナの言うとおり、この紙の下端だけ光の反射が違う」
一見すれば、何も書かれていない。
だが角度を変えると、紙の下端だけが僅かに変色し、繊維が毛羽立って艶を失っているのが見えた。
「書かなかったんじゃない」
ディアナが告げる。
「書かれていたものを、消してある」
「消した?」
アレンが机へ近づく。
「文字を削ったのか?」
「削っただけなら、もっと紙が薄くなる。でも、ここには別の薬品が使われている」
細い採取具で表面をなぞり、付着した粉末を測定結晶へ移す。
内部に淡い黄色と白の粒が浮かんだ。
「果実の酸。それと、医療施設で器具の洗浄に使う消毒薬よ」
「それで文字を消せるのか?」
「普通の墨なら、ある程度薄くできる。ただし、完全には消えない」
ディアナは同意書を戻し、空白の欄へ結晶を滑らせた。
細い光が紙面を走る。
何もなかった場所に、途切れた直線と曲線、四角い印章の一部が浮かび上がった。
「受入機関の印章……」
マナが呟く。
「ええ。押されたあとで消されている」
残りの五枚にも結晶を滑らせると、すべて同じ位置に薬品の反応が現れた。
ただ、失踪から時間の経った四枚は劣化が進み、輪郭を読み取れない。保護された男の同意書も、薬品が深く染み込んで印章の形が崩れていた。
その中で、ユリスのものだけが新しい。
消されてから、まだ日が浅い。
「全員、同じ施設へ連れていかれたのか?」
「同じ印章なら、その可能性は高いわ」
「だったら、どうして消す必要がある?」
「捜索されたくなかったからでしょうね」
ディアナの声が低くなる。
「本人の署名は残す。自分の意思で参加した証明になるから。でも、誰が治療し、どこへ連れていったかは残さない」
「都合のいいところだけ残したってことかよ」
「そういうことになるわ」
リエナは兄の署名から、消された受入欄へ目を移した。
「兄は……治療を受けることには同意したんですよね」
「署名が本人のものである以上、少なくとも名前を書いたのはユリス自身よ」
「でも、行き先まで知っていたかは分からない」
アレンがそう言うと、ディアナは頷いた。
「説明された治療内容が真実だったかも分からない。治療を受ける意思と、すべてを理解していたことは別よ」
リエナの指が机の縁を掴む。
「兄は……すぐに戻るとだけ言って、出ていきました」
誰も口を挟まなかった。
「いつも鞄を置いていた場所には、跡だけが残っていました。着替えと薬も、数日分なくなっていて……」
同意書を見つめたまま、言葉を継ぐ。
「兄が自分で治療を選んだなら、どうして……そのことを、わたしに話してくれなかったんだろうって、ずっと考えていました」
声は震えていたが、涙は流さなかった。その隣に、マナがそっと立つ。
「……言えなかったのかもしれないよ」
リエナが顔を上げる。
「治療を受けると決めたあと、話す間もなく連れていかれたのかもしれない」
「でも、兄なら……それでも、わたしに――」
「うん」
マナは否定しなかった。
「きっとリエナには話したと思う。話せる時間があったなら」
リエナの唇が震える。
「だから、何も言わなかったことまで、ユリスさんが望んだとは限らないよ」
リエナは返事をせず、兄の署名を見つめ続けた。
「この印章、元の形まで戻せないのか?」
アレンがディアナを見る。
「表面を消しても、紙の奥には顔料が残ってるんだろ?」
「残ってはいる。ただ、通常の測定では輪郭を拾いきれない」
「なら、別の方法は?」
ディアナは拡大された痕跡を見つめ、やがて口を開いた。
「……一つだけ。印章の墨には、魔力を定着させる鉱物粉が混ぜられている。紙全体へ均等に熱を通せば、酸化した成分だけが変色し、形が浮かぶ可能性があるわ」
全員の視線がドレイヴへ集まった。
「……結局、俺かよ」
「ほかに火属性の使い手はいないでしょう」
「先に言っとくが、燃やしたら手掛かりごと灰になるぞ」
「だから、燃やさないで」
「簡単に言ってくれるな」
不満を漏らしながらも、ドレイヴは立ち上がった。
ディアナは同意書の表裏を測定結晶へ記録し、複写用の水晶板へ現在の状態を保存した。
さらに同質の古紙を金属板へ載せ、変色が始まる温度を確かめる。
それを終えてから、ユリスの同意書を薄い金属板へ載せた。
「炎を直接当てないで。今試した温度を越えないよう、金属板全体をゆっくり温めて」
「どのくらいだ?」
「紙が変色しない程度よ」
「その加減が分からねえから聞いてんだろ」
「……私が止めるまで。焦らずにやって」
ドレイヴは息を吐き、右手を金属板の下へ差し入れた。
「……これ、兄が残した、たった一つの手掛かりなんです」
リエナは真っ直ぐ見つめる。
「だから……絶対に、燃やさないでください」
ドレイヴは何かを言いかけたものの、口を閉じた。
やがて、いつもの軽さを消したまま頷く。
「……分かった。絶対に燃やさねえ」
指先へ集めた火の魔力が、橙色に灯った。
「火よ、芽吹け――フンケンブランド」
本来なら一瞬で散る着火用の火花を、ドレイヴは魔力を途切れさせず、指先に小さな炎として留めた。敵を焼くためではない。紙へ触れず、金属へ熱だけを伝えるため、普段より弱く絞られた火だった。
「……もう少し離して」
「これ以上離したら温まらねえぞ」
「左側だけ温度が上がってる。そこから、ゆっくり右へ動かして」
「細けえな……」
「当然でしょう。唯一残っている証拠なのよ」
「……分かってる。だから慎重にやってんだろ」
ドレイヴが炎を金属板の下で滑らせると、全員の視線が同意書へ集まった。
最初は何も起こらない。
金属板の下で小さな炎が揺れる音と、導魔管を流れる低い振動だけが響き、誰かが息を呑む気配さえ大きく聞こえた。
「少しだけ温度を上げて」
炎が一回り大きくなると、金属板の縁で空気が揺らぎ、紙の表面へ熱が広がっていく。
やがて、最初に茶色い短い線が現れた。
「出た……」
マナが囁く。
線は伸びながら四角い枠の一部を形作り、その内側には途切れた文字が浮かび始めた。
神経、診療、第四水路区。
そして、区画を示す数字。
「そのまま動かして」
ディアナの声が低くなる。
炎が左から右へ移るにつれ、消された印章の輪郭が少しずつ浮かび上がっていく。施設名の上部は潰れていたが、住所だけは辛うじて読み取れた。
「止めて」
炎が消えると、同意書から微かな酸と古い墨の匂いが立ち上った。
ディアナは、そこに残された文字を別の用紙へ書き写す。
「第四水路区、十七番区画……」
アレンは壁際の都市地図を広げ、昨日たどった道を指で追った。
そこは旧市街の外れ、現在の導魔設備へ切り替わる前の地下水路と、閉鎖された診療施設が残る一角だった。
「旧第四治療棟の南側だ。歩いても、そう遠くない」
その正確な番地を聞いた瞬間、ケイムの表情が変わった。
旧第四治療棟の名に驚いたのではない。そこからわずかに外れた場所に、何があったのかを思い出した顔だった。
「待ってくれ。その番地なら、中央医療塔の登録台帳で見た覚えがある」
ケイムはアレンが示した場所から指をわずかに南へ滑らせた。
「旧第四治療棟じゃない。エドガー個人名義の診療所が、この辺りにあったはずだ」
「それを、どうして今まで言わなかった」
ドレイヴの声が低くなる。
「所在地まで覚えていたわけじゃない。旧第四治療棟との関係も、今の印章を見るまでは結びつかなかった」
所有者――エドガー・ヴァイス。
用途――神経魔術専門診療所。
所在地――第四水路区十七番。
十年前、閉鎖。
「間違いないわ」
ディアナが顔を上げる。
「ユリスの同意書から消されていたのは、エドガー・ヴァイスの旧診療所の受入印よ」
リエナは同意書を胸元へ引き寄せなかった。
兄が自分へ残したものではない。別れの言葉でも、帰るという約束でもない。
そこにあるのは、自分の意思で記した署名と、誰かが消そうとした行き先だけだった。
ユリスは治療を受ける道を選んだ。
だが、どこへ連れていかれるのか知っていたのか。なぜ家族へ何も告げなかったのか。治療の内容を、どこまで説明されていたのか。
答えは、まだどこにもない。
「兄は……そこにいるんでしょうか」
「分からない」
ディアナは曖昧な希望を口にしなかった。
「でも、少なくともユリスを受け入れた者たちは、その場所を知られたくなかった」
「なら、調べる理由は十分だ」
アレンは地図に記された古い建物を見つめた。
十二年前に閉鎖された旧第四治療棟。
十年前に閉鎖されたエドガー個人の診療所。
そして現在、その診療所の印章が、六人の失踪者へ渡された同意書から消されている。
二つの施設をつなぐ空白の時間に、何が行われていたのか。
閉鎖されたはずの診療所で、今も誰が治療を続けているのか。
ケイムの指は、旧診療所を示す印の上から動かなかった。




