第29話『名前を失った男』
その男は、夜明け前の排水路を走っていた。
膝まで汚水に浸かり、何度も壁に肩をぶつけながら、それでも止まろうとはしない。裸足の右足が石床を蹴るたび、濁った水が壁際まで高く跳ねる。
衛兵が魔法灯を振り向けたときには、男はすでに光の輪を抜け、十歩先の闇へ踏み込んでいた。
「止まれ!」
衛兵が叫ぶと、男は振り返った。
頬は痩せこけ、濡れた髪が額へ貼りついている。身につけているのは薄い患者着だけで、片方の袖は肩口から裂けていた。
その顔に敵意はない。衛兵から逃れようとしているというより、行き先も分からぬまま走っていたように見える。
自分がどこにいるのかさえ分からない者の目で、灯りの向こうを見つめている。
「ここがどこか分かるか?」
衛兵は距離を保ったまま、問いかけた。
男の唇がかすかに動く。
「……分からない」
「名前は?」
しかし、返事はない。
衛兵は声を強める。
「お前の名前だ。答えられるか?」
男は自分の胸へ手を当て、何かを探すように指を這わせた。やがて、ゆっくりと首を振る。
「知らない」
魔法灯の青白い光が、男の首筋を照らした。
そこには、皮膚の下を這うように黒い線が浮かんでいる。血管ではない。
一定の形を持たない細い線は、耳の後ろから首を下り、肩、脇腹、腰へと続いていた。さらに右脚では、神経の走行をなぞるかのように枝分かれし、膝の裏から足の指先まで伸びている。
その黒い線は、男の脈拍に合わせて、皮膚の下でゆっくりと明滅していた。
「医療塔へ連絡しろ」
衛兵が後方の部下へ告げる。
「それと軍務局だ。失踪者を見つけた可能性がある」
その言葉が聞こえたのか、男の瞳が揺れる。
「失踪……?」
「動くな。すぐ治療師が来る」
「俺は……」
男は両手で頭を抱えた。
「どこへ帰ればいい?」
◇
排水路へ続く地下階段を下りるにつれ、鼻を刺す臭いが濃くなっていった。
湿った石壁には緑色の苔が広がり、天井を走る細い導魔管が一定の間隔で青い光を放っている。足元では、昨夜降った雨を含んだ水が勢いよく流れていた。
「発見されたのは、この先の点検区画です」
案内役の衛兵が足早に説明する。
「声をかければ返事はします。しかし、自分の名前も住所も答えられません。身体に妙な黒い線が出ています」
「暴れたのか?」
ドレイヴが尋ねた。
「今のところは。ただ……」
衛兵は一度、言葉を切る。
「右脚の動きが普通ではありません。こちらへ走ってきた際、巡回兵二人でも追いつけなかったそうです」
衛兵の報告を聞きながら、アレンは一昨日の夜を思い返した。
ユリスが姿を消し、同じ治療案内を受け取った者も、過去一か月で五人が行方不明になっている。
排水路から現れた男が、そのうちの一人である可能性は高い。
「報告にあった黒い線……案内状に残っていた反応とつながってると思う?」
マナが声を落として尋ねた。
「まだ、そうとは言い切れないわ」
ディアナは歩きながら、杖の先に取りつけた測定結晶を確かめる。
「でも、同じ反応なら、近づけば結晶が拾うはずよ。アレンの体内に残っているものともそこで比較できる」
「今のところ、右手に変わった感じはない」
アレンは自分の右手へ目を落とした。
「痛みもない。冷たくもない」
「……分かった」
マナは頷き、アレンの顔を見つめる。
「でも、少しでも変わったら、すぐに言って。ほんの少しでも」
「ああ」
階段を下りきった先には、排水路の流れを調整するための広い点検区画があった。
中央を濁った水路が横切り、その左右に石造りの足場が延びている。片側の壁には古い制御弁が並び、反対側には作業員用の避難室が設けられていた。
男は水路脇の壁へ背を預けて座っており、その周囲を四人の衛兵と二人の治療師が取り囲んでいる。だが、誰一人として男から五歩以内には近づいていない。
アレンたちが入ると、男はゆっくりと顔を上げ、アレンの右手に視線を止めた。
男は、アレンの身体の脇に力なく垂れた右手を見つめる。
「その手……悪いのか?」
掠れた声で尋ねられ、アレンは男の正面を避けるように足を止めた。
「……そうだな。手首から先が動かない」
「ずっと、そのままなのか?」
「動かせることはある。でも、治ったわけじゃない」
男は何も言わず、自分の右脚へ目を落とした。
患者着の裾から覗く脚は、左右で太さが違っていた。左脚に比べ、右の腿とふくらはぎは明らかに細い。長く使われていなかったことが分かるほど落ちた筋肉。
「その脚が動かなくなったのは、いつですか?」
ディアナが静かに尋ねると、男は眉を寄せた。
「……分からない」
「怪我をした場所は?」
「それも、分からない」
「治療を受けたことは、覚えていますか?」
男は両手で頭を抱えた。
「白い部屋……だった」
「そこに、誰がいました?」
「男がいた。白い服を着た……」
「その人について、ほかに覚えていることは?」
「分からない。何も……何も思い出せない」
黒い線が男の首筋でかすかに蠢く。
ディアナの杖先で、測定結晶の警告層が淡い赤色へ変わり、その中心に針のような黒い波形が浮かんだ。
「案内状に残っていたものと同じ。属性も周期もないわ」
ディアナは一瞬、アレンの右手へ目を向ける。
「あなたの体内に残っている反応にも近い。でも、こちらの方がずっと強い」
男の呼吸が荒くなる。
「俺には……家族がいたはずなんだ」
治療師の一人が、刺激しないよう穏やかに声をかける。
「焦らなくて大丈夫です。無理に思い出そうとしなくても――」
「いたんだ、家族が」
男は治療師の言葉を遮った。
「誰かが……俺を待ってる」
「その方の名前は、分かりますか?」
「……分からない」
男の指が、頭皮へ深く食い込む。
「顔も……何も、思い出せない」
右脚だけが立ち上がろうとするように動き、踵が石床を擦った。
「では、自宅がどこにあるかは?」
衛兵が静かに尋ねると、男は答えようとした。
だが、開いた口から漏れたのは息だけ。
「家……」
男の視線が、排水路の左右をさまよう。
「家は、どっちだ?」
その問いに、誰も答えられなかった。
男の黒い線は神経に沿ってゆっくりと脈打ち、右脚へ伸びる線だけがほかよりも濃く浮かんでいる。
ディアナは、その右脚を注意深く観察した。
「右膝に、古い手術痕があります」
薄い患者着の隙間から、膝の外側に残る白い傷が覗いている。腿の筋肉は痩せ、足首には長く固定具を使っていたらしい擦過痕も残っていた。
「少なくとも数年は、まともに動かせていなかったはずです」
「それなのに、巡回兵より速く走ったんだよな?」
ドレイヴが衛兵へ目を向ける。
「はい。右脚で踏み切り、石段を三段まとめて飛び越えました」
男は確かめるように、自分の膝へ手を置く。
「……治ったんだ」
その呟きには、かすかな喜びが滲んでいた。
「これなら……帰れる」
男が立ち上がろうとすると、治療師がすぐに一歩踏み出した。
「待ってください。先に身体を診せてください」
「帰らないと……誰かが待ってる」
「すぐに終わります。離れたまま、診断術式で身体の状態を確認します。よろしいですか」
男が戸惑いながらも動きを止めたのを確かめ、治療師は静かに杖を掲げる。
先端に取りつけられた魔法石が青く光り、診断用の淡い術式が男の胸元へ伸びていった。
その瞬間、男の背中が大きく反る。
「がっ……!」
首筋の黒い線が一斉に膨れ上がり、診断術式の光は男の皮膚に触れる前に曲がった。
青い魔力が糸のように引き伸ばされ、そのまま黒い線へ吸い込まれていく。
「その術式、今すぐ切って!」
ディアナが叫ぶと、治療師は杖を引いた。
だが、魔力の流れは途切れない。杖の魔法石から青い光が噴き出し、男の身体へ引き寄せられている。
「手が離れない!」
治療師の指は杖に貼りついたまま、いくら力を込めても動かなかった。
周囲の導魔管が激しく明滅し、天井の魔法灯も一つ、また一つと消えていく。その魔力までもが細い流れとなり、男のもとへ集まっていた。
「やめろ……」
男の喉から、震える声が漏れる。
杖から流れ込む光と自分の身体を交互に見つめる。
「俺は、何もしてない……!」
それでも、身体は勝手に動いた。
痩せていた右脚が石床を蹴る。
濁った水が遅れて跳ね上がり、男は一息で治療師との間合いを詰めた。振り上げられた右足が、その胸へ迫る。
「下がれ!」
ドレイヴが二人の間へ割って入った。
大剣を抜く暇はない。咄嗟に両腕を交差させ、迫る蹴りを正面から受け止める。
衝撃と同時に、男と杖をつないでいた青い光が弾けた。治療師の指がようやく杖から離れ、もう一人の治療師がその身体を後方へ引きずる。
床へ落ちた杖では、魔法石の制限符が黒く変色し、光を失っていた。
「っ……なんて蹴りだよ!」
受け止めた両腕が、細かく震えていた。
男は呆然と自分の足を見つめる。
「……違う」
その顔から、みるみる血の気が引いていく。
「俺じゃない。今のは、俺じゃない……!」
だが、右脚は再び勝手に動き、今度は逃げようとする衛兵へ身体を向けた。
ドレイヴは痺れる両腕を振り、大剣を抜く。
「全員、魔法を止めて!」
ディアナの鋭い声が飛んだ。
「周囲の術式に反応しています。魔力を向ければ向けるほど、反応が強くなる!」
衛兵たちは、備えていた術式を一斉に解除した。
しかし、壁の導魔管には都市を巡る魔力が流れ続けており、黒い線はそこからも力を吸い上げている。
男が衛兵へ突進する。
ドレイヴは横から体当たりを仕掛け、その進路を変えた。二人の肩がぶつかり、濁った水が大きく跳ねる。
「こっちだ!」
ドレイヴは、男の胸元を大剣の腹で押し返した。
刃を立てず、火の魔装もまとわない。生身の腕力と大剣の重さだけで、男を水路から引き離していく。
男の右脚が横薙ぎに振るわれると、ドレイヴは剣身で受け流し、その勢いを利用して半歩下がる。
「ドレイヴ、後ろ! 壁よ!」
マナが叫んだ。
「分かってる!」
ドレイヴは男の前から退かず、攻撃を受け流しながら、制御弁のない壁際へ少しずつ位置をずらしていく。
広い場所で走らせるわけにはいかない。
「ほら、どうした!」
大剣の先をわずかに下げ、右側に隙を作ると、男の身体が反応した。
防御の薄い場所を正確に狙うその動きは、男自身の意思によるものとは思えない。
右脚で石床を砕くほど強く踏み込み、ドレイヴの右脇へ回り込もうとする。ドレイヴが一歩退くと、男はそのまま前へ出た。
男の背中と石壁の間は、残り二歩ほどまで狭まっている。
「壁まで、あと二歩よ!」
ディアナが残りの距離を告げると、ドレイヴは大剣を横へ振った。
斬るためではない。男の視界を塞ぎ、左側の退路を消すためだ。
右脚で反射的に床を蹴り、残された方角へ跳ぶ。そこがドレイヴの狙っていた場所。
「今だ!」
ドレイヴは大剣を手放すと、男の両肩を掴み、勢いを殺さないまま身体ごと壁へ押しつけた。
石壁が低く揺れ、男の右脚がドレイヴの脇腹を蹴り上げる。
「ぐっ……!」
息が詰まった。
それでも、ドレイヴは手を離さない。
「俺のことはいい! 自分の脚を止めろ!」
「止められない……!」
男は泣きそうな顔で叫ぶ。
「止めようとしてる! なのに、勝手に……止まらないんだ!」
「だったら、俺が止める! だから、お前まで諦めるな!」
右脚が再び跳ね上がる。
ドレイヴは腰を落とすと、膝で男の腿を壁へ押さえ込んだ。
「マナ、頼む!」
「うん、すぐ行く!」
マナは杖を両手で握り直し、男から数歩離れた位置に立つ。
周囲の魔力を吸収している以上、大きな治癒魔法は使えない。
マナは水路からごく少量の水をすくい上げ、濁りを除いて薄い膜へ変えた。
「水よ、その形を映して」
青白い膜が床を這い、男の足元から全身へ広がっていく。黒い線が水の魔力に食らいつき、膜の端が首筋へ引かれた。
「マナ、吸われてる!」
「分かってる。……全部は渡さない」
マナは流れ込む魔力を絞る。男へ直接注がず、膜の形を保つための最低限だけを残した。
薄い水が男の胸から腹、腰、右脚へと広がり、その身体を包んでいく。
男を包んだ水膜の内側に、心拍を示す赤い明滅と、体内を巡る青い魔力の流れが浮かび上がった。
その中で、黒い線に触れた部分だけが、墨を落としたように暗く染まっている。
「……見えた」
マナが息を詰める。
「心拍は速い。でも、乱れてはいない。右脚へ魔力が流れる直前、腰の近くで一度まとまってる」
「その状態を保って」
ディアナは測定結晶から目を離さず、杖を構えた。
マナの水膜に返ってくる歪みだけを読み取り、その外側へ細い銀色の文字を重ねていく。
男へ触れない、受動型の解析術式だった。
男が暴れるたび、銀色の文字は激しく乱れた。
「もう少し、動きを抑えられる?」
ディアナが尋ねる。
「簡単に言うな!」
ドレイヴは男の蹴りを脇腹に受けながら叫んだ。
「こいつ、脚だけなら馬より速えぞ!」
「一瞬でもいいの」
「だったら最初から、そう言え!」
ドレイヴは男の肩を押さえていた右手を離し、大剣を収めていた空の鞘を掴んだ。
鞘を男の右足首に押し当て、そのまま壁との間に挟み込む。さらに鞘を自分の足で踏み込み、右脚が引き戻されるのを封じた。
膝を曲げようにも足首が動かない。
男の身体が前へ倒れそうになると、ドレイヴは片腕で胸を支え、そのまま壁へ押し戻す。
「今だ!」
銀色の文字が、首から肩へ、肩から背中へと黒い線を追っていく。
さらに背中から腰へ下り、右脚へ伸びる直前で、黒い線は骨盤の脇に複雑に絡まり、一つの黒い点を作っていた。
「……見つけた」
ディアナの声が鋭くなる。
「右の腰骨から、指二本ぶん下。そこだけ、身体の魔力回路につながっていない」
「どういうことだ?」
アレンが尋ねた。
「彼自身の術式じゃない。外から書き込まれた命令が、そこを通って神経へ入り込んでる」
「じゃあ、そこを壊せば止まるのか?」
「壊すんじゃない。切り離すの」
ディアナは杖先を、黒い点へ向けた。
「周囲の神経まで焼けば、右脚は二度と動かなくなるかもしれない。深く入りすぎれば……内臓へ続く魔力回路まで傷つける」
男の黒い線が再び膨れ上がり、水膜から吸収された魔力が右脚へ集まり始める。
その力に押され、男を押さえ込んでいたドレイヴの身体が、じりじりと後ろへ押し返されていく。
「もう長くはもたねえぞ!」
「……なら、俺が切る」
アレンは右手を持ち上げ、黒い手袋の下へ刻印の雷を流そうと意識を集中した。
刻印の雷なら、普通の雷魔法よりも細く、強く、黒い反応へ干渉できる可能性がある。
右手の甲が、手袋の下でかすかに熱を帯びた。
「アレン、待って」
マナの声だった。
強くも鋭くもない。それでもアレンの意識は、刻印へ届く手前で止まる。
「黒い点が……動いてる」
マナは水膜から目を離さない。
「心臓が打つたびに、少しずつ位置がずれてる。今撃ったら、神経の束に当たる」
アレンは、右手へ集めかけた雷を止めた。
「ディアナ。切る場所を固定できるか?」
「皮膚の表面に出ている部分だけなら。でも、身体の中まで固定するのは無理よ」
「マナは?」
「心拍の間隔なら読める。黒い点がいちばん浅くなる瞬間を、私が伝える」
「ドレイヴ」
「聞こえてる」
「その瞬間だけ、右脚を伸ばしたまま押さえてくれ。腰の線をまっすぐにしたい」
「……注文が多いな」
ドレイヴは荒い息を吐き、脇腹を押さえた。
「だがまあ、その方が分かりやすい」
男が再び暴れ、右膝を曲げて鞘を押し退けようとする。
今度は動きを止めるのではなく、脚をまっすぐに伸ばす必要がある。
ドレイヴはあえて力を緩め、男の脚を自由にした。
次の瞬間、右足がドレイヴの胸を蹴ろうと一直線に伸びる。ドレイヴは半身になってそれを避けると、伸びきった足首を脇へ抱え込んだ。
そのまま自分の肩で腿を押し上げ、男の腰を壁へ固定する。
「これで、どうだ!」
男の右脚が、限界までまっすぐに伸びた。
腰から腿、膝、足首へと走る黒い線も、ほぼ一直線になる。
「ディアナ、今だ!」
「固定するわ」
杖先から銀色の文字が飛び、腰の黒い点を取り囲んだ。
「封印よ、輪となり、外なる命令を留めて――」
小さな銀環が皮膚の表面に浮かぶと、黒い点が激しく震える。
逃げ道を探すように左右へ動くものの、銀環の外へは出られない。
「固定できた。でも長くは持たない」
「マナ」
「心拍を読む」
水の膜に赤い光が浮かび、一度、強く脈打った。
それに合わせて、黒い点が身体の奥へ沈む。
二度目の脈動が訪れた。だが、今度は少し浅い。
「まだ」
アレンは左の人差し指と中指を揃え、その先へ周囲の魔力を集めていく。
療養院で、一本の導魔線だけを切ったときと同じ。
すべてを壊す必要はない。今度も、必要な場所へ届く道を一本だけ作ればいい。
アレンは術式を広げず、強めず、ディアナが留めた一点まで細く絞っていく。
起点と終点だけを残し、指先から黒い点までを結ぶ一本の線へと術式を絞った。
青白い雷が、二本の指の間で針よりも細く光る。
三度目の心拍とともに、黒い点が皮膚のすぐ下へ浮かび上がった。
「今!」
マナの声を合図に、アレンは左手を突き出す。
雷が走った。
耳を打つ轟音も、目を灼く閃光も、周囲を焼く熱もない。青白い一本の線だけが、ディアナの銀環の中心を貫く。
黒い点が白く弾け、焦げた臭いが広がった。
男の腰から右脚へ伸びていた黒い線が、一本だけ途切れる。
次の瞬間、導魔管から流れ込んでいた光が止まった。
黒い線はなおも皮膚の下に残っていたが、先ほどまでのようには脈打っていない。
やがて、男の右脚から力が抜ける。
「止まった!」
マナが叫ぶと、ドレイヴは男の身体を抱え直した。
全身の力を失った男は、そのままドレイヴの肩へ崩れ落ちる。
「おい、聞こえるか?」
しかし、返事はない。
マナが駆け寄り、今度は水の膜を胸元へ集中させた。
「心臓は動いてる。呼吸もある」
「神経は?」
「右脚の反応は落ちた。でも、消えてはいない」
ディアナは黒い点があった場所へ測定結晶を近づける。
「切れたのは、外から入り込んでいた命令だけよ。黒い線そのものは、まだ残ってる」
「また暴れる可能性は?」
「分からない。少なくとも、このままここで治療はできないわ。導魔管から離して、隔離設備へ運ぶ必要がある」
衛兵たちが担架を運んでくる。
ドレイヴが男を横たえると、衛兵たちは導魔管から離れた通路へ担架を運び出した。
男の姿が角の向こうへ消えたところで、ドレイヴはその場へどさりと腰を下ろす。
「脇腹、見せて」
マナがすぐに言った。
「これくらい平気だ」
「いいから、見せて」
「……はいはい」
ドレイヴが渋々外套を持ち上げると、脇腹には紫色の痣が広がっている。
「骨は?」
「たぶん、折れてねえ」
「そのたぶんで済ませないで」
マナは杖を構え、診断用の水を痣の上へ薄く広げた。
その横で、アレンはわずかに赤くなった左手の指先を見つめている。
あの一本の雷は、アレン一人の力で届いたものではない。
アレンは赤くなった左手の指先から目を上げる。
測定結晶をしまうディアナ。杖を握ったままのマナ。壁際に座り込んだドレイヴ。
あの一点には、自分一人では届かなかった。
「アレン」
マナが振り返った。
「右手は?」
「変わりない」
「冷たさも?」
「ああ。何もない」
マナの肩から、わずかに力が抜ける。
「……よかった」
「待って正解だったな」
アレンは左手を握りしめた。
「あのまま刻印を使ってたら……たぶん、全部焼いてた」
「たぶん、ではないわ」
ディアナが測定結晶をしまいながら言う。
「刻印の出力を使っていたら、外部術式だけでは済まなかったわ。周囲の神経まで傷つけていた可能性が高い」
ディアナは低い声で続けた。
「最悪の場合、右脚どころか……下半身全体が動かなくなっていた」
「そこまで危なかったのかよ」
ドレイヴが顔をしかめる。
「雷鳴の刻印は、細く絞れば安全に使えるような力ではないわ。どれだけ細くしても……強すぎるの」
ディアナは、アレンの右手へ目を向けた。
「今回は、使わなかった。それが正解よ」
アレンは何も言わず、静かに頷く。
褒められたとは思っていない。男の身体にはまだ黒い線が残り、ユリスの居場所も分かっていなかった。
それでも、一つだけ以前とは違う。
自分が止まったことで、救える可能性が残った。
◇
男が中央医療塔へ運び込まれたあと、濡れた患者着の内側が調べられた。
腰の裏地には、小さな革袋が不揃いな糸で縫いつけられていた。
患者着本来の縫製とは明らかに違う。誰かが急いで布を裂き、外から見えない場所へ隠したらしい。
袋は水を通さないよう蝋で固められており、中には薄い記録帳が一冊入っていた。表紙には、名前も施設名も記されていない。
最初のページには、右脚の神経損傷について書かれていた。
事故から三年が経過し、治癒魔法による改善はなし。筋力は低下し、歩行も不能。
その下には、処置を受けることに同意した本人の署名が残されている。
さらにページをめくると、短い記録が日付順に並んでいた。
右足の指が動いた。
膝を曲げた。
立ち上がった。
三歩、歩いた。
二十歩、歩いた。
階段を上った。
そして、最後の記録。
――娘を抱き上げることに成功。
その一文だけが、ほかよりも濃い筆圧で書かれている。
誰の筆跡かは分からない。だが、文字の脇には水に滲んだ小さな丸が残っており、涙が落ちたようにも見えた。
アレンは記録帳を閉じる。
「……治療そのものは、成功してたんだな」
待合室の壁にもたれていたドレイヴが言った。
脇腹には、治療用の帯が巻かれている。
「脚だけを見れば、な」
アレンは閉じた記録帳の表紙へ目を落とした。
「歩けなかった人が、走れるようになった。娘を抱き上げられるようにもなった」
「その代わりに……自分の名前も、帰る家も忘れた」
マナの声は低い。
待合室の端には、リエナが座っていた。医療塔へ残るように言われてから、ずっとその場所を離れていない。膝の上には、兄が残した案内状と参加同意書の控えが置かれていた。
排水路で発見された男が運び込まれたあと、リエナは治療室の扉が閉まるまで、担架を見送っている。
「その人も……自分で書いたんですか?」
リエナが記録帳へ目を向けた。
「何を?」
「治療を受けますって……その人が自分で名前を書いたんですか?」
アレンは答える前に、ディアナを見た。
ディアナが、わずかに頷く。
「……本人の署名だと思う」
アレンは記録帳を開き、最初のページをリエナへ見せた。
リエナはそこに残された署名をじっと見つめ、それから膝の上にある兄の同意書を開く。
ユリス・フェーン。
兄自身が書いた名前が、紙の下部に残されていた。
リエナの指が、その文字の輪郭をなぞる。
「兄も……自分で書いてます」
「ああ」
「少なくとも、ここへ来て名前を書いたときは……兄が自分で治療を受けると決めたんですね」
「……そうだと思う」
リエナは俯いた。
紙を握る指に力が入り、端が小さく折れ曲がる。
「自分でここまで来て、自分の名前まで書いたなら……」
声が、かすかに震えた。
「それでも連れ戻したいって思う、わたしの方が……間違ってるんですか?」
待合室を行き交う治療師たちの足音が、急に遠のいたように感じられる。
アレンは答えを急がなかった。
ユリスは自分で決めたのだ。妹に隠し、嘘をつき、それでも力を得ようとした。
その意思まで、誰かに操られたものとして消すことはできない。
「間違ってるかどうかは、今は決められない」
アレンはリエナの前へしゃがんだ。
「ユリスが力を欲しがったことは、本当だと思う。お前のためだけじゃなく、自分のためにも」
リエナの視線が上がる。
「じゃあ、止めちゃいけないんじゃ……」
「でも、名前を失うことまで選んだのかは分からない」
アレンは男の記録帳を閉じた。
「この人は脚が動くようになった。きっと、それを望んでた。でも、自分の名前も、娘の顔も忘れたいとは思ってなかったはずだ」
リエナの唇が震える。
「連れ戻すのは、ユリスが決めたことをなかったことにするためじゃない」
「じゃあ……」
「もう一度、自分で選べるところまで戻すためだ」
アレンはユリスの署名を見つめた。
「何を得られるのか。何を失うのか。ほかに道はないのか。それを全部知ってから、もう一度決めてもらう」
「それでも兄が続けたいって言ったら?」
アレンはすぐには答えられなかった。
「そのときは、まず理由を聞く」
「止めないんですか?」
「一人きりで背負わせない」
アレンは言った。
「ほかに助ける方法がないか、ユリスと一緒に考える」
リエナは兄の署名へ目を落とす。
やがて折れていた紙の端を、指で丁寧に伸ばした。
「名前……忘れないでいてくれるかな」
その問いには、誰も確かな答えを持っていない。
マナがリエナの隣へ座る。
「忘れても、呼ぶよ」
リエナが顔を上げた。
「何度でも。思い出せるまで」
少女は同意書を胸元へ抱く。
泣いてはいなかったが、その細い肩は小さく震えていた。
◇
それからしばらくして、隔離治療室の寝台で男が目を覚ました。
室内の導魔設備はすべて止められ、灯りは油灯だけ。寝台の周囲には、魔力を流し込まない旧式の器具が並んでいる。
男の右腿と足首には、魔力を通さない旧式の革帯が緩く巻かれていた。再び暴走した場合に備えたものだが、膝や足指の反応を確かめられる程度の余裕は残されている。
寝台の両側には二人の治療師が控え、扉の外では衛兵が待機していた。
それでも再び暴走した場合に備え、二人の治療師が寝台の両側に控え、アレンたちは少し距離を取って見守っている。
寝台脇の机には、排水路で見つかった記録帳が置かれていた。その署名から男の身元はすでに確認され、軍務局も家族へ連絡を送っている。
治療師は、記録帳に残されていた名を二度呼んだ。
だが、男の瞼は動かない。
「聞こえますか?」
治療師が顔を覗き込むと、男の瞼がわずかに震えた。
「ゆっくりで構いません。目を開けられますか?」
数度の瞬きを繰り返したあと、男は目を開く。
最初に天井を見上げ、次に、自分を囲む人々へ視線を動かした。
「ここは……」
「中央医療塔です」
「医療塔……」
男は口の中で言葉を確かめる。
「あなたは排水路で倒れました。身体に異常な術式が残っています。無理に動かないでください」
治療師の説明を聞きながら、男は右脚へ目を向けた。
しばらく見つめたあと、布団の上でゆっくりと膝を曲げる。
今度は、自分の意思で動かすことができた。
男の顔に、かすかな笑みが浮かぶ。
「動く」
誰に言うでもなく、男は呟いた。
「俺の脚が、動いてる」
右足の指を一本ずつ曲げて確かめると、今度は両腕を前へ伸ばし、何かを抱えるような形を作った。
その仕草の途中で、男の笑みが止まる。
「娘がいるんだ」
男は両腕を差し出したまま、その形を見つめた。
「小さい。ここまでしかなかった。抱くと、俺の首に腕を回して……」
そこで声が途切れ、男の両手が震え始める。
治療師はしばらく待ってから、静かに尋ねた。
「娘さんの名前は、分かりますか?」
男は目を閉じ、眉間に深い皺を寄せる。
失った記憶を掴もうとするように、男の両手が何度も空を握った。
「分からない」
「顔は思い出せますか?」
長い沈黙。
やがて男は、伸ばしていた腕をゆっくりと下ろす。
治療師は寝台脇の記録帳へ目を落とした。
「記録では事故から三年間、右脚を動かせなかったとあります。治療後には娘さんを抱き上げたとも」
男の瞳が揺れた。
「治ったんだ」
涙がこめかみを伝い、枕へ落ちた。
「三年ぶりに、娘を抱き上げられた」
男は自分の両手を見つめる。
「なのに……娘の顔が、分からない」




