第28話『消えた兄』
夜明け前のルミノヴァに、鐘の音が響いていた。
一度、二度、三度。
まだ朝を告げる時刻ではない。中央医療塔の内部に鳴り響くその鐘は、急患の到着を知らせるものだった。
廊下を治療師たちが駆けていく。
寝台の車輪が床を擦る音に、短い指示と患者の苦しげな呻きが重なっていた。閉ざされた扉を隔てても、その慌ただしさははっきりと伝わってきた。
アレンは簡易宿泊室の寝台に腰掛けたまま、それらの音を聞いていた。
眠れなかったわけではない。横になり、目も閉じた。
だが、右手が寝台の縁から落ちるたびに目を覚まし、左手で持ち上げては胸元へ戻した。それを何度も繰り返しているうちに、窓の外の闇は少しずつ薄くなっていた。
右手は今も、黒い手袋の中で沈黙している。痛みも痺れもない。
何もないということが、かえって恐ろしかった。
アレンは左手で右手首を掴むと、膝の上へ置き直した。
窓辺には、ブランネリアから持ち帰った破れた風車が結びつけてある。ルミノヴァへ到着してから一度だけ羽根を揺らしたものの、今は再び止まっていた。
窓はわずかに開いており、冷たい空気が入り込んでいる。それでも、羽根を回すほどの風はなかった。
「……動け」
誰に聞かせるでもなく、アレンは右手に命じた。
しかし、指は動かない。
静かな部屋に、ブランネリアでハルヴァから言われた言葉が蘇る。
動かないからといって諦めれば、その瞬間から、その手は本当にお前のものではなくなる。
アレンは右手から目を逸らさなかった。
刻印の雷を使えば、動かすことはできる。皮膚の下へ細い雷を通し、筋肉へ直接命令を送れば、五本の指を曲げることも剣を握ることも可能だった。
だが、アレンは雷を流さなかった。
一人で使わない。異変を隠さない。
アレンは右手を支える左手に力を込めながら、ブランネリアで交わした約束を胸の内で繰り返した。
そのとき、扉を叩く音が響いた。
一度目は遠慮がちに。二度目は、押し殺していた焦りが溢れたように強く。
「アレンさん……いますか?」
少女の声だった。昨日、中央医療塔の待合室で会ったユリスの妹リエナだ。
アレンは立ち上がると、左手で扉を開けた。
廊下に立つ少女は、寝間着の上から薄い外套を羽織っただけの姿で、髪も整えられていなかった。片方の靴は留め具が外れ、歩くたびに踵が浮いている。
その両手には、小さな金属製の火入れが握りしめられていた。
ユリスが普段から持ち歩いていたものらしく、蓋の端には何度も開閉した跡が残っている。
「どうした?」
尋ねると、少女は何度か口を動かしたが、声にはならなかった。
やがて火入れを握る指に力を込め、掠れた声を絞り出した。
「兄が……帰ってこないんです」
◇
少女の話は、ところどころで途切れた。
ユリスは昨夜、妹に「すぐに戻る」とだけ告げて宿を出たという。行き先については、何も話さなかった。
夜が更けても連絡はなかったが、少女は、兄が検査のことで医療塔へ呼び戻され、用事が長引いているのかもしれないと思い、部屋で待ち続けた。
しかし、夜明けが近づいても、ユリスは帰ってこなかった。
「医療塔には?」
アレンが尋ねると、少女は何度も頷いた。
「受付で聞きました。でも、昨日の検査が終わってからは来ていないって……。夜間の治療記録にも、名前はないって言われました」
声は震えていたが、泣いてはいなかった。
泣けば、最悪の出来事を認めてしまう。そんなふうに必死で堪えているように見えた。
「宿の人には、もう聞いたのか?」
「聞きました。でも、誰も見てないって。衛兵の詰所にも行ったんです。だけど……兄はもう成人してるから、自分で出ていったのなら、まだ失踪としては扱えないって」
「……いなくなったのは、いつだ?」
「昨日です。日が沈んだあとから……」
「何か持っていったものは?」
「分かりません。部屋も見たんです。でも、何がなくなってるのか……わたし、ちゃんと覚えてなくて……」
少女は言葉を詰まらせ、そのまま俯いた。
「朝になれば、帰ってくると思ってたんです。だって兄は……何も言わずにいなくなるような人じゃないから」
火入れの蓋が、少女の手の中でかすかに鳴った。
「約束してたんです。今日、もう一度だけ二人で市場へ行こうって。兄が火を灯せなくても、わたしが灯せばいいからって……そう言って」
アレンは何か言おうとしたが、少女へ返す言葉は、すぐには見つからなかった。
昨日、待合室でユリスは笑っていた。何度試しても火花はすぐに消え、一度だけ生まれた炎も、魔法灯を起動する前に失われた。それでも、妹が見ている前では、何でもないことのように肩をすくめていた。
――魔法がなくても生きられる。けれど、選べる仕事は少ない。
そう言ったときだけ、ユリスの笑顔はわずかに歪んでいた。
「……分かった」
アレンは、少女の目をまっすぐ見た。
「その宿まで案内してくれ」
「……探してくれるんですか?」
「ああ。俺も探す」
廊下の奥で、駆けてきた足音が止まった。
「待って」
背後から声が飛ぶ。振り返ると、廊下の角にマナが立っていた。外套の前を留めながら、まっすぐこちらへ歩いてくる。その後ろでは、髪を乱したドレイヴが大きな欠伸を噛み殺していた。
「……まさか、一人で行くつもりじゃないよね?」
マナは少女の前に膝をつき、目線を合わせた。
「わたしたちも一緒に探すよ。だから、覚えてることを……どんな小さなことでもいいから、全部聞かせて」
少女の目に、ようやく涙が滲んだ。
「……ありがとうございます」
「お礼はまだ。ちゃんと見つけてからにしよう」
ドレイヴは乱れた髪を掻きながら、廊下の壁に立てかけてあった大剣を担いだ。
「で、最初はどこから当たる?」
「宿だ」
アレンは迷わず答えた。
「誰かに連れ去られたなら、何か痕跡が残ってるはずだ。自分で出ていったとしても……手がかりくらいはある」
「自分で……出ていった?」
少女の顔が強張る。
アレンは、その可能性を否定しなかった。
「どっちなのか、まず確かめる必要がある」
慰めるために、根拠のない言葉を口にすることはできなかった。
少女は不安そうにアレンを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
◇
ユリスと妹が泊まっていた宿は、中央医療塔から歩いて四半刻ほどの場所にあった。
医療塔へ通う患者や家族が長期滞在するための安宿で、白い石壁の間に細長い建物が押し込まれるように建っている。
朝の光はまだ屋根の向こうに隠れており、狭い路地には夜の冷気が残っていた。
二階の突き当たりにある部屋へ入ると、最初に目に入ったのは、室内に一台しかない寝台だった。
布団は乱れたままで、リエナが夜通し兄を待っていたことがうかがえる。一方、壁際の床には、薄い毛布が綺麗に畳まれていた。
「兄は、いつもここで寝ていました」
リエナは、毛布の置かれた床を指した。
少女がそう言うと、アレンは部屋へ踏み込み、床、窓、家具の順に視線を走らせた。
争った跡はない。窓の留め具も壊れておらず、外から侵入した形跡も見当たらないうえ、扉の鍵にも傷はなかった。
ドレイヴは寝台脇の小さな棚を開け、中を覗き込んだ。
「……ここに、何か置いてあった跡がある」
「見ただけで分かるのか?」
「ああ。埃の残り方が違う。大きさから見て、畳んだ服が二つか三つだ。今はなくなってる」
ドレイヴは棚の内側を指でなぞった。
確かに、木の表面には四角い跡が残っている。
マナは、机の上に並べられた薬包を一つずつ確かめていた。
「……魔力障害の治療薬も、数が足りない」
「昨日の分を使ったんじゃないんですか?」
少女が不安そうに近づく。
「昨日、七日分を受け取ったのよね?」
少女が小さく頷く。
「この薬は一日に二包。七日分なら十四包よ。昨日の分を使っても、十二包は残るはず。でも、ここにあるのは六包だけ。三日分が足りない」
少女の顔から、さっと血の気が引いた。
「じゃあ、兄は……最初から、帰ってこないつもりで……?」
「まだ、そう決めつけるのは早いよ」
マナは薬包を元の位置へ戻し、少女を落ち着かせるように言葉を続けた。
「何日か外に泊まる必要があっただけかもしれない」
「それでも……黙って行くような人じゃありません」
少女は強く首を振った。
「兄は、わたしを一人にするのを嫌がるんです。買い物に出るときだって、何時に戻るか……必ず言ってくれるのに」
アレンは机の前に立った。
机の上には、治療費の領収書と使いかけの筆記具が並んでいた。机の下には、鞄を置いていたらしい四角い埃の跡だけが残っている。
その脇には、火属性魔法の基礎術式が書かれた薄い教本が置かれていた。
教本の端は何度も開かれたため擦り切れ、特に初級着火魔法の頁には、指でなぞった跡が幾重にも残っていた。
火よ、芽吹け――フンケンブランド。
子どもでも扱えるとされる、最も簡単な火属性魔法だった。だが昨日のユリスは、火花を生み出すことはできても、それを炎として保てなかった。
アレンが左手で教本を閉じようとした、そのときだった。
頁の間から、薄い灰色の紙片が滑り落ちた。
名刺ほどの大きさで、表面には紋章も施設名もない。ただ、中央に一行だけ、整った文字が刻まれていた。
――失われたものを、もう一度あなたの意志で。
裏返すと、ルミノヴァ南区の一角を示す略図が記されていた。指定された時刻は、昨夜の夜半前。ユリスが宿を出た時間帯とも矛盾しない。
アレンが紙片を机に置こうとしたとき、その先に、青い封蝋を破られた封書があることに気づいた。
中には臨床研究の説明書と〈控え〉と記された参加同意書が残されている。
同意書の下部には、震えた文字で名前が書かれていた。
ユリス・フェーン。
「前からユリスはこれを持っていたか?」
アレンが尋ねると、少女は紙片を見つめたまま、ゆっくりと首を振った。
「分かりません。こんなもの……見たことないです」
「治療の案内か?」
ドレイヴが横から紙を覗き込む。
「でも、施設の名前も、責任者の名前も書いてない。まともな治療院ならこんな案内は出さないよ」
マナの声が、わずかに硬くなる。
「それでも……ユリスは、ここへ行った」
アレンは地図へ目を落とした。
部屋に争った形跡はなく、服と薬も、必要な分だけが持ち出されている。誰かに突然連れ去られたとは考えにくい。
少なくとも、宿を出た瞬間までは、ユリス自身の意思で動いていた可能性が高かった。
「……これだけじゃ、まだ足りない」
アレンは紙片を手にしたまま立ち上がった。
「地図の場所へ向かう。ただし、その前に、この紙の仕掛けだけは確認する。罠だと知らずに踏み込めば、ユリスを連れ出すまでに余計な時間がかかる」
「でも、早く行かないと……」
少女が縋るようにアレンを見上げる。
「分かってる。だからこそだ」
アレンは迷いなく言い切った。
「何も知らないまま罠かもしれない場所へ飛び込んだら、ユリスを見つけても……連れて帰れない」
それは、自分自身へ言い聞かせるような言葉だった。
以前のアレンなら、すぐに地図の場所へ向かっていただろう。一人ででも走り出し、危険を見つけてから考えればいいと思っていたかもしれない。
だが、それでは足りない。
助けるために必要なのは、誰より早く危険へ飛び込むことではなく、全員で帰るための道を、入る前から作っておくことだった。
「まずは、ディアナに見せよう」
アレンは、灰色の紙を握り直した。
「この紙に残ってる魔力を調べてもらう」
◇
「……これは、普通の印刷用魔法紙じゃないわね」
中央医療塔の解析室で、ディアナは灰色の紙片を透明な解析板の上へそっと置いた。
細い杖の先から白い光を流し込むと、紙の内部に埋め込まれていた術式が幾何学模様となって浮かび上がる。
アレンたちは解析板を囲むように立ち、その隣では、少女がマナに寄り添いながら火入れを胸元へ抱えていた。
「情報を隠すための術式か?」
アレンが尋ねると、ディアナは術式から目を離さないまま答えた。
「それだけなら、そう珍しくはないわ。でも、これは……受け取った人間の魔力に反応するよう作られてる」
ディアナが杖をわずかに傾ける。
浮かび上がった術式の一部が赤く染まり、いくつもの細い線へ枝分かれしていった。
「一度でも手に取れば、その人間の魔力波形を記録して、別の場所へ送る。流れ込んだ魔力の量や触れていた時間から、相手がどれほど長く紙を扱ったかまで推測できる仕組みよ」
「そこまで分かるのかよ」
ドレイヴが眉を寄せる。
「関心そのものを読めるわけじゃない。でも、すぐ捨てたのか、何度も手に取ったのか。その違いは相手へ伝わる」
「……ずいぶん趣味の悪い紙だな」
「ええ。同感よ」
ディアナは杖を止めた。
「ただ、通信先との接続はもう切れてる。残念だけど、ここから相手の居場所を逆探知することはできないわ」
少女の肩が目に見えて落ちた。
「じゃあ、地図に書かれた場所は?」
アレンが尋ねる。
「南区にある旧第四治療棟よ」
ディアナは一拍置いて、続けた。
「十二年前に閉鎖されてるわ」
解析を始める前、ディアナは紙片の地図を短距離通信でケイムへ送っていた。
ほどなくして解析室の扉が開き、ケイムが入ってきた。
腕に古い記録板を何枚も抱え、銀灰色の髪はいつも以上に乱れている。
「朝からずいぶん賑やかだねぇ。私がいない間に、また厄介事を拾ってきたらしい」
「拾ったんじゃない。向こうから転がり込んできたんだ」
アレンが答えると、ケイムは少女へ一度だけ目を向けた。
普段なら何か軽口を挟むところだったが、彼女の表情を見て言葉を飲み込んだ。
「この子の兄がいなくなった」
アレンが告げると、ケイムは記録板を机に置き、灰色の紙片を覗き込んだ。
「なるほどねぇ。釣り針だけはずいぶん丁寧に隠してある」
「この治療棟のこと、知ってるのか?」
「施設についてはね。閉鎖される前は、重度の魔力回路障害と神経損傷を専門に扱っていた」
ケイムは並べられた記録板から一枚を選び、指先で表面をなぞる。
古い文字が淡く光り、治療棟の概要が浮かび上がった。
「責任者はエドガー。魔力障害治療を研究していた男だ」
「……どんな人なんですか?」
少女が縋るように身を乗り出す。
ケイムはすぐには答えず、浮かび上がった名前を見つめた。
「優秀な研究者だよ。そこは、間違いない」
その言葉に、少女の瞳へわずかな希望が戻る。
だが、ケイムは静かに言葉を継いだ。
「ただし――結果のためなら、危険だと分かっている治療でも、患者に試せる男だ」
少女の顔から、わずかに浮かんでいた希望が消えた。
「十二年前、彼は損傷した神経を魔力で代替する研究をしていた。麻痺した筋肉へ外から命令を送り、動かなくなった手足を……一時的に動かすためのものだ」
アレンの右手が、黒い手袋の中で重くなった気がした。
雷で筋肉へ命令を送る。
ハルヴァから教わった方法と、よく似ている。
「……それで、成功したのか?」
「一時的にはね」
ケイムの声から、いつもの軽さが消えた。
「歩けなかった者が歩き、物を握れなかった者が掴めるようになった。失われた魔力回路が、再び反応した例もある」
そこで言葉を切り、記録板へ目を落とす。
「ただし、効果が切れたあと……以前より症状が悪化した者もいた。筋肉の断裂、魔力回路の焼損、記憶障害。それに、死亡例も報告されている」
「……それで、治療棟は閉鎖されたのね」
マナが低い声で言った。
「表向きはね」
「表向き?」
「研究記録の一部が、閉鎖される直前に消えている。それにエドガー本人も、処分を受ける前に姿を消した」
ドレイヴが大剣の柄を握りしめる。
「だったら、もう決まりだろ。そいつがユリスを連れていったんだ」
「まだ、そうとは決められないわ」
ディアナが即座に遮った。
「ユリスが自分の意思で会いに行った可能性の方が高い。部屋の状態も、持ち出した荷物も……その方が自然よ」
「甘い言葉で治療を餌に呼び出したなら、連れていったのと同じだろ」
「同じではないわ」
ディアナの声は、あくまで冷静だった。
「脅されて行ったのか、自分で危険を選んだのかは分けて考えるべきよ」
「死ぬかもしれねえ治療を、本人が望んだというだけで済ませるのか?」
「済ませるつもりはないわ」
ディアナは灰色の紙へ視線を落とした。
「選ぶために必要な情報を隠されていたなら、それは自由な意思とは言えない。だから、ユリスが何を知らされ、何を知らされないまま選んだのかを確かめるの」
ドレイヴは何も言い返さなかった。
アレンは、灰色の紙片を見つめていた。
失われたものを、もう一度あなたの意志で。
もし、この紙を自分が受け取っていたら。完全に動かなくなった右手を戻せると、もう一度、左右の剣を自分の手で握れると言われたら。
危険だと分かっていても、誰にも話さず、その場所へ向かわなかったと言い切れるだろうか。
「……俺なら、行ったかもしれない」
言葉が、静かにこぼれた。
マナが振り返る。
ドレイヴの眉が動いた。
「少し前の俺なら」
アレンは黒い手袋に覆われた右手を持ち上げ、机の上へ置いた。
手首から先が力なく倒れる。
「……もし、動かせる方法があるって言われたら。俺も、危険だと分かっていて試したと思う」
アレンは右手へ視線を落とした。
「ただ、右手を元どおりにしたかったからじゃない。もう一度……誰かの役に立てる自分に戻りたかったからだ」
「アレン……」
「だから、ユリスが自分で行ったんだとしても、放ってはおけない」
少女は、黙ったままアレンを見つめている。
「本人が決めたことなら、何が起きても仕方ない――そんなふうには思えない。選ぶ前に、ほかの道が見えていたのか。それも分からないまま、自由に選んだとは言えないだろ」
ケイムは何も言わず、アレンの右手へ視線を落とした。
やがて記録板を閉じる。
「旧第四治療棟は、南区の外れにある。正面入口は封鎖されているけど、地下の搬入口ならまだ残っているよ」
「……行くの?」
マナが確かめるように尋ねた。
「ああ」
アレンは迷わず答えた。
マナはしばらくアレンの顔を見つめ、それから短く頷いた。
「わたしも行く」
「当然、俺もだ」
ドレイヴが大剣を担ぎ直した。
ディアナはすでに机の引き出しを開け、測定結晶と封止符を取り出していた。
ケイムも記録板を開く。
「第七特別戦術小隊に、緊急調査命令を出す。ディアナは魔法院の術式鑑定官として同行してくれ」
そう告げながら記録板の上で指を滑らせ、軍務局の認証を刻んだ。
「増援は私が手配する。ただし、患者の命が懸かっている。君たちは先行して現場を確認してくれ。交戦や深追いは避けること」
「わたしも行きます」
少女が火入れを抱いたまま言った。
「駄目よ」
ディアナは迷わず答えた。
「中に何があるか分からない。あなたを連れていけば、ユリスを探す前に、あなたまで危険にさらすことになる」
少女は何か言い返そうとしたが、やがて唇を噛み、火入れを抱き直した。
「……兄を、お願いします」
「ああ」
アレンは少女の目を見て答えた。
「必ず手がかりを持ち帰る」
アレンは双剣のうち一振りだけを左腰へ差した。もう一振りは鞘に収めたまま、医療塔に残していく。
「ユリス以外にも、同じ案内を受け取った患者がいないか確認してください。今は、そちらの方が重要です」
「おや。増援の手配に、患者の洗い出しまで私の仕事かい?」
「先生なら、すぐに調べられるでしょう」
「相変わらず、判断が早いねぇ」
「先生が遅いだけです」
ケイムは困ったように笑った。
だが、その目に笑みはなかった。
「くれぐれも気をつけたまえ。もしエドガーが今も研究を続けているなら、十二年前と同じ技術を使っているとは限らない」
「……もっと新しい方法があるってことか?」
「それか――新しい材料を手に入れたか、だ」
ケイムは灰色の紙片を測定結晶のそばに寄せ、指先で残留術式をなぞった。
その瞬間、結晶の内部を黒い影が一筋だけ横切った。
アレンの右手の甲から、微かな熱に似た反応が意識へ届いた。
「……待って」
マナがすぐにアレンの手首を掴んだ。
「今、何かあった?」
「ああ」
アレンは迷わず答えた。
「右手の甲に、熱みたいな反応がある。皮膚で感じてるんじゃない。感覚のない場所から、直接頭へ伝わってくるみたいだ。痛みはない。それに……黒い扉も見えてない」
ディアナが測定結晶を取り上げる。
だが、内部に浮かんでいた影は、すでに消えていた。
「雷鳴の反応じゃないわ」
「じゃあ、黒い方か?」
「まだ断定はできない。でも……よく似てる」
ケイムの淡い琥珀色の瞳が鋭く細められた。
「……なるほどねぇ」
その呟きからは、いつもの軽さが消えていた。
「どうやらエドガーは、ずいぶん危険なものを材料に選んだらしい」
◇
ルミノヴァ南区は、同じ首都とは思えないほど静かだった。
中央区に並ぶ高い塔や空中回廊は姿を消し、代わりに、古い石造りの建物と使われなくなった工房が細い水路に沿って並んでいる。
旧第四治療棟は、そのさらに外れにあった。
三階建ての白い建物は蔦に覆われ、正面の窓には内側から板が打ちつけられている。門には閉鎖を示す封印札が何枚も貼られていたが、雨風に晒され、文字の半分は消えかけていた。
「荒れてはいるが……完全に捨てられた建物じゃねえな」
ドレイヴが門の前で足を止める。
地面に伸びた雑草は、中央だけが踏み潰されている。
新しい車輪の跡もあった。
「最近まで使われてる」
アレンは跡を目で追った。
車輪の跡は正面ではなく、建物の側面へ続いている。四人が回り込むと、地下へ下りる緩やかな坂が見えた。
その先にある搬入口の鉄扉は閉ざされていたが、錠前は古びていなかった。
「開けられそう?」
マナがディアナに尋ねる。
「通常の封鎖術式なら、問題ないわ」
ディアナが杖を構えた瞬間、アレンの右手の甲から、再び熱に似た反応が意識へ走った。
先ほどより強い。
「待ってくれ」
アレンは左手を上げ、全員を止めた。
「……また反応した」
マナはすぐに手帳を開く。
「どこ?」
「右手の甲だ。手首までは広がってない。耳鳴りもない」
「強さは?」
「医療塔にいたときより強い。でも、まだ耐えられる」
「耐えられるかどうかを聞いてるんじゃないの。さっきから、どれくらい変わった?」
「……反応は右手の甲だけだ。手首より上には来てない。さっきより倍くらい強い」
マナが時刻と症状を書き留める一方で、ディアナは扉へ近づかず、測定結晶を前へかざした。
すると、透明だった結晶の中心に黒い点が現れ、ゆっくりと広がりながら、細い枝のような線となって内部へ伸びていった。
「……扉の向こうから反応してる」
「黒い魔力なのか?」
「魔力なら、属性も周期もある。でも、これは――」
「どっちもない」
アレンが言葉を引き取る。
ディアナは短く頷いた。
「ええ。以前、あなたを検査したときに観測されたものと同じ特徴よ」
マナが閉ざされた扉を見つめた。
「じゃあ……ユリスは、この中にいるのかな」
「少なくとも、ここまで来た可能性は高いわ」
扉の向こうにあるものが黒い反応と関係しているなら、刻印を使うこと自体が危険だった。
「俺は後ろに下がる」
アレンは自分から告げた。
ドレイヴが意外そうに眉を上げた。
「……いいのか?」
「今の俺が扉に近づいたら、向こうの術式まで刺激するかもしれない」
「ええ。正しい判断ね」
ディアナは短く答えると、扉へ視線を戻した。封止符を扉の周囲に貼りつけていく。
「開けるわ。全員、結界の内側に」
白い膜が四人を包むなか、ドレイヴが鉄扉を引いた。
暗い室内から、冷たい空気とともに、薬品の匂い、焦げた金属、そして雷が落ちた直後に似た乾いた臭いが流れ出す。
それに呼応するように、右手から伝わる熱に似た反応がさらに強くなった。
「……中にある」
誰に告げるでもなく、アレンは呟いた。
黒い扉の向こうから伸びてきた、あの反応と同じものが。
この建物の奥にある。
◇
少なくとも、搬入口から続く通路には人影がなかった。
両側に並ぶ処置室も空で、器具や寝台のほとんどが運び出されている。
自分たちが今つけたものを除けば、床に残る新しい靴跡は、すべて奥から入口へ向かっていた。
「……もう、逃げたあとか」
ドレイヴが低く吐き捨てるように言った。
「わたしたちが来ることまで、分かってたのかな」
「案内の紙が反応を送っていたなら、ユリス以外の誰かが触れたことは察知されたはずよ。私たちが紙を調べ始めたと気づいて、接続を切った可能性がある」
ディアナは壁に残された術式を調べながら、ゆっくりと奥へ進んでいく。
「撤収は、私たちが紙を見つける前から始まっていたのかもしれない。紙の反応で調査が始まったと知り、最後に残っていた人員と設備だけを急いで移した――そう考える方が自然ね」
「じゃあ……ユリスは、どこへ連れていかれたんだ?」
アレンが尋ねたが、答えられる者はいなかった。
通路の最奥には、ほかより広い処置室があり、その扉は開け放たれている。
内部には五台の寝台が並び、それぞれの脇から細い金属管が床へ伸びていた。寝台には腕と脚を固定する革帯が残され、その表面には乾ききっていない汗の跡がある。
壁際には、割れた薬瓶と黒く焦げた布が散らばっていた。
そして床の中央には、人の背丈ほどもある複雑な術式円が描かれている。
術式を構成する線は、通常の魔法陣とは異なっていた。起点符も属性定義も見当たらず、代わりに無数の細い線が人体の神経を模すように枝分かれし、五台の寝台へつながっていた。
「これは……治癒術式じゃない」
マナは五台の寝台へ伸びる線を目で追った。
「患者自身の魔力を整えてるんじゃない。外から何かを流し込んで、身体を無理やり動かしてる」
ディアナが術式円の手前で膝をつく。
「その“何か”は、人工的に作られた魔力波形よ。神経と魔力回路に別人の反応を上書きしている」
「上書きって……何をだ?」
「刻印が発動したときに起きる反応。その部分だけを写し取っているのかもしれない」
ディアナは床に触れないよう、杖の先を術式の線に沿わせた。
「もちろん、この術式だけで本物の刻印を新たに生み出せるわけじゃない。刻印者に起きた反応の一部を別の肉体に再現しているだけよ」
「じゃあ、刻印の力を借りるってことか?」
ドレイヴが眉を寄せる。
「力そのものじゃないわ」
ディアナは術式から目を離さなかった。
「力を使った結果だけを、身体に真似させるの」
アレンは寝台を見た。
麻痺した筋肉を動かし、途切れた神経の代わりに命令を送る。さらに、失われた魔力回路にもう一度反応を起こす。
効果だけを聞けば、奇跡に思えた。
だが、寝台の革帯には、爪で引っ掻いた跡が残っていた。
「ここに、記録帳みたいなものがあるよ」
マナが壁際の机から一冊の記録帳を見つけ、頁を開いた。
そこには、被験者と思われる名前と症状、実施時刻、使用した波形の種類が並んでいる。
歩行障害、腕部麻痺、魔力回路焼損、視覚神経損傷。
名簿の最後の頁で、マナの手が止まった。
「……ユリス」
ディアナがマナの手元を覗き込む。そこには確かに、ユリスの名が記されていた。
症状の欄には、火属性魔力回路の機能不全。実施予定時刻は昨夜で、その横には本人の署名が記されている。署名の文字は震えていたが、乱暴に書かれたものではなかった。
さらに赤い文字で、施設移送のため延期と追記されていた。
文字は震えていたが、乱暴に書かれたものではなかった。
頁の下には、さらに一文が記されていた。
危険性の説明を受け、本人の意思により参加を希望する。
アレンは、震える署名から目を離せなかった。
そのとき、処置室の奥で小さな音が鳴る。
かちり。
同時に、右手の甲から焼けるような反応が意識へ突き刺さった。
「全員、下がれ!」
叫ぶと同時に、壁の一部が黒い光を放った。
ディアナが杖を振る。
杖先から幾重もの封止線が走り、白い膜が四人の身体へ密着するように閉じた。外から迫る異常反応だけを弾く個別結界だ。
白い膜が閉じた直後、壁に埋め込まれていた細い金属板に亀裂が走り、その隙間から黒い波が室内へ溢れ出した。
音も風もない。それでも、黒い波が触れた場所から、床の術式が次々と起動していく。
五台の寝台をつなぐ線が紫色に発光し、革帯が生き物のように跳ね上がった。
「アレン、刻印を使わないで!」
マナの声が飛ぶ。
「分かってる!」
アレンは左手で右手首を押さえながら、後退した。
刻印が反応し、今すぐ雷を流せと、身体の奥から衝動が突き上げてくる。
右手を動かせ。剣を握れ。目の前の術式を破壊しろ。
だが、アレンは従わなかった。
「ドレイヴ、中央の術式を断て! ディアナ、出口を守ってくれ!」
「任せろ!」
ドレイヴが大剣を抜き、術式円の外周に叩きつける。
火の魔装を纏った刃が床を砕き、五台の寝台へ伸びていた術式の線を二本切断した。
紫色の光が大きく揺らぐ。
「右側が残ってる!」
マナが杖を構え、自身の前に水の膜を広げた。
「水よ、針となり、術式を穿て――ヴァッサーナーデル!」
無数の水針が床に突き刺さり、術式を描く細い溝を穿った。紫色の光が乱れ、寝台へ向かっていた魔力の流れが鈍る。
ディアナは出口を覆うように封止符を放った。
「外周封止、閉鎖!」
白い線が扉の周囲を走り、処置室を隔離する。
アレンは動かない右手を胸元へ抱えたまま、術式全体を見渡した。
中央の術式を断っても、光は消えていない。寝台の下を通り、壁の向こうへ続く別の経路がある。
「床じゃない!」
アレンが叫んだ。
「術式の起点は壁の中だ! 黒い波が出た金属板、その奥にある!」
ドレイヴが振り返った。
だが、壁までは五歩ある。その間には黒い波と紫の線が激しく絡み合い、触れた石を焼いていた。
「……俺が行く」
「だめ。一人では行かせない!」
マナの声が重なる。
アレンは左手で腰の剣を抜き、切っ先で壁へ続く床の溝を示した。
「マナ、この溝に水を通せ!」
「え……?」
「細くていい! 一本、道を作ってくれ!」
マナはすぐに意図を理解し、杖を振って水壁の一部を細い流れへ変えた。
水は床の溝を伝い、黒い波の下を潜り抜けた。やがて金属板の下端まで達し、その隙間の手前で細く揺れた。
「ドレイヴ、水を熱しろ!」
ドレイヴは大剣に炎を纏わせ、床の溝を走る水に沿って刃を滑らせた。水は白い湯気を上げながら熱を帯びていく。
「マナ、そのまま壁の中へ押し込め!」
マナが水流を強める。熱せられた水が金属板の隙間から壁内へ流れ込み、逃げ場のない狭い空間で一気に蒸気へ変わった。
膨張した蒸気の圧力が、金属板を留め具ごと外側へ弾き飛ばした。
「ディアナ!」
「見えてる!」
露出した黒い結晶にディアナの封止符が突き刺さり、白い光が幾重にもその表面を縛り上げた。
黒い波は停止し、床を走っていた紫色の線も一つずつ消えていく。
やがて黒い結晶の表面に深い亀裂が走り、処置室へ静寂が戻った。
アレンは荒くなった呼吸を整えながら、左手を剣の柄から離した。
「……止まった?」
マナが確かめるように尋ねた。
「ああ。右手から伝わっていた反応も、もう消えてる」
マナは測定結晶へ目を落とし、反応が消えていることを確かめてから、ようやく息を吐いた。
ドレイヴが大剣を肩に担ぐ。
「ったく、最初から壁ごとぶっ壊してりゃ早かっただろ」
「中の結晶まで砕いて、黒い反応を撒き散らしたらどうするつもりだったんだ」
「……二人とも」
ディアナの低い声が、言い争いを遮った。
彼女は砕けた壁の奥へ手を伸ばし、黒い結晶が収められていた金属箱から、一枚の薄い板を取り出していた。その表面には、複雑な古代文字が焼きつけられている。
「これ……アルカナリウム遺跡で見たものに似てる」
アレンが目を凝らして言った。
「ええ。おそらく、複製された古代記録の一部ね」
「帝国が持ち去った記録なのか?」
「そこまでは断定できないわ。ただ……偶然、同じものがここに残っていたとは考えにくい」
金属板の隅には、小さな紋様が刻まれていた。
瞳を模した黒い円環から、枝のような線が伸びている。
黒い結晶と古代記録をアルカナリウムから持ち去った、半面の仮面の男。
その姿が、アレンの脳裏に浮かんだ。
「……ギデオンが関わってるのか」
名を口にした瞬間、応えるように黒い結晶が震えた。亀裂の奥に残っていた最後の欠片が砕け、その下から折り畳まれた紙が現れた。
ディアナが慎重に開くと、そこには短い一文が書かれていた。
――次の結果は、東部旧水路第七区画にて観測する。
そして、その下には五人の名前が並び、最上段にユリスの名があった。
「次の場所まで、ずいぶん親切に書いてあるな」
ドレイヴが低く吐き捨てる。
ディアナは答えず、紙と砕けた結晶を見比べた。
「置き忘れたんじゃないわ」
その声は硬かった。
「私たちに読ませるために残したのよ。次の場所へ来るかどうかも含めて、観測するつもりなんだわ」
◇
その頃、東部旧水路第七区画の地下深くで、規則正しい金属音が鳴っていた。
ユリスは硬い椅子に座り、両腕を革帯で固定されている。
「予定より遅くなったが、最後にもう一度だけ確認しよう」
白衣をまとった男――エドガーが、ユリスの前に立った。
柔らかな声とは裏腹に、その目には深い疲れが滲んでいる。彼の背後では、黒い結晶と薄い金属板が低い振動音を響かせていた。
「この施術には危険がある。魔力回路の損傷が今より深くなる可能性もある。二度と魔法を扱えなくなるかもしれない」
エドガーは一度言葉を切り、ユリスを見つめた。
「最悪の場合は……命を落とす」
「聞いています」
「誰かに命じられて、ここにいるわけではないね?」
「違います。自分で決めました」
「家族に相談する時間も与えた」
ユリスの喉が、わずかに動いた。
「……はい」
「そのうえで、それでも施術を受けると決めた。間違いないね?」
ユリスは目を閉じ、妹が両手で抱えていた火入れを思い浮かべた。
妹には、すぐ戻ると言った。話せば必ず止められると思い、嘘をついたのだ。
止められれば、自分はきっと安心してしまう。魔法を使えないままでも仕方がないと、自分へ言い聞かせてしまう。
それが怖かった。
「俺が、自分で決めました」
ユリスは顔を上げ、エドガーをまっすぐ見た。
「一度でいい。自分の意思で、消えない火を灯せるようになりたいんです」
エドガーはしばらくその目を見つめたあと、静かに頷いた。
「……分かった。君の選択を尊重しよう」
男が装置へ手を伸ばすと、黒い結晶が脈打った。
一度、二度。
三度目の振動とともに、冷たい何かがユリスの腕へ流れ込み、激痛が全身を貫いた。
革帯が軋み、喉の奥から声にならない息が漏れる。
それでもユリスは、妹が火入れを抱く姿を脳裏に留めたまま痛みに耐えた。
「手を開いて」
エドガーの声が聞こえるなか、ユリスは震える掌を開き、身体の奥の魔力回路へ意識を集中させた。
応えろ。
今まで何度命じても、まともには応えなかった魔力回路が、焼けるように脈打ち、掌が熱を帯びていく。
やがて指先に赤い光が集まり、小さな火花が生まれた。
火花は消えることなく、ゆっくりと炎へ育っていった。
「……灯った」
ユリスの目から、涙がこぼれた。
火花ではなく、初めて自分の意思で保ち続けられた炎。その光が、革帯に縛られた腕と、震える掌を赤く照らしていた。
「本当に……俺の火が……」
ユリスは笑った。
だが、その炎の中心には、赤とは異なる黒い点が浮かんでいた。黒い点は脈打つたびに大きくなり、炎の内側から光を食らっていく。
同時に、部屋の奥から呻き声が上がった。それも、一つではない。
暗闇の中には同じ椅子が四脚並び、そこに固定された者たちの身体を、黒い線が這い始めていた。
「エドガー先生……?」
ユリスが呼びかけたが、男は答えず、ただ測定板に現れる波形を食い入るように見つめていた。
その間にも、ユリスの掌で黒い炎が大きく揺れる。
そして、閉ざされた地下室のさらに奥から、巨大な扉を引っ掻くような音が響き始めた。
一度。
二度。
ユリスの掌で、黒い炎が脈打った。




