第27話『動かない手、灯らない火』
ルミノヴァの北門が見えたとき、窓辺の風車は止まっていた。
ブランネリアを発ってから幾日もの間、破れた羽根は馬車へ吹き込む風を受け、不揃いながらも回り続けていた。雪原を越え、針葉樹の森を抜け、凍りついた街道を南へ下るあいだも、一度として完全に止まることはなかった。
だが、首都を囲む白い外壁の下には風がない。
幌の窓辺に結びつけられた風車は、汚れた羽根を重ねたまま、眠るように動きを失っていた。
「着いたよ」
向かいに座っていたマナが、窓の外へ顔を向けた。
外壁の上では連邦兵が警戒に立ち、北門の前には検問を待つ荷馬車が列を作っている。行商人の呼び声、馬のいななき、車輪が石畳を踏む音。ブランネリアの雪に閉ざされた静けさとは異なる、途切れることのない都市のざわめきが幌越しに聞こえてきた。
「やっとか」
ドレイヴは両腕を頭上へ伸ばし、固まった背中を鳴らした。
「……帰りは、行きよりずいぶん長く感じたな」
「それ、ドレイヴが二日目から食料を食べすぎたせいじゃない?」
「腹が減ってたんだ。仕方ねえだろ」
「仕方なくないよ。一日分を一食で食べたら、あとがもたないでしょ」
「でもよ……残したら悪いだろ」
二人の声を聞きながら、アレンは膝の上へ視線を落とした。
黒い手袋に覆われた右手は、掌を下へ向けたまま膝の上に置かれている。
車輪が石を踏むたび手首から先がずるりと滑る。そのたびにアレンは左手で持ち上げ、元の位置へ戻さなければならなかった。
もう、手首から先は自分の意思では動かない。
ブランネリアへ向かうときには、まだわずかな感覚が残っていた。曲がりきらなくとも、指へ力を込めれば、震えるほどの反応は返ってきた。
だが今は、それさえない。
目で見ていなければ、右手がどこにあるのかも分からない。手袋の内側で指が曲がっているのか、伸びているのか。それを知るには、左手で触れて確かめるしかなかった。
やがて検問を終えた馬車がゆっくりと動きだし、北門をくぐった先にルミノヴァの街並みが広がった。
幾重にも重なる白い石造りの建物に、空中回廊を渡る人々。壁面には青い導魔線が走り、魔法灯が等間隔に並んでいる。遠くでは魔法院の尖塔が雲を貫き、その手前に中央医療塔の丸い屋根が見えた。
帰ってきた。
そう思ったはずなのに、胸に浮かんだのは安堵ではなかった。
街は、ブランネリアへ発つ前と変わらない。けれど、自分はもう同じではない。
アレンが右手を見つめていると、不意に馬車の窓から弱い風が入り、止まっていた風車がかさりと一度だけ動いた。
けれど回りきることはなく、破れた羽根は半ばで止まった。
◇
「帰還の挨拶より先に、検査へ来たことだけは評価するわ」
ルミノヴァ中央医療塔の検査室で、ディアナ・グレイスは挨拶もそこそこにそう告げた。
淡い色の外套の上に研究用の白衣をまとい、片手には薄い水晶板、もう一方には魔力測定用の細い杖を持っている。久しぶりに顔を合わせたというのに、その灰色の瞳は挨拶より先にアレンの右腕へ向けられていた。
「ケイムには、まず軍務局へ報告しろって言われてるんだけどな」
「報告書は逃げないわ。でも、症状は待っている間にも進行する」
「……ほんと、相変わらずだな」
「あなたまで相変わらずなら、もう少し安心できたのだけれど」
ディアナは検査台へ目を向けた。
「アレンは座って。マナは記録をお願い。ドレイヴは……そこで待っていて」
「俺は何もしなくていいのかよ?」
「検査台を壊さない。それがあなたの仕事よ」
「待て。俺がいつ何を壊した」
「さっき入ってきたとき、扉に肩をぶつけていたでしょう」
「あれは扉のほうが狭えんだよ」
「一般規格よ、あれは」
ドレイヴが不満そうに壁際へ下がる。
マナは慣れた様子で帳面とブランネリアの治療師から預かった記録を机へ並べた。事故報告書、刻印訓練の測定値、筋肉への負荷、〈雷の糸〉を使った時間。そして、ハルヴァから預かったケイム宛ての封書も置かれている。
ディアナは書類の厚みを見て、わずかに眉を上げた。
「短い滞在だったはずだけれど……」
「そのつもりだったんだけどね。いろいろあって」
マナが苦笑まじりに答える。
「……その一言で片づけられる量ではなさそうね」
「うん。たぶん、片づけちゃ駄目だと思う」
「ええ。同感よ」
二人が頷き合う。
アレンは検査台へ腰を下ろすと、左手で右の袖口をまくり、手袋の留め具へ指を掛けた。だが、片手では外しにくく、そこで動きが止まる。
以前なら歯で引けば済ませていた。そうしようと手首を持ち上げたところで、マナが横から手を伸ばした。
「外すね」
「ああ。頼む」
留め具が解かれ、黒い手袋がゆっくりと引き抜かれていく。
途中で指先が布に引っかかり、不自然な方向へ曲がった。それでも右手には、引き戻そうとする反射さえ起こらなかった。マナは一本ずつ指を支え、傷つけないよう慎重に手袋を外した。
露わになった手の甲には、以前よりも色濃くなった青黒い雷の紋様が刻まれている。掌には療養院の事故で、自分の爪が食い込んだ半月状の痕が五つ薄く残っていた。
ディアナは何も言わずにアレンの右手を取り、手首を支えながら人差し指を持ち上げる。
その手を離した瞬間、指は力なく落ちた。
続いて中指、薬指、小指を確かめていくが、どれも同じだった。
「動かして」
静かな指示を受け、アレンは右手を見つめた。
拳を握るように意識を集中し、指へ命令を送りながら手首に力を込める。
それでも、何も起きなかった。
五本の指は開いたまま、検査台の上に置かれている。
「もう一度」
アレンは息を詰めた。
肩に力が入る。前腕の筋肉がわずかに張ったものの、その先は動かなかった。
ディアナの視線が、アレンの顔から右手へ戻る。
「……いつから?」
「ブランネリアに着いた次の朝だ」
「翌朝?」
「ああ。その前日に刻印を使う訓練をした。夜に発作が起きて、肩から先が動かなくなった」
アレンは右腕へ目を落とす。
「肩と肘は戻った。でも、手首から先は……まだだ」
「感覚は?」
「ない」
「痛みも感じないの?」
「普段はな。たぶん熱や氷の冷たさも分からない」
「……たぶん?」
「試したわけじゃない。だから断言はできない」
「なら、試さなくていいわ。絶対に」
ディアナは測定用の細い結晶針を取り出し、アレンの前腕へ当てた。
「前の検査では、薬指と小指の反応が特に弱かった。でも、親指から中指には神経反応が残っていたし、手首もわずかに動かせていたはずよ」
「……ああ」
「それが今は、手首から先の反応がほとんど消えている」
室内が静まり返る。
壁の中を流れる導魔線の低い音だけが、やけに大きく聞こえた。
ドレイヴは腕を組んだまま、険しい顔で検査台を見つめている。マナは唇を引き結び、ディアナの言葉を一字ずつ帳面へ書き込んでいた。
「右手が完全に動かなくなったことを、こちらへ事前に知らせた?」
「いや。ブランネリアの治療師とハルヴァには伝えたけど、右手が完全に動かなくなったことを、俺から直接知らせるのは今日が初めてだ」
「そう」
ディアナはそれ以上、何も言わなかった。
怒鳴られた方がまだ楽だったかもしれない。
ディアナは結晶針を置くと、マナの記録に目を通した。その指が〈雷の糸〉という記述の上で止まる。
「……これは?」
「刻印の雷を細く分けて、筋肉へ直接流す技術だ」
アレンは左手で自分の右前腕を示した。
「神経から命令が届かなくても、雷で筋肉を動かせる。指ごとに流れを分ければ……剣も握れる」
ディアナが顔を上げる。
「剣を握ったの?」
「一度だけだ。療養院の事故では、制御盤を動かすのにも使った」
「それで、右手が使えるようになったと思っているのね」
「そんなことは言ってない。雷を流してる間だけ動かせるって話だ」
「同じことよ。少なくとも、あなたの中ではね」
「考えてない」
「だったら、どうして最初に手が動かないと言わなかったの?」
ディアナは記録から目を上げずに続けた。
「動かせる方法のほうから先に説明したでしょう」
アレンは口を閉ざした。
答えは分かっている。動かないと認めるよりも、動かす方法があると言うほうが楽だったのだ。
失ったものを示すより、まだ残っている力を見せたかった。
ディアナはしばらくアレンの沈黙を待ち、それから右手を検査台へ戻した。
「検査を続ける前に、一つ確認するわ」
ディアナはアレンの右手へ視線を落とした。
「私は、今ここで〈雷の糸〉を使うべきではないと考えている」
マナの筆が止まった。
「……ディアナ」
「でも、この先は私がいない場所でも、自分で判断しなければならないでしょう」
ディアナは記録から目を上げ、正面からアレンを見た。
「アレン。あなたはどうする?」
アレンは、動かない右手へ目を落とした。
ほんの少し雷を流せば、人差し指くらいは動かせる。うまくいけば、五本すべてを閉じることもできるかもしれない。それは、ブランネリアで何度も繰り返し、ようやく覚えた動きだった。
ディアナに見せれば、ただ悪化して帰ってきたわけではないと証明できる。
失っただけではないのだと。
右手の甲の奥で、刻印がかすかに熱を持ったような気がした。
アレンはすぐにマナを見る。
「今、右手が少し熱くなった」
マナは測定具を右腕へ近づける。
「出力は上がってない。心拍が少し速くなってるだけ」
「そうか」
アレンは一度、静かに息を吐いた。
右手を動かしたいという思いはある。だが、この検査の目的は、動かせるところを見せることではない。
今の身体がどこまで壊れているのかを確かめるためのものだ。
「使わない」
アレンは答えた。
「雷を流したら、本当の反応が分からなくなる」
マナの肩から、わずかに力が抜けた。
ドレイヴは何も言わなかったが、組んでいた腕を解く。
ディアナだけは表情を変えず、静かに頷いた。
「正しい判断よ」
彼女は測定用の結晶を、アレンの手の甲へかざした。
「動いているのは手ではないわ。雷が筋肉を引いているだけよ」
その言葉に、アレンはハルヴァの風を思い出した。
呼吸も、指も、全身さえも、自らの風で動かし続けている男。だがハルヴァは、その事実から目を逸らしてはいなかった。
動かせることを、治ったことだとは一度も言わなかった。
「分かってる」
アレンは動かない右手を見つめたまま答えた。
「いや……分かってるつもりだった」
ディアナは結晶へ浮かぶ光を読み取っていく。
「治る可能性まで否定しているわけじゃない。ただ……動かせることと、治っていることを混同したら、本当に壊れている場所を見失うわ」
「……ああ」
「だから、この検査では〈雷の糸〉は使わない。今の手を、そのまま調べる」
「分かった。頼む」
アレンは右手を検査台の上へ置いた。
隠さず、動かさず、力を加えることもなく。
ディアナはアレンの右手へ観測結晶を当て、刻印周辺に残る反応の一部を結晶内部へ写し取った。
そのとき、廊下で足音が止まったことには、誰も気づかなかった。
半開きの検査室の扉の向こうから、痩せた青年が一瞬だけこちらを覗いていた。両手は空の車椅子の取っ手に掛けられている。
青年はアレンの動かない手と、その甲に刻まれた紋様をじっと見つめていた。だが、廊下の奥から治療師に名前を呼ばれると、何も言わず車椅子を押して歩き去った。
◇
検査が終わったのは、窓の外が夕暮れに染まり始めた頃だった。
ディアナは測定記録を机の上へ重ねると、アレンの右手から採取して封入した残留魔力の変化を一晩記録するため、透明な観測結晶を水晶板へ接続したまま検査台の脇に残した。
「刻印そのものの出力は、今のところ安定しているわ」
「……今のところ、か」
「安心させるために、事実を曲げるつもりはないもの」
「それは知ってる」
「右手の麻痺は、ブランネリアへ発つ前より明らかに進んでいる。それに、〈雷の糸〉で筋肉を傷めた痕もあるわ」
ディアナは、担当治療師が残した所見へ目を落とした。
「治療師の判断も同じよ。しばらく、反復訓練は禁止」
「しばらくって……どれくらいだ?」
「少なくとも、担当治療師と私が再開しても問題ないと判断するまで」
「一番信用できない答えだな」
「あなたの言う、少しだけよりはずっと明確よ」
ディアナはマナへ視線を移した。
「夜の発光、耳鳴り、それから手首より上へ広がる痺れ。どれか一つでも出たらすぐに知らせて」
「うん。分かった」
「ドレイヴ」
「何だ?」
「本人が大丈夫だと言っても、ここへ連れてきて」
「任せろ」
「……おい」
「何だよ。役目を決めただけだろ」
「俺の意思はどうなるんだ?」
「信用を使い切った奴に、まだ残ってると思うか?」
「いつ使い切ったんだよ」
「数えきれねえくらい前だ」
三人のやり取りを聞きながら、ディアナは机の端に置かれていた黒い手袋をアレンへ差し出した。
「自分ではめられる?」
「……時間をかければ」
「なら、時間をかけてやってみて。これからも必要になる動作でしょう」
突き放すような言い方だったが、手袋はアレンが左手で取りやすい向きに置かれていた。
アレンは左手で手袋を広げ、右手の親指を布の中へ入れる。続いて人差し指、中指と収めていったが、薬指は途中で折れ曲がっていた。
感覚がないため、アレン自身はそれに気づかない。マナが手を伸ばしかける。
アレンは一度だけディアナを見てから、左手で右手の薬指の位置を確かめ、ゆっくりと伸ばした。
「……できそう?」
「ああ。たぶん」
時間はかかった。
最後に留め具を締めると、アレンは右手を持ち上げる。もっとも、支えているのは左手だった。
「……終わった」
「それなら今日はもう休んで。明日の朝、もう一度検査するわ」
「またここまで来るのか?」
「泊まっていってもいいのよ」
「……そうする」
即答すると、ディアナは小さく頷いた。
検査室を出たところで、ドレイヴが大きな欠伸をした。
「……腹減ったな」
「馬車を降りてから、それしか言ってないだろ」
「検査中は黙ってたじゃねえか」
「でも、途中で二回鳴ってたよ。お腹」
マナがさらりと言う。
「あれは俺じゃねえ」
「部屋には四人しかいなかったけど?」
「検査具の音だ」
「そんな音のする検査具はないわ」
背後からディアナの声が飛んできた。
ドレイヴは振り返らないまま足を速める。
「……逃げたね」
「腹が減って、先を急いでるだけだ」
アレンは二人の後を追おうとした。
歩き出した拍子に、きちんと締めたつもりだった右手の留め具が緩んだ。
黒い手袋が、力の入らない指先から滑り落ちる。
アレンは反射的に右手を伸ばそうとする。
肩は動き、肘も曲がった。だが、手首から先は垂れ下がったままで、落ちていく手袋を掴むことができない。
黒い布が床に触れる寸前、横から伸びた手がそれを受け止めた。
「落としましたよ」
手袋を拾ったのは、壁際に空の車椅子を止めていたアレンと同じくらいの年頃の青年だった。
色褪せた上着の袖を何度も縫い直しており、手の甲には細かな傷がいくつも走っている。荷運びの仕事でもしているのか、指の節は硬く、爪の間には落としきれない黒い汚れが残っていた。
「ありがとう」
アレンが左手を差し出すと、青年は一瞬、その手を見つめた。
それから、力なく垂れた右手へ視線を落とす。
「あ……すみません」
「何が?」
「いや、その……手が……」
「気にするな。見れば分かることだ」
アレンは左手で手袋を受け取った。
青年は何か言おうと唇を動かしたが、その前に廊下の奥から少女の声が届く。
「お兄ちゃん」
治療師に付き添われ、小柄な少女がこちらへ歩いてきた。
年齢は十二歳ほどだろう。淡い茶色の髪を肩のあたりで切り揃え、医療塔の患者用外套を羽織っている。顔色は青白く、歩幅も小さい。それでも治療師の腕には掴まらず、自分の足で一歩ずつ進んでいた。
青年はすぐに少女のもとへ駆け寄った。
「リエナ。歩いて大丈夫なのか?」
「大丈夫だから、こうして歩いてるの」
「無理するなって。車椅子を――」
「ずっと座ってたら、帰る頃には足が動かなくなるって、先生に言われたの」
リエナはそこで一度息を整え、兄の顔を見上げた。
「それに……お兄ちゃんのほうが疲れてるでしょ」
「俺は平気だよ」
「朝から仕事して、そのまま来たのに?」
「今日は荷物も少なかったし、大したことない」
「……嘘。袖、破れてるよ」
青年は反射的に肘を隠した。
上着の袖には新しい裂け目があり、その下から擦り傷が覗いている。
リエナは呆れたように息を吐くと、そこで初めてアレンたちへ顔を向けた。
「すみません。兄が何かしましたか?」
「いや、手袋を拾ってもらっただけだ」
アレンが答えると、リエナはほっとしたように小さく頭を下げた。
「それならよかった。兄は慌てると周りが見えなくなるから」
「今日は何もしてないだろ」
「手袋を拾ったのは、いいことだよ」
リエナの表情が少しだけ柔らかくなり、ユリスは困ったように眉を下げた。
少なくとも、兄をからかうだけの余裕は残っているらしい。
「ユリスさん」
付き添ってきた治療師が、青年へ薬の包みを渡す。
「次回の治療日は、こちらに記載しています。今夜は熱が出る可能性がありますから、できるだけ安静に」
「分かりました。ありがとうございます」
ユリスと呼ばれた青年は、薬を受け取ると深く頭を下げた。
治療師が立ち去ると、リエナは薬の包みをそっと覗き込んだ。
「……また増えたの?」
「一つだけだよ」
「いくらした?」
「お前が気にすることじゃない」
「それ、答えになってないよ」
「帰ったら話す」
「帰ったら、どうせもう寝ろって言うでしょ」
「……今日は言わない」
「じゃあ、約束」
リエナが小指を差し出す。
ユリスは一瞬、困ったように笑った。それから自分の小指をそっと絡める。
「ああ。約束する」
その仕草を見ていたアレンは、無意識に自分の右手へ目を落とした。
この小指では、もう誰かの指に絡めることもできない。左手ならできると分かっているのに、胸の奥に小さな空洞が生まれたような感覚だけは、消えてくれなかった。
◇
中央医療塔の待合室は、日が落ちるにつれて人影がまばらになっていった。
急患用の受付には治療師が残っているものの、一般診療を終えた区画では、魔法灯が次々と消されていく。
戻ってきたマナに右手の手袋をはめ直してもらったあと、検査が長引いたため、ディアナから軍務局へ簡易報告が送られ、正式な帰還報告は翌朝へ延期されていた。
アレンたちは医療塔を出る前に、食堂で遅い食事を取ることになった。だが、ドレイヴが「先に席を取ってくる」と食堂へ向かい、マナも注文を確認すると言って後を追ったため、廊下にはアレンだけが残された。
ドレイヴが席の心配をするような男ではない。おそらく二人なりに、検査を終えたアレンを少しだけ一人にしてくれたのだろう。
アレンが窓際の長椅子へ腰を下ろしたとき、少し離れた場所から乾いた音が聞こえた。
ぱちっ、と小さな火花が弾ける。
顔を向けると、先ほどのユリスが壁際の魔法灯へ手を伸ばしていた。
リエナは長椅子で眠っている。治療の疲れが出たのだろう。兄の上着を肩へ掛けられ、規則正しい寝息を立てていたが、その頭上にある魔法灯だけが消えていた。
周囲の灯りはすでに半分ほど落とされ、窓の外も暗い。明るい長椅子へ移ろうにも、ようやく眠ったリエナを起こしたくないのだろう。このままでは薬の説明書を読むことさえ難しかった。
ユリスは魔法灯の起動板に指を触れ、もう一度、魔力を集めようとした。
指先に赤い光が生まれたものの、火になる前に揺らぎ、煙のように消えていく。
再び、ぱちっと火花が散った。
三度目には一瞬だけ橙色の炎が灯ったが、起動板の術式を起こす前に消えてしまった。
「故障か?」
アレンが声をかけると、ユリスはびくりと肩を跳ねさせた。
「いえ……たぶん、灯具のほうは正常です」
「だったら、受付に頼めば点けてもらえるだろ」
「もう一般受付は閉まっていますし……この程度のことで呼ぶのも、少し」
ユリスは言葉を濁すと、もう一度起動板へ手を伸ばした。
「火属性なのか?」
「……一応は」
「一応?」
「学校の検査では、そう判定されました」
ユリスは自嘲するように、わずかに笑う。
「でも、実際に火を灯せたことはほとんどありません。魔力を集めても……術式に流し込む前に、散ってしまうんです」
ユリスの指先に再び弱い赤色の光が集まる。
だが今度は、火花さえ生まれなかった。握りしめた拳だけが、かすかに震えている。
アレンは長椅子から立ち上がり、魔法灯の前まで歩いた。
「少し離れてくれ」
ユリスが身を引くのを待ち、アレンは左手の人差し指を起動板へ近づける。
起動板は属性にかかわらず一定量の魔力が流れれば作動する。攻撃用の魔法を組む必要はない。
アレンは刻印には触れず、空気中の魔力をわずかに集め、点灯に必要な最低限の術式へ流し込んだ。
指先で青白い火花が弾け、細い雷が起動板の溝を走って灯具の内部へ入り込む。
低い音とともに魔法灯が明滅し、やがて淡い黄色の光が広がる。
リエナの眠る顔が、柔らかな明かりに照らされた。
「すごい……」
ユリスは、灯った魔法灯を見上げた。
「小さな雷を流しただけだ。灯具が壊れてないなら、きっかけさえあれば点く」
「でも、そのきっかけを作れるだけで十分すごいですよ」
その言葉に、アレンはわずかに目を伏せ左手を下ろした。
「……俺だって、昔はよく失敗した」
「でも、今はできるじゃないですか」
「今だって失敗する」
「それでも……火を灯すくらいは、できるでしょう」
ユリスの口調には羨望よりも、確かめるような響きがあった。
アレンが答えずにいると、ユリスの視線が黒い手袋へ移る。
「その手……さっき、検査室で見えました」
やはり、扉の外にいたのは彼だったらしい。
「盗み見るつもりはなかったんです。妹の診察を待っていたら、声が聞こえて……」
「別に責めてないよ」
「刻印、ですよね」
アレンの右手の甲は手袋に隠れている。
それでも紋様を見た者なら、何が刻まれていたのか察することはできる。
「ああ」
否定はしなかった。
ユリスは一歩だけ近づいた。
「刻印があれば……動かない手も動かせるんですか?」
その問いを聞いた瞬間、アレンは検査室でディアナに問われたことを思い出した。
なぜ、手が動かないことより先に、動かす方法を説明したのか。
ユリスが見ているのは、アレンの右手ではない。そこに残された、手を動かす力だ。
少なくとも、ユリスが刻印を恐れているようには見えなかった。
その目には、ただ自分にはない力を見つめる、渇きにも似た光が宿っていた。
アレンは答えを選びかけて、やめた。
うまく説明する必要はない。ただ、事実だけを言えばいい。
「刻印だけの力じゃないけど、動かせることはある」
アレンは右腕を左手で支え、胸の前へ持ち上げた。
黒い手袋に覆われた指は力なく垂れている。
「刻印の雷を筋肉へ流せば、指を曲げることも、物を握ることもできる。けど……それは、治ったってことじゃない」
「それでも、動くんですよね」
「雷を止めたら、また動かなくなる」
「でも、流している間は使える」
「使い続ければ、筋肉そのものが壊れる。痛みも分からないから、限界を越えても気づけないんだ」
「……それでも」
ユリスの声が、わずかに強くなった。
眠っているリエナが小さく身じろぎし、彼はすぐに声を落とす。
「それでも……動かせるなら、十分です」
アレンは何も返せなかった。
自分も、同じことを考えたからだ。
手が動かなくなった朝、ハルヴァから方法を示されたとき、治らなくても構わないと思った。
剣を握れるなら。誰かを守れるなら。
動かないままでいるより、ずっといい。
あのときのアレンも、そう思っていた。
「十分かどうかは」
アレンは右手を見つめながら言った。
「動かしたあとに、何を失うかで変わる」
「何もできないまま失うよりは……ましです」
ユリスの答えは早かった。
その言葉の奥にあるものを、アレンは見落としたわけではない。
眠る妹。使えない生活魔法。何度も縫い直された服と、傷だらけの手。薬代を隠そうとする兄と、それを見抜いている妹。
「ユリス、だったな」
「はい」
「俺はアレンだ」
「知ってます。さっき、検査室で名前を聞いたので」
「なら、軍の刻印者が言ってたって覚えておいてくれ」
アレンは、力なく垂れた右腕を下ろした。
「力があることと、誰かを助けられることは同じじゃない。動かせることと、治ることも……同じじゃないんだ」
ユリスは、魔法灯の光を見上げた。
「でも、それは……力を持ってる人だから言えるんじゃないですか」
静かな言葉だった。
責めるような響きはない。
だからこそ、アレンの胸へ深く突き刺さった。
「……そうかもしれないな」
否定する資格はないと思った。
望まず手に入れた力を恐れるアレンと、力を持たないことを恐れるユリスでは、同じ場所に立つことはできない。
ただ、どちらも自分にないものばかりを見つめているのかもしれなかった。
そのとき、長椅子から小さな咳が聞こえた。
ユリスはすぐにリエナの傍らへ戻ると、ずれた上着を掛け直した。その手つきは、驚くほど優しかった。
リエナが薄く目を開ける。
「……灯り、点いたの?」
「ああ」
「お兄ちゃんが?」
ユリスは答えなかった。
ほんの一瞬だけ、魔法灯を見上げる。
「アレンさんが点けてくれた」
「そう」
リエナは眠たげな目をアレンへ向けた。
「ありがとうございます」
「気にするな」
「でも、兄は気にします」
「リエナ」
「自分で点けられなかったって、帰ってからもずっと考えるから」
ユリスの表情がわずかに強張る。
リエナは責めるのではなく、確かめるように言葉を続けた。
「でも今日は、薬も受け取れたし、わたしもちゃんと歩けたよ」
リエナは兄の顔を覗き込んだ。
「だから、何もできなかった日じゃないでしょ?」
「……分かってる」
「本当に?」
「ああ。分かってるよ」
ユリスは少しだけ困ったように笑った。
けれど、その笑みは魔法灯の光の下でも、どこか暗く見えた。
◇
その夜、中央医療塔の検査室には誰もいなかった。
窓の外では都市の魔法灯が星のように連なり、遠くを走る導魔車の音が、厚い結界硝子を通してかすかに響いている。
検査台の周囲には、アレンの右手を調べた測定具が残されていた。神経反応を記録する水晶板、刻印の出力を測る結晶針。そして、検査台の脇に置かれた透明な観測結晶。
どの器具も沈黙していた。
青い導魔線が一定の明るさで壁を走り、室内の魔法灯が弱く明滅する。
そのとき、透明だった観測結晶の中心に、針の先ほどの黒い点が生まれた。
点はゆっくりと膨らみ、一度だけどくんと脈打った。
観測結晶と連動する水晶板の上を、黒い波形が走る。
その波形は、これまで記録されていた雷鳴の刻印のものとは一致しなかった。
黒い線は何かを探すように細く伸びたものの、すぐに消えた。
検査室には再び静寂が戻った。
ただ、水晶板の端に刻まれた時刻だけが、黒い脈動が確かに存在したことを記録していた。
◇
水晶板に黒い脈動が記録されたのとほぼ同じ時刻。
ルミノヴァ下層区の狭い部屋で、ユリスは扉の下から差し込まれていた封書を見つめていた。
部屋にある寝台は一つだけで、今夜もそこにはリエナを寝かせていた。壁際には、ユリスが普段使っている薄い毛布が敷かれている。小さな机の上には、今夜受け取った薬と、支払いを待つ治療費の明細が積まれていた。
魔法灯はなく油を節約するため、机の上には短くなった蝋燭が一本だけ灯されている。
ユリスは封書の表裏を確かめた。封書の表面には自分の名前と、数か月前に生活魔法障害の相談窓口へ提出した検査番号が記されていた。
書類の末尾には、参加を希望する場合、同封の案内札に記された場所へ、今夜の夜半前に来るよう指定されていた。
参加同意書は複写式になっており、署名した原本を持参し、控えを手元に残すよう記されている。
封を切ると、中から数枚の書類が滑り落ちた。
魔力回路障害に対する新治療。
通常の治癒術式では改善が見られなかった者を対象とする臨床研究で、事前検査費用も治療費も不要。治療によって、失われた身体機能や魔力運用能力が一時的に改善する可能性があるという。
その下には、副作用の可能性が並んでいた。
記憶障害。神経損傷。魔力回路の不可逆的な変質。そして、死亡。
小さな文字が紙の下部に隙間なく記されている。
ユリスの指が止まった。
蝋燭の火が揺れ、文字の影が紙の上で歪む。
危険だということは、誰が読んでも分かる。それでもユリスの目は、治療によって得られる可能性の欄へ戻っていた。
安定した魔力収集。生活魔法の発動。損傷した神経の代替。筋力と反応速度の一時的向上。
今日、医療塔で見たアレンの右手が脳裏に浮かぶ。
動かない手と、それを動かす雷。
治ってはいない。使えばさらに壊れるかもしれない。
それでも、動く。
ユリスは自分の掌を上へ向け、魔力を集めようと意識した。
指先に赤い光が生まれたものの、火になる前に消える。
何度繰り返しても同じだった。
魔法を習い始めた頃から……ずっと。
背後でリエナが小さく咳をし、ユリスは慌てて振り返った。
リエナは眠ったまま、胸元の毛布を握っている。今夜は熱が出るかもしれないと、治療師は言っていた。
ユリスは寝台へ歩み寄り、妹の額に触れる。
まだ熱は高くはないし薬もある。
だが、次の治療費は払えていない。明日の仕事も決まっておらず、今日傷めた腕では重い荷を運ぶ仕事を断られるかもしれなかった。
リエナの寝顔を見つめる。
――だから、何もできなかった日じゃないでしょ?
そう言ってくれた。その言葉を信じたい。
だが、妹がそう言わなければならないこと自体が、ユリスには耐えられなかった。
彼は机へ戻った。
書類の一番上には、ほかより大きな文字で一文だけ記されている。
――選ばれなかった者へ、もう一つの可能性を。
その下には、署名欄が空白のまま残された参加同意書があった。
ユリスは蝋燭の傍らに置かれたペンを取り、一度だけ指を止める。
書類には、参加を断ることもできると記されていた。
ユリスは眠るリエナを見る。
断れば明日も同じ手で仕事を探し、同じように妹に大丈夫だと嘘をつく。それだけは、はっきりと想像できた。
「少しだけでいい」
自分自身へ言い聞かせるように呟く。
「火が灯せれば、それでいい」
ペン先が紙に触れ、ユリスは一文字ずつ、自分の名前を書いていく。
ユリス・フェーン。
最後の線を引き終えた瞬間、蝋燭の火が大きく揺れた。
まるで暗闇の向こうで、何かがその選択を見届けたかのように。
やがて、蝋燭の火は消えた。
暗くなった部屋では、窓の外に並ぶ街路の魔法灯から青白い光が差し込み、署名済みの同意書だけを浮かび上がらせていた。




