第26話『帰るための約束』
ハルヴァの部屋を出たあと、三人は客室へ戻らず、そのまま療養院の中庭へ向かった。
修復作業はまだ続いていたものの、中央棟から離れた中庭には、石材を運ぶ荷車の軋みと金槌の音が遠くかすかに届いている。
降り続いていた雪は、いつの間にか止んでいた。厚い雲の切れ間から差し込む夕日が、積もった雪を淡い橙色に染めている。
中庭の中央には、葉を落とした一本の木が立っていた。風が吹くたびに枝が揺れ、積もった雪が白い粉となって静かに舞い落ちていく。
三人は、その木の下に置かれた長椅子へ腰を下ろした。
アレンは外套の内側から、昨日救助した少女から受け取った紙の風車を取り出す。
羽根の一枚は途中から破れ、青い紙には血と灰が残っている。それでも弱い風を受けると、風車はぎこちなく回った。
「それ、持ってきたんだ」
マナが、アレンの手元を見た。
「ああ。俺たち三人でもらったものだからな」
「だったら、お前一人で持ってるなよ」
隣に座ったドレイヴが、紙の風車を覗き込む。
「なくしたら、俺まで怒られるだろ」
「じゃあ、お前が持つか?」
ドレイヴは一瞬だけ風車を見つめ、すぐに首を振った。
「……やめとく。俺が持ったら壊す」
「そこは自覚してるんだな」
「少なくとも、お前よりはな」
アレンが左手で風車を長椅子の背へ立てかけると、破れた羽根がかさりと音を立てて回った。
その様子を見届けたマナは、鞄から帳面を取り出す。
「最後に、ひとつだけ決めておきたいことがあるの」
「……また症状の確認か?」
「ううん。ルミノヴァへ戻ってからのこと」
マナは帳面の新しい頁を開き、筆を構えた。
「刻印を使うときの約束を、今度こそちゃんと書いておきたいの」
「約束なら、もう何度もしただろ」
「そのたびに破りかけてるから、書くんだよ」
「破ってはいない」
「じゃあ、一人で使おうと考えたことは?」
アレンは答えかけて、言葉を止めた。
「……考えただけだ」
「アレンの場合、考えた時点で半分くらい始めてるからね」
「ああ。俺もそう思う」
ドレイヴが迷いなく頷いた。
「お前、どっちの味方なんだよ」
「まともな方だ」
「なら、今は俺の味方じゃないな」
「よく分かってるじゃねえか」
マナは二人の言い争いを聞き流しながら、頁の一番上へ大きく文字を書いた。
――帰るための約束。
「規則じゃないのか?」
アレンが帳面を覗き込みながら尋ねた。
「規則にすると、破ったときの罰まで決めなきゃいけないでしょ」
「罰なら、俺が殴る」
ドレイヴが間髪を入れずに答える。
「それ、お前が普段からやろうとしてることだろ」
「じゃあ、約束でいい」
マナはそう言って、筆をアレンへ差し出した。
「最初はアレンが書いて」
「……俺が?」
「アレンに守ってもらう約束なんだから」
アレンはわずかにためらったあと、左手で筆を受け取る。
文字を書くときも、食事と同じように左手を使うようになっていた。以前よりは慣れたものの、まだ思いどおりの場所へ筆先を運べず、引かれた線はわずかに震える。
アレンは何を書くべきか考えながら、最初の一行をゆっくりと記した。
一、異変を隠さない。
「異変って、具体的にはどこまで?」
マナが間を置かずに尋ねた。
「痺れ、耳鳴り、視界の異常。それと……刻印が熱くなったときだ」
「黒い扉と、あの声も入れて」
「ああ」
アレンは一行目の下へ、小さな文字で書き加えた。
痺れ、耳鳴り、視界の異常、黒い扉と声を含む。
「……ずいぶん長くなったな」
「曖昧にしたら、お前が都合よく除外するだろ」
ドレイヴが呆れたように言う。
「耳鳴りくらいは異変じゃないとか、少し熱いだけだとか、また言い出すに決まってる」
「もう言わない」
アレンはそれ以上の反論を諦めた。
二行目を書く。
二、一人では刻印を使わない。
「命の危険があるときは?」
アレンが自分で書いた文字を見ながら尋ねると、マナはわずかに目を細めた。
「……もう抜け道を探してる」
「確認しただけだ」
「一人で使わなきゃ助からない状況を、最初から作らないの」
「それでも、急に襲われることはあるだろ」
「そういうときは、生き残るために使え」
ドレイヴが口を挟んだ。
「ただし、俺たちと合流したあとまで、一人で背負い続けるな」
アレンは少し考えてから、二行目の下へ言葉を書き足す。
一人で戦う状況を、当たり前にしない。
「……それならいい」
マナが頷いた。
三行目。
三、仲間に止めろと言われたら、理由を考える前に止める。
「俺が言っても、ちゃんと止まるのか?」
ドレイヴが念を押すように尋ねた。
「当たり前だろ。お前も仲間なんだから」
「いや、確認しただけだ」
筆を動かしながら、アレンは昨日の事故を思い返していた。
刻印がさらに強い力を求める中、マナから止めろと言われたとき、アレンはその理由を考えた。
まだ人が残っている。自分が動かなければ間に合わない。今なら、もっと大きな力を使える。
だが、そう考えている間にも、刻印は開き続けていた。
まず止まり、そのあとで別の方法を探す。その順番を、間違えてはならない。
「ただし」
アレンは筆を置かないまま、言葉を続けた。
「止めたあとは、何が起きてるのか教えてくれ。何も分からないまま、力だけ切るのは……たぶん難しい」
「分かった」
マナは迷わず頷いた。
「止めたあとで、わたしが全部説明する」
「先に言っとくけど、俺は説明できねえぞ」
「お前は顔を見て判断するんだろ」
「ああ。お前が平気なふりをしてるときは、見れば分かる」
「……俺、そんなに分かりやすいか?」
「分かりやすい」
二人の声がぴたりと重なった。
アレンは小さく息を吐くと、最後の一行へ筆を移した。だが、書き始める前に、その手が止まる。
「どうしたの?」
マナが手元を覗き込んだ。
「何て書けばいいのか、考えてる」
「何について?」
「……一人で残らないことだ」
それは、簡単に交わせる約束ではなかった。
誰かを助けるために、一人が残らなければならない状況もある。そこにいるすべての人間が、無事に帰れるとは限らない。
アレンは、そうした場所をすでに何度も見てきた。
「絶対に誰も犠牲にならない――そんなことを書いても、きっと守れない」
アレンがそう言うと、マナは否定せずに頷いた。
「……うん」
「俺が残るしかない状況だって、いつか来るかもしれない」
マナの表情が強張る。それでも、言葉を遮ることなく耳を傾けていた。
「でも……最初から自分を数に入れないのは、もうやめる」
アレンは筆を動かし、四つ目の約束を記した。
四、誰かを助けるとき、自分だけを数から外さない。
不慣れな左手で書かれた文字は、大きさも傾きも揃っていなかったが、アレンはそれを書き直さない。
「これなら……守れると思う」
マナは何も言わず、書かれた一行を見つめていた。
「俺が残れば済むなんて、最初から決めない。助ける人間の中に、ちゃんと俺も入れる」
「……途中で、やっぱり自分だけ残ろうって思ったら?」
「そのときは、二人が止めてくれ」
「止めても聞かなかったら?」
「殴る」
ドレイヴが即答した。
「……やっぱり、それしかないのか?」
「それが一番早い」
「刻印を使ってる俺に近づいたら、感電するぞ」
「その程度で、俺が止まると思うか?」
ドレイヴは当然のように言い切った。
アレンは何も返せなかった。
「筆、貸して」
マナはアレンから筆を受け取ると、四つの約束の下へ新たな一文を書き加えた。
――三人で帰る道を、最後まで諦めない。
それを見たドレイヴが、すぐに眉を寄せる。
「三人じゃ足りねえだろ」
ドレイヴは「三人」の上へ一本の線を引き、代わりに太く歪んだ字を書き加えた。
――全員で帰る道を、最後まで諦めない。
「これでいい」
「……お前の字、アレンよりひどいな」
「左手で書いた奴に言われたくねえ」
「俺には理由がある」
「俺にもある。字を書くのが苦手だ」
「それは理由になってないよ」
マナは呆れたように息を吐いたものの、書き直そうとはしなかった。
三人の字が混ざった頁は整っておらず、ところどころで文字が重なり、余白もほとんど残っていない。けれど、その不揃いな一頁は、誰か一人だけが決めた約束には見えなかった。
「名前も書こう」
マナが帳面を差し出すと、アレンは左手で自分の名前を書いた。
続いてマナが署名し、最後にドレイヴが大きな字で名を記した。
「これで、もう逃げられないよ」
マナは三人の名前を確かめながら言った。
「最初から逃げるつもりはない」
「今のアレンはそう思ってても、刻印を使ってるときのアレンは違うかもしれないでしょ」
「ああ。だから、こうして残しておくんだろ」
マナがわずかに目を見開く。
以前のアレンなら、信用されていないと反発していたかもしれない。だが、刻印を使っている最中の自分が、普段と同じ判断をできるとは限らない。
自分を信じ切らないことも、制御の一つだった。
「でも、勘違いしないでね」
マナは帳面を閉じず、そのまま膝の上へ置いた。
「わたしは、アレンが刻印を使うことに納得したわけじゃないから」
「分かってる」
「使うたびに、またどこかが動かなくなるかもしれない。次は、右手だけじゃ済まないかもしれないんだよ」
「ああ」
「いつか歩けなくなったり、喋れなくなったり……ハルヴァさんみたいに、自分で息をすることさえできなくなるかもしれない」
マナの声は震えていなかった。だが、帳面を押さえる指先には、わずかに力がこもっている。
「そんな力を使うことを、わたしは正しいなんて思えない」
「それでいい」
アレンが答えると、マナは顔を上げた。
「……いいの?」
「お前まで正しいと思ったら、俺を止める人間がいなくなるだろ」
アレンは感覚のない右手を見下ろす。
「俺が必要だと思っても、お前には危険に見えるかもしれない。そのときは、止めてくれ」
「止めるよ。何度だって」
「ああ。頼む」
「わたしは、ずっと見てるから」
「……ずっとか?」
「ずっと」
「重いな」
「嫌?」
マナは試すように尋ねた。
アレンはわずかに笑う。
「いや、嫌じゃない」
「先に言っとくが、俺は記録なんか取れねえからな」
ドレイヴは長椅子の背へ両腕を乗せた。
「飲まれたら殴る。動けなくなったら背負う。道がなければ作る。それで十分だろ」
「全部、力任せだな」
「その方が分かりやすいだろ」
「……否定はしない」
アレンは、長椅子の背に立てかけた紙の風車を見た。
弱い風を受け、破れた羽根がゆっくりと回っている。その風車を守ったのは、アレン一人ではなかった。
ドレイヴが道を作り、マナが限界を見極め、療養院の職員たちが梁を支えた。誰か一人でも欠けていれば、少女は助からなかったかもしれない。
「……ありがとう」
その言葉が自然と口からこぼれると、ドレイヴは露骨に顔をしかめた。
「急に気持ち悪いこと言うな」
「ただ礼を言っただけだろ」
「なら、もっと普通に言え」
「今のが普通だ」
「ドレイヴ、照れてるだけだよ」
「照れてねえ!」
その大声に驚いたのか、枝に積もっていた雪が一斉に落ちた。
三人の頭上へ白い粉が降りかかり、ドレイヴが慌てて立ち上がる。
「冷てえ!」
「お前が大声を出すからだろ」
「これも俺のせいかよ!」
マナが声を上げて笑うと、アレンも髪に積もった雪を左手で払いながら、笑みをこぼした。
雪に覆われた療養院の中で、三人の声だけが不思議なほど温かく響いていた。
◇
翌朝、ブランネリアを発つ馬車が、療養院の門前に停まっていた。
空は薄い灰色に覆われていたものの、雪は降っていない。凍てついた空気の中、御者が荷物を積み込みながら、二頭の馬の脚や蹄を確かめている。
中央棟では夜明け前から修復作業が再開され、割れた壁の前には足場が組まれていた。療養院の職員たちは、その周囲へ新しい導魔線を次々と運び込んでいる。
出発前の診察を終えたアレンは、玄関前の長椅子へ腰を下ろしていた。
「前腕の内出血は、昨日より薄くなっています」
アレンの右腕を確かめていたエルザが告げた。
「ですが、筋肉そのものが回復したわけではありません。少なくとも数日は、雷を流す訓練を控えてください」
「……数日ですか」
「そんなに不満そうな顔をしないで」
「してません」
「しています」
エルザが即座に返すと、隣に立っていたマナも頷いた。
「うん。してます」
「二人して決めつけるなよ」
「昨日、使わないことも制御の一つだと話していたでしょう」
エルザはアレンの手首に巻かれた封止環へ触れ、すべての術式が閉じていることを確かめた。
「休ませることも、これから身体を使っていくために必要な判断です」
「……分かっています」
「今の間は何ですか?」
「分かったうえで答えただけです」
エルザはわずかに目を細めたものの、それ以上は追及しなかった。
「ルミノヴァ中央医療塔へ渡す診療記録は、マナさんに預けてあります。封止環を調整するときも、必ず治療師か術式技師に立ち会ってもらってください」
「はい」
「それから――」
エルザはそこで一度言葉を切り、アレンの右手を見た。
「動かないからといって、その手をないもののように扱わないでください」
アレンも、感覚のない右手を見下ろす。
「昨日、ハルヴァさんにも似たようなことを言われました」
「なら、何度でも思い出してください」
「……分かりました」
エルザが診察を終えて離れると、アレンは膝の上へ黒い手袋を置き、親指から順に右手の指を布の中へ収めていった。
感覚がないため、指先が正しい位置へ入ったかどうかは、目で確かめるしかない。
親指、人差し指、中指。薬指までは、左手で手袋の口を広げながら収めることができた。
しかし、小指が途中で布に引っかかる。
アレンは左手で小指をつまもうとしたが、手袋に隠れて位置が分からない。何度か指先を探って押し込もうとするものの、小指は横へ折れ曲がり、うまく収まらなかった。
ルミノヴァを退院した朝にも、同じことがあった。あのときは誰かに見られていないかを確かめながら、一人で何度もやり直した。
動かない指を見られることが、何よりも怖かった。
アレンは左手を止めた。
すぐそばでは、マナが出発の荷物を確認している。ドレイヴも御者と話しながら、ときおりこちらを見ていた。
「マナ」
呼びかけると、彼女はすぐに振り返った。
「どうしたの?」
「……小指だけ、頼めるか」
マナは一瞬、何を頼まれたのか分からないように目を瞬かせた。やがて手袋の中で折れ曲がっている指に気づくと、アレンの前へ膝をつく。
「痛くない?」
「感覚がないから分からない。だから、無理に引っ張らないでくれ」
「分かった。ゆっくりやるね」
マナは手袋の布越しに小指の位置を確かめ、関節へ負担をかけないよう、慎重に指先を伸ばした。
「……これで入ったと思う」
アレンは左手で手袋の表面を押し、五本の指がそれぞれ正しい位置に収まっていることを確かめた。
「ああ。大丈夫だ」
アレンが手首の留め具を締めると、マナは何も言わずに立ち上がる。
「……何だよ」
「ううん。別に」
「言いたいことがあるなら言え」
「ただ……頼ってくれたんだなって思っただけ」
「手袋をはめるのを手伝ってもらっただけだろ」
「それでもだよ」
マナは小さく笑った。
「次も困ったら、ちゃんと言ってね」
「次は一人でできるかもしれない」
「できなかったら?」
「……そのときは、また頼む」
「うん」
短い返事だったが、それだけで十分だった。
「お前ら、もう終わったか?」
ドレイヴが二人のもとへ戻ってきた。
「荷物は全部積んだぞ。あとは、お前が乗るだけだ」
「俺の剣は?」
「先に入れといた」
「勝手に扱うなよ」
「右手で持てねえだろ」
「左手なら持てる」
「だったら、馬車から下ろすときは自分でやれ」
「言われなくてもそうする」
「喧嘩するなら、ルミノヴァに着いてからにして」
マナが二人の間へ入り、馬車へ向かおうとした、そのときだった。
「お兄ちゃんたち!」
療養院の玄関から小さな声が聞こえ、振り返ると、一人の女性職員に支えられながら、昨日救助した少女が立っていた。
片脚には厚い包帯が巻かれ、小さな杖へ体重を預けている。顔色はまだ青白かったものの、意識ははっきりしていた。
「もう歩いて大丈夫なのか?」
ドレイヴが少女の包帯を見ながら尋ねた。
「うん。少しだけなら」
少女は職員に支えられながら、三人の前までゆっくりと歩いてくる。
「今日、帰っちゃうの?」
「ああ。ルミノヴァへ戻る」
アレンが答えると、少女は少し残念そうに俯いた。
「……また来る?」
「できれば、治療を受けるためには来たくないな」
アレンの答えに、少女は意味が分からないように首を傾げる。
「でも、会いには来るよ」
マナが優しく言葉を添えた。
「そのときは、元気になったところを見せてね」
「うん」
少女は笑顔を浮かべると、ドレイヴ、マナ、アレンの順に見た。
「助けてくれて、ありがとう」
ドレイヴは照れたように視線を逸らす。
「別に。俺一人で助けたわけじゃねえしな」
「みんなで助けてくれたんでしょ?」
「ああ」
アレンは頷いた。
「みんなで助けたんだ」
「じゃあ、今度もみんなで来てね」
「ああ。次も三人で来る」
アレンが答えると、マナも笑顔で頷き、ドレイヴは小さく鼻を鳴らした。
「ったく、約束ばっかり増えていくな」
「守ればいいだけだろ」
「簡単に言いやがって」
少女はもう一度手を振ると、職員に支えられながら療養院の中へ戻っていった。
その背中を見送ったアレンは、ふと建物の最上階を見上げた。そこは、ハルヴァの部屋がある方角だった。
窓硝子の向こうに人影は見えない。それでも、白いカーテンが返事をするように、一度だけゆっくりと持ち上がった。
「アレン?」
マナに呼ばれ、アレンは最上階の窓へ向かって静かに頭を下げた。
そして、馬車の前で待つ二人のもとへ向かう。
◇
三人を乗せた馬車は療養院の門を出ると、雪の積もった街道に轍を刻みながら、ブランネリアの中心部へ向かってゆっくりと進んでいった。
荷台の窓辺には、破れた紙の風車が結びつけられている。幌の隙間から入り込む弱い風を受け、汚れた羽根が不揃いな速さで回っていた。
マナは、その傍らで膝の上に帳面を開いている。
「また記録をつけてるのか?」
向かいに座るドレイヴが、帳面を覗き込みながら尋ねた。
「昨日の診察と、今朝の状態を書いてるの」
「出発した時間まで書く必要あるか?」
「ルミノヴァに着くまでが移動記録だからね」
「いくら何でも細かすぎるだろ」
「何か変化があったとき、どこで起きたのか分からないと困るでしょ」
「……俺の肩のことまで書いてないだろうな」
「もう書いたよ」
「何でだよ!」
「負傷したことを隠そうとしたから」
「もう治ってる!」
「それを決めるのは、ドレイヴじゃなくて治療師だよ」
二人のやり取りを聞きながら、アレンは馬車の窓越しに、遠ざかっていく療養院を眺めていた。
高い石壁と銀色の格子に囲まれたその建物は、初めて目にしたとき、何かを閉じ込めるための檻にしか思えなかった。
実際、あの場所には自分の力を制御できず、外へ出ることのできない者たちがいる。刻印を使わなければ呼吸さえできず、百年以上もの間、呪縛に蝕まれながら生き続けている男もいた。
ブランネリアへ来る前、アレンはハルヴァに会えば、答えが見つかると思っていた。
刻印を安全に使う方法。呪縛を止める方法。そして、失った右手を元に戻す方法。
だが、どの答えも見つからなかった。
右手も呪縛も、何一つ元には戻っていない。それでも、ここへ来る前と同じではなかった。
力を細く流す方法と、一人で決めないことを覚えたのだ。
答えではない。だが、進むための方法は見つけた。
そのとき、馬車が凍った轍を乗り越え、大きく揺れた。窓辺に結びつけられていた紙の風車が外れ、床へ向かって落ちていく。
アレンは反射的に右手を伸ばした。
だが、指は動かなかった。
右手の甲の奥で、刻印がかすかに熱を帯びる。雷を流せば、指を動かすことはできる。
だが、アレンは右手を引き、代わりに左手を伸ばした。
風車が床へ触れる寸前、その掌に収まる。
アレンは風車を窓辺へ結び直した。
アレンは黒い手袋に覆われた右手を見下ろす。
「止めるのも、使わないのも……俺が選ぶ」
アレンはそう言って、膝の上へ右手を置いた。左手で位置を整えた感覚のない手は、以前よりも重く感じられる。
右手が戻ったわけではなく、傷も呪縛も消えていない。この先、さらに多くのものを失う可能性もあった。
それでも、黒い手袋の下に隠された手を、自分の身体ではないとは思わなかった。
動かないのなら、動かないまま守る。使う必要があるのなら、仲間と決めたうえで、必要な分だけ使う。
そして、止めろという声が届いたなら、必ず戻る。
「ルミノヴァまでは、あと何日くらいかかる?」
ドレイヴが尋ねた。
「天候が崩れなければ、四日くらいかな」
マナは地図を確認しながら答える。
「まだ四日もあるのか。食料は足りるんだろうな?」
「出発したばかりなのに、もう食べ物の心配かよ」
「旅で一番大事なことだろ」
「一番大事なのは、ちゃんと帰ることだよ」
マナがそう言うと、ドレイヴは窓辺で回る風車を見た。
「……分かってる」
アレンも静かに頷く。
「ああ。今度は、全員で帰る」
馬車は雪に覆われた街を進み、やがて治療院や薬草工房の並ぶ通りを抜け、低い石壁と結界柱に囲まれた街の入口へ辿り着いた。
門を越えた先には、白い盆地と、その向こうに広がる深い針葉樹の森が見える。
アレンは窓から、少しずつ遠ざかっていくブランネリアを見つめていた。高い屋根も白い外壁も、やがて森の向こうへ消えていく。
それでも、窓辺の風車は回り続けていた。
破れた羽根のまま、以前とは違う形になっても、弱い風を受けながら止まることなく。
◇
「行きました」
療養院の最上階でエルザがそう告げると、寝台に横たわるハルヴァは窓の外へ顔を向けた。
灰色の空の下、三人を乗せた馬車はすでに森の中へ入っており、ここからその姿を確認することはできない。
「そうか」
風によって作られた声が、静かに響いた。
「最後まで、見送らなかったのですね」
「昨日のうちに、言うべきことはすべて言った」
「それでも……窓の風を動かしていたでしょう」
ハルヴァは答えなかった。
エルザは小さく息をつくと、机の上へ数枚の書類を置く。
「アレンさんの訓練記録と、事故の報告書です。ケイム・ホグナーへ送るのは、こちらでよろしいですか?」
「待て」
ハルヴァの声に、書類をまとめかけていたエルザの手が止まった。
「もう一枚、別に用意しろ」
「事故について、何か記載漏れがありましたか?」
「いや。事故のことじゃない」
ハルヴァの胸が、風によってゆっくりと膨らむ。
「黒い反応についてだ」
エルザの表情がわずかに変わった。
「アレンさんが報告していた、黒い扉と声のことですか?」
「それだけじゃない」
灰緑色の瞳が、窓から机の上の書類へ移る。
「訓練の最後に、刻印から黒い雷が出た」
「ですが、測定具には反応が残っていません」
「だから書いておく。測れなかったことも記録だ」
エルザは新しい用紙へ筆を走らせた。
「黒色の異常反応を目視で確認。本人の自覚なし。測定具上の反応なし――」
「まだある」
ハルヴァの声が低くなる。
「あれは雷が漏れたんじゃない。何かが、アレンを見返していたように見えた」
エルザの筆が止まった。
ハルヴァは窓の外へ目を戻す。すでに馬車の姿はなく、雪に残った車輪の跡だけが、療養院の門から森へ向かって延びていた。
「アレンさん本人には、伝えなくてよいのですか?」
「まだ伝えるな。正体も対処法も分からん」
「ですが、危険があるのなら――」
「今伝えれば、あいつは扉を閉じることだけに執着する」
ハルヴァは静かに言った。
「自分が弱かったから開いた。自分が強く閉じていれば防げる――そう考えて、また何もかも一人で抱え込む」
エルザは、書き終えた紙を見つめた。
「では、先に正体を確かめるのですね」
「ああ」
窓際のカーテンが風に押され、ゆっくりと持ち上がる。その向こうには、雪に覆われた森が広がっていた。
「ケイムへ、必ず伝えろ」
ハルヴァは、誰もいない街道の先を見据えた。
「あの扉が、内側からだけ開くとは限らん」




