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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第二章『刻まれし代償』

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第26話『帰るための約束』


 ハルヴァの部屋を出たあと、三人は客室へ戻らず、そのまま療養院の中庭へ向かった。


 修復作業はまだ続いていたものの、中央棟から離れた中庭には、石材を運ぶ荷車の軋みと金槌の音が遠くかすかに届いている。

 降り続いていた雪は、いつの間にか止んでいた。厚い雲の切れ間から差し込む夕日が、積もった雪を淡い橙色に染めている。


 中庭の中央には、葉を落とした一本の木が立っていた。風が吹くたびに枝が揺れ、積もった雪が白い粉となって静かに舞い落ちていく。


 三人は、その木の下に置かれた長椅子へ腰を下ろした。


 アレンは外套の内側から、昨日救助した少女から受け取った紙の風車を取り出す。

 羽根の一枚は途中から破れ、青い紙には血と灰が残っている。それでも弱い風を受けると、風車はぎこちなく回った。


「それ、持ってきたんだ」


 マナが、アレンの手元を見た。


「ああ。俺たち三人でもらったものだからな」


「だったら、お前一人で持ってるなよ」


 隣に座ったドレイヴが、紙の風車を覗き込む。


「なくしたら、俺まで怒られるだろ」


「じゃあ、お前が持つか?」


 ドレイヴは一瞬だけ風車を見つめ、すぐに首を振った。


「……やめとく。俺が持ったら壊す」


「そこは自覚してるんだな」


「少なくとも、お前よりはな」


 アレンが左手で風車を長椅子の背へ立てかけると、破れた羽根がかさりと音を立てて回った。

 その様子を見届けたマナは、鞄から帳面を取り出す。


「最後に、ひとつだけ決めておきたいことがあるの」


「……また症状の確認か?」


「ううん。ルミノヴァへ戻ってからのこと」


 マナは帳面の新しい頁を開き、筆を構えた。


「刻印を使うときの約束を、今度こそちゃんと書いておきたいの」


「約束なら、もう何度もしただろ」


「そのたびに破りかけてるから、書くんだよ」


「破ってはいない」


「じゃあ、一人で使おうと考えたことは?」


 アレンは答えかけて、言葉を止めた。


「……考えただけだ」


「アレンの場合、考えた時点で半分くらい始めてるからね」


「ああ。俺もそう思う」


 ドレイヴが迷いなく頷いた。


「お前、どっちの味方なんだよ」


「まともな方だ」


「なら、今は俺の味方じゃないな」


「よく分かってるじゃねえか」


 マナは二人の言い争いを聞き流しながら、頁の一番上へ大きく文字を書いた。


 ――帰るための約束。


「規則じゃないのか?」


 アレンが帳面を覗き込みながら尋ねた。


「規則にすると、破ったときの罰まで決めなきゃいけないでしょ」


「罰なら、俺が殴る」


 ドレイヴが間髪を入れずに答える。


「それ、お前が普段からやろうとしてることだろ」


「じゃあ、約束でいい」


 マナはそう言って、筆をアレンへ差し出した。


「最初はアレンが書いて」


「……俺が?」


「アレンに守ってもらう約束なんだから」


 アレンはわずかにためらったあと、左手で筆を受け取る。


 文字を書くときも、食事と同じように左手を使うようになっていた。以前よりは慣れたものの、まだ思いどおりの場所へ筆先を運べず、引かれた線はわずかに震える。


 アレンは何を書くべきか考えながら、最初の一行をゆっくりと記した。


 一、異変を隠さない。


「異変って、具体的にはどこまで?」


 マナが間を置かずに尋ねた。


「痺れ、耳鳴り、視界の異常。それと……刻印が熱くなったときだ」


「黒い扉と、あの声も入れて」


「ああ」


 アレンは一行目の下へ、小さな文字で書き加えた。

 痺れ、耳鳴り、視界の異常、黒い扉と声を含む。


「……ずいぶん長くなったな」


「曖昧にしたら、お前が都合よく除外するだろ」


 ドレイヴが呆れたように言う。


「耳鳴りくらいは異変じゃないとか、少し熱いだけだとか、また言い出すに決まってる」


「もう言わない」


 アレンはそれ以上の反論を諦めた。


 二行目を書く。


 二、一人では刻印を使わない。


「命の危険があるときは?」


 アレンが自分で書いた文字を見ながら尋ねると、マナはわずかに目を細めた。


「……もう抜け道を探してる」


「確認しただけだ」


「一人で使わなきゃ助からない状況を、最初から作らないの」


「それでも、急に襲われることはあるだろ」


「そういうときは、生き残るために使え」


 ドレイヴが口を挟んだ。


「ただし、俺たちと合流したあとまで、一人で背負い続けるな」


 アレンは少し考えてから、二行目の下へ言葉を書き足す。

 一人で戦う状況を、当たり前にしない。


「……それならいい」


 マナが頷いた。


 三行目。


 三、仲間に止めろと言われたら、理由を考える前に止める。


「俺が言っても、ちゃんと止まるのか?」


 ドレイヴが念を押すように尋ねた。


「当たり前だろ。お前も仲間なんだから」


「いや、確認しただけだ」


 筆を動かしながら、アレンは昨日の事故を思い返していた。

 刻印がさらに強い力を求める中、マナから止めろと言われたとき、アレンはその理由を考えた。


 まだ人が残っている。自分が動かなければ間に合わない。今なら、もっと大きな力を使える。

 だが、そう考えている間にも、刻印は開き続けていた。


 まず止まり、そのあとで別の方法を探す。その順番を、間違えてはならない。


「ただし」


 アレンは筆を置かないまま、言葉を続けた。


「止めたあとは、何が起きてるのか教えてくれ。何も分からないまま、力だけ切るのは……たぶん難しい」


「分かった」


 マナは迷わず頷いた。


「止めたあとで、わたしが全部説明する」


「先に言っとくけど、俺は説明できねえぞ」


「お前は顔を見て判断するんだろ」


「ああ。お前が平気なふりをしてるときは、見れば分かる」


「……俺、そんなに分かりやすいか?」


「分かりやすい」


 二人の声がぴたりと重なった。

 アレンは小さく息を吐くと、最後の一行へ筆を移した。だが、書き始める前に、その手が止まる。


「どうしたの?」


 マナが手元を覗き込んだ。


「何て書けばいいのか、考えてる」


「何について?」


「……一人で残らないことだ」


 それは、簡単に交わせる約束ではなかった。


 誰かを助けるために、一人が残らなければならない状況もある。そこにいるすべての人間が、無事に帰れるとは限らない。


 アレンは、そうした場所をすでに何度も見てきた。


「絶対に誰も犠牲にならない――そんなことを書いても、きっと守れない」


 アレンがそう言うと、マナは否定せずに頷いた。


「……うん」


「俺が残るしかない状況だって、いつか来るかもしれない」


 マナの表情が強張る。それでも、言葉を遮ることなく耳を傾けていた。


「でも……最初から自分を数に入れないのは、もうやめる」


 アレンは筆を動かし、四つ目の約束を記した。


 四、誰かを助けるとき、自分だけを数から外さない。

 不慣れな左手で書かれた文字は、大きさも傾きも揃っていなかったが、アレンはそれを書き直さない。


「これなら……守れると思う」


 マナは何も言わず、書かれた一行を見つめていた。


「俺が残れば済むなんて、最初から決めない。助ける人間の中に、ちゃんと俺も入れる」


「……途中で、やっぱり自分だけ残ろうって思ったら?」


「そのときは、二人が止めてくれ」


「止めても聞かなかったら?」


「殴る」


 ドレイヴが即答した。


「……やっぱり、それしかないのか?」


「それが一番早い」


「刻印を使ってる俺に近づいたら、感電するぞ」


「その程度で、俺が止まると思うか?」


 ドレイヴは当然のように言い切った。

 アレンは何も返せなかった。


「筆、貸して」


 マナはアレンから筆を受け取ると、四つの約束の下へ新たな一文を書き加えた。


 ――三人で帰る道を、最後まで諦めない。


 それを見たドレイヴが、すぐに眉を寄せる。


「三人じゃ足りねえだろ」


 ドレイヴは「三人」の上へ一本の線を引き、代わりに太く歪んだ字を書き加えた。


 ――全員で帰る道を、最後まで諦めない。


「これでいい」


「……お前の字、アレンよりひどいな」


「左手で書いた奴に言われたくねえ」


「俺には理由がある」


「俺にもある。字を書くのが苦手だ」


「それは理由になってないよ」


 マナは呆れたように息を吐いたものの、書き直そうとはしなかった。


 三人の字が混ざった頁は整っておらず、ところどころで文字が重なり、余白もほとんど残っていない。けれど、その不揃いな一頁は、誰か一人だけが決めた約束には見えなかった。


「名前も書こう」


 マナが帳面を差し出すと、アレンは左手で自分の名前を書いた。

 続いてマナが署名し、最後にドレイヴが大きな字で名を記した。


「これで、もう逃げられないよ」


 マナは三人の名前を確かめながら言った。


「最初から逃げるつもりはない」


「今のアレンはそう思ってても、刻印を使ってるときのアレンは違うかもしれないでしょ」


「ああ。だから、こうして残しておくんだろ」


 マナがわずかに目を見開く。


 以前のアレンなら、信用されていないと反発していたかもしれない。だが、刻印を使っている最中の自分が、普段と同じ判断をできるとは限らない。


 自分を信じ切らないことも、制御の一つだった。


「でも、勘違いしないでね」


 マナは帳面を閉じず、そのまま膝の上へ置いた。


「わたしは、アレンが刻印を使うことに納得したわけじゃないから」


「分かってる」


「使うたびに、またどこかが動かなくなるかもしれない。次は、右手だけじゃ済まないかもしれないんだよ」


「ああ」


「いつか歩けなくなったり、喋れなくなったり……ハルヴァさんみたいに、自分で息をすることさえできなくなるかもしれない」


 マナの声は震えていなかった。だが、帳面を押さえる指先には、わずかに力がこもっている。


「そんな力を使うことを、わたしは正しいなんて思えない」


「それでいい」


 アレンが答えると、マナは顔を上げた。


「……いいの?」


「お前まで正しいと思ったら、俺を止める人間がいなくなるだろ」


 アレンは感覚のない右手を見下ろす。


「俺が必要だと思っても、お前には危険に見えるかもしれない。そのときは、止めてくれ」


「止めるよ。何度だって」


「ああ。頼む」


「わたしは、ずっと見てるから」


「……ずっとか?」


「ずっと」


「重いな」


「嫌?」


 マナは試すように尋ねた。

 アレンはわずかに笑う。


「いや、嫌じゃない」


「先に言っとくが、俺は記録なんか取れねえからな」


 ドレイヴは長椅子の背へ両腕を乗せた。


「飲まれたら殴る。動けなくなったら背負う。道がなければ作る。それで十分だろ」


「全部、力任せだな」


「その方が分かりやすいだろ」


「……否定はしない」


 アレンは、長椅子の背に立てかけた紙の風車を見た。

 弱い風を受け、破れた羽根がゆっくりと回っている。その風車を守ったのは、アレン一人ではなかった。


 ドレイヴが道を作り、マナが限界を見極め、療養院の職員たちが梁を支えた。誰か一人でも欠けていれば、少女は助からなかったかもしれない。


「……ありがとう」


 その言葉が自然と口からこぼれると、ドレイヴは露骨に顔をしかめた。


「急に気持ち悪いこと言うな」


「ただ礼を言っただけだろ」


「なら、もっと普通に言え」


「今のが普通だ」


「ドレイヴ、照れてるだけだよ」


「照れてねえ!」


 その大声に驚いたのか、枝に積もっていた雪が一斉に落ちた。

 三人の頭上へ白い粉が降りかかり、ドレイヴが慌てて立ち上がる。


「冷てえ!」


「お前が大声を出すからだろ」


「これも俺のせいかよ!」


 マナが声を上げて笑うと、アレンも髪に積もった雪を左手で払いながら、笑みをこぼした。


 雪に覆われた療養院の中で、三人の声だけが不思議なほど温かく響いていた。


     ◇


 翌朝、ブランネリアを発つ馬車が、療養院の門前に停まっていた。


 空は薄い灰色に覆われていたものの、雪は降っていない。凍てついた空気の中、御者が荷物を積み込みながら、二頭の馬の脚や蹄を確かめている。


 中央棟では夜明け前から修復作業が再開され、割れた壁の前には足場が組まれていた。療養院の職員たちは、その周囲へ新しい導魔線を次々と運び込んでいる。


 出発前の診察を終えたアレンは、玄関前の長椅子へ腰を下ろしていた。


「前腕の内出血は、昨日より薄くなっています」


 アレンの右腕を確かめていたエルザが告げた。


「ですが、筋肉そのものが回復したわけではありません。少なくとも数日は、雷を流す訓練を控えてください」


「……数日ですか」


「そんなに不満そうな顔をしないで」


「してません」


「しています」


 エルザが即座に返すと、隣に立っていたマナも頷いた。


「うん。してます」


「二人して決めつけるなよ」


「昨日、使わないことも制御の一つだと話していたでしょう」


 エルザはアレンの手首に巻かれた封止環へ触れ、すべての術式が閉じていることを確かめた。


「休ませることも、これから身体を使っていくために必要な判断です」


「……分かっています」


「今の間は何ですか?」


「分かったうえで答えただけです」


 エルザはわずかに目を細めたものの、それ以上は追及しなかった。


「ルミノヴァ中央医療塔へ渡す診療記録は、マナさんに預けてあります。封止環を調整するときも、必ず治療師か術式技師に立ち会ってもらってください」


「はい」


「それから――」


 エルザはそこで一度言葉を切り、アレンの右手を見た。


「動かないからといって、その手をないもののように扱わないでください」


 アレンも、感覚のない右手を見下ろす。


「昨日、ハルヴァさんにも似たようなことを言われました」


「なら、何度でも思い出してください」


「……分かりました」


 エルザが診察を終えて離れると、アレンは膝の上へ黒い手袋を置き、親指から順に右手の指を布の中へ収めていった。


 感覚がないため、指先が正しい位置へ入ったかどうかは、目で確かめるしかない。

 親指、人差し指、中指。薬指までは、左手で手袋の口を広げながら収めることができた。


 しかし、小指が途中で布に引っかかる。


 アレンは左手で小指をつまもうとしたが、手袋に隠れて位置が分からない。何度か指先を探って押し込もうとするものの、小指は横へ折れ曲がり、うまく収まらなかった。


 ルミノヴァを退院した朝にも、同じことがあった。あのときは誰かに見られていないかを確かめながら、一人で何度もやり直した。


 動かない指を見られることが、何よりも怖かった。


 アレンは左手を止めた。


 すぐそばでは、マナが出発の荷物を確認している。ドレイヴも御者と話しながら、ときおりこちらを見ていた。


「マナ」


 呼びかけると、彼女はすぐに振り返った。


「どうしたの?」


「……小指だけ、頼めるか」


 マナは一瞬、何を頼まれたのか分からないように目を瞬かせた。やがて手袋の中で折れ曲がっている指に気づくと、アレンの前へ膝をつく。


「痛くない?」


「感覚がないから分からない。だから、無理に引っ張らないでくれ」


「分かった。ゆっくりやるね」


 マナは手袋の布越しに小指の位置を確かめ、関節へ負担をかけないよう、慎重に指先を伸ばした。


「……これで入ったと思う」


 アレンは左手で手袋の表面を押し、五本の指がそれぞれ正しい位置に収まっていることを確かめた。


「ああ。大丈夫だ」


 アレンが手首の留め具を締めると、マナは何も言わずに立ち上がる。


「……何だよ」


「ううん。別に」


「言いたいことがあるなら言え」


「ただ……頼ってくれたんだなって思っただけ」


「手袋をはめるのを手伝ってもらっただけだろ」


「それでもだよ」


 マナは小さく笑った。


「次も困ったら、ちゃんと言ってね」


「次は一人でできるかもしれない」


「できなかったら?」


「……そのときは、また頼む」


「うん」


 短い返事だったが、それだけで十分だった。


「お前ら、もう終わったか?」


 ドレイヴが二人のもとへ戻ってきた。


「荷物は全部積んだぞ。あとは、お前が乗るだけだ」


「俺の剣は?」


「先に入れといた」


「勝手に扱うなよ」


「右手で持てねえだろ」


「左手なら持てる」


「だったら、馬車から下ろすときは自分でやれ」


「言われなくてもそうする」


「喧嘩するなら、ルミノヴァに着いてからにして」


 マナが二人の間へ入り、馬車へ向かおうとした、そのときだった。


「お兄ちゃんたち!」


 療養院の玄関から小さな声が聞こえ、振り返ると、一人の女性職員に支えられながら、昨日救助した少女が立っていた。


 片脚には厚い包帯が巻かれ、小さな杖へ体重を預けている。顔色はまだ青白かったものの、意識ははっきりしていた。


「もう歩いて大丈夫なのか?」


 ドレイヴが少女の包帯を見ながら尋ねた。


「うん。少しだけなら」


 少女は職員に支えられながら、三人の前までゆっくりと歩いてくる。


「今日、帰っちゃうの?」


「ああ。ルミノヴァへ戻る」


 アレンが答えると、少女は少し残念そうに俯いた。


「……また来る?」


「できれば、治療を受けるためには来たくないな」


 アレンの答えに、少女は意味が分からないように首を傾げる。


「でも、会いには来るよ」


 マナが優しく言葉を添えた。


「そのときは、元気になったところを見せてね」


「うん」


 少女は笑顔を浮かべると、ドレイヴ、マナ、アレンの順に見た。


「助けてくれて、ありがとう」


 ドレイヴは照れたように視線を逸らす。


「別に。俺一人で助けたわけじゃねえしな」


「みんなで助けてくれたんでしょ?」


「ああ」


 アレンは頷いた。


「みんなで助けたんだ」


「じゃあ、今度もみんなで来てね」


「ああ。次も三人で来る」


 アレンが答えると、マナも笑顔で頷き、ドレイヴは小さく鼻を鳴らした。


「ったく、約束ばっかり増えていくな」


「守ればいいだけだろ」


「簡単に言いやがって」


 少女はもう一度手を振ると、職員に支えられながら療養院の中へ戻っていった。

 その背中を見送ったアレンは、ふと建物の最上階を見上げた。そこは、ハルヴァの部屋がある方角だった。


 窓硝子の向こうに人影は見えない。それでも、白いカーテンが返事をするように、一度だけゆっくりと持ち上がった。


「アレン?」


 マナに呼ばれ、アレンは最上階の窓へ向かって静かに頭を下げた。

 そして、馬車の前で待つ二人のもとへ向かう。


     ◇


 三人を乗せた馬車は療養院の門を出ると、雪の積もった街道に轍を刻みながら、ブランネリアの中心部へ向かってゆっくりと進んでいった。


 荷台の窓辺には、破れた紙の風車が結びつけられている。幌の隙間から入り込む弱い風を受け、汚れた羽根が不揃いな速さで回っていた。


 マナは、その傍らで膝の上に帳面を開いている。


「また記録をつけてるのか?」


 向かいに座るドレイヴが、帳面を覗き込みながら尋ねた。


「昨日の診察と、今朝の状態を書いてるの」


「出発した時間まで書く必要あるか?」


「ルミノヴァに着くまでが移動記録だからね」


「いくら何でも細かすぎるだろ」


「何か変化があったとき、どこで起きたのか分からないと困るでしょ」


「……俺の肩のことまで書いてないだろうな」


「もう書いたよ」


「何でだよ!」


「負傷したことを隠そうとしたから」


「もう治ってる!」


「それを決めるのは、ドレイヴじゃなくて治療師だよ」


 二人のやり取りを聞きながら、アレンは馬車の窓越しに、遠ざかっていく療養院を眺めていた。


 高い石壁と銀色の格子に囲まれたその建物は、初めて目にしたとき、何かを閉じ込めるための檻にしか思えなかった。


 実際、あの場所には自分の力を制御できず、外へ出ることのできない者たちがいる。刻印を使わなければ呼吸さえできず、百年以上もの間、呪縛に蝕まれながら生き続けている男もいた。


 ブランネリアへ来る前、アレンはハルヴァに会えば、答えが見つかると思っていた。

 刻印を安全に使う方法。呪縛を止める方法。そして、失った右手を元に戻す方法。


 だが、どの答えも見つからなかった。


 右手も呪縛も、何一つ元には戻っていない。それでも、ここへ来る前と同じではなかった。

 力を細く流す方法と、一人で決めないことを覚えたのだ。


 答えではない。だが、進むための方法は見つけた。


 そのとき、馬車が凍った轍を乗り越え、大きく揺れた。窓辺に結びつけられていた紙の風車が外れ、床へ向かって落ちていく。


 アレンは反射的に右手を伸ばした。


 だが、指は動かなかった。

 右手の甲の奥で、刻印がかすかに熱を帯びる。雷を流せば、指を動かすことはできる。

 だが、アレンは右手を引き、代わりに左手を伸ばした。


 風車が床へ触れる寸前、その掌に収まる。

 アレンは風車を窓辺へ結び直した。


 アレンは黒い手袋に覆われた右手を見下ろす。


「止めるのも、使わないのも……俺が選ぶ」


 アレンはそう言って、膝の上へ右手を置いた。左手で位置を整えた感覚のない手は、以前よりも重く感じられる。


 右手が戻ったわけではなく、傷も呪縛も消えていない。この先、さらに多くのものを失う可能性もあった。


 それでも、黒い手袋の下に隠された手を、自分の身体ではないとは思わなかった。

 動かないのなら、動かないまま守る。使う必要があるのなら、仲間と決めたうえで、必要な分だけ使う。


 そして、止めろという声が届いたなら、必ず戻る。


「ルミノヴァまでは、あと何日くらいかかる?」


 ドレイヴが尋ねた。


「天候が崩れなければ、四日くらいかな」


 マナは地図を確認しながら答える。


「まだ四日もあるのか。食料は足りるんだろうな?」


「出発したばかりなのに、もう食べ物の心配かよ」


「旅で一番大事なことだろ」


「一番大事なのは、ちゃんと帰ることだよ」


 マナがそう言うと、ドレイヴは窓辺で回る風車を見た。


「……分かってる」


 アレンも静かに頷く。


「ああ。今度は、全員で帰る」


 馬車は雪に覆われた街を進み、やがて治療院や薬草工房の並ぶ通りを抜け、低い石壁と結界柱に囲まれた街の入口へ辿り着いた。


 門を越えた先には、白い盆地と、その向こうに広がる深い針葉樹の森が見える。


 アレンは窓から、少しずつ遠ざかっていくブランネリアを見つめていた。高い屋根も白い外壁も、やがて森の向こうへ消えていく。


 それでも、窓辺の風車は回り続けていた。

 破れた羽根のまま、以前とは違う形になっても、弱い風を受けながら止まることなく。


     ◇


「行きました」


 療養院の最上階でエルザがそう告げると、寝台に横たわるハルヴァは窓の外へ顔を向けた。


 灰色の空の下、三人を乗せた馬車はすでに森の中へ入っており、ここからその姿を確認することはできない。


「そうか」


 風によって作られた声が、静かに響いた。


「最後まで、見送らなかったのですね」


「昨日のうちに、言うべきことはすべて言った」


「それでも……窓の風を動かしていたでしょう」


 ハルヴァは答えなかった。

 エルザは小さく息をつくと、机の上へ数枚の書類を置く。


「アレンさんの訓練記録と、事故の報告書です。ケイム・ホグナーへ送るのは、こちらでよろしいですか?」


「待て」


 ハルヴァの声に、書類をまとめかけていたエルザの手が止まった。


「もう一枚、別に用意しろ」


「事故について、何か記載漏れがありましたか?」


「いや。事故のことじゃない」


 ハルヴァの胸が、風によってゆっくりと膨らむ。


「黒い反応についてだ」


 エルザの表情がわずかに変わった。


「アレンさんが報告していた、黒い扉と声のことですか?」


「それだけじゃない」


 灰緑色(かいりょくしょく)の瞳が、窓から机の上の書類へ移る。


「訓練の最後に、刻印から黒い雷が出た」


「ですが、測定具には反応が残っていません」


「だから書いておく。測れなかったことも記録だ」


 エルザは新しい用紙へ筆を走らせた。


「黒色の異常反応を目視で確認。本人の自覚なし。測定具上の反応なし――」


「まだある」


 ハルヴァの声が低くなる。


「あれは雷が漏れたんじゃない。何かが、アレンを見返していたように見えた」


 エルザの筆が止まった。

 ハルヴァは窓の外へ目を戻す。すでに馬車の姿はなく、雪に残った車輪の跡だけが、療養院の門から森へ向かって延びていた。


「アレンさん本人には、伝えなくてよいのですか?」


「まだ伝えるな。正体も対処法も分からん」


「ですが、危険があるのなら――」


「今伝えれば、あいつは扉を閉じることだけに執着する」


 ハルヴァは静かに言った。


「自分が弱かったから開いた。自分が強く閉じていれば防げる――そう考えて、また何もかも一人で抱え込む」


 エルザは、書き終えた紙を見つめた。


「では、先に正体を確かめるのですね」


「ああ」


 窓際のカーテンが風に押され、ゆっくりと持ち上がる。その向こうには、雪に覆われた森が広がっていた。


「ケイムへ、必ず伝えろ」


 ハルヴァは、誰もいない街道の先を見据えた。


「あの扉が、内側からだけ開くとは限らん」


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