第25話『俺が選ぶ』
事故から一日が経った。
ブランネリア北部魔力障害療養院では、崩落した中央棟の修復が始まっている。
割れた窓には仮の板が打ちつけられ、崩れた廊下では作業員たちが瓦礫を運び出していた。破損した治療用魔法石はすべて回収され、残った魔力導線にも新しい封止術式が幾重にも施されている。
療養院の外では、昨日までの強い風が収まり、雪だけが降り続いていた。白い粒は音もなく中庭へ舞い降り、静かに積もっていく。
窓辺に立つアレンは、その景色を眺めながら、右手を左手で支えていた。
右手の感覚は、まだ戻っていない。
肩は動き、肘も以前より僅かに重いものの、曲げることはできる。だが、手首から先には、自分の身体であるという感覚がなかった。指を動かそうとしても、何の反応も返ってこない。
掌には、爪が食い込んだ五つの傷が残っている。マナの治癒魔法によって傷口は塞がっていたが、薄い赤色の痕が半月のように並んでいた。
前腕には、青紫色の内出血も広がっている。事故の際、雷の魔装で筋肉へ何度も強い刺激を送り続けた結果だった。
それでも、痛みはない。
だからこそ、見ておかなければならなかった。
無理をしていることも、壊れかけていることも、限界を超えたことも、右手は何も教えてくれない。それなら、自分の目で確かめ、分からないことは誰かに見てもらうしかない。
これまでなら、それを不自由だとしか思えなかった。だが今は、それも身体を守るために必要なことなのだと、少しずつ分かり始めている。
「……また見てる」
背後から聞こえたマナの声に、アレンは窓の外を見たまま答えた。
「見てるだけだ」
「右手を?」
「ああ。昨日より腫れてないか、確かめてた」
素直に答えると、マナは僅かに眉を上げる。
「動かそうとは……してないよね?」
「してない。今日は使わないって、自分で決めたからな」
「……本当に?」
「本当だ。それに、あとでお前にも見てほしい」
マナは一瞬黙ったあと、寝台脇の椅子から立ち上がった。手には、いつもの小さな帳面がある。
「あとでじゃなくて、今見る」
マナはアレンのそばまで歩み寄ると、その手首に巻かれた封止環へ目を落とす。
銀色の術式は、すべて閉じた状態になっている。
「熱は?」
「ない。今のところは」
「視界は? 変な感じはしない?」
「ああ。問題ない」
帳面へ書き込んでいたマナの手が、そこで止まった。
「……黒い扉は?」
「見てない」
今度は、迷わず答えた。
マナは一度だけアレンの顔を確かめると、その答えも帳面へ書き記していく。
頁には、ルミノヴァでの入院中から続けている記録が、細かな字で隙間なく並んでいた。痺れた部位や耳鳴りの回数、刻印が発光した時間に加え、睡眠中の放電や黒い扉と声の有無まで書き留められている。
ブランネリアへ来てからは、さらに魔装の使用時間や、筋肉へかかった負荷についても記録されていた。
「右腕の色は?」
「たぶん、昨日と変わってない」
「たぶんじゃ分からないよ。袖を上げて」
「ああ」
アレンは左手で右袖を捲った。
あまりに素直に従ったためか、マナが怪訝そうな顔をする。
「……何だよ」
「ううん。今日は言い返さないんだなって思って」
「感覚のない俺が見るより、お前に見てもらった方が確かなんだろ」
「……そうだけど」
「だったら、頼む」
露わになった前腕には、青紫色の痣が斑に残っている。マナは指で触れず、色と腫れの具合を目で確かめた。
「昨日よりは、少し薄くなってる」
「なら、問題が一つ減ったな」
「減ってないよ。なくなったわけじゃないんだから」
「……分かってる。少しましになっただけだ」
アレンが言い直すと、マナは驚いたように瞬きをする。
「何だよ、その顔」
「アレンが、ちゃんと分かってる」
「俺だって学ぶさ」
「昨日も同じこと言ってたね」
「なら帳面に書いておけ。俺が忘れてたら、見せてくれ」
マナは小さく笑い、記録を書き加えた。
「今日は、本当に使わないんだね?」
「ああ。動かせるか確かめたい気持ちはあるけど……今日は休ませる」
「我慢できる?」
「我慢してるわけじゃない」
アレンは右手を見下ろした。
「今は使わない方が、次に必要になったとき使える。そう判断しただけだ」
マナの筆が止まる。
「昨日、止めろって言われて止められたんだ。だったら、始める前にだって選べるはずだろ」
「使わないことも、制御ってこと?」
「ああ。……たぶんな」
まだ、断言できるほど理解しているわけではない。
それでも、以前のように力が湧き上がるのを待ち、ただ押さえつけることだけが制御ではないのだと、アレンは分かり始めていた。
事故のとき、制御盤を止めたあとも、刻印はさらなる力を求め続けていた。周囲へ溢れた魔力を吸い込み、もっと強い雷を放とうとしていたのだ。
あのまま流されていれば、壁も天井も、救助を待つ人々さえ巻き込んでいたかもしれない。
だが、そこへマナの声が届いた。
もう終わった。アレンが続けなくても、みんなで助けられる。
そう告げられ、アレンは雷を一本ずつ止めていった。
初めて、自分の意思で。
「……止めるとき、怖くなかったの?」
マナが静かに尋ねた。
「怖かったよ」
アレンは迷わず答える。
以前なら、反射的に否定していたはずだ。けれど今は、恐怖を隠すことが強さではないと知っている。
「止めた瞬間に逆流するんじゃないかって思った。それに、俺が止まったあとで、また爆発したらどうしようって」
「それでも……止めたんだね」
「ああ。お前が言っただろ。あとは、みんなで助けられるって」
マナの目が僅かに大きくなり、やがて帳面を胸元へ抱いた。
「……信じてくれたの?」
「信じてなかったら、止めてない」
「そっか。……うん、そうだよね」
「それに、本当にみんなで助けられた」
ドレイヴが道を開き、マナが限界を見極める。その間に、療養院の職員たちが患者を運び出していた。
すべてを自分一人で終わらせる必要はなかった。
「次も、同じようにできるとは限らない」
アレンはそう言ってから、言葉を継ぐ。
「でも、昨日より早く気づくことはできる。昨日より弱い力で済ませることだって……できるかもしれない」
「できる、とは言い切らないんだね」
「保証はできない。でも、やる」
マナの瞳が揺れた。
「そのためにはお前の記録が必要なんだ。俺が気づけない変化をお前が見ていてくれ」
「……うん」
「止めろって言われたら、ちゃんと止める。それでも止まらなかったら……封止環を閉じてくれ」
「言われなくても、そのつもりだよ」
「ああ。……頼む」
マナが小さく笑う。その表情を見ているうちに、アレンの胸の奥でも、張りつめていたものが少しずつほどけていった。
右手の重さは変わらない。
それでも、誰かに見てもらい、判断を預けることを、以前ほど悔しいとは思わなかった。
「おい」
不意に、部屋の入口からドレイヴの声がした。
振り返ると、彼は両手に三つの器を持って立っている。
「飯、持ってきたぞ」
「食堂は?」
「まだ修理中だとさ。患者は部屋で食えって」
ドレイヴは机の上へ三つの器を並べた。
中身は、湯気の立つ白い煮込み料理だった。細かく刻まれた根菜と肉に混じって、薬草らしき濃い緑色の葉が浮かんでいる。
「……これ、本当に食えるのか?」
アレンは器の中を覗き込みながら尋ねた。
「食堂の婆さんは、食えるって言ってたぞ」
「その言い方だと、余計に不安になるよ」
マナも隣から器を覗き込む。
「たぶん、ブランネリアの薬膳だよ。魔力疲労に効く薬草が入ってるんじゃないかな」
「苦くないだろうな」
「薬草なんだから、少しくらいは苦いかもね」
「俺は怪我してねえぞ」
「昨日、あれだけ瓦礫を持ち上げたでしょ」
「筋肉痛は怪我に入らねえ」
そう言いながら、ドレイヴは左肩を押さえていた。
その仕草に気づき、アレンが眉を寄せる。
「……肩、痛むのか?」
「何でもねえよ」
「隠すな」
「それ、お前が言うのかよ」
「俺が言うからだ」
ドレイヴが顔をしかめると、アレンは右手を軽く持ち上げて見せた。
「黙ってたせいで、俺はこいつがどこまで壊れてるのか、自分でも分からなくなった。だから……お前まで同じことするな」
「……梁を支えたときに、ちょっと捻っただけだ」
「なら、マナに見てもらえ」
「この程度で治癒魔法なんか使ったら、そっちの方がもったいねえだろ」
「使うかどうかは、診てもらってから決めればいい」
「今日はやけにまともなこと言うじゃねえか」
「昨日、散々言われたからな」
「二人とも、言ってることが同じだよ」
マナは呆れたように息をついた。
「あとでちゃんと診るから。逃げないでね」
「逃げねえよ」
ドレイヴは器を持ち上げ、煮込みを一口食べた途端、眉間に深い皺を寄せる。
「……苦っ」
「薬膳なんだから、仕方ないよ」
「これを食えるって言った婆さん、絶対に味見してねえだろ」
「でも、身体にはいいんじゃない?」
「身体が元気になる前に、心の方が死ぬぞ」
文句を言いながらも、ドレイヴは二口目を口へ運んだ。
アレンも左手で匙を取る。右手が動かなくなってから、食事はすべて左手で取るようになっていた。
初めのうちは何度もこぼし、そのたびに苛立ちが込み上げた。今でも思うように動かせないことはあるが、それでも一口ずつなら食べられる。
以前と同じではない。だからといって、何もできなくなったわけではなかった。
「午後になったら、ハルヴァさんの部屋へ来てほしいって」
マナは煮込みを冷ましながら言った。
「エルザさんが言ってたのか?」
「うん。明日には、ルミノヴァへ戻るんでしょ?」
ケイムからの連絡は、事故の翌朝に届いていた。
中央棟の復旧作業が始まり、ハルヴァの状態も安定したことから、三人は翌朝、ブランネリアを発つことになっている。
ここで学べることは、まだ多い。だが、療養院へ長く留まり続けるわけにはいかなかった。
アレンたちは連邦軍に所属しており、ルミノヴァへ戻ったあとは、今後の任務について判断を受けなければならない。
「最後に、何か話があるんだろうな」
ドレイヴが煮込みを口へ運びながら言った。
「また、ろくでもねえことを言われるんじゃねえか?」
「たぶんな」
「お前、もう少しくらい嫌そうな顔しろよ」
「何を言われるかより、こっちから何を聞くか考えてる」
ドレイヴの手が止まる。
「聞くことなんかあるのか?」
「ああ」
アレンは右手を見下ろした。
「次に使うとき、昨日より早く止めるにはどうすればいいのか。力をもっと細くするには、何を見ればいいのか……聞けるうちに聞いておきたい」
「お前、次も使う気でいるのかよ」
「必要なら使う。でも、昨日と同じ使い方はしない」
「そんな簡単にいくと思ってんのか?」
「思ってない」
「だったら――」
「だから、一人で決めるのをやめる」
ドレイヴは何も言わず、アレンを見つめた。
「右手が動かないことも、呪縛の危険も変わらない」
「ずいぶん簡単そうに言うじゃねえか」
「簡単じゃない。だから、お前たちにも手伝ってもらう」
マナが、匙を持ったまま瞬きをする。
「俺一人じゃ、右手の限界も分からない。刻印の反応が強くなっても、自分では気づけないかもしれない」
アレンはマナを見た。
「だからマナには、記録と判断を頼みたい」
「……うん。分かった」
続いて、ドレイヴを見る。
「俺が止まれなくなったら、お前が止めてくれ」
「そんなの最初からそのつもりだ」
「それと、訓練にも付き合ってほしい」
「今さら俺が断ると思ってんのか?」
「思ってない」
アレンが答えると、ドレイヴは鼻を鳴らした。
「だったら最初からそう言え」
「いま言っただろ」
「言うのが遅えんだよ」
「それ、お前にだけは言われたくない」
「何だと?」
「二人とも、そのままだと煮込みが冷めるよ」
マナが笑いながら二人の間へ入ると、アレンも口元を緩め再び匙を動かした。
薬草の苦みは相変わらず強かったが、それでも先ほどよりは食べやすく感じられた。
◇
午後になると、ハルヴァの部屋には、事故の前と同じ静けさが戻っていた。
窓の外では雪が降り続き、カーテンはハルヴァの呼吸を作る微細な風に合わせて規則正しく揺れている。
寝台に横たわる彼の顔色は、まだ青白かった。胸は自力では動かず、風が肺を膨らませ、空気を押し出している。
上体を起こすだけの力も戻っていないらしく、今日は寝台に横になったままだった。
「来たか」
掠れた声が響くなか、アレンたちは寝台から少し離れた場所へ並んだ。部屋の入口には、いつもどおりエルザと二人の治療師が立っている。
「……今の状態はどうだ」
ハルヴァが、掠れた声でアレンへ尋ねた。
「右手の感覚は、まだ戻っていません。ただ、肩と肘は動きます」
「耳鳴りは?」
「今朝、一度だけありました。でも、すぐに治まって今はありません」
「刻印は使ったか」
「いいえ。今日はまだ使っていません」
「……使いたいとは思ったか」
「思いました」
隣でマナが小さく息を吐いた。
「動かせるか確かめたくはなりました。でも……使いませんでした」
「なぜ使わなかった」
「今日は、使う理由がなかったからです」
ハルヴァの灰緑色の瞳が、僅かに細くなる。
「使えるときに使わなければ、身につかんぞ」
その目は、アレンの返答を待っていた。
「そのために身体を壊したら、次の訓練ができません」
「……誰に教わった」
「ここで、です」
ハルヴァはしばらくアレンを見つめていた。
「昨日の事故で何を覚えた」
「力を細く使うことです」
「それだけか」
「必要な場所にだけ力を使うこと」
「……それだけか」
繰り返される問いに、アレンは一度考えた。
導魔線を焼き切り、排出弁を開き、雷を一本ずつ止めた。技術として学んだことは多い。
だが、ハルヴァが聞いているのは、それではなかった。
「始めることも、止めることも……自分で選ぶことです」
ハルヴァの瞳が、まっすぐアレンへ向けられる。
「昨日、俺は制御盤を壊せるだけの力を出しました。でも、本当に必要だったのは、何もかも壊すことじゃなかった」
細い導魔線を一本焼き切り、歪んだ弁を開く。それだけでよかった。
「力があるから使うんじゃない。先に必要な力を決めて、それだけを使う。……それを覚えました」
「それを、お前一人で決めたのか」
「いいえ」
アレンは迷わず答えた。
「ドレイヴが道を作って、マナが俺の限界を見てくれた。療養院の人たちも患者を運び出していた」
ハルヴァは何も言わず、続きを待っている。
「俺が止まっても、助けられる人たちがいた。だから……止められたんです」
「仲間に任せた、ということか」
「はい」
「それで、自分は制御できたつもりになったか」
ハルヴァの声が冷たさを帯びると、アレンは顔を上げた。
「いいえ」
「お前はまだ、刻印を支配したわけじゃない」
肺へ送られる風が、僅かに強くなる。
「昨日も刻印は、お前の意思を超えて開こうとした」
「……分かっています」
「一度止められた。それだけで、次も止められる保証にはならん」
「それも、分かっています」
「いや。分かっていない」
ハルヴァの灰緑色の瞳が、アレンを射抜いた。
「刻印は、使うたびにお前の身体へ深く根を張る」
部屋の空気が僅かに動く。
「お前がどこまで耐えられるのか。どんな感情に反応して力が開くのか。呪縛の進み方も、そのたびに変わる」
何も感じないはずの右手の奥を、刻印の熱だけが一瞬走った。
「次も昨日と同じ止め方が通じるとは思うな」
「だったら、俺も……昨日と同じままではいません」
アレンが答えると、ハルヴァの目が僅かに細くなる。
「初めて刻印を使ったとき、俺は自分に何が起きているのかさえ分かりませんでした。暴走したときも、止め方が分からなくて……仲間の声すら聞こえなかった」
白い光の中、雷が身体を駆け巡り、自分の意思とは無関係に力が生まれた。
その雷を守りたい仲間へ向けてしまった。
「でも昨日は、力が広がろうとしているのが分かりました」
刻印は周囲の魔力を吸い込み、さらに強い力を求めていた。
制御盤ごと吹き飛ばせと、身体の奥から迫ってきたのだ。
「雷がどこから流れて、どこを閉じればいいのかも……少しだけ分かりました」
「少しだけ、か」
「はい。まだ、完全に制御できたわけじゃありません」
アレンは誤魔化さずに答える。
「次も同じように止められる保証はない。でも、次は昨日より早く気づきます。もっと弱く使って、もっと早く止めるつもりです」
「それができなければ?」
「マナに封止環を閉じてもらいます。それでも止まらなければ、ドレイヴに止めてもらう」
ドレイヴが腕を組んだまま、黙って頷いた。
「最初から、一人では使わないと決めています」
「仲間がいない場所では、どうする」
「使いません」
「……目の前で、誰かが死にかけていてもか」
アレンは一瞬、呼吸を止めた。
それは、簡単に答えられる問いではない。以前の自分なら、身体が壊れても自分が死んでも構わないと、迷わず力を使うと答えていただろう。
「そのときは、まず自分にできる別の方法を探します」
「……それが、なければ?」
「それでも、最初から命を捨てるつもりで力は使いません」
ハルヴァは何も言わず、アレンを見つめた。
「助けるために力が必要なら使います。でも、誰にも頼れない状況を当たり前にはしない。そうならないように、先に動きます」
「ずいぶんと都合のいい答えだな」
「……はい」
アレンは否定しなかった。
「でも、最初から自分が死ぬことを前提にするよりは、その方がいい」
ドレイヴが僅かに笑う一方で、マナは何も言わず、ただアレンを見つめている。
静かな室内を巡るのは、ハルヴァの呼吸を作る風だけだった。
「昨日は一度、自分で止まれただけだ。そこで満足するな」
「していません」
「次は、もっと早く、もっと弱く使え。使えたことを誇るな。覚えておくのは、自分で止められたことだけだ」
「……分かりました」
ハルヴァは僅かに瞼を伏せた。
褒めることも、正解だと告げることもない。ただ、次へ進むための課題を与える。それが彼なりの評価なのだと、アレンには分かった。
「一つ、聞いてもいいですか」
アレンがそう切り出すと、ハルヴァの瞼が上がった。
「何だ」
「力が必要かどうか迷ったとき……何を基準に決めるんですか」
「俺に答えを決めてもらうつもりか」
「いいえ」
アレンは首を振った。
「ハルヴァさんが、何を基準に決めているのか。それを知りたいんです」
しばらく沈黙が続いた。
「……失うものを数える」
やがて、ハルヴァが答えた。
「使えば何を失う。使わなければ何を失う。自分が倒れたあとに、誰が残るのか。すべて数えたうえで決める」
「数える時間がないときは?」
「なら、普段から数えておけ」
掠れた声が冷たく返ってくる。
「自分の限界。仲間にできること。敵の力。逃げ道……戦場に出てから初めて考えるから、最大の力へ逃げる」
アレンは、その言葉を胸へ刻んだ。
最大の力を出せば迷わずに済む。自分がすべてを背負えば、他人を信じる必要もない。
だが、それは覚悟ではなく、考えることから逃げていただけなのかもしれなかった。
「……覚えておきます」
「覚えるだけでは足りん。何度でも繰り返せ」
「はい」
ハルヴァは僅かに間を置き、再びアレンへ問いかける。
「なら答えろ。お前は、なぜ刻印を使う?」
初めてハルヴァと会ったときに投げかけられた問いに、あのときのアレンは答えられなかった。
仲間を傷つけたくない――そう答えはしたものの、それは使わない理由にすぎないと否定された。
では、何のために使うのか。
今なら、その答えを言葉にできる。
「守るためです」
「誰を守る」
「マナとドレイヴ。それから、目の前にいる助けが必要な人たちを」
「……そこに、お前自身は入っていないのか」
以前なら、言葉に詰まっていたかもしれない。
だがアレンは、マナとドレイヴの顔を一度ずつ見たあと、ハルヴァへ向き直った。
「俺もです」
マナの呼吸が一瞬止まる。
「俺も含めて、全員で生きて帰るために、この力を使います」
「その力が、お前を殺すとしてもか」
「……殺されることまで、受け入れるつもりはありません」
呪縛が消えないことも、力を使うほど身体が失われていくことも分かっている。
それでも、死ぬ未来まで決められたわけではなかった。
「呪縛を止める方法が見つからなくても、進み方まで決められたわけじゃありません。使う力を減らす。早く止める。一人では使わない。……まだ、できることはあります」
「それでも、お前は失い続ける」
「そのときは、そのたびに考えます」
アレンは感覚のない右手を持ち上げ、左手で支えた。
「右手が動かないなら、別の戦い方を覚える。雷で動かすなら、壊さずに済む使い方を覚える。それに……失ったものを取り戻す方法だって探します」
「見つからなければ?」
「見つかるまで、今できることを続けます」
ハルヴァの灰緑色の瞳が、アレンを見据えている。
「刻印を捨てるつもりはないのか」
「今は、ありません」
「なぜだ」
「この力で、助けられた人がいるからです」
グリムフォードでは何もできず、ファランディアでは刻印を暴走させ、守りたい仲間へ雷を向けてしまった。
だが、昨日は違う。必要な場所へ必要な力だけを使い、自分の意思で止めることができた。
これまでのすべてが失敗だったわけではなく、刻印もまた、危険なだけの力ではない。
だからこそ、その使い方を決めるのは、刻印ではなく自分でありたかった。
「だから、この力を使うのか」
「はい。でも、刻印に使わされるつもりはありません」
アレンは右手の甲を見下ろした。
「刻印が求めるままに力を出すんじゃない。必要なときに、必要な分だけ使う」
それから顔を上げ、ハルヴァをまっすぐ見返す。
「使うかどうかも、どこで止めるかも……俺が選びます」
部屋に沈黙が落ちた。
ハルヴァの胸が、送り込まれた風によってゆっくりと膨らむ。
「それが、お前の答えか」
「今の俺の答えです」
「……今の、か」
「この先、もっといい答えが見つかるかもしれません」
「変えるなとは言わん」
ハルヴァは静かに言った。
「刻印を使う理由は、何度でも変わる」
灰緑色の瞳が、窓の外へ向けられる。
「復讐のために使う者もいる。国のため、家族のため、自分が生きるため……理由が正しいかどうかなど、刻印は気にしない」
「なら、大事なのは――」
「その理由を、自分で選び続けることだ」
ハルヴァの胸が、再び風によって膨らんだ。
「刻印に選ばせるな」
「……はい」
アレンは短く答えた。
「ハルヴァさん」
「何だ」
「次に会うときは、昨日より弱い雷を見せます」
「弱くするだけでは意味がない。止められなければ同じだ」
「なら、昨日より早く止めます」
「口で言うだけなら、誰にでもできる」
「だから、次は証明します」
ハルヴァは僅かに目を細めた。
「生きて、ここへ戻ってこい」
「はい」
アレンは動かない右手を外套へ隠さず、踵を返した。
歩みに合わせて、その手が身体の横で静かに揺れる。




