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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第二章『刻まれし代償』

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第24話『必要な力だけ』


 最初に瓦礫へ手をかけたのは、ドレイヴだった。


「下がってろ!」


 火属性の魔装が両腕を覆う。


 この先には、限界まで魔力を蓄えた魔法石がある。外装が破損していれば、剥き出しになった核へ僅かな熱や衝撃が加わるだけでも、爆発を招きかねない。ドレイヴは赤色に光る魔力を筋肉へまとわせ、通路を塞ぐ石材へ肩を押し当てた。


「おおおっ……!」


 砕けた石床へ靴底がめり込み、巨大な石材が軋みながら僅かに浮き上がる。


「アレン! 今だ!」


 人一人が腹這いで通れるほどの隙間が開くと、アレンはすぐさま床へ身を伏せ、その下へ潜り込んだ。

 そのすぐ後ろから、マナも潜り抜ける。


「待て! マナ、お前まで来る気か!」


「行くよ。アレンの状態は、わたしが見るって約束したでしょ!」


「ここは訓練場じゃねえ。何が起きるか分からねえんだぞ!」


「分かってる。だから、わたしが必要なの!」


 言い争っている時間はなかった。

 頭上の石材が不気味に軋み、ドレイヴの腕も震え始めている。


「いいから、さっさと行け!」


「道ができたら、お前もすぐ追ってこい!」


「言われなくても行く! お前らこそ、勝手に奥まで進むんじゃねえぞ!」


 アレンとマナが瓦礫の向こうへ抜けた直後、石材が轟音とともに床へ落ち、噴き上がった粉塵が視界を灰色に染めた。


 マナが杖を振ると、薄い水の膜が二人を包み、迫る粉塵を受け止める。濁った水滴は床へ落ち、黒い筋となって流れていった。


「呼吸は? 苦しくない?」


「大丈夫だ。問題ない」


「右手の熱は?」


「そっちは……まだ変わらない」


 マナはアレンの様子を確かめ、短く頷いた。


「分かった。でも、何か一つでも変わったら、すぐに言って」


「ああ。分かってる」


 崩落した通路の先は、先ほどまで療養院だったとは思えない姿へ変わっている。


 床は斜めに傾き、壁から引き剥がされた導魔線が紫色の火花を散らしていた。治療室から流れ出した薬液と水が石床を濡らし、焼けた金属と薬草の臭いが混ざり合う中、奥から子供の泣き声が聞こえてくる。


「誰かいるか! 返事をしてくれ!」


 アレンが叫ぶと、右手側の治療室から掠れた声が返ってきた。


「こ、ここです!」


「中に何人いる!」


「扉が開かないんです! 患者が三人、それから子供が四人います!」


 入口には、天井から落ちた太い梁が斜めに突き刺さっていた。


 扉そのものは壊れていないものの、梁が取っ手の前を塞いでいるため、内側からも外側からも動かせなくなっている。


「怪我人はいるか!」


「子供が一人、脚を挟まれています! 患者も全員、自力では歩けません!」


「分かった。そこを動くな! 必ず開ける!」


 そう答えた直後、通路のさらに奥で紫色の光が膨れ上がり、壁の内側から腹の底を震わせるような低い音が響いた。


 ぶうん。


 ぶうん。


 一定だった間隔が、少しずつ短くなっていく。


「制御盤……」


 崩れた壁の向こうには、半ば剥き出しとなった金属箱が見えた。そこから伸びる導魔線は、すべて同じ紫色に染まっている。


 赤い封止文へ続く線を切れ――そう説明されていた。


 だが、今の状態では、どれが本来赤かった線なのか見分けられない。間違えれば、過充填した魔法石が爆発するか、あるいは北側の生命維持区画への供給が止まる。


 どちらも選べなかった。


「先に、あの制御盤を止める」


 アレンがそう言うと、マナは治療室を見た。


「でも、あの部屋にいる人たちは……」


「今ここで爆発したら、全員死ぬ」


「だからって、一人で行くつもり?」


「すぐそこだ。ここからでも見える」


「そういう意味じゃないよ」


 マナはアレンの前へ回り込み、まっすぐに彼を見つめる。


「さっき、力を貸してって言ったよね」


「ああ」


「だったら、勝手に一人で背負うものを増やさないで」


 アレンは口を閉じた。


 治療室の扉を開け、制御盤を止め、患者を運び出す。そのすべてを、自分一人でやろうとしていた。


「……分かった」


 アレンは治療室へ向き直り、声を張り上げた。


「中にいる職員さん! 梁には触るな! 仲間が来るまで、そのまま待っていてくれ!」


「分かりました!」


 返事を確かめると、アレンはマナへ向き直る。


「マナはここに残って、治療室と俺の両方を見ていてくれ」


「うん、分かった」


「それから……俺の様子がおかしくなったら、すぐに止めろ」


「言われなくても止めるよ。絶対に」


 マナが測定石を取り出すと、透明だった石の中心には、すでに淡い橙色の光が灯っていた。


「封止環を一層だけ開けてもらうよ」


「治療師、来られるか!」


 呼びかけに応じ、落ちた石材の脇から治療師が這い出してきた。


「外側だけ解除します。異常を感じたら、すぐ戻ってください」


「お願いします」


 一つの紋様が消えた瞬間、青黒い刻印が皮膚の下から浮かび上がる。右手の甲に宿った熱はそのまま手首へ広がり、前腕の奥で細い雷へと変わっていった。


 周囲に溢れた魔力へ引かれるように、刻印が強く脈打つ。


「周りの魔力を取り込もうとしてる。いつもより速い」


 マナの声が硬くなる中、アレンはゆっくりと呼吸を整えた。

 力を押さえ込んではならない。押し返せば、逃げ場を失った雷が身体の内側を焼く。


 開こうとする力へ、進む場所を与える。ただし、必要な場所だけへ。

 右肩から上腕、肘、前腕へと導き、五本の指には細い雷の糸を一本ずつつないでいく。


 垂れ下がっていた指が震え、まず人差し指が持ち上がった。続いて親指、中指、薬指、小指が動き、五本の指は不揃いながらも、ゆっくりと閉じていく。


「右手、つながった」


「確認した。出力は昨日の訓練より高いよ」


「どのくらいだ?」


「一・三倍。……これ以上は上げないで」


「脚にも少し流す」


「待って。脚は通常の魔装だけにして。刻印の雷は、右腕の外へ出さないで」


「……分かった」


 脚には、空気中から集めた魔力だけを薄くまとわせた。刻印の力ではないが、崩れた床を進むにはそれだけで十分だった。


 アレンは一歩ずつ制御盤へ近づいていく。


 傾いた床の下では、石が落ち、金属が弾ける音が絶え間なく響いていた。その向こうからは、子供たちの泣き声も聞こえてくる。


 急げ。


 そう思うほど、右手の刻印は強く脈打った。


 制御盤の前へ辿り着くと、歪んだ外装の上半分が壁から外れかけている。内部には十本以上の導魔線が密集し、紫色の光を不規則に明滅させていた。


 どれが生命維持区画へ続く線で、どれが過充填を起こしている線なのか。見ただけでは判別できなかった。


 アレンは右手の人差し指を伸ばす。


「何をするつもり?」


「刻印の雷を流して、返ってくる反応を確かめる」


「……何秒流すの?」


「三秒」


「長すぎる。一秒にして」


「それじゃ反応を読み取れない」


「今の出力で三秒も流したら、探し終わる前に危険域へ入るよ」


 紫色の光がさらに一段強まり、壁の奥から破裂音が響いた。


「二秒だ」


 アレンは導魔線から目を離さずに言った。


「二秒で見つからなかったら、その時点で一度止める」


 マナは測定石とアレンを交互に見た。


「……約束して。見つからなくても、必ず止めるって」


「ああ。見つからなくても止める」


「分かった。二秒だけだからね」


 アレンは指先を最も端にある導魔線へ触れさせた。


「……始めて!」


 青白い雷が走り、導魔線の中へ流れ込むと、いくつもの分岐へ分かれていく。


 返ってきたのは光ではなく、右手の奥へ伝わる振動だった。

 一つの流れは遠くまで安定して続き、ゆっくりと満ちては、ゆっくりと弱まっていく。まるで、誰かが呼吸を繰り返しているようだった。


 生命維持区画。


 切ってはいけない線だ。


 別の流れは途中で行き止まり、押し込まれた魔力が制御盤へ逆流している。速く乱れた脈動は、そのたびに周囲の線まで巻き込もうとしていた。


 これだ。


「止めて!」


 マナの声と同時に、アレンは雷を切った。

 指先から火花が散り、右腕の筋肉が勝手に収縮する。指が強く握り込まれた。


「見つけた」


「本当に? どの線?」


「生命維持の線は、呼吸みたいな流れだった。切るのは、その隣にある――」


 言い終わるより先に床が大きく揺れ、アレンの足元で石板が割れた。

 傾いた身体を支えきれず、右脚が床の亀裂へ滑り込む。


「アレン!」


 反射的に右手を制御盤の縁へ伸ばすと、五本の指が金属を掴んだ。


 だが、感覚がないため、どれほど強く握っているのか分からない。指先の皮膚が裂けても、骨が軋んでも、右手は何も伝えてこない。


「指の出力が上がってる! もっと弱めて!」


「無理だ、このままじゃ落ちる!」


「腕で耐えないで! 脚を使って、身体を支えて!」


 アレンは左脚へ重心を移すと、魔装をまとった脚で床を蹴り、亀裂から右脚を引き抜いた。

 制御盤を掴んでいた指へ流す雷を、親指から一本ずつ弱めていく。やがて手が開き、金属から離れた。


「戻った。出力も下がってる」


 マナの声を聞き、アレンは浅く息を吐く。


 自分一人なら、指が壊れるまで右手の力を強めていただろう。だが、マナの声に従い、右手の力を強めずに体勢を立て直せた。


「アレン!」


 背後からドレイヴの声が響いた。

 ドレイヴが瓦礫を慎重に押し退け、先ほどより広くなった穴から、赤い魔装をまとって飛び込んでくる。


「勝手に奥まで行くなって言っただろ!」


「まだ、お前から見える場所だ」


「そういう屁理屈はあとにしろ! 俺は何をすればいい!」


 アレンは制御盤の下を指した。


「線を切ったら、あの弁を開けてくれ。たぶん歪んでる」


「要するに、力仕事だな」


 そう言いながらドレイヴが制御盤の前へ立った、そのときだった。

 治療室から悲鳴が上がる。


「天井が!」


 扉を塞いでいた梁が沈み込み、治療室の壁には亀裂が走っていた。白い石片が内側へ落ち始めるのを見て、ドレイヴが振り返る。

 制御盤の弁を開けるには、ドレイヴの力が必要だった。


 だが、治療室の梁を支えなければ、中にいる者たちが押し潰される。


「俺が梁を支える!」


 ドレイヴが治療室へ駆け出そうとする。


「待て、ドレイヴ!」


「待ってる暇があるか!」


「先に弁を開けないと――」


「中には子供がいるんだぞ!」


 怒鳴り返された瞬間、アレンの胸に冷たいものが走った。

 どちらも必要だった。どちらかを選べば、もう一方が間に合わない。


 制御盤を止めなければ、全員が爆発に巻き込まれる。だが、梁を支えなければ、治療室の者たちが先に死ぬ。


 ならば、自分が弁を開ければいい。

 雷の出力を上げればできる。ドレイヴが梁を支え、自分が制御盤を止めればいい。


 そう考えた、そのときだった。


 右手の奥で、黒い扉が軋む。

 暗闇の中から、何かがこちらを見ている。


 一度にすべてを動かせ。


 右腕だけでは足りない。脚へ、背中へ、心臓へ。


 全身を雷へ変えれば、梁も制御盤も、まとめてどうにかできる。

 刻印が青白い光を放ち、その輝きは手首を越えて前腕へ駆け上がった。


「アレン!」


 マナが叫んだ。


「黒い扉が見えてるんでしょ!」


 アレンは答えられなかった。


「ちゃんと報告して!」


 黒い扉の隙間が、さらに広がっていく。


「アレン!」


「……見えてる」


 アレンは絞り出すように答えた。


「右腕は?」


「熱い。もう肘まで上がってる」


「だったら、一人で決めないで!」


 マナの声が、激しい耳鳴りを貫いた。


「何が必要なのか、三人で決めるって言ったよね!」


 アレンがドレイヴを見ると、彼もまた、まっすぐこちらを見返していた。


「梁は、どのくらい持ちそうだ?」


 アレンが尋ねると、ドレイヴは即座に答えた。


「俺が支えりゃ、持たせられる」


「そのあと、弁を開けるだけの力は残るか?」


「残す」


「嘘をつくな」


「お前にだけは言われたくねえ!」


「残るのか、残らないのか!」


 ドレイヴは一瞬だけ、治療室の梁を見た。


「……分からねえ」


 正直な答えだった。

 アレンは次に、マナを見る。


「マナ、水で梁を支えられるか?」


「無理! あれは重すぎる」


「なら、何秒まで落ちるのを遅らせられる?」


「十秒。長くても十五秒」


 十五秒。その間にアレンが線を切り、ドレイヴが弁を開けて治療室へ戻る。


「まず、マナが一時的に梁を支える」


「うん、分かった」


「その間に、ドレイヴは弁を開けてくれ」


「任せろ」


「俺は……線を切ることだけに集中する」


 言葉にしてみれば、自分のやるべきことは驚くほど少なかった。

 自分が梁を持ち上げる必要も、弁を回す必要もない。すべてを壊す必要など、なおさらなかった。


 一本だけ。


 過充填を起こしている導魔線を、ただ一本だけ切ればいい。


「行くよ!」


 マナが杖を治療室へ向けると、大量の水が床を走り、扉を塞ぐ梁の下へ潜り込んだ。幾重にも折り重なった水流は透明な柱となり、梁を押し返していく。


 その間に、ドレイヴは制御盤の下へ両手を伸ばし、アレンは右手の人差し指を密集した導魔線へ向けた。


 黒い扉は、まだ開こうとしている。もっと力を使えと訴えかけてくる。

 マナの手にある測定石が、橙色から赤へ変わった。


「危険域に入った! それ以上は上げないで!」


 だが、必要なのは大きな雷ではない。

 指先から導魔線までの僅かな距離に、髪の毛ほど細い道を通せばいい。


 それだけでよかった。


「残り十二秒!」


「アレン、急げ!」


 ドレイヴの叫びに、アレンも声を張り返した。


「分かってる!」


 生命維持区画へ向かう、ゆっくりと満ちては弱まる呼吸のような流れを思い出す。


 狙うのは、その隣で逆流し、暴れ続けていた一本だ。

 アレンは狙いを定め、刻印から人差し指へ一本の雷を通した。


 放たれた青白い糸は制御盤の隙間へ入り込み、過充填を起こしている導魔線だけを焼き切る。アレンが即座に人差し指への雷を断つと、赤熱した断面から火花が弾けた。


「切れた!」


「残り五秒!」


「ドレイヴ、今だ!」


「分かってる!」


 ドレイヴが排出弁を掴むと、全身を覆う魔装が強く輝いた。


「おおおおっ!」


 金属が軋んだものの、弁は動かなかった。


「残り三秒!」


 治療室を支えていた水の柱が歪み始める。


「回れっ!」


 ドレイヴの肩から鈍い音が響いたが、それでも手を離さない。

 やがて、歪んだ弁が僅かに回った。


 錆びついていた固定具が砕け、弁が一気に回る。


 直後、床下から轟音が響き、溜め込まれていた魔力が排出術式へ流れ込む。銀色の光が床を走ると、紫色に染まっていた導魔線は一斉に青へ戻っていった。


「マナ、もう離せ!」


 ドレイヴはそう叫ぶと、水の柱が崩れる寸前に治療室へ駆け戻り、落下する梁の下へ肩を差し入れた。


「ぐっ……!」


 衝撃に膝が沈んだものの、梁はその場で止まる。


「今だ! 早く開けろ!」


 治療室の職員たちが内側から扉を押すと、僅かな隙間が生まれ、最初の子供が這い出してきた。


 続いて二人目、三人目も脱出し、療養院の職員も歩けない患者を背負って外へ出る。


「急げ!」


 ドレイヴの腕は震えていた。

 マナも治療室へ駆け寄り、出てきた患者たちを安全な場所へ誘導していく。


 アレンは制御盤の前に立ったまま、その光景を見つめていた。


 制御盤は止まった。

 魔法石の振動は弱まり、排出術式も正常に動いている。もう、刻印を使う必要はない。


 そう分かっているのに、右手の雷は消えなかった。


 切ったはずの雷の糸が再びつながり、指が強く曲がっていく。刻印は床下へ流れた魔力を追おうとし、青白い光が手首から肘へ広がった。


「アレン、もう止めて!」


「止めようとしてる!」


「なら、人差し指から! 一本ずつ切って!」


 人差し指へ流れる雷を探す。

 だが、五本の糸は絡まり合い、右腕の奥で一つになろうとしている。


 そのとき、黒い扉の向こうから声が響く。


 まだ終わっていない。

 もっと使え。

 すべてを確かめろ。


「アレン!」


 マナの声に、アレンは治療室を見やった。三人目の患者が運び出されたが、出てきた子供は三人だけだった。


「まだ奥に、女の子が一人います!」


 職員が息を切らしながら叫んだ。


「脚を挟まれて……動けないんです!」


 身体が勝手に治療室へ向かおうとした。

 刻印を止めている場合ではない。雷を脚にも流せば、梁の下を抜けて少女を助け出せる。


 自分なら、まだ間に合う。


「ドレイヴ!」


 アレンが声を張る。


「まだ一人、奥にいる!」


「聞こえてる!」


 梁を支えたまま、ドレイヴが叫び返した。


「俺が行く!」


「でも、お前が離れたら梁が――」


「職員! ここを代われ!」


 二人の職員が駆け寄り、支柱と壊れた寝台を梁の下へ差し込む。


「これでは、長く持ちません!」


「一人連れ出すまで持てばいい!」


 ドレイヴが梁から肩を抜いて治療室の中へ飛び込むと、アレンもその後を追おうとした。


 だが、その外套をマナが掴む。


「待って、アレン」


「まだ一人、残ってるんだ!」


「ドレイヴが行った。今は信じて!」


 マナはアレンの正面へ回り込み、震える手で外套を掴んだ。粉塵に汚れた顔のまま、それでも目だけは逸らさない。


「梁は職員の人たちが支えてくれてる。魔力の流れも治療師が確認してる。もう、アレン一人の役目じゃない」


 右手の刻印が、なおも強く脈打つ。


 ドレイヴが奥へ向かい、職員たちが梁を支え、治療師たちが制御盤を監視していた。

 自分が動かなくても、救助は続いている。


 一人ではない。


「……分かった」


 アレンは強く握り込まれた右手を見つめ、一つずつ雷の糸を切っていく。


 人差し指、親指、中指、薬指、小指。続いて手首、前腕、肘。

 指が開いていく間も、刻印はなお、力を出せと脈打ち続けていた。


「もう必要ない」


 最後に、刻印と右腕をつなぐ雷の根元を断ち切ると、青白い光が手の甲へ集まり、細い火花となって消えた。


 右腕から力が抜け、肩から先が重く垂れ下がる。同時に脚の魔装も解けたことで足元が揺らぎ、アレンはマナに支えられながら膝をついた。


 マナが測定石を近づけると、赤く染まっていた光は少しずつ橙色へ戻っていく。


「出力、下がってきてる」


 そのとき、治療室の奥から石の崩れる音が響いた。

 アレンは反射的に立ち上がろうとしたが、マナが肩を押さえる。


「待って。……信じるんでしょ?」


 アレンは歯を食いしばり、その場に留まった。

 短いはずの時間が、ひどく長く感じられる。


 やがて――


「どけえええっ!」


 ドレイヴの怒声が響き、治療室の暗闇から赤い魔装の光が現れた。


 その腕には、片脚から血を流す小さな少女が抱えられている。少女は意識を保ち、粉塵で灰色に汚れた紙の風車を胸元に抱えていた。


「治療師! この子を頼む!」


 ドレイヴが叫ぶと、待機していた治療師が少女を受け取り、その場で脚の処置を始めた。

 治療を受けながら、少女は弱々しく顔を上げる。


「お兄ちゃんたち……」


「無理に喋らなくていいよ」


 マナが優しく声をかけた。


「もう大丈夫だから」


 少女が小さく頷くと、その手から紙の風車が滑り落ちた。

 アレンは左手を伸ばし、床へ落ちる寸前で受け止める。羽根の一枚は破れ、青い紙には血と灰がこびりついていた。


「それ……」


 少女が手を伸ばし、アレンは風車を返そうとした。

 だが、少女は首を横に振る。


「あげる」


「……俺に? どうして」


「助けてくれたから。お礼」


 アレンがドレイヴとマナを見ると、ドレイヴは肩を押さえながら荒い呼吸を繰り返し、マナの顔にも魔力を使い続けた疲労が滲んでいた。


 梁を支えていた職員たちは床へ座り込み、その傍らでは、治療師たちが患者を一人ずつ確認している。


「俺一人が助けたんじゃない」


 アレンは少女へ言った。


「みんなで助けたんだ」


 少女は三人を順番に見つめる。


「じゃあ……みんなに、あげる」


「ああ」


 アレンは左手で風車を持ち上げた。


「三人で受け取る」


 少女は安心したように、小さく頷いた。


「患者三名、子供四名、職員二名!」


 治療師の声が崩れた通路に響き渡る。


「全員の救出を確認しました! 生命維持区画も正常です!」


 その言葉を聞いた途端、張り詰めていた空気が緩んだ。すすり泣く声が漏れ、職員の一人がその場へ座り込む。


 ドレイヴはアレンの前まで歩いてくると、左拳を差し出した。


「戻ったぞ」


「ああ。……お前もな」


 アレンが左拳を重ねる。


「約束したからな」


「一人で制御盤まで行っただろうが」


「見える場所だった」


「また屁理屈かよ」


 マナが二人の間へ入った。


「でも、最後はちゃんと止まれたよ。ドレイヴに任せて、自分で力を切れた」


「なら……ぎりぎり合格だな」


「どうしてお前が決めるんだ?」


「少なくとも、お前よりは信用できる」


 そう言ったあと、ドレイヴは右肩を押さえて顔をしかめた。


「肩、痛むの?」


 マナが尋ねる。


「これくらい、何でもねえ」


「隠すなよ」


 アレンが言うと、ドレイヴはすぐさま睨み返した。


「お前にだけは言われたくねえ!」


 マナが小さく笑い、アレンも僅かに口元を緩める。


 右手は動かず、失った感覚も戻ってはいない。刻印の奥には、今も黒い扉が残っており、次も止められる保証などどこにもなかった。


 それでも今日、アレンは初めて、自分の力が必要なくなった瞬間に止まることができた。

 最後の一人を救ったのは、アレンではない。


 だが、それでよかった。


 アレンは感覚のない右手を隠さず、左手に破れた風車を持つ。

 崩れた壁の隙間から弱い風が吹き込み、汚れた羽根が三人の間でゆっくりと回り始めた。


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