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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第二章『刻まれし代償』

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第23話『戻るための道』


 人差し指が動いた。


 剣を振るったわけでも、雷で敵を倒したわけでもない。ただ、動かなくなった右手の指を一本、ほんの数秒だけ曲げた。それだけのことだった。


 それでも翌朝になってなお、アレンはそのときの感覚を忘れることができなかった。


 いや、正確には感覚などなかった。雷の糸に引かれて人差し指が曲がっていく様子を、ただ目で見ていただけだ。指先はゆっくりと掌へ近づき、雷を止めた瞬間、再び力を失った。


 それでも、確かに動かしたのだ。

 自分の意思で動かし、自分の意思で止めた。


 療養院の客室で目を覚ましたアレンは、寝台の上に右手を置き、昨日と同じ動作を何度も頭の中で繰り返している。


 刻印から必要な分だけ雷を引き出し、魔装の中に細い道を作る。その雷を前腕の筋肉に沿わせて人差し指まで送り、動いたところで止める。


 手順は、もうはっきりと覚えていた。今すぐにでも試したいという衝動が、胸の内側で次第に膨らんでいく。


 だが、右手首には銀色の封止環が巻かれている。昨日の訓練を終えたあと、エルザが外側の術式を閉じ直したものだ。許可なく解除すれば、すぐに施設側へ知られてしまう。


 何より、マナと約束していた。

 監視のない場所では使わない。使用時間を決め、止めろと言われたら必ず止める。


 アレンは膨らみ続ける衝動を抑えながら、左手で右の人差し指を持ち上げ、ゆっくりと曲げた。

 抵抗はなかった。筋肉も関節も壊れてはいないらしい。だが、左手を離した途端、人差し指は力を失い、再び元の位置へ戻る。


「起きてたんだ」


 背後から声がして振り返ると、マナが寝台の上で身体を起こしていた。長い髪の一部を頬に張りつかせたまま、まだ眠たげに目を細めている。


「……起こしたか?」


「ううん。今、起きたところ」


 そう答えながらも、マナの目はアレンではなく、真っ先に寝台の上の右手へ落ちた。


「それ……使ってないよね?」


「使ってない」


「本当に?」


「疑うなら、封止環を見れば分かるだろ。閉じたままだ」


「封止環が閉じていても、少しくらいなら引き出せるかもしれないじゃない」


 眠気の残っていた声に、わずかな硬さが混じる。アレンは右手から目を逸らさないまま、小さく息を吐いた。


「昨日、約束しただろ。一人のときには、もう使わないって」


 マナは一度まばたきをして、少し意外そうにアレンを見つめる。


「……ちゃんと覚えてたんだ」


「俺を何だと思ってる?」


「忘れたとは思ってないよ。ただ……」


 言葉を濁しながら、マナは寝台を下りた。素足で床を踏み、アレンのそばまで歩いてくる。


「今にも動かそうとしてる顔だったから」


「そんなことまで顔に出るのか?」


「出てるよ。アレンは、自分で思ってるより分かりやすいから」


 マナはそう言って身をかがめると、動かない右手の人差し指へ、確かめるようにそっと触れた。


「昨日、指が動いたとき……すごく嬉しそうだった」


「そんな顔をしてたか?」


「してたよ。子供みたいに、目を輝かせてた」


 マナはそこで言葉を切り、アレンの右手へ目を落とす。


「でも、そのあとすぐに、怖そうな顔になった」


 アレンは答えず、右手からそっと目を逸らした。


 動かせることへの喜びと、その力を使い続ければ、さらに呪縛が進んでしまうという恐怖。どちらも偽りのない感情であり、片方だけを選んで捨てられるようなものではなかった。


「……次の訓練、午後からだって。さっきエルザさんが言ってた」


「ああ、聞いてる」


「だったら、午前中はちゃんと休んで」


「分かってる」


「今の返事、休む人の返事には聞こえないんだけど」


 アレンはわずかに眉を寄せる。


「何もしない。封止環にも触らない。それでいいんだろ?」


「それだけじゃ足りないよ。右腕の内出血だって、まだ残ってるんだから」


「痛みはない」


「痛くないから、無理をしていいわけじゃない」


 マナは呆れたように息を吐き、それでも傷つけないよう慎重に、アレンの右腕を両手で持ち上げた。


「痛みを感じないなら、なおさら休まなきゃ。身体が出してる止まれっていう合図を、アレンは見落とすから」


 袖の下には、昨日の訓練で生じた青紫色の痣がいくつも残っている。それは、強すぎる電流によって筋肉が収縮し、血管が傷ついた跡だったが、感覚のない右手からは、その痛みさえ伝わってこない。


「痛くないを、何をしてもいい理由みたいに使わないで」


「そんなつもりで言ったんじゃない」


「でも、アレンはすぐそうするでしょ。痛くないから大丈夫だって」


 マナは持ち上げていた右手を、壊れ物を扱うように寝台へ戻した。


「アレンの場合は、痛くないからこそ危ないの。どこまで傷ついてるのか、自分じゃ分からないんだから」


「ああ」


「……本当に分かってる?」


「分かってる」


「本当に?」


「マナ」


 アレンが静かに名前を呼ぶと、彼女はようやく問いかけるのを止めた。それでも、顔に浮かんだ不安までは消えない。


「今日は無理をしない」


 アレンは言い聞かせるように、はっきりと告げた。


「昨日できたことを、もう一度確かめる。それだけにする」


「確かめられても、そこで終わりだよ」


「ああ」


「もう一本くらい動かせるかも、とか言い出さない?」


「言わない」


「そのまま剣も握れるかもしれない、とかは?」


 アレンは答えなかった。

 マナの目が細くなる。


「……考えてたんだ」


「考えただけだ」


「考えただけでも駄目」


「分かってる」


 マナはまだ疑うようにアレンを見つめていたが、やがて諦めたように小さく笑った。


「でも、昨日よりはちゃんと話してくれるようになったね」


「話さないと、いつまでも聞き続けるだろ」


「話してくれても聞くよ」


「それじゃ、話す意味がないじゃないか」


「あるよ」


 マナは笑みを消し、まっすぐにアレンを見た。


「アレンが一人で考えて、一人で決めなくなる。それだけで、ちゃんと意味がある」


 その言葉に、アレンは何も返せなかった。

 一方、部屋の反対側では、ドレイヴが毛布を頭まで被ったまま眠っている。ただ、こちらの会話が始まってから、一度も寝返りを打っていなかった。


「……起きてるだろ」


 アレンが声をかけると、毛布の中からくぐもった声が返ってきた。


「寝てる」


「返事をしてる時点で、起きてるじゃないか」


「寝ながら喋ってんだよ」


「ずいぶん便利な寝方だな」


「お前らが朝っぱらから、うるせえんだ」


 ドレイヴは観念したように毛布を剥ぎ取り、乱れた赤茶色の髪を乱暴に掻いた。


「それより、朝飯はまだなのか?」


「……今の話、聞いてた?」


 マナが疑うように尋ねる。


「聞いてねえよ」


「アレンが、剣を握ってみたいって」


「言ってない。考えただけだ」


「お前の場合、考えた時点で半分やる気だろ」


 ドレイヴは寝台から降りると、壁に立てかけてあったアレンの片手剣を手に取った。


「こいつは今日一日、俺が預かる」


「そこまでする必要はないだろ」


「右手が少しでも動いたんだ。試したくならないほうがおかしい」


「お前までマナみたいなことを言うな」


「俺たちが似てるんじゃねえよ。お前が分かりやすすぎるんだ」


 二人から同時に疑いの目を向けられ、アレンは諦めたように小さく息を吐いた。

 それでも、以前のような息苦しさはなかった。監視されているとも、止められているとも思わない。


 自分一人では気づけない限界を、二人が代わりに見てくれているのだ。まだ完全には慣れないものの、アレンはその意味を少しずつ理解し始めていた。


     ◇


 事故が起きたのは、その日の昼前だった。


 三人が療養院の中央棟にある食堂へ向かう廊下では、午前の診察を終えた患者たちが、治療師に付き添われながら歩いていた。


 杖をつく老人や、片腕を胸元に固定した兵士、魔力障害によって皮膚の一部が結晶化した女性。中には自分の足で歩くことができず、浮遊術式を刻んだ椅子に座っている者もいる。


 療養院の中では、それが日常だった。

 中央棟の一階には、患者が家族と面会するための広間があり、今日は街の学舎から数人の子供たちが見舞いに訪れていた。子供たちは、籠に入れた薬草の香り袋や小さな絵を、患者たちへ手渡している。


「これ、窓のところに置くと、よく眠れるんだって」


 七歳ほどの少女が、寝台椅子に座る老人へ小さな袋を差し出した。


「お母さんと作ったの」


「ありがとう。いい香りだ」


 老人が袋を受け取ると、少女は嬉しそうに笑った。

 その近くでは、二人の少年が紙で作った風車を手に、窓から入る弱い風へ向けて競争させている。色の違う紙の羽根が、くるくると回っていた。


「こういうところにも、子供たちが来るんだな」


 ドレイヴが広間の様子を眺めながら呟いた。


「たぶん、患者さんたちの気持ちを少しでも和らげるためだと思う」


 マナは子供たちを見ながら微笑んだ。


「ずっと療養院の中にいると、外の人と話す機会もなくなってしまうから」


「……そうか」


 アレンは何も言わず、風車を手にした子供たちを見つめていた。

 グリムフォードにも、あれくらいの年齢の子供が大勢いて、魔法学校の前の広場では木の枝を杖に見立てて遊んでいた。


 今、どれだけ生き残っているのかは分からない。


 そこまで考えかけて、アレンが目を逸らしたときだった。右手の甲がわずかに熱を持ち、アレンは足を止める。


「どうしたの?」


 足を止めたアレンに、マナがすぐ気づいた。


「刻印が、少し……」


「光ってるの?」


「いや、光ってはいない」


 アレンは黒い手袋の上から右手の甲を押さえた。

 熱はすぐに消えたが、耳の奥には低い音が残っている。


 ぶうん。


 虫の羽音にも似た規則的な振動は、刻印の反応とは違う。音は壁の向こうから聞こえていた。


「何か聞こえないか?」


 アレンが尋ねると、ドレイヴが周囲を見回す。


「何も」


「低い音だ。壁の中から聞こえる」


 マナも耳を澄ませた。


「わたしには分からない」


 アレンは音のする方角を探った。

 聞こえてくるのは、広間の奥――治療区画へ続く廊下の方からだった。壁には青白い光を放つ魔法灯が一定の間隔で並んでおり、そのうちの一つが一度だけ強く明滅する。


 ぶうん。


 音がさらに大きくなり、今度はドレイヴの耳にも届いたらしい。


「……何だ、この音」


 ドレイヴが眉をひそめた、そのときだった。廊下の奥から、一人の治療師が息を切らして駆けてくる。


「全員、すぐに広間から離れてください!」


 叫びが響くのと、壁の中で何かが弾けるのは、ほとんど同時だった。青白い火花が魔法灯の間を一気に駆け抜ける。


「伏せろ!」


 ドレイヴは反射的に二人へ飛びつき、アレンとマナを床へ押し倒した。


 直後、療養院全体を揺らす爆発が起きた。


 轟音とともに壁が内側から膨れ上がり、石と金属の破片が広間へ飛び散る。窓硝子も砕け、白い粉塵が一気に押し寄せた。


 悲鳴が重なる中、天井から照明用の魔法石が落下し、床へ激突する。

 ドレイヴは身体に魔装を纏い、背中で石片を受け止めた。


「マナ! 無事か!」


「大丈夫! アレンは――」


「ここにいる!」


 アレンは左腕で頭を庇いながら、ゆっくりと身体を起こした。右腕は床へ投げ出されたまま、動かない。


 耳鳴りがしていたが、それが爆発によるものなのか、刻印によるものなのかは分からなかった。粉塵で白く霞んだ視界の向こう、崩れた壁の奥から子供の泣き声が聞こえてくる。


「助けて! 誰か!」


「先生、こっち!」


「お願い、ここから出して!」


 それは、先ほど風車を手にしていた子供たちの声だった。

 広間と治療区画を隔てていた天井が崩れ、複数の患者と子供たちが、その奥へ取り残されている。


「行くぞ。瓦礫をどける!」


 ドレイヴは叫ぶと同時に、崩れた天井へ向かって駆け出した。

 アレンも後を追おうとしたが、その瞬間、廊下の壁に埋め込まれた魔力導線が紫色に光った。


 青ではない。それは、過剰な魔力が集まったときに現れる不安定な色だった。


「待て、ドレイヴ!」


 アレンは反射的に肩を掴もうとした。だが、右手は動かない。すぐさま左手を伸ばし、外套の背中を掴む。


「壁に近づくな。まだ危ない!」


「向こうに子供がいるんだぞ!」


「分かってる! だが、また爆発する!」


 その言葉を証明するかのように、廊下の奥で小さな破裂音が響いた。魔力導線から火花が散り、壁面に細い亀裂が走る中、療養院の職員たちが広間へ駆け込んでくる。


「何が起きてる!」


 ドレイヴが駆け込んできた職員たちへ怒鳴る。


「治療用魔法石が、限界を超えて充填されています!」


 治療師の一人が粉塵に咳き込みながら答えた。


「中央制御装置の遮断機能も壊れています! 治療用魔法石からあふれた余剰魔力を止められず、東棟の補助魔法石へ流れ込み続けています!」


「なら、今すぐ止めろ!」


「できません! 制御室へ続く通路が崩れて、中に入れないんです!」


 壁の中から、低い振動音が途切れることなく響いている。


 ぶうん。


 ぶうん。


 その間隔は、先ほどよりも短くなっていた。


「補助魔法石は、いくつある?」


 アレンが治療師へ問いかけた。


「この区画だけで、三基です」


「そのうち一基は?」


「最初の爆発で、すでに破損しています」


「余剰魔力は、どこから残りの二基へ流れ込んでいる?」


「制御室の先にある分岐導線です。そこから二本に分かれて、それぞれの補助魔法石へつながっています」


「その分岐を断てば、流入は止まるのか?」


「はい。ですが、制御室へ続く通路が崩れているうえ、導線には大量の魔力が流れています。今は誰も近づけません」


「残りの二基は、どれくらい持つ?」


「分かりません。数分……いえ、それ以下かもしれません」


 答えを遮るように、次の振動が床を伝い、足元を揺らした。

 アレンの右手に刻まれた刻印が再び熱を持ち、壁の中を流れる魔力へ反応する。


 そのとき、廊下の奥から強い風が吹きつけた。粉塵が押し戻され、一瞬だけ開けた視界の先に、ハルヴァの姿が見える。

 彼は風で動く椅子に座り、二人の治療師とともに広間へ向かっていた。


「ハルヴァさん!」


 姿を認めたエルザが、すぐに制止の声を上げた。


「ここへ来てはいけません。部屋へ戻ってください!」


「取り残されている者は何人だ」


 ハルヴァは止まることなく尋ねた。その声は、普段よりもひどく掠れている。


「確認できているだけで、患者が六名、子供が四名。それと、職員が二名です」


「……分かった。崩れた場所を開ける」


 ハルヴァが短く息を吐くと、その周囲へ風が集まり始めた。

 白い粉塵が渦を巻き、天井の亀裂からこぼれ落ちた小石が宙へ浮かび上がる。


「待ってください!」


 エルザが咄嗟に前へ出た。


「空気中には、治療薬の粉末と魔石の破片が混じっています。ここで強い風を起こしたら――」


「分かっている。だが、もう時間がない」


 ハルヴァは言葉を遮ると、さらに力を強めた。

 風は崩れた壁へ向かい、瓦礫の隙間へ入り込んで、一つずつ持ち上げようとする。


 その瞬間、ハルヴァの身体が大きく震えた。


「っ……!」


 肺へ送られていた風が乱れ、胸の上下が止まる。喉から乾いた音が漏れた。


「ハルヴァさん!」


 治療師が駆け寄ろうとしたが、乱れた風が周囲へ吹き荒れ、近づくことができない。

 ハルヴァは片手で喉を押さえた。指は動かず、風によって持ち上げられた手が胸元で不規則に揺れている。


「ごほっ……!」


 激しい咳が漏れた。


 呼吸に使う風が、空気中の粉塵まで肺へ運び込んでいる。吸うための風を強めれば、煙や石粉も一緒に取り込んでしまう。かといって弱めれば、肺が動かない。


 ハルヴァの胸が痙攣し、灰緑色の瞳から初めて余裕が消えた。


「浄化結界を!」


 エルザの叫びに応じ、治療師たちが杖を構え、ハルヴァの周囲に透明な膜を作り出す。しかし、彼自身の風が乱れているため、結界も安定しなかった。


「風を止めてください!」


「止めたら……今度は、息ができない……」


 言葉の途中で咳が重なり、椅子を支えていた風が消えた。横へ傾いたハルヴァの身体を、二人の治療師が飛び込むようにして椅子ごと支える。


 昨日まで、複数の風を寸分違わず操り、動かない身体さえ自らの力で立たせていた男が、今は煙と粉塵の中で呼吸することすらできない。

 雷を流さなければ右手が動かないアレンにとって、それは遠い未来の姿ではなかった。


 そのとき、廊下の奥で子供の悲鳴が響いた。


「天井が……!」


 瓦礫の隙間から見える天井に、新たな亀裂が走っている。


 アレンは考えるより先に、一歩を踏み出した。

 雷の刻印を使えば、崩れた通路を抜け、制御室の先にある分岐導線を断ち切れる。右腕が動かなくても、左手はある。たとえ身体が壊れても、取り残された者を救えるなら――。


 だが、次の一歩は出なかった。


 ――自分の身体だからって、アレンだけの問題じゃない。


 ――使うなら、俺たちの見ている前で使え。


 昨夜の二人の言葉が、相次いで蘇る。

 一人で無理をした結果、右手は動かなくなった。次も同じことをすれば、今度こそ戻ってこられない。


 それでも、子供たちを見捨てることはできない。

 ならば、一人で行かなければいい。


「マナ」


 アレンが振り返ると、彼女は負傷した患者に簡易治癒魔法を施していた。呼びかけに気づくと、すぐに手を止めてアレンのそばへ駆け寄る。


「どうしたの?」


「ドレイヴも、ちょっと来てくれ」


 瓦礫を動かそうとしていたドレイヴが手を止め、顔だけをこちらへ向けた。


「何だ、どうした」


 アレンは右腕を持ち上げようとした。肩と肘は動くものの、手首から先は力なく垂れ下がっている。


「右腕は……まだ、まともには動かない」


 二人は口を挟まず、アレンの続きを待った。


「でも、雷の魔装を使えば動かせる。ただし、昨日より長く使うことになる」


「長くって、どれくらい?」


 マナが問いかける。


「それは……分からない」


「分からないまま、使うつもりなの?」


「ああ。だから、マナに見ていてほしい」


 アレンは壁の魔力導線へ目を向けた。紫色の光が、脈打つように強くなっている。


「刻印を使えば、麻痺が今より進むかもしれない」


 口にした途端、恐れていたことが現実味を帯びた。


 麻痺は右腕だけでは済まず、脚へ広がる可能性もある。今しがた踏み出した一歩が、自力で歩く最後の一歩になるかもしれない。


 それでも、アレンは何一つ隠さなかった。


「耳鳴りも少しある。それに、刻印が熱を持ってる」


 マナはすぐに小さな測定石を取り出した。


「今、どれくらい光ってる?」


「手袋の下だ。見えない」


「じゃあ、外して」


 アレンは左手で手袋を外した。右手の甲に刻まれた印は、淡い青白い光を放っている。

 マナが測定石を近づけると、透明だった石の中心に細い青線が浮かび上がった。


「……昨日、訓練を始めたときより少し高い」


「使えるか?」


「使えるかどうかじゃなくて、危険かどうかを聞いて」


 アレンは一瞬だけ言葉に詰まった。


「……危険なのか?」


「危険だよ」


 マナは迷わず答えた。


「でも、今すぐ暴走するような数値ではない」


「どれくらい持つ。何秒だ?」


「分からない。動かす場所が増えるなら、昨日の記録は当てにできない」


 アレンは短く頷いた。


「危険域に入ったら、止めてくれ」


「わたしが止めてって言ったら、本当に止める?」


「ああ」


「まだ中に人が残っていても?」


 その問いに、胸が痛んだ。


 最後の一人を助けるまで止まりたくないし、たとえ自分が倒れても続けたい。だが、それでは同じことの繰り返しになる。


「止める」


 アレンは迷いを振り切るように答えた。


「そのときは、別の方法を考える。無理に続けたりはしない」


 マナは嘘や迷いを探すように、アレンの目を見つめた。やがて、その言葉を信じるように強く頷く。


「分かった。じゃあ、わたしが魔力と身体の反応を見てる」


「ああ。頼む」


 アレンは次に、ドレイヴへ顔を向けた。


「ドレイヴ、崩れた通路を開けてほしい」


「任せろ。全部どかせばいいんだな?」


「いや、そこまではいい。俺が通れる隙間と、戻ってくるための道だけでいい」


「……戻ってくるための道、か」


 ドレイヴの口元がわずかに緩んだ。


「最初から、そう言え」


「それと、瓦礫が崩れそうになったら支えてくれ」


「俺に、お前より先に潰されろって言ってるのか?」


「違う。一緒に戻るためだ」


 ドレイヴは一瞬だけ目を見開き、それから大きく息を吐いた。


「……分かった」


 ドレイヴは両拳を打ち合わせた。


「俺が道を作る。お前は、絶対にそこから外れるな」


「ああ」


「勝手に奥まで行くのもなしだ」


「分かってる」


「倒れそうになったら、意地を張らずに言え。手遅れになってからじゃ遅い」


「ああ」


「……その返事だけじゃ、やっぱり信用できねえな」


「だから、力を貸してほしい」


 アレンは二人の顔を見た。


「一人で行ったら……たぶん、戻ってこられない」


 以前のアレンなら、決して口にできなかった言葉だった。

 自分の弱さを認め、一人の力では足りないと伝える。そして、誰かを守るために助けを求める――それは、これまでの彼にはできなかったことだ。


「それでも、助けたい」


 瓦礫の向こうから、子供たちの泣き声が聞こえてくる。


「だから……二人とも、力を貸してくれ」


「当たり前でしょ」


 マナは迷いなく答えた。


「今さら頼まなくても、最初からそのつもりだよ」


「俺もだ」


 ドレイヴは崩落した通路へ身体を向ける。


「ただし、戻ってこなかったら、あとでぶん殴るからな」


「戻ってこなかったら、殴れないだろ」


「だったら、ちゃんと戻ってこい」


 短い言葉だった。

 けれど、それだけで十分だった。


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