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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第二章『刻まれし代償』

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第22話『力を止める者』


 再び地下の隔離訓練室が開かれたのは、その日の午後だった。

 マナは最後まで首を縦に振らなかった。


「朝、動かなくなったばかりなんだよ。せめて今日は休んで」


「だからこそ、今のうちに試したい」


「また刻印が反応したら、今度は右手だけじゃ済まないかもしれない」


「何もしなくても、この手は動かないままだ」


「でも、こんなに急いでやることじゃ――」


「今日やらなくても、明日には同じことを考える」


 アレンは動かない右手へ目を落とした。


「だったら、怖くなって逃げ出す前に確かめたいんだ」


 その言葉に、マナは何も返せず、悔しそうに唇を噛んだ。納得したわけではない。ただ、これ以上止めてもアレンの決意は変わらないと悟っただけだった。


 訓練室には、前回よりも多くの治療師が配置されていた。床を走る魔力導線も入念に点検され、アレンの右肩と胸には、心拍や筋肉の反応を測るための結晶が取りつけられている。


 ハルヴァは前回と同じ椅子に腰掛け、その様子を見守っていた。ドレイヴはアレンのすぐ左に立ち、マナは測定具と帳面を手に、少し離れた位置から彼を見つめている。


「刻印は使わせないでください」


 エルザがハルヴァへ強く念を押した。


「完全には封じられん」


「いいえ。完全にです」


「雷がなければ、あの腕は動かせない」


「通常の雷魔法では駄目なのですか?」


「試せばわかる」


 そう言って、ハルヴァはアレンを見た。


「まず、刻印を使わずに魔装を作れ」


 アレンは小さく頷くと左手を胸元へ添え、空気中に満ちる魔力をゆっくりと集め始めた。


 通常の雷魔法と同じ要領で青白い魔力を身体の周囲へ引き寄せる。ただし、術式を攻撃へ変換することはせず、そのまま皮膚の表面へ薄く纏わせていく。


 淡い雷光は肩から胸へ、そして右腕へと伝わり、やがて衣服と皮膚の隙間を満たすように静かに広がった。


「魔装、展開できました」


 マナが測定具へ目を落とし、数値を確かめる。


「出力は訓練時の三割ほど。今のところ、刻印の発光もありません」


「その状態を保て」


 ハルヴァはアレンの右手を見据えた。


「今度は、指を動かしてみろ」


 アレンは魔装の雷を右手へ集め、人差し指が曲がる姿を強く思い描いた。

 皮膚の上で火花が弾ける。だが指は動かない。


「もう一度だ」


 ハルヴァの声に促され、アレンはさらに魔力を込めた。青白い光が掌を覆い、細かな雷が指先まで走る。


 それでも、何の反応もなかった。


「……駄目です。動きません」


「リヴァの魔装が、軍や学校で教えるものとは違うことは知っているな」


「はい。魔力を纏うんじゃなく、筋肉へ練り込むように使うって」


「なら、それをやれ」


 アレンは動かない右腕を見下ろした。


「でも、筋肉に沿わせるには……」


「腕の中を見ろ」


「見えません」


「目で見ろとは言っていない」


 ハルヴァの声に、わずかな苛立ちが滲んだ。


「剣を振るたびに、筋肉の動きを目で確かめるのか?」


「……しません」


「なら、覚えているはずだ」


 灰緑色(かいりょくしょく)の瞳が、アレンをまっすぐ捉える。


「腕が動いていたときの感覚を思い出せ」


 アレンは、動かない右手を見つめた。


 指を曲げる感覚。昨日までは、意識することさえなかった動きだ。柄を握り、拳を作り、物を掴む――どれも当たり前にできていた。

 だが、思い出そうと意識を向けるほど、その感覚は指の隙間から零れ落ちるように遠ざかっていく。


「……思い出せません」


「なら、左手を使え」


 促されるまま、アレンは左手を開いた。


「人差し指だけ、ゆっくり曲げろ」


 アレンが指を曲げる。


「今、何が動いた?」


「人差し指です」


「それは見れば分かる。聞いているのは、その前だ」


 ハルヴァの声が鋭さを増した。


「手の甲か、掌か、それとも前腕か。どこで力が生まれ、どう指まで伝わった?」


 アレンはもう一度、左手の人差し指をゆっくりと曲げた。

 意識を指先ではなく、その動きを生み出している場所へ向ける。


 掌の奥。指の付け根。そして、前腕の内側。

 そこにある一本の筋がわずかに縮み、その力に引かれるようにして、人差し指が曲がっていくのが分かった。


「……腕から引かれてる」


「同じ場所を右で探せ」


 アレンは左手の動きを確かめながら、その感覚を右腕の構造へ重ねていった。


 右手には何の感覚もない。それでも筋肉そのものは失われておらず、指を動かすための筋も、確かに腕の中へ残っている。


 アレンは魔装の雷を細く絞り、腕全体を覆っていた青白い光を一本の線へと集めた。その線を前腕から掌へ、さらに人差し指の付け根へと慎重に導いていく。


 次の瞬間、ほんのわずかな火花が皮膚の下を走り、人差し指が小さく跳ねた。


「動いた!」


 その動きを見たマナが、身を乗り出した。


 しかし、人差し指が自ら曲がったわけではない。強い刺激を受けた筋肉が反応し、関節が一瞬だけ痙攣したにすぎなかった。


「強すぎる」


 ハルヴァが即座に言った。


「今ので?」


「動かしてるんじゃない。筋肉を殴ってるだけだ」


「でも、これ以上弱めたら届かない」


「弱めろとは言っていない。もっと細く通せ」


「もう細くしてる!」


「そう見えてるだけだ」


 ハルヴァの周囲で静かに動き始めた風は、やがて数本の細い糸となって、アレンの右腕を撫でていく。


 そのうちの一本は人差し指へ、一本は親指へ、そしてもう一本は手首へと向かう。どの風も互いに触れ合うことなく、それぞれ異なる道筋を描きながら流れていった。


「こういうことだ」


 ハルヴァは淡々と言った。


「分けろ」


「どうやって?」


「魔装の中に、もっと小さな術式を組め」


「魔装の中に……?」


「魔装そのものが術式だ。今のお前は、全身を一枚の鎧として動かしている」


 アレンの腕を這っていた風の糸が、一本ずつ静かに消えていく。


「腕を一つのまとまりで考えるな。指、手首、肘――それぞれ別に動かせ」


 アレンは一度呼吸を整えると、身体を覆っていた魔装を右肩から細かく切り分けていった。


 肩から肘へ、肘から手首へ、そして手首から指先へ。さらに五本の指それぞれを、独立した小さな構造として捉えていく。


 それは、魔法学校で習った複合術式に似ていた。一つの大きな効果式へすべてをまとめるのではなく、複数の小さな式を同時に組み上げ、それぞれを別々に制御する。


 ただし、今ここで構築しようとしているのは攻撃のための術式ではない。

 動かなくなった自分の身体へ、もう一度命令を届けるための術式だった。


「この魔装は燃費が悪い。剣にも魔法にも恵まれたリヴァでさえ、長くは維持できん」


 ハルヴァはアレンの右腕を見据えた。


「だが、お前には尽きない魔力の源がある」


 その意味を察し、マナが顔を上げる。


「……刻印を使えと言うんですか」


「ほんのわずかでいい」


「使わせないと約束したはずです」


「通常の雷は、筋肉を外から叩くだけだ」


「それでも指は動きました」


「あれは動いたんじゃない。痙攣しただけだ」


 ハルヴァの目が、アレンの右手へ落ちる。


「刻印に塞がれた道へ入るなら、同じ刻印の雷を細く通すしかない」


「また逆流したらどうする」


 ドレイヴが低く問いかける。


「今度は、無理に押さえ込まない」


「それで防げるのかって聞いてんだ」


「防げるとは言っていない」


 ハルヴァは視線を逸らさず、冷静に言い切った。


「危険のない道など、最初から残っていない」


 アレンは右手の甲へ意識を向けた。封止環の下には、青黒い刻印が沈むように浮かんでいる。

 そこへ触れようとしただけで、昨日の痛みが鮮明に蘇った。肩まで駆け上がった雷。力を失い、床へ崩れ落ちた身体。そして、すべての感覚を失った右手。


 怖かった。


 もう一度使えば、次は肘まで動かなくなるかもしれない。あるいは、腕そのものを失うことになるかもしれなかった。


「アレン」


 マナが呼びかける。


「やめてもいいんだよ」


 アレンは返事をしなかった。

 やめたかった。今すぐ封止環を閉じ、二度と刻印を使わずに済む場所へ逃げてしまいたかった。


 だが、逃げたところで右手は動かない。むしろこれは、ハルヴァのように刻印の力なしでは自分の身体さえ動かせなくなる未来へ近づく行為なのだとも分かっている。


 それでも、もう一度だけ指を動かしたかった。

 剣を握るためでも、戦場へ戻るためでもない。ただ、自分の身体にまだ自分の意思が届くのだと、確かめたかった。


「やる」


 アレンが言うと、マナは唇を固く結んだ。


「ほんの少しだけだ」


「……本当に、そこで止められる?」


「止める」


「違う」


 マナは測定具を握りしめ、まっすぐアレンを見る。


「止められなくなったら、わたしたちが止める。そこまで含めて約束して」


 アレンはわずかに間を置いてから頷いた。


「……分かった」


「十秒」


「十秒だけか?」


「最初はそれで十分。何も起きなくても、一度止める」


 ドレイヴも頷く。


「それでいこう」


「勝手に決めるなよ」


「お前一人には決めさせねえ。昨日、そう言っただろ」


 アレンは二人の顔を見回し、小さく息を吐いた。


「……分かった。十秒だ」


 エルザが封止環へ手を添える。


「外側の術式を、一層だけ緩めます」


 銀色の紋様が、音もなく一つ消えた。

 それに呼応するように右手の甲が熱を帯び、刻印の奥で眠っていた雷が、ゆっくりと目を覚ます。


 アレンはその力を押さえ込まなかった。かといって、すべてを解き放つつもりもない。

 刻印にごく細い隙間を作り、そこから糸一本ほどの雷だけを慎重に引き出す。


 やがて、青白い火花が刻印の中央に小さく灯った。


「発光を確認」


 マナの報告を聞きながら、アレンは魔装の内側に作った細い道へ、刻印の雷を流し込んだ。


 右腕の表面ではなく、前腕の内側へ。指を曲げる筋肉に沿わせるように、一本の雷を糸のように細く、弱く絞りながら、人差し指まで導いていく。


 やがて、指が動いた。

 今度は痙攣ではない。アレンの意思に従うように、第一関節がゆっくりと曲がっていく。


「三秒」


 マナの声を聞きながら、アレンはさらにわずかな力を送り込んだ。続いて第二関節が曲がり、人差し指の先が少しずつ掌へ近づいていく。


「五秒」


 動いている。確かに、自分の意思で。

 だが、ハルヴァの目が刻印の光を捉えた。


「そこまでだ。止めろ」


 鋭い命令が飛んだ。


 アレンはすぐに雷を断とうとした。だが、細く絞ったはずの糸は切れず、刻印から流れ込む力だけが、作り上げた道を通って右腕へ流れ続けている。


「止まらない」


 人差し指はなおも強く曲がり続け、爪の先が掌へ迫っていく。


「アレン、止めて!」


「やってる!」


 アレンは必死に刻印を閉じようとした。だが、その瞬間、昨日の逆流が脳裏をよぎる。ここで無理に力を閉じ込めれば、また同じことが起きるかもしれない。


 その一瞬の迷いを縫うように、雷の糸が膨れ上がった。


 青白い光は人差し指だけでなく、残る四本の指へも一気に走り抜ける。次の瞬間、右手が強く握り込まれ、爪が掌へ深く食い込んだ。


「ぐっ……!」


 痛みはなかった。

 それでも皮膚は裂け、握り締められた指の隙間から、赤い血が静かに流れ始める。


「封止します!」


 エルザが封止環へ魔力を流そうとした瞬間、ハルヴァの風がその手首を押さえた。


「待て」


「何を――」


「血が出てるんですよ!」


 マナの叫びが訓練室に響く。


「本人に痛みはない」


「だから止めるんです! 壊れても気づけない!」


 それでもハルヴァは風を解かず、アレンの右手を見据えている。


「アレン。握るな」


 低い声が鋭く飛ぶ。


「今度は、自分の意思で開け」


「動かせない!」


「曲げようとするな。筋肉へ流している雷を止めろ」


「だから、その止め方が分からないんだ!」


「流れている先を見るな」


 ハルヴァが鋭く言い放つ。


「雷を生んでいる、最初の場所を探せ」


 始まり――右手へ伸びた雷の糸ではなく、刻印から力が流れ出す最初の場所。

 アレンは意識を手の甲へ戻した。青白い光の中心、雷が細い道へ流れ込む直前に、ごく小さな入口がある。


 すべてを閉じ込める必要はない。ただ、その入口だけを閉じればいい。

 アレンは息を止め、刻印から力を引き出すのをやめた。


 すると雷の糸が大きく揺らぎ、一本ずつ光を失っていく。やがて五本の指を握り込んでいた力も消え、右手は再び力なく開いた。


 そこには、血に濡れた掌が露わになっていた。


「止まった……」


 アレンが小さく呟くと、マナはすぐさま駆け寄り、水魔法で掌に滲んだ血を洗い流した。


 露わになった皮膚には、爪が食い込んだ傷が五つ並んでいる。どれも深いものではなかったが、アレンは血が流れていることにさえ気づいていなかった。


「本当に、痛くないの?」


「……何も感じない」


 その返事を聞いたマナの顔から、さっと血の気が引いた。それでも彼女は動揺を押し隠すように杖を握り直し、淡い治癒の光で傷口を一つずつ塞いでいく。


「これが、一つ目の危険だ」


 ハルヴァが血に濡れた掌を見据える。


「感覚のない身体は、限界を知らせない」


「もう少し言い方があるだろ」


 ドレイヴが睨みつけた。


「優しく言えば、傷が浅くなるのか?」


 ハルヴァは取り合わず、アレンへ目を戻す。


「筋肉は動かせる。だが、どれほど力を込めたか、お前自身には分からない」


「わたしが測ります」


 マナが測定具を強く握った。


「筋肉の負荷も血流も、全部見ます」


「なら、お前がこいつの痛みになれ」


 マナは一瞬言葉を失ったが、やがて強く頷いた。


「……なります。わたしが止めます」


 その答えに、ハルヴァの灰緑色の瞳がわずかに細まる。


「二つ目だ」


 ハルヴァは続けた。


「刺激を強めれば、筋肉は限界を越えて動く」


 風がアレンの右腕を持ち上げる。


「骨が耐えなければ折れる。関節へ力をかける方向を誤れば外れ、腱が切れても――お前は気づけない」


 風が消えると、右腕は力なく膝の上へ落ちた。


「そして三つ目。魔装を解けば、その手はまた動かなくなる」


 アレンは右手へ力を込めた。だが、指は何ひとつ反応しない。先ほど確かに曲がった人差し指も、初めから動いていなかったかのように沈黙している。


「治ったわけじゃない」


「……分かってます」


「いや、分かっていない」


 ハルヴァの灰緑色の瞳が、アレンを射抜く。


「今、動いた。それだけで少し安心しただろう」


 アレンは否定できなかった。

 たとえほんの数秒でも、確かに指は動いた。その事実を、どこかで回復の兆しのように受け取っていたのだ。


「勘違いするな。これは治療じゃない」


 ハルヴァの掠れた声が、訓練室に静かに響いた。


「呪縛で失った身体を、その呪縛を進める力で無理やり動かしているだけだ」


 彼の胸が、風に押し広げられるようにゆっくりと膨らむ。


「俺が風を止めれば、呼吸も止まる。それと同じだ」


 その言葉を聞いた瞬間、アレンはハルヴァの姿に、自分が辿り着くかもしれない未来を見た。


 雷を流している間だけ動く手と、刻印を止めれば何も感じなくなる指。やがて剣を握るために雷を使い、歩くために雷を使い、最後には呼吸するためにさえ雷へ頼ることになる。


 そうして力を使うたびに呪縛は進み、進んだ呪縛によって、さらに雷なしでは生きられなくなっていく。


 マナが傷を塞ぎ終えると、二人の治療師がアレンの右腕を改めて調べ始めた。一人が筋肉と腱の状態を確かめ、もう一人は測定具を手首へ当て、血流や神経反応に新たな異常がないかを慎重に探っていく。

 エルザも封止環の状態を確認し、刻印から漏れ出す魔力が完全に落ち着くまでは、訓練の再開を認めなかった。


 アレンは右腕を膝の上へ置いたまま、しばらく呼吸を整えた。痛みはない。それでも、治療師が腕へ触れるたび、見えない場所で何かが壊れているのではないかという不安が胸を過ぎる。


 やがて筋肉や腱に大きな損傷はないと確認されると、治療師たちはアレンの腕から手を離した。


「現時点では、訓練を再開できます」


 エルザはそう告げたものの、表情を緩めなかった。


「ただし、次に測定値が上限を越えたら、本人が続けると言っても中止します」


 エルザは封止環へ手を添えたまま、ハルヴァをまっすぐ見据えた。


「そのときは、もう私を止めないでください」


 短い沈黙のあと、ハルヴァが答えた。


「好きにしろ。壊してまで続ける価値はない」


 ハルヴァはエルザから目を外し、今度はアレンを見る。


「それでも、お前は続けるのか」


 マナは何も言わずにアレンを見つめ、ドレイヴも答えを急かそうとはしなかった。

 アレンは、すでに血の止まった右手へ目を落とした。


 怖かった。


 この技術を身につければ、動かない手を動かせる。だからこそ、便利さに頼り、使い続けてしまうかもしれない。やがて刻印を使うことが日常となり、いつかはその力なしでは何ひとつできなくなる。


 それでも、先ほど人差し指が曲がった瞬間を忘れることはできなかった。


 他人の風に動かされたのでも、治癒魔法で回復したのでもない。もう届かないと思っていた自分の意思が、確かに指を動かしたのだ。


「続けます」


 アレンは答えた。


     ◇


 次の試みでは出力を抑えきれず、手首が勢いよく跳ね上がった。右腕がそのままアレンの顎を打つ寸前、ドレイヴが咄嗟に押さえ込む。


 休息を挟んだ次の試みでは、人差し指と中指を同時に動かそうとした。だが、二本の雷の糸が途中で絡まり、指は意図した方向とは逆へ開いてしまう。関節に不自然な力がかかったのを見て、マナがすぐさま中止を告げた。


 どちらの失敗も、マナは使用時間や筋肉への負荷とともに、帳面へ細かく記録していった。


「五秒を越えると、負荷が一気に跳ね上がる」


 測定具を見ながら、マナが告げる。


「なら、四秒で切れ」


 ハルヴァが言った。


「四秒じゃ、動かす前に終わる」


「なら、四秒で動かせ」


「無茶を言うなよ」


「簡単に扱えないから、代償になる」


 ハルヴァは壁際に置かれた剣へ目を向けた。


「次は、五本を別々に動かそうとするな」


「でも、二本でも絡まったんだぞ」


「だから、指ごとの動きを一つずつ追うな。握るという一つの動作にまとめろ」


 アレンは動かない右手を見つめた。


「五本を、一つの術式で動かすんですか」


「違う。術式は五つのままだ。命令だけを一つにしろ」


 ハルヴァの目が、アレンの指先へ落ちる。


「剣を握れ――それだけを考えろ」


 次の試みでは、剣を使うことになった。ドレイヴが柄をアレンの右手へ置き、力の入らない指を一本ずつ巻きつけていく。


 アレンは五本の雷の糸を作り、それぞれを指の筋肉へ慎重に流した。


 剣を握れ。

 青白い雷が右腕を駆け抜けると、五本の指がゆっくりと閉じ、革巻きの柄を掴んだ。


「持ててる」


 ドレイヴが慎重に手を離す。


 それでも、剣は落ちなかった。アレンの右手が、確かに柄を握っている。

 剣の重さも、革の感触も分からない。それでも、剣は間違いなく自分の手の中にあった。


「四秒」


 マナの声が響く。


「止めろ」


 ハルヴァの命令を受け、アレンはすぐに雷を断とうとした。刻印から伸びる糸を一本ずつ切ろうとする。

 だが、指へ流した五本の雷は、一本も消えずに残っていた。


「止まらない!」


「剣を離せ」


「指が開かないんだ!」


「まとめて止めようとするな」


 ハルヴァが間髪入れずに命じる。


「一本ずつ、雷を切れ」


 アレンは親指から止めようとした。だが、焦りで五本の雷が絡み合い、どの入口を閉じればよいのか分からなくなる。


 指先へ流れ込む力が膨らんでいく。握力はさらに増し、剣の柄に巻かれた革が、ぎしりと音を立てた。


「アレン、負荷が上がってる! このままじゃ筋肉がもたない!」


 マナの手にした測定具が、警告を示すように赤く明滅する。


「ドレイヴ、手を離させて!」


 ドレイヴはすぐにアレンの右手を掴み、剣から指を引き剥がそうとした。だが、雷によって収縮した指は石のように固く、びくともしない。


「触るな、ドレイヴ!」


「一人で止められてねえだろ!」


「感電するぞ!」


「この程度で離せるか!」


 ドレイヴがさらに力を込めた瞬間、その指先を青白い火花が鋭く走った。顔を歪めながらも、剣を支える手を離さなかった。


「流れを戻すな!」


 ハルヴァの鋭い命令が飛び、その灰緑色の瞳がアレンの右手をまっすぐ捉える。


「最後につないだ糸から辿れ!」


 最後に作ったのは、小指へ続く雷だった。

 アレンはそこだけへ意識を絞り、刻印から伸びる細い青白い線を辿っていく。そして入口を閉じると、力を失った小指がゆっくりと開いた。


 続いて薬指、中指、人差し指へと順に雷を断ち、最後に親指の流れを止める。


 すべての光が消えた瞬間、右手は剣を支える力を失った。滑り落ちた剣を、ドレイヴが床へ届く寸前で受け止める。


 マナが荒い息を整えながら、測定具へ目を落とした。


「筋肉への負荷、もう上限ぎりぎり」


 雷を失ったアレンの右腕が、再び力なく垂れ下がる。


「覚えておけ。難しいのは、動かすことじゃない」


 ハルヴァが静かに言った。


「これのどこが簡単なんだよ」


「雷を流せば、筋肉は嫌でも動く」


 彼の周囲で風が動き、アレンの右手を持ち上げた。風に押された指がゆっくりと曲がっていく。


「だが、身体は力を出し続けられない。どこかで止めなければ、いずれ壊れる」


 次の瞬間、風が消え、指は力なく元の位置へ戻った。


「力を放つより、止める方が難しい。それが刻印だ」


 アレンは、何も言い返せなかった。

 剣を握れたことよりも、自分の意思で手放せなかったことの方が、アレンには恐ろしく思えた。


 力を得ることと、それを使うこと。そして、使った力を止めること。そのどれもが、まったく別の技術なのだ。


     ◇


 その後も、アレンは休息を挟みながら試行を繰り返した。


 訓練が夕方を迎える頃には、何度失敗したのか、もう自分でも分からなくなっていた。マナの帳面には、使用時間、魔力出力、心拍、筋肉への負荷、指の動き、停止までに要した時間といった細かな数字が、何頁にもわたって記されている。


 五本の指を動かそうとすれば、雷の糸が絡まる。手首と指を同時に動かせば、出力が強くなりすぎる。剣を握れば、今度は離せなくなる。


 ならば、一つだけでいい。

 人差し指だけを動かす。他の指も、手首も、肘も、すべて切り離す。


 必要なのは、一本の糸だけだ。


「これで最後」


 マナが告げた。


 窓のない訓練室では、外の時刻を知ることはできない。それでも、治療師たちの疲れ切った表情を見れば、長い時間が過ぎたことだけは分かった。


「反応が悪かったら、今日はそこで終わりだからね」


「ああ」


「うまくいっても、今日は終わり」


「……それ、どっちにしても終わりじゃないか」


「成功したなら、成功したまま終われるでしょ」


 マナは念を押すように、アレンを見つめた。


「失敗するまで続けるより、その方がいい」


 アレンは小さく息を吐いた。


「分かった。これで最後にする」


 そう答え、動かない右手を膝の上へ置いた。


 繰り返した術式の構築で、頭の奥には鈍い痛みが残っていた。意識は疲労に沈みかけ、一本の雷へ集中するだけで呼吸が浅くなる。


 それでもアレンは、最後に一度だけ深く息を吸った。

 膝の上に置かれた右手は、掌を開いたまま、指先ひとつ動かない。


 アレンは静かに目を閉じると、まず通常の魔力を集め、右腕の表面へ薄い魔装を展開した。


 皮膚、骨、関節、筋肉――右腕を形作るすべてを意識する。


 魔装を一枚の鎧として扱うのではない。右肩、上腕、肘、前腕、手首、掌、そして五本の指。それぞれを独立した構造として、一つずつ切り分けていく。


 そのうち、人差し指へ続く道だけを残し、ほかのすべてを閉じた。

 準備を終えたアレンは、右手の甲に刻まれた紋様へ意識を触れさせる。青黒い刻印の奥には、目覚めるときを待つように雷が潜んでいた。


 強い力はいらない。


 敵を倒すための雷でも、身体を加速させるための雷でもない。ただ、指を一本曲げるためだけの力だ。

 アレンはその雷を糸よりも細く絞り、刻印から魔装へ、魔装から前腕の筋肉へ、さらに指の付け根へと慎重に導いた。


 青白い雷が、一本だけ右腕を走る。


「始めて」


 マナの声を合図に、アレンは人差し指を見つめた。


 動け。


 指先がかすかに震える。

 焦るな。強くするな。必要な分だけ流せばいい。

 やがて第一関節が、ゆっくりと曲がった。


「二秒」


 続いて第二関節が曲がり、さらに指の付け根が動く。人差し指は時間をかけて、掌へ近づいていった。


「三秒」


 曲がった。


 痙攣したのでも、強い刺激に弾かれたのでもない。アレンの意思に従い、人差し指だけが確かに動いている。


「止めろ」


 ハルヴァの声を受け、アレンはすぐに雷の糸の始まりへ意識を戻した。


 刻印から力を引き出している、最初の一点。

 無理に閉じ込める必要はない。押し返すのでもない。ただ、そこから力を引くことをやめればいい。


 青白い糸が次第に細くなり、前腕を走っていた光が消えていく。続いて掌、指の付け根からも光が失われ、最後に爪の先で小さな火花が弾けた。


 雷が止まる。

 人差し指からゆっくりと力が抜け、元の位置へ戻っていった。


「四秒」


 マナが測定具を確認する。


「筋肉への負荷は正常範囲。刻印の発光も下がっています」


 訓練室に静寂が落ちた。


 アレンは膝の上の右手を見つめる。指はもう動かず、感覚も戻ってはいない。

 それでも、先ほどは自分の意思で曲げることができた。

 そして、自分の意思で止めることもできた。


「……できた」


 噛み締めるような小さな声が、アレンの口からこぼれた。

 ドレイヴが、アレンの左肩を力強く叩いた。


「まずは一歩だな」


「……痛い」


「動く方の肩でよかっただろ」


「そういう話じゃない」


 マナは測定具を確かめ終えると、ようやく深く息を吐いた。


「今日は、本当にここまでだからね」


「ああ」


「“もう一回だけ”もなし」


「言ってないだろ」


「顔に書いてある」


 アレンは反論しかけたものの、結局は諦めて口を閉じた。


 実際、もう一度試したいという気持ちは残っていた。次は二本の指を、次は手首を、そしていつかは剣を――できることを少しでも増やしたいという欲が、すでに胸の奥で芽生え始めている。


 おそらく、それこそがこの技術の危険性なのだ。


 刻印を使えば動き、使わなければ動かない。新たな力を得たのではなく、呪縛へ一歩近づくための方法を覚えたにすぎない。


 アレンは右手を左手で包み、刻印から意識を遠ざけた。


「今日は終わる」


 自分自身に言い聞かせるように告げると、マナが安堵したように頷き、ドレイヴは床に置かれていた黒い手袋を拾い上げた。


      ◇


 その瞬間、封止環の下で青黒い紋様が一度だけ脈打つ。


 そこから指先へ向かって、黒い稲妻が一筋だけ走り抜けた。


 それは瞬きよりも短く、測定具さえ反応しないほど微かな異変だった。アレンはもちろん、マナもドレイヴも気づかなかった。


 ただ一人、椅子に腰掛けたハルヴァが、その黒い雷を見逃さない。

 灰緑色(かいりょくしょく)の瞳がわずかに細まり、呼吸を生み出していた風が一度だけ乱れた。


「ハルヴァさん?」


 近くにいた治療師が声をかけると、ハルヴァはすぐに風を整え、いつもどおり肺へ空気を送り込んだ。


「何でもない」


 掠れた声でそう答えたものの、その目はアレンの右手へ注がれたままだった。

 黒い光について、ハルヴァは何も告げなかった。


 その正体が分からなかったからではない。むしろ、知っていたからこそ、軽々しく口にすることができなかったのだ。


 かつて一度だけ、彼は同じ色の力を目にしたことがあった。


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