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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第二章『刻まれし代償』

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第21話『雷の糸』


 右手が動かない。


 訓練を終えてから一刻が過ぎても、その状態は変わらなかった。


 アレンは療養院の処置室に置かれた寝台へ腰掛け、自分の右手を見つめている。肩も肘も動き、腕を持ち上げることも、胸元へ引き寄せることもできる。にもかかわらず、手首から先だけが力なく垂れ下がり、指を曲げようとしても何の反応も返さない。


 拳を握れ。指を開け。手首を上げろ。


 頭の中で何度そう命じても、右手はまるで他人の身体の一部になってしまったかのように、動こうとはしなかった。


「もう一度、触るね」


 正面に立つマナが、アレンの右手を両手で包み込んだ。


 彼女の掌が触れていることは、目で見れば分かる。けれど、そこにあるはずの温かさも、指先の柔らかさも、何ひとつ感じられない。


「……どう? 触れてるの、分かる?」


 マナが探るように尋ねた。


「いや……分からない」


 返事を聞いたマナはわずかに眉を寄せ、アレンの右手へ目を落とした。それから人差し指の腹を、そっと押してみる。


「今は? ここ、押してるんだけど」


「見れば分かる。けど……触られてる感じは、まったくしない」


「そう……」


 マナは一度唇を結ぶと、アレンの顔を窺う。


「じゃあ、今度は少し強く押すね。痛かったら、すぐに言って」


「ああ」


 マナは慎重に力を込め、爪の際に近い指先を強く押した。押された部分の皮膚が白く変わっていくのを見ても、アレンには何の感覚もない。


 その反応を確かめたマナの表情が、ゆっくりと曇る。


「……痛くないの?」


 マナは信じられないものを見るように、アレンの指先を見つめた。


「痛くない」


「でも、こんなに強く押してるんだよ。本当に、何も感じない?」


「ああ。何も感じないって言ってるだろ」


 念を押すように問い返され、アレンの声には抑えきれない苛立ちがわずかに滲んだ。


 しかし、マナへ怒りを向けるのは筋違いだった。何度確かめても結果の変わらない現実に、苛立ちを覚えているだけなのだ。


 処置室には、エルザのほかに二人の治療師がいた。一人は魔力測定具をアレンの手首へ当て、もう一人は右腕に触れながら、筋肉の反応と血流を丹念に確かめている。


 少し離れた壁際では、ドレイヴが腕を組み、黙ったまま診察の様子を見守っていた。訓練室でハルヴァへ詰め寄って以来、彼は一度も口を開いていない。


「骨、筋肉、腱には、大きな損傷は見られません」


 測定具を確認していた治療師が言った。


「雷による軽度の熱傷はありますが、手が動かなくなるほどではありません」


「だったら、どうして動かないんですか?」


 マナが尋ねる。


「神経反応が、手首の手前で著しく低下しています」


「傷ついているなら、治癒魔法で――」


「試す価値はあります」


 エルザが答えた。


「ただし、通常の神経損傷ではありません。大きな効果は期待しないでください」


 マナは杖を持っていなかった。施設内では許可なく魔法を使えない決まりになっており、入口で預けていたためだ。


 エルザが職員へ目配せすると、その意図を察した職員はすぐに部屋を出た。ほどなくして、入口に預けられていたマナの杖が運び込まれる。


「出力はできるだけ抑えて」


「……はい」


 杖を受け取るマナへ、エルザはさらに念を押した。


「少しでも刻印に反応が出たら、迷わず術式を切って下さい。治そうとして、かえって刺激してしまっては意味がありません」


「分かりました。異変があれば、すぐに止めます」


 マナは緊張した面持ちで頷くと、アレンの右手首へ杖の先端を近づけた。


「アレン、少しひんやりすると思う。驚かないでね」


「ああ。気にせずやってくれ」


 その言葉を確かめるように一度だけアレンの顔を見てから、マナは静かに杖へ魔力を流す。


 淡い青色の光が杖の先端へゆっくりと集まり、水滴に似た魔力となって空中へ浮かび上がった。それらはやがて細い帯へと連なり、アレンの右手を包み込んでいく。


 冷たい水の膜が、手の甲から指先へ静かに広がっていった。普段なら、触れた瞬間に肌の熱を奪われる感覚があるはずだった。


 だが、今は何も感じない。

 青い光だけが、感覚を失った右手の表面を虚しく流れていく。


「水よ、傷を洗い、乱れし流れを正せ――」


 マナが短い術式を組み上げると、水の膜は皮膚の内側へ静かに浸透し、傷ついた組織を探るように淡い光を巡らせていった。


 その光は手首から掌へ、さらに掌から五本の指へと広がっていく。


 マナは目を閉じ、魔力が返すわずかな反応へ意識を集中させていたが、やがて何か異常を感じ取ったのか、眉間に深い皺を刻んだ。


「……おかしい」


 マナの声が、かすかに揺れた。


「傷が、見つからない」


「どういうことだ?」


 それまで黙り込んでいたドレイヴが、初めて口を開いた。


「神経が切れてるんじゃねえのか。だから動かないんだろ?」


「違う。切れてはいない」


 マナは目を閉じたまま、右手を包む魔力の流れを探り続ける。


「神経そのものは残ってる。血もちゃんと流れてるし、筋肉にも損傷はない。少なくとも、普通の麻痺なら原因になるような傷は……どこにもないの」


「だったら、治せるんじゃないのか?」


 ドレイヴの声に焦りが滲んだ。


「壊れてないなら、元に戻せるだろ」


「分からないよ」


 マナは苦しそうに眉を寄せた。


「どこが悪いのか分からないのに、何を治せばいいの?」


 その言葉に呼応するように、アレンの右手を包んでいた水の光が、一度だけ強く脈打つ。


 青い膜に包まれたアレンの右手。その甲に刻まれた紋様が、下から押し上げられるようにわずかに浮かび上がった。


 次の瞬間、刻印から弾けた力がマナの水を一気に押し返す。


「っ……!」


 青い光は細かな飛沫となって周囲へ散り、衝撃を受けたマナの身体が大きく後ろへ揺らいだ。倒れかけた彼女の肩を、すぐさまエルザが支える。


「もう続けないで。術式を切ってください」


 エルザの制止に、マナは杖を握ったまま振り返った。


「でも、あと少し調べれば、何か分かるかもしれません」


「無駄です。刻印が、あなたの治癒魔力を明確に拒絶している」


「拒絶って……傷ついているんですよ? それなのに、治そうとする力を弾くんですか?」


「刻印にとっては、治すべき傷ではないのでしょう」


 その言葉に、アレンは伏せていた顔を上げる。


「……傷じゃない?」


「少なくとも、刻印は今の状態を異常だとは認識していません」


 エルザはそう答えると、アレンの手首へ魔力測定具を当て直した。


「あなたの脳や筋肉から発せられた命令は、手首までは正常に届いています。けれど、そこから先へ進んでいない」


「神経が壊れてるわけじゃないのか?」


「ええ。神経そのものは残っています。ただ、その中を通るはずの命令に刻印が割り込んでいる。言うなれば、身体と右手のつながりを意図的に遮断している状態です」


 アレンは動かない右手へ目を落とした。


「……医療塔の医師にも、似たようなことを言われた」


「おそらく、あのときより干渉が深くなっています」


 エルザが測定具の位置をわずかにずらすと、埋め込まれた結晶の内部に青白い線がゆっくりと浮かび上がる。


 青白い線は肩から肘にかけて一定の間隔で明滅していたが、手首へ近づくにつれて次第に乱れ始め、やがて細かな光となって散り散りに分散していった。


「だったら、刻印を今より強く封じればいいだろ」


 堪えきれなくなったように、ドレイヴが口を挟んだ。


「それは危険です。封印を強めれば、麻痺が右手だけでは済まなくなる可能性があります」


「……どういう意味だ」


「刻印の干渉は、すでに神経伝達へ入り込み始めています。今の状態で無理に切り離せば、刻印だけでなく、まだ正常に働いている反応まで一緒に断ち切ってしまうかもしれない」


「そんなの、やってみなきゃ分からねえだろ」


「では、試した結果、肘も肩も動かなくなったとして――あなたは、それでもやるべきだったと言えますか?」


 ドレイヴは何かを言い返そうと口を開いたが、言葉は出てこなかった。そのまま唇を噛み、悔しげに顔を背ける。


 マナはもう一度、アレンの右手を握った。今度は魔法に頼ることなく、ただ確かめるように、その手を両手で静かに包み込む。


「……ごめん」


 アレンの右手を包んだまま、マナがかすかな声で呟いた。


「どうして、マナが謝るんだよ」


「だって……何もできなかった。治してあげられなかった」


「お前のせいじゃない」


「でも、わたしがもっと早く気づいていれば――」


「違う」


 アレンは、言葉を重ねようとするマナを静かに遮った。


「この力を使ったのは俺だ。こうなったのも……俺が選んだ結果だ」


 そう口にした瞬間、胸の奥へ重いものが沈んでいく。


 刻印を使うと決めたのは、自分だった。ハルヴァの言葉を聞き、マナに反対されながらも、それでも訓練を続けると決めた。


 そして、その結果がこれだ。

 かろうじて動いていた三本の指まで、今はもう反応しない。


 アレンは、寝台脇の壁へ立てかけられた双剣を見た。昨夜までは、弱いながらも右手で柄を握り、三本の指で支えることができていた。


 だが今は、その柄に触れたとしても、触れていることさえ分からない。

 ドレイヴは壁に立てかけられていた双剣の一本を取り、鞘に収めたままアレンへ差し出した。


 アレンはそれを左手で受け取って膝の上へ置くと、鞘から刃をわずかに引き抜いた。金属の擦れる乾いた音が、静まり返った処置室に響く。


 よく研がれた剣だった。ルミノヴァを退院する日、まだ一度も振るっていないと気づいた、あの剣だ。


 アレンは左手で柄を持ち上げ、右の掌へ押し当てた。革巻きの柄が皮膚に触れていることは、目で見れば分かる。だが、やはり何の感覚もない。


 そのまま左手を離す。


 力の入らない右手では剣の重みを支えられず、柄は掌から滑り落ちた。床へぶつかる寸前、ドレイヴが素早く手を伸ばし、剣を受け止める。


「もういいだろ」


 アレンは答えなかった。


 剣を握れないという事実は、ただ戦場へ戻れないというだけではない。リヴァから教わった構えも、これまで積み重ねてきた訓練も、マナやドレイヴと肩を並べて戦う未来も、そのすべてが感覚のない右手とともに失われてしまったように思えた。


 もちろん、左手で剣を扱う道があることは分かっている。訓練を一からやり直せば、いつかは振れるようになるかもしれない。


 だが、その間にも呪縛は進んでいく。

 次に動かなくなるのは左手かもしれない。あるいは、脚かもしれない。


 ようやく左手で剣を握れるようになった頃には、もう自分の足で立つことすらできなくなっているかもしれなかった。


「……使わなければよかった」


 こぼれた声は、自分でも驚くほど弱々しい。

 マナがはっと顔を上げる。


「アレン……」


「制御できるようになるためだって、そう思ってたんだ」


 アレンは力なく垂れ下がった右手を見つめたまま、言葉を続ける。


「次に暴走したとき、また誰かを傷つけないために必要なことだって……そう言い聞かせてた」


 乾いた息が、わずかに喉から漏れた。


「なのに、制御するどころか……残ったのは、動かない手だけだ」


 指先へ小さな雷を集める――ただ、それだけの訓練だった。

 それすら満足に制御できないまま、アレンは自分の腕を焼いた。


「俺は……何のために、ここまで来たんだ」


「一度しくじっただけだ」


 ドレイヴが言った。


「その一度で、手が動かなくなった」


「だからって、全部終わった顔すんな」


「剣も握れないんだぞ」


「なら、左で握れ」


「簡単に言うな!」


 アレンの声が処置室に響き、ドレイヴの目が鋭くなる。


「簡単だなんて言ってねえ」


「お前には分からない」


「ああ、分からねえよ」


 ドレイヴは怒鳴り返さず、動かない右手を見つめた。


「俺の手は動く。お前の痛みまで分かるなんて、言えねえ」


 剣を壁へ戻し、アレンへ向き直る。


「でも、動かねえならそう言え。怖いなら、怖いって言え」


「言ったって、治らない」


「黙ってたって同じだろ」


 アレンは何も返せなかった。


 マナは今も右手を包み、ドレイヴもすぐそばに立っている。二人にこの状況を解決する力があるわけではない。それでも、アレンから離れようとはしなかった。


 そのことに救われている自分と、そんな弱さを認めたくない自分が、胸の奥で激しくぶつかり合っている。


「診察は終わったか」


 そのとき、入口の方から掠れた声が響いた。


 振り返ると、廊下には高い背もたれの椅子へ腰掛けたハルヴァの姿があった。弱った身体は風によって支えられ、椅子の車輪も職員が押しているわけではない。床を這うように流れる風が、彼を乗せた椅子をゆっくりと処置室へ運んでいた。


 その後ろには二人の治療師が付き従っていたが、どちらも一定以上の距離を保ち、決して近づこうとはしない。


「……何しに来た」


 ドレイヴが低く問う。


「結果を見に来た」


「見りゃ分かるだろ。手が動かねえ」


「そうだな」


「お前がやらせたんだろ」


「違う」


 ドレイヴが一歩詰め寄った。


「何が違う」


「使うと決めたのは、そいつだ」


 ハルヴァの灰緑色の瞳が、アレンへ向く。


「俺に命じられたから使ったのか?」


 アレンは答えられなかった。


「制御したいと望んだのは誰だ」


「……俺です」


「なら、その結果から目を逸らすな」


「今は責任の話じゃねえ!」


 ドレイヴの怒声が処置室に響いた瞬間、室内の空気がかすかに揺れた。ハルヴァの風が反応したのだろう。壁際に並ぶ薬瓶が小さく震える中、エルザがすぐさま二人の間へ割って入る。


「ここは処置室です」


「どいてくれ」


「どきません」


 ドレイヴはなおも言い返そうと歯を食いしばったが、その腕をアレンが左手で掴んだ。


「もういい、ドレイヴ」


「よくねえだろ」


「ハルヴァの言うとおりだ。決めたのは俺だ」


「だからって、好きに言わせるのかよ」


「何を言い返しても、結果は変わらない」


 その言葉に、ドレイヴの肩からわずかに力が抜けた。

 ハルヴァはアレンの右手を見る。


「……治癒魔法は、効かなかったか」


 ハルヴァの言葉に、マナが勢いよく立ち上がった。


「最初から、分かっていたんですか?」


「お前も、予想していたはずだ」


「予想と、確信は違います」


「ハルヴァ」


 アレンは二人の会話を遮った。


「俺の手は、もう治らないんですか」


 処置室に静寂が落ちる。


 ハルヴァはすぐには答えず、風の力で胸をゆっくりと膨らませた。肺へ送り込まれた空気が、掠れた音とともに時間をかけて吐き出されていく。


「知らん」


「あなたにも、分からないんですか」


「俺は治療師じゃない」


「でも、呪縛は知ってる」


「だから一つだけ言える」


 ハルヴァの視線が、動かない右手からアレンの顔へ上がった。


「治るのを待つな」


 胸の奥が強く締めつけられる。


「……諦めろってことですか」


「違う」


「何が違うんだ」


「待つのと、動かす方法を探すのは別だ」


 アレンは右手へ目を落とした。


「治癒魔法でも駄目だった」


「命令が届かないなら、別の命令を送れ」


 意味を掴めず、アレンは顔を上げる。


「別の命令?」


「魔装は使えるな」


 唐突な問いに、アレンは眉をひそめた。


「基礎だけです。リヴァと言う友人に教わりました」


「なら十分だ」


「どうして、それを……」


「リヴァの風魔法も魔装も、教えたのは俺だ」


 ハルヴァは淡々と続ける。


「お前たちが来ることも、あいつから聞いていた」


 その周囲で風が動き、アレンの外套の袖を静かに押し上げた。露わになった右腕へ、ハルヴァの視線が落ちる。


 そこには肩から手首にかけて、先ほどの逆流によって生じた細い火傷の跡が残っていた。


「魔装は、何のために使う」


「魔力を纏って、攻撃と防御を強化するためです」


「それだけか」


「……戦闘の基礎だと教わりました」


「間違いではない」


 ハルヴァは静かに言った。


「だが、鎧だと思っているうちは、まだ表面しか見えていない」


 風が、アレンの右腕をゆっくりと撫でていく。


 だが先ほどのように、皮膚の表面を流れるだけではなかった。風は袖の下へ潜り込み、筋肉の形を確かめるように、肩から手首まで腕の線に沿って進んでいく。


「魔装は、身体に魔力を重ねる技術だ」


「身体に……?」


「皮膚だけを見るな。骨も、関節も、筋肉もだ」


 ハルヴァの声が低くなる。


「どこへ動き、どこで止まるのか。全部、魔力に覚えさせろ」


 ハルヴァの動かない右腕が風に支えられ、ゆっくりと持ち上がった。続いて肘が曲がり、手首が起き上がると、五本の指が一本ずつ順に閉じていく。


 だが、よく見れば指そのものが動いているわけではない。周囲を包む風が関節を押し、それぞれの指を外側から曲げていた。


「俺は風で、この身体を動かしている」


 ハルヴァは持ち上げた右腕を見せた。


「だが、お前には雷がある」


 アレンの目が、自分の右腕へ落ちる。


「身体の命令が届かないなら、雷で上書きしろ」


 静かな声が、処置室に響いた。


「筋肉へ直接、動けと命じるんだ」


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