第20話『五指の沈黙』
翌朝、訓練は療養院の地下に設けられた、魔力障害者用の隔離訓練室で行われることになった。
そこは円形の広い部屋で、壁から床に至るまで、すべてが黒い石で造られている。その表面には無数の細い溝が走り、内部には銀色の金属が埋め込まれていた。訓練中に発生した魔力を床下へ逃がすための術式らしい。
天井には光を放つ魔法石が等間隔に並び、部屋の中央だけを冷たい白色に照らし出している。
入口の外では、エルザを含む三人の治療師と二人の連邦兵が待機している。一方、室内ではマナとドレイヴが壁際に立ち、これから始まる訓練を見守っていた。
マナが手にしているのは、いつもの杖ではない。症状を記録するための帳面と、魔力の変化を測定する小さな魔法石だった。
ドレイヴは入口で武器を預けていたが、それでも何かあれば素手で飛び込むつもりなのだろう。両手を固く握り、いつでも動き出せる姿勢を崩さない。
ハルヴァは部屋の反対側にいた。
寝台ではなく、背もたれの高い椅子へ腰掛け、風の力で身体を固定している。椅子の脚には車輪がついていたものの、職員がここまで押してきた様子はない。
おそらく、彼自身が風を操り、椅子ごと移動してきたのだろう。
「……本気で、その二人を立ち会わせるつもりか」
部屋の反対側から、ハルヴァが問いかけた。
「約束したんです。もう二度と一人では使わないと」
アレンは迷わず答えたが、ハルヴァの表情は変わらない。
「約束か。暴走したお前が、その約束を覚えていればいいがな」
冷ややかな視線が、壁際に立つマナとドレイヴへ向けられる。
「そいつらが足手まといになる可能性もある。守ろうとしたせいで、余計に制御を失うかもしれんぞ」
「そのときは、俺が止める」
ドレイヴが一歩前へ出た。
「アレンが自分で止まれねえなら、殴ってでも止めてやる」
ハルヴァはしばらくドレイヴを見つめたあと、わずかに口元を歪める。
「威勢だけは立派だな」
「試してみるか?」
「お前に止められる程度の力なら、初めから誰も苦労はしていない」
突き放すような言葉に、ドレイヴの眉がぴくりと動いた。
「やめて」
マナが二人を睨む。
「訓練を始める前に怪我を増やさないで」
ハルヴァはドレイヴを値踏みするように眺めた。
「手を出せ」
アレンは部屋の中央まで進むと、右手を覆っていた黒い手袋を外した。
その手首には、医療塔で刻印を抑えるために施された細い銀色の封止環が巻かれている。表面には複数の術式が刻まれ、その溝をなぞるように、青い光が一定の間隔で流れていた。
エルザはアレンのそばまで歩み寄ると、封止環に刻まれた術式の一部へ指先で触れる。
「完全には解除しません」
エルザは封止環へ指を添えたまま、アレンを見上げた。
「緩めるのは外側の封止を一層だけです。刻印の反応を確認できる、ぎりぎりの範囲に留めます」
青い光が、彼女の指先の下でゆっくりと脈打つ。
「少しでも危険な兆候が出れば、訓練はそこで終了です。あなたの意思に関係なく、こちらで強制的に封止を戻します」
「……分かりました」
アレンは右手を見つめ、短く息を吐いた。
「お願いします」
アレンが答えると、エルザは封止環に刻まれた術式へゆっくりと魔力を流し込んだ。
銀色の環が細い音を立て、表面に刻まれていた紋様の一つが静かに消える。
その瞬間、アレンの右手の甲に熱が生まれた。
青黒い刻印が皮膚の下から浮かび上がるように光を放ち、指先から肩へ向かって、微かな電流が駆け上がっていく。
その感覚を、身体は覚えていた。
一か月前、制御を失った力。全身を焼き、意識を奪い、仲間にさえ牙を剥いた雷。
記憶とともに恐怖が蘇り、アレンの呼吸は次第に浅くなっていく。
「……俺は、何をすればいい」
右手を見つめたまま、アレンが尋ねる。
「雷を出せ」
ハルヴァは、あまりにも簡単なことのように答えた。
「どこへ放てばいい」
「放つ必要はない。右手の人差し指に集めろ」
アレンは指先をわずかに持ち上げる。
「攻撃魔法を使うんですか?」
「術式は組むな」
その一言に、アレンの動きが止まった。
「術式なしで雷を出せっていうんですか」
「そうだ。魔法ではなく、刻印だけを使え」
「……だから、それをどうやって」
「感じろ」
投げ出すような返答に、アレンの眉が寄る。
「それが分からないから聞いてるんです。感じろと言われてできるなら、最初から苦労なんて――」
「では聞くが」
ハルヴァが、アレンの言葉を遮った。
「お前は普通の魔法を使うとき、最初に何をする」
「……魔力を集めます」
「どこからだ」
「空気中から、自分の中へ」
「そのあと術式を組み、形を与える。そうだな」
アレンが黙ってうなずくと、ハルヴァは椅子の背へ身体を預けた。
「なら今回は、形を与えるな。術式で命令するな。お前の中にある雷が、どこから湧き、何を求めているのかを探れ」
「そんな曖昧なやり方で……」
「刻印は魔法ではない」
ハルヴァの声から、わずかな温度さえ消えた。
「頭で理解してから動く力ではない。理解する前にお前を喰う力だ」
アレンは光る右手へ目を落とす。
「喰われたくなければ、先にそいつの声を聞け」
ハルヴァは言った。
アレンは右手へ意識を集中させる。
刻印の奥には、熱がある。
それは、普段の魔法を使うときに空気中から引き寄せる魔力とは、まるで異なるものだった。肉の内側、さらに骨の奥深く――自分の身体の一部でありながら、決して自分ではない何かが潜んでいる。
アレンがそこへ触れようとした瞬間、刻印が一度、強く脈打った。
青白い火花が指の間で弾け、すぐ近くでマナの呼吸が止まる気配がした。
「大きすぎる」
ハルヴァが低く告げた。
「まだ何もしてない」
「している。恐怖で、刻印の力を押し返している」
「……押し返してる?」
「刻印は開こうとしている。だが、お前は暴走を恐れて、無意識に閉じようとしている。そのせいで、出口を失った力が内側で膨らんでいるんだ」
右手の熱が一段と強まり、青白い火花が指先から手首まで駆け抜けた。
「っ……!」
「止めようとするな」
「止めなかったら、また暴走するだろ!」
「全部を解き放てとは言っていない。細く流せ」
「だから、その方法を聞いてるんだ!」
思わず声を荒らげたアレンに対し、ハルヴァの口調は少しも揺らがない。
「指先まで一本の道を作れ」
「道……?」
「力をすべて閉じ込めるから、内側で暴れる。逃がす場所を一つだけ与えろ」
ハルヴァはアレンの右手を見据えた。
「人差し指だ。ほかは閉じたままでいい。そこだけを開けろ」
アレンは浅く息を吸い、人差し指へ意識を集中させる。
刻印の内側にある雷を、ほんの少しだけ、必要な分だけ指先へ導いていく。
やがて青白い光が手の甲から人差し指へ細く流れ、爪の先に豆粒よりも小さな火花が灯った。
攻撃魔法と呼ぶには、あまりにも弱い光だった。それでも、それはアレンが刻印から自らの意思で引き出した、最初の雷。
「……出た」
マナが、息をこぼすように呟いた。
その声には安堵が滲んでいたが、ハルヴァは表情を変えない。
「喜ぶのはまだ早い。そのまま維持しろ」
アレンは返事をせず、乱れかけた呼吸を整えた。
爪の先に灯った火花は、今にも消えそうに細くなったかと思えば、次の瞬間には激しく瞬く。ほんの僅かに意識が揺れるだけで、光は抑えを失ったように膨らんだ。
「もっと弱くしろ」
「……やってる」
「なら、なぜ強くなる」
「分かってる。今、抑えて――」
「抑えるな。流れを細くしろ」
「同じことだろ!」
苛立ちに声を荒らげた瞬間、指先の火花がひと回り大きく弾け、アレンの呼吸が一瞬止まった。
焦れば焦るほど、雷は彼の手を離れようとするかのように勢いを増していく。指先から手首へ伸びる青白い線は、一つ、また一つと増え、やがて三筋にまで分かれた。
刻印が、さらに開こうとしている。
その感覚に触れた途端、一か月前の記憶が蘇る。身体の奥から際限なく力が溢れ、自分の意思では止められなくなっていく、あの恐怖。
止めなければならない。今すぐ、すべてを抑え込まなければ。
アレンは反射的に右手を強く握り、指先で弾ける火花を拳の中へ閉じ込めた。
「握るな、開け!」
それまで冷静だったハルヴァの声が、鋭く部屋を切り裂く。
だが、アレンの拳はすでに閉じられていた。
逃げ道を塞がれた雷が、行き場を求めて拳の内側で膨れ上がる。
「手を開け! 閉じ込めれば、内側で弾けるぞ!」
次の瞬間、青白い光が指の隙間から噴き出した。
「っ、ああ……!」
骨を内側から砕かれるような激痛が、指先から手首へ一気に駆け上がる。
逃げ場を失った雷は外へ抜けることなく、右腕の内側を逆流していく。血管をなぞるように青白い線が皮膚の下を走り、手首から肘へ、そして肩へと瞬く間に這い上がった。
「アレン!」
マナの叫びが聞こえた直後、アレンの右腕が大きく跳ねる。
筋肉が意思に反して激しく収縮し、拳は異常な力で握り込まれていく。止めようとしても指は開かず、爪が掌の肉へ深く食い込んだ。
「開け!」
ハルヴァが命じる。
「動かない!」
「力を外へ流せ!」
「できない!」
雷が肩へ到達した瞬間、胸の右側へ焼けるような痛みが広がり、視界が白く明滅する。
全身から力が抜け、アレンは膝をつく間もなくそのまま床へ崩れ落ちた。
「もうやめて! 止めるって約束したでしょ! すぐに封止を戻して!」
マナの叫びが、訓練室に鋭く響く。
だが、ハルヴァは倒れたアレンから目を逸らさない。
「まだだ。あいつは、自分で止められる」
「どこがよ! 見れば分かるでしょ、もう制御できてない!」
声を震わせながら、マナはアレンのもとへ駆け寄ろうとする。
「待ってて、今――」
しかし、床を這う雷がマナの進路を塞いだ。青白い火花は銀色の溝へ次々と流れ込み、そのまま訓練室全体へ網の目のように広がっていく。
危険を察したドレイヴは、咄嗟にマナの前へ出た。
「俺が行く」
ドレイヴが一歩踏み出した瞬間、ハルヴァの声が飛ぶ。
「待て。近づくな」
次いで巻き起こった風が、ドレイヴとマナの身体を強引に押し戻した。
「離せ!」
ドレイヴは床を踏みしめ、吹きつける風に抗う。
「今あいつに触れれば、雷はお前の身体へも流れ込む」
「だからって、黙って見てろっていうのか!」
「無策で飛び込めば、倒れる人間が一人増えるだけだ」
ハルヴァの冷静な言葉に、ドレイヴは歯を食いしばった。
「アレン!」
マナが風の向こうから声を張り上げる。
「わたしの声、聞こえてる!? 返事をして!」
聞こえている。
すぐそばで叫ばれているように、はっきりと。
それでも返事をしようとするたび、痙攣する顎が勝手に震え、歯と歯が激しくぶつかり合う。
右腕の中では、何かがなおも激しく暴れ続けていた。
止めたい。だが、抑え込もうとすればするほど、雷は逃げ場を失い、さらに深く内側へ押し戻されていく。
――すべてを閉じ込めるな。
不意に、ハルヴァの言葉が脳裏をよぎった。
一本だけ通せ。
アレンは雷の逃げ道を作ろうと、右手を床へ押しつけようとする。しかし、腕はまるで命令を拒むように動かない。
肘から先が激しく痙攣し、固く握られた拳は胸元へ引き寄せられたままだった。
「手が……開かない!」
痙攣する右腕を押さえながら、アレンが声を絞り出した。
「開く必要はない」
風の向こうから、ハルヴァの落ち着いた声が届く。
「拳のままでいい。掌を床へ向けろ」
「無理だ! 腕が言うことを聞かない!」
「腕ではない。肩を動かせ」
アレンは苦痛に顔を歪めた。
「肘から先が動かなくても、肩はまだ死んでいない。腕ごと床へ向けろ」
ハルヴァの口調には迷いがない。
「動かない場所ばかり見るな。今、動かせる場所を探せ」
アレンは歯を食いしばり、痙攣する右肩へ意識を集中させる。
痛みに逆らうように肩を前へ押し出すと、胸元へ引き寄せられていた腕が、ほんの僅かに動いた。
「もう少しだ」
ハルヴァの風が、そっとアレンの肘へ触れる。
強引に腕を動かすのではなく、ただ進むべき方向だけを示すような、ごく弱い風だった。
その助けに身を預け、アレンは肩と上半身を使って右腕を振り下ろし、固く握った拳を床へ叩きつける。
直後、青白い雷が激しく爆ぜた。
床に埋め込まれた銀色の溝が一斉に輝き、光は訓練室の外周へ向かって勢いよく駆け抜けていく。身体の中に閉じ込められていた力も、それに引かれるように地面へ吸い込まれていった。
やがて火花は弱まり、肩まで這い上がっていた青白い光も、少しずつ消えていく。
「封止します!」
エルザの声と同時に、アレンの手首を覆う封止環が強く輝いた。
消えていた紋様が次々と浮かび上がり、右手の刻印を覆い隠すように、銀色の術式が幾重にも重なっていく。やがて最後の火花が床へ落ち、かすかな音とともに消えた。
訓練室に、静寂が戻る。
アレンは膝と左手を床についたまま、肩を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返していた。心臓は胸を突き破りそうなほど激しく脈打ち、額から落ちた汗が黒い床に小さな染みを作っている。
「アレン!」
風の壁が消えると同時に、マナが床を蹴った。ドレイヴもすぐ後ろから駆け寄ってくる。
マナはアレンのそばへ膝をつき、右腕へ手を伸ばしかけて、寸前で止める。
「触るよ。どこが一番痛む?」
「……右腕」
「腕のどこ? 指先だけ?」
「いや……肩まで、雷が走った」
その答えに、マナの表情が強張った。
「今も痺れてる?」
アレンは答えようとしたが、言葉を飲み込み、恐る恐る右手へ意識を向ける。
「無理に動かすな」
ドレイヴが低い声で制した。
「感覚だけ確かめろ。動くかどうかは、そのあとでいい」
何も感じない。
痛みが強すぎて、感覚が分からなくなっているだけだ。そう思いながら、アレンは慎重に右腕を動かした。
肩は上がる。続いて力を込めると、肘もゆっくりと曲がった。
「腕は動く」
マナが安堵したように息を吐く。
「手は?」
アレンは恐る恐る指を曲げようとした。
しかし、どの指も動かない。
先ほどまでかろうじて反応していた薬指も、動いていたはずの人差し指と中指も、今は五本すべてが力なく開いたままだった。
「アレン?」
「待ってくれ」
アレンは、もう一度右手へ命令を送った。
握れ。指を曲げろ。せめて、人差し指だけでも。
しかし、どの指も動かなかった。
今度は右手首を持ち上げようと、前腕の筋肉へ力を込める。腕全体は小さく震えたものの、手首から先だけは力なく垂れ下がったまま。
「手首が……動かない」
掠れた声で告げると、マナはアレンの右手を両手でそっと包んだ。
「今、触ってる。分かる?」
彼女の指が掌を押しているのは、目で見れば分かる。
だが、そこに触れられている感覚はなかった。
「……もう少し、強くしてくれ」
「分かった。少し痛いくらいに押すね」
マナが掌へ力を込める。その表情には、答えを聞くことへの恐れが滲んでいた。
「これは?」
アレンは右手を見つめたまま、僅かに首を振る。
「……分からない。何も感じない」
マナの指先が、一瞬だけ止まった。
「じゃあ、指は? 一本ずつ確かめるよ」
マナは平静を保とうとするように息を整え、親指から人差し指、中指、薬指、小指へと順に触れていく。
だが、どこにも感覚はなかった。
アレンは、自分の右手を呆然と見つめた。皮膚も爪も、手の甲に浮かぶ刻印さえ、見た目には何ひとつ変わっていない。
確かにそこにあるはずなのに、その手だけが、もはや自分の身体ではなくなってしまったようだった。
「動かせ」
ハルヴァの声が、静まり返った訓練室に落ちる。
マナが勢いよく振り返った。
「今の状態が見えないんですか? 感覚すらないのに、動かせるわけ――」
「だから動かすんだ」
ハルヴァは、力なく垂れ下がったアレンの右手を見据えていた。
「もう一度、手に命令しろ」
「そんなことをして、また刻印が反応したらどうするんです!」
「雷を使えとは言っていない。自分の指を、自分の意思で動かせと言っている」
ハルヴァの声は冷静だった。冷たいほどに、揺らぎがない。
「動かないからといって諦めれば、その瞬間からその手は本当にお前のものではなくなる」
アレンは、感覚の消えた右手へ視線を落とす。
「命令し続けろ。届くまでだ」
アレンは右手から目を逸らさず、もう一度、指先へ力を込めた。
動け。握れ。開け。
何度命じても、五本の指は微動だにしない。
昨日までは、まだ三本の指が動いていた。今朝も、自分の意思で手袋を外すことができた。
それが今は、何ひとつできない。
「……動かない」
自分の声が、どこか遠くから聞こえてくる。
マナが何かを訴え、ドレイヴはハルヴァへ詰め寄っていた。治療師たちも次々と部屋へ入り、アレンの右腕へ測定具を当てている。
だが、その声も動きも、何ひとつ頭には入ってこない。
アレンはただ、床へ力なく垂れ下がった右手を見つめ続けた。
一か月もの間、消えることなく残っていた痺れは、もうどこにもない。
治ったのではなかった。
痺れを感じるための感覚そのものが、完全に失われていたのだ。




