第19話『一人では背負わせない』
その日の夜、三人は療養院の食堂で遅い夕食を済ませると、客室へ戻った。
部屋の暖炉には火が入り、赤い炎が静かに揺れている。窓の外では雪が降り続き、硝子の端には白い霜がじわじわと広がっていた。
ドレイヴは椅子に腰を下ろし、雪で濡れた靴を暖炉へ向けている。そばの机では、マナが帳面を広げていた。
二人から少し離れた窓際で、アレンは右手の黒い手袋を外した。
「明日、訓練をする」
沈黙を破ったアレンの言葉に、マナの筆先が止まる。
「……何の訓練?」
聞き返しながらも、彼女はすでに答えを察しているようだった。
「刻印を使う」
マナはすぐには何も言わなかった。やがて帳面から顔を上げ、アレンをまっすぐ見つめる。
「本気で言ってるの?」
「ああ」
「今日、ハルヴァさんが何を話してたか、ちゃんと聞いてた?」
「聞いてた」
「だったら、どうして――」
「聞いたからだ」
アレンは右手を見下ろし、ゆっくりと握ろうとした。
「このまま封じて、何も起きないことを祈り続けるだけじゃ駄目なんだ」
「でも、使えば呪縛が進むんだよ」
「分かってる」
「分かってない」
マナの声が、はっきりと強くなる。
「本当に分かってるなら、そんな簡単に言えるはずない。ハルヴァさんを見たでしょ。刻印を止めたら、自分の力で息をすることさえできないんだよ」
「見た」
「手も、脚も動かない。呼吸まで刻印に任せて、あの人は生きてる」
マナはアレンの右手を見つめた。
「次は指だけじゃないかもしれない。腕が動かなくなって、脚が動かなくなって……いつか、アレンもああなるかもしれないんだよ」
「ああ」
その短い返事に、マナの表情が歪んだ。
「だったら、どうしてそんな顔で言えるの!」
マナは椅子の脚を鳴らして立ち上がった。その拍子に机の上の帳面が乾いた音を立てて閉じる。
「制御できるようになるために、少しずつ死へ近づいていくなんて……そんなの、どう考えてもおかしいよ」
使わなければ守れない。使えば身体が壊れていく。逃げ場のない焦りが、アレンの胸を突き上げた。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「使わなくて済む方法を探せばいい」
「封印具だけじゃ、いつか破られる」
「だったら、もっと強い封印を作ってもらえばいい。ケイムやディアナなら、何か方法を――」
「それが次の戦いまでに間に合うのか?」
マナの言葉が止まった。
「帝国は待ってくれない。怪物だって、いつまた現れるか分からない。そのときまでに封印が完成する保証が、どこにあるんだ」
「だったら――」
マナは唇を噛み、絞り出すように言った。
「戦わなければいい」
アレンが目を見開く。
「何だって?」
「もう、戦わなくていいよ!」
マナの声が、静かだった部屋いっぱいに響いた。
声の余韻が残る中、暖炉の炎が細く揺れる。
「今のアレンは、戦える身体じゃない」
マナは言い聞かせるように、けれど震える声で続けた。
「右手だって、まともに動かない。退院したばかりで、医師からも戦うなって言われてる。それなのに、どうして次に戦うことばかり考えるの?」
「じゃあ、戦いの方が俺の都合を待ってくれるのか?」
「だからって、自分から死にに行くようなことを――」
「ファランディアでも同じだった」
アレンは彼女の言葉を遮った。
「あのときだって、刻印を使うつもりなんかなかった。封印具も着けてた。それでも、俺の意思とは関係なく暴走したんだ」
右手を握ろうとしても、小指だけは曲がらず、伸びたまま残る。
「次も同じことが起きたら、どうする」
「そのときは、みんなで止める」
「間に合わなかったら?」
「間に合わせるよ」
「何を根拠に言ってるんだ」
「根拠なんてなくても、間に合わせる。わたしたちが――」
「どうやって!」
荒い声が部屋を打ち、マナの肩が僅かに震えた。
叫ぶつもりなどなかった。だが、その反応を見てから悔やんでも、もう遅い。
ドレイヴは暖炉の前から動かず、黙って二人のやり取りを見つめていた。
「一か月前、お前たちは俺を止めるために死にかけた」
アレンはマナから目を逸らさずに続ける。
「リヴァもいた。ケイムもいた。それでも、あと少し止めるのが遅れていたら、誰かが死んでたかもしれない」
「だから今度は、もっと準備するの」
マナは間を置かずに言い返した。
「治療師も呼ぶ。封印具も強くする。何かあったら、すぐにみんなで止められるように――」
「それじゃ駄目なんだ」
アレンの声が低くなった。
「どれだけ周りが準備しても、俺自身が止められなければ、また同じことが起きる」
「だからって、そのために自分の身体を壊すの?」
「壊れると決まったわけじゃない」
「もう壊れ始めてる!」
マナの声が鋭く響く。
その視線が、アレンの右手へ突き刺さった。
「動かない指があるのに、どうしてまだそんなことが言えるの?」
感覚を失い始めた薬指と小指に目を落とし、アレンは動く指だけを内側へ曲げた。いびつに丸まった右手を反射的に背後へ隠す。
その仕草を見たマナの表情は、かえって苦しげに曇った。
「……見せたくないんでしょ」
「違う」
「だったら、隠さないで」
「隠してなんか――」
「今、隠したよ」
マナの言葉に、アレンは背中へ回していた右手をゆっくりと戻した。だが、内側へ曲げた指を、思うように開くことができない。
「どうして開かないの」
「これは……」
言い訳を探しても、喉の奥で言葉が絡んだ。
「俺の身体。どうするかは俺が決める。マナには関係ない」
その言葉を口にした瞬間、アレンは言い過ぎたことに気づく。
マナの表情から、わずかに色が消えた。
「……そうだね」
マナは小さくうなずいた。
「マナ、今のは――」
「アレンの身体だよ」
重ねた声は静かだった。怒りよりも、深く傷ついた響きが滲んでいる。
「痛いのも、痺れるのも、少しずつ動かなくなっていくのも……全部、アレンが受けることだよ」
マナは閉じた帳面の上に両手を重ねた。
「だから、最後に決めるのはアレンなんだと思う」
そこで一度言葉を切り、伏せていた顔を上げる。
「でもね、アレンの身体だからって、アレン一人だけの問題になるわけじゃない」
「……どういう意味だ」
「アレンが傷つけば、わたしたちだって痛いんだよ」
声の端が僅かに震えた。
「指が動かなくなるたびに怖くなる。次はどこなんだろうって考える。いつかアレンがいなくなるかもしれないって、何度も想像してしまう」
閉じた帳面を押さえる指先に、力がこもる。
「その苦しさまで、自分の身体だから関係ないなんて言わないで」
マナは震える息を押さえ、言葉を続けた。
「アレンが動けなくなったら、わたしたちが支える。自分で息ができなくなったら、どうにかして息をさせる。死にそうになったら……助けるためなら、わたしは何だってする」
瞳には涙が滲んでいた。それでも、マナはアレンから目を逸らさない。
「だから、一人で決めないで」
アレンは何も答えられなかった。
「自分の身体だから、自分の好きに壊してもいいなんて思わないでよ」
「そんなつもりじゃない」
「いつも、そう言う」
マナの声が僅かに掠れる。
「死ぬつもりはない。無茶をするつもりもない。みんなを守りたいだけだって」
一つひとつ、これまでのアレンの言葉を突き返すように告げた。
「でも、追い詰められたら、最後には必ず自分が残ろうとする。自分一人が傷つけば済むって、勝手に決める」
「俺は――」
「それが、一番つらいんだよ」
マナの目から、堪えていた涙が一筋だけ頬を伝った。
「アレンは自分が傷つけば終わりだと思ってる。でも、残されたわたしたちは、そのあともずっと生きていかなきゃいけないんだよ」
骸骨へ素手で組みつこうとしたときも、ドレイヴを残して逃げることを拒んだときも、仲間から離れようとしたときも――自分は、誰かを守ろうとしていた。
少なくとも、アレンはそう信じていた。
「俺はただ、お前たちを危険に巻き込みたくないだけだ」
「だから、その決め方を一人でしないでって言ってるの」
マナの頬を、もう一筋の涙が伝う。
「アレンが危険だと思ったら、わたしたちは何も知らされないまま遠ざけられる。守るためだって言われて、選ぶことすら許されない」
「それは、お前たちを――」
「守られるかどうかは、わたしたちにも決めさせてよ」
震える声でそう言いながらも、マナの視線は揺らがなかった。
「アレン一人で、わたしたちの覚悟まで決めないで」
暖炉の中で薪が崩れ、小さな火の粉が二人の間へ舞い上がる。
アレンは右手を見つめたまま、何かを言わなければならないと思った。
だが、謝るだけでは足りない。かといって、今の自分が何を伝えるべきなのか、言葉を見つけることもできなかった。
「マナの言ってることは正しい」
それまで黙っていたドレイヴが、低い声で口を開いた。
アレンは思わず顔を上げる。
「お前も、訓練には反対なのか?」
「いや。刻印を使うこと自体には反対しねえ」
予想外の答えに、今度はマナが驚いたように彼を見た。
「ドレイヴ?」
「使わなきゃ分からねえ。身体で覚えなきゃ、次も同じことになる。ハルヴァの話はたぶん間違ってねえよ」
ドレイヴは暖炉の前の椅子から立ち上がる。
「次に暴走したとき、またリヴァやケイムが近くにいる保証はない。俺たちだけじゃ、お前を止められないかもしれねえ。それも事実だ」
「だったら――」
「最後まで聞け」
ドレイヴの声が、アレンの言葉を押しとどめた。
「刻印を使うことには反対しねえ。ただし、お前が一人で決めて、一人で背負うつもりなら、俺は絶対に認めない」
ドレイヴはアレンの前まで歩み寄り、その胸倉を左手で掴む。
「使うなら、俺たちの見ている前で使え」
襟元を締めつける指に、さらに力がこもった。
「指が痺れたら言え。耳鳴りがしたら、すぐに言え。怖くなったならそれも隠すな」
「怖いって言ったところで、何が変わるんだ」
「少なくとも、俺たちには分かる」
「分かったところで、何ができる」
「それを考えるのは、聞いたあとだ」
ドレイヴはアレンの目を正面から見据えた。
「お前が何も言わなきゃ、俺たちは気づくことすらできねえ。隣にいるのに、助けるための手も出せねえんだよ」
「……それだけか」
「それで十分だろ」
そう言い捨てると、ドレイヴはアレンを突き放すように胸倉から手を離した。
「お前は平気なふりをしてるときが、一番危ねえ。自分じゃ隠せてるつもりでも、見てるこっちは気が気じゃねえんだ」
アレンは答えられないまま、乱れた襟元を静かに直す。
マナは頬に残った涙を拭うと、しばらくドレイヴを見つめていた。
「……訓練には、わたしたちも立ち会う」
今度は迷いのない声だった。
「ハルヴァさんにも、そう認めてもらう。治療師も呼んで、何かあればすぐに止められるようにする」
「危険だ」
アレンが言うと、マナはまっすぐ彼を見返した。
「危険だから、そばにいるの」
「もし、また暴走したら――」
「そのとき逃げるかどうかは、わたしが決める」
アレンの言葉が止まる。
「アレンが危険だから離れろって言うなら、その理由はちゃんと聞く。でも、何も起きていないうちから、わたしの代わりに決めないで」
マナは震えの残る声で、それでもはっきりと言った。
「怖くてもそばにいるのか、怖いから逃げるのか。それを選ぶのは、アレンじゃない。わたしだよ」
その言葉に、アレンは息を詰まらせた。
マナは、まっすぐにアレンを見つめている。
ようやく分かった。二人が拒んでいるのは、刻印でも訓練でもない。アレンが二人の覚悟まで勝手に決め、危険から締め出そうとすることだった。
「……分かった」
長い沈黙の末、アレンは答えた。
「明日の訓練は、二人にも立ち会ってもらう。何か起きても、もう一人では抱え込まない」
マナはすぐには安心せず、アレンの顔を見つめたまま続けた。
「それだけじゃ駄目」
「まだ何かあるのか」
「わたしたちが危険だと判断したら、訓練を止める」
マナの声には、譲るつもりのない強さがあった。
「アレンがまだ続けられると思っても、わたしたちが止めると言ったら、そこで終わりにして」
その約束だけは、すぐに口にすることができなかった。
あと少しで制御を掴めると思ったとき、本当に力を引けるのか。身体に異変が出ていても、続けようとしてしまうのではないか。
すぐに約束できない自分こそが、アレンには恐ろしかった。
答えをためらうアレンを、マナとドレイヴは黙って見つめていた。
そしてマナは、アレンの胸に生じた迷いを見逃さなかった。
「アレン」
静かな呼びかけだった。だが、目を逸らすことは許さないという強さがある。
「……分かった」
アレンは覚悟を決めるように頷いた。
「二人が止めろと言ったら、その時点で訓練を止める」
「もう少しで掴めそうだと思っても?」
アレンは答えかけて、口を閉ざした。視線が右手へ落ちる。
それでも、やがて顔を上げ、マナの目をまっすぐ見返した。
「止める。二人が止めろと言ったら、俺は従う」
「……絶対に?」
「絶対にだ」
マナは、その言葉の真意を確かめるように、しばらくアレンと向き合っていた。
やがて、納得したようにゆっくりとうなずいた。
恐怖も迷いも、消えたわけではない。三人が同じ答えに辿り着いたわけでもなかった。
それでも、アレン一人の選択だった明日の訓練は、三人で背負う覚悟へと変わっていた。




