第18話『制御という代償』
その夜、アレンはほとんど眠ることができなかった。
ブランネリア北部魔力障害療養院の客室には、三つの寝台が並んでいる。中央の寝台では、ドレイヴが毛布を蹴飛ばしながら規則正しい寝息を立て、窓際では、マナが帳面を胸元に置いたまま眠っていた。
窓から差し込む雪明かりが、薄暗い室内を青白く照らしている。
アレンは毛布の中で、黒い手袋を外した右手をじっと見つめていた。手の甲に刻まれた雷の紋様は、まるで眠っているかのように光を失っている。
親指、人差し指、中指と順に曲げていく。三本は問題なく動く。薬指は半ばまで動いたが、小指は何度命じても、かすかに震えるだけだった。
力を込めれば込めるほど、動かない指が少しずつ自分のものではなくなっていくように感じられた。
――使え。刻印を制御したいなら、刻印を使うしかない。
ハルヴァの言葉が、いつまでも頭から離れない。
使えば、呪縛は進む。使わなければ、制御には近づけない。昨日まで動いていた指が、明日も動く保証さえなかった。
「……どうしろっていうんだよ」
誰にも聞こえないほど小さく呟いたが、答えは返ってこない。
答えの代わりに、遠くから低い風音が届いた。
窓の外を吹き抜ける風ではない。療養院の奥――ハルヴァの部屋から響いてくる音だった。
低く、途切れることのない空気の流れ。動かない身体へ空気を送り込み、命をつなぎ止めるための風だ。
あの風は、夜の間も止まることがない。眠っているときも、意識を失っているときも、刻印を使い続けなければ、ハルヴァは息をすることさえできない。
自分も、いつかああなるのだろうか。
右手だけで終わるとは限らない。
腕へ、脚へ、やがて喉と肺へ。身体は一つずつ、自分の命令を聞かなくなっていく。
そのとき、自分は雷で身体を動かしながら生き続けるのか。
考えれば考えるほど、胸の奥へ冷たいものが広がっていった。
アレンは右手を毛布の中へ隠し、そのまま目を閉じる。
それでも、ハルヴァの言葉だけは消えてくれなかった。
◇
翌朝、三人が再びハルヴァの部屋を訪れると、彼は寝台の上で上半身を起こしていた。
その身体は、昨日と同じように無数の細い風に支えられている。窓際のカーテンも、外で降り続く雪とは無関係に、ゆっくりと揺れていた。
入口には昨日と同じ二人の治療師が立ち、今日はエルザもいた。
誰もがハルヴァへ敬意を払っていた。だが、誰一人、寝台から三歩以内に踏み込もうとはしない。
「昨夜は、眠れたか」
ハルヴァが尋ねた。
その声は、昨日よりもわずかに明瞭だった。言葉を発するたび、胸を押し広げる風がかすかに強まる。
「……少しは眠れました」
アレンはそう答えたが、ハルヴァは間を置くことなく言った。
「嘘だな」
「どうして、そう思うんですか」
「思ったわけではない。見れば分かる」
ハルヴァはアレンの顔を静かに見た。
「目の下が、昨日より黒い」
返ってきたのは、あまりにも単純で、あまりにも普通の答えだった。
アレンが返す言葉を失っていると、隣でドレイヴが堪えきれずに小さく吹き出した。
「まあ、そりゃ分かるよな。こいつ、ここへ来るまでに何度あくびしたと思ってる」
「数えてたのかよ」
「途中で面倒になってやめた。両手じゃ足りなかったからな」
「余計なこと言うな」
「別に隠すようなことでもねえだろ。眠れなかったくらいで、誰も笑わねえよ」
「今、笑っただろ」
「それは別だ」
悪びれもせず答えるドレイヴを横目で睨んでいると、マナが心配そうにアレンの顔を覗き込んだ。
「本当に、ほとんど眠ってないの?」
「まったく眠ってないわけじゃない。ただ、少し考え事をしてただけだ」
「少し考えただけで、そんな顔になる?」
マナの目が、アレンの目の下から右手へとゆっくり落ちていく。
「……何を考えてたの?」
アレンはすぐには答えず、毛布の中で動かなかった小指の感覚を思い出した。
やがて顔を上げ、寝台にいるハルヴァを見る。
「昨日、あなたから聞いた話です」
ハルヴァの表情は変わらなかった。
ただ、彼の身体を支える風だけが、わずかに強くなる。
「刻印を使えば分かる」
「分からないから来たんです」
「なら、まず知れ」
ハルヴァの右腕が風に支えられ、ゆっくりと持ち上がった。
痩せ細った手はそのまま宙を進み、寝台脇の机へと向かっていく。指はまったく動いていない。それにもかかわらず、机の上に置かれていた小さな硝子杯が、見えない手に掴まれたようにふわりと浮かび上がる。
杯には、半分ほど水が入っている。
硝子杯は風に運ばれて部屋の中央まで移動すると、アレンたちの目の高さで静かに止まった。その間も、水面にはほとんど揺れが生じていない。
「刻印は、身体に現れた瞬間から、お前の一部になるわけじゃない」
ハルヴァがそう言うと、杯を包んでいた風がわずかに緩んだ。
その瞬間、硝子杯がぐらりと傾き、中の水が大きく波打つ。だが、こぼれ落ちる寸前、下から別の風がすくい上げるように杯を支え、何事もなかったかのように元の位置へ戻した。
「初めのうちはな、刻印は自分の力には思えない」
「自分の力じゃない?」
「身体へ異物を打ち込まれたようなものだ。肉体は生きるために受け入れようとする。だが心は拒む」
アレンは、光を失った右手の紋様へ目を落とす。
「どちらが勝つかなど、刻印には関係ない。受け入れても、拒んでも、身体の奥へ入り込んでくる」
硝子杯が、アレンの前へ静かに移動した。
「持て」
アレンは左手を伸ばした。
「右手だ」
昨日と同じ指示を受け、アレンは黒い手袋を外すと、右手を差し出す。
硝子杯の表面へ指を添える。人差し指と中指には、はっきりと冷たさが伝わった。薬指にもわずかな感覚は残っていたが、小指には何も感じない。
やがて杯を支えていた風が消え、その重みが右手へ移る。
アレンは落とすまいと指に力を込めたが、硝子の表面が滑り、杯が手の中から抜け落ちかけた。慌てて左手を添えようとした、その瞬間、再び風が杯を支える。
「今、お前の手は何をした」
「……杯を持とうとしました」
「違う」
ハルヴァは間を置かずに否定した。
「お前が頼ったのは、まともに動く三本だけだ。動きの鈍い二本は、最初から数に入れていない」
言われて初めて、アレンは右肩が持ち上がり、手首が不自然に固まっていることに気づいた。
「身体は欠けた力を、別の場所で埋めようとする。だが、それに慣れれば、自分が何を失ったのかさえ見えなくなる」
硝子杯が風に運ばれ、音もなく机の上へ戻っていく。
「刻印も、それと同じだ」
「……同じ?」
「お前が力を使うたび、刻印は身体の奥へ少しずつ入り込む。最初は細い傷のようなものだ。だが、何度も使えば、その傷は道になる」
ハルヴァの風が、アレンの右手を静かに包み込んだ。
「そして一度できた道を、刻印は忘れない。次に力を呼び出したときは、昨日よりも深く、昨日よりも速く、その道を通ってくる」
「それが……制御するということなんですか」
「違う。それは、刻印がお前の身体の使い方を覚えているだけだ」
風に触れられている感覚はなかったが、手の甲の産毛が逆立つことで、空気が一定の方向へ流れているのが分かる。
「刻印が目覚めたばかりの身体には、まだ力の通り道がない」
風が、アレンの指先から手首へと流れていく。さらに腕を伝い、ゆっくりと肩へ抜けた。
「道を持たない力は、行き先を選べない。肉を走り、神経へ潜り込み、精神の奥まで手当たり次第に駆け回る」
ハルヴァの声が、わずかに低くなる。
「だから暴れるんだ。流れる必要のない場所へ入り込み、止まらなければならない場所を突き抜ける」
その言葉を聞いた瞬間、一か月前の光景がアレンの脳裏に蘇った。
自分の意思とは無関係に雷が放たれ、仲間の声さえ耳に届かないまま、身体の内側から力だけが際限なく溢れ続けていた。
「だが、何度も使えば道ができる」
風の流れが次第に細くなり、先ほどまで腕全体を包んでいた空気が一本の線へと集まっていく。
やがてその細い風は、アレンの小指の先だけをそっと撫でた。ほとんど感覚を失っているはずの指だったが、それでも爪の先に、かすかな圧力が伝わってくる。
「やがて力は、何度も通った同じ道を選ぶようになる。刻印者の身体も、その流れを覚えていく」
「それは……身体が刻印に慣れていく、ということですか?」
マナがそう尋ねると、ハルヴァはわずかに目を細めた。
「慣れる、か」
その言葉を口の中で確かめるように繰り返し、短く息を吐く。
「随分と便利な言い方だ」
「違うんですか?」
「毒を毎日飲み続ければ、以前より苦しまずに済むようになることもある」
アレンの手を包んでいた風が、ゆっくりと離れていった。
「だが、それを毒に慣れたと呼ぶか、毒に蝕まれたと呼ぶかは、見る者によって違う」
ハルヴァは自らの痩せ細った身体へ目を落とした。
「ひとつだけ確かなのは、飲みやすくなったからといって、毒が無害になったわけではないということだ」
部屋の空気が、張り詰めたように静まり返る。
「刻印を使えば、呪縛は進む。力を通すたび、毒は肉体と精神の奥へ回っていく」
ハルヴァの灰緑色の瞳が、アレンの右手を捉えた。
「だが、その流れを知るほど、力が動き出す前触れも分かるようになる」
「何がですか」
「力が流れ始める瞬間だ」
ハルヴァは静かに顔を上げる。
「どこから湧き、どこを通り、どこで暴れようとしているのか。刻印が動き出す、その前触れを感じ取れるようになる」
「それが、制御につながる……?」
「そうだ」
ハルヴァの声には、慰めるような響きはなかった。
「皮肉な話だ。刻印を御するには、まずその力を何度も身体へ通さなければならない」
その言葉と同時に、硝子杯が水を一滴もこぼさず宙を巡る。
机の薬瓶は本体を揺らすことなく、蓋だけが回り、カーテンは左右へ開いて雪景色を覗かせる。寝台脇の薄い紙も一枚ずつ持ち上がり、寸分の乱れもなく重なっていった。
四つの風が別々に働いている間も、ハルヴァの呼吸は乱れない。身体を支える風も、声を生む風も、少しも途切れなかった。
アレンは無意識に右手を握ろうとする。
目の前にいるのは、恐れていた未来の姿だ。だが同時に、その風は、アレンが求めていた制御そのものでもあった。
「まず、力が動き出す前の気配を知る」
宙を巡っていた硝子杯が、音もなく机へ戻った。
「次に、どこまで流せば、何が起きるのかを見極める」
開いていた薬瓶の蓋がひとりでに回り、ぴたりと閉じる。
「そして最後に――」
左右へ分かれていたカーテンが、静かに閉じていった。
「どこで止めれば、力がお前の手を離れずに済むのかを覚える」
ハルヴァの灰緑色の瞳が、アレンをまっすぐ見据える。
「力を出せることが、制御ではない。出した力を、望んだ場所で止められることだ」
最後の一枚の紙が机の中央へ降り、ほかの紙と重なった。
「それが、お前たちの言う制御だ」
紙の端には、寸分のずれもない。
「それなら……呪縛が進むほど、刻印は制御しやすくなるということですか?」
「正確には違う」
ハルヴァは静かに答えた。
「呪縛が制御を教えるわけではない。力を使い、身体がその流れを覚えた結果として、制御に近づく。その過程で、呪縛も進むだけだ」
「そんなの、おかしいです」
「刻印に、人間の道理を求めるな」
「でも――」
マナは一歩、寝台へ近づきかける。
「制御できるようになるために、身体を壊さなければならないなんて。そんなものを、強くなったなんて呼べるはずが――」
「強くなったんじゃない」
ハルヴァの声が、マナの言葉を鋭く断ち切った。
部屋に残っていたかすかな風音さえ、その一瞬だけ遠のいたように感じられる。
「壊れながら、壊れた身体の使い方を覚えただけだ」
ハルヴァは自分の胸元へ目を落とす。
風が肺を内側から押し広げるたびに胸が膨らみ、やがて空気が押し出されると、ゆっくりと沈んでいく。
「昔の俺より、今の俺の方が強い」
ハルヴァは淡々と言った。
「若い頃とは比べものにならないほど、細かな風を扱える。今なら、この部屋にある蝋燭を一本ずつ消しながら、その隣に立つ人間の髪一本すら揺らさずに済むだろう」
痩せ細った身体が、風に支えられたままわずかに傾いた。
「だが、今の俺は、その力なしでは一度たりとも呼吸できない」
誰も言葉を挟まない。
「使える力が増えたことだけを見て、これを成長と呼ぶ者もいる」
ハルヴァは自嘲するでもなく、静かに続けた。
「そう呼びたいなら、好きにすればいい」
灰緑色の瞳が、アレンへ向けられる。
「だが俺は、失ったものまで含めて力だとは思わない」
風が、ハルヴァの胸を再び押し広げた。
「これは成長じゃない。代償だ」
アレンは何も答えられず、自分の右手へ目を落とす。
今のところ、動かしにくいのはまだ二本の指だけで、痺れが肘まで広がったのも一度きりだ。
ハルヴァから見れば、これでも確かに「始まったばかり」に過ぎないのだろう。
「封印具はどうなんだ」
それまで黙っていたドレイヴが、堪えきれないように口を開いた。
「刻印をずっと封じておけば、呪縛だって進まねえんじゃないのか」
「進行を遅らせることはできる」
「だったら、それでいいだろ」
ドレイヴはすぐに言い返した。
「わざわざ刻印を使って、身体を壊す必要なんかねえ。封じたまま生きられるならそれが一番だ」
「戦場へ戻らないのならな」
ハルヴァの目が、アレンの右手へ落ちる。
「封印具は、呪縛の進行を遅らせ、暴走までの時間を稼ぐ。だが、必要なときの発動まで鈍らせる。身につけているだけでは、力の流れも、止めるべき場所も覚えられない」
「……使わなければ、覚えられないからですか」
アレンが確かめるように尋ねると、ハルヴァは短くうなずいた。
「そうだ。実際に力を通さなければ、身体は何も覚えない」
「それでも、戦場を離れれば、刻印を使わずに済むんじゃないですか」
マナが堪えきれないように言った。
「制御するために身体を壊すくらいなら、戦わない道を選ぶことだって――」
「本当に、それで済むのか?」
ハルヴァの静かな問いが、マナの言葉を止める。
「刻印を使わずにいれば、お前たちはもう二度と危険に遭わずに済むのか。守りたいものが目の前で傷つけられても、力を使わずにいられるのか」
マナは答えられなかった。
「だが、こいつはもう戦場にいる」
ハルヴァはアレンをまっすぐ見据えた。
「帝国に狙われ、怪物と戦い、そのうえ一度は刻印を暴走させている。次に命を奪われかけたとき、刻印が律儀に本人の許可を待つと思うか?」
誰も答えられない。
「封印具は、扉に掛ける鎖のようなものだ」
ハルヴァは静かに続けた。
「鎖を一本増やせば、扉が開くまでの時間は稼げる。二本、三本と増やせば、さらに長く閉じ込めておくこともできるだろう」
窓の外では、雪を孕んだ風が激しく吹き荒れている。
「だが、扉の向こうにいるものが消えたわけではない」
ハルヴァの声が、わずかに低くなった。
「内側から押す力が強くなれば、鎖は軋み、留め金は歪む。そして、いつかは必ず千切れる」
その目が、アレンの右手へ落ちる。
「問題は、そのとき扉の前に誰が立っているかだ」
その言葉に呼び起こされるように、アレンの脳裏へ黒い扉が浮かび上がった。
幾重にも巻きついた、無数の鎖。
その奥の闇に潜み、こちらを見つめていた巨大な瞳。
そして、耳の奥へ直接染み込んできた、あの声。
――見つけた。
記憶の中の声が蘇った瞬間、右手の刻印がかすかに熱を帯びる。
「今、刻印が反応したな」
ハルヴァが静かに言った。
アレンは反射的に右手を握り込み、手の甲を隠すように胸元へ引き寄せた。
「……ほんの少しです」
「程度を聞いているんじゃない」
灰緑色の瞳が、アレンの右手から顔へと移る。
「何を考えた?」
アレンは一瞬ためらった。
「黒い扉です」
その言葉を聞くなり、マナが帳面を開く。
「刻印に痛みはある?」
「いや。痛くはない。ただ、急に熱くなった」
「刺すような熱? それとも、内側から広がる感じ?」
「内側からだ。手の甲だけ、一瞬」
マナの筆先が紙の上を素早く走った。
「ほかには? 声が聞こえたとか、景色が見えたとか」
「……声は聞こえてない」
答えながら、アレンは無意識に右手を握り直す。
ハルヴァはその様子を黙って見ていた。
「……悪くない」
不意に、ハルヴァが言った。
「何がですか?」
「今のことだ」
ハルヴァはアレンの右手を見る。
「異変を隠さず、すぐに口にした」
アレンはわずかに目を見開いた。
「刻印者はな、自分に起きた異変を、まず隠そうとする」
ハルヴァの声から、ほんの一瞬だけ鋭さが薄れる。
「怖がられたくない。戦うなと言われたくない。弱くなったと思われたくない。あるいは、自分ならまだ大丈夫だと思い込みたい」
風が、ハルヴァの右腕をゆっくりと持ち上げた。
動かない指先が、胸元に広がる神風の刻印へ触れる。
「隠す理由など、いくらでも作れる。俺にも、そういう時期があった」
そこで言葉を切り、ハルヴァは静かに息を吐いた。
「そして、誰にも言わないまま戦場へ出た。その結果、俺は部隊を一つ失った」
部屋の空気が凍る。
アレンは思わず顔を上げた。
「……何があったんですか」
問いかけても、ハルヴァはすぐには答えなかった。
灰緑色の瞳が、アレンではない何かを見つめるようにわずかに揺れる。
「今のお前が知る必要はない」
「でも――」
「聞いたところで、何も変わらん」
静かな声だったが、それ以上踏み込むことを許さない硬さがあった。
ハルヴァは目を逸らし、それきり口を閉ざす。
だが、その目に一瞬だけ浮かんだものまで、隠すことはできなかった。
アレンには、それが後悔に見えた。
長い歳月を経た今も消えずに残る、深い傷のように。
しばらく、肺を動かす風の音だけが部屋に流れた。
やがてハルヴァは、再びアレンへ顔を向ける。
「なぜ、刻印を制御したい?」
改めて向けられた問いに、アレンはすぐには答えられなかった。
「……昨日も、同じことを聞かれた気がします」
「聞いた」
「なら、答えも変わりません」
「昨日のお前は、制御の代償を知らなかった」
ハルヴァの灰緑色の瞳が、アレンを見据える。
「力を使えば何を失うのかも、制御するという言葉が何を意味するのかもな」
「今だって、すべて分かったとは言えません」
「それでも昨日よりは知った」
肺を動かす風が、低く静かな音を立てる。
「知ったうえで、なお同じ答えを口にできるか。それを聞いている」
アレンは押し黙った。
「誰かに言われたからか。戦場で必要だからか。それとも、力を持っている自分を認めたいだけか」
ハルヴァは逃げ道を塞ぐように、一つずつ問いを重ねる。
「理由を取り違えたまま使えば、刻印はお前の迷いにつけ込む」
そこで言葉を切り、静かに告げた。
「だから答えろ。お前は、何のためにその力を制御したい?」
アレンは、自分の右手へ目を落とす。
この刻印を制御したい理由なら、ずっと前から決まっている。そう思っていた。
「仲間を傷つけたくないからです」
マナとドレイヴが、ほんのわずかに表情を曇らせる。
一か月前、暴走したアレンは、敵だけでなく二人へも雷を向けてしまった。
あの場にリヴァやケイムがいなければ、誰かが命を落としていてもおかしくはなかった。
「もう二度と、あんなことを起こしたくない」
アレンは続ける。
「自分の力で、またマナやドレイヴを傷つけるくらいなら――」
「それは、使わない理由だ」
ハルヴァの冷たい声が、アレンの言葉を途中で断ち切った。
「俺が聞いているのは、なぜ使いたくないのかではない」
灰緑色の瞳が、アレンを射抜く。
「お前が、その力を何のために使うつもりなのか。それを聞いている」
「……同じことじゃないんですか」
「違う」
返事には、一瞬の迷いもなかった。
「仲間を傷つけることが怖いだけなら、刻印を使う道を捨てればいい。戦場を離れ、二度と魔力を集めず、誰もいない場所で静かに暮らせばいい」
「そんなこと――」
「できないのか?」
ハルヴァは逃げ道を塞ぐように問い返した。
「なら、なぜできない」
アレンは口を開いたが、言葉は出てこない。
仲間を傷つけたくない。それは嘘ではない。
だが、それだけでは、ここに残る理由にはならなかった。
故郷は失われ、帝国はいまも攻め込んできている。あの怪物たちも、再び姿を現すかもしれない。
それでも、本気で逃げようと思えば、逃げる道は残されているのだろう。
軍を離れ、戦いから遠く離れた場所へ行く。マナやドレイヴとも距離を置けば、二人を暴走へ巻き込むこともない。
以前のアレンなら、きっとその選択を考えていた。
自分がいなければ、仲間が危険に晒されることはない。自分一人が消えれば、それですべて済むのだと。
だが、それは本当に、誰かを守ることになるのだろうか。
「お前は、何のために使う」
ハルヴァがもう一度尋ねる。
「俺は……」
仲間を守りたい。
その言葉は喉元まで出かかったが、それが本当に答えなのか、アレンには分からなかった。
守るためなら、自分が壊れてもいい。たとえ自分が死んでも、二人が生き残るのなら、それでいい。
それは、これまで何度も選んできたことだった。
グリムフォードでは、マナを逃がすために怪物へ組みつこうとし、戦場に出てからも、刻印の危険を自分一人で抱え込もうとした。
だが、それは本当に仲間を守ろうとしていたのだろうか。
ただ自分を犠牲にすることを、守ることだと思い込んでいただけではないのか。
「分かりません」
長い沈黙の末、アレンはようやく口を開いた。
ここまで来て、最も大切な問いにさえ答えられない。そのことが、何よりも悔しい。
「今は、それでいい」
意外にも、ハルヴァはアレンを責めなかった。
「分からないなら、分からないままにしておけ。少なくとも、答えを持たないまま力を振るうよりはましだ」
「でも、使わなければ制御できないと言ったのは、あなたです」
「言った」
ハルヴァは静かにアレンを見返す。
「だが、使う理由すら持たない者に、制御など必要ない。力を持て余すくらいなら、封じたままの方がいい」
「じゃあ……理由が見つかるまで待てってことですか」
「待てるのならな」
ハルヴァはそう言って、窓の外へ目を向けた。
朝よりも勢いを増した雪が、白く煙るように降り続いている。
「だが、刻印はお前の都合に合わせてはくれない。お前が答えを見つけるまで、黙って待っていてくれるとは思うな」




