第17話『風が支える骸』
部屋の中は、想像していたよりも広かった。
高い天井の奥には大きな窓が設けられ、その向こうには雪に覆われた森が広がっている。細かな雪が枝の間を縫うように舞い、白い景色を静かに霞ませていた。
部屋の中央には一台の寝台が置かれ、壁際には薬瓶や治療具が整然と並んでいる。さらに天井からは、何に使うものなのか分からない細い管が、何本も寝台へ向かって垂れ下がっていた。
その寝台には、一人の男が横たわっている。
あれが、ハルヴァ・エルデン。
アレンは初め、その姿を見て老人だと思った。髪はほとんど白く、頬は深く痩せこけている。薄い寝間着の下には鎖骨や肋骨が浮き出ており、その輪郭は遠目からでもはっきりと分かった。
ケイムから詳しい年齢は聞かされていない。
百年以上も刻印を所有しているという。だが、刻印を得たときの年齢さえ分からない以上、実際に何歳なのかは推し量りようがなかった。
それにもかかわらず、顔立ちだけを見れば三十代にも、七十代にも見える。肌に深い皺は刻まれていないのに、その身体からは、生気と呼べるものがほとんど失われている。
胸は、ほとんど動いていなかった。
アレンが目を凝らすと、わずかに上下しているようにも見えたが、それは普通の人間の呼吸とは明らかに違っていた。
喉の奥から、細く掠れた音が漏れている。
ひゅう。
ひゅう。
まるで、ひび割れた笛の中を風が通り抜けているような音だった。
隣でマナが小さく息を詰める。ドレイヴもまた、先ほどまでの警戒を忘れたかのように、寝台の男を見つめていた。
アレンは、ふとケイムの言葉を思い出した。
ハルヴァは自力では満足に呼吸することができず、刻印の力で空気を肺へ送り込むことで生きているという。
だが、目の前の男が空気を操っているようには見えない。部屋のカーテンは微動だにせず、魔力の気配も感じられなかった。
そこにあるのはただ、死の間際にいる病人が静かに寝台へ横たわる姿だけだった。
「ハルヴァさん」
エルザが呼びかけた。
「ルミノヴァから、アレン・ライオネットさんたちが到着しました」
反応はない。
「聞こえているんですか?」
マナが小声で尋ねる。
「聞こえています」
エルザは答えた。
「では、どうして――」
その瞬間、部屋の空気がわずかに変わる。
最初に反応したのは、窓際のカーテンだった。外から風が入り込んだ気配はない。それにもかかわらず、閉ざされた窓の内側で布がゆっくりと持ち上がっていく。
続いて窓枠に残っていた薄い埃が舞い上がり、寝台を中心に小さな円を描き始める。天井から下がる細い管も、誰にも触れられていないまま、かすかに揺れていた。
やがて、その見えない風はアレンのところまで届き、前髪をそっと持ち上げる。
それは冷たい風ではなかった。人肌に近い温度を帯びた、細い空気の流れ。
寝台の上で、ハルヴァの胸がゆっくりと膨らむ。だが、自ら息を吸ったわけではない。風が鼻と口から気道へ流れ込み、別の風が胸郭を外から押し広げる。二つの力が、止まりかけた肺に呼吸を作っていた。
やがて胸が沈むと、今度は別の風が体内の空気を押し出す。
吸って、吐く。
再び吸って、吐く。
風によって作られた呼吸が、一定の間隔で繰り返されていく。
喉から漏れていた掠れた音は次第に弱まり、やがてハルヴァの瞼がゆっくりと開いた。
現れたのは、色の薄い灰緑の瞳だった。衰え切った身体とは対照的に、その眼差しだけは鋭さを失っていない。
ハルヴァの背中の下へ、見えない何かが滑り込む。
寝台の布が沈み、痩せた上半身がゆっくりと持ち上がっていく。風が背中と肩を支え、薄い空気の層が、倒れかける首を顎の下から押しとどめていた。
続いて、寝台へ垂れていた腕が持ち上がる。動かない肘と指を、細かな風圧が関節ごとに押し動かしていく。
アレンはその光景に見とれていた。
ハルヴァは、自分の身体を動かしているのではない。
自らを操る風の糸によって、人の形を保っているのだ。
やがてハルヴァの足が寝台から下ろされ、痩せた裸足が石床へ触れた。
その脚は、とても自らの体重を支えられるようには見えない。だが、足裏と床の間へ風が滑り込み、身体が沈み込むのを防いでいる。
ハルヴァは、ゆっくりと立ち上がった。
いや、無数の風によって立たされていた。
肺へ空気を送り、背骨を支え、崩れかける膝を固定し、俯く頭を持ち上げる。それほど複雑な力が同時に働いているにもかかわらず、部屋に暴風は起こらない。
必要な場所へ、必要な分だけ。
風は驚くほど静かに、正確に流れていた。
ハルヴァはアレンを見る。
視線が顔から肩へ移り、腰に下げた双剣へ向かった。
「武器に手をかけないでください」
エルザが警告した。
アレンは何もしていない。
だが次の瞬間、腰に下げた双剣の片方がかすかに揺れ、その鞘の留め具が見えない指に触れられたようにひとりでに外れた。
「何だ?」
ドレイヴが一歩前へ出かける。
「動かないで」
エルザが鋭く制した。
その声に重なるように、金属が鞘を擦る音が静かな部屋へ響く。先ほど揺れた一振りが見えない何かに引かれるように、ゆっくりと鞘から抜け始めていた。
アレンは咄嗟に柄へ手を伸ばしたが、指が届くより先に、剣は完全に鞘を離れる。
そのまま宙へ浮かび上がり、切っ先がまっすぐアレンへ向けられた。
「アレン!」
マナの指先に水色の光が集まり、ドレイヴが床を蹴ろうと身を沈める。
「動かないで!」
エルザの制止が二人を止めた。
その直後、剣は一気に距離を詰める。
青白い刃がアレンの顔へ迫る。避ける暇はなく、目を閉じることさえできなかった。
だが切っ先は、右目から指一本ほどの距離を残して、ぴたりと止まった。
アレンは身動き一つできなかった。遅れて恐怖が全身を駆け抜け、心臓が激しく脈打つ。
それに呼応するように、黒い手袋の下で刻印が熱を帯びた。
ハルヴァの瞳が、わずかに細くなる。
「恐怖に引きずられて反応するか」
切っ先がゆっくりと下がった。
「まだ、お前の意思と刻印の境目が曖昧だな」
やがて剣は空中で静かに回転し、今度は柄をアレンへ差し出す。
「取れ」
掠れた声が、静かな部屋に響いた。
風が喉の奥へ空気を送り込み、その力で無理やり声帯を震わせているのだろう。言葉そのものは弱々しい。それでも、その響きには逆らうことを許さない強さがあった。
アレンはためらいながら、左手を伸ばした。
「右だ」
ハルヴァがそう告げた瞬間、アレンの手が止まる。
「右手で取れ」
黒い手袋に覆われた右手を持ち上げ、アレンはゆっくりと指を開いた。
宙に浮かぶ剣の柄へ手を伸ばす。親指を添え、人差し指と中指を曲げると、遅れて薬指も半ばまで柄に触れた。
そのまま握り込もうと力を込める。だが、小指は動かず、薬指にも十分な力が入らない。剣の重みを支えているのは、親指と人差し指、中指だけだった。手首が細かく震え始める。
指の間から、柄が滑る。
落ちる――そう思った瞬間、柄の周囲へ風が巻きついた。
剣は落ちなかった。
傍目にはアレンが握っているように見える。だが実際にその重さを支えているのは、ハルヴァの風だった。
「自分で持てているつもりか?」
ハルヴァにそう尋ねられても、アレンはすぐには答えられなかった。
「手を離せ」
アレンが指を開いても、剣は落ちることなく、その場に浮かび続ける。
それを見て、ハルヴァの眼差しがわずかに鋭くなった。
「薬指は半分。小指はほとんど動かない」
黒い手袋を貫くような視線が、右手に注がれる。
「右手だけではないな。肘にも異常が出たか」
アレンは思わず右腕を押さえた。
「……昨日、初めて肘から先が動かなくなった。一時的だったけど」
「そうか」
「どうして、分かったんだ」
「立ち方を見れば分かる」
ハルヴァの声は掠れていたが、言葉が途切れることはない。
肺へ空気を送り込む風と、声を生み出すための風。その二つを、彼は同時に制御しているのだ。
「右腕を庇い、左へ重心を置いている。剣の重さを恐れて、右肩が上がっている」
剣は宙で静かに回転すると、そのまま鞘へ戻っていった。
刃はわずかなずれもなく収まり、外れていた留め具まで、何事もなかったかのように元の位置へ戻される。
それほど繊細な操作を続けながらも、ハルヴァの身体を支える風は、一度として乱れなかった。
剣が鞘へ戻った直後、ハルヴァの胸が一度だけ不自然に沈む。
肺へ送られる風が乱れ、喉の奥から細い音が漏れた。
だが、ハルヴァは何事もなかったかのようにアレンを見る。
「その程度で、もう怯えているのか」
胸の奥を、鋭いものが抉った。
「……その程度?」
気づけば、声が強くなっていた。
「一か月だ。右手の感覚が戻らないまま、昨日は肘から先まで動かなくなった。次に使ったら、脚まで麻痺するかもしれないって言われてる」
「それで?」
「怖いに決まってるだろ」
ハルヴァは表情を変えなかった。
「ああ。十分だとも」
予想に反し、ハルヴァは肯定した。
「刻印を恐れるのは正しい。恐れない者は、早々に死ぬか、取り返しのつかない過ちを犯す」
風がわずかに強まり、窓際のカーテンが大きく膨らむ。
「だが、お前が本当に怯えているのは、呪縛そのものじゃない」
「……何だって?」
「昨日まで動いていた指が、今日は動かない。剣を握れなくなった自分を、仲間に見られる。もう二度と、以前のお前には戻れないかもしれない」
言葉を重ねられるたび、アレンの右手がわずかに震えた。
手の甲の刻印が、心臓の鼓動に呼応するように熱を帯びていく。
ハルヴァは、その反応を見逃さない。
「お前が怖いのは、刻印そのものじゃない」
ハルヴァの声が、逃げ場を塞ぐように続く。
「壊れていく自分を、仲間に見られることだ」
アレンは反射的に右手を背後へ隠しかけた。
「違う」
「なら、なぜ隠す」
ハルヴァは間を置かなかった。
「誰かに知られれば、お前自身も認めなければならなくなる。もう以前のお前には戻れないとな」
「……何も知らないくせに」
抑えるより先に、言葉がこぼれる。
「俺が、どんな気持ちで隠してると思ってる」
声が震えた。
「心配させたくないんだ。これ以上、あいつらに俺のことで苦しんでほしくない」
「それを隠れ蓑にしている」
ハルヴァは静かに言った。
「本当は、哀れまれる自分を見たくないだけだ」
痩せ細った腕が見えない風に支えられながら、ゆっくりと持ち上がっていく。
「俺も、壊れ始めた自分を認めなかった」
風に持ち上げられた腕から袖がずり落ち、細い手首が露わになる。
その皮膚には、渦を巻く風を象った青緑色の刻印が広がっている。紋様は手首から腕へ、さらに肩へと這い上がり、寝間着の襟元を越えて胸の奥まで続いていた。
「最初は、息を深く吸えなくなった」
言葉に合わせるように、風がハルヴァの胸をゆっくりと膨らませる。
「次に、魔力障害で走れなくなった」
別の風が、崩れかけた膝を支えた。
「やがて歩けなくなり、腕も上がらなくなった。最後には、声まで出せなくなった」
喉の奥へ細い風が流れ込み、掠れた声を無理やり形にしていく。
「今の俺は、刻印を止めれば……息をすることさえできない」
その言葉を聞いた途端、部屋の空気が急に重くなったように感じた。
もし今、ハルヴァが力を止めれば、目の前の身体はその場に崩れ落ちる。肺は動かず、声も出ない。助けを呼ぶことすらできないまま、ただ死を待つことになる。
それほどまでに衰えた身体でありながら、彼は先ほど、アレンの剣を寸分の狂いもなく操ってみせた。
いくつもの風で身体を支え、呼吸を作り、声を紡ぎながら。
「お前の呪縛は、まだ始まったばかりだ」
ハルヴァは静かにそう告げた。
それは脅しでも、アレンを突き放すための言葉でもなかった。
百年を生きた男が、自らの身体をもって示す事実。
反発する言葉はもう浮かばず、ハルヴァの姿から目を逸らすこともできない。
ただ、恐ろしかった。
目の前にいる男の姿が、いつか辿り着く自分と重なって見える。指先から始まった麻痺が腕へ、脚へ、やがて喉や肺へと広がり、最後には雷の力を使わなければ、身体を動かすことすらできなくなる。
だがその一方で、ハルヴァの制御は、まさしくアレンが求めていたものでもあった。
風は一度も暴れることなく、必要な場所へ必要な分だけ流れ込み、役目を終えれば静かに消えていく。刻印に身体を奪われながらも、その力だけは完全に従わせていた。
失ったものと手に入れたものが、あまりにも残酷な形で、一つの身体に同居している。
「一度、寝台へ戻ってください」
エルザが一歩前へ出た。
「これ以上、立ったまま話すのは危険です」
「でも、まだ――」
「続きは明日です」
アレンの言葉を遮りエルザは続けた。
「あなたも、退院したばかりなのでしょう」
声は穏やかだったが、そこに譲る気配はない。
「休むべきなのは、ハルヴァさんだけではありません」
アレンは返す言葉もなく、寝台の前に立つハルヴァへ視線を戻した。
ハルヴァは、再び寝台へ戻ろうとしている。
風が足を持ち上げ、痩せた身体をゆっくりと横たえていく。だが、それだけの動作で胸の動きがわずかに乱れ、肺へ送られていた空気が一瞬途切れた。
喉の奥から、苦しげな音が漏れる。
エルザが一歩踏み出したものの、すぐに一定の距離を保って足を止めた。手を伸ばして支えようとはせず、ハルヴァ自身が風を整えるのを、ただ静かに待っている。
敬意も、信頼もある。
それでも、最後の一歩だけは踏み込まない。
その姿を見ながら、アレンは廊下でエルザが口にした言葉を思い出していた。
恐れないことと、備えないことは違う。
やがて、ハルヴァの瞼がゆっくりと閉じかける。
このままでは、話が終わってしまう。
そう思った瞬間、アレンは一歩前へ出ていた。
「待ってください」
部屋にいた全員の目が、アレンへ集まる。
アレンはその視線を受けながら、右手をゆっくりと握り込む。薬指は半分までしか曲がらず、小指は動かない。
それでも、目の前の男から目を逸らすことはなかった。
「どうすれば、刻印を制御できるようになりますか?」
アレンは、自分が求め続けていた問いを、ようやく口にした。
刻印を暴走させず、仲間を傷つけることもなく、失われていく身体を少しでも自分の意思で動かす方法。
それを、ハルヴァなら知っている。
そう信じたかった。
しばしの沈黙のあと、ハルヴァの灰緑の瞳がゆっくりと開き、声を紡ぐための風が喉へ流れ込んだ。
「使え」
あまりに短い一言で、その意味がすぐには頭に入らない。
「……何を?」
「刻印だ」
「使えば呪縛が進む」
「そうだな」
「麻痺だって、今より広がるかもしれない」
「かもしれない、ではない。いずれ広がる」
あまりにも平然と告げられ、アレンは一瞬、言葉を失った。
「俺が聞いてるのは、それを止める方法だ」
「そんなものはない」
ハルヴァは、わずかな迷いも見せなかった。
「少なくとも、俺は百年かけても見つけられなかった」
「だったら……」
アレンの声に、抑えきれない苛立ちが滲む。
「だったら、どうして使えなんて言えるんだ」
次の瞬間、天井から垂れていた細い管が一斉に揺れ、乾いた音を響かせた。
その中で、ハルヴァは寝台に横たわったまま、まっすぐアレンを見据えている。
「刻印を制御したいなら、刻印を使うしかない」
アレンの右手が、かすかに疼いた。
「なら、答えろ」
ハルヴァの灰緑の瞳が、アレンを射抜く。
「お前は、何のために刻印を使う」
「仲間を傷つけないためだ」
「それは、使わない理由だ」
アレンは答えを返せなかった。
「俺が聞いているのは、力を使う理由だ。何を守り、何を成すために、その身体を差し出す」
なら、仲間を守るため――。
そう答えようとして、アレンは口を閉ざした。
それは確かに、力を使う理由だった。
だが、ハルヴァが求めているのは、その先だ。
何を守るためなら、動かなくなる身体を差し出せるのか。どこまで失っても、力を使うと決められるのか。
アレンには、まだ答えられない。
ハルヴァは答えを急かさなかった。
「明日までに考えろ」
やがて、部屋を巡っていた風が止まり、持ち上がっていたカーテンが静かに垂れ下がる。
それでも、肺を動かすための風だけは消えなかった。
吸って、吐く。
再び吸って、吐く。
刻印が、その命をつなぎ留めている。
そして同じ力が、今もその命を奪い続けていた。




