第15話『退院の日』
窓から差し込んだ朝日が、白い寝台の端を照らしている。
ルミノヴァ中央医療塔の病室で、アレン・ライオネットは一人、右手にはめかけた黒い手袋を睨んでいた。
まず親指を通し、続いて人差し指と中指を収める。多少のぎこちなさはあったものの、そこまでは問題なかった。
しかし、薬指に差しかかったところで、手袋はそれ以上進まない。
「……くそ」
小さく息を吐き、左手で手袋の口を広げる。
右手の薬指と小指には、薄い布が触れている感覚さえほとんどなかった。目で見れば指は確かにそこにあり、曲げようとすれば、ほんのわずかではあるが動く。
それでも、自分の身体の一部だという実感だけが欠けている。まるで、知らない誰かの指を借りているようだった。
アレンは左手で薬指をつまみ、手袋の中へ押し込んだ。続いて小指も収めたが、指先が正しい位置に入ったのか分からない。手袋の表面を何度か押して確かめてから、ようやく手首の留め具を締める。
右手の甲を覆う黒い布の下には、雷鳴の刻印がある。
ファランディア近郊で暴走してから、一か月。裂けた皮膚も、焼けた筋肉も治癒したが、薬指と小指の感覚だけは戻らなかった。
それどころか、検査のたびに刻印とは異なる黒い魔力反応が検出され、眠っている間に刻印が光り、寝台の金具を焦がしたことも一度や二度ではない。
再び暴走する可能性がある――そう判断されたアレンは、一か月もの間、この病室から出ることを許されなかった。
そして今日、ようやく退院の日を迎える。
アレンは病室の隅に置かれた鞄へ、畳んだ衣服を入れていく。連邦軍から支給された軽戦闘服と外套だった。
まだ戦闘任務への復帰は認められていない。とはいえ、私服と呼べるものをほとんど持っていないアレンには、ほかに着られる服もなかった。
壁際には、リヴァから譲られた双剣が立てかけてある。
刃は丁寧に研がれ、柄には真新しい革が巻かれていたが、受け取ってから一度も振ってはいない。
アレンは双剣へ手を伸ばしかけたものの、途中で止める。
握れるかもしれない。だが、もし握れなかったら――。
その答えを知るのが怖くなり、寝台脇の机へ顔を背けた。
そこには、マナがつけていた症状記録と、小さな木箱が置かれている。木箱の中身は、グリムフォードの家の勝手口の鍵だった。
帰る家はもうない。それでも鍵だけは、あの日の形を保っている。
アレンは右手で木箱を持ち上げた。持てた――そう思った瞬間、箱は指の間から滑り落ち、乾いた音が病室に響く。
薬指と小指は、落ちた箱の表面を撫でるばかりで、閉じようとしなかった。
アレンは開いた扉口をうかがう。誰もこちらを見ていないことを確かめてから、左手で箱を拾った。
今度は、双剣を見なかった。
◇
「外傷については、ほぼ治癒したと考えていいでしょう」
退院前の診察室で、担当医は机の上に並べた検査記録へ目を落としながら、静かに告げた。
五十代ほどの痩せた男で、身にまとった白い医療外套の袖口には、治癒術式を補助する細かな紋様が縫い込まれている。
彼の前には、検査結果を記録した薄い水晶板が三枚置かれていた。一枚目にはアレンの全身を巡る魔力の流れが、二枚目には筋肉の反応が、そして三枚目には右腕の神経へ微弱な魔力を流した際の反応が映し出されている。
そのうち、右腕を示す線だけが、ほかと比べて明らかに弱かった。
「肩と背中の筋損傷は回復しています。内臓への魔力負荷も、現時点では危険な数値ではありません。歩行、食事、日常生活に必要な動作についても、大きな問題はないと判断します」
「じゃあ……もう、大丈夫なんですね」
アレンがそう言うと、医師は水晶板から顔を上げた。
「いいえ」
迷いのない、短い否定。
「退院できることと、完治したことは別です」
アレンは口を閉じた。
医師は右腕の記録を指先で示す。
「右手の神経反応は、正常値を大きく下回っています。特に薬指と小指は……回復しているとは、まだ判断できません」
「……治療はできないんですか?」
「通常の神経損傷ではありません。治癒術式も試しましたが、反応に改善は見られませんでした」
「なら、刻印をもっと強く封じれば――」
医師はアレンの黒い手袋へ目を向けた。
「必要な封止は、すでに施しています。それでも症状は残っている」
アレンは膝の上で右手を握ろうとする。
人差し指と中指は曲がった。薬指は半ばで止まり、小指は遅れてわずかに震えただけだった。
「ですから、戦闘任務への復帰は認められません。大規模な魔法行使も禁止します」
「……いつまでですか?」
「今の段階では、期限を定められません」
「でも、俺は歩けます。魔法だって、まだ――」
「次に同じ規模の暴走が起きたら」
医師の声が、わずかに強くなった。
「麻痺が腕だけで済むとは限りません」
医師は、その先を最後まで口にしなかった。
だが、言われなくてもアレンには分かっている。やがて歩けなくなり、声を失い、最後には呼吸さえできなくなる。その先に待つのは、死だ。
脳裏に浮かんだのは、あの黒い扉だった。鎖の向こうから覗いていた巨大な瞳と、頭の中へ直接流れ込んできた声。
――見つけた。
思い出しただけで右手の奥がかすかに疼き、アレンは反射的に手首を押さえた。
だが、その動きを医師は見逃さない。
「今、何かありましたか?」
「いえ」
否定しかけたところで、アレンは口を閉ざした。
何もなかったと答えるのは簡単だったし、この一か月、実際に何度もそうしてきた。心配をかけたくない。検査を増やされたくない。これ以上、病室へ閉じ込められたくない。
そんな理由を並べては、痺れや耳鳴りを実際より軽く伝えようとした。だが、そのたびにマナには見抜かれ、ドレイヴには怒鳴られてきた。
「……少し、疼きました」
アレンは観念したように、正直に答える。
「どこですか?」
「右手の甲です。黒い扉を思い出した、その直後に」
医師は記録用紙へ書き加えながら、さらに尋ねた。
「痛みはありましたか?」
「いえ。疼いただけです。もう消えました」
「分かりました。ただ、すぐに治まっても軽く考えないでください。退院後も同じことがあれば、必ず報告を」
「……はい」
医師は記録を閉じると、机の上に置かれた退院許可証へ署名した。
「今のあなたに必要なのは、無理に以前と同じ生活へ戻ることではありません」
そう言って、許可証を差し出す。
「以前と同じように戻ろうとしないでください。今の身体でできることを、一つずつ確かめるのです」
アレンは左手で許可証を受け取った。
右手は、膝の上で力なく開いている。
◇
診察室を出ると、廊下の壁際にマナとドレイヴが立っていた。ドレイヴの足元には、病室から運んできた鞄とアレンの双剣が置かれている。
マナはアレンの姿を見つけるなり表情を明るくし、胸の前で両手を合わせた。
「終わった?」
「ああ。退院していいってさ」
「……本当に?」
「本当だよ。ほら、許可証もある」
「見せて」
「俺の言うこと、疑ってるのか?」
「アレンじゃなくて、病院の方を確認したいの」
アレンが許可証を差し出すと、マナは受け取り上から下まで目を通した。その隣からドレイヴも身を寄せるようにして覗き込む。
「字が細けえな。で、何て書いてある?」
「退院を許可する。ただし、戦闘行為、刻印の使用、過度な運動を禁止する……だって」
「……最後のは、聞かなかったことにしてくれ」
「だめ」
マナは即座に許可証を畳み、そのまま自分の鞄へ入れた。
「待て。なんでお前が持つんだよ」
「アレンに渡したら、都合の悪いところだけなくしそうだから」
「なくさないって」
「この一か月で、症状を少なく言ったのは何回?」
「それは……」
アレンは答えることができなかった。
マナも勝ち誇るような顔はせず、むしろ困ったように小さく息を吐く。その目はやがて、アレンの右手を覆う黒い手袋へ向けられた。
「それで、右手は?」
「朝よりは動く」
「何本?」
「……三本」
マナは小さな手帳を開いた。
「それは動くじゃなくて、三本だけ動くって言うの」
「細かいな」
「細かく聞かないと、アレンが勝手に良くして話すでしょ」
ドレイヴが足元の双剣を持ち上げる。
「こいつは俺が持つ」
「左手なら持てる」
「そうかよ。だったら、取り返してみろ」
アレンは手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「……頼む」
ドレイヴは一瞬だけ目を丸くし、それから双剣の剣帯を掴み、鞘ごと肩へ掛ける。
「最初からそう言え」
ドレイヴは満足そうに鼻を鳴らすと、先に廊下を歩き出した。
その背中を見送りながら、アレンは右手をそっと握る。だが指先は思うように応えず、その頼りない動きを黒い布だけが静かに覆い隠していた。
◇
中央医療塔の正面玄関を抜けた瞬間、眩しい光が視界いっぱいに広がり、アレンは思わず目を細める。
一か月ぶりに浴びる、外の陽光。
病室にも窓はあったが、厚い結界硝子越しに眺める空と、実際に風を受けながら見上げる空とでは、まるで別のものに感じられた。
雲の切れ間から差し込む光も、石畳に反射する白さも、頬を撫でていく乾いた風も、そのすべてが眩しく、騒がしく、そして少しだけ恐ろしい。
医療塔の前には、負傷兵を運び込むための馬車が何台も停まっていた。
馬車の荷台から、一人の若い兵士が降ろされている。
右腕を失い、空になった袖が風に揺れていた。付き添いの治療師が肩へ手を伸ばしたが、兵士はそれを拒み、残った左手で荷台の縁を掴み、自力で降りようとする。
何度目かの試みで足を滑らせ、ようやく治療師の手を借りた。
そのときの悔しそうな横顔を、アレンは直視できなかった。
病室の外では、誰もが何かを失っている。
広場の掲示板には、西方国境における帝国軍の動きや、破壊された監視所、変更された補給路、行方不明者の一覧など、新たな戦況報告が貼り出されていた。
その前には大勢の市民が集まり、並んだ文字の中に自分の知る名前がないか、食い入るように探している。
周囲では連邦兵が忙しなく行き交い、軍本部へ向かう伝令が人波をかき分けて走っていた。
一か月前と同じように店は開き、人々も日々の生活を続けている。それでも、街を包む空気は張り詰めたままだった。
アレンが病室で眠り、検査を受け、指が動くかどうかを確かめていた間も、戦争は止まることなく続いていた。
帝国も、怪物も、刻印も、アレン一人が動けなくなった程度で待ってはくれない。
魔法石を積んだ荷車が、アレンの前を通り過ぎていく。
街も戦争も、彼を待たずに先へ進んでいる。
「寒い?」
隣を歩くマナが、アレンの様子を窺うように尋ねた。
「いや。久しぶりの外で、まだ空気に慣れないだけだ」
「病室、ずっと暖かかったもんね」
「お前が勝手に温度を上げてたからだろ」
「だって、手足が冷えると痺れが強くなるって、先生が言ってたし」
「そのせいで、夜中に暑くて目が覚めたぞ」
「放電で起こされるよりは、いいでしょ?」
「……それは否定できないな」
わずかに笑い合いながら、三人は医療塔の階段へ向かった。
幅の広い石段は、地上まで二十段ほど続いている。アレンは無意識のうちに左側の手すりへ近づき、右手を使わずに下りられる位置を選んでいた。
一段、二段と慎重に足を運び、三段目へ踏み下ろした、そのときだった。右手の指先に鋭い痺れが走る。
「っ……」
細い針を突き刺されたような痛みが手首を越え、瞬く間に肘まで駆け上がった。右腕から力が抜け、アレンの身体は大きく傾く。
「アレン!」
ドレイヴが鞄と鞘ごとの双剣を石段へ放り出し、倒れかけたアレンの肩を掴んだ。靴が石段を滑り、片膝を段差へ打ちつけたところを、反対側からマナが支える。
「大丈夫!? 痺れ、どこまで広がったの?」
「……指だけだ」
そう答えながらも、アレンの左手は右腕を強く押さえていた。
「指だけなら、どうして腕を押さえてるの?」
「反射だよ。深い意味はない」
「アレン」
優しい口調のまま、マナの声がわずかに低くなる。隣ではドレイヴも黙ったまま、アレンの顔を見つめていた。
もう誤魔化せない。
「……肘までだ」
ドレイヴがアレンの肩を支え直す。
「次は最初からそう言え」
「悪い」
「謝るな。言え」
アレンは一度息を吐き、頷いた。
「分かった」
痺れは少しずつ弱まり、やがて右腕を自力で持ち上げられる程度まで力が戻った。
それでも、手首から先は重く垂れ下がったまま。
アレンはドレイヴの支えを借り、どうにか立ち上がる。
ドレイヴが落とした鞄と鞘ごとの双剣を拾おうと身を屈めた、そのときだった。背後から、別の声が響いた。
「退院した途端にそれかい? まったく君は、少しも退屈させてくれないね」
聞こえてきたのは、覚えのある、場違いなほど軽い声。
階段の下には、二人の人物が立っていた。
ケイムは書類の束を抱え、リヴァは壁際で腕を組んでいる。どうやら二人とも、アレンの退院を待っていたらしい。
「見てたなら、少しくらい手を貸せ」
ドレイヴが不機嫌そうに言う。
「君が支えた方が早いだろう? 適材適所というやつさ」
「そういう問題じゃねえだろ」
ケイムは悪びれもせず肩をすくめると、興味深そうにアレンへ近づいた。
「ともあれ、退院おめでとう。アレン」
「今のを見たあとで言われても、素直には喜べないな」
「医療塔から出られたことと、治ったことは別の話だからね。入院を続けさせる必要が、ひとまずなくなった。それだけさ」
「同じことを医師にも言われたよ」
「それは結構。患者を安心させるために嘘をつかない医師は、観察する側としても信用できる」
ケイムは手にしていた書類を一枚めくる。
「医師の診断は読んだ。筋肉は回復しているが、身体からの命令が右手へ正常に届いていない」
ケイムは黒い手袋に覆われた右手を示した。
「医師には原因を断定できない。だが私は、刻印そのものが命令へ割り込んでいると考えている」
「もう検査結果を知ってるのか?」
「君の刻印に関する記録は、私のところにも届くことになっているからね」
ドレイヴの眉間に皺が寄った。
「本人より先にか?」
「正確には同時だよ。私が読むのが速いだけさ」
ケイムはアレンの右手を見つめる。いつものように興味深そうな色を浮かべてはいたが、その目にあるのは単なる好奇心だけではなかった。
「その右手、少し見せてもらえるかな」
アレンは左手で留め具を外した。
しかし、感覚のない薬指と小指が布の内側に引っかかり、無理に引けば指を傷めそうだった。
その様子を見ていたリヴァが、短く息を吐く。
「貸せ」
リヴァは乱暴な口調のまま歩み寄ると、手袋の口へ指を差し入れ、痺れた薬指と小指を一本ずつ布から外した。仕草こそ雑に見えたが、その手つきは慎重だった。
露わになった右手の甲には、雷をかたどった青黒い紋様が刻まれている。今は光を失っていたものの、以前よりも線は太くなり、手首の方へわずかに広がっていた。
ケイムは懐から薄い円盤状の観測具を取り出し、アレンの刻印へ近づける。
すると円盤の縁に青い光が灯り、続いて中心部に黒い点が一瞬だけ浮かび上がった。その変化を見たケイムは、わずかに目を細める。
「今、何か出たのか?」
アレンが尋ねた。
「残留反応だ。すぐに消えた」
「黒い反応?」
「可能性はあるね」
「ある、じゃ分からねえだろ」
ドレイヴが苛立った声を上げる。
「分からないものを、分かったようには言えないよ」
ケイムは観測具をしまった。
「ただ、右手の麻痺については、ある程度の推測ができる」
「聞かせてくれ」
「君の手は、単純に壊れているわけじゃない」
ケイムは自分の右手を開き、指を一本ずつ曲げてみせる。
「人が指を動かそうとすると、身体の中を命令が通る。魔力を使わない、純粋な肉体の命令だ。だが今の君の右腕では、その命令へ別のものが割り込んでいる」
「刻印が?」
「ああ」
ケイムの指が、アレンの刻印を示した。
「刻印の力が、身体から送られる命令へ干渉し始めている。指を曲げようとする命令が届く前に、雷鳴の刻印がその流れを乱しているんだろう」
「止める方法は?」
アレンが尋ねる。
「封止術式をさらに強めることはできる。ただし、右腕の魔力循環そのものを止める危険がある。現状では、刻印を使わず負荷を避けるしかない」
「刻印の呪縛を治す方法はあるのか」
「分からない」
それは医師からも聞かされていた言葉だった。
だが、刻印について誰よりも詳しいはずのケイムの口から告げられると、その言葉はまるで別の重さを帯びて胸へ沈む。
「君の刻印が文献通りの雷鳴の刻印であれば、過去の記録から進行を予測することはできる。だが、君の中には別の黒い反応がある。その影響を切り分けられていない」
「制御する方法も?」
「完全なものは知らない」
ケイムは認めた。
「私は刻印を調べてきた。発動条件も、呪縛の種類も、過去の暴走例も知っている。封じる術式もいくつか扱える」
そこで一度言葉を切った。
「だが、私は刻印者ではない」
風が医療塔の前を吹き抜け、掲示板に貼られた紙を音を立てて揺らす。
「記録から知ることと、自分の肉体を呪縛に蝕まれながら生きることは、同じではない。君が求めている答えを、私は持っていないよ」
アレンは外された手袋を左手で握った。
右手は力なく開いたまま、青黒い刻印を朝日の下へ晒している。
「じゃあ、どうすればいい?」
「私が答えを持っていないというだけで、誰も持っていないとは限らない」
ケイムは抱えていた書類の束から一枚の地図を抜き出し、アレンたちの前へ広げた。
示されていたのはグランセレノ連邦の北方で、そのうちノルダリア領の一角に、ひとつの印がつけられている。
「ブランネリアという街を知っているかい?」
「名前だけなら」
その街については、魔法学校の地理の授業で習ったことがあった。
寒冷地に育つ薬草や魔法植物を扱い、魔力障害の治療で広く知られる北方の医療都市。
「そこに、長年刻印を所有している人物がいる」
「どんな刻印だ?」
ドレイヴが尋ねた。
「神風の刻印」
リヴァの表情がわずかに強張る。
「知ってるのか?」
アレンが尋ねると、リヴァは腕を組み直した。
「……昔にちょっとな」
「どんな人だ?」
「会えば分かる。少なくとも、優しい答えを期待するな」
「彼の名は、ハルヴァ・エルデン」
ケイムが続けた。
「刻印を所有している期間は、少なくとも百年以上。正確な年数は本人が記録を拒んでいるため不明だ」
「百年……?」
マナの表情が驚きに固まり、ドレイヴも耳を疑うように眉を寄せる。
「待て。そいつ、いったい何歳なんだ?」
「さてね。刻印を得たときの年齢すら、本人は話したがらない。ただ、百歳を超えていても不思議ではないよ」
あまりにも現実離れした答えに、アレンたちは言葉を失った。
ケイムは三人の顔を見回す。
「ハルヴァの話を続ける前に、君たちへ伝えておくべきことがある」
いつもの軽さが、声から消えていた。
「一部の例外を除いて、刻印者は老いない」
ケイムは三人の反応を待たず、静かに続ける。
「刻印を宿した肉体は、刻まれた時点から老化しなくなる。十年が過ぎても、百年が過ぎても、肉体の年齢は変わらない」
「それって……不老ってこと?」
マナの問いに、ケイムは頷いた。
「そう呼んでも間違いではない。ただし、祝福だと思わない方がいい」
「老衰では死ななくなる。けれど、呪縛は消えない。刻印者は、呪縛に殺されるその日まで、蝕まれ続ける身体で生きなければならない」
アレンは自分の右手を見る。
「そんな状態で、正気を保てるのか?」
ドレイヴが低い声で尋ねた。
「保てなかった者も多い」
ケイムは淡々と答える。
「終わらない苦痛と、死ねないほど長い時間。その二つに耐えきれず、心を壊した刻印者もいる。自分を蝕む世界そのものを憎み、すべてを巻き込んで滅ぼそうとした者もね」
「まるで、悪魔だな……」
「最初から悪魔だったわけじゃないさ」
ケイムは静かに言った。
「かつて人間の心を持ち、英雄と呼ばれた者が、苦しみ続けた果てに悪魔へ変わった。いくつもの都市が焼かれ、国が滅びかけたという記録が、それを証明している」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
「百年……」
アレンは刻印の浮かぶ右手を見つめた。
刻印が現れて、まだ一か月。それだけで二本の指から感覚が消えかけている。
この先、十年、五十年、百年と、失うものを数えながら生きるのか。
右手だけでなく、胸の奥まで冷えていくようだった。
「その人は、呪縛を克服したの?」
マナが尋ねた。
「いいや」
ケイムの答えは明確だった。
「むしろ逆だ。呪縛は、かなり深い段階まで進んでいる」
「どんな状態なの?」
ケイムは広げていた地図の端へ手を置く。
「呪縛は、日常生活を一人で送れない段階まで進んでいる」
「具体的には?」
ケイムはすぐには答えなかった。
「それは、自分の目で見た方がいい」
「答えになってねえぞ」
「先に聞けば、君たちは彼を病人として見る。彼はそれを何より嫌う」
ケイムはアレンへ目を戻す。
「ただし、刻印の制御精度は、私が知る限り連邦で最も高い」
アレンの胸の奥で、恐怖とも期待ともつかない感情が揺れた。
一人では日常生活も送れないほど、呪縛に深く蝕まれた人間。
ハルヴァは、アレンが最も見たくない未来を体現する存在であると同時に、今求めている答えへ最も近い人物でもあった。
「今のお前に必要なのは、剣の振り方じゃねぇな」
それまで黙っていたリヴァが、小柄な身体で腕を組んだまま、アレンを真っ直ぐに見上げて言った。
「動かねえ指で無理に剣を握っても、できるのは自分を安心させることくらいだ」
アレンは反論できなかった。
「研究者の話を百回聞くより、一度、刻印に食われながら生きてる人間を見てこい」
リヴァの言葉は厳しかったが、その奥に、戦場へ戻れと急かすような響きはない。
「そいつを見て、それでも力を使いたいと思うのか」
リヴァは続けた。
「それとも、刻印を封じて生きる道を選ぶのか。決めるのは、そのあとだ」
「封じたまま、生きられるのか?」
「分からねえ」
リヴァも迷わず答えた。
「だから、分かる奴に聞きに行くんだろ」
アレンは、ケイムの手にある地図を見る。
ブランネリア――遠い北方にある医療都市。
そこには、自分よりも遥かに深く呪縛に蝕まれながら、それでも刻印を制御して生き続けている者がいる。
アレンは右手を見た。
右手は、もう自分の意思どおりには動かない。黒い反応の正体も分からない。
何もしなければ悪化しないのかと問われても、医師にもケイムにも答えられなかった。
これまでのアレンは、誰かが答えを持ってくるのを待っていた。
だが、待っているあいだにも感覚は失われていく。
「……その人に、会わせてくれ」
「後悔するかもしれないよ」
「何も知らないまま壊れていく方が怖い」
右手の感覚が失われるたび、自分の身体が正体の知れない何かへ変わっていくように感じていた。
「俺は、もうこの刻印から目を逸らさない」
「俺も行く」
ドレイヴが言った。
「お前一人で行かせるわけねえだろ」
「わたしも」
マナも続ける。
「反対しても、どうせ行くんでしょ」
「ああ」
ケイムは三人を順番に見たあと、地図を丸め始めた。
「では、ブランネリアには私から話を通しておこう。許可が下りれば、数日中には出発できるはずだよ」
「お前は来ないのか?」
ドレイヴが尋ねた。
「同行してあげたいところだけどね。私には一か月分の報告書と、帝国に持ち去られた遺物の調査が残っているんだ」
「お前、仕事する気あったんだな」
「失礼だね。私は普段から勤勉だよ」
「壁を壊す以外でか?」
「あれも立派な調査の一環さ」
「壊したあとで言うな」
いつものやり取りに、マナがわずかに笑みをこぼす。
アレンもつられるように口元を緩めかけたが、ケイムの表情からは、すでにいつもの軽薄な笑みが消えていた。
「先に伝えておく。ハルヴァに会っても、制御の方法が見つかるとは限らない」
ケイムは丸めかけていた地図を止め、アレンを正面から見た。
「彼の生き方は正解ではない。一人の刻印者が選んだ、ひとつの結果にすぎない」
「分かってる」
「今はね。だが、彼を見れば、それしか道がないように思えるかもしれない。だから覚えておいてくれ」
風が吹き、アレンの左手にある黒い手袋が揺れる。
ハルヴァは、深く呪縛に蝕まれながら、それでも百年以上生き、今なお刻印を制御している。
アレンは手袋をはめ直した。
薬指と小指を左手で一本ずつ支え、黒い布の中へ収めていく。
朝と同じ動作。
だが今度は、ドレイヴが担ぐ双剣から目を逸らさなかった。
「それでも会いたい。自分の目で確かめる」
アレンは、陽光に照らされた街の先へ顔を向ける。
ブランネリア。
そこにいる男が希望なのか、未来の自分なのかは、まだ分からなかった。




