第14話『託された風』
裂けた紫電が、双剣を伝ってリヴァの両腕へ殺到した。
「ぐっ……!」
軍服の袖はすでに焼け落ち、露わになった皮膚へ赤黒い傷が走る。剣を握る指からは、ほとんど感覚が失われている。
双剣に刻まれた風の術式回路が唸り、刃へ流れ込んだ雷を二つに分ける。対となる二本の剣だからこそ、かろうじて耐えられていた。
「アレン!」
リヴァは双剣を押し込みながら、荒れ狂う雷の中心へ声を張り上げる。
「聞こえてるなら……一言でいい。返事をしろ、アレン!」
アレンは俯いたまま微動だにせず、右腕を天へ掲げ、その上空へ巨大な雷を集め続けている。あれが落ちれば、谷にいる者すべてが飲み込まれる。
リヴァが双剣を押し込むたび、雷の檻には僅かな裂け目が生まれた。だが、そこへすぐさま新たな紫電が押し寄せ、開いた隙間を塞いでいく。
「いつまでも押さえちゃいられねえぞ!」
リヴァは荒れ狂う雷を双剣で押し分けながら、背後へ怒鳴った。
「手があるなら、今すぐやれ!」
真っ先に動いたのはケイムだった。
「全員、よく聞きたまえ。猶予はない!」
杖を地面へ突き立て、足元に複数の魔法陣を展開する。
「今、リヴァが雷の流れを二つに裂いている。だが、このままでは逃げ場を失った雷が巡り、再びアレンへ戻ってしまう!」
「じゃあ……どうすればいいの?」
マナはドレイヴの傷口へ水魔法を注ぎながら、顔を上げた。
「戻る前に、地面へ流す道を作る!」
ケイムの視線が、少し離れた場所へ転がっているドレイヴの大剣へ向く。
「ドレイヴ! 聞こえるかい、意識はあるか!」
血に濡れたドレイヴの瞼が、わずかに持ち上がる。
「……聞こえてる」
「なら、君の剣を地面へ突き立ててくれ。できる限り深く!」
「重傷者に……よくもまあ、無茶を言いやがる」
「今だけは、その頑丈さを頼らせてもらうよ!」
ドレイヴは右手を地面につく。その拍子に左肩を貫かれた傷が再び開き、防具の下から新たな血が流れ出す。
「ドレイヴ!」
マナが思わずその体を押さえようとした。
「俺が動かなきゃ……あいつは戻ってこねえんだろ」
「でも、その傷で大剣を持つなんて――」
「持ち上げなくていい」
ドレイヴは苦痛に顔を歪めながら、片膝を立てる。
「引きずって……地面に立てりゃ、それでいい」
マナは唇を噛んだ。治癒術式を完全に解けば、傷口から再び大量の血が流れ出してしまう。だが、このままではアレンを止められない。
「……分かった。せめて、血だけは止め続けるから」
マナは杖を傷口へ向け、水色の魔力を一点へ集中させる。硬く凝固した水の膜が、流れ出す血をどうにか押しとどめる。だが、ドレイヴが片膝を立てただけで、その表面には細かな亀裂が走った。
「動かせるのは……ほんの少しだけだよ」
「それで十分だ」
ドレイヴは右手で大剣の柄を掴むと、刀身を持ち上げることなく、地面の上を引きずって手元へ寄せていく。金属が岩を削る耳障りな音が、谷に響き渡る。
やがて切っ先を地面へ立てると、柄に右肩を押し当て、そのまま全身の体重を預けた。
「おおおっ!」
刃が岩混じりの地面へ食い込む。
ドレイヴは一度、二度、柄に体重をかけ、握った手を離さぬまま、刀身を少しずつ深く沈めていく。やがて、その周囲の地面に細い亀裂が走った。
「これで……いいんだろ!」
「ああ、位置は十分だ!」
ケイムは杖を振り、ドレイヴの大剣を中心に封印文字を描く。
「剣だけでは、あの雷を受け止めきれない! マナ、周囲に残っている水を集めるんだ!」
マナはアレンとドレイヴを交互に見た。
「でも、水を使ったら……雷が周りに広がるんじゃないの?」
「無秩序に流せば、そうなる。だから、逃がす方向を一つに絞るんだ!」
ケイムの杖先が、ドレイヴの大剣から谷の外側へ向かって一本の線を描く。
「人のいない岩壁まで、細く浅い水路を通してくれ。水量は一定に――途中で絶対に枝分かれさせるな!」
そんな術式、使ったことがないと言いかけたところで、マナの脳裏へリヴァの言葉が蘇る。
『正しい術式より、今そこにいる仲間を見ろ』
マナは周囲を見渡した。そこには砕けた岩と湿った土、負傷兵を守るために展開された水の障壁、そして治療の際に地面へ流れ落ちた水がある。
必要なものは、すでにすべて揃っていた。
「……やってみる」
マナは杖を両手で握り、地面へ向ける。
「お願い……集まって」
周囲に残っていた水が細い流れとなって地面を這い始める。マナはそれらを一つずつ束ね、ドレイヴの大剣の根元から誰もいない岩壁の窪みまで、曲がりながらも途切れない細長い水の道を作り出していく。
さらに水路の左右へ土の縁を築き、電流が外へ広がりにくい形へ整えていった。
「できた……!」
「よし、そのままだ! 流れを切らさず、維持したまえ!」
ケイムは三つの魔法陣を重ねる。アレンの周囲に残る雷を束ね、リヴァの双剣から受け取り、ドレイヴの大剣へ流す。地面の上に、雷を逃がす一本の道が浮かび上がる。
「リヴァ!」
ケイムの声が飛ぶ。
「右の剣を地面の術式へ下ろせ! 左はそのまま、雷を押さえ続けるんだ!」
「簡単に言ってくれるな!」
「君ならできる!」
「言うだけなら楽だよな!」
リヴァが右手の剣を引こうとした、その瞬間。左右へ押し分けられていた雷が、再び中央へ戻り始める。
「っ……!」
左の剣一本では、とても受けきれない。集中した紫電が刀身を駆け上がり、魔装を突き抜けて腕の皮膚を赤く焼く。
双剣の片方を外せば、残った一本は雷に耐えきれず砕けるだろう。だが、それでも剣を動かさなければ、雷を地面へ逃がすことはできない。
「ケイム! 本当に繋がってるんだろうな!」
「術式はもう接続してある! あとは君が最後の道を繋ぐだけだ!」
ドレイヴの大剣と水路をつなぐ術式が、白く輝いた。
残る断絶は、リヴァの右剣と魔法陣の間だけ。
「……結局、生きるも死ぬも、あたし次第ってわけか」
リヴァは左腕に残る魔装を集中させる。全身を覆っていた風が左の剣へ集まり、刃の周囲で幾重もの渦となって回転しながら、押し寄せる雷の流れを一瞬だけ押し返す。
その隙を逃さず、リヴァは右の剣を引き抜く。次の瞬間、行き場を失った紫電が左の刀身へ殺到し、刃は甲高い音を立てて軋む。
「まだ折れんなよ!」
リヴァは右手の剣を逆手に持ち替えると、ケイムの描いた術式へ向けて振り下ろす。次の瞬間、その切っ先が魔法陣へ触れた。
「つながった!」
ケイムが杖を振り下ろすと、幾つもの魔法陣が一斉に起動する。リヴァの左剣で受け止められていた雷は、風の回路を通って右剣へ移り、そこから地面に刻まれた術式を伝ってドレイヴの大剣へと集まっていく。
さらに雷は、マナが作り上げた水路へ流れ込み、人のいない岩壁を目指して駆け抜ける。青白い光が谷の地面を切り裂き、遠くの岩壁へ到達した次の瞬間、轟音とともに巨大な穴を穿つ。
「上手く流れてる!」
マナが叫ぶのと同時に、アレンを囲んでいた雷の檻が僅かに薄れる。だが、完全に消えたわけではなく、上空に集まり続ける巨大な雷も、なおその場に残っていた。
「まだ足りない!」
ケイムが歯を食いしばる。
「外側の雷は逃がせても、中心の魔力が止まっていない。このままでは、また溢れ出す!」
「じゃあ、どうすりゃいい!」
ドレイヴは大剣の柄へ体を預けたまま、声を張った。
「最後は、アレン自身に止めさせるしかない!」
「その声が届かねえから、ここまでやってんだろ!」
「分かっている! だから――声が届くところまで、こちらから道を開く!」
ケイムは拘束術式を組み替えていく。アレンを外側から押さえ込むのではなく、渦巻く雷の流れそのものへ干渉し、外縁から中心へ通じる細い通路を作り出す。
「リヴァ! 道を開け! ほんの一瞬でいい!」
「これ以上開いたら、押さえてる雷が全部こっちへ漏れるぞ!」
「それでいい――いや、漏らすんだ! アレンを囲んでいる雷を、こちらへ引きつける!」
ケイムは懐に残っていた魔封符をすべて取り出し、自分の両腕と杖へ巻きつける。
「君たち三人の魔力を流せ! 僕が一本に束ねる!」
「……三人の?」
マナが聞き返す。
「アレンと深くつながった魔力だ! 刻印が拒んでも、アレン自身の意識なら……反応するかもしれない!」
それは確立された理論に基づくものではなく、成功する保証もない。ケイムがこの場で即興的に組み上げた、賭けに近い術式。
「……何をすればいい?」
「術式へ魔力を流し続けろ。そのまま、アレンの名を呼ぶんだ!」
マナが杖を握り直す。ドレイヴも大剣の柄へ右手を重ね、リヴァは焼けた腕に力を込めながら、二本の剣の間隔をわずかに広げる。
全員の準備を確かめたケイムが、杖を高く掲げた。
「今だ――呼べ!」
リヴァが双剣で雷を左右へ押し開くと、抑え込まれていた紫電が一斉に噴き出す。その瞬間、ケイムは杖を地面へ叩きつけ、三人の魔力を一本の線へと束ねる。
マナの青、ドレイヴの赤、リヴァの緑。そして、それらをつなぐケイムの白。
四つの光は封印術式の上を駆け抜け、雷の中心へ向かって伸びていった。
◇
黒い世界の中で、アレンは右手を天へ掲げている。その頭上には、すべてを焼き尽くしかねないほどの雷が集まり続けていた。
目の前にそびえる黒い扉は、以前よりも大きく開いていた。隙間から覗く赤黒い瞳が、アレンの選択を待つようにじっと彼を見つめている。
――落とせ。
囁く声が、闇の奥から響く。
――敵は消える。
――そうすれば、もう二度と奪われない。
「これで、守れる」
アレンの口から、同意するように言葉がこぼれる。
――そうだ。
――お前だけが、守れる。
その囁きに応じるかのように、扉を縛っていた鎖がまた一本、外れかける。
そのときだった。
『アレン!』
雷鳴の向こうから、微かな声が届く。まるで水の底よりも遠い場所から、誰かが必死に彼の名前を呼んでいる。
「誰だ……」
――聞くな。
赤黒い瞳が細められ、闇の奥から再び声が響いた。
――弱い者の声だ。
『アレン、戻ってきて!』
それは、マナの声。
「マナ……?」
黒い水面へ青い光が差し込み、そこに映っていた顔のない自分に、僅かずつ輪郭が戻っていく。
『ドレイヴは生きてる! まだ助けられる!』
「生きてる……?」
腕の中で力を失ったドレイヴの姿が、鮮明に蘇る。血に濡れた防具、固く閉じられた瞼、そして力なく垂れ下がった腕。
それでも、マナは生きていると言った。
――偽りだ。
扉の奥から、低い声が響く。
――あれは、すでに失われた。
『勝手に殺すな!』
今度聞こえてきたのは、ドレイヴの声。掠れて弱々しくはあったが、それでも確かにアレンのもとへ届いている。
『俺は……まだ死んでねえぞ!』
「ドレイヴ……」
黒い水面へ赤い光が走る。
顔のない自分に、口元が戻る。
苦しそうに歪んでいても、それは紛れもなくアレン自身の表情。
『守るためって言うなら、こっちを見ろ!』
リヴァの声が雷鳴を切り裂く。
『お前が壊そうとしてる中に、守りたかった奴らがいる!』
緑色の風が黒い世界へ吹き込み、扉から伸びていた闇を切り裂く。まとわりついていた影は、アレンの右腕から引き剥がされるように離れていく。
――聞くな。
赤黒い瞳が大きく見開かれる。闇の奥から、初めて焦りを滲ませた声が響く。
――彼らは、お前を恐れる。
――いずれ、お前を捨てる。
『アレン』
そのとき最後に届いたのは、ケイムの声だった。いつもの軽さは、そこにはなかった。
『君の名前を言いたまえ』
「名前……」
――鍵に名は要らない。
『君は刻印ではない。災厄でも、封印の道具でもない』
黒い扉が震える。
『君は誰だ』
アレンは、紫色の紋様に覆われた右手を見つめる。
刻印。鍵。器。これまで、いくつもの名で呼ばれてきた。
だが、それは自分の名前ではない。
「俺は――アレン・ライオネットだ」
アレンが掲げていた右手を下ろすと、頭上に集まっていた雷が激しく震える。
――落とせ。
「嫌だ」
――守れなくなる。
「一人ですべてを守る必要なんてない」
アレンは右手を握ろうとする。小指は動かず、痛みも消えてはいない。それでも、動く指へ力を込め、不完全ながらも拳を作る。
「俺を止めてくれる奴らがいる」
黒い扉を縛る鎖が激しい音を立てる。外れかけていた一本も引き戻されるように、再び扉へ固く巻きついていく。その瞬間、隙間から覗く赤黒い瞳に、初めて明確な怒りが浮かぶ。
――鍵が、拒むな。
「俺は鍵じゃない」
アレンが扉へ背を向けた瞬間、黒い世界へ無数の亀裂が走った。
そこから差し込んできたのは、マナの青、ドレイヴの赤、リヴァの緑、そしてケイムの白。四つの光は闇を切り裂きながら広がり、扉とアレンの間を少しずつ引き離していく。
やがて巨大な瞳は闇の奥へ沈み、最後に残された声だけが低く響く。
――いずれ、自ら開く。
その言葉を残し、黒い世界は音を立てて砕け散る。
◇
アレンの右腕が下がった瞬間、上空の雷が大きく揺らぐ。
「今だ、リヴァ!」
リヴァの双剣がアレンの眼前で交差し、残された雷を一息に切り離す。行き場を失った紫電は地上の術式を走り、ドレイヴの大剣からマナの水路へ流れ込む。青白い光が一筋、誰もいない岩壁へ向かって駆け抜けた。
ケイムが残った紫電へ封印術式を重ねる。
「刻印回路を強制閉鎖する――《マール・フェアジーゲルング》!」
最後の雷がアレンの指先で弾け、消える。
「アレン!」
リヴァは双剣を手放すと、倒れかけたアレンの体を咄嗟に受け止める。焼けた両腕へその重みがのしかかり、表情が苦痛に歪む。それでも、彼を地面へ落とすことだけはしない。
「……リヴァ」
アレンの瞼が、わずかに開く。
「聞こえるか?」
「……ああ」
「なら答えろ。お前の名前は?」
霞む視界の中、アレンはリヴァの顔を見上げる。頬には煤がこびりつき、両腕からは今も血が流れ続けている。
「アレン……ライオネット」
「……よし」
リヴァは張り詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
「戻ってきたな、アレン」
◇
アレンが次に目を開けたとき、夜はまだ明けていなかった。
そこは岩陰に設けられた簡易野営地で、周囲には負傷者が横たわり、その間を治療師たちが慌ただしく行き交っている。
帝国軍は、アレンの暴走が治まるより前に撤退しており、ギデオンの姿も見つかっていなかった。連邦軍は崩落した谷道を迂回し、安全を確保できる場所まで移動したらしい。
アレンの右腕には新しい包帯が巻かれていた。黒い手袋は失われ、その代わりにケイムの封印術式が幾重にも施されていた。
腕を動かそうとした瞬間、鋭い痛みが走った。
「動かないで」
すぐそばからマナの声が聞こえた。彼女は地面に座り込み、杖を抱えるようにしている。その目の下には、濃い疲労の影が浮かんでいた。
「マナ……」
「名前、言える?」
リヴァにも、同じことを聞かれた。
「アレン・ライオネット」
「……うん」
マナは安堵したように目を閉じた。
「よかった。本当に……」
「ドレイヴは?」
マナの表情が、わずかに曇る。
アレンは反射的に上体を起こした。
「どこにいる?」
「隣の天幕だよ」
「傷はどうなんだ?」
「魔力の杭は消えたし、出血も止めた」
「……助かるのか?」
「治療師の話では、ルミノヴァ中央医療塔まで戻れれば助かるって。順調なら、二週間ほどで傷も塞がるだろうって言ってた」
アレンはドレイヴの様子を確かめようと、包帯の巻かれた右手を地面につき、立ち上がろうとした。
「駄目!」
マナが慌てて肩を押さえる。
「まだ動いちゃ駄目だよ。今は横になってて」
「でも、ドレイヴを見ないと」
「アレン……」
「あいつがあんな傷を負ったのは、俺のせいで――」
「座れ」
低い声が、アレンの言葉を断ち切った。
その声に顔を向けると、天幕の入口にリヴァが立っていた。両腕には厚い包帯が巻かれ、右肩にも固定具が当てられている。軍服の袖は切り取られ、焼けた防具もすでに外されていた。
「リヴァ……その腕」
「お前の刻印に焼かれた」
リヴァは隠そうともせず、まっすぐに答えた。
アレンの顔から、さっと血の気が引く。
「俺が……やったのか」
「そうだ」
リヴァはアレンの前まで歩み寄った。
「お前の力で、あたしの腕は焼けた。連邦兵も何人か負傷した。ドレイヴの傷が悪化したのも、暴走の衝撃で吹き飛ばされたせいだ」
「やめて!」
マナが思わず叫んだ。
「今、そんなふうに言ったら――」
「だからって、事実を隠してどうする」
リヴァはアレンから目を逸らさないまま、静かに言葉を続けた。
「お前は暴走した。味方を傷つけた。……それは、消せない事実だ」
アレンの胸の奥が冷えた。黒い世界で見た光景が、目の前にある仲間たちの傷と重なっていく。
雷に呑まれるマナ。倒れるドレイヴ。傷ついた両腕で、自分を受け止めたリヴァ。
「俺がいなければ……」
押し殺していた言葉が、アレンの口からこぼれ落ちた。
「ドレイヴは傷つかなかった。リヴァも……みんなだって――」
「ふざけんな」
リヴァの声が鋭くなる。次の瞬間、包帯の巻かれた手がアレンの胸元を強く掴んだ。
「全部背負い込んで、勝手に話を終わらせるんじゃねえ」
「でも……怒りに任せて暴走したのは、俺だ」
「ああ、そうだ。だから何だ?」
リヴァは掴んだ手を緩めず、アレンを睨みつけた。
「それで、何もかもお前一人のせいにするつもりか?」
リヴァの声に苛立ちが混じる。
「仕掛けたのはギデオンだ。あいつがお前の刻印を、無理やり抉じ開けた。ドレイヴは自分の意思でお前を庇った。マナもケイムも、逃げずに残ると決めたんだ」
リヴァは痛む腕に力を込め、アレンの胸元をさらに強く掴んだ。
「あたしだって、自分の足で雷の中へ入った。誰一人、お前にやらされたわけじゃねえ」
「それでも……俺が止められていれば――」
「止められなかった」
リヴァは容赦なく、その言葉を断ち切った。
「だから、あたしたちが止めた。それの何が悪い」
アレンは思わず顔を上げた。
「仲間に止めてもらうことだって、力を制御するうちに入る」
「それが……制御なのか?」
「ああ。何もかも一人で押さえ込むことだけが、制御じゃねえって言ってるんだ」
リヴァはアレンの胸元から手を離した。包帯の下で、傷ついた指がわずかに震えている。
「おかしいと思ったら隠すな。自分で止まれそうにないなら、止められる奴のそばにいろ。必要な道具も、手段も用意しろ。それでも呑まれそうになったら――あたしたちの声を聞け」
震える手を握り込み、リヴァはまっすぐアレンを見据えた。
「一人で抱え込まないことも、お前がその力を扱うために必要なことだ」
「でも……次は、止められないかもしれない」
「ああ」
リヴァは否定しなかった。
「次は、誰かが死ぬかもしれねえ。あたしだって、今度こそ雷の中で倒れるかもしれない」
「だったら、俺は――」
「消えようとするな」
リヴァの鋭い声が、アレンの言葉を遮った。
「お前が誰もいない場所で暴走したら、今度こそ止める奴がいなくなる」
アレンは口を閉ざした。反論しようとしても、言葉が見つからない。
「自分を痛めつけたって、それで責任を取ったことにはならねえよ」
リヴァの声から、わずかに棘が抜けた。
「考えるのは、次にどうするかだ。何を用意する。誰に頼る。今回傷つけた相手から逃げずに、次は傷つけないために動け」
「……俺が、前へ進んでもいいのか?」
「誰に許してもらうつもりだ」
リヴァは呆れたように息を吐き、包帯の巻かれた腕をアレンへ突き出した。
「傷つけられた本人が、行けって言ってるんだ。黙って行け」
アレンの隣で、マナも静かに頷いた。
「わたしも止める」
「マナ……」
「今度は、もっと早く気づく。もっと早く呼ぶ。それでも届かないなら――届くまで、何度でも呼ぶよ」
「危険だ」
「分かってる」
マナは迷わず答えた。
「危険だからこそ、ひとりにはできないの」
マナの目には濃い疲労が滲んでいたが、その表情に迷いはなかった。すると、天幕の外から低い声が聞こえてきた。
「俺のことも忘れんなよ」
入口の布が持ち上がり、治療師に肩を支えられながら、ドレイヴが姿を現した。左肩から胸にかけて厚い包帯が巻かれ、顔色も青白い。
「ドレイヴ!」
アレンが身を起こしかけると、ドレイヴは露骨に眉をひそめた。
「動くな。見てるこっちの傷まで開きそうだ」
「お前こそ寝てろよ!」
「寝てたさ。けど、目が覚めたら、お前がどっかに消えてそうだって聞いてな」
治療師に支えられながら、ドレイヴはゆっくりと天幕の中へ入ってくる。
「……消えたりしない」
「今、間があったぞ」
「消えようとしたわけじゃない。ただ――」
「俺たちから離れようとはした」
言葉を重ねられ、アレンは口を閉ざした。
「一人で全部抱え込んで、勝手に遠くへ行こうとする。それを消えるって言うんだよ」
ドレイヴは肩の痛みに顔をしかめながら、アレンの前へゆっくりと腰を下ろした。それでも、口元にはいつもの笑みが浮かんでいる。
「俺が庇ったのは、俺がそうすると決めたからだ」
「でも――」
「お前、避けられそうになかっただろ。だから俺が動いた。それだけだ」
「それで死んだら、どうするんだよ」
「死んでねえだろ」
「今回はな」
「じゃあ次は、もう少し上手くやる」
「次も庇うつもりで話すな!」
思わずアレンの声が強くなる。
ドレイヴは満足そうに鼻を鳴らした。
「それだけ怒鳴れるなら、大丈夫そうだな」
「お前な……」
「ただし」
ドレイヴの表情から、ふっと笑みが消えた。
「次にやばいと思ったら、先に言え」
「言ったら、お前たちまで巻き込む」
「黙って暴走される方が、よっぽど巻き込まれるだろ」
アレンは言葉に詰まった。
「俺たち、小隊なんだろ」
ドレイヴはそう言って、右拳を差し出した。
「お前一人で止まれないなら、俺たちで止める。それでも足りなきゃ、ケイムもリヴァも引っ張り込む」
「本人たちの前で、勝手に数へ入れるなよ」
「使えるものは全部使えって、リヴァが言ってたぞ」
「そういう意味で言ったんじゃねえ」
リヴァは呆れたように返したが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
アレンは差し出された拳を、しばらく見つめた。右手はまだ思うように動かない。代わりに左手を伸ばし、ドレイヴの拳へそっと触れる。
「……次は言う」
「聞こえねえな」
「次は、ちゃんと言う」
「よし」
ドレイヴが笑うと、マナもその拳の上へそっと手を重ねた。
「わたしにも、ちゃんと伝えてね」
「ああ」
最後にリヴァも包帯の巻かれた手を伸ばしかけるが、痛みに顔をしかめ、すぐに引っ込めた。
「見りゃ分かるだろ。あたしは無理だ」
「気持ちだけで十分だよ」
マナが慌てて言った。
「誰も気持ちを重ねようとはしてねえよ」
リヴァはそう答えながらも、三人の手を静かに見つめていた。
◇
翌朝、夜の冷気が残る野営地へ、薄い朝日が差し込んでいた。
負傷者の容体が安定したため、部隊は昼前にファランディアへ向けて再出発することになっている。
アレンは岩場の端に立ち、遠く連なる山並みを眺めていた。右腕は固定され、胸元へ吊られている。指先には今も痺れが残り、小指は動かなかった。
暴走したときの記憶は、ところどころ途切れている。
雷の檻。黒い扉。仲間たちの声。
そして最後に、自分自身の名前を口にしたことだけが、妙に鮮明に残っていた。
「早いな」
背後からリヴァの声がして、アレンは振り返った。彼女は両腕に包帯を巻いたまま立っており、腰にあるはずの双剣は見当たらない。その代わり、布で包まれた細長いものを胸に抱えていた。
「もう起きて大丈夫なのか?」
「それ、お前が言うか?」
「俺は少し歩いてるだけだ」
「あたしだって、似たようなもんだよ」
アレンは、包帯に覆われた両腕へ目を落とした。
「……腕、どうなんだ」
「当分は剣を握るな、だとさ」
「そうか……」
言葉が途切れ、アレンは視線を伏せた。
「悪かった」
「お前な……昨日の話、もう忘れたのか?」
「忘れてない。でも、だからって謝らないのも違うだろ」
リヴァは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「……まあ、それはそうだな」
リヴァはアレンの隣へ並んだ。二人の間を縫うように、朝の風が静かに通り抜けていく。
「それで、右手はどうだ」
「小指は、まだ動かない。薬指も……少し感覚が鈍い」
リヴァの表情が、わずかに曇った。
「……進んだか」
「ああ」
「今度は、黙ってるなよ」
アレンは右手へ目を落とし、それから静かに頷いた。
「もう隠さない」
その答えを聞くと、リヴァは横目でアレンの表情を確かめ、納得したように小さく頷いた。
「なら――これを持て」
リヴァが抱えていたものを差し出し、巻かれていた布を解いた。
その中から、二本の剣が姿を現す。
「これ……」
それは、リヴァが使っていた風の双剣。細身の刀身に、軽量化された鍔。そして柄から切っ先へ向かって、螺旋状の魔力回路が刻まれている。
昨夜の雷を受けた影響で刀身の一部は黒く焦げ、魔力の回路にも細かな損傷が残っていた。それでも、対抗部隊の整備士が夜のうちに応急処置を施したらしく、淡い緑色の光は途切れることなく流れていた。
「……どうして、俺に?」
リヴァは双剣へ目を落とした。
「昨日、見ただろ。この剣なら、お前の雷を体の外へ逃がせる。完全には止められなくても、暴走する前に時間を稼ぐ助けにはなる」
「でも……これは、リヴァの武器だろ」
「昨日まではな」
「もう、使わないのか?」
「あたしは――戦い方を変える」
リヴァは包帯の巻かれた両腕を掲げた。
「前から試してたものがある。刻印者と近距離でやり合うための魔装具だ」
「魔装具……?」
「魔力を固めて、そのまま武器にする。鉤爪や槍みたいにな」
「じゃあ、もう剣は使わないのか?」
「別に捨てるわけじゃねえよ。双剣は、また別に拵える」
リヴァは包帯の巻かれた手を、わずかに持ち上げた。
「それに、半端な刃じゃ刻印者の魔装は貫けねえ。あいつらを相手にするなら、こっちにも相応の武器が要る」
「もう使えるのか?」
「形にはなってる。あとは魔道具の力を借りて、安定させるだけだ」
「それって……俺が腕を傷つけたから、武器を変えるんじゃ――」
「それだけで戦い方を変えるほど、あたしは聞き分けよくねえよ」
リヴァは即座に遮った。
「魔装具へ移ることは、前から考えてた。この剣を誰かに渡す時期が、少し早まっただけだ」
アレンは差し出された双剣を見つめた。
「……本当に、俺が持っていいのか?」
「よくはねえな」
「どっちなんだよ」
「力を逃がせるからって、好きに振り回していいわけじゃねえ。昨日みたいに感情へ呑まれたら、剣が増えた分だけ被害も広がる」
「だったら、どうして俺に渡す?」
「お前に、その力の責任を持たせるためだ」
リヴァは二本の柄を、アレンの胸元へ押しつけた。
「刻印が勝手にやった。帝国に操られた。自分じゃ止められなかった――そうやって、力と自分を切り離すな」
「……ああ」
「お前は昨日、自分の意思で戻ることを選んだ。だったら次は、暴走する前に止まる道を選べ」
朝日が刀身に反射し、焦げ跡の間を縫うように、淡い緑色の魔力が静かに流れていく。
「これは、お前を強くするための剣じゃない」
リヴァは静かに言った。
「止まれなくなりそうなときに――戻る場所を思い出すための剣だ」
アレンは左手を伸ばした。右手はまだ使えず、二本を同時に持つこともできない。それでも、差し出されたうちの一方へ指をかけ、その柄をしっかりと握る。
驚くほど軽い。
だが、その軽さからは想像もできないほど、多くのものが託されている。
リヴァが積み重ねてきた戦い。救えなかった部下たちへの悔い。命令を言い訳にせず、自分の意思で選ぶと決めた覚悟。そして昨夜、雷の中へ踏み込んだ、あの強い意志。
そのすべてが、今は一本の剣を通して、アレンの左手へ預けられている。
「俺……いつか、一本しか握れなくなるかもしれない」
「分かってる」
「右手が、このまま戻らなかったら?」
「左で振れ」
リヴァは迷いなく答えた。
「もう一本は、誰かに預けりゃいい」
「……誰に?」
「さあな」
リヴァは双剣へ目を落とし、それからアレンを見た。
「そこまで、あたしが決めることじゃねえだろ」
リヴァは残った一振りをアレンへ渡すと、二本の剣帯を彼の腰へ回し、外れないよう留め具を締めた。
「譲るんじゃねえ。預けるだけだ」
「……いつか、返せってことか?」
「必要なくなったらな」
「そんな日、本当に来ると思うか?」
「来るまで使え」
短い言葉だった。けれど、その声には迷いも疑いもない。
アレンはしばらく何も言えないまま、双剣の柄へ視線を落とした。
「……分かった」
「返事が軽いな」
「じゃあ、何て言えばいいんだよ」
「せめて『もう二度と暴走しません』くらい言えねえのか」
「それは約束できない」
リヴァの眉が、わずかに上がった。
「でも……次は、もっと早く助けを求める。刻印のせいにして、自分の選択から逃げない。この剣を使って、止まるための道を作る」
リヴァはしばらくアレンを見つめていたが、やがて満足したように口元を緩めた。
「……それでいい」
朝の風が二人の間を抜け、その拍子に、アレンの腰で双剣の鞘が小さく触れ合う。澄んだ金属音が、静かな空気の中へ響く。
◇
部隊は昼前に野営地を出発し、負傷者を乗せた荷車を守りながらファランディアを目指した。城門へ辿り着いたのはその日の夕刻で、そこでは治療師や軍の調査官たちが待ち構えていた。
帰還した兵士たちは休む間もなく振り分けられ、それぞれ治療や報告のために持ち場へ運ばれていった。
同じ頃、ファランディア軍本部の解析室には、アルカナリウムから回収された記録が所狭しと広げられていた。古代文字を書き写した紙、魔力波を記録した水晶片、帝国兵の壊れた魔装具、さらに台座から持ち帰った石片までが並べられている。
その中央には、三十三の紋章を再現した円形の図が置かれていた。
ケイムは椅子に腰を下ろし、机上に広げられた幾つもの記録を照合していた。その向かいに座るのは、魔法院の封印術師ディアナ・グレイスだ。
艶のある黒髪を後ろで緩く束ね、細い銀縁の眼鏡を掛けた彼女は、アルカナリウムの記録を読み進めるたび、灰色の瞳を険しく細めていた。
「もう一度、確認するわ」
ディアナは、アレンの刻印が反応した瞬間の波形へ指を置いた。
「遺跡の記録装置が起動する直前、三十三の術式すべてに魔力が流れている」
「ああ。間違いない」
「でも、完全に起動したのは雷の紋章だけ」
「記録を見る限りは、そうだね」
「ほかの三十二は、壊れていたわけではないの?」
「少なくとも、魔力回路は生きていた」
ケイムは別の水晶片をつまみ上げ、術式灯の光に透かした。
「死んでいたというより、眠っていた――今のところは、その表現がいちばん近いだろうね」
ディアナは円形の図へ視線を戻した。
「三十三の刻印が、それぞれ完全に独立したものなら、こんなふうに一つの術式へ接続する必要はないはずよ」
「私も同じ考えだ」
「つまり、刻印そのものが……巨大な封印術式の構成要素になっている」
「その可能性は高い」
ケイムは三十三の紋章を囲む外側の円へ、細い線を書き加えた。
「一つ一つの刻印が、封印の状態を管理する鍵なのかもしれない」
「閉じるための鍵?」
「閉じるだけじゃない。開けるための鍵でもある」
ディアナはしばらく沈黙したのち、アルカナリウムで記録された古代文字の一節を手元へ引き寄せた。
「――“祝福にあらず”」
「ああ」
「刻印は、神から与えられた力ではない」
「少なくとも、当時の記録はそう伝えようとしている」
「それなら……何のために、人間へ刻んだの?」
「肝心なところが欠けているんだ」
ケイムは疲れたように目元を押さえた。
「封印を維持するために、人間の魂や魔力を利用したのか。封じられた何かへ対抗する武器として作ったのか。それとも――」
「封じられたもの自体を三十三に分けて、人間へ押し込んだ」
ディアナの言葉に、室内の空気が冷えた。
「……推測だよ」
「分かっているわ」
ディアナは、アレンの暴走時に採取された魔力波へ目を向けた。
「ただ、雷鳴の刻印が暴走したとき、アルカナリウムの記録と同じ反応が出ている」
「黒い扉か」
「ええ」
水晶片の内部には、紫色の光とは異なる黒い線が残っていた。それは細い糸のように刻印の魔力へ絡みつき、どこか別の場所へ引き込もうとしている。
「アレンの刻印が強くなるほど、黒い反応も増えている」
ディアナは淡々と告げたが、紙を押さえる指には無意識のうちに力がこもっていた。
「呪縛の副作用だけでは説明できないわ」
「扉の向こう側とのつながりが、深くなっている」
「刻印同士の共鳴が進めば、同じ現象がほかの刻印者にも起きるかもしれない」
「三十三の鍵が、一つずつ目を覚ましていく」
ケイムは円形の図へ、一つずつ印をつけていった。
「そして共鳴が一定の段階に達したとき――門が開く」
「その門から、何が出てくるの?」
「それを知るための記録は、ギデオンが持ち去った」
ケイムの声が低くなる。
ディアナは帝国の魔道具へ目を移した。内部に刻まれた古代文字は、アルカナリウムの回路と酷似していた。
「帝国は、偶然アレンを利用したわけじゃない」
「ああ。最初から、彼を遺跡へ連れていくつもりだった」
「共鳴波を起こし、監視所を襲って、連邦軍まで動かした」
ディアナは机上の記録へ目を落とした。
「扉が開くことも、記録装置が目を覚ますことも……全部、読んでいた」
「そう考えるのが自然だろうね」
ケイムの声から、いつもの軽さが消えた。
「おそらく、アレンが暴走するところまで含めて」
ケイムは窓の外へ目を向けた。夕暮れに沈むファランディアの向こうには、城壁を越えて、アルカナリウムへ続く西の空が広がっている。
「帝国は、アレンを奪おうとしたんじゃない」
「鍵として反応するか、試した」
「そして――反応した」
室内へ重い沈黙が落ちた。
「このこと、アレンに話すの?」
ディアナが尋ねる。
「隠したところで、いずれ本人が気づくよ」
「今の彼に、そこまで背負わせるつもり?」
「背負えるかどうかとは別の話だ。彼自身に関わることを、彼抜きで決めるわけにはいかない」
ケイムは指先で弄んでいた水晶片を、静かに机へ置いた。
「ただし、分かっている事実と、私たちの推測は分けて話す。いたずらに脅かすだけでは、何も変わらないからね」
「ずいぶん慎重なのね」
「私はいつだって慎重だよ」
「本人をアルカナリウムまで連れていった人の言葉とは思えないわ」
「それを言われると、耳が痛いなあ」
「腕ではなく?」
「今は、どちらもかな」
ケイムは傷を庇うように肩を竦め、困ったように苦笑した。
しかし、その表情はすぐに消えた。
「ディアナ」
「何?」
「……一つ、嫌な考えがある」
ケイムは、机の中央に並ぶ三十三の紋章へ目を落とした。
「もし……刻印が、ただの鍵じゃなかったとしたら?」
「……封印そのものを支えている?」
「その可能性もある」
ディアナの目が、わずかに見開かれた。
「じゃあ、アレンから刻印を取り除いたら――」
「刻印を取り除ければ、彼は呪縛から解放されるかもしれない。だが、その代わりに……封印の一部が失われ、扉が開く可能性がある」
「刻印を取り除くことが、封印を壊すことになるのね」
「まだ、推測の域を出ないけどね」
ケイムはそう付け加えたが、その声は重かった。
「でも、このまま放っておけば……先に彼の方が壊れる」
「ああ」
「……どちらかを選べっていうの?」
ケイムは答えなかった。ただ、三十三の紋章を見つめ続ける。
「そうならない道を、探すしかない」
ディアナは、答えの見えないまま机上の三十三の紋章を見つめた。
「選択肢が、本当に二つしかないとは限らないわ」
静かな声。
「刻印を残したまま、呪縛だけを切り離す。封印を別の術式へ移す。あるいは、共鳴そのものを遮断する」
「どれも、前例がない」
「だから調べるのよ」
ディアナは新しい紙を取り出した。
「アレンに、自分が壊れるか、封印を壊すかなんて選択をさせるつもりはないわ」
ケイムはしばらく彼女の横顔を見つめていたが、やがて何かを決めたように、わずかに口元を緩めた。
「まったく……頼もしい助手を持ったものだ」
「助手ではなく、共同研究者として扱ってください」
「それは失礼した」
ケイムは軽く肩を竦め、机上に広げられた三十三の紋章へ視線を戻した。
「そういえば……遥か昔に滅びた文明の伝承に、よく似た話があったね」
ディアナが顔を上げた。
「災厄をもたらす門を、複数の鍵で封じたという話?」
「ああ。古い伝承にそうある」
ケイムは円形に並ぶ紋章を、指先でゆっくりとなぞっていく。
「伝承では、その鍵は三十三あった」
「ただの神話では?」
「私も、昨日まではそう思っていたよ」
指先が、雷を示す紋章の上で止まる。
「黒き門を閉ざすために作られた、三十三の鍵」
ケイムの指が、雷の紋章を静かに押さえた。
「だが、“目覚める”ことが封印の強化ではなく、解除を意味するなら――すべての鍵がそろったとき、門は再び開く」
ディアナは何も言わず、机上の紋章を見つめた。
室内には、水晶片が発するかすかな振動音だけが残る。
「その門には……名前があったはずです」
「ああ」
ケイムの口元から、笑みが消えた。
「――デモンズゲート」
その名に応じるように、水晶片の奥を走る黒い線が、僅かに脈打つ。




