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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第一章『雷鳴の刻印』

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第13話『雷の檻』


 アルカナリウムの奥深くでは、低い崩落音が途切れることなく続いていた。

 天井の亀裂から細かな砂が降り注ぎ、壁を走る黒い金属線が不規則な明滅を繰り返している。


「あの結晶は、遺跡の魔力を蓄えるだけじゃない。流れを均す制御核だったらしい」


 頭上を確かめながら、ケイムが早口に告げた。


「全員、撤退だ!」


 リヴァの鋭い声が、崩れ始めた円形広間を貫く。


「ここまでだ、調査は打ち切る! 持ち出すのは、すぐ手に取れる資料だけでいい! 瓦礫の下敷きになりたくなきゃ、立ち止まるな――走れ!」


 研究員たちは書き写した古代文字や回収した石片を慌ただしく鞄へ押し込み、刻鎖隊の兵士たちも周囲を警戒しながら、来た道を引き返し始めた。


 アレンも片手剣を鞘へ納め、その流れに続いて出口へ向かおうとする。


「アレン」


 マナがすぐ隣に駆け寄った。


「歩ける? 無理してない?」


「……ああ、歩ける」


「なら、手を見せて」


「今は大丈夫だ」


「またそれ。大丈夫かどうかは、ちゃんと見てから決めるの」


 マナはアレンの歩調に合わせたまま、黒い手袋の上から右手を包み込んだ。淡い水色の魔力が掌から滲み出し、手袋の表面へ薄く広がっていく。


「表面を確かめるだけなら問題ない。ただし、そこまでだ。刻印の奥へは、絶対に魔力を流し込むな」


 ケイムはアレンの右手を注意深く見ながら言った。

 崩落音が次第に近づき、頭上の亀裂から剥がれた石片が、すぐ脇の床へ落下する。


「話は外でしろ!」


 少し先を進んでいたドレイヴが振り返った。


「立ち止まってる場合か! このままじゃ、全員そろって遺跡の一部になるぞ!」


「それは御免だねぇ。後世の研究者に『遺跡と心中した間抜けな調査隊』なんて名付けられたら、さすがに笑えない」


 ケイムは冗談めかして言ったが、その視線はアレンの右手に向けられたままだった。


「まあ、彼の言うとおりだ。歩けるうちに急ごう。こちらの都合などお構いなしに、刻印の反応値が少しずつ上がっている」


「……暴走するのか?」


「今のところ、その兆候はないよ。遺跡との共鳴が、まだ尾を引いているだけだ。――少なくとも、今はね」


 ケイムは水晶球を外套にしまう。


「とはいえ、確かめるためにわざわざ刺激する必要もない。アレン、魔法は使わないこと。右手に魔力を集めるのも避けたまえ」


「……分かった」


 アレンは右腕をかばうように体側へ寄せた。手袋の内側で、刻印が心臓とは別の鼓動を刻んでいる。

 どくり、どくりと――まるで、自分とは別の生き物が皮膚の下に潜んでいるかのように。


     ◇


 遺跡の外へ出ると、空はすでに夕暮れへ傾いていた。盆地を囲む岩山の向こうへ日が沈み、灰色の雲が赤黒く染まっている。


 入口を守っていた連邦兵たちは、帝国兵の捕虜を拘束し、両軍の負傷者を治療区画へ集めていた。捕虜の中には、味方であるはずのギデオンに置き去りにされたことを理解し、呆然と立ち尽くしている者もいた。


「遺跡の内部が崩れ始めてる」


 リヴァは、外で待機していた部隊を見渡した。


「確保は諦める。帝国軍の再襲撃を警戒しながら、ファランディアへ戻るぞ」


「遺跡の入口は、どうします?」


 連邦軍の指揮官が尋ねた。


「閉じられるかどうかも分からねえ。今は遺跡より、人命が先だ」


「ですが、帝国の増援が来れば、また占拠されます」


「占拠させとけ。中へ入ったところで、鍵がなきゃ何ひとつ動かせねえ」


 そう言って、リヴァは一瞬だけアレンへ目を向ける。


「それに、連中の狙いは遺跡だけじゃない。少なくとも次に狙われるのは――アレンだ」


 誰も口を開かなかった。

 だが、その言葉の意味を理解していない者はいない。


「隊列を組め!」


 リヴァの声が、部隊の緊張を断ち切った。


「負傷者と研究員は中央! 捕虜は連邦歩兵が監視しろ! 刻鎖隊(こくさたい)は前後に分かれて警戒!」


「第七小隊は?」


 ドレイヴが尋ねると、リヴァは即座に答えた。


「あたしのそばにいろ」


「俺たちは、守られてるだけかよ」


「不満か?」


 リヴァは歩き出しながら、わずかに振り返る。


「今のお前らに任せる役目は一つだ。全員、生きてファランディアまで戻れ」


 ドレイヴは不満そうに口を結んだものの、反論はしなかった。部隊の一員として初めて本格的な実戦を経験し、自分たちだけで対処できる状況ではないと理解しているのだろう。


 やがて隊列は、日が沈みきる前にアルカナリウムを出発した。


     ◇


 帰路は、行きよりも遅かった。負傷者を乗せた担架や拘束した帝国兵に加え、回収した遺物や資料まで運んでいるうえ、岩場にはすでに夜の冷気が降り始めている。


 先頭を進む兵士たちは魔法灯を使わず、月明かりだけを頼りに足を進めていた。灯りを点ければ、遠くから居場所を知られてしまうためだ。


 アレンは隊列の中央近くを歩いていた。右隣にはマナが付き、左前方にはドレイヴ、その少し先をリヴァが進んでいる。ケイムは最後尾と中央を行き来しながら、周囲へ小型の感知術式を放っていた。


「手……まだ痛む?」


 マナが声を落として尋ねた。


「痛みは、さっきよりましだ」


「痺れは?」


 アレンは手袋の中で指を曲げる。小指だけが、ほかの指より僅かに遅れて動いた。


「……まだ少し残ってる」


 マナは足を止めかけたが、アレンは歩調を緩めなかった。


「止まったら、隊列が乱れる」


「でも――」


「ファランディアに戻ったら、ちゃんと診てもらう。約束する」


 マナは疑うように目を細める。


「……絶対?」


「ああ、絶対」


「また隠したら、今度は手袋ごと凍らせるから」


「それ、もう治療じゃないだろ」


「逃げられなくするための処置」


 アレンは、思わず僅かに笑った。

 胸に残っていた不安が、ほんの少しだけ軽くなる。


「何笑ってんだ?」


 前を歩いていたドレイヴが振り返った。


「お前の話じゃない」


「そう言われると余計に怪しいな。俺がいないところで、悪口でも言ってたのか?」


「どうしてそうなるんだよ」


「大体、お前らが二人で話してるときは、俺の悪口だろ」


「そんなことないよ」


 マナが即座に否定した。


「半分くらいは、別の話だから」


「半分は悪口じゃねえか」


 三人の笑い声が岩壁の間へ消えていった。


 そのとき、谷を吹き抜けていた風が、不自然なほどぴたりと止まる。

 先頭を進んでいたリヴァが、右手を鋭く上げた。


「……止まれ」


 低く鋭い声が響き、隊列全体が一斉に足を止める。

 リヴァは風の流れを探るように顔を上げた。次の瞬間、その表情が変わる。


「全員、伏せろ!」


 岩場の両側を赤い光が走り、地面や岩陰へ埋め込まれていた黒い杭が、合図を受けたように次々と輝き始めた。


 隊列の足元に巨大な術式が浮かび上がる。


「罠だ――!」


 ケイムが魔封符(まふうふ)を投げたものの、術式が起動する方が早かった。


 赤黒い光が地面から噴き上がり、夜の谷を染め上げる。直後、轟音と凄まじい衝撃が走り、隊列の前後で岩壁が崩れ落ちた。


 退路は、完全に塞がれていた。


「感知術式を抜けた……? 遺跡と同じ古代術式で、気配ごと隠していたのか!」


 ケイムが歯噛みするように吐き捨てた。


「敵襲!」


「負傷者を中央へ! 盾を上げろ!」


「右の岩棚だ、帝国兵がいる!」


 連邦兵たちが一斉に盾を掲げる。その直後、岩壁の上から矢と魔法が雨のように降り注いだ。


 そのうちの炎弾が担架の近くへ着弾し、激しい土煙を巻き上げる。アレンは迫る襲撃に反応し、片手剣を抜いた。


「ドレイヴ、左をお願い!」


 マナが杖を振り抜く。


「水よ、守って――ヴェレンヴァル!」


 広がった水の盾が、飛来した矢を次々と受け止めた。


「分かった! そっちは任せたぞ!」


 ドレイヴは二人の位置を確かめると、負傷兵を庇うように前へ出る。魔装を纏わせた大剣の腹で炎弾を受け、岩壁側へ弾き流した。その動きには、訓練で身につけた技術が確かに息づいている。


「刻鎖隊、左右に展開しろ!」


 リヴァが双剣を抜き放った。


「光ってる杭を叩き壊せ! 連邦兵は中央を死守――負傷者に一発も通すな!」


 魔装の光を両脚へ集中させたリヴァは、その勢いのまま岩壁を駆け上がり、帝国兵の一人を双剣の柄で打ち倒す。


 さらに近くへ埋め込まれていた黒い杭へ斬撃を叩き込むと、金属が砕け散り、地面を覆っていた術式の一部が掻き消えた。


「同じ杭を全部壊せ!」


 刻鎖隊の兵士たちが各所へ散っていく中、赤黒い術式の下から、別の紫色の紋様がじわりと浮かび上がる。


 その紋様が現れると、アレンの右手が激しく疼いた。


「ぐっ……!」


 アレンの指から力が抜け、片手剣が滑り落ちかける。


「アレン?」


 異変に気づいたマナが振り返った。


「右手が……動かない」


 黒い手袋の隙間から紫色の光が漏れ出していた。銀糸で縫い込まれた抑制術式も、危険を告げるように赤く明滅している。


「ケイム、来て!」


 マナの声に、最後尾にいたケイムがすぐさま駆け寄った。


「その腕は動かすな! 力を抜いて、そのままにしたまえ!」


 魔封符をアレンの手袋へ貼りつけると、紙片に描かれた文字が青く輝く。だが次の瞬間、内側から溢れ出した紫電が、その光ごと一瞬で焼き切った。


「違う……これは、遺跡との共鳴じゃない」


 ケイムの表情から、さっと余裕が消える。


「誰かが外から、刻印そのものに干渉している!」


 岩壁の上で、黒い外套をまとった何者かがゆっくりと立ち上がった。


「ギデオン……!」


 アレンがその名を呼ぶと、ギデオンは眼下の戦場を見渡し、わずかに首を傾ける。


「どうやら、無事に遺跡を出られたようだな」


 その声は、矢と魔法が飛び交う騒音の中でも、不自然なほど鮮明に届いた。


「俺の刻印に、何をした!」


「何も難しいことはしていない。無数に枝分かれする可能性の中から、君の刻印が反応する道へ――流れを少し傾けただけだ」


「何を……言ってる」


 アレンの言葉を遮るように、ギデオンは顔の半分を覆っていた仮面へ手をかける。留め具の外れる小さな音とともに仮面がゆっくりと取り払われ、隠されていた左目が露わになった。


 その周囲には、瞳を模した黒い円環が刻まれている。円環から伸びた細い線は、亀裂のようにも、樹木の枝のようにも見えながら、こめかみから頬へ幾重にも広がっていた。


 見間違えようがない。

 あれは、刻印。


 ギデオンもまた、自分と同じ刻印者だった。


「お前も……刻印を持ってるのか?」


「ああ」


 ギデオンの左目が、淡い銀色の光を帯びる。瞳孔が幾つにも分かれたように揺らめき、それに呼応して刻印の線が脈を打ち始めた。


「これが――因果の刻印(いんがのこくいん)だ」


「因果の……刻印?」


「未来を決める力じゃない。今ここにある無数の可能性から、望む結果へ続く道を見つけ、その流れを僅かに傾ける。……ただ、それだけの力だ」


 ギデオンの左目に浮かぶ銀色の光が、一つ、また一つと重なっていく。


「君たちがアルカナリウムへ派遣される可能性。君の雷鳴が遺跡を目覚めさせる可能性。そして今、君の刻印がこの古代術式へつながる可能性――私は、それらを一本の道へ寄せ集めた」


 岩棚から放たれた矢が、アレンのすぐ脇へ突き刺さった。マナの水壁が二射目を弾く。


「じゃあ、最初から……俺をここへ誘い込んだのか?」


「違う。ここへ来ると決めたのは君だ」


 ギデオンは静かに言葉を継いだ。


「私はただ、その選択が生まれる条件を整えたにすぎない」


 ギデオンの刻印が、ひときわ強い銀光を放つ。


 その明滅と同時に、アレンの右手から紫色の光が漏れ出した。地面を覆う古代術式も脈動を始め、二つの刻印を結ぶように、ギデオンの魔力が術式の線を駆け抜けていく。


「刻印は、それぞれ異なる理へ干渉する。だが、古代術式を道標にすれば――本来は無関係な二つの力を、同じ流れへ導くこともできる」


 ギデオンが左目を見開く。分裂した瞳孔の奥で、無数の未来を思わせる銀色の残光が幾重にも重なり、やがて一つへ収束していった。


「傾けた流れは、もう動き始めている」


 次の瞬間、アレンの刻印が激しく脈打つ。同時に、地面に描かれた紫色の術式が一段と強く輝いた。

 熱した鉄を押しつけられたような痛みが、右腕を一気に駆け抜ける。


「ぐあっ……あああっ!」


 アレンは膝から地面へ崩れ落ち、手袋の縫い目から紫電が噴き出した。


「アレン!」


 マナが水魔法で右腕を包もうとする。


「触るな、マナ!」


 ケイムが彼女の肩を掴んだ直後、アレンの周囲で雷が激しく弾け、二人の体を後方へ押し飛ばした。


「マナ――!」


 アレンは右手を押さえようとしたが、指は開いたまま、まるで自分のものではないように動かなかった。

 雷は腕から肩へ這い上がり、そのまま胸の奥まで食い込んでくる。


 いっそ右腕を切り離してしまいたい。

 そう思わずにはいられないほどの痛みだった。


「術式の中心は、ギデオンの刻印じゃない!」


 ケイムが地面へ杖を突き立てる。


「谷じゅうに埋め込まれた、あの杭だ! ギデオンの力は、術式を起動させているにすぎない!」


「だったら、杭を全部ぶっ壊せば止まるんだな!」


 ドレイヴが叫んだ。


「外からの干渉なら止められる!」


「それだけ分かれば十分だ!」


 ドレイヴは大剣を構え、最も近い黒い杭へ狙いを定める。


「待って、ドレイヴ!」


 マナの声に、ドレイヴは一度だけ振り向いた。


 アレンは地面に崩れたまま動けず、その傍らではマナが必死に起き上がろうとしている。ケイムは二人を庇うように立ち、解除術式を組み上げていた。


「そこを動くな! 杭は――俺が全部壊す!」


 アレンとマナ、その二人を庇うケイムの位置を確かめ、ドレイヴは最も近い杭へ向き直る。


 今、自分が前へ出る。

 それだけを決め、大剣を構えて駆け出した。


 振り下ろされた大剣が黒い杭を叩き砕くと、地面を走っていた紫色の線が一部途切れ、それに合わせてアレンの右腕を焼いていた痛みも僅かに和らぐ。


「効いてる!」


 マナが叫んだ。


「残りは何本だ!」


「少なくとも七本!」


 ケイムが周囲を見回し、すぐに岩壁の上を指す。


「上にもある! 岩棚だ!」


「まとめて全部、ぶっ壊してやる!」


 ドレイヴが次の杭へ駆け出した。その動きを制するように、岩棚の上のギデオンが静かに片手を上げる。


「……予想どおりだ」


 指先へ黒い魔力が凝縮し、細長い杭の形を取った。狙いは地面に倒れたアレンの右肩。


「アレン!」


 異変に気づいたドレイヴは足を止め、反射的に地面を蹴る。


「ドレイヴ、来るな!」


 だが、声が届くより早く、ドレイヴはアレンの前へ飛び込んでいた。

 次の瞬間、黒い魔力の杭がドレイヴの左肩を貫く。


「ぐっ――!」


 激しい衝撃に押し倒されるように、二人の体が地面へ崩れ落ちた。ドレイヴの手を離れた大剣が、乾いた音を立てながら土の上を滑っていく。


「ドレイヴ……?」


 震える声で名を呼んだアレンの目に、ドレイヴの肩口から背へ抜けた黒い杭が映る。

 杭は役目を終えると煙のように崩れ、深い傷だけを残して消滅した。


「おい……ドレイヴ」


 返事はない。


「ドレイヴ! 聞こえるか!」


 アレンはドレイヴの体を抱き起こそうとした。だが右手は動かず、左腕だけではその巨体を支えきれない。


「ドレイヴ、頼む……目を開けろ!」


 必死に呼び続けると、ドレイヴの瞼が僅かに持ち上がった。


「……無事か、アレン」


「俺のことはいい! なんで庇ったんだ!」


「お前が……死んだら、あとが面倒だからな……」


 いつものように笑おうとしたのだろう。だが、その表情はすぐに痛みで歪んだ。


「マナ!」


 アレンが声を張り上げる。


「早く来てくれ! ドレイヴが――!」


「今行く!」


 マナが駆け寄ろうとした瞬間、その進路へ帝国兵の矢が降り注いだ。


「っ……邪魔しないで!」


 咄嗟に展開した水の盾が、迫る矢を辛うじて受け止める。


 杖を振って霧を生み出そうとした。だが、止まっていた風が不意に吹き返し、水滴をたちまち散らしていった。さらに帝国兵の魔法が次々と着弾し、マナは前へ進むことができない。


 その間にも、アレンの腕の中でドレイヴの体から力が抜けていき、傷口から流れる温かな血が、アレンの服へ染み込んでくる。


「ドレイヴ……」


 呼びかけても、返事はない。


「おい、起きろよ」


 右手の刻印がどくりと強く脈打った。


「こんなところで……俺より先に倒れるような奴じゃないだろ」


 返事の代わりに、刻印がもう一度、どくりと脈打つ。

 ドレイヴの傷からこぼれた血が、岩肌へ赤い染みを広げていく。


 その色に、燃え落ちるグリムフォードの町が重なった。


 ギデオンへの怒りも、帝国軍への憎しみも、守れなかった自分への恐怖も、もはや切り分けることができなかった。


 また失う。

 また、自分だけが生き残る。


 その考えが心を覆い尽くした瞬間、刻印を押さえ込んでいた何かが、音もなく切れた。


「アレン、駄目――止めて!」


 マナの声が聞こえた。だが、ひどく遠い。まるで水の底から呼ばれているように、輪郭がぼやけている。


 次の瞬間、右手から紫色の雷が噴き上がる。黒い手袋へ縫い込まれていた銀糸が、一本、また一本と焼き切れ、やがて留め具が砕け、布地まで大きく裂けた。


 露わになった刻印は、もはや手の甲だけに収まってはいない。溢れ出した紫色の光が血管をなぞるように、手首から肩へ駆け上がっていく。


「まずい……反応値が限界を超えてる!」


 ケイムが立て続けに魔封符を投げると、青い拘束術式がアレンの周囲へ幾重にも展開された。だが、紫電が触れた瞬間、それらは次々と焼き尽くされ、灰となって散っていった。


 直後、夜空が轟き、雲間から巨大な雷が落ちる。


 アレンを中心に地面が砕け、凄まじい衝撃が周囲へ広がった。その余波に巻き込まれたドレイヴの体は地面を転がり、マナの近くまで弾き飛ばされる。


 マナが広げた水の膜が、弾き飛ばされたドレイヴの体を受け止めた。


「ドレイヴ!」


 マナはすぐさま彼のそばに膝をつき、傷口を包み込むように治癒術式を展開する。淡い水色の光が、流れ続ける血を押さえるように広がっていった。


「マナ、そこを離れろ――今すぐだ!」


 ケイムが叫んだ直後、第二の雷が地面を這うように駆け抜ける。

 そこに、敵味方の区別はなかった。


 紫電は帝国兵たちの鎧へ絡みつき、何人かを悲鳴とともに岩棚から叩き落とした。連邦兵の盾も次々と弾け飛び、数人が地面へ投げ出される。


 さらに、捕虜をつないでいた鎖にも電流が走り、敵味方の双方から苦痛に満ちた呻き声が上がった。


「障壁を張れ! 少しでも雷を逸らせ!」


「無理です! あれは……障壁で防ぎ切れる威力じゃありません!」


「だったら負傷者を岩陰へ運べ! ここに残すな、急げ!」


 連邦軍の隊列はすでに完全に崩れ、その中心では、アレンを囲むように幾重もの雷が立ち上がっていた。


 地面から空へ、空から地面へと紫電が奔り、枝分かれしながら檻のように絡み合っていく。やがてその周囲には、誰一人として近づくことのできない領域が形作られた。


 ギデオンの傍らにいた帝国兵たちでさえ、予想を超える雷の猛威に怯え、思わず後退していった。


 ケイムはアレンの姿を見据え、もはや杭を壊すだけでは止められないと悟る。

 雷鳴の刻印は、アレン自身の感情を燃料にして暴れ続けていた。


「やめろ、ギデオン!」


 帝国兵の一人が切羽詰まった声を上げる。


「このままでは、我々まで巻き込まれるぞ!」


 だが、ギデオンはその場から動かない。雷の中心に立つアレンを、ただ静かに見つめていた。


「なるほど……これが、雷鳴の刻印(らいめいのこくいん)か」


 左目を囲む因果の刻印(いんがのこくいん)が、アレンの雷に呼応するように銀色の光を明滅させる。


「まだ未完成ではある。だが――黒き扉を開く鍵としては、これで十分だ」


「ギデオン!」


 リヴァは岩棚を一気に駆け上がると、その勢いのまま双剣を振るい、ギデオンへ斬りかかった。

 ギデオンはその一撃を細身の剣で受け止め、衝撃を逃がすように後方へ跳ぶ。


「止め方を知ってるなら、さっさと言え!」


「……止める?」


 ギデオンは、理解できないとでも言うように僅かに首を傾げた。


「ようやく開き始めたものを――なぜ、止める必要がある?」


「てめえ……!」


 リヴァがさらに踏み込もうとした、その瞬間だった。二人の間へ紫色の雷が落ち、岩棚が激しく砕け散る。

 ギデオンは崩れ落ちる岩の向こうへ身を翻した。


「次に会う頃には、扉は今より深く開いている」


「待て――逃がすか!」


 リヴァが追おうとした直後、その進路を塞ぐようにさらなる雷が降り注ぐ。彼女は咄嗟に魔装を全身へ広げ、衝撃を受け流した。


 だが、その僅かな隙に、ギデオンの姿は夜の岩場へ溶けるように消えていた。


「隊長!」


 刻鎖隊の兵士が切迫した声で叫ぶ。


「アレンが……!」


 リヴァが振り返った。


 雷の檻の中心で、アレンがゆっくりと立ち上がっている。顔は伏せたまま、右腕も力なく垂れ下がっていた。だが、その周囲では数えきれない紫電が、生き物のように激しく蠢いている。


「アレン!」


 マナは治癒術式を維持したまま、懸命に呼びかけた。


「聞こえる? ドレイヴは生きてる! ちゃんと、生きてるから!」


 しかし、返事はない。


「アレン、こっちを見て!」


 マナの声は、激しい雷鳴に呑み込まれていった。


     ◇


 アレンは、黒い扉の前に立っている。


 そこは、以前見た白い世界ではない。空も地面もすべてが黒く染まり、足元には浅い水が広がっている。その水面へ、紫色の雷が絶え間なく降り注いでいた。


 目の前にそびえているのは、あの巨大な扉だ。


 無数の鎖に縛られているにもかかわらず、扉の隙間は以前よりも大きく開き、その奥から赤黒い瞳がアレンを見つめている。


「ドレイヴを助けないと」


 声に出したはずだった。だが、耳に届くのは雷鳴ばかりで、自分の声すら聞こえない。

 アレンが一歩踏み出すと、水面に映った自分の姿が揺らぐ。


 そこに顔はない。目も、鼻も、口もなく、ただ右手から全身へ広がった刻印だけが、闇の中で紫色に輝いている。


 ――また、奪われる。


 扉の向こうから、囁きが届いた。


「奪わせない」


 ――弱いから、守れない。


「俺は弱くない」


 ――剣では届かない。


 ――言葉では止まらない。


 ――人は、必ず奪う。


 足元の水面に、グリムフォードを包んだ炎が映し出される。

 崩れた家々。逃げ惑う人々。そして、その背後から迫る骸骨の群れ。


 やがて光景は歪み、アルカナリウムへ続く夜の谷へと変わった。

 黒い杭に肩を貫かれ、血を流すドレイヴ。治癒魔法を使いながら涙を流すマナ。雷の中で膝をつくケイム。


 そして最後に、焼けた両腕を押さえて倒れるリヴァの姿が映る。まだ起きていないはずの光景だ。


「やめろ」


 ――守りたいか。


「当たり前だ」


 ――二度と、失いたくないか。


「失わせない」


 その言葉に応えるように、黒い扉を縛っていた鎖の一つが外れる。


 巨大な金属音が黒い世界を震わせ、開いた隙間から伸びた闇が、アレンの右腕へ絡みついた。

 触れたものは凍えるほど冷たい。それなのに、全身は内側から焼かれているように熱い。


 ――ならば。


 扉の奥で、赤黒い瞳が大きく見開かれる。


 ――守るなら、すべてを壊せ。


 敵を。


 武器を。


 帝国を。


 遺跡を。


 そして、自分を止めようとする者を。


 奪う可能性のあるものを、すべて。


「すべて……」


 アレンが右手を掲げると、黒い空へ無数の雷が集まり始めた。

 これほどの力があれば、誰も近づけない。何も奪われることはなく、敵を一人残らず消し去ることができる。


 そうすれば、仲間を守れる。


「守るために……」


 揺れる水面の中で、顔のない自分が笑ったように見えた。


     ◇


 雷の檻が、さらに広がる。


「全員、下がれ!」


 ケイムが兵士たちへ鋭く叫んだ。


「それ以上近づくな! 魔装ごと焼き切られるぞ!」


「でも、アレンが……!」


 マナはドレイヴの傷口に水魔法を注ぎながら、何度もアレンの名を呼んでいた。


「アレン! お願い、聞こえて!」


「声が届いていない。幻覚に深く取り込まれている!」


 ケイムは水晶球を強く握りしめる。だが、内部の測定線はすでに限界値を振り切り、意味をなさない光の断片となって乱れていた。


「外から呼びかけるだけでは、もう戻せない!」


「じゃあ……どうすればいいの?」


「分からない!」


 ケイムが初めて、はっきりとそう答えた。


「ルミノヴァのときとは規模が違いすぎる。今の彼に近づけば、こちらが先に――」


「近づけばいいんだな」


 リヴァはそう言うと、双剣を握ったまま雷の檻へ向き直る。


「待て、リヴァ!」


「外からじゃ声が届かねえなら、そばまで行って言う」


「魔装でも耐えられない!」


「耐える必要はねえ」


 リヴァは深く息を吸い、雷の中に立つアレンを見据えた。


「あいつに届くところまで――体が動けば、それでいい」


 全身から噴き上がった魔力は、淡い緑色の光となって皮膚と防具を覆い、そのまま二本の剣へと流れ込んでいく。


 それは、普段の魔装とは明らかに異なっていた。薄く均一な膜ではなく、幾重にも重なった魔力が風の層となり、体の周囲を絶えず回転している。


「そんな無茶な使い方をしたら、体がもたない!」


 ケイムが叫んだ。


「あとで治せばいい!」


「治せない傷だってある!」


「だったら――傷が残るだけだ!」


 リヴァは地面を強く蹴り、そのまま雷の檻へ踏み込んだ。


 直後、最初の紫電が全身を覆う魔装へ衝突し、風の膜が一枚、光の粒となって剥がれ落ちる。さらに二本、三本と雷が襲いかかり、そのたびに幾重もの魔装が削られていった。


「リヴァ!」


 マナの声が響く。


「もういい、戻って!」


「アレンに戻れって言ってからだ!」


 リヴァは双剣を交差させ、正面から迫る雷を受け止めた。刃にまとわせた風が紫電を左右へ逸らしていく。だが、すべてを防ぎ切れず、その一部が右腕へ流れ込んだ。


「ぐっ……まだだ!」


 軍服の袖が焼け、裂けた皮膚から焦げた匂いが立ち上る。握った剣も激しく震えたが、それでもリヴァは手放さなかった。


 一歩、さらに一歩と雷の中心へ近づくにつれ、その威力は増していった。やがて足へ集中させていた魔装が弾け、耐えきれなくなった膝が地面へ落ちる。


「隊長!」


 部下たちが駆け出そうとした。


「来るな!」


 リヴァは怒鳴り、双剣の一本を杖代わりにして立ち上がる。


「お前らじゃ、ここまで辿り着けねえ!」


「でも、隊長だって――」


「あたしが止めなきゃ、他に誰が止めるんだ!」


 再び雷が落ち、左肩を覆っていた防具が砕け散った。赤く焼けた金属片が地面へ転がり、露わになった左腕からも血が流れ始める。


 それでも、リヴァは歩みを止めない。

 命令でも、部隊長としての義務でもなかった。


 雷の向こうにいるのは、置き去りにできない仲間。


「アレン!」


 雷鳴の中で名を呼んだが、返事はない。


 アレンは俯いたまま、右手を天へ向けている。その上空では、谷全体を覆い尽くすほど巨大な雷が集まりつつあった。

 もし落ちれば、帝国兵も連邦兵も、マナもドレイヴもケイムも、この場にいる者すべてが巻き込まれる。


 そして、それはアレン自身も例外ではない。


「守るんじゃなかったのか!」


 リヴァは声の限りに叫んだ。だが、激しい雷鳴にかき消される。


「仲間を傷つけるのが……怖かったんだろ!」


 さらに一歩踏み込んだ瞬間、正面を覆っていた魔装の最後の層が剥がれ落ちた。


 剥き出しになった両腕へ紫電が絡みつき、皮膚を焼きながら指先の感覚を奪っていく。それでも、双剣を握る力だけは決して緩めなかった。


「だったら――目を開けろ、アレン!」


 リヴァは二本の剣を振り上げ、そのままアレンを包む雷へ真正面から斬り込んだ。


 双剣の刃が紫電へ食い込んだ瞬間、風の魔力と雷が激しく衝突し、夜の谷を白く染め上げる。リヴァは焼けた両腕へさらに力を込め、荒れ狂う雷の流れを左右へ押し開いていった。


「刻印に使われてるんじゃねぇ! その力を止められるのは――お前だろ、アレン!」


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