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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第一章『雷鳴の刻印』

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第12話『神の封印』


 ――鍵が、戻った。


 声が途切れたあとも、その言葉だけはアレンの頭の奥に残り続けていた。


 巨大な扉の向こうには、光さえ届かない深い闇が広がっている。遺跡の内部から流れ出す冷気が、地面に積もった砂塵を外へ押し流していた。


 長い間閉ざされていたはずだが、黴や腐敗の匂いはしない。代わりに漂ってきたのは、雷が落ちた直後を思わせる乾いた金属の匂い。


 扉が開くまでに、入口の障壁内にいた帝国兵たちは、リヴァたちの手によってすでに制圧されていた。


「アレン。……動けるか?」


 アレンは黒い手袋の下で右手を握りしめた。


「ああ。刻印は熱い。でも、体は動く」


「さっき、頭に響いた声は?」


「もう聞こえない。今は、何も」


 振り返ると、マナとドレイヴがすぐ後ろに立っていた。

 ケイムは小型の水晶球へ目を落としている。球体の内側では、紫色の光が激しく明滅していた。


「反応値は、かなり高い。けど――アレン自身の魔力が増えてるわけじゃないね」


 ケイムは水晶球を覗き込んだまま、わずかに目を細める。


「彼が遺跡に反応してる、というより……遺跡の方が、彼に波長を合わせてる。そう見える」


「それって……安心していい話なの?」


 マナの問いに、ケイムは小さく息をついた。


「残念だけど、安心できる要素は一つもないねぇ」


 水晶球から顔を上げ、開かれた扉の奥に広がる闇を見据えた。


「とはいえ、ここで立ち止まっていても……答えは出ない」


 リヴァは黙って双剣を抜いた。


「刻鎖隊(こくさたい)から四人、連邦歩兵から六人。研究員は一人だけついてこい。残りは入口を固めろ」


「帝国兵が、中へ逃げ込んでいる可能性は?」


 部下の一人が尋ねる。


「高い。通路が狭けりゃ、こっちの数は当てにならねえ」


 リヴァは扉の奥を見据えたまま続けた。


「壁ばかり見るな。足元も、天井もだ。何が来ても動けるようにしとけ」


「了解」


 選ばれた兵士たちが武器を構え、隊列を整える。


 先頭に立つのはリヴァ。その後ろへアレン、マナ、ドレイヴが続く。ケイムと研究員を中央に置き、刻鎖隊と連邦歩兵の兵士たちが前後と左右を固めた。


「離れるなよ」


 そう告げると、リヴァは闇の中へ一歩踏み込む。


「帝国兵だけじゃねえ。遺跡そのものが敵だと思え」


 その言葉を合図に、一行は警戒を崩さないまま、アルカナリウムの内部へ足を踏み入れた。


     ◇


 扉の向こうには、地下へ続く緩やかな階段が延びていた。


 壁は灰色の石で造られていたが、その継ぎ目には黒い金属の線が張り巡らされ、血管のように通路の奥へ伸びている。


 兵士の一人が携帯用の魔法灯(まほうとう)を掲げると、青白い光が通路を照らし出した。その瞬間、壁を走る金属線が呼応するように淡い紫色の輝きを帯びる。


「……灯りに反応したの?」


 マナが足を止めた。


「いや、違うね」


 ケイムは壁に触れないよう、わずかに顔を近づける。


「魔法灯じゃない。感知しているのは――私たちの魔力だ」


 黒い線を走る光は、隊列が進むのに合わせ、奥へ奥へと流れていく。

 まるで侵入者の存在を遺跡全体へ知らせているかのようだった。


「ずいぶん手厚い歓迎だな」


 ドレイヴは大剣の柄に手をかける。


「……罠のある場所まで、わざわざ案内してくれてるようにも見えるが」


「どっちでも同じだ」


 リヴァは足を止めることなく答えた。


「気を抜くな」


 階段を下りるにつれ、外の音は次第に遠ざかっていく。聞こえるのは、兵士たちの足音と鎧の擦れる音、それに押し殺した呼吸だけ。


 やがて、通路の両側に巨大な石像が姿を現した。


 どれも人の形をしていたが、頭部や腕を失っており、完全な姿で残るものは一つもない。その胸には円形の窪みがあり、周囲にはアレンの右手に刻まれたものとよく似た複雑な紋様が彫り込まれている。


「これは、刻印……?」


 アレンは思わず立ち止まった。


 一つ目の像には、炎を思わせる紋様。

 二つ目には、水の流れ。

 三つ目には、枝分かれした雷。


 その先にも、異なる印を持つ像が並んでいた。


 奇妙なのは、その壊れ方だった。


 長い年月によって崩れたのではない。

 顔だけが、意図的に削り取られている。


「全部で何体ある?」


 ケイムが研究員へ尋ねた。


「こちら側に十六体です。通路の反対側を合わせると……」


 研究員は魔法灯を奥へ向ける。


「三十三体」


 その声は、わずかに震えていた。


 アレンは雷の紋様を持つ石像へ目をやった。右腕は失われ、顔の中央も深く抉られている。

 似ているはずなどなかった。顔は残っておらず、体格も身につけている衣服も、自分とはまるで違う。


 それにもかかわらず、その像こそが自分の行き着く先であるような感覚が、胸の奥からじわりと湧き上がってくる。


「……何か、感じたのか?」


 リヴァの声に、アレンは我に返った。


「分からない。ただ……」


 石像から目を逸らし、言葉を探すように息をつく。


「いつか俺も、ああなるんじゃないかって……そう思った」


「石になるってことか?」


 ドレイヴが冗談めかして言う。

 だが、その声にはいつもの軽さがなかった。


「……顔がなくなる方だ」


 誰も、すぐには言葉を返せない。

 やり取りを黙って見ていたリヴァは、もう一度だけ石像を見た。


「行くぞ。……ここに長居するのは、良くねえ」


 一行は三十三体の石像の間を抜け、さらに奥へ進んだ。


     ◇


 通路の先には、円形の広間が広がっていた。


 天井は魔法灯の光さえ届かないほど高く、暗闇の中では幾つもの石盤が音もなく浮かび、ゆっくりと位置を変えている。


 床には、外の扉と同じ配置で三十三の紋章が円環状に刻まれており、その中央には黒い石で造られた台座が置かれていた。


「止まれ」


 リヴァが片腕を上げる。合図を受け、一行はその場で足を止めた。


 台座の手前には、淡い白色を帯びた半透明の膜が展開されている。

 外の扉を守っていた障壁とは異なり、その表面には紫色の文字が絶え間なく流れ続けていた。


「……帝国の術式か?」


 ドレイヴが障壁を睨んだまま尋ねる。


「いや。似てはいるけど……これは、少し性質が違うね」


 ケイムは魔封符(まふうふ)を一枚取り出すと、障壁へ向けて放った。


 紙片は表面に触れた瞬間、音もなく消滅する。燃えたわけでも、砕けたわけでもない。まるで最初から存在していなかったかのように、跡形もなく消えていた。


「触れたものを壊してるわけじゃない。術式そのものを――構造ごと、きれいに分解してるらしいね」


「……解除できるの?」


 マナが白い膜を見つめたまま尋ねる。


「さて。そこまで素直に応じてくれるかどうか」


 ケイムは杖を取り出し、わずかに口元を緩めた。


「まずは、この遺跡がどこまで私の相手をしてくれるか……試してみよう」


 杖先から解析術式が展開され、幾つもの円環が宙に浮かぶ。


 円環はゆっくりと白い膜へ触れていった。だが、接触した端から形を崩し、吸い込まれるように次々と消えていく。


「……なるほど。接続することすら、許さないか」


 解析術式まで消えたのを確認すると、リヴァは双剣の片方へ魔装(まそう)を集中させた。


「術式だけを消すのか、それとも物質にも作用するのか。試してみる」


「おっと。……それは、少し待ってくれたまえ」


「斬れるか、試すだけだ」


「試すのは構わないけどね。下手をすれば、その剣ごときれいに消えるよ」


「そのときは、お前が弁償しろ」


「それは困ったねぇ。見たところ、君の剣は安く済みそうにない」


 リヴァはケイムの言葉を聞き流し、慎重に剣先を障壁へ近づける。


 すると、触れる寸前にもかかわらず、刃を覆っていた魔装が端から剥がれ始め、紫色の文字が剣へ絡みつくように集まってきた。


 リヴァは即座に腕を引いたが、剣先の表面にはすでにわずかな欠けが生じている。


「強引に破るのは無理だな」


 そのとき、アレンの右手が不意に熱を帯びた。


 呼応するように、障壁の表面を流れていた文字の一部が動きを止め、白い膜の中央には雷を思わせる紋章がゆっくりと浮かび上がる。


「また反応してる」


 マナがアレンの手袋を見る。

 ケイムは水晶球を取り出した。


「外の扉とは比べものにならないくらい、強く反応してるね。……でも今のところ、暴走に繋がりそうな兆候は見当たらない」


「なら、近づいてみる」


「焦るな。一歩ずつだ」


 リヴァがアレンの隣へ並ぶ。


「何か聞こえたら――どんな声でも、すぐに言え」


「ああ。分かった」


 アレンが障壁へ近づくにつれ、右手の熱は少しずつ強まっていく。


 しかし、外で扉を開いたときのように腕を引かれる感覚はない。むしろ今度は、障壁の方が彼のために道を空けようとしているようだった。


 あと一歩。


 その瞬間、白い膜が縦に割れ、アレンの前にだけ細い隙間が生まれた。


「開いた……」


 アレンは足を止め、目の前に開いた裂け目の向こうを見る。

 その先には、黒い台座が静かに佇んでいた。


「……俺だけなら、通れるみたいだ」


「待て」


 リヴァが腕を伸ばした瞬間、その接近を拒むように、障壁の表面を流れる文字が激しく輝く。

 即座に舌打ちし、腕を引いて後ろへ下がった。


「本当に、お前以外は通す気がねえらしいな」


「それでも……行かせるの?」


 マナがケイムを見る。

 ケイムはすぐには答えず、水晶球と障壁、そして中央の台座を順に確かめた。


「少なくとも、水晶球の範囲では、台座の周囲に人間の反応はないね」


「遺跡の罠は、人の気配なんざ出さねえぞ」


 リヴァの言葉に、ケイムは小さく頷く。


「もちろん、それくらいは承知しているよ。ただ……ここで尻尾を巻いて帰れば、帝国が何を探していたのかは永遠に分からない」


 開かれた障壁の先へ目をやった。


「せっかく向こうから道を開けてくれたんだ。中を覗かずに帰るのは、少し惜しいだろう?」


「俺たちが決めることじゃねえ」


 リヴァはアレンを見る。


「アレンに決めさせろ」


 リヴァの視線を受け、アレンは障壁の向こうを見つめた。

 怖くないわけではない。何が待っているのか分からず、あの声が再び聞こえてくる可能性もある。


 それでも、ここへ来ると決めたのは、ほかでもない自分自身だった。


「……行く」


「アレン……」


「大丈夫だ。少しでもおかしいと思ったら、すぐ戻る」


 マナは何か言いかけて唇を結び、やがて小さく頷いた。


「……絶対だよ」


「ああ。約束する」


 アレンは右手を片手剣の柄にかけ、左手の盾を確かめてから、障壁の隙間へ足を踏み入れた。


 白い膜が体の表面をすり抜けていく。痛みはなかったが、まるで冷たい水の中へ沈んだような感覚が全身を包む。


 そのままもう一歩進み、完全に内側へ入った直後、背後で障壁が閉じた。


「アレン!」


 マナが駆け寄ったが、白い膜に阻まれる。


「声は聞こえてる」


 アレンは振り返り、障壁の向こうにいる仲間たちを見た。


「大丈夫だ。ちゃんと届いてる」


 姿も声も、すぐ近くにある。それなのに、自分だけが仲間たちのいる世界から切り離されてしまったように感じられた。


「悪いけど、その台座を少し調べてもらえるかい?」


 ケイムが障壁越しに声を張る。


「ただし、いきなり触るのはなしだ。まず周りをよく見て、妙な仕掛けがないか確かめてくれたまえ」


 アレンは頷くと、警戒しながら広間の中央へ向かった。


     ◇


 黒い台座の上には、壊れた石板や半分だけ残った金属の輪、指ほどの長さしかない黒い結晶片など、幾つもの遺物の断片が置かれていた。


 台座の脇には、それらとは明らかに造りの異なる薄い金属板が一枚、伏せるように設置されている。


 遺物の断片はいずれも厚い埃に覆われていた。だが、中央の円盤と薄い金属板には、ほとんど埃が積もっていない。


「……帝国軍が調べた跡だ」


 アレンは台座から目を離さずに言った。


「中央の円盤だけ埃が拭われてる。それと、脇に遺跡のものじゃない金属板がある」


「触るな」


 リヴァが間を置かずに命じた。


「まず周りを調べろ。持ち去られたものがないか、それと――ほかに入口がないかもだ」


 アレンは台座の周囲をゆっくりと歩く。


 黒い床には、帝国兵の軍靴(ぐんか)や研究員らしき細い靴など、複数の足跡が残されていた。その中に一つだけ、他とは異なる跡がある。


 踵に鋭い金属を取りつけた軍靴の足跡だ。それは台座の前で一度止まり、そこから障壁とは反対側の壁へ向かって続いていた。


「……奥に、通路がある」


 障壁の外で兵士が魔法灯を高く掲げると、青白い光の先に、広間の端を裂くような細い入口が浮かび上がる。


「帝国兵は、別の道から中へ入ってたのか?」


「その可能性はあるね」


 通路は数歩先で折れ曲がり、その奥までは魔法灯の光も届かない。


「アレン、台座を調べている間も、そっちから目を離すな」


 リヴァはそう命じると、障壁の外にいる兵士たちにも通路を警戒させた。

 ケイムは水晶球へ目を落としながら続ける。


「ただ、帝国側ではその台座を起動できなかった。だからこそ――雷鳴の刻印を持つ君が必要だったのかもしれない」


 その言葉が落ちた直後、台座の円盤が脈打つように光を放つ。

 アレンはまだ触れていない。それにもかかわらず、紫色の光は右手の刻印と同じ間隔で明滅している。


 ゴォン――。


 広間の奥で低い音が響くと、浮遊していた石盤が一斉に動きを止めた。続いて天井から細い光が降り注ぎ、黒い台座へと集まっていく。


「アレン、離れろ!」


 リヴァの叫びに応じて、アレンはすぐさま後退する。


 しかし、光は彼を追うことなく、台座の上で幾つもの文字へと分かれていった。やがてそれらは空中で結びつき、巨大な円を形作る。


 円の中には三十三の紋章が並び、その一つには雷を思わせる意匠が刻まれている。

 それを目にした瞬間、右手の刻印が強く熱を帯びた。


 同時に、広間の景色が跡形もなく消え去る。


     ◇


 そこは、白い世界だった。


 地面も空も存在せず、果ての見えない虚無の中に、アレンだけが立っている。


「また……ここか」


 グリムフォードで意識を失ったときに見た、あの世界と同じだった。


 ただ一つ違うのは、すぐ目の前に巨大な黒い扉が立っていることだ。城門どころか、天を支える柱さえ凌ぐほど大きく、その表面には無数の鎖が幾重にも巻きついている。さらに、その隙間からは赤黒い光が不気味に漏れ出していた。


 扉の向こうで、何かが呼吸している。


 一度目の呼吸とともに、白い世界が震えた。

 二度目には鎖が軋み、耳障りな金属音を響かせる。


 そして三度目――右手の刻印に、焼けた針を突き刺されたような激痛が走った。


「っ……!」


 アレンは右腕を押さえたまま、膝をつく。

 その直後、扉の中央に細い隙間が生まれ、奥の闇で何かが動いた。


 現れたのは巨大な瞳。瞼のない赤黒い目が、まっすぐにアレンだけを見つめている。


 ――戻った。


 声が、頭の内側へ流れ込んできた。


 ――ひとつ。


 扉を封じる鎖の一本が、低い音を立てながら震える。


 ――目覚めた。


 続いて黒い扉の周囲に三十三の紋章が浮かび上がり、そのうち一つだけが紫色の雷をまとって輝いていた。


 残る紋章は暗いままだったが、幾つかには消えかけた火が宿っているようにも見える。


 ――残りも、やがて。


「何が封じられている?」


 アレンが問いかけると、巨大な瞳がわずかに細められた。

 笑ったのだと、そう感じた。


 次の瞬間、白い世界に無数の人影が現れる。年齢も性別も異なる者たちで、その体にはそれぞれ違う紋章が刻まれていた。


 初め彼らは皆、人間だった。互いに言葉を交わし、笑い合い、武器を掲げていた。


 しかし、刻印が輝くたび、その姿は少しずつ変わっていく。


 肌には亀裂が走り、指は異様なほど長く伸び、瞳からは色が失われていった。口は何かを訴えるように動いているのに、そこから言葉が発せられることはない。


 やがて彼らは、隣にいた者へ襲いかかる。

 剣で、爪で、そして自らへ与えられた力で。


「やめろ……」


 アレンは目を逸らそうとしたが、なぜか視線を外すことができなかった。


 一人の刻印者が、仲間らしき女性の首へ手を伸ばす。その右手には雷の紋様が刻まれており、指先から溢れた紫電が、女性の体を容赦なく焼いていく。


「やめろ!」


 アレンが叫んだ瞬間、刻印者の顔が歪み、アレンとまったく同じ顔へ変わった。


 雷を浴びていた女性も、いつの間にかマナの姿へ変わっている。その傍らではドレイヴが地面に倒れ、リヴァの双剣は折れ、ケイムは血を流しながら何かを叫んでいた。


 しかし、その声はアレンのもとまで届かない。

 すべてが、轟く雷鳴に呑み込まれていた。


「違う……俺は……!」


 右手が意思に反して持ち上がり、指先へ雷が集まっていく。


 止めようとしても腕は動かず、ただ刻印だけが脈打っていた。その鼓動は、人間だった部分を内側から少しずつ食い尽くしていくようだった。


 ――器は、鍵となる。


 声が聞こえる。


 ――鍵は、名を失う。


「俺はアレンだ」


 ――名を失えば、封は崩れる。


「俺はアレン・ライオネットだ!」


 アレンは力の限り叫んだ。

 その声に呼応するように右手の刻印が強く輝き、次の瞬間、白い世界へ無数の亀裂が走る。


 黒い扉も、巨大な瞳も、変わり果てた刻印者たちも、すべてがひび割れ、そのまま光の破片となって消えていった。


     ◇


「アレン!」


 マナの声に引き戻されるように、アレンの意識が現実へ戻った。


 気づけば、黒い台座の前で片膝をついている。右手は激しく震え、額からは汗が流れ落ちていた。息を吸うたび、胸の奥に鈍い痛みが走る。


「アレン! 意識はあるか!」


 障壁の向こうから、リヴァの声が飛ぶ。


「ああ……ある」


「何を見た?」


「黒い扉と……目だ」


 アレンの声が掠れた。


「前に見たのと、同じだった」


 ケイムは水晶球を確かめながら、早口で数値を書き留めている。


「ほかには?」


「刻印者たちが……少しずつ、人間じゃなくなっていった。最後には、仲間を……」


 その先は、どうしても言葉にならなかった。

 アレンは障壁へ近づいてくるマナを、黙ったまま見つめる。


「それは、未来じゃないよ」


「……分からない」


「未来じゃない」


 今度は迷わず、はっきりと言った。


「遺跡に残された記録かもしれない。誰かが見せた幻かもしれない。アレンの未来だって決まったわけじゃないよ」


「……ああ」


 そう答えながらも、脳裏に焼きついた光景は消えない。

 自分と同じ顔をした何か。名前を失い、仲間へ雷を向ける怪物。


 もし、それが刻印者の行き着く先なのだとしたら、自分もいつか同じものになってしまうのかもしれない。


「アレン」


 リヴァの低い声が届く。


「何を見せられたとしても、お前がまだ自分で道を選べるなら、それは未来じゃねえ」


 恐怖が消えたわけではなかったが、その言葉のおかげで、アレンはどうにか呼吸を取り戻すことができた。


 ゆっくりと立ち上がり、顔を上げる。空中には、三十三の紋章と古代文字がなお浮かんだままだった。


「この記録……読めるか?」


 リヴァがケイムへ尋ねる。


「全部となると、難しいね。古代文字の中でも、かなり古い形式だ。……まあ、ところどころなら拾えそうだけど」


 ケイムは障壁の向こうに浮かぶ文字を見上げた。

 だが、白い膜を通すと文字の輪郭が歪み、表面を流れる紫色の術式と重なって、細部までは判別できない。


「アレン、悪いけど、左端から見えている記号を順番に教えてくれるかい?」


「教えろって……俺には読めないぞ」


「読めなくて構わないよ。形だけ伝えてくれればいい」


 ケイムは文字を目で追いながら、わずかに笑う。


「あとは私が、勝手に頭を悩ませるからね」


 アレンは空中に浮かぶ文字へ目を凝らした。


 三角形や円、二重に重なった線、人の姿にも似た記号。見えた形を一つずつ説明すると、ケイムはそのたびに紙へ素早く書き写していく。


 傍らでは、研究員も古代文字の辞典を開き、記された断片と照合を進めていた。


「冒頭は……“授けられた”じゃないね」


 ケイムは書き写した文字を指先でなぞりながら、低く呟いた。


「ここに、否定を示す文字が入っている。直訳するなら……“祝福にあらず”。そんなところかな」


「刻印は、神から与えられた祝福じゃない……ってこと?」


 マナが確かめるように尋ねる。


「少なくとも、これを残した者はそう考えていたらしいね。……もっとも、記録した側が正しいとは限らないけど」


 ケイムは紙から顔を上げ、続く文字へ目を移した。


「その先は欠けてるな。“三十三”……“鍵”……それから、“封じる”か、“封印”を示す文字」


「三十三の鍵で、何かを封じたのか?」


 ドレイヴが眉を寄せる。


「……逆かもしれねえ」


 リヴァが文字を見据えたまま答えた。


「鍵を使って、封印を開ける――そうも読める」


「残念だけど、今ある断片だけじゃ……どちらとも言えないね」


 ケイムの口元から笑みが消え、その表情がわずかに険しくなる。


「鍵というものは便利でね。閉じ込めるためにも使えるし……閉じ込めていたものを、外へ出すためにも使える」


 アレンは空中に浮かぶ雷の紋章を見つめた。


「俺の刻印が目覚めたから……この遺跡も動き出したのか」


「ああ。少なくとも、その可能性は高いね」


 ケイムは静かに答える。


「この記録装置も、君がここへ来るまでは……ずっと眠ったままだったらしい」


「じゃあ、グリムフォードで刻印が現れた、あのときから……」


「何かが動き始めた。そう考えるのが、いちばん自然かな」


 ケイムの答えは推測にすぎない。それでも、アレンには否定の言葉より重く感じられた。


 魔物の襲撃、刻印の覚醒、帝国の侵攻、そしてアルカナリウムの共鳴。

 偶然で片づけるには、あまりにも多くの出来事が重なっている。


 解読が続く間も、アレンは何度も細い通路へ目を走らせていた。

 その暗闇の中に、不意に人影が浮かび上がる。


「……その記録は、実に価値がある」


 アレンは即座に片手剣を抜き放った。

 通路の入口に、一人の男が立っている。


 黒い外套をまとい、体の片側にだけ軽量の金属鎧を装着していた。顔の半分は無機質な仮面に覆われ、腰には細身の剣を差している。


 右手に持つ小型の観測具の中では、透明な結晶が紫色の光を静かに明滅させていた。

 その姿を目にした瞬間、理由の分からない寒気がアレンの背中を駆け抜ける。


「帝国兵か!」


 障壁の外で、リヴァが双剣を構えた。


「名乗れ!」


 男はリヴァを一瞥しただけで、すぐにアレンへ目を戻す。


「帝国特務騎士、ギデオン」


 声には、わずかな動揺もない。


「もっとも――今の君に、名を覚えてもらう必要はない」


「ここで何をしていた?」


 アレンは剣先をギデオンへ向けた。


「待っていた」


「……何をだ?」


「記録が目覚める、その瞬間を」


 ギデオンは観測具を腰へ戻すと、台座へ向かって歩き始める。


「止まれ!」


 だが、ギデオンは警告も向けられた刃も意に介さなかった。何事もないように、ゆっくりと距離を詰めてくる。


「我らは、この遺跡の外層をすでに調べ尽くしている。別の通路から、この広間へ入ることもできた」


「なら、どうして記録を持ち出さなかった?」


「眠っていたからだ」


 ギデオンの目が、空中に浮かぶ三十三の紋章へ向けられる。


「記録も遺物も、鍵が戻らない限り目を覚まさない」


 その言葉に応じるように、アレンの右手が強く疼いた。


「俺がここへ来ることを……最初から知ってたのか?」


「知っていたわけではない」


 仮面の奥で、ギデオンの目がわずかに細められた。


「鍵が戻った以上、連邦がこの異変を放置しないと読んだだけだ」


「共鳴波も、お前たちが起こしたのか?」


「任務の内容を、君へ説明する必要はない」


「監視所の人間を消したのも……お前たちか?」


 ギデオンは答えなかった。

 その沈黙だけで、アレンには十分だった。


 監視所で消えた者たちも、彼にとっては作戦を進めるための駒でしかなかったのだろう。

 そう思った瞬間、アレンの胸の奥で怒りが一気に燃え上がる。


「……ふざけるな!」


 アレンが怒りに任せて片手剣を振り下ろした。


 だが、ギデオンは腰の剣を素早く抜き、片手だけでその一撃を受け止める。

 鋭い金属音が、円形の広間へ高く響き渡った。


「感情のまま踏み込めば――剣筋など、簡単に読まれる」


 ギデオンは刃を滑らせ、アレンの一撃を外側へ受け流す。

 体勢を崩したアレンは咄嗟に盾を上げた。だが、ギデオンは追撃せず、黒い台座へ左手を伸ばした。


 すると円盤の中央が開き、その内部から細長い黒色の結晶がゆっくりとせり上がる。同時に傍らに設置されていた薄い金属板へ、空中に浮かんでいた古代文字が次々と焼きつけられていった。


「最初から、それが目的だったのか!」


 アレンが再び斬りかかる。

 ギデオンはその一撃を剣で受け止めると、空いた手を伸ばし、黒い結晶を掴み取った。


 続けて、記録を複製した金属板も素早く回収し、そのまま外套の内側へしまい込む。


「これで、必要なものは揃った」


「……逃がすか!」


 アレンは左手の盾を床へ投げ捨て、空いた手へ魔力を集めた。威力を抑えた通常の雷魔法を練り上げる。


 狙うのは、ギデオンの足だけ。


「走れ、雷(いかづち)――ブリッツフンケ!」


 青白い雷が放たれると、ギデオンはそれを正面から受けようとはせず、足元へ小さな魔力板を落とした。


 すると電撃は空中でわずかに軌道を変え、そのまま魔力板へ吸い込まれていく。吸収しきれなかった紫電だけが、床の上へ激しく散った。


「怒りに任せて踏み込んだ割には、魔法の威力は抑えたか。少しは力の使い方を覚えたらしい」


 ギデオンは、わずかに口元を緩める。


「だが――まだ足りない」


「お前は……何を知ってる!」


「知りたければ、生き残れ」


 ギデオンが左手の指を鳴らした。

 その音に呼応するように、広間の奥に刻まれていた術式が赤い光を放ち始める。


「アレン、下がれ!」


 ケイムの叫びと同時に、床が大きく揺れた。


 ギデオンが通路の奥へ退いた直後、アレンとの間にある天井が崩れ始める。石と金属の塊が次々と落下し、追跡するための道を塞いでいった。


 アレンはすぐに追おうとした。だが、傍らの台座から黒い光が噴き上がり、呼応するように右手の刻印が激しく反応する。


「ぐっ……!」


 腕に鋭い痛みが走り、アレンはその場から一歩も動けなくなった。

 その間にも、ギデオンは一度も振り返ることなく、崩れ落ちる通路の向こうへ姿を消していく。


「待て!」


 落石の音に混じり、ギデオンの声が届いた。


「次に扉が動くとき、君は今より多くを失う」


 最後の石が落下すると、通路は完全に塞がれ、その向こうにいたギデオンの姿も見えなくなった。


「アレン!」


 マナの声が響く。

 同時に、広間を隔てていた白い障壁が大きく揺らいだ。


 表面を流れていた紫色の文字が一つずつ消え、白い膜は無数の光の粒となって崩れていく。


「アレン!」


 障壁が消えると同時に、マナとリヴァたちが広間へ駆け込んできた。


「怪我は?」


 真っ先に駆け寄ったマナが尋ねる。


「ない。大丈夫だ」


「刻印の方はどうだ?」


 リヴァはアレンの右手へ目を向けた。

 アレンは痛む右手を握り込み、確かめるように指を動かす。


「……痛みはある。でも、まだ動く」


 リヴァは塞がれた通路へ鋭い目を向け、短く舌打ちした。

 刻鎖隊の兵士たちが瓦礫を調べる。


「隊長、完全に塞がれています。向こう側も、まだ崩落が続いています」


「回り込める道は?」


「今のところ、見つかっていません」


 リヴァが双剣を鞘へ戻す一方で、ケイムは黒い台座へ歩み寄った。

 円盤の中央には、先ほどまで結晶が収められていた細長い穴だけが残されている。


「それで――ギデオンは、何を持ち出したんだい?」


「黒い結晶と、記録を写した金属板だ」


「ほかには? 何か、気になることを言ってなかったかな」


 アレンはわずかに間を置いた。


「……“必要なものは揃った”って」


 その言葉を聞いた瞬間、台座を調べていたケイムの手が止まる。


 やがて彼は、何かを確かめるように台座の周囲へ目を巡らせた。埃を拭われた円盤、台座の前に残る帝国兵の足跡、別の通路へ続く軍靴の跡、そしてアレンが来るまで開かなかった保管部。


 それらを一つずつ見比べながら、ケイムは黙って考えを巡らせる。


「……帝国は、ここを占拠したかったわけじゃない」


 やがて、低い声でそう呟いた。

 リヴァが訝しげに彼を見る。


「……どういう意味だ?」


「本気で遺跡を占拠するつもりなら、目的物を手に入れた途端にここを捨てて撤退するはずがない。それに、外に配置されていた兵も……防衛戦力と呼ぶには、あまりに少なすぎる」


 ケイムは顔を上げ、空中に残る三十三の紋章を見た。


「彼らには、記録装置を起動することも、遺物を取り出すこともできなかった。おそらく、そのために共鳴波を起こし、監視所を襲い――こちらが無視できないだけの異変を作った」


 そこで言葉を切り、ケイムはわずかに目を細める。


「遺跡を奪ったんじゃない。ここを開けられる者を、呼び寄せたんだよ」


 アレンの胸の奥へ、冷たい予感がじわりと広がる。


「……俺たちが来るように?」


「違う」


 ケイムはアレンへ目を向けた。

 いつもの薄い笑みは、もう消えている。


「君が来るようにだ」


 黒い台座の奥で、失われた結晶の形をなぞるように、紫色の光が瞬いていた。


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