九話「一方的なライバル宣言と、奈央の眉間のしわ」
第九話「一方的なライバル宣言と、奈央の眉間のしわ」
────────────────────────────────────────
黒木剛が奈央に別れを切り出されてから、二週間が経った。
奈央はいつも通りだった。
毎日一緒に帰り、部活で練習し、電車の中で本を読んでときどき目を赤くした。黒木の話を自分からすることはなく、聞かれても「もう終わったから」と切り上げた。傷ついているかどうかも、外からではわからなかった。少なくとも表面上は、何も変わっていなかった。
黒木は、変わっていた。
最初に気づいたのは、奈央だった。
「最近、黒木くんがうちの帰り道の近くにいることが多い」
「……ほんとに?」
「うん。偶然かと思ってたけど、多すぎる」
偶然にしては多すぎる、というのは、もはや偶然ではないということだ。
僕はそれを聞いて、少し考えた。
考えた末の結論は、あまりよくないものだった。
「それ、良くないと思う」
「だよね」
「先生とかに相談した方が」
「まだそこまでじゃないかな。でも、なんか怖い」
奈央が「怖い」と言った。
その言葉は、僕の中で予想外に大きく響いた。
奈央はあまり弱音を言わない。寝ているおじさんをそのままにして「かわいそう」と言う人間が、怖いと言っている。それがどれだけのことかは、五か月間奈央を見てきた僕にはわかった。
「送っていこうか、帰り」
言ってから、でかすぎることを言った気がした。
奈央が少し驚いた顔をして、それから笑った。
「池田から箕面、方向逆じゃん」
「まあ」
「いいよ。ありがとう。でも大丈夫」
「大丈夫って陰キャの口癖だって、のんが」
「あたしは陰キャじゃない」
「でも今は大丈夫じゃなさそうに見えるよ」
奈央が、少しだけ黙った。
珍しかった。奈央が言葉に詰まるのは、滅多にない。
「……今日は、のんとあやのも一緒に帰るから大丈夫。ほんとに」
「わかった」
「ほんとにありがとね」と奈央が付け加えた。
ありがとうを二回言う奈央は、初めて見た。
黒木がこちらにからんできたのは、その翌週のことだった。
昼休みに廊下を歩いていたら、背後から声をかけられた。
「なあ、音無透やろ」
振り返ると、黒木が立っていた。金髪で、制服のシャツの第一ボタンを外している。肩幅が広い。首が太い。こちらを見る目に、妙な熱量があった。
「……はい」
「中間考査、六位やったよな」
「そうです」
「俺、七位やったで」
「知ってます」
黒木は少し間を置いた。予想外の返答だったのかもしれない。
「なんで知ってんの」
「廊下に貼ってあったので」
「……ふーん。次、抜くから」
「はあ」
「はあ、て何や」
「……すみません、どういう文脈の話ですか」
「ライバル宣言してんねん」
「あ、そうですか」
「そうですかって何やねん。もっとリアクションあれへんの」
ない。
一方的にライバル宣言をされた経験が、これまでの人生でゼロだったため、適切なリアクションの仕方がわからなかった。マニュアルが存在しない状況で正しい対応をするのは、誰にとっても難しい。
「……頑張ってください」
「他人事みたいに言うな。お前が一位になってみろ、俺がそれを抜く。それがライバルやろ」
「一位は狙ってないんですが」
「なんで」
「目立ちたくないので」
「意味わからん」
黒木は眉をひそめた。
本当に意味がわからない顔をしていた。目立ちたくないから一位を狙わない、という発想は、黒木の思考回路には存在しない言語で書かれているらしかった。
「まあええわ。次は一位取るからな、俺が」
「どうぞ」
「お前、ほんまに面白いな」
「そうですか」
「それも面白い」
黒木は笑って、行ってしまった。
この人が奈央に交際を申し込んだ、ということを、改めて考えた。存在量が多い人間は、他者に対するアプローチも物量で押すのか。ボリュームで来る。圧で来る。引かないで来る。それが黒木剛のスタイルなのだろう。
その日の放課後、奈央にその話をした。
「黒木くんがライバル宣言してきた」と言ったら、奈央の眉間にしわが寄った。
奈央の眉間のしわを、僕は初めて見た。
「なんで音無に」
「成績で」
「……あいつ、音無には関係ないじゃん」
「まあ」
「絡んでくるの、やめてほしい」
声のトーンが、いつもより少し低かった。
怒っている、というより、心配している声だった。
奈央が、僕のことを心配している。
その事実の重さを、どう受け取ればいいか、少しだけ考えた。
嬉しかった、というのが正直なところだった。
嬉しいと思ってしまった自分を、少しだけ後ろめたく思った。
奈央の心配は、奈央の優しさから来ているだけで、それ以上ではないとわかっていたから。
「大丈夫だよ」と、奈央が言った。
「大丈夫て陰キャの口癖やって、のんが」
奈央は少し笑った。
「あたし陰キャじゃないって言ったじゃん」
「うん、大丈夫そうに見えるよ」
奈央がもう一度笑った。
今度は少し大きく笑った。
「音無って、たまに面白いこと言うよね」
「黒木にも同じこと言われた」
「……黒木と同じとか言うのやめて」
また眉間にしわが寄った。
僕は黙って頷いた。




