第十話「なんでもない日々の正式名称」
第十話「なんでもない日々の正式名称」
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夏が来て、夏が終わった。
七月の期末考査で、僕は三位になった。
黒木は七位のままだった。つまりライバル宣言は、今のところ成立していない。黒木は「次こそ抜く」と廊下で言ってきた。どこで僕の成績を把握しているのかは謎だが、黒木は黒木なりに本気だった。
「また絡んできた?」
奈央が聞いた。
「ちょっとだけ」
「無視していいよ」
「無視すると長くなりそう」
「確かに」
黒木の奈央へのストーカーじみた行動は、夏休み前に少し収まった。
担任教師が何かを把握して動いたのかもしれないし、黒木自身が冷静になったのかもしれない。詳しくはわからないが、奈央が「最近見かけなくなった」と言ったので、改善されたのだろうと判断した。完全にいなくなったわけではないが、頻度は下がった。奈央の眉間のしわも、減った。
夏休みは、部活があった。
吹奏楽部の夏は忙しい。コンクールがあるから。
桜塚高校吹奏楽部は、府大会常連のそこそこ強い部だ。全国大会常連の軽音楽部には遠く及ばないが、それでも真剣にやっている。夏休みも週五で練習があった。
「コンクール、どうやろ?」
のんが聞いてきたのは、夏休み前最後の練習の日だった。
「課題曲と自由曲」
「自由曲がいい感じらしいよね」
「うん。かなり難しいけど」
自由曲は顧問の先生が選んだ曲で、金管に見せ場が多い構成だった。トランペットのソロパートが二か所ある。両方、僕が担当することになった。
ソロ。
人前で一人で音を出す。それが吹奏楽のソロだ。クラス全体の前で発表させられるプレゼンとは、性質が違う。音楽のソロは、自分を晒すことが目的ではなく、音楽を届けることが目的だ。だから陰キャでも、できる。できてしまう。むしろ、できてしまうのが不思議なくらいだった。
夏休みの練習は、朝から始まった。
九時に部室集合、音出しをして、セクション練習、合奏。終わりは四時か五時。そのまま四人で帰る。電車の中で奈央が今日読んでいる本の話をする。のんが全然関係ない話を挟む。あやのが静かに笑う。池田に着いて、一人になる。
この繰り返しが、夏休みの大部分を占めた。
なんでもない日々だ。イベントと呼べるものは少ない。
しかし、なんでもない日々には、なんでもない日々なりの価値がある。
と、この頃になってようやく気づき始めた。
目立ったことは何もない。特別なことも起きない。ただ一緒にいて、話して、笑って、電車に乗って、帰る。それだけだ。それだけのことが、毎日続いている。
毎日続いている、ということの重さを、僕はこの夏初めてわかった気がした。
続く、ということは、選ばれている、ということだ。
奈央が毎日一緒に帰ることを、選んでいる。のんもあやのも、選んでいる。無意識かもしれないが、選んでいる。選ばれなければ、続かない。
音無透という人間が、誰かに選ばれている。
それがどういうことなのか、言葉にするのは難しかったが、胸の中の感覚としては確かにあった。
コンクールの前日、顧問の先生が一人一人に声をかけた。
僕の番になって、「ソロ、任せたよ」と言われた。
「頑張ります」と答えた。
「緊張する?」
「……します。でも」
「でも?」
「楽しいです。たぶん」
先生が笑った。
「それで十分だよ」と言った。
それで十分、という言葉は、二つの意味に取れる。
楽しいと感じていれば、それで演奏は成立する、という意味。
あるいは、楽しいと思えるようになったこと自体が、すでに十分な達成だ、という意味。
どちらでも構わなかった。どちらでもよかった。
コンクール当日。
本番が始まった。
課題曲を終え、自由曲に入った。
一か所目のソロ。息を吸って、吹いた。
音が、ホール全体に広がった。
響いた。
自分の音が空間を満たす感覚は、何度経験しても新しい。
言葉にできない感情が、そのまま音になっていく。
今日の音の中にあったのが何だったか、正確には言えない。
でも、誰かに届いた気がした。
演奏が終わって、袖に戻った。
しばらくしてロビーで奈央と会った。
「よかったよ、ソロ」と奈央が言った。
「聴こえた?」
「ちゃんと聴こえた。隣で聴いてたから」
「隣」
「音無のソロ、ちゃんと聴こうと思って」
ちゃんと聴こうと思って。
隣で。
言葉の意味を、すぐには処理できなかった。
「ありがとう」とだけ言った。
「どういたしまして」と奈央は答えた。
それから一瞬、何も言わない時間があった。
ホールのざわめきの中で、二人だけ、静かな時間があった。
なんでもない日々の中に、こういう瞬間がある。
名前がない瞬間が、ある。
名前をつけないまま、それはどこかに溜まっていく。
溜まったものが、やがて重くなる。
重くなったものが、いつか、動き出す。
その時が来るまで、僕にはまだわからなかった。
なんでもない日々が続く限り、まだ大丈夫だと思っていた。
大丈夫は陰キャの口癖だ。
大丈夫でないことへの予感を、その言葉で塗りつぶしながら、僕は一年目の夏を終えた。




