第五話「本音という名の引力」
第五話「本音という名の引力」
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六月になると、雨が増えた。
傘をさして駅まで歩く。じめっとした空気の中でトランペットを吹く。部活が終われば、いつものように四人で帰る。梅田から戻って以来、そのルーティンは変わらず続いていた。
変わったことがあるとすれば、僕が奈央と話せるようになっていた、ということだ。
以前は、話しかけられるまで待っていた。
奈央が話しかけてきて、僕が答える。そのパターンだけだった。しかし六月に入った頃から、時々、僕の方から先に話しかけていた。「今日の合奏、よかったね」とか、「そのソロ、どうやって練習したの」とか。たいした内容じゃない。でも、自分から声をかけるというのは、それまでの僕にはほとんどなかったことだった。
奈央は毎回、ちゃんと答えてくれた。
「でしょー、うまくいったわあ」とか「あの部分ずっと詰まってたんだよ、聞いといてよかった」とか。その都度、胸の中の何かが少し軽くなった。よくわからない感覚だったが、嫌な感覚ではなかった。
六月のある雨の日、電車を待っているホームで、奈央がバッグからノートを取り出した。
薄いオレンジ色の表紙の、B6くらいのノートだった。罫線がなく、白紙のページにペンを走らせている。
「何書いてるの」
気づいたら、聞いていた。
奈央はちらっとこちらを見て、
「んー、日記みたいなもん」
と言った。
「日記?」
「正確には違うかな。思ったこと、感じたこと、書き留めておきたいやつ」
書き留めておきたいやつ。
「本音を書くノート、みたいな?」と僕は言った。
奈央はペンを止めて、少し面白そうな顔をした。
「そう、そういう感じ。本音ノート、か」
本音ノート。
その言葉が、頭の中に残った。妙に、残った。
奈央はすぐにノートをバッグにしまって、「着いた」と言って電車を降りた。
僕はそのまま乗り続けた。池田までの数分間、あのオレンジ色のノートのことを考えていた。
本音ノート。
奈央の本音が書いてある。
奈央が言葉にしきれないこと、思っていること、感じていること。
知りたい、と思った。
その感情は、純粋なものだった。少なくともその瞬間は。好きな人のことを知りたい、それ自体は悪いことじゃない。人間であれば誰でも持つ感情だ。
しかし、その夜、布団の中で考え続けた。
奈央の本音。
奈央は何を思っているのか。
奈央は毎日一緒にいる僕のことを、どう思っているのか。
友達と思っているのか。ただの知り合いか。吹奏楽部の同期か。それとも、もう少し違う何かか。
わからなかった。
わからないから、知りたかった。
知りたいから、あのノートのことを考えた。
知りたいという感情は、ごく自然なものだ。
それが、のちに取り返しのつかない行動に変わることを、この時の僕はまだ知らなかった。
引力に引っ張られるように、あのオレンジ色のノートへ近づいていく自分を、止められると思っていた。
止められなかった。
それが、すべての始まりだった。
本音というのは、求めれば手に入るものではなかった。
本音というのは、与えられるものだった。
与えてもらえなかったなら、それは、まだその時ではないということだ。
あるいは、それが答えだということだ。
僕が理解したのは、ずっと後のことだった。
もう何もかも取り返しがつかなくなってから、ようやく理解した。
遅すぎる理解というのは、知識ではなく後悔だ。
そしてその後悔を、僕はまだ、抱え続けている。
明日は結婚式だ。
僕の結婚式。
石山奈央とではない、誰かとの。
高校二年生のクリスマス。
あの悪夢のような二週間。
まだ、夢なら覚めてくれと思っている。




