第四十八話「ダメ金、あるいは美しく散ったということについて」
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第四十八話「ダメ金、あるいは美しく散ったということについて」
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結果発表は、二時間後だった。
二時間というのは、コンクール当日には、やたらと長い時間だ。
演奏が終わって、燃え尽きて、それでも結果が出ないから、二時間、何かをしているしかない。何もしないでいると、頭の中で演奏のミスが繰り返し再生される。再生されると、じわじわと胃の奥が冷える。だから、何かをするしかない。
ぼくらは、会場の外の広場に出て、お弁当を食べた。
お弁当は、事前に注文しておいたものだった。鮭弁当。のんの希望で全員鮭弁当に統一された。「当日、選ぶ気力はない」とのんが言ったからだった。のんの判断は、だいたい正しい。
「鮭、うまい」
「うまい」
「普通の鮭弁当なのに、うまい」
「コンクール後の鮭弁当は、ちょっと美味しいんだよね」
「味覚が、緊張から解放されると、鋭くなる」
のんと、あやのと、ぼくで話しながら食べた。
奈央は少し離れた場所で、一年生たちに囲まれて食べていた。奈央は今日、後輩の面倒を見る側に回っていた。自分が食べるより、後輩たちが食べているのを見る方が優先だった。奈央はそういう先輩だった。
七瀬は、のんとあやのとぼくの輪の、少しだけ外側に座っていた。
少しだけ、というのがミソだった。
完全に外ではなく、完全に中でもない距離。
七瀬は、鮭弁当の鮭を、半分だけ食べた。
半分で、箸を置いた。
「食べなきゃダメだよ、七瀬ちゃん」とのんが言った。
「食べられないです」
「ソロうまかったのに」
「……ミスしました」
「一瞬でしょ、一瞬」
「一瞬でも、ミスはミスです」
「人間は一瞬くらいミスする生き物だよ」
「コンクールで一瞬ミスするトランペッターは、ミスしないトランペッターに負けます」
「……」
のんが、言葉に詰まった。
のんは、慰めるのがうまい人間だが、七瀬の論理には勝てなかった。七瀬の論理は、コンクールの現実を直視する論理だった。のんの慰めは、現実を少し脇に置いてから作動する仕組みになっていた。
あやのが口を開いた。
「七瀬」
「はい」
「ミスの後、吹き切ったでしょ」
「……はい」
「あれ、すごかったよ」
「でも、ミスしました」
「ミスの後に吹き切るのは、ミスしないより難しい」
「……」
「あたしは、あっちの方が、すごいと思う」
あやのは、少ない言葉で、核心を言った。
七瀬が、少しだけ、目を伏せた。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
しかし「ありがとうございます」の中に、ちゃんと、感情が入っていた。
*
結果発表、三十分前。
会場に戻った。
客席の前方に、各校の代表者が集まり始めていた。コンクールでは、結果発表の時、学校ごとに代表者が立って、指揮者席のあたりで結果を受け取る。桜塚の代表は、村田先生と、部長の三年生——ではなく、引退したので、代わりに二年生部長のぼくらが立つ。二年生部長は、奈央だった。
奈央が、立った。
隣に、村田先生が立った。
他の部員は、客席で待機していた。
結果発表の時、トップバッターから順に呼ばれる。一校ごとに、「銅賞」「銀賞」「金賞」が発表される。金賞の中から、さらに府大会進出校が選ばれる。府大会に進めない金賞を、ダメ金、と呼ぶ。
ダメ金。
妹の朝の言葉が、頭に浮かんだ。
「縁起が悪い」と妹に言ったのに、自分の頭の中で、その言葉を繰り返していた。
村田先生が、奈央の肩を、軽く叩いた。
「大丈夫や、どんな結果でも」
*
発表が始まった。
司会の声が、ホールに響いた。
「一番、府立豊中高等学校、銀賞」
ぱちぱちと、客席から拍手が起こった。
「二番、府立池田高等学校、金賞、ゴールド」
客席から、わあっと、歓声が起きた。池田高校は、府大会常連校だった。納得の結果だった。
「三番、府立箕面高等学校、銀賞」
発表は、淡々と続いた。
桜塚高校は、プログラム十二番だった。
呼ばれるまで、長かった。
長い間、頭の中で「金賞」と「ダメ金」の両方が、交互に浮かんだ。
「八番、府立刀根山高等学校、金賞、ゴールド」
また、歓声が起きた。
「九番、千里高等学校、金賞、ゴールド」
「十番、茨木高等学校、銀賞」
「十一番、春日丘高等学校、銀賞」
そして、
「プログラム十二番、桜塚高等学校——」
司会が、一拍、間を置いた。
「——金賞」
一拍、後に、
「金賞、ゴールド」
その後、府大会進出の夢がかなうことはなかった。
*
結果発表が終わった後、みんなで集まった。
部員の顔を見た。
泣いている部員はいなかった。
泣いていなかったが、顔の色が、違った。
青でも白でもない、何か別の色だった。疲れと、脱力と、悔しさと、達成感が、全部混ざった色だった。名前がついていない色だった。
七瀬の顔も、その色だった。
七瀬が、ぼくを見た。
見て、一度、頷いた。
その頷きが、「わかりました」という頷きだった。結果を、七瀬は、受け入れようとしていた。受け入れ方は、七瀬の中にもうすでにあった。ソロのミスをした瞬間から、七瀬は、今日の結果のどこかを、予感していたのかもしれなかった。
「ミスしたから、ダメ金でした」と、七瀬が言うかもしれなかった。
しかし、七瀬は、そうは言わなかった。
「お疲れ様です、先輩」と七瀬は言った。
それだけだった。
「お疲れ様」とぼくが返した。
お互いの「お疲れ様」に、今日一日の全部が、入っていた。
*
会場の外。
夏の午後の光の中。
部員が、楽器を持って、駐車場に集まっていた。
ぼくは、楽器車に楽器を積む作業を手伝っていた。
作業中、奈央がぼくの横に来た。
「ダメ金、悔しい?」と奈央が聞いた。
「……半分悔しい」
「半分」
「もう半分は、何ていうか」
「うん」
「ちゃんと、吹けたと思う」
「うん」
「出し切れた気がする。全部じゃないけど、大きい部分は」
「うん」
「だから、半分悔しくて、半分、清々しい」
奈央が、少しだけ、頷いた。
「あたしも、たぶん同じ」
「そう」
「吹き切った感じは、ある。上の大会に行けなかったのは、悔しい。でも、行けなかった、ことで、いろいろ終わったのも、ある」
「いろいろ」
「このまま府大会に進んでたら、夏が終わらなかった」
「……」
「夏が終わることを、あたしは、どこかで望んでた気がする」
奈央が、正直に言った。
奈央の正直さは、たまに、ぼくに刺さる。
刺さるが、噛みしめる。
*
七瀬が、駐車場の端に座っていた。
一人で、トランペットのケースを抱えて、座っていた。
ぼくが、近づいた。
のんとあやのが、少し離れた場所にいた。のんが「今は音無でいいよ」という目配せを、ぼくに送った。
ぼくは、七瀬の隣に、少し距離を置いて、座った。
「……ミス、すみませんでした」と七瀬が言った。
「謝らなくていい」
「でも、あたしのミスが原因で、ダメ金になったかもしれません」
「ミスが原因じゃない」
「え?」
「審査員は、ミス一つで賞を決めない。全体のバランスで決める。今日の桜塚は、全体として、府大会進出校より一歩、何かが足りなかった。それだけ」
「一歩」
「うん。一歩足りなかった。その一歩の中に、七瀬のミスも入ってるかもしれないけど、入ってないかもしれない。どちらかは、わからない」
七瀬が、少しだけ、首を傾けた。
「先輩は、あたしを、責めないんですか」
「責めない」
「ミスしたのは、あたしが、心を乱してたからです」
「そうかもしれない」
「そうです。心を乱してたのは、奈央先輩と先輩のことで——」
「それは、ぼくのせいでもある」
「……」
「ぼくが、ちゃんと答えを持たないまま、七瀬を待たせたからだ。七瀬を乱したのは、ぼくだ」
七瀬が、少し黙った。
「……先輩、そんなこと言わないでください」
「本当のことを言ってる」
「本当のことだとしても、今、言わないでください。今、先輩が悪かったって言われたら、あたし、全部、先輩のせいにしてしまいそうだから」
「してもいい」
「してもいい、って——」
「今日のダメ金の責任が、ぼくの方に寄っていいなら、寄っていい。ぼくは、パートリーダーで、先輩で、七瀬の乱れの原因だった」
ぼくが言った。
七瀬が、少し顔を上げた。
「先輩、陰キャのくせに、責任取ろうとする時だけ、体育会系みたいになりますね」
「……そう?」
「そうです」
「陰キャが責任を取らないって、誰が決めた?」
「いえ、決めてないですけど」
「じゃあ、取らせてください」
「……」
七瀬が、少し、笑った。
泣き笑いだった。
目に涙があったが、笑っていた。
「……先輩」
「うん」
「あたし、まだ、先輩のこと許してないです」
「うん」
「でも、今日の先輩は、ちょっとだけ、かっこよかったです」
「……それは、ありがとう」
「お礼言わないでください」
「はい」
七瀬が、涙を、手の甲で拭いた。
拭き切れなかった分は、頬を流れた。
そのまま、流れさせておいた。
夏の午後の光の中で、七瀬の涙は、透明だった。
*
バスで、帰り道。
バスの中で、部員が、少しずつ、元気を取り戻していた。
のんが「打ち上げどうする?」と誰かに聞いていた。
橘陽が「打ち上げ賛成!」と叫んでいた。
双子が「打ち上げは、夕食の時間に合わせるべきです」と言っていた。
部が、いつもの部に、戻り始めていた。
奈央が、ぼくの隣で、文庫本を開いた。
今日は、読んでいた。
昨日の電車では、読まずに持っていただけだったが、今日は、ページがめくれていた。ページがめくれている奈央は、回復している奈央だ。
「音無」と奈央が、ページから目を上げずに、言った。
「うん」
「今日の自分、吹けたと思う?」
「思う」
「じゃあ、今日の自分を、褒めてあげな」
「……褒める?」
「褒める。ダメ金だったけど、音は、ちゃんと出したから」
「奈央は、自分を褒めた?」
「褒めた。さっきバナナ食べた」
「バナナ」
「ごほうびの、バナナ」
「それが、褒めた、か」
「褒めた、の形は、いろいろ」
奈央は、また文庫本に目を戻した。
しかし口の端が、少しだけ、上がっていた。
奈央の回復力は、ぼくより二倍速い。
二倍速で回復する奈央を見ていると、ぼくも一倍半くらいの速度で回復できる気がした。
*
学校に戻った。
楽器を片付けた。
ミーティングがあった。
村田先生が、短い総括をした。
「今日は、よく吹けた。ダメ金は悔しいけど、吹いた音は、本物やった。来年の三年生に繋がる演奏やった。全員、お疲れさん」
先生の関西弁が、今日の演奏への肯定を、柔らかく包んだ。
部員が、小さく拍手した。
「解散」
解散の後、部員が少しずつ、帰っていった。
ぼくは、最後に音楽室を出た。
音楽室の電気を消した。
消した瞬間、窓から夏の夕方の光が差し込んで、楽器置き場を照らした。
空の楽器置き場が、一つの景色になっていた。
去年、この場所で、林先輩が最後の練習をしていた。
今年、この場所で、ぼくらが、ダメ金を取った。
林先輩の「怖さと並走しろ」が、頭の中で鳴った。
怖さと並走した。
並走した結果、府大会には進めなかった。
しかし、並走したこと自体は、ちゃんと、やった。
並走した記録は、音の中に、残った。
残った音は、消えない。
音楽室の扉を閉めた。
夏の夕方が、廊下に満ちていた。
*
帰り道。
岡町駅のホーム。
奈央が、電車を待ちながら、缶ジュースを買ってきて、ぼくに渡した。
ファンタグレープ。
「奈央、これ」
「お疲れ様」
「……ありがとう」
「自分用にはオレンジ買った」
「色分けしてんの?」
「音無には紫、あたしにはオレンジ。同じの買うと、記念感が出ないから」
奈央の思考は、たまに謎めいている。
しかし今夜、その謎めきが、妙に心地よかった。
ぼくは、ファンタグレープを一口飲んだ。
甘かった。
甘すぎるくらい、甘かった。
甘すぎる甘さが、今日のダメ金には、ちょうど合っていた。
「音無」
「うん」
「美しく、散ったね」
「……散ったね」
「散ったけど、きれいだった」
「うん」
「きれいに散れた夏は、あたし、初めてかも」
奈央がそう言った時、電車が来た。
奈央が先に乗った。
ぼくも乗った。
扉が閉まった。
電車が動いた。
車窓の外、夏の夕焼けが、北摂の空を、赤く染めていた。
美しく散った。
その言葉が、今夜のぼくの胸に、一番しっくり来ていた。
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(第四十九話へ続く)
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