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第四十七話「北摂地区大会、あるいは本番が来た日について」


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 第四十七話「北摂地区大会、あるいは本番が来た日について」

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 当日の朝、目が覚めたのは、五時二十分だった。


 目覚まし時計は六時半に設定していた。関係なく、体が勝手に起きた。コンクール当日の体は、目覚ましを必要としない。


 カーテンを開けた。


 外は、夏の朝だった。もう暑い気配が空気に混じっていた。今日は三十四度まで上がるらしかった。昨日の天気予報で、母親がそう言っていた。「こんな日に本番するんは大変やな」と母親は言った。「涼しい会場らしいから」とぼくは言った。母親はそれ以上聞いてこなかった。


 制服に着替えた。


楽器を入れたケースは、玄関に置いてあった。昨日のうちに、全部準備していた。念入りに準備したつもりだったが、もう一度ケースを開けて、楽器、マウスピース、チューナー、楽譜、リップクリーム、タオル、全部あることを確認した。全部あった。


確認する意味がない確認だったが、意味のない確認は、コンクール当日の必修科目だ。




         *




朝食は、おにぎりを二つ食べた。


母親が「食べられるだけ食べとき」と言った。


食べられるだけ、で、二つだった。三つ目は、胃が受け付けなかった。


「音無、緊張してるな」と、リビングで新聞を読んでいた父親が言った。


「してる」

「毎年してるやろ」

「毎年してる」

「慣れへんもんやな」

「慣れない」


父親は、吹奏楽のことはよくわからない人だ。しかし「緊張」という言葉の意味はわかる。それだけで、朝食の会話としては十分だった。


妹が寝巻きのまま降りてきた。


「お兄ちゃん、今日本番?」

「今日」

「何時から?」

「十一時」

「テレビで見れる?」

「無理」

「なんで」

「吹奏楽コンクールの地区大会はテレビ中継しない」

「やろ」


妹の「やろ」が、わかっていて言っているやつだった。妹は、ぼくをからかって緊張をほぐす係を、家庭内で担当している。誰かに任命されたわけではなく、自発的にその役をやっている。そういう妹がいることが、家を出る直前には、少しだけ、助けになった。


「行ってきます」と言った。

「いってらっしゃい」と母親が言った。

「気ぃつけて」と父親が言った。

「お兄ちゃん、ダメ金でも帰ってきてね」と妹が言った。


「ダメ金って言うな」

「ごめん」

「縁起が悪い」

「ほんまにごめん」

「……行ってきます」


ドアを閉めた。


八月の朝の光が、ぼくの顔に当たった。




         *




学校前、七時五十分。


部員が集まっていた。


全員が、いつもと違う顔をしていた。


一年生は、初めての大会の顔。二年生は、去年のコンクールを思い出している顔。三年生は、去年まではいたが、今年はもういない。三年生の不在が、二年生のぼくらの肩に、確かな重さを乗せていた。


奈央は、少し青い顔をしていた。

のんは、いつもより三割増しで明るい顔をしていた。

あやのは、いつもとほぼ同じ顔で、しかし目の中だけが違った。


七瀬は——七瀬は、いつもより、少しだけ、白い顔をしていた。青ではなく、白だった。緊張の色の出方が、人によって違う。七瀬の緊張は、色として白に出るタイプだった。


「七瀬、体調、大丈夫か」と聞いた。

「大丈夫です」

「朝ごはん食べた?」

「食べました」

「何食べた?」

「……おにぎり一個」

「もう一個食べた方がいい」

「食べられませんでした」

「じゃあ、バナナ渡す」


ぼくはリュックからバナナを出した。母親が「もしもの時用」と言って二本持たせてくれていた。二本あるということは、誰かに渡す想定もあったということだ。母親の想定の範囲は広い。


「……ありがとうございます」

「会場着いたら、食べろ」

「はい」


七瀬がバナナを受け取った。


受け取る時、七瀬の指が、ぼくの指に一瞬だけ触れた。


触れた、といってもほんの一ミリだ。触れたとも言えないくらいの接触だった。


しかし七瀬は、一瞬だけ、目を上げて、ぼくを見た。


見て、少しだけ、微笑んだ。


微笑みは、完全な微笑みではなかった。口の端が少し上がっただけだった。しかし、その「少しだけ」は、ここ一週間で初めての微笑みだった。


七瀬が、一歩下がった。


のんが後ろから来て、「お、バナナ!」と言った。

「バナナくれるの?」

「くれない。七瀬のだよ」

「冷たいなあ音無くん」

「他人のバナナを奪おうとするな」

「冗談やん」


のんがふざけている間に、バスが来た。


楽器車は、先に出発していた。ぼくらは生徒用のバスに乗った。




         *




バスは、北摂の会場に向かって走った。


桜塚から、吹田へ。大阪の北摂エリアを南下する。車窓の外は、夏の朝だった。緑のある場所と、住宅街と、商業ビルが、交互に流れた。


ぼくは、窓際の席に座った。

隣は、奈央だった。


自然に、そうなった。一列目に座った橘陽が「先輩たち、いつもセット!」と後ろに向かって大声で言ったが、誰も取り合わなかった。取り合わないのが、この話題に対する部の合意事項になっていた。


「音無」と奈央が小声で言った。

「うん」

「バナナ、渡した?」

「見てた?」

「見てた」

「……気になる?」

「気にならないって言ったら嘘になる」


奈央が、正直に言った。


正直な奈央は、ぼくが一番好きな奈央だ。


「でも、いいと思う」と奈央が続けた。

「いいって」

「七瀬ちゃんに、今、渡せるのは、音無だけだから」

「……奈央は渡せる?」

「渡せない」

「……うん」

「まだ、渡せない。あたしのバナナは、今、七瀬ちゃんには届かない」


奈央は、会話の比喩を、自分で追いかける癖がある。


バナナの比喩が、少し、深いところまで行った。


「本番、どうかな」と奈央が聞いた。

「七瀬は、八割の仕上がりで来た」

「八割なら、十分?」

「十分。でも、本番で何が起きるかは、本番でしかわからない」

「音無、予感は?」

「……わからない」

「わからない時は、わからないでいい」


奈央がそう言って、また窓の外を見た。


北摂の山々が、車窓を横切った。




         *




会場に着いた。


吹田メイシアター。


楽器車の運転手さんが、もう楽器を降ろしてくれていた。部員で楽器を搬入した。



本番前、舞台袖から他校の演奏を聞く。「自分たちの前に演奏する学校の音が聞こえる」。自分たちの本番の前に、他校の完璧な音を聴かされる。聴きながら「自分たちは、これより上にいけるのか」を考える。考えないように努力しても、考えてしまう。


舞台から聞こえてきた学校は、去年の府大会常連校だった。音に密度がある。吹き方が洗練されている。低音が分厚い。上手い。


部員の何人かが、少しだけ、肩を落とした。


「聴かない方がいいよ」とのんが言った。「聴いたら損するやつ」

「でも聞こえる」とあやのが言った。

「耳を塞ぐしかない」

「それは負け」

「負けてもいい時は負ける」


のんとあやのの掛け合いが、部員を少しだけ笑わせた。


のんの役割は、緊張の温度を、笑いで下げることだった。のんは、今日もその役をしていた。




         *



「七瀬」

「はい」

「深呼吸、ゆっくり、三回」

「……はい」


七瀬が、トランペットを下ろして、深呼吸を三回した。


一回目、短かった。

二回目、少し長くなった。

三回目、ちゃんと深かった。


「あと、ソロの前のブレス、二拍分使って吸って」

「はい」

「焦らなくていい。二拍分、丸ごと使う」

「はい」

「音は、七瀬の中にある。外に出すだけでいい」

「……はい」


七瀬が頷いた。


頷いた頷きが、一週間前よりは、しっかりしていた。


「先輩」と七瀬が言った。

「うん」

「あたし、吹きます」

「うん」

「どんな形でも、吹きます」

「うん」


その「どんな形でも」に、ぼくは少しだけ、胸が詰まった。


詰まったが、飲み込んだ。


本番前の感情は、飲み込んで、あとでゆっくり消化する。


「頼んだ」と言った。


七瀬が、少しだけ、笑った。


本当に、少しだけ、だった。




         *




本番。


ステージ袖。


司会の「次は、桜塚高等学校の演奏です」という声が、マイクから聞こえた。


部員がステージに上がった。


ぼくらの席は、ステージの中央後方だった。トランペット。七瀬はぼくの隣に座った。


会場の客席が、暗かった。


暗さの中に、人がいる気配だけがあった。


指揮者席に村田先生が立った。


先生が、一度、部員全員を見渡した。


見渡して、一つだけ、頷いた。


「頼むぞ」の頷きだった。


課題曲が始まった。




         *




最初の数小節。



全体の和音が、会場の空気を満たした。


本番の音は、練習と違った。


会場のホールは、音の響きが違う。

緊張が、音の密度を変える。

全員の呼吸が、普段より少しだけ、揃っている。


最初の二分間、演奏は、確実に、いい演奏だった。


練習でできていた以上のものが、出ていた。


「本番で化ける」という現象がある。本番のステージで、普段以上の力が出ることがある。今日の桜塚は、化けようとしていた。


奈央のトロンボーンが、曲の中盤で、厚い低音を支えた。

のんのティンパニが、重要な箇所で、正確に入った。

あやののクラリネットが、中音域で、曲の色を作った。

橘陽のスネアドラムが、軽やかに、全体を前に押し出した。

双子のフルートとオーボエが、同じ位置で、ユニゾンを作った。


全員の音が、揃っていた。


自由曲。


マーチの余韻、みんなの気持ちが揃ったまま、曲は、ソロの手前まで来た。


曲は、一度、静かになる。


中間部の休符で、全体がふっと引いて、ソロの空間を作る。


その空間を、七瀬が受け取った。




         *




七瀬がトランペットを構えた。


マウスピースを口に当てた。


ブレスを吸った。


二拍分、ぼくが言った通り、きちんと二拍分、吸った。


吸って、吹いた。


最初の音。


——美しい音だった。


一音目は、本来の七瀬の音だった。柔らかくて、芯があって、透明感のある音。


客席の中で、一人、二人が、微かに動いた気がした。美しい音は、聴く側の体を動かす。


ソロは、最初のフレーズを終えた。


二つ目のフレーズ。


ここも、大丈夫だった。


三つ目のフレーズ。


ここで、高音に跳ぶ箇所があった。


七瀬の得意な箇所だった。


跳ぶ瞬間——


音が、裏返った。


ほんの一瞬だった。


高音の入りで、音が薄くなり、一瞬だけ、かすれた。


「かすれた」というのは、音が出なかったのではない。出たが、芯が一瞬、抜けた。


七瀬の肩が、わずかに、動いた。


しかし、七瀬はソロを止めなかった。


止めずに、次の音に行った。


次の音は、戻った。


戻ったが、聴いている側の耳には、さっきの一瞬が残っていた。


ソロの後半。


七瀬は、そこからは、ミスをしなかった。


ミスをせずに、最後のロングトーンまで、辿り着いた。


辿り着いたロングトーンは、美しかった。


美しかった、というのは、迷いのない美しさだった。ミスをした後で、なお吹き切る人間の音は、ミスの前よりも強い。強い音で、七瀬はロングトーンを伸ばし、伸ばし切って、切った。


ソロが終わった。


楽団がソロの終わりに続いて、全体で音を受けた。


ソロの空間を、全体が、包み込むように受け取った。


包み込みが、優しかった。


七瀬がソロを一瞬、外した瞬間、奈央のトロンボーンの音が、わずかに厚くなった気がした。気のせいだったかもしれない。しかしぼくには、そう聞こえた。のんのティンパニも、普段より柔らかいリズムを刻んでいた気がした。全員が、七瀬の一瞬のミスを、音で受け止めていた。


曲は、後半に入った。




         *




後半は、全員で吹く厚いクライマックスだった。


桜塚の音が、会場を満たした。


三年生がいない、代替わりしたばかりの桜塚が、出せる最大限の音を出していた。


最後の二小節。


和音が、大きく、開いた。


最後の一音が、天井に届いた。


指揮棒が、止まった。


音が、消えた。


会場が、一瞬、静かになった。


それから、拍手が来た。


大きな拍手だった。


客席から、割れんばかり、というほどではなかったが、確実に、温かい拍手だった。


部員が、全員、立ち上がって、礼をした。


ぼくも、立ち上がって、礼をした。


礼をした時、視界の端で、七瀬が見えた。


七瀬は、立ちながら、トランペットを両手で握っていた。


強く、握っていた。


ステージの照明の中で、七瀬の頬が、少しだけ、光っていた。


泣いていたのかどうかは、わからなかった。


しかし、強く握ったトランペットの握り方に、悔しさと、それ以上の何かが、入っていた。




         *




ステージを降りた。


外に戻った。


楽屋に戻るまでの廊下で、部員は、ほとんど声を出さなかった。


本番直後の、独特の静けさがあった。


燃え尽きた後の静けさと、これから燃えるかもしれない静けさが、混ざっていた。


外に出た瞬間、のんが「お疲れ様——!」と大きな声を出した。

その声が、場の緊張感を、一瞬で砕いた。

のんの一声に、部員が少しずつ、声を出し始めた。


「疲れた」「まあまあ吹けた」「ソロ、すごかった」——さまざまな声が、あふれた。


七瀬が、隅に座っていた。


トランペットをケースに入れずに、膝の上に乗せていた。


膝の上のトランペットを、両手で、撫でていた。


楽器を責めるのではなく、謝るような撫で方だった。


七瀬の隣に、あやのが座った。


あやのは、何も言わなかった。


ただ、七瀬の肩に、そっと手を置いた。


七瀬が、あやのの手の上に、自分の手を重ねた。


二人は、それだけだった。


しかし、それで十分だった。


ぼくは、二人の様子を見ながら、自分のケースに楽器をしまった。


しまいながら、今日の演奏を、もう一度、頭の中で再生した。


再生した結果、演奏は、美しかった。


ソロの一瞬のミスも含めて、美しかった。


ミスがあるからこそ美しい、というのは時に嘘くさく聞こえるが、今日のステージに関して言えば、それは嘘ではなかった。ミスの後で吹き切った七瀬の姿勢が、演奏全体に一つの物語を作っていた。


物語としては、美しかった。


結果としては——


まだ、わからなかった。


結果発表は、二時間後だった。




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            (第四十八話へ続く)

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