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第四十六話「コンクールまでの日々、あるいは音楽室の温度について」


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 第四十六話「コンクールまでの日々、あるいは音楽室の温度について」

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 八月に入った。


 北摂地区大会まで、あと十日。


 コンクール前の十日間は、一年のうちでも特殊な時間だ。普段の練習とは、時間の流れ方が違う。一日が長いのか短いのかが、よくわからない。長いような気もするし、昨日の夜から朝が来るのがやけに早い気もする。とにかく、普通の日ではない日が、十日続く。


 その十日が、始まった。


 音楽室の温度は、低いままだった。


 比喩ではなく、物理的な話をしている。エアコンをつけていたせいもあるが、人の並びの間に、冷気の塊がいくつか残っていた。奈央のいる方向と、七瀬のいる方向の間に、特に塊が多かった。二人は直接には衝突しなかった。合奏中は完璧なプロだった。しかし休憩中、二人の距離は、音楽室の図面で測れるくらいには、はっきりしていた。


 冷戦、というのは、熱戦の正反対にあるようで、実はとなりにある。


 熱戦は戦う。冷戦は戦わないが、戦いの準備をしている。音楽室の冷戦は、どちらにも転ぶ準備をしていた。


 ぼくは、パートリーダーとして、その冷戦の縁に立っていた。


 縁に立つ、というのは便利な立ち位置ではない。どちらにも倒れられる分、どちらにも倒れたくない時には、だいぶ不安定だ。




         *




 八月二日。


 放課後の音楽室。


 のんが、楽譜を持って、ぼくの席の横に来た。


 「音無くん」

 「なに」

 「あのさ」

 「なに」

 「七瀬ちゃんのソロ、どうする」


 のんは、率直だ。率直すぎる時と、正確な時がある。今のは正確な方だった。


 「どうする、って」

 「このまま本番行ったら、ぜったい崩れるよ」

 「わかってる」

 「わかってて、何もしないの?」

 「何かをするタイミングを、間違えたくない」

 「タイミングを計ってたら、本番が来るよ」


 のんが言った。


 のんの「タイミングを計ってたら、本番が来るよ」は、正論だった。正論だが、正論にはときどき、突破口がない。突破口がない正論を言われた時は、黙るしかない。


 「ぼくに、何ができるのかが、わからない」と言った。

 「……」

 「ぼくが何か言ったら、たぶん、今の七瀬には届かない」

 「届かないかもしれないけど、言わないよりはマシなんじゃない」

 「マシ、ってなんだよ」

 「マシ、はマシだよ。百点じゃないけど、ゼロよりはマシ」


 のんの言葉の使い方は、いつも実用的だ。


 実用的すぎて、ぼくの優柔不断を、秒速で切り落としていく。


 「……考える」

 「考える時間、そんなにないよ」


 のんが、それだけ言って、自分の席に戻っていった。


 のんの後ろ姿を見ながら、「あの人、本当にパーカッション向きだな」と思った。パーカッションは、テンポを作る楽器だ。のんは日常のテンポも作る人間だった。


 音楽室の時計を見た。


 時計の針が、少しだけ、早く進んだ気がした。


 のんのせいだ。




         *




 八月三日。


 午後の個人練習の時間。


 七瀬が、一人で離れの教室に入っていくのを見た。


 ぼくは、少しだけ、迷った。


 迷ったあげく、部屋の前まで行った。


 扉の向こうから、ソロの頭のフレーズが聞こえた。


 硬かった。


 扉を開けようとして、やめた。


 開けて、何かを言うには、まだ言葉が足りなかった。言葉が足りないまま開けたら、七瀬をもう一度傷つけるかもしれなかった。ぼくは、踵を返した。


 廊下の向こうから、あやのが歩いてきた。


 「音無」

 「……あやの」

 「何してんの」

 「……何もしてない」

 「何もしてない、って顔、してない」


 あやのは、短い言葉でぼくの状態を言い当てた。あやのの仕事は、短い言葉で中心を突くことだった。


 「七瀬のソロ、硬い」と言った。

 「うん」

 「どうしたら、戻ると思う?」

 「音無が、ちゃんと話すしかない」

 「ちゃんと、って」

 「答えられる分だけ、ちゃんと答える」


 あやのは、楽譜を一冊持っていた。トロンボーンの楽譜だった。


 「奈央の楽譜?」と聞いた。

 「ちょっと奈央に頼まれて、あたしが取りに来てる」

 「奈央と話した?」

 「話した」

 「……どうだった」

 「奈央も、しんどい」


 あやのは、それだけ言った。


 奈央もしんどい。それは想像できていた。想像できていたが、他人の口から聞くと、想像より重かった。


 「音無」

 「うん」

「あたし、奈央側でも七瀬側でもないつもり」

「……うん」

「どっちも友達。どっちも大事。でも、それだから逆に、両方から少し距離とるしかない」

「あやのらしい」

「らしい、かな」

「らしい。合理的」

「合理的、あんま嬉しくない」

「ごめん」


 あやのが少し笑った。


 笑いはしたが、目は笑っていなかった。


 あやのが歩いていった。


 ぼくは、もう一度、離れの教室の扉の前を通った。


 扉の向こうから、また、ソロが聞こえた。


 今度は、さっきよりほんの少しだけ、柔らかかった。


 ほんの少し、だった。




         *




 八月四日。


 合奏後、七瀬がぼくの近くを通り過ぎた。


 通り過ぎる時、七瀬はぼくの方を一度だけ見た。


 見て、すぐに目をそらした。


 一秒にも満たない目線だった。


 しかし、目線の中に、「まだ話したくない」という明確なサインがあった。七瀬は感情を言葉にしない時、目線で伝える。七瀬の目線は、雄弁な口より多くのことを言う。今日の目線は、「もう少し時間をください」と言っていた。


 わかった。


 「わかった」と声には出さなかったが、頷いた。


 七瀬が、少しだけ、目を細めた。


 目を細めたのは、「気づいてくれたんですね」というサインかもしれなかった。あるいは、ぼくの都合のいい解釈かもしれなかった。どちらかは、七瀬にしかわからない。


 その日はそれだけだった。


 話しかけなかった。


 のんが「何もしなかったね」と、合奏後に言った。

 「何もしてないわけじゃない」と返した。

 「頷いたくらいでしょ」

 「頷いたのは、何かしたうちに入る」

「頷くだけって、男子高校生の基本動作じゃん」

「失礼だな」

「失礼なのは音無くんの態度だよ」

「理不尽」

「そう?」

「そう」


 のんの言葉は、いつもぼくを理不尽にからかう。しかしからかいの向こうに、いつも応援が隠れている。のんの応援の仕方は、応援に見えない応援だった。




         *




 八月五日。


 合奏中、先生が「今日、七瀬のソロだけもう一回見る」と言った。


 七瀬が「はい」と答えた。


 ソロを吹いた。


 硬かった。


 先生が、少し間を置いてから、言った。


 「七瀬、今日はちょっと外で休もうか」


 「……はい」


 「音無、フォローよろしく」


 「はい」


 七瀬がトランペットを置いて、音楽室を出た。


 ぼくが後を追った。


 廊下に出た。


 廊下を少し歩いた。


 音楽室棟の非常階段の踊り場に出た。七瀬の定位置だった。


 七瀬が、そこに座り込んだ。


 楽器は音楽室に置いてきた。手には何も持っていなかった。


 ぼくは、階段の手すりにもたれた。


 「……すみません」と七瀬が言った。

 「謝ることじゃない」

 「硬い、ですよね、音」

「硬い」

「自分でもわかってます」

「わかってるなら、大丈夫だ。わからなくなったら、もう戻れない」


 七瀬が少し黙った。


 「……透先輩」

 「うん」

 「この前、階段の踊り場で、あたしが言ったこと」

「うん」

「……覚えてますか」

「覚えてる」

「許したくない、って言ったこと」

「覚えてる。全部覚えてる」


 七瀬が下を向いた。


 「……あれ、撤回はしません」

「しなくていい」

「でも」

「うん」

「許したくない気持ちと、吹けないのは、別の問題にしたい。あたしは、ソロを、ちゃんと吹きたいんです」


 七瀬が言った。


 小さな声だった。


 しかしその声は、さっきのソロより、はっきりと、芯があった。


 「……吹きたい、吹きたいです」

「吹きたい気持ちがあるなら、吹ける」

「吹けますか」

「吹ける」

「先輩が言うと、そんな気がしてきます」


 七瀬が顔を上げた。


 目が、少しだけ、光っていた。


 光り方が、涙の光り方ではなかった。少し違う光り方だった。


 「透先輩」

「うん」

「あたしは、先輩のこと、まだ、許してないです」

「うん」

「でも、先輩のことが、まだ、好きです」

「……」

「許してないけど、好き。両方が本当です」


七瀬が言った。


その言葉を、ぼくは受け止めた。受け止めきれたかどうかは、自信がない。しかし、受け止めようとした。


「ありがとう」と言った。

「お礼を言わないでください」

「言わずにいられない」

「……」

「七瀬の気持ちが、そのまま続くなら、ぼくはそれに応える努力をしたい」

「応える、って、どういう意味ですか」

「……ちゃんと考える。答えを、ちゃんと持つ。七瀬と奈央と、自分のことを」


七瀬が少し目を伏せた。


「時間、かかりますか」

「かかる」

「どれくらい」

「わからない。でも、逃げない」


七瀬が少しだけ、頷いた。


踊り場の窓の外、夏の夕方の光が、ひぐらしの声と一緒に流れ込んでいた。


「……ソロ、吹けそうです」と七瀬が言った。


「うん」


「今日は、もう一回、吹いてみていいですか」


「いいに決まってる」


七瀬が立ち上がった。


踊り場の西日の中で、制服のスカートが、少しだけ揺れた。




         *




 音楽室に戻った。


 七瀬がトランペットを取った。


 「もう一回、ソロだけ吹いていいですか」と村田先生に言った。


 「どうぞ」と先生が言った。


 ソロが始まった。


 今日のソロは、少しだけ、違った。


 さっきまでの硬さが、完全には取れていなかった。取れていなかったが、硬さの中に、柔らかい部分が戻り始めていた。ソロの後半、七瀬が得意にしていた高音のロングトーン。そこで音が、確かに、広がった。


 音楽室の空気が、一瞬だけ、緩んだ。


 奈央が、楽譜から目を上げた。


トロンボーンの奈央の目が、一瞬、七瀬を見た。


見たが、七瀬は気づかなかった。


気づかないほど、七瀬は音に集中していた。


奈央が、もう一度、楽譜に目を戻した。


ソロが終わった。


先生が「よし、今日の終わりに持ってこられたら十分」と言った。


七瀬が「ありがとうございました」と言った。


部員の何人かが、小さく拍手した。




         *




 合奏後、奈央がぼくの近くに来た。


「音無」

「うん」

「さっきの踊り場、七瀬ちゃんと話した?」

「話した」

「……戻った?」

「完全じゃないけど、戻ってきてる」

「そっか」


奈央が、少し目を閉じた。


「あたし、何かできることある?」と奈央が聞いた。


「……今は、距離を保つのが、奈央ができる最大のことだと思う」

「距離を保つ、か」

「うん」

「七瀬ちゃんに、話しかけるのはまだ早い?」

「早い」

「コンクール終わったら?」

「コンクール終わったら、タイミングが来る気がする」

「音無、それは予感?」

「予感」


奈央が、少しだけ笑った。


「音無の予感、当たる時は当たる」

「そうかな」

「そう。去年からデータ取ってる」


奈央のデータ収集は、ぼくの知らないところで行われている。


しかし今は、そのデータを信じることにした。


信じることにする、という行為は、予感を二倍にするらしかった。




         *




八月七日。


コンクールまで、あと五日。


七瀬のソロは、少しずつ柔らかくなっていった。


「少しずつ」だった。


完全に戻ったとは言えなかった。本来の七瀬の音の、八割くらいの柔らかさだった。八割なら、コンクールで通用する。通用するが、満点ではない。


のんとあやのが、七瀬の様子を見ていた。


のんは、七瀬を笑わせる役だった。


「七瀬ちゃん、今日の昼、唐揚げ弁当食べる?」

「食堂の?」

「そう。期間限定らしいよ」

「のん先輩、詳しいですね」

「あたし、食堂の情報網持ってる」

「なんの情報網ですか」

「食堂おばちゃんズ」


のんの「食堂おばちゃんズ」という複数形で、七瀬が少しだけ笑った。


笑った瞬間の七瀬は、いつもの七瀬に、近かった。


あやのは、七瀬の横で静かにいる役だった。


話さなくていい時は、話さない。


しかし七瀬が話したい時には、ちゃんと聞く。


あやのの「聞く」の技術は、のんの「笑わせる」の技術と同じくらい高かった。


二人の連携が、七瀬を少しずつ、戻していた。


ぼくは、のんとあやのに、心の中で何度も頭を下げていた。


心の中の礼は、相手には届かない。


届かないが、ぼく自身の姿勢は変わる。姿勢が変われば、行動が変わる。行動が変われば、いつか届く形になる。たぶん。




         *




八月十日。


コンクールまで、あと二日。


最後の通し練習。


七瀬のソロが、本番に持っていける音になっていた。


完全ではなかった。しかし、十分に美しかった。


ソロが終わった瞬間、一年生の誰かが、小さく「ほっ」と息を吐いた。


その「ほっ」が、部全体の気持ちを代表していた。


村田先生が、通し全体を見た後、短く言った。


「よし、あとは当日」


それだけだった。


短い「よし」は、満足の「よし」だ。


「明後日。九時開場、十一時演奏。八時に学校集合。楽器車は七時出発。遅刻厳禁。体調管理厳守」


先生の指示が、いつもより短かった。


短い指示の時の先生は、一番機嫌がいい。機嫌がいい、というのは正確ではない。「全部は言わなくていい」と思っている、という意味だ。言わなくていい信頼が、部員たちの仕上がりに対してあった。


ぼくは、楽器を片付けた。


奈央が、少し離れた席で、トロンボーンを磨いていた。


七瀬が、奈央から少し離れた席で、トランペットを磨いていた。


二人の間の距離は、まだあった。


あったが、空気の温度は、少しだけ、上がってきていた。


ほんの少しだ。しかし一週間前よりは、温かかった。


音楽室の窓から、夏の夕方の光が差し込んでいた。


明後日が、本番だった。




         *




帰り道。


奈央と電車に乗った。


「コンクール、緊張してる?」と奈央が聞いた。

「してる」

「毎年してるね」

「毎年してる」

「音無って、緊張の安定供給があるよね」

「褒め言葉?」

「褒めてる」

「……ありがとう」


奈央が少し笑った。


電車の窓から、夕方の北摂の街並みが流れた。


「音無」

「うん」

「明後日、全部、出し切ろう」

「……うん」

「結果は、出し切った後についてくる」

「うん」

「出し切れなくても、それも含めて、あたしたちの年だから」

「……」

「あたしたち、いい年にしような」


奈央がそう言った時、電車のドアが開いた。


ぼくは、石橋駅のホームに降りた奈央を、見送った。


扉が閉まった。


電車が動いた。


車窓の外、夕方の雲が、オレンジ色から紫色に変わっていく時間だった。


明後日、本番。


ぼくは、自分のトランペットのケースに、一度だけ、手を触れた。


ケースは、ひんやりと硬かった。


硬い感触が、少しだけ、頼もしかった。




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            (第四十七話へ続く)

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