第四十五話「七瀬あおいは見抜いた、あるいは廊下の空気について」
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第四十五話「七瀬あおいは見抜いた、あるいは廊下の空気について」
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合宿最終日の朝、ぼくは五時半に目を覚ました。
目覚まし時計はかけていなかった。勝手に目が開いた。山の朝の空気の匂いが、起床を決めてくれたような朝だった。
外はまだ薄暗かった。
起きた。浴衣のまま、廊下に出た。
山の朝は、三日目の朝よりもさらに冷えていた。本当に七月なのか、と一瞬疑うくらいの冷え方だった。空気が違う。大阪の空気は湿っているが、山の朝の空気は乾いている。乾いていて、澄んでいる。
洗面所に向かって廊下を歩いた。
途中、奈央と行き合った。
——行き合った、というのが正確だ。目的地が同じで、方向が同じで、タイミングが同じ。
「おはよう」
「おはよう」
短い挨拶。
奈央は洗面道具を手に持っていた。ぼくも洗面道具を手に持っていた。
歩く速度が、自然と揃った。揃った速度のまま、洗面所に向かった。歩幅まで揃った。長く一緒にいると、歩幅は揃うようになる。生物の適応能力というか、慣れの結果というか、たぶん両方だ。
「よく眠れた?」と奈央が小声で聞いた。
「半分くらい」
「あたしも半分くらい」
「二人合わせて一人前」
「音無、それ面白くない」
「だと思った」
奈央が小さく笑った。
朝の奈央は、日中の奈央より少し口数が多くなる。朝の奈央は、まだ鎧を着切っていない奈央だ。鎧を着るのに、たぶん十分か十五分かかる。その間だけ、奈央の言葉は柔らかい。
洗面所に着いた。
並んで、顔を洗った。鏡越しに一瞬、目が合った。奈央は鏡の中のぼくに向かって、一瞬だけ口の端を上げた。ぼくも、口の端を上げた。
*
洗面所から出た廊下で、七瀬に会った。
会ったというより、廊下の角を曲がったら、七瀬が立っていた。
立っていた、という表現が正しいかどうかは微妙だ。歩いていた人間が、廊下の向こうから来た、という方が正確かもしれない。しかし、「立っていた」の方が、あの瞬間の印象に近い。七瀬は、歩いてきた勢いのまま、角を曲がったぼくらの手前で、一瞬止まったからだ。
一瞬、止まった。
ぼくと奈央が、並んで廊下の角を曲がってきた。洗面道具を持って、湿った髪をして、同じ歩幅で。
それを、七瀬は見た。
見たうえで、一瞬止まった。
一秒に満たない停止だった。
しかしその一秒に満たない停止の中に、七瀬の中で何かが起こった。
それが何だったかは、ぼくには全部はわからなかった。しかし、部分的にはわかった。七瀬の目が、ぼくの顔を見て、奈央の顔を見て、それからぼくら二人の間にある空気を見た。三段階の視線移動。その三段階が、全部違う意味を持っていた。
「……おはようございます」
七瀬が、小さく言った。
「おはよう」とぼくが言った。
「おはよう」と奈央が言った。
七瀬は、それだけ言って、ぼくらの横を通り過ぎた。
通り過ぎる瞬間、七瀬の目はどちらも見なかった。
見なかった、というより、見ないことを選んだ。
見てしまったら、崩れるから、見なかった。
七瀬が廊下の向こうに消えた。洗面所の引き戸が開いて、閉まる音が小さくした。
ぼくと奈央は、しばらく動かなかった。
廊下の冷たい空気が、二人の間を通り過ぎた。
「……」
「……見られたね」と奈央が小声で言った。
「見られた」
「見られたね」
奈央がもう一度繰り返した。
見られた。
何を、というのは、二人とも言葉にしなかった。言葉にしなくても、両方わかっていた。
「空気」だ。
ぼくと奈央の間にある空気を、七瀬は見た。見て、理解した。七瀬は聡い。聡くなければ、ソロを任される一年生にはなれない。ソロを任される人間は、音を通して空気を読む力がある。空気を読む力は、楽器の前だけで発揮されるわけではない。朝の廊下でも、発揮される。
*
最終日の合奏は、静かに進んだ。
七瀬のソロは、昨日の硬さのままだった。
昨日より少しだけマシだったが、本来の七瀬ではなかった。それを本人も知っていた。村田先生も知っていた。しかし誰も、この場でそれを言うべきではないと判断した。合宿最終日の朝は、合宿を気持ちよく閉じるための時間だった。評価を下す時間ではない。
合奏が終わった。
撤収作業。
楽器を運ぶ。荷物をまとめる。部屋を掃除する。
七瀬は、撤収作業の間、ぼくと目を合わせなかった。
奈央とも目を合わせなかった。
目を合わせない、という選択を、七瀬は意識的にしていた。合わせたら、崩れる。崩れることを、七瀬は今日は選ばなかった。
バスに乗った。
帰りのバスは、全員が疲れていて、静かだった。
双子が並んで座って、窓の外を見ていた。橘陽が後部座席で早速眠りに落ちていた。のんとあやのが通路を挟んで隣同士に座っていた。
七瀬は、一人で、窓際の席に座った。
誰も隣に座らなかった。
七瀬が、座らせなかった。
姿勢が、「一人で座っていたい」と言っていた。動物が尻尾を立てるのと同じくらい、明確な拒絶の姿勢だった。
帰りのバスの中で、ぼくは何度か、七瀬の方を見ようとした。
見ようとして、見なかった。
見ても何も解決しないと、自分に言い聞かせた。
言い聞かせたが、完全には納得しなかった。
バスが山を降りた。
大阪に近づくにつれて、空気が湿っていった。
*
学校の前で解散した。
解散の時、七瀬は「お疲れ様でした」とだけ言って、帰っていった。
「お疲れ様でした」は、全員に向けられた言葉だった。ぼくにも向けられていたし、向けられていなかった。そういう曖昧な均等さの中で、七瀬は解散した。
奈央と二人で、電車に向かって歩いた。
「大丈夫そう?」と奈央が聞いた。
「……わからない」
「あたしも、わからない」
奈央も、正直に答えた。
岡町駅のホームで電車を待ちながら、奈央が言った。
「音無」
「うん」
「明日から、部活、少し大変かもしれない」
「うん」
「……覚悟、しとこう」
「うん」
「うん」しか返せなかった。
電車が来た。
家まで帰った。
家に着いて、荷物を下ろして、シャワーを浴びて、布団に入った。
布団の匂いは、谷瀬荘の匂いとは違った。
自分の家の布団の匂いが、妙に懐かしかった。三泊四日で懐かしがる距離感ではないのだが、この合宿はぼくの中の時間を少し伸ばしたらしい。
眠った。
*
翌日。
学校。
放課後。
合宿明けの最初の部活は、普通に始まった。
村田先生が「合宿お疲れ様。今日は音出しと軽い合奏だけ」と言った。全員が楽器を組み立てた。
音出しを始めた。
七瀬がぼくの方を見なかった。
奈央の方も見なかった。
音だけ、ちゃんと出していた。
合奏の合間、パートごとに分かれての練習があった。トランペットパートは離れた教室に移動した。
「じゃあ、ソロの合わせから」とぼくが言った。
「はい」
七瀬が吹いた。
昨日より、硬かった。
昨日より、硬くなっていた。
一年生の二人が、困った顔をした。
「……七瀬」
「はい」
「一回、外に出ようか」
「……はい」
一年生の二人に「十分だけ、二人で話してくる」と言って、七瀬と二人で廊下に出た。
音楽室棟の廊下。夕方の西日。誰もいない廊下。
少し歩いた。
階段の踊り場に出た。
そこで、七瀬が立ち止まった。
*
七瀬が、振り返った。
振り返った瞬間、七瀬の目から、涙が落ちた。
落ちた、というより、あふれた。
あふれて、止まらなかった。
「……透先輩」
「うん」
「あたし、昨日、見ました」
「……うん」
「朝の廊下で、先輩と奈央先輩が、並んで歩いてくるのを、見ました」
「見てた」
「見たんです」
七瀬が繰り返した。
声が震えていた。
「あの廊下の空気、全部、見ました。先輩と奈央先輩の間にあった空気。あれ、もう、普通の空気じゃなかった。あたし、わかりました」
七瀬の手が、少し震えていた。
「……合宿の夜、何があったんですか」
聞いた。
真正面から聞いた。
「答えてください。嘘はいや。本当のことを、教えてください」
ぼくは、少し間を置いた。
間を置いている間、七瀬の目から、涙が続けて落ちていた。
「……言えることは、少ない」と言った。
「少なくていいです」
「奈央と、話した。合宿二日目の夜に、二人で話した。去年からの約束だった」
「話しただけ、ですか」
「……話しただけ、ではなかった」
七瀬の表情が、凍った。
一瞬、完全に、凍った。
凍った表情のまま、涙だけが流れていた。
「……やっぱり」
小さな声だった。
「やっぱり、そうなんですね」
「七瀬——」
「抜け駆け、ですよね、それって」
七瀬の声が、少しだけ、尖った。
尖った声を、七瀬は出せる子ではなかった。七瀬の声はいつも丸い。丸い声で、正面からぶつかってくる子だ。しかし今日の七瀬の声は、少しだけ尖っていた。
「あたしが、先輩の部屋に入っちゃいけないって言われた同じ合宿で、奈央先輩は入ったんですよね。そして、話しただけじゃない、ことをした」
「……」
「それ、抜け駆けじゃないんですか」
七瀬の涙が、止まらなかった。
止まらないまま、言葉だけが続いた。
「あたしの方が、先輩のことを、ずっと好きでした。ずっとです。中学の時から、ずっと。それを、先輩にちゃんと伝えて、ずっとずっと、ずっと頑張ってきて。先輩のそばにいて、ソロだって、やって、吹奏楽も頑張って、それなのに——」
七瀬がそこで、言葉を切った。
切って、息を吸った。
「——それなのに、奈央先輩は、あたしが寝てる間に、先輩と二人で、終わらせたんですか」
七瀬の言葉が、正確に刺さった。
正確すぎた。
言葉に反論する余地がなかった。
「抜け駆けだと思います」と七瀬が言った。「あたしは、抜け駆けだと思います。正直に言います。抜け駆けされました」
「七瀬」
「先輩は、奈央先輩を止めなかったんですか」
「……止めなかった」
「なんで」
「止める理由が、なかったから」
「あたしの気持ちは、止める理由にならないんですか」
七瀬が聞いた。
小さな声だったが、刺さった。
「……」
言葉が、出なかった。
七瀬の目を見ることが、できなかった。
下を向いた。
自分の上靴を見た。
上靴の先を見ていると、涙が自分の視界にも入ってきた。七瀬の涙ではなく、ぼくの涙ではない、何かが視界を歪めていた。
「……先輩、ずるいです」と七瀬が言った。
「ずるい」
「ずるいです。正直な顔しておいて、一番ずるいところは、隠してるじゃないですか。隠したまま、奈央先輩とだけ、先に進んだじゃないですか」
ぼくには、反論する言葉がなかった。
反論しようとすると、七瀬の言葉の正しさを、否定することになった。否定する根拠がなかった。
「……ごめん」
ぼくが、言葉にできたのは、それだけだった。
「ごめんって言わないでください」
七瀬が、強い声で言った。
涙で声が震えていたが、強い声だった。
「ごめん、って言われたら、あたし、許さなきゃいけなくなる。あたしは、今、まだ、許したくないです」
「……うん」
「許したくない気持ちを、許したくない」
七瀬がそう言った時、階段の下から、足音がした。
のんとあやのが、昇ってきた。
*
のんが、一瞬で状況を見た。
あやのも、一瞬で状況を見た。
二人とも、動きを止めた。止めたが、「入っていいか」と「入ってはいけないか」を一瞬で判断した。
入ることを選んだ。
のんが七瀬のそばに来た。
「七瀬ちゃん」
「……のん先輩」
「ちょっとこっち来ようか」
のんが七瀬の手を取った。
七瀬は抵抗しなかった。
のんが、ぼくをちらっと見た。
「音無くん、あとは任せて」
のんはそれだけ言った。
責めていなかった。
責めていないが、「音無くんはここでは役に立たない」という判断を、のんはしていた。それが今日、一番正確な判断だった。ぼくは、ここで役に立たない人間だった。
あやのが、七瀬の逆側に立った。
「行こう、七瀬」
「……あやの先輩」
「今は音無じゃなくて、あたしらでいい」
あやのの声は、低くて、確かだった。
七瀬が、のんとあやのに両側を挟まれて、階段を降りていった。
踊り場に、ぼく一人が残された。
西日が、斜めに、廊下に差し込んでいた。
廊下の窓の外には、グラウンドで野球部が練習している声が聞こえていた。田村のチームだ。「ナイスボール!」という叫び声が、遠くから聞こえた。
その声は、ぼくのいる場所まで届かなかった。
届かなかったが、ぼくが今、田村のチームの「ナイスボール」と一番遠い場所にいることは、はっきりとわかった。
*
部活の後半。
ぼくは音楽室に戻った。
戻ると、七瀬は席に戻っていた。
目は赤かったが、顔は作り直していた。
のんとあやのが、そばにいた。
合奏に入った。
コンクール自由曲を通した。
七瀬のソロが、また硬かった。
前よりさらに硬かった。
村田先生が「七瀬、今日は調子悪そうだね」と言った。「無理しないで。コンクールまでまだ時間がある」
七瀬が「はい、すみません」と言った。
すみません、と言った時の七瀬の声は、小さかった。
合奏の終わりに、奈央がぼくの席の近くに来た。
「音無」
「……うん」
「ちょっと話す?」
「今は、いい」
「そっか」
「また今度」
「うん」
奈央がそれ以上言わなかった。奈央の顔も、どこか硬かった。
奈央の硬さと、七瀬の硬さは、別の種類の硬さだった。しかし硬さであることに違いはなかった。音楽室全体が、少しだけ、硬かった。
のんとあやのだけが、普通に動いていた。のんはいつもどおり大声で、あやのはいつもどおり静かに。二人の普通さが、音楽室の硬さを、少しだけ緩めていた。
ぼくは、楽器を片付けた。
*
帰り道。
奈央と、電車に乗った。
一緒に帰ることは、習慣だった。
電車の中で、奈央が文庫本を開いた。開いたが、読んでいなかった。ページを繰る指が止まっていた。
「奈央」
「うん」
「今日、七瀬と話した」
「知ってる。のんに聞いた」
「そうか」
「……泣いてた?」
「泣いてた」
奈央が少し目を閉じた。
「抜け駆けって、言われた」
「……」
「奈央に、伝えておこうと思って」
奈央が少し間を置いた。
「抜け駆け、か」
「うん」
「……そうだね。そう言われても、仕方がない気がする」
「そう?」
「だって、実際、そうだった。形としては。あたしは、七瀬ちゃんに知らせずに、先に動いた」
奈央の声は、静かだった。
「あたし、七瀬ちゃんの気持ちを、どうするつもりだったのかな」と奈央が言った。
「……」
「考えないようにしてた、のが本当のところかもしれない。あたしは、自分の気持ちばかり考えてた。七瀬ちゃんの気持ちを考えていたら、動けなかった。動くためには、考えないようにするしかなかった」
奈央が正直に言った。
いつもの奈央より、一段だけ、正直だった。
「奈央は、七瀬のことを嫌いじゃないでしょ」と言った。
「嫌いじゃない」
「傷つけるつもりじゃないでしょ」
「つもりじゃない。でも、結果としては、傷つけた」
「……」
「結果の方が、意図より重い時がある」
奈央が言った。
言葉を選びながら、それでも言いきった。
電車の窓の外。夕方の大阪の町。
「しばらく、七瀬ちゃんとは、気まずくなる」と奈央が言った。
「覚悟してる?」
「覚悟してる。でも覚悟してても、きついんだと思う」
石橋駅に着いた。
奈央が降りた。
扉が閉まった。
電車が動いた。
*
翌日から、音楽室の空気は、少しだけ重くなった。
奈央と七瀬が、話さなくなった。
合奏中はもちろん、合奏の前後も、二人は話さなかった。一メートル以内に近づかなかった。目も合わせなかった。「こんにちは」も「お疲れ様」も、二人の間からは消えた。
無言の壁が、二人の間に立ち上がっていた。
壁は、他の部員にもわかるほど、高かった。
のんが一度、「ちょっと、話し合ったら?」と奈央に声をかけた。
「今は、無理」と奈央が答えた。
「いつなら?」
「わからない」
「奈央らしくない返事だね」
「奈央らしくないって言われるのが、今、一番しんどい」
「……ごめん」
「のんのせいじゃない」
奈央が言った。
奈央が「自分らしくないって言われるのがしんどい」と言うのは、珍しかった。奈央は普段、自分の評価を気にしない。気にしないふりがうまいだけかもしれないが、少なくとも表には出さない。出さない奈央が、今回は出した。
音楽室の空気は、冷戦状態に入った。
冷戦、という言葉は、ここでは比喩ではなかった。温度が低かった。
それでも、練習は続いた。
コンクールは、近づいていた。
七瀬のソロは、相変わらず、硬いままだった。
硬い音を、七瀬は毎日、吹き続けていた。
吹き続けることだけは、やめなかった。
吹き続けることが、七瀬あおいという人間の、最後の砦だった。
*
音楽室の最後の合奏が終わった後、ぼくは田村にLINEを送った。
「合宿終わった」
「どうだった」
「……いろいろ」
「そのいろいろの中身、どのくらいの密度?」
「高い」
「なるほど」
田村の返事には、だいたい間がない。返事が早いのが田村の長所だ。
「とりあえず、頑張れ」と田村が返した。
「頑張れ」
いつもの言葉だった。
しかし今日の「頑張れ」は、いつもより、少しだけ、遠くまで届いた。届く理由は、ぼくが今、遠くに立っている人間だったからだと思う。
遠い場所に立っている人間には、遠くから届く言葉が、一番必要だ。
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(第四十六話へ続く)
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