第四十四話「翌朝、あるいは合宿三日目の朝について」
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第四十四話「翌朝、あるいは合宿三日目の朝について」
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三日目の朝が来た。
目を開けた瞬間、最初に思ったのは、昨日は本当にあったのか、ということだった。
結論から言うと、あった。
証拠は布団にある。奈央の匂いが、まだ残っていた。シャンプーの匂いと、浴衣の布の匂いと、もう一つ名前のつかない匂いが、枕のあたりに残っていた。朝の空気がそれを少しずつ薄めていたが、完全には消していなかった。
念のため、もう一度枕に顔を埋めた。
間違いなくあった。
枕に顔を埋めて匂いを確認する朝というのは、ぼくの人生においては初めての部類に入る。初めてのことをした朝は、妙に静かだった。山の谷瀬荘の朝は元々静かだが、今日の静けさはいつもと少し違った。自分の中が静かだから、外の静けさもよく聞こえる。そういう朝だった。
時計を見た。
六時二分前。集合は六時半。
ぼくは起き上がった。
*
廊下に出た。山の朝はひんやりしている。浴衣の上から羽織をかけて、洗面所に向かった。
誰ともすれ違わなかった。早起きすぎた。
洗面所の鏡を見た。
いつもと変わらない顔だった。
「変わらんな」と鏡に向かって言ってみた。当然、鏡は何も答えない。鏡というのは基本的に不愛想だ。
一晩で内側は全部変わったような気がしていた。それなのに、外側だけ同じ顔をしている。人間の体というのは案外、表情管理が下手だ——いや、逆かもしれない。内側に何が起きても外を崩さない仕組みになっているのかもしれない。そう考えると、体の設計者は優秀だ。誰が設計したのかは知らないが。
顔を洗った。
冷たい水が、昨夜の残像を少しだけ流した。
少しだけだ。全部は流れなかった。
*
食堂に行くと、すでに何人か来ていた。
一番に来ていたのは双子だった。桐島静と桐島凪。二人はいつも朝が早い。朝ごはんをトレーに載せて、同じ速度で歩いてくる。動きが揃っているので、目の錯覚で二倍速に見える瞬間がある。
「おはようございます、先輩」と静が言った。
「おはようございます」と凪が言った。
「おはよう」と返した。
双子は同じテーブルに座った。ぼくも近くの席に座った。味噌汁と焼き魚と卵とご飯。朝食は普通だった。普通だが、谷瀬荘の味噌汁はなぜか普通よりうまい。山の水で作るからかもしれない。
「先輩」と静が言った。
「なに」
「昨日の夜、眠れましたか」
「……まあ」
「『まあ』は、眠れなかった人間の返事ですよ」と凪が言った。
双子は鋭い。鋭いが、深追いはしてこない。双子の特技はそこだと思う。観察はするが、詮索はしない。観察したうえで、詮索すべきかどうかを一瞬で判断してくれる。
「寝たよ。そんなには長くないけど」
「そうですか」と静が言った。
「なるほど」と凪が言った。
それで話題は終わった。静がご飯を食べた。凪が味噌汁を飲んだ。
橘陽が食堂に入ってきた。
「おはようございまーす!」
声がでかい。朝七時前の声ではない。橘陽の声量は時間帯で変化しない。
「静かに、陽」と静が小声で言った。
「あ、はい、すいません!」
声量は変わらない。
「橘陽は時間帯の概念を搭載しているのか」と凪が言った。
「どういう意味?」と橘陽が聞いた。
「褒めました」と静が言った。
「そうなんだ、ありがとう!」
褒めてなかったが、本人が納得しているのでそれでいいことにした。
食堂の入り口から、奈央が入ってきた。
*
奈央は、いつもどおりの顔をしていた。
いつもどおり——と書いたが、正確には、いつもどおりを装っていた。ぼくが奈央を一年以上見てきた目で見れば、微妙な差はある。髪を結んでいるゴムの位置がいつもより少し低い。目の周りがほんの少し眠そう。浴衣から制服への着替えが、いつもよりほんの少し早く終わっていないといけない時間帯に、涼しい顔をしている。装っている。
しかし、装うのが上手だった。
奈央と目が合った。
一瞬。
一瞬だけ、目が合って、奈央がトレーを取りに行った。ぼくも目線を戻した。
それだけだった。
「奈央先輩」と静が言った。
「おはよう」と奈央が言った。
「今朝は涼しいですね」
「涼しいわね」
静が奈央にも朝の挨拶をした。奈央は何事もないように応じた。見事な装いだった。装いの職人技だった。
奈央がぼくの斜向かいに座った。
近くはない席だった。
しかし遠くもなかった。
「おはよう」と奈央が言った。
「おはよう」と返した。
それだけだった。
それだけで、二人の間の情報伝達は完了していた。
——「昨夜のことは、今日のぼくらのふるまい方には出さない」
ぼくらはそれを、目を合わせずに合意した。合意の方法が阿吽の呼吸になりすぎていて、自分たちでも少し驚いた。
*
七瀬が入ってきた。
橘陽の「おはよー!」という声とほぼ同時に、ぼくと奈央の方を見た。
その一瞬の目の動きを、ぼくは見逃さなかった。
見逃さなかったが、七瀬も、見逃さないつもりで見た、という感じがあった。
七瀬の目は、昨夜、引き戸の前で「おやすみなさい」と言って去っていった時の目を引きずっていた。引きずっていたけれど、取り繕ってもいた。七瀬は感情を消すタイプではない。しかし、隠せる時には隠せる。今朝の七瀬は、隠せる日だったらしい。
「おはようございます!」と七瀬が言った。
「おはよう」と奈央が言った。
「おはよう」とぼくも言った。
七瀬はぼくの目を見た。
それから、奈央の目を見た。
それから、もう一度、ぼくの目を見た。
三回の視線の移動の中に、質問が三つ入っていた。気がした。しかし七瀬は口では何も言わず、トレーを取りに行った。
「七瀬ちゃん、今日はすごくいい顔してるね」と橘陽が言った。
「そう?」
「なんか、覚悟を決めた、みたいな顔」
「それは、見た目の印象にしては踏み込みすぎじゃない?」
「そうかな! ごめんね!」
橘陽は、踏み込んだ上で笑顔で謝罪できる人間だ。橘陽の踏み込み方には一ミリも悪意がない。だから、踏み込まれても腹が立たない。
七瀬が席に着いた。
ぼくの正面ではなかった。しかし、斜め前だった。視界の真ん中には入る角度。
「透先輩、昨日、眠れましたか」
七瀬が聞いた。
静と同じ質問だった。
しかし質問の種類が、全然違った。
「……寝た」
「そうですか」
七瀬はそれ以上は聞かなかった。
味噌汁をひとくち飲んで、焼き魚の皮を丁寧に外した。
食堂の空気が、一度だけ揺れた気がした。
気のせいかもしれない。気のせいでないかもしれない。判断は朝食後まで保留にした。
*
午前の合奏。
谷瀬荘のホールに、全員が楽器を持って集まった。
最終日前日の合奏は、三日間の中で一番整ったものになる。一日目の硬さも、二日目の疲れも抜けている。今日は自分の音をちゃんと出せる日だ。
コンクール自由曲を通した。
七瀬のソロが来た。
今日の七瀬の音は、少しだけ硬かった。硬い、というのは、緊張しているというのとは違う。緊張は音を薄くするが、今日の七瀬の音は薄くなかった。むしろ、いつもより芯がはっきりしていた。ただ、芯の周りの柔らかい部分が、今日は少し少なかった。
普通、そんなの気づかない。
しかし、七瀬のソロを半年以上聴いてきたぼくには、気づいた。
一年生パートの子たちは、いつもの「天才・七瀬」の音として聴いていた。たぶんそれでいい。聴き手の大半には「いつもどおり美しい」音だ。七瀬自身が気づいているかどうかが、問題だった。
通しが終わった。
村田先生が「よし」とだけ言った。
短い「よし」だった。短い「よし」の時は、先生は概ね満足している。「よし、もう少し——」が続く時の方が要注意だ。今日の「よし」は、単体で完結していた。
「昼までパート練習。午後は通し二回。夕方は個人練習。十九時に夕食。二十一時消灯。最終日の朝は撤収があるから早起きするように」
先生のアナウンスは、谷瀬荘の木造の天井に吸い込まれた。
パート練習に入った。
ぼくのパートには七瀬がいる。
*
トランペットパートの練習は、離れの小部屋で行われた。
七瀬、ぼく、それから一年生が二人。合計四人。
「じゃあ、まずソロから合わせよう」とぼくが言った。「七瀬はソロの頭から。他の人は伴奏の四小節目から入って」
「はい」
七瀬がマウスピースを合わせた。
ブレスを吸った。
吹いた。
ソロが始まった。
さっきのホールでの通しと同じ硬さが、音に出ていた。硬さは消えなかった。消えないまま、最後まで吹き切った。
「……」
一年生の二人が、少し戸惑った顔をした。戸惑うほどの違いではなかった。しかし七瀬の音を普段から聴いている二人は、気づいた。
「七瀬」と言った。
「はい」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
七瀬はすぐに答えた。早すぎる答えだった。考える時間がなさすぎた。
「……頭のフレーズ、もう一度やってみよう。肩の力を抜いて」
「はい」
七瀬がもう一度吹いた。
二度目の音は、一度目より少しだけ柔らかかった。少しだけだ。
「ありがとう」と言った。
「……」
七瀬が、少しだけ下を向いた。
一年生たちには気づかれないくらいの、小さな動きだった。
「ソロは、今夜もう一回個人練習で一緒に見るか」
「……はい」
七瀬が答えた。
短い答えだった。短いが、中に何かが入っていた。しかしその「何か」を、この場で開けるのはやめた。一年生がいる場所で開けるものではなかった。
パート練習を続けた。
*
昼食。
食堂で、秋台のんが隣に座った。
秋台のん(あきだい・のん)。二年生パーカッション。合宿初日に水鉄砲大会を仕切った人間。今日は大きなスプーンでカレーをかき込みながら、話しかけてきた。
「音無くん」
「なに」
「昨日遅くまで起きてた?」
「そんなには」
「嘘」
「嘘ではない」
「嘘だと思う」
のんはカレーを食べながら、横目でぼくを見た。のんの横目は鋭い。パーカッションをやっている人間の目は、合奏中に全員の動きを同時に見る訓練を積んでいるので、横目の精度が高い。
「のんは、昨日寝た?」と聞き返した。
「寝たよ」
「じゃあぼくも寝た」
「話をそらすな」
「そらしてない」
「そらした」
あやのが正面に座った。
あやのは二年生。楽器はクラリネット。寡黙で、しかし目は鋭い。
「のん、食べながら喋らないで」とあやのが言った。
「食べながらじゃないと話せない」とのんが言った。
「それはのんだけ」
「みんなそうだと思ってる」
「違う」
あやのがお茶を一口飲んだ。
「音無」とあやのが言った。
「うん」
「今日、変な顔してる」
「変な顔」
「よくわからない顔」
「それ変って言わないのでは」
「変」
あやのは少ない言葉でこちらの急所に直接降りてくる。短い言葉で中心を突く技術、というのは、弁が立つより難しい。あやのはその技術に長けていた。
「なんかあった?」とのんが聞いた。
「なんか、は、いろいろあった」
「いろいろ?」
「……いろいろ」
「ふうん」
のんが、それ以上追及しなかった。のんの「ふうん」には、追及を止めるサインが含まれている。今日は、そのサインだった。
あやのが、ぼくの目を一瞬見た。
そして、食堂の向こう側に座っている奈央を、ちらっと見た。
そして、その斜め後ろに座っている七瀬を、もう一度ちらっと見た。
全部で三秒の視線移動だった。
あやのは三秒で、おそらく全部わかった。わかったうえで、何も言わなかった。
あやのの沈黙は、追及より効く。
*
午後の通し練習。
一回目。七瀬のソロ、硬いまま。
村田先生が「七瀬、肩の力が入ってる。ブレス前の準備を丁寧に」と短くアドバイスした。
七瀬が「はい」と答えた。
二回目。七瀬のソロ、少しだけ、良くなった。
「少しだけ」だった。ソロの最後のフレーズで、音の芯が少し揺れた。いつもは絶対に揺れないところだ。
ぼくは自分の席から聴いていた。
聴きながら、考えていた。
——あの硬さの理由を、自分は知っている。
知っていて、今は何もできない。何かをすると、状況が崩れる。今日は崩さない日だ。合宿最終日前日は、全体の調子を守る日だ。個人の感情は、全体を乱さない範囲に収める。
それが先輩というものの役割だ、とぼくは学びつつあった。
先輩という役割は、時として、個人としての自分を黙らせる役割だった。
*
夕方、個人練習の時間。
七瀬と二人で離れの小部屋に入った。
「ソロをもう一度通して」と言った。
「はい」
七瀬が吹いた。
硬いままだった。
「七瀬」
「はい」
「音、硬い」
「……はい」
「理由、わかる?」
「……」
七瀬が下を向いた。
マウスピースを離して、少し間を置いた。
「……わかります」と小さく言った。
「うん」
「でも、言えないです」
「言わなくていい」と言った。「言わなくていいから、音だけ、前に戻せ」
「……」
「音は正直だから、内側に持っているものが全部出る。今日の七瀬の音は、内側で何かが強張ってる」
「……はい」
「明日、ソロはあるんだっけ?」
「ありません。最終日の朝は撤収と個人練習の予定です」
「じゃあ、帰ってから立て直そう。合宿中に立て直そうとしなくていい」
七瀬が目を上げた。
「立て直せますか」
「立て直せる。七瀬は強い」
「……強くないですよ、あたし」
「強いよ」
「強くないです」
七瀬が繰り返した。静かな声だった。繰り返しは、訂正ではなく、訴えだった。
「……ぼくが、そう言ったって、七瀬に届かないかもしれない」と言った。「でも、ぼくが見ている七瀬は、強い」
七瀬が少し間を置いた。
「……透先輩」
「うん」
「先輩は、ちゃんと、あたしを見てくれますか」
「見てる」
「それは、どういう意味で見てますか」
去年の夏から、七瀬がぼくに投げる質問は、だいたい同じ構造をしている。
「どういう意味で」
その接続詞の向こうに、七瀬が知りたい答えがある。しかしその答えは、言葉にした瞬間に形が変わってしまう種類のものだ。だからぼくはいつも、答えを保留にする。保留にし続けることが誠実だと、自分に言い聞かせてきた。
しかし今夜は、言い聞かせきれなかった。
保留にする、ということが、今夜はどこか狡い、と思った。
「……ちゃんと答える時間をもらっていい?」と言った。
「……はい」
「近いうちに、答える。今夜じゃないけど、近いうちに」
「はい」
七瀬が頷いた。
頷いたが、七瀬の目は、それで安心した目ではなかった。
マウスピースを拭いて、トランペットをケースにしまった。
「透先輩、おやすみなさい」
まだ夜じゃなかった。
しかし七瀬はそう言って、部屋を出ていった。
夜じゃない時間に「おやすみなさい」が出る時、人は心のどこかでその日を閉じている。七瀬は今日を、夕方のこの時間で閉じた。閉じたうえで、明日を迎えようとしていた。
*
夕食。
奈央と、食堂で向かい合わせに座った。
狙って向かい合わせになったのではなかった。席が自然にそうなった。——と、二人とも自分に言い聞かせている感じがあった。
「ソロ、どうだった?」と奈央が聞いた。
「少しだけ、硬い」
「本人はわかってる?」
「わかってる」
「そっか」
奈央がご飯を一口食べた。
「……音無」と奈央が言った。
「うん」
「帰ったら、少し距離を置いたほうがいいかもしれない」
「距離」
「あたしと音無。しばらく。合宿が終わって、部に戻って、コンクールが近づいたら——誰かを傷つけている距離じゃない距離に、戻したほうがいい」
奈央が言った。
奈央は常に半歩先を見る人間だ。今もそうだった。
「それは」と言った。
「うん」
「昨夜のことを、取り消すってこと?」
「違う」
奈央が即答した。
「取り消さない。あたしは、昨夜のことを取り消さない。絶対に」
箸を持ったまま、奈央が言った。
それから、少し声を落として、
「ただ、昨夜のことと、昼の振る舞いは、別でいい、ってこと。誰かに見せるための距離は、短いよりも、ちょうどいい方がいい。ちょうどいい、のがたぶん、一番ちゃんとした形」
「奈央らしい」と言った。
「らしくない、って言われるかと思った」
「らしい。合理的だから」
「音無、合理的って褒め言葉として使う?」
「……あんまり使わない」
「じゃあ、今は使わないで」
奈央が少し笑った。
今日、奈央が初めて笑った瞬間だった。
それを見て、ぼくも少しだけ、笑った。
たぶんぼくも、今日初めて笑った。
*
夜。消灯後。
離れの部屋に一人で戻って、布団に入った。
奈央の匂いは、もう薄かった。朝よりさらに薄かった。布団を敷き直したわけではなかったが、一日の時間が匂いをゆっくり消していた。
消えていくのを、止めなかった。
止める方法もなかった。
昨日とは違う布団に見えた。昨日の布団は、何かが始まった布団だった。今日の布団は、何かが始まった後の布団だった。始まる前と、始まった後では、同じ布団の意味が変わる。
窓の外で虫が鳴いていた。
山の虫の声は、大阪と比べものにならないくらい大きい。それは一日目の夜に書いた気がするが、三日目の夜もまだ同じ感想を持った。ということは、それが事実なんだと思う。三日聴いても飽きない音は、本物の音だ。
目を閉じた。
七瀬の顔が浮かんだ。「強くないですよ、あたし」と言った七瀬の顔。
奈央の顔が浮かんだ。「ちょうどいいのが、たぶん、一番ちゃんとした形」と言った奈央の顔。
二つの顔が交互に出てきた。
眠りが、少しだけ、浅かった。
浅い眠りの中で、何度か、山の虫の声が聞こえた。
合宿三日目が、終わった。
明日は、最終日だ。
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(第四十五話へ続く)
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