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第四十三話「秘密という名の引力、あるいは夜が深くなっていく件について」


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 第四十三話「秘密という名の引力、あるいは夜が深くなっていく件について」

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 秘密、という概念の本質は、共有することにある。


 秘密を持っていても、誰にも言わない限り、それは秘密ではなく、ただの事実だ。「誰かに言えないこと」を「特定の誰かに言う」行為が、秘密の本質を作る。「言えないことを言う」という矛盾した行動が、人間の間に特別な引力を生む。


 秘密を共有することは、それがどれだけ小さな秘密であっても、二人の間の距離を変える。


 小さな秘密から始まった会話は、やがて、もう少し大きな秘密に向かっていった。


 それは自然な流れだった。引力というものは、質量があれば自然に働く。


 この夜の引力は、どこまで二人を引き寄せるのか。


 ——それはまだ、わからない。




         *




「家族の話って、したことあったっけ」と奈央が言った。


「あんまり」と答えた。


「音無の家族はどんな感じなの」


「……普通。父親と母親と、妹が一人。妹は中学生」


「妹さん、吹奏楽やってる?」


「やってない。陸上部。短距離」


「へえ。似てないね」


「全然似てない。妹は明るい。父親に似た」


「お父さんが明るいの?」


「明るくはないけど、社交的。自営業で、人と話すのが仕事みたいなところがある。妹はそっちに似た。外に出るのが好きで、友達が多くて、部屋にいると何もしないから早く外に行きたい、みたいな人間」


「音無はお母さん似?」


「……そう言われると、そうかもしれない。母親はわりと本を読む。家の中にいることが多い。どこかに出かけるより、家にいたい、みたいな人間」


「インドア系」


「そうだね。だからたぶん、僕が陰キャなのは母親の遺伝」


「遺伝で陰キャって言うのは初めて聞いた」と奈央が笑った。


「間違いではないと思う。性格の傾向には遺伝的要素がある。陰キャ遺伝子があるとすれば、たぶん僕は両親からそれをダブルで受け取った」


「ダブルか」


「いいことかどうかは、わからない」


「よくない感じで言ってるけど」


「……あんまりよくないかな、とは思ってる」


奈央が少し考えた。「あたしは——」


少し間があった。


「——両親が共働きで、弟が一人いる。弟は小学五年生。あたしと似ていないというか——あたしがちゃんとしすぎてるから、弟はどんどんルーズになっていった感じがある」


「奈央がカバーしすぎる」


「カバーするというより——あたしがやった方が早いから、やってしまう。気づいたら弟の分まで全部やってた、みたいな感じ。それが続いたら弟はやらなくなった。あたしがいるからやらなくていい、みたいな感覚で動いてる」


「それは奈央の性格の問題」


「そう。欠点」


「欠点って思ってるの?」


「思ってる。でも直せない。直そうとすると、目の前に穴があって、結局やってしまう。穴を見ると埋めずにはいられない」


「穴を埋めずにはいられない、か」


「そういう性格」


「誰にも言ったことは?」


「……のんとあやのには話してる。でも音無に話したのは初めて」


「なんで今夜」


「……今夜の方が話しやすい。いつもと、少し違う」


場所が違う、ということだ。この部屋は、学校でも電車でもない。二人だけの場所で、外から遮断されている。遮断された場所は、普段の場所より言葉が出やすい。遮断されることが、言葉を解放する。


しばらく、会話が止まった。静かな止まり方だった。


「音無は、将来何がしたい?」と奈央が聞いた。


「……考えたことが、あんまりない」


「なんで」


「先のことを考えると、今のことが雑になる気がして。今のことに集中したくて、先は考えないようにしてる」


「今のことって、たとえば」


「音楽。トランペットのこと。七瀬のソロのこと。コンサートマスターとしてどう全体を引っ張るか。今はそれで頭がいっぱい」


奈央が少し頷いた。「それはそれで、十分だね」


「奈央は?」


「あたしは——はっきりしてる。音楽は続けたい。演奏家は難しいけど、音楽に関わる仕事がしたい。音楽教育とか、楽器の指導とか」


「子供に教えたいの?」


「うん。あたし、自分が中学の時に習ってた先生がすごくよくて。その人に教わる前と後で、音の出し方が全然変わった。そういうことが、自分でもできるなら、やってみたい」


「奈央は教えるのが上手そう」


「そう?」


「スケジュール管理もそうだけど、全体を見ながら、穴を埋める動きができる。それは教育に向いてると思う」


奈央が少し目を細めた。「欠点も、見方次第では、ってこと?」


「そういうこと」


「……音無って、フォローがうまいね」


「フォローじゃなくて、本当にそう思ってる」


奈央が少し下を向いた。


「……音無に言われると、なんか、変な感じがする」


「変な感じ?」


「認められてる感じ、というか。そういうのに慣れてないから、どう受け取ればいいかわからなくなる」


「認められることに慣れてないの?」


「……あたし、自分でやることが多いから、誰かに評価されることが少なかった。やって当たり前、みたいな感じがあって。だから、なんか、こういう言葉をもらうと——」


奈央が言葉を切った。


「もらうと、どうなる」と聞いた。


「……照れる」


奈央が小声で言った。


照れる、という言葉を、奈央が自分について使った。奈央が「照れる」と言う場面を、僕はそれまで見たことがなかった。


部屋の中がまた静かになった。




         *




「あたし、最初の頃、音無のこと、ちゃんと見てなかったと思う」と奈央が言った。


「最初の頃」


「入学してから、しばらく。隣の席で、電車で一緒に帰って、部活でも一緒で——でも、ちゃんと見てなかった。なんとなく一緒にいる人、みたいな感覚だったと思う」


「それは普通じゃないか」


「そうかもしれない。でも、変わった瞬間があって」


「変わった瞬間」


奈央が少し間を置いた。


「去年の合宿。林先輩の話をしてた夜。覚えてる?」


「……覚えてる」


「あの時、音無が話してたこと——先輩から受け取ったもの、自分が何を引き継いでいくか、みたいな話。あれを聞いて、なんか、初めてちゃんと見た気がした」


「ちゃんと見た」


「うん。音無って、内側にすごく大事なものを持ってるんだって思った。外から見ると静かで、あんまり主張しないけど、内側に何かがある。その何かを、あの夜初めてちゃんと見た気がした」


静かな告白だった。告白、という言葉を使うのは少し大げさかもしれないが、それに近い言葉を奈央は出していた。


「……奈央が、あの夜に変わった」と言った。「電車の中でも、なんか違った」


「そう?」


「文庫本を閉じた。いつもは電車では本を読むのに、あの夜は閉じてた」


奈央が少し目を伏せた。「……細かいところ見てるね」


「一年以上一緒にいたら、わかる」


奈央が小さく笑った。


「さっきあたしが言ったことを返してきた」


「合ってたから」


「……うん。合ってる」


奈央が少し膝を緩めた。それまで立てていた膝が、少しだけ斜めになった。体が、少し、開いた。緊張が少し解けた証拠だった。


「音無は、あたしのこと——どう思ってた? 最初の頃」


「最初の頃」


「入学した日。あの電車のホームで話しかけてきた時」


「……目が離せなかった」と言った。


奈央が止まった。


「目が離せなかった」


「そう言った。さっきも同じことを話したはずだけど」


「……そうだね」と奈央が言った。「さっき話した」


「でもあれは、本当のことだ。今でも」


部屋の中が、また静かになった。今夜何度目の静けさかわからないが、この静けさは少し種類が違う。先ほどまでの静けさより、少しだけ密度が高い。


「……今でも」と奈央が繰り返した。声が少し小さかった。


「うん」


奈央が少し下を向いた。


「……去年の夜の秘密、覚えてる?」と奈央が言った。「いっぱい教えてあげる、って言って——でも、半分も話せなかったやつ」


「覚えてる」


「今夜、全部話そうと思ってた。ずっと、話そうと思ってた」


「うん」


「……怖かった。今年も、ずっと怖かった」


「何が怖い」


奈央が少し間を置いた。


「言ったら、変わるかもしれないから」


「何が変わる」


「……音無と、今のままでいられなくなるかもしれないから」


奈央が言った。


その言葉の中にある何かを、受け取った。


「変わっても、いいよ」と言った。「今夜は、変わっていい夜だと思う」


奈央が僕を見た。


少し間があった。


「じゃあ——」と奈央が言いかけた。




         *


         *


         *


「じゃあ——」


奈央が言いかけて、止まった。止まったまま、僕の目を見ていた。月明かりが窓から差し込んで、奈央の輪郭を薄く縁取っている。瞳の表面に、光が小さく浮かんでいた。


「——触っても、いい?」


声が、少し震えていた。


「奈央が、触りたいなら」


「・・・なによそれ。音無は、どうなの」


「……触ってほしい」


僕が言うと、奈央は少しだけ息を吐いた。それから、右手をゆっくり持ち上げて、僕の頬に触れた。指先が、冷たかった。夏の夜なのに、指先だけが冷たかった。緊張している証拠だった。


「冷たい」と言った。


「……わかってる」


「冷たいけど、気持ちいい」


奈央の指が、少しだけ動いた。頬の輪郭をなぞるように、ゆっくりと。触れているのか触れていないのか、わからないくらいの力で。


「音無の顔、こうやって触るの、初めて」


「そうだね」


「思ってたより、硬い」


「骨格の問題」


奈央が小さく笑った。「そういう返し、いつもずるい」


「ずるくない。事実だ」


「そういうところ」


指が、頬から耳のほうへ動いた。耳の縁を、親指がなぞる。くすぐったさと、それとは別の感覚が、背筋を走った。


「耳、弱い?」と奈央が聞いた。


「……弱いかもしれない」


「かもしれない、じゃなくて、自分でわからないの」


「こういうのは、自分ではわからない。人に触られて初めてわかる」


「じゃあ、今、わかった、二人だけの秘密だ」



奈央が少し体を寄せた。膝と膝の距離が、ほとんどなくなった。布団の上で向かい合っている体勢が、少しだけ傾いて、距離が縮まった。


「あたしも、触ってほしい」と奈央が言った。


「どこを」


「……そういう質問、わかってて聞いてるくせに」


「わかってない。ほんとにわかってないから聞いてる。奈央がどこを触ってほしいかは、奈央にしかわからないんだよ」


奈央が少し黙った。月明かりのせいで、表情の細かいところまでは見えない。でも、目が少し揺れているのはわかった。


「……髪」と奈央が言った。「まず、髪」


僕は手を伸ばして、奈央の髪に触れた。サイドに流している髪を、指でそっと撫でる。思っていたよりずっと柔らかかった。見た目から想像するより、ずっと。


「柔らかい」と言った。


「……そう?」


「見た目は、もう少し硬そうに見える。まとまってるから。でも触ると柔らかい。意外」


「意外って、あんまり嬉しくない」


「こっちは嬉しいほうの意外だから」


奈央が少し俯いた。僕の手が髪を梳くたびに、奈央の肩から力が抜けていくのがわかった。緊張が、少しずつ解けていく。でも、完全には解けない。解けきらないところに、別の緊張が生まれている。


「音無の手、意外としっかりしてる」と奈央が言った。


「そうかな」


「あたしの手と比べると、小さいけれど、でもごつごつしてる」


奈央が自分の左手を上げて、僕の右手に重ねた。手のひらを合わせる。確かに、僕の手のほうが一回り小さかった。指の長さも、手のひらの広さも。


「ピアノ弾くのに、大きいほうがいいんだ」と奈央が言った。


「そういうことか、奈央の手は十分だと思う。音、きれいだし」


「……ふふっ」


手と手を合わせたまま、奈央が僕の指の間に自分の指を差し入れてきた。指を絡める。握るのとは違う。もっと複雑な繋がり方だった。


「心臓の音、聞こえそう」と奈央が言った。


「どっちの」


「両方。自分のも、音無のも」


「聞こえる?」


「聞こえないけど、聞こえる気がする」


絡めた指に、少し力が入った。奈央の指の力だった。強くはない。でも、離したくないという意思が、その力に込められていた。


「もっと、触っていい?」と奈央が聞いた。


「いいよ」


「どこ触ってほしいか、言って」


「……奈央が触りたいところでいい…」


「そういうんじゃなくて。あたしは、音無が触ってほしいところに触りたい。それがいい」


そう言われると、少し考える必要があった。自分がどこを触られたいのか、意識したことがなかったからだ。でも、今この瞬間に考えて、言葉にする必要があった。


「……首」と言った。「首の、ここ」


自分の首の、耳の下あたりを指さした。


奈央の指が、絡めていた手をほどいて、僕の首に触れた。耳の下、顎のラインに沿って、指がゆっくりと下りていく。


「ここ?」


「もう少し後ろ」


指が少し後ろにずれた。首の側面、太い血管が通っているあたり。


「……そこ」


奈央の指が止まった。指先で、皮膚の上を小さく円を描くようになぞる。その動きだけで、呼吸が少し浅くなった。自分でも気づかないうちに。


「音無の脈、わかる」と奈央が言った。「速くなってる」


「……んっ」恥ずかしながら、声が出てしまった。


「うん。音無もしっかり感じてる。」


奈央の指が、脈を確かめるように、少しだけ強く押し当てられた。その圧力が、逆に自分の心臓の鼓動を強く意識させた。


「あたしの脈も、たぶん速い」と奈央が言った。


「確かめていい?」僕は奈央の目をしっかり見てそう言った。もっと奈央のことを感じたかった。


奈央が少し躊躇してから、「いいよ」と言った。


僕は奈央の首に手を伸ばした。さっき奈央が触れたのと同じ場所。耳の下、顎のラインの後ろ。皮膚の下に、確かに脈があった。速かった。僕のと同じくらい、あるいはそれ以上に。


「速い」と言った。


「……わかってた」


「なんで速くなってるか、わかってる?」


「わかってる。わかってるけど、言葉にしないで」


「なんで」


「言葉にしたら、もっと速くなるから」


指先に感じる脈が、その言葉でさらに速くなった。言及されることで、身体が反応する。それが面白くて、少し意地悪な気持ちになった。


「言葉にしたら速くなるなら、言ったほうがいいかも」と言った。


「……なんで」


「速くなった脈を、感じたい」


奈央が息を呑んだ。指先の脈が、さらに跳ねた。


「……そういうこと言うの、ほんとにずるい」


「ずるくない。思ったことを言ってるだけ」


「思ったことを全部言えばいいってもんじゃない」


「でも秘密は、共有したほうが引力が強くなる」


「……自分の言葉で返すの、やめて」


奈央が笑った。笑いながら、僕の首に触れている手を、少しだけ上に動かした。耳の後ろ、髪の生え際。そこを指の腹でゆっくりと撫でる。


「ここ、どう?」と奈央が聞いた。


「……いい」


「いい、だけ?」


「気持ちいい。背中が、ぞわっとする」


「ぞわっと」


「うん。背筋のあたりが、なんか、ぞわっとする」


奈央が満足そうに、小さく息を吐いた。その息が、僕の首にかかった。息の温度と湿度で、皮膚が反応する。


「あたしも、触ってほしいところがある」と奈央が言った。


「どこ」


奈央が少し迷ってから、自分の手を取って、自分の背中に導いた。肩甲骨の間あたり。寝巻の上からだったけど、そこが触ってほしい場所なのだとわかった。


「ここ」と奈央が言った。「ここ、ずっと、誰かに触ってほしかった」


「ずっと?」


「うん。なんか、ここだけ、いつも寂しい感じがしてた。自分では届かないからかもしれないけど」


僕は手のひらを、奈央の背中のその場所に当てた。布地越しに、奈央の体温が伝わってきた。温かかった。さっき指先は冷たかったのに、背中は温かかった。


「あったかい」と言った。


「……そう?」


「さっきの指先は冷たかったのに」


「指先は、緊張すると冷たくなるの。昔から」


「今、緊張してる?」


「……してるに決まってる」


手のひらをゆっくりと動かした。肩甲骨の間を、上下に撫でる。奈央の背中が、少しだけ弓なりに反った。その動きで、寝巻の布地が少し引っ張られて、背中のラインが浮き彫りになった。


「気持ちいい?」と聞いた。


「……うん」と奈央が小さく答えた。「もっと、強くてもいい」


手のひらに少し力を入れた。服の上から、背中の筋肉の形を感じる。思っていたより、しっかりした筋肉だった。楽器を背負って歩くことでついた筋肉かもしれない。


「奈央の背中、思ってたよりしっかりしてる」


「……それ、褒めてる?」


「褒めてる。トロンボーンを運ぶ背中だ」


「そういうこと言うの、ほんとに」


「ずるい?」


「ずるい」


奈央が体を少し前に倒して、額を僕の肩に当てた。その姿勢で、僕の手はまだ奈央の背中にあった。肩甲骨の間。さっきまで撫でていた場所。


「音無」と奈央が言った。声が少しこもっている。


「うん」


「あたし、音無のこと、好きだ」


静かな告白だった。静かで、でもとてもはっきりした告白。


僕は手を止めなかった。背中を撫で続けながら、言葉を探した。


「知ってた」と言った。


奈央が顔を上げて、僕を見た。月明かりで、目が少し潤んでいるのが見えた。


「知ってたの?」


「確信はなかった。でも、たぶんそうだろうと思ってた」


「いつから」


「さっき。奈央が『触っていい』って言った時。奈央は、好きじゃない人に触りたいとは言わない。それは、なんとなくわかってた」


奈央がまた額を僕の肩に戻した。


「……バレてたか」


「バレてた」


「恥ずかしい」


「恥ずかしくない。僕も、奈央のことが好きだ」


奈央の体が、少し硬くなった。背中の筋肉が、手のひらの下で緊張するのがわかった。


「……ほんと?」


「ほんと」


「いつから」


「わかならいけど…一年生のときの夏くらいにはすでに…いや、出会ったときから心は惹かれていたかもしれない。」


「…そうだったんだ・・・そういうの、ちゃんと言葉にできるんだ」


「できる。練習してたわけじゃないけど」


奈央が顔を上げた。今度は額を離して、ちゃんと僕の目を見た。距離が近かった。鼻先が触れそうなくらい。


「キス、してもいい?」と奈央が聞いた。


「いいよ」


「…なんか、いやだ。音無は、したいの、したくないの」


「したい」


奈央が少し笑った。「最初からそう言えばいいのに」


「わかんないよ、なんて返せばいいんだろう。」


「今はわかる?」


「大丈夫」


奈央がゆっくりと近づいてきた。目を閉じるタイミングを、二人で測っているようだった。どちらが先に閉じるか。結局、ほとんど同時に閉じた。


唇が触れた。


とても柔らかい、というのが最初の感想だった。柔らかくて、温かくて、少しだけ湿っていた。圧力はほとんどなくて、触れているだけのキスだった。でも、それだけで十分だった。十分すぎるくらいだった。


どれくらいの時間、そうしていたかわからない。長かったのか短かったのか、判断できない。時間の感覚が、少し変わっていた。


先に離れたのは奈央だった。


「……初めて」と奈央が言った。


「キスが?」


「うん」


「僕も」


「知ってる。なんとなく」


「わかるの」


「わかる。そういうキスだった」


「どういうキス」


「初めての人のキス。お互いに、すごく大事に触れてる感じがした」


僕はもう一度、奈央にキスをした。今度は僕から。さっきより少しだけ長く、少しだけ強く。奈央の唇が、かすかに開いた。その感触が、とてもよかった。


「二回目」と奈央が言った。唇を離して、少し笑っていた。


「二回目は、初めてより余裕がある?」


「わからない。まだ全然余裕ない。心臓、バクバクしてる」


「触って確かめていい?」


「……どこを」


「心臓のあたり」


奈央が少し迷ってから、「いいよ」と言った。


僕は奈央の胸に手を当てた。寝巻の上から、左胸のあたり。心臓の鼓動を感じる位置。柔らかな感触が脳内を支配するとともに、もう一度奈央の唇に触れた。奈央の心臓は、確かに、速かった。激しいくらい速かった。


「ほんとに速い」


「だから言った」


「でも、速いの、いい」


「いいの?」


「うん。奈央がこれだけ速くなってるのが、僕のせいだと思うと、なんか、いい」


「……そういうこと、よく言えるね」


「今夜は言える。いつもは言えないけど、今夜は」


手のひらで、奈央の心臓の鼓動を感じ続けた。その間、奈央は黙って僕の手を受け入れていた。寝巻の布地越しに、奈央の体温と、鼓動と、時々深くなる呼吸を感じた。


「音無の心臓も、触っていい?」と奈央が言った。


「いいよ」


奈央の手が、僕の胸に触れた。左胸。シャツの上から、心臓の位置を探るように手のひらを当てる。


「……音無も、速い」


「そうだと思う」


「お互い速いね」


「お互いのせいだね」


奈央が小さく笑った。笑いながら、手のひらを僕の胸に押し当てたまま、もう一度キスをしてきた。三回目のキスは、さっきより少し長くて、少し深かった。唇が少し開いて、お互いの呼吸が混ざる感じがした。


キスをしながら、僕は奈央の背中に手を回した。さっきまで撫でていた肩甲骨の間。そこに手のひらを当てて、少しだけ強く抱き寄せた。奈央の体が、僕の胸にぴったりとくっついた。胸と胸が触れ合って、お互いの心臓の鼓動が、皮膚越しに伝わってくるような気がした。


キスが終わって、奈央が少し体を離した。でも、完全には離れなかった。僕の胸に手を置いたまま、僕の目を見た。


「音無」と奈央が言った。


「うん」


「あたし、今夜、もっと秘密を共有したい」


「どんな秘密」


「……言葉じゃない秘密」


奈央の手が、僕の胸から少し下に動いた。浴衣の中に手を入れ、僕の乳首に触れた。


「おび、外していい?」と奈央が聞いた。


「いいよ」


奈央がゆっくりと、浴衣の帯に手をかけた。指先が少し震えているのが見えた。緊張しているのがわかった。でも、その震えが、逆に真剣さを伝えてきた。


「あたしも、外す」と奈央が言った。


奈央は自分の寝巻のボタンを、自分で外し始めた。一番上から、順番に。月明かりの中で、ボタンが一つずつ外れていくたびに、奈央の鎖骨のラインが少しずつ見えてきた。


「見ていい?」と聞いた。


「……うん。見てほしい。あたしも、音無のを見たい」


僕も浴衣を脱いだ。奈央と同じように、上から順に。それはとても奇妙な時間だった。奇妙で、でもとても自然な時間だった。


浴衣を脱ぐと、僕は下着一枚になった。奈央も寝巻を脱いで、ブラ一体型のキャミソールの下着があらわになった。月明かりが、奈央の肌を青白く照らしていた。鎖骨から胸元にかけてのラインが、はっきりと見えた。下着は白かった。シンプルな、白い下着。


「きれいだ」と言った。


奈央が少し俯いた。「……恥ずかしい」


「恥ずかしいけど、見せたかった?」


「うん。音無に見せたかった。見てほしかった」


僕は手を伸ばして、奈央の鎖骨に触れた。皮膚は温かくて、とてもなめらかだった。鎖骨のラインを指でなぞると、奈央が小さく息を吐いた。


「くすぐったい?」


「少し。でも、気持ちいい」


指を鎖骨から肩に向かって動かした。ブラウスが肩から落ちそうになっているのを、そっと押さえて、肩のラインを露出させる。奈央の肩は、思っていたより華奢だった。制服を着ているとわからなかった。


「奈央の肩、細い」


「そう?」


「制服だとわからない。こうやって見ると、すごく細い」


「細いの、嫌だった時期もある。華奢に見えるのが嫌で」


「今は?」


「今は、音無がきれいだって言ってくれたから、嫌じゃない」


僕は奈央の肩に、唇で触れた。キスとは少し違う、触れるだけの口づけ。皮膚の感触と温度を、唇で感じる。奈央の体が、少し震えた。


「音無」と奈央が言った。声が少し掠れている。


「うん」


「あたしも、音無に触れたい。もっと」


「どこに」


「胸。音無の胸、触っていい?」


「いいよ」


奈央の手が、僕の胸に直接触れる。皮膚と皮膚が触れ合う感覚。さっきまで服越しだったのが、直接になっただけで、伝わってくるものが全然違った。


「音無の心臓、さっきより速い」と奈央が言った。


「奈央の手が直接触れてるから」


「あたしのせい?」


「奈央のせい」


「……嬉しい」


奈央の手が、僕の胸の上をゆっくりと動いた。手のひら全体で、胸の形を確かめるように。そして指先が、僕の胸の突起に触れた。


「ここ、どう?」と奈央が聞いた。


「……敏感」


「気持ちいい?」


「うん。気持ちいい。奈央に触られると、気持ちいい」


奈央が少し笑った。「あたしも、同じところ、触ってほしい」


僕は奈央の下着の上から、胸に手を当てた。柔らかい膨らみが手のひらに収まる。奈央が小さく息を呑んだ。


「痛くない?」と聞いた。


「痛くない。もっと触って」


手のひらでゆっくりと円を描くように撫でる。下着の布地越しに、奈央の突起が少し硬くなっているのがわかった。親指でそこをそっと撫でると、奈央の体がびくっと反応した。


「そこ、弱い?」と聞いた。


「……弱い。自分で触るのとは全然違う」


「自分で触るのと、どう違う」


「自分だと、ただの感覚。音無に触られると、そこから何かが体中に広がる感じ。お腹の奥まで、何かが来る」


奈央の言葉に、僕の体も反応した。下腹部に、熱が集まる感じ。それを自覚しながら、奈央の胸への愛撫を続けた。布地の上から、突起の周りを指でなぞる。直接触れていないのに、奈央の反応はどんどん敏感になっていった。


「音無」と奈央が息を弾ませながら言った。「あたし、下着、外したい」


「いいよ」


「音無も、外して」


僕たちは少し体を離して、お互いの下着を外した。奈央はキャミソールを完全に脱いで、上半身を露わにした。月明かりの下で、奈央の胸がはっきりと見えた。思っていたより豊かで、形がきれいだった。


「見られてる」と奈央が言った。手で胸を隠しながら。


「そりゃ見るでしょ」


「恥ずかしい。でも、見てほしい」


「きれいだ。奈央の胸、とてもきれい」


奈央が少し俯いて、でも嬉しそうに笑った。そして、僕の胸にも手を伸ばしてきた。直接、皮膚と皮膚が触れ合った。


お互いの胸に手を当てて、お互いの心臓の鼓動を感じながら、もう一度キスをした。今度は深いキスだった。唇を重ねて、少し開いて、舌先が触れ合う。奈央の舌は小さくて、温かくて、少しだけ控えめだった。


キスをしながら、僕は奈央の胸を直接撫でた。手のひらに感じる柔らかさと温かさ。突起を指先でそっと摘むと、奈央の口から小さな声が漏れた。キスの隙間から漏れる、吐息のような声。


「んっ…声、出る」と奈央が言った。


「出していいよ」


「あっ、んっ…恥ずかしい」


「恥ずかしいけど、聞きたい」


「……ずるい」


奈央も僕の胸の突起に触れてきた。指先でそっと押したり、円を描いたり。そのたびに、背筋に電気のようなものが走った。


「音無も、感じてる」と奈央が言った。


「そりゃ…感じるよ」


「ここ、触ると、音無の呼吸が変わる」


「奈央の声が出るのと同じ」


「お互い、弱いところを見せ合ってる」


「秘密を共有してる」


奈央が微笑んだ。「そうだね。秘密」


僕たちはしばらく、お互いの上半身を探り合った。胸だけでなく、脇腹や、背中や、首筋や、腕の内側。触れるたびに新しい発見があった。奈央は脇腹が弱いこと。僕は背中の腰に近いあたりが敏感なこと。そういうことを、一つ一つ確かめ合っていった。


「音無」と奈央が言った。声が少し掠れて、熱を帯びていた。


「うん」


「あたし、もっと触ってほしいところがある」


「どこ」


奈央が僕の手を取って、自分の下半身に導いた。寝巻の上から、太ももの内側。そこに僕の手を置いた。


「ここ」と奈央が言った。「ここ、男の子ならわかるでしょ…」


布地越しでも、その場所が熱と湿り気を持っているのがわかった。手のひらでそっと圧をかけると、奈央が小さく息を漏らした。


「触っていい?」と聞いた。


「……うん。触ってほしい」


僕は奈央の寝巻のズボンをまさぐるように手を入れた。太ももの内側の皮膚は、他よりもっと柔らかくて、もっと熱かった。ゆっくりと秘部に向かって手を這わせていく。奈央の呼吸が、どんどん浅くなっていく。


下着の上から、一番熱い場所に指が触れた。布地越しなのに、その熱と湿り気がはっきりと伝わってきた。奈央が僕の肩にしがみついてきた。


「あたしも、音無に触りたい」と奈央が言った。


奈央の手が、僕のズボンの上から、同じ場所に触れた。そこも熱くて、硬くなっていた。奈央の指が、布地越しに形を確かめるように動く。


「音無も、熱い」と奈央が言った。


「奈央のせい」


「あたしのせい?」


「奈央の声と、肌と、反応のせい」


「……嬉しい。でも、音無のせいでもある」


「お互いのせいだから…」


僕たちはお互いの一番敏感な場所に触れながら、もう一度キスをした。指先で感じる互いの熱と、唇で感じる互いの呼吸と、肌で感じる互いの鼓動。すべてが混ざり合って、奈央と自分の境界線がわからなくなるような感覚。


下着の上から、ゆっくりと指を動かす。奈央のそこは、布地越しでもわかるくらい、反応していた。指の動きに合わせて、奈央の腰が小さく動く。声が、キスの隙間から漏れる。熱以上に、ベタベタ、ヌルヌルと奈央の愛液が下着越しに指にまとわりつき、奈央のズボンの中は大変なことになっていた。僕は、その初めての体験、想像をはるかに超える体験に興奮し、奈央に触ってもらっている自分の下着も同じようにベタベタ、ヌルヌルになってしまっていた。


「音無」と奈央が息を弾ませながら言った。「直接、触ってほしい」


「いいの?」


「うん。あたしも、音無に直接触りたい」


僕たちはお互いの下着に手をかけた。ほとんど同時に、ゆっくりと下ろしていく。月明かりの下で、すべてが露わになった。


奈央のそこは、月明かりに照らされて、しっとりと濡れているのが見えた。深く生えそろった陰毛は、一切の手入れはされているようには見えず、ありのまま、といった感じだった。指でそっと触れると、奈央が息を呑んだ。とても柔らかくて、とても熱くて、とても敏感だった。


「痛くない?」と聞いた。


「あっっ、痛くない。気持ちいい。もっと触って」


指をゆっくりと動かす。奈央の反応を見ながら、一番感じる場所を探る。ある場所に触れた時、奈央の体が大きく反応した。


「ここ?」と聞いた。


「んっ……そこ。そこ、すごくいい」


指の動きを少し早める。奈央が僕の肩にしがみついて、声を押し殺すように息を吐く。同時に、奈央も僕のそこに触れてきた。指が直接、僕の一番敏感な部分に触れる。その感覚に、思わず声が出た。


「いっ…んっ…」


「はぁ…んっ、音無も、声出てる」と奈央が言った。


「そりゃっ、出るっ…」


「はぁ、はぁ、んっ…!…嬉しい…。あたしだけじゃない…」


お互いに触れ合いながら、お互いの反応を見つめ合う。それは言葉以上の会話だった。指先が、皮膚が、呼吸が、鼓動が、すべてで会話をしているようだった。


「んあっ、は、んっ…音無」と奈央が言った。声が震えている。「あたしっ、たぶんっ、もうすぐっ——」


「いいよっ。そのままっ」


指の動きを少し強く、少し早くした。奈央の腰の動きが大きくなる。声が抑えきれなくなって、少し大きくなる。


「ひゃ……ん、んん……っ! そこ、だめ……っ…あ、やば、声——」


「出していい。誰もいない」


奈央が僕にしがみついて、顔を肩に埋めた。肩越しに、奈央の声が聞こえる。押し殺したような、でも抑えきれない声。体が震えて、中の筋肉が痙攣するのが指に伝わってきた。


長い時間、そうしていた。奈央の体の震えが収まるまで、指を止めずに、でも優しく触れ続けた。


震えが収まって、奈央が顔を上げた。目が潤んで、頬が紅潮していた。


「……音無も」と奈央が言った。


「うん」


奈央の指が、僕のそこを優しく包み込むように動き始めた。さっきまでの僕の動きを思い出すように、同じリズムで、同じ強さで。


「奈央っ」と言った。声が自分でも驚くくらい掠れていた。


「気持ちいい?」


「気持ちいい。すごく」


「どこが一番いい?」


「……そこ。そこ、やめてほしくない」


奈央が少し笑った。「やめない。音無がいかせるまで、やめない」


その言葉だけで、さらに熱が高まった。奈央の指の動きが、少しずつ早くなる。僕の反応を見ながら、一番感じる場所、一番いい強さを探り当てていく。


「音無の、すごく熱い」と奈央が言った。「手の中で、どんどん熱くなってる」


「奈央のせい」


「あたしのせい?」


「奈央の指と、声と、さっきの顔のせい」


奈央が嬉しそうに笑った。笑いながら、指の動きをさらに巧みに変えていく。

奈央が指や手を上下にリズムよく動かすたび、あらわになった奈央の胸も同じリズムで上下に揺れる。興奮で完全に突起した赤茶色の乳頭のエロさが脳を刺激した。


「あたし、音無が感じてる顔、見るの好きかも」


「……恥ずかしい」


「さっきあたしも見られて恥ずかしかったから、おあいこ」


そう言って、奈央はもう一方の手で僕の顔に触れた。頬を撫でながら、目を覗き込むようにして、指の動きを続ける。顔を見られながら触られることの羞恥と快感が、同時に押し寄せてきた。


「奈央、やばい、もう——」


「いいよ。来ていい」


奈央の指が、最後の瞬間にぴったりと寄り添うように動いた。僕は奈央の肩に顔を埋めて、声を押し殺した。体の奥から何かが溢れ出るような感覚。奈央の手の中に、熱いものが広がっていくのがわかった。


しばらく、動けなかった。奈央も動かなかった。お互いの呼吸が落ち着くまで、抱き合ったまま、黙っていた。


先に口を開いたのは奈央だった。


「……すごかった」


「うん」


「あたし、こんなこと、初めて」


「僕も」


「知ってる」


奈央が笑った。笑いながら、僕の胸に顔を埋めてきた。


「音無」と奈央が言った。


「うん」


「今夜、ここに泊まっていい?」


「いいよ」


「朝まで、一緒にいたい」


「いよう」


奈央が満足そうに息を吐いた。僕たちはそのまま、布団の上に横になった。月明かりだけが部屋を照らしていて、蝉の声だけが外から聞こえていた。


秘密を共有した後の静けさが、部屋を満たしていた。それは言葉にならない秘密だったけど、二人の間の距離を、確実に変えた秘密だった。


どれだけ引き寄せられたのかは、まだわからない。


でも、少なくとも今夜、二人の間の引力は、想像していたよりずっと強かった。


そして夜は、まだ深くなっていく。






         *


         *


         *




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            (第四十四話へ続く)

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