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第四十二話「最初の言葉、あるいは入学式の帰りに出会った人について」


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 第四十二話「最初の言葉、あるいは入学式の帰りに出会った人について」

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 人間は、初めての出会いを覚えている。


 正確に言うと、人間は「大切になった人間との最初の出会い」を覚えている。大切ではなかった出会いは、記憶の中で色が薄くなる。名前も顔も声も、時間と共に薄れていく。しかし大切な人間との最初の出会いは、薄れない。むしろ月日が経てば経つほど、色が濃くなる。


 なぜ濃くなるのか。


 その出来事が「重要だった」とわかるのは、後になってからだ。最初の出会いの瞬間に「この人間は大切になる」と予測できる人間はいない——予測できる人間もいるのかもしれないが、少なくとも僕にはできない。後になって振り返り、「あの瞬間が始まりだった」とわかる。わかった瞬間に、記憶は塗り直される。重要だとわかった事実が、記憶の解像度を上げる。


 石山奈央との最初の出会いを、僕は今でも鮮明に覚えている。


 塗り直した記憶だとしても、今もなおその光景が、色を持って頭の中にある。




         *




 「何から話す?」と奈央が聞いた。


 「奈央が話したかったことを」


 「あたしが決めることなの?」


 「始めたのは奈央だから」


 奈央が少し口をとがらせた。珍しい表情だった。怒っているわけではなく、少し悩んでいる顔。何から話すかを、本当に悩んでいる。奈央が悩む顔は、いつもの整理された表情とは違う。整理の前の顔だ。


 「……じゃあ、小さいことから」と奈央が言った。


 「小さいこと」


 「大きいことを話す前に、小さいことを話す。そういう順番の方が、やりやすい」


 「やりやすい、というのは」


 「いきなり大事なことを話すのは怖い。ちゃんと話す雰囲気を作ってから話した方がいい。そのために、まず小さいことを話す。準備みたいなもの」


 奈央の論理は、いつも筋が通っている。感情が先にあって、それを後から論理で補強する形だ。今夜の場合、「大切なことを話すのが怖い」という感情があって、「段階を踏む」という論理が来た。


 「好きな食べ物は?」と奈央が言った。


 「……何の流れで」


 「小さいことでしょ。答えて」


 「マンゴーと桃。白石に言ったから、たぶん奈央の耳にも届いてる」


 「覚えてる。パフェの時。あたしはとんかつ」


 「意外」


 「意外?」と奈央が少し眉を上げた。


 「奈央のイメージじゃない。もっとこう、上品なもの」


 「上品なものって何」


 「和食とか、懐石みたいな」


 「和食も好きだよ。でもとんかつが一番好き。分厚いやつ。衣が厚いやつじゃなくて、肉が分厚いやつ。ロースよりヒレ。揚げたてで、キャベツが横に山になってるやつ」


 言い方が具体的だった。奈央が本当に好きなものを話している時の具体性は、普通の会話と少し違う。言葉が増える。彩度が上がる。


 「音無は嫌いな食べ物は?」


 「……生のトマト」


 「なんで言いにくそうに言うの」


 「誰にも言ったことがなかったから」


 「なんで言わないの」


 「なんとなく。言わなくていいことは、言わない」


 奈央が少し考えた。「トマトは加工すると食べられる?」


 「トマトソースは食べられる。トマトジュースも」


 「生だけが駄目なんだ」


 「あの、トマトを切った時のぐちゃっとした感触が——」


 「やめて、わかった」


 奈央が声に出して笑った。声に出して笑うのは、奈央には珍しい。いつもは口元だけが動く笑い方をする。今夜の奈央は、少し違う。場所が違うと、人間も少し違う顔になる。それは七瀬の「透先輩は音楽室での顔が変わった」という言葉とも重なる。場所は人間の顔を変える。


 「映画は?」と奈央が聞いた。


 「好きな映画は、何か好きなやつある?」


 「……君の名は。」と言った。


 奈央が止まった。


 「は?」


 「君の名は。が好きです」


 「……なんで言いにくそうに」


 「こういうこと言うと、なんか言われそうで」


 「なんか言わないよ。でも意外」


 「何が意外なの」


 「もっと文学的な映画が好きそうだった。黒澤明とか、タルコフスキーとか」


 「黒澤明も見る。でも純粋に面白かったやつを挙げろって言われたら、「君の名は。」になる。あれは構造が好き。時間の使い方が好き。なんで好きかを言語化しようとすると難しくなるんだけど、ただ見ている間ずっと夢中だった」


 「そう」と奈央が言った。「私は、「カメラを止めるな!」が好き」


 「予想できた」


 「予想できた? なんで」


 「構造が好きそうだから。裏側の仕組みが見えた瞬間に面白さが倍になるやつ」


 奈央が少し考えた。「……合ってる。あと、「パラサイト」も好き。「おくりびと」も好き」


 「おくりびとか」


 「音楽の映画でもあるから。楽器が出てくる映画、好き。あとはのんびりした動物のドキュメンタリーも好き」


 「イメージと全然違う」


 「どういうイメージなの」と奈央が少し眉をひそめた。


 「ちゃんと系の映画を、ちゃんと鑑賞する感じ」


 「ちゃんと系って何」


 「高尚なやつ。眠れなくなるやつ」


 「眠れなくなるやつも見るけど」と奈央が言った。「でも、見終わった後にぼんやりできるやつの方が好き。眠れなくなるやつで言うと——ミッドサマー」


 「ああ、見てたんだ」


 「のんに勧められた。のんって、よくわからないホラーが好きで——まあそれは関係なくて。ミッドサマーは眠れなくなった。怖いというより、後から何かが残る感じ。好きじゃなかったけど、忘れられないやつ」


 「好きじゃないけど忘れられない映画、あるよね」


 「音無は?」


 「ライムライト」


 「チャップリン?」


 「チャップリンの晩年の映画。老いと終わりの話が、なんか残る。怖いとか悲しいとかじゃなくて、ただ、残る」


 奈央が少し黙った。窓から月明かりが差し込んでいた。


 「音無って、思ったより、いろいろ見てるね」と奈央が言った。




 「でも」と奈央が言った。「合ってると思う。音無が好きそうなものって、なんとなくわかる」


 一年以上。電車で会って、一年以上経つ。


 その言葉が、今夜の部屋の中で、少し違う響きを持った。




         *




 「好きな音楽は?」と奈央が聞いた。


 「……幅広すぎて」


 「幅広くていい。一つだけ挙げるなら」


 「ベンチャーズ」


 奈央が止まった。


 「ベンチャーズ? なんで」


 「親が好きで、小さい頃からかかってた。今でもたまに聴く。あのギターが——たまらなくかっこいい」


 「エレキギターの音か・・・」


 「そう」


 「よく知ってるんだ」


 「パイプラインとか、ウォークドントランとか。夏に聴くとなんか合う気がする」


 「夏に聴くと合う感じ、わかる」と奈央が言った。少し間があった。「あたしは——松田聖子」


 今度は僕が止まった。


 「松田聖子」


 「何が意外なの」


 「……奈央のイメージじゃない」


 「夏の扉とか、チェリーブラッサムとか。親がよく流してた。自分でも好きだと思ったから、今でも聴く。人に言ったことはなかった」


 「なんで」


 「何か言われそうで」


 「言わないよ」


 「……音無もトマトの話と同じで、誰にも言わないことあるんだって思ったから言えた」


 奈央が言った。静かな、少し打ち明けるような言い方だった。


 僕たちが共有したこの夜の小さい秘密——生のトマトが苦手なこと、君の名は。が好きなこと、ベンチャーズを聴くこと、松田聖子を聴くこと——それらは、この部屋の外では誰にも言っていないことだった。誰にも言っていないことを、この夜の部屋の中で交換していた。交換、という言葉は正確かもしれない。こちらが差し出したものと同じだけのものを、向こうも差し出してくれる。等価交換だ。それが秘密の交換の形だ。


 「……帰り道で会って、一年以上経つんだな」と言った。


 「そうね」と奈央が言った。


 「最初に会った日のこと、覚えてる?」


 奈央が少し頬を動かした。


「……覚えてる」と奈央が言った。「どこまで覚えてる?」


「全部」と答えた。「覚えてる」




         *




 話した。あの日のことを。


 ——入学式を終えて、電車のホームに向かった。春の夕暮れは、まだ少し肌寒かった。桜はほぼ散り終わっていて、ホームの上を薄いピンクの花びらが一枚だけ横切って消えた。それを目で追いながら、今年の春はもう終わりなんだな、と思っていたとき。


 「ねえ。どこから来てるの?」


 声がして、振り向いた。


 そこに彼女がいた。


 ハーフアップにしたセミロングの髪。新品のブレザー。背が高い——僕より明らかに高い。整った顔立ち、という言葉は少し違う気もして、バランスのいい顔立ちとでも言うべきか。超美少女というわけではない。それでも目が離せなかった。「目が離せない」という表現は通常、比喩的に使われるが、この瞬間の僕にとっては、文字通り物理的に視線が動かなかった。


 「……池田から」


 「あ、そうなんだ。あたし箕面。隣じゃん」


 隣。


 池田と箕面が地理的に隣かどうかは厳密には議論の余地があるところだが、そういう指摘は陰キャの悪い癖だと経験から知っていたので、僕はただ頷いた。


 「石山奈央。よろしく」


 「……音無透」


 「おとなし・とおる? おとなしいで透明の? なんか陰キャっぽい名前だね」


 失礼な奴だ、と思った。


しかし、反論できなかった。正確無比に合っていたから。


そうして奈央は当たり前のように隣に並んで電車を待ち始めた。少し離れたところに、もう二人の女子が立っていた。後に紹介されるところによると、秋台のんと松木あやの——奈央と同じ中学出身だという。のんは小柄でよくしゃべり、あやのはのんびりしていてよく笑う。二人ともごくふつうに陽の気配があって、僕のような陰の人間には少し眩しかった。


「吹奏楽部入るの?」


奈央が聞いてきた。


「……はい」


「あたしも。のんも」


少し間があって、「トロンボーンやってんだ、中学から」と続けた。


トロンボーン。


あのスライドつきの、大ぶりな楽器を、彼女が吹くのか。


なぜか、その光景がすんなりと想像できた。


石山奈央という名前を、僕はその日から忘れたことがない。


忘れたくても、忘れられない。


十年後も変わらなかった。


どれだけ時間が流れても、その事実だけは動かなかった。




         *




話し終えた後、しばらく二人とも黙っていた。


奈央が、静かに、膝の上の手を見ていた。


「……全部覚えてたんだ」と奈央が言った。


「覚えてた」と答えた。


「あたしも覚えてる」と奈央が言った。「最初に話しかけた相手が、すごく緊張してた。一人でホームに立っていて、桜を見てた。話しかけやすかった」


「話しかけやすかったのか」


「うん。一人で世界に入り込んでる感じがある人は、声をかけると素直に振り向くから。普通は最初の見知らぬ人に話しかけるのって怖いけど、あの時は怖くなかった」


「陰キャの特性として分析されてる」


「そうじゃなくて」と奈央が少し笑った。「素直に振り向くのは、ちゃんと聞いてくれそうだから。あの時の感覚は正しかったと思う。音無はちゃんと聞いてくれるから」


ちゃんと聞いてくれる。


奈央がそう言った。


「……奈央の話は聞きやすい」と言った。


「なんで」


「言葉が整理されてるから。感情じゃなくて言葉で話してくれるから、受け取りやすい」


奈央が少し黙った。「……それは褒め言葉なのか、貶し言葉なのか、判断がつかない」


「褒め言葉だよ。感情を言葉にできる人間は、少ない」


「音無は感情を言葉にしないよ」と奈央が言った。「感情を分析する言葉は使うけど、感情そのものを出さない」


「正確だ」


「一年以上一緒にいたら、わかる」


一年以上。また、その言葉が出た。


「今夜、来てよかった」と言った。


奈央が少しだけ目を細めた。


「……大げさ」


「大げさじゃない」


奈央が少し下を向いた。


部屋の中は静かだった。虫の声が、外から低く続いていた。月明かりが今夜も満ちていた。


「もう少し、話そうか」と奈央が言った。


「うん」と答えた。


今夜の会話は、まだ続く。この先に何があるかは、まだわからない。わからないことを、今夜は怖いとは思わなかった。




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            (第四十三話へ続く)

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