第四十一話「六畳間の侵略者」
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第四十一話「六畳間の侵略者」
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先手必勝、という言葉がある。
先に手を打つことで、勝負を有利に展開するという戦略論の基本だ。囲碁でも将棋でも、先手を取った方が有利とされている。これは数値的に証明できる話でもある。先手は選択肢が多く、後手は先手の選択に対応する側に回る。シンプルな理論だ。
しかし七瀬あおいが先手必勝という概念を適用してきた場面は、囲碁でも将棋でもなかった。
布団だ。
六畳一間の男子部屋、一組しかない布団の中に、七瀬あおいはすでに潜り込んでいた。
先手必勝。
なるほど、先手だ。布団の中に先に入れば、後手はどう動くか。後手に選択肢は多くない。出ていけと言う——無視して寝る——先に入られているから、自分が入る場所がない。追い出す——しかしそのためには物理的に接触しなければならない。七瀬の戦略は単純だが有効だった。
ただ一点だけ、七瀬の計算が狂っていたとすれば。
後手が、一人ではなく二人だったことだ。
そして後手の一方——石山奈央の、布団の端を掴む手の力が、予想を上回っていたことだ。
*
さかのぼること、約三十分。
大浴場から上がって、廊下を歩いていた。谷瀬荘の男子用の洗い場は施設の端にある。湯上がりの浴衣の帯を直しながら廊下に出ると、山の夜気がさわさわと肌に触れた。標高のある場所の七月は、夜になると思ったより冷える。大浴場の熱さとのギャップで、体の表面がしばらく敏感になった。
熱い湯に長く浸かりすぎた。全身がぼんやりしている。ぼんやりすることを、この合宿では時々許してもいいと思っていた。合奏練習の疲れを落とすための入浴で、湯の中でただ目を閉じている時間が、この谷瀬荘の夜に似合った。昨日よりも体が落ち着いていた。昨日はまだ場所に慣れていなかったが、今日は谷瀬荘の空気が体に馴染んできた感じがあった。
廊下の角から、人影が来た。
奈央だった。
浴衣を着ていた。髪がまだ少し湿っていた——昨日の水鉄砲大会ほどではないが、お風呂上がりの、少しだけ重さを持った黒髪だった。廊下の低い電灯を背に受けて歩いてくる奈央は、いつもと少しだけ違う印象だった。学校にいる奈央でも、電車の中の奈央でもなく、「夜の奈央」だった。同じ人間が、場所と時間によって少しだけ違う顔を持つということを、今夜は特に感じた。
「音無」
「うん」
「今夜——来てもいい?」
前置きがなかった。しかし意味は、一秒で理解できた。
去年の夜の約束。「秘密、いっぱい教えてあげる」。今年の合宿でちゃんと話す、とあの時に言っていた。奈央が今年の合宿に向けて計画していたことは、のんとあやのが話しているのが耳に届いていた。しかしこうして奈央本人から直接聞かされると、情報として知っていた時とは少し違うものがある。奈央が、自分から動いてくる。
「……うん」と答えた。
「じゃあ、少ししたら行く」と奈央が言った。それだけ言って、廊下を戻っていった。
一人残された廊下で、しばらく立っていた。
心臓が、少しだけ速くなっていた。気づかなければよかった——と思ったが、気づいてしまったので、もう遅い。陰キャの困ったところは、自分の内側の変化に敏感すぎることだ。変化に気づかなければ気にならないのに、気づいてしまうから気になる。そしてそれを気にしていることも気になる。二重の気づきが、体温を二度ほど上げる。
山の虫の声が、あたりに満ちていた。
*
消灯の少し後、廊下の角で奈央と落ち合った。
二人で歩いた。女子棟から離れを結ぶ砂利道は、月明かりが照らしていた。雲がないので月がよく見えた。ほぼ満月に近い月が、木々の上に高く出ていた。山の中の月は、大阪の空で見るより大きく見える——気のせいかもしれないが、気のせいとも思えない大きさだった。
「月、明るいな」と言った。
「ね」と奈央が言った。
それだけだった。しかし静かさが重くなかった。二人の間にある静けさは、以前より少し、軽い。去年の今頃より、確実に軽い。一年間同じクラスで、同じ電車で通い、昼休みを同じ時間に過ごし続けたことが、二人の間の空気を少しずつ変えていた。
砂利道を踏む音が、二人分、重なって聞こえた。
「七瀬ちゃん、今夜どうするかな」と奈央が言った。小声だった。
「……なんとかなると思う」
「そう」と奈央が言った。それ以上は何も言わなかった。
離れの引き戸の前に来た。
「失礼します」と小声で言いながら、引き戸に手をかけた。スライドさせて、中に入った。
暗い部屋。月明かりが引き戸の隙間と窓から薄く差し込んでいた。
電気のスイッチを入れた。
六畳の和室に、間接照明の薄明かりが広がった。布団が一組、部屋の中央に敷いてあった。
その布団の中に、人がいた。
人が。いた。
「……」
静かな呼吸が聞こえた。す、と吸って、はあ、と出る呼吸。深く安らかで、規則正しい呼吸。睡眠に入ったばかりの人間の呼吸だった——しかしその呼吸があまりに演技的にゆっくりで、深く規則正しすぎた。作られた呼吸は、本物の呼吸より少しだけ均一だ。
「……」
奈央が固まった。
布団の中の人影を、一秒、二秒、三秒と、見続けた。
「七瀬さん」と奈央が言った。声のトーンは、静かだった。感情を圧縮した静かさだった。
布団の中の人影が、さらに深く、ゆっくりと呼吸した。
「七瀬さん」
「……zzz」
聞こえていた。絶対に聞こえていた。「zzz」という音を、人間が睡眠中に口から声として出すことは、生理的にありえない。
奈央が布団の端に手をかけた。
一秒間、ためた。
引いた。勢いよく引いた。
*
七瀬あおいが出てきた。
浴衣を着ていた。髪を下ろしていた。布団から引きずり出された体勢のまま、床の上に座る形になった。ゆっくりと目を開けた。ゆっくりと、一秒かけて状況を把握するような顔をした。その把握の仕方が、いかにも意図的だった。
「……あ」と七瀬が言った。声はいつも通り落ち着いていた。全く動じていなかった。「なんだ、石山先輩でしたか。気づきませんでした」
「聞こえてたでしょ」と奈央が言った。
「ぐっすり寝ていたので」
「さっきまで廊下にいたじゃない。あたしが音無と一緒に歩くのを見て、先に走り込んだんでしょ」
七瀬が少し間を置いた。
「……証拠はありますか」
奈央の表情が、微妙に動いた。感情が整理される前の、揺れの時間だった。三秒ほどで整理されて、声のトーンが定まった。
「証拠の問題じゃなくて」と奈央が言った。「出てください」
「嫌です」と七瀬が言った。
——七瀬あおいが、「嫌です」と言った。
「嫌です」という言葉を、七瀬があまりに自然に、あまりに静かに言ったので、最初は聞き違いかと思った。しかし聞き違いではなかった。七瀬は「嫌です」と言った。一語で。言い直しもしなかった。「嫌ですが、理由は——」という補足もしなかった。ただ「嫌です」だけだった。七瀬がここまで純粋に「嫌」と言う場面を、一年以上一緒にいて、僕は初めて見た。
「七瀬さん」と奈央が言った。
「石山先輩こそ」と七瀬が言った。「なんで来たんですか。男子の部屋に、女子が二人で来てもいいんですか。規則的に」
「それは——」
「あたしは、透先輩の部屋に入ってはいけないって言われました。規則だって。でも石山先輩は来てもいいんですか」
「深夜は想定してないだけで——」
「ならあたしも同じです」と七瀬が言った。「石山先輩と同じ理屈で、あたしも来ていいことになります」
論理的だった。不意をつかれたような論理の反転だった。奈央が一瞬、言葉を探した。
七瀬が立ち上がった。膝を折って座っていた体勢から、すっと立ち上がった。浴衣を着て髪を下ろした七瀬は、普段の制服の七瀬より少し輪郭が柔らかい。しかし目の中にある真っ直ぐさは変わらなかった。
「透先輩」と七瀬が僕を見た。「あたし、石山先輩に独り占めされるのが嫌です」
直球だった。
直球すぎて、部屋の空気が一度動いた。
「三人でいてもいいじゃないですか」と七瀬が続けた。声のトーンが少しだけ変わっていた。論理の声ではなく、感情の成分が滲み始めた声だった。「一緒にいればいい。石山先輩が話したいことがあるなら、あたしも聞きます。全部聞きます。なんで三人ではいけないんですか。あたしがいたら邪魔なんですか。何がそんなに問題なんですか」
「邪魔とは言っていない」と奈央が言った。「ただ——」
「ただ、何ですか」
奈央が、また言葉を探した。
奈央が言葉を探すのは、珍しい。奈央という人間は、言葉が整理されてから口を開く。整理に時間がかかることはあっても、整理を放棄することはない。しかし今夜の奈央は、整理しきれないまま黙った。整理できない理由が、整理できない場所にあるからだ。
「透先輩に、石山先輩を特別にする理由があるんですか」と七瀬が言った。「正直に教えてください。あたし、嘘をつかれるのが一番嫌いです。石山先輩に独り占めされることより嫌いです」
七瀬の声が、わずかに震えていた。
震えていた——というのは、泣く手前の震えではなく、こらえている震えだった。こらえながら話している声の震えだった。七瀬は人前では泣かない。一人になってから泣く人間だということを、一年以上の観察から知っている。今夜の七瀬は、そのこらえ方をしていた。こらえながら、それでも言葉を出していた。
「七瀬」と僕が言った。
七瀬が僕を見た。
「聞いてくれるか」
七瀬が黙って頷いた。一度だけ。
「七瀬のことが大切だから言う。大切だから——正直に言う」
七瀬の目が、わずかに揺れた。
「今夜は、奈央と二人で話したい。遠ざけたいわけじゃない。嫌いなわけでもない。七瀬のことを大切に思っているから——こそ、正直に頼んでる。嘘をつきたくないから頼んでる。七瀬に、嘘はつきたくない」
部屋が静かになった。
七瀬は、じっと僕を見ていた。
その目の奥に何があるか、僕には全部はわからなかった。しかしその目が——何か大切なものをこらえている目だということは、わかった。大切なものを、ここで出さないようにこらえている目だった。大切なものの名前を、七瀬は今夜はまだ言わなかった。
「……透先輩は」と七瀬が言った。
「うん」
「……あたしのことを、本当に大切だと思ってますか」
「思ってる」
「本当に」
「本当に」
七瀬が視線を少し落とした。一秒間、下を向いた。
それから顔を上げた時、七瀬の目には光が溜まっていた。
しかし七瀬は泣かなかった。こらえた。こらえたまま、深く一度息を吸った。息を吸って、それを静かに吐いた。吐いた後の七瀬の表情は、こらえた後の静けさを持っていた。
「……わかりました」と七瀬は言った。
声は、穏やかだった。感情を飲み込んだ後の、しんとした穏やかさだった。
七瀬が引き戸に向かった。引き戸の前で、一度だけ止まった。振り返らなかった。
「透先輩」
「うん」
「おやすみなさい」
静かな声だった。夜に溶けるような、静かな声だった。
引き戸が開いた。閉まった。
足音が遠ざかっていった。砂利道を踏む音が、少しずつ小さくなっていった。消えた。
山の虫の声だけが、残った。
*
六畳の和室に、二人が残った。
しばらく、どちらも動かなかった。引き戸が閉まった後の静けさが、しばらくの間、部屋の中に続いていた。
奈央が先に座った。壁に背中をつけて、膝を立てた座り方をした。奈央がこの座り方をする時は、少し緊張の成分が入っている——と気づいたのは最近のことだ。体を小さくした座り方。守りの形に近い。いつも背筋を伸ばしている奈央が、膝を立てて少し体を縮める。それが奈央の緊張のサインだと知ったのも、長く一緒にいたからだ。
「大丈夫だと思う」と言った。奈央が何も聞いていなかったが、聞く前に答えた。
「……そうね」と奈央が言った。
「七瀬は強い子だから。大丈夫」
「……うん」
奈央が膝の上に手を置いた。少し間があった。
「今夜、来てよかった?」と奈央が聞いた。
「よかった」
「七瀬ちゃんを追い出すことになったけど」
「追い出したわけじゃない。最後は七瀬が自分で決めた」
奈央が少し考えた。「……そうね」と言った。「七瀬ちゃん、選んで出ていった。それは本当だ」
「奈央は七瀬のことを、どう思ってる」と聞いた。
奈央が少し目を細めた。「どう、というのは」
「嫌いじゃないよね」
「嫌いじゃない」と奈央がすぐに言った。「むしろ——面白い子だと思ってる。あの子は正直すぎるから、いつも驚かされる。感情が全部、言葉と行動になってる。それはあたしにはできないことだから、すごいと思う。正直に言うと」
「正直に言うと」
「うん。嫌いではない。ただ——いろいろと、複雑なのは確かだけど」
「複雑なのはわかってる」
「……わかってるのか」
「わかってる」
奈央が少し黙った。
「去年の約束、覚えてた?」と奈央が聞いた。
「覚えてた」と答えた。
奈央が少し笑った。小さく、口の端だけが動く笑い方だった。
「じゃあ、話そう」と奈央が言った。
月明かりが窓から差し込んでいた。間接照明の薄明かりと月明かりが混ざって、部屋の中に柔らかい光の層が出来ていた。山の虫の声が、低く外から続いていた。
今夜が、始まった。
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(第四十二話へ続く)
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