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第四十話「合宿一日目、あるいは谷瀬荘の新しい顔ぶれについて」


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 第四十話「合宿一日目、あるいは谷瀬荘の新しい顔ぶれについて」

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 同じ場所に来ても、来る人間が変われば、場所の見え方が変わる。


 これは物理的な話ではない。谷瀬荘の建物は、去年と同じだ。木造の壁も、砂利道も、離れの和室も、大浴場も、庭も。施設は変わらない。


 しかし来る人間が変わると、場所の意味が変わる。去年の谷瀬荘は「林先輩と村田先輩がいた場所」だった。今年の谷瀬荘は「二年生の先輩として後輩を連れてきた場所」だ。同じ砂利道を踏んでも、踏む足の重さが違う。


 場所は器だ。

 器は変わらない。

 しかし何を入れるかで、器の意味が変わる。


 今年の谷瀬荘に何を入れるか。


 ——答えは合宿の最後の日にしかわからない。今日はまだ、一日目だ。




         *




 七月の最終月曜日。朝八時。


 学校前の集合場所に、全員が集まった。


 一年生は全員、大きなリュックを背負って緊張した顔をしていた。橘陽だけが「出発!!」と言って両腕を広げていた。一年生の他の部員が「静かにして」という目で橘陽を見た。橘陽は「すみません!!」と言った。声量は変わらなかった。


 双子が並んで立っていた。二人とも、同じ大きさのリュックを同じ背負い方で背負っていた。


 「谷瀬荘、行ったことありますか」と静が聞いた。

 「去年も行った」

 「どんな場所ですか」

 「奈良の山の中。静かで、涼しい」

 「先輩たちが去年経験したことを、あたしたちも今年経験する、ということですか」と凪が言った。

 「そういうこと」


 静と凪が同時に頷いた。ユニゾンだった。


 バスが来た。乗り込んだ。


 バスの中で、窓際の席に座った。去年は奈央が隣に座った。今年も奈央が隣に座った。


 「緊張してる?」と奈央が聞いた。


 「してる」


 「またしてるんだ」


 「合宿前はしてる」


 「去年もそう言ってた」


 「去年と同じだ」


 奈央が少し笑った。小さく、口の端だけ上がった笑い方だった。去年と同じ笑い方だった。場所は同じ。隣に座る人間も同じ。しかし今年は、その「同じ」に含まれていたものが一つ増えている気がした。何が増えたのかは、まだわからない。


バスが動き出した。


七瀬は三列後ろの席にいた。一年生の双子と橘陽の間に座っていた。橘陽が何か話しかけていて、七瀬が答えていた。こちらを見ていなかった。


大阪を出た。高速に入った。奈良に近づくにつれて、窓の外の緑が増えていった。




         *




 谷瀬荘に着いた。


 砂利道。木造の建物。山の冷気。


 すべて、去年と同じだった。


 「涼しい!!」と橘陽が言った。去年、のんが同じことを言っていた、と思った。


 一年生がバスから降りてきた。目が丸くなっている子、静かに建物を見回している子、早速スマホを構えている子。様々だ。


 双子がバスから降りてきた。二人とも建物を見た。


 「空気が違いますね」と静が言った。

 「湿度と温度が、大阪と違います」と凪が言った。


 「合宿の雰囲気、感じてる?」と聞いた。


 「感じています」と静が言った。「閉じた場所の感じがします。ここに来たら、しばらく出られない」


 「それが合宿だよ」


 「楽しみですか? それとも怖いですか」と凪が聞いた。


 「両方」と答えた。


 双子が同時に頷いた。


 施設の担当者が出てきた。部屋割りの説明が始まった。


 「男子の方——」と担当者が言いかけた。


 「はい」と手を挙げた。


 担当者が見た。一人だった。


 「男子の方は、離れの和室です。定員三名の部屋ですが、今年はお一人で」


 「わかりました」


 担当者がわずかに同情的な目を向けた——いや、同情ではなかった。「快適ですね」という目だった。一人で広い部屋。客観的には恵まれている。主観的には、それが正しいかどうかは夜になってから判定することになる。


 七瀬がこちらを見ていた。


 その目には、まだ何かが宿っていた。




         *




 午前中、全体合奏があった。


 谷瀬荘のホールは、天井が高く、残響が長い。学校の音楽室とは音の響き方が違う。音を出すたびに、空間が答えてくる感じがある。


 一年生は最初、その響きに戸惑っていた。自分の音が返ってくる速さが違う。音が消えるまでの時間が長い。慣れるまでに少し時間がかかる。


 「響きが長い。少し控えめに吹いていいよ。空間が音を足してくれるから」と金管パートに声をかけた。


 七瀬が頷いた。一年生が頷いた。


 「橘、返事の音量も少し控えめに」


 「すみません!!」


 音量は変わらなかった。部員の何人かが笑った。


 合奏が進んだ。昨日の通しリハーサルほどまとまってはいなかった。場所が変わると、音が変わる。慣れるまでの時間が必要だ。しかしそれは、今日中に解決しなくていいことだ。三泊四日ある。今日は場所に慣れる日だ。


 七瀬のソロが来た。


 昨日と少し違った。昨日より音が広がっていた。学校の音楽室より広い空間が、七瀬の音をさらに引き出していた。吹き終わった後、誰かが小声で「すごい」と言った。一年生だった。


 七瀬が少し照れた顔をした。七瀬が照れる顔は珍しい。照れることに慣れていない人間の照れ方だった。——才能を持って生まれた人間が、その才能を他人に驚かれた時に照れる。それは才能が自分の一部すぎて、驚かれる理由が純粋にわからない時の顔だ。


 「七瀬さんのソロ、空気を変えますね」と静が言った。

 「変えますね」と凪が言った。


 ユニゾン。




         *




 夕方。


 のんの水鉄砲大会が始まった。


 「みんなー! 集合!!」とのんが言った。


 庭に全員が集まった。のんがリュックから大量の水鉄砲を取り出した。サイズがバラバラで、小さいものから、ちょっとした水鉄砲ランチャーのようなものまであった。


 「あたしがレギュレーションを説明します。顔は禁止。楽器には絶対かけない。以上。あとは自由!!」


 「ルール少なすぎない?」と誰かが言った。

 「シンプルが一番!」とのんが言った。


 水鉄砲が配られた。


 最初の五秒は静かだった。次の五秒以降は、全員が濡れていた。


 奈央が予想以上に前線に立っていた。奈央は普段、こういう遊びには少し引き気味だが、今日は違った。集中して狙いを定めて、一発一発を確実に当てる。戦略的な水鉄砲だった。奈央が水鉄砲を持って戦略的に動いている姿は、ある意味で彼女らしく、ある意味で全然らしくなかった。


 一年生の橘陽は全力だった。「やったー!!」「あ、かかった!!」「先輩、ごめんなさい!!」が交互に飛んでいた。


 双子は二人で連携していた。一人が陽動で前に出て、もう一人が脇から攻撃する。誰かに言い合わせたわけではなく、自然にそうなっていた。——外来種の連携は、言語化されない。それが外来種の強さだ。


 七瀬は積極的に動いていた。一年生を率いて、グループで動いていた。


 「透先輩!」と七瀬が声をかけてきた瞬間に、横から水が飛んできた。奈央だった。


 「石山先輩!!」


 「合宿では平等だから」と奈央が言った。


 「透先輩に向かおうとしたから妨害したんですよね」と七瀬が言った。


 「そんなわけがないでしょ」と奈央が言った。


 その間に、橘陽に後ろから水をかけられた。


 「透先輩、ごめんなさい!!」


 「いいよ」


 濡れた。全身濡れた。山の七月の夕方の空気は、大阪よりずっと涼しい。濡れた体に山の冷気があたって、だんだん体温が下がってきた。




         *




 水鉄砲大会が終わった後、各パートがお風呂の時間になった。


 女子が先に入る。男子は最後。


 今年の男子は一人なので、女子全員が入り終わった後に、一人で入ることになっていた。


 問題は、終わるまでに時間がかかることだった。三十人弱の女子部員が入り終わるまでの時間、濡れたままの格好で、廊下に座っていた。


 山の夕方。七月といえど、標高のある谷瀬荘の夜は冷える。体が冷えてきた。震えないように我慢しているが、小刻みに体が揺れた。


 廊下に一人で座って、タオルを羽織って、震えていた。


 男子一人の合宿の孤独が、体温という形で現れていた。


 「音無」


 声がした。


 奈央だった。


 お風呂上がりの格好で、廊下を歩いてきた。ドライヤーをかける前の、少し湿った髪だった。


 「もうお風呂終わった?」と聞いた。

 「全員は終わってない。あたしは先に上がっちゃった」

 「なんで」

 「…………なんとなく」


 奈央が廊下の壁に背中をつけて、横に座った。


 「なんで座るの」

 「待ってる」

 「待つ必要はないよ」

 「うるさい」


 奈央の「うるさい」は、退場命令ではない。それはわかっていた。一年以上一緒にいると、奈央の「うるさい」の種類が判別できるようになる。今日のそれは、「それ以上言わないで」ではなく、「黙って隣にいさせて」に近い意味だった。


しばらく、二人が廊下にいた。山の夜の音が聞こえた。虫の声が、大阪とは比べものにならないくらい大きかった。


「去年の合宿でさ」と奈央が言った。

「うん」

「今年こそちゃんと話したいことがあって」

「今話せば?」

「今じゃなくて、夜に。消灯後に。ちゃんと二人で」


奈央が前を向いたまま言った。


去年の「秘密、いっぱい教えてあげる」の約束だった。


「…………」


「嫌だったら断っていいけど」と奈央が言った。


「嫌じゃないけど」


「……じゃあ、後で来る」


奈央がそう言った時だった。


廊下の向こうから、足音が来た。小さく、しかし確実に近づいてくる足音だった。


「透先輩!!」


七瀬だった。


七瀬がドライヤーを手に持って、廊下を歩いてきた。お風呂上がりの格好で、髪が少し濡れていた。


廊下に奈央と主人公が並んで座っているのを見た。


七瀬の目が、奈央を見た。奈央の目が、七瀬を見た。


「石山先輩」と七瀬が言った。

「七瀬さん」と奈央が言った。


二人の目が、静かに火花を散らした。


「ここで何をしてるんですか」と七瀬が奈央に聞いた。

「音無が寒そうだったから、一緒にいた」

「透先輩、寒いですか」と七瀬が聞いた。

「少し」

「中に入りましょう」


七瀬が腕をつかんで、立ち上がらせた。


「七瀬——」

「廊下は体が冷えます。部屋で待っていれば、すぐ順番が来ます」


七瀬が連れていこうとした。奈央が立ち上がった。


「七瀬さん、それはあたしが——」

「一緒に来ますか?」と七瀬が奈央に言った。


「え?」


「石山先輩も、一緒に来ればいいです。二人で透先輩を温めればいい」


七瀬の言い方は、本気だった。純粋に体温を心配した上での発言だった。それが奈央の予想と全く違う方向から来たので、奈央が一瞬言葉を失った。


「……それは」

「いいですよね、透先輩」と七瀬が見た。

「…………それはちょっと違くない?」

「何が違うんですか」


廊下に三人が立っていた。


挟まれていた。


男子一人の合宿が、静かに、しかし確実に、にぎやかになっていた。


七瀬が「とりあえず廊下から出ましょう」と言って、引っ張った。


奈央が少しの間だけ立っていた。立っていた後、「……しょうがない」と言って歩き出した。


三人が廊下を歩いた。


谷瀬荘の一日目が、終わりに近づいていた。


今年の夜も遅くまでハレンチな話をするのだろうか。夜の——。


夜の何が待っているのか、この時点ではまだ誰にもわからなかった。


名前のつかない感情の残高が、合宿一日目でまた大幅に増えた。量だけではなく、種類も増えた。新しい場所が、新しい感情を引き出す。去年と同じ谷瀬荘が、去年とは全然違う夜を連れてきた。




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            (第四十一話へ続く)

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