第三十九話「出発前夜、あるいは秘密の計画が漏れた件について」
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第三十九話「出発前夜、あるいは秘密の計画が漏れた件について」
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秘密、という概念について考えよう。
秘密とは、特定の人間の間だけで共有される情報のことだ。外部に漏れることで、情報としての価値を失う——あるいは、漏れることで別の何かが始まる。「秘密が漏れる」という出来事は、終わりであると同時に始まりでもある。
秘密が漏れる経路は、いくつかある。
一つ目は、秘密を知っている人間が意図して漏らす場合。
二つ目は、秘密を知っている人間が意図せず漏らす場合。
三つ目は、秘密を知っている人間が「まだ大丈夫だろう」と思って話した範囲が、実は大丈夫ではなかった場合。
のんの場合は、三つ目だった。
——のんを責める気はない。のんは性善説で動く人間だ。性善説で動く人間は、悪意なく危険なことをする。それが性善説の代償だ。人間の中で最も性善説に近い場所に立っているのんには、「これを言ったらまずい」という警戒センサーが、他の人間より少し遅れてはたらく。
○
合宿の五日前。
最後の通しリハーサルが終わった後、音楽室の外の廊下で、のんが七瀬に話しかけた。
「七瀬ちゃん、最近大変だったね」とのんが言った。
「大変、というより——」と七瀬が言いかけた。
「音無のこと、ほんとに好きなんだね」とのんが続けた。
七瀬が少し間を置いた。
「はい」と答えた。
迷いなかった。一ミリも、迷いなかった。
「奈央のこと、嫌いじゃないでしょ」とのんが言った。
「嫌いではないです」と七瀬が言った。「ただ、あたしの方が透先輩のそばにいたい。それだけで」
「それだけ、が一番難しいんだよね」とのんが言った。
七瀬が頷いた。
のんが少し考えた。少し考えて、思ったことを言った。——思ったことを言う前に、少しだけ止まれればよかった。
「奈央さ、合宿の夜に音無の部屋に行く計画があるんだよね。二人で話すっていう」
七瀬が固まった。
「去年の合宿から計画してたやつ。今年こそ実行するって言ってて」
七瀬は固まったままだった。固まって、固まって、固まったまま一秒が経った。
のんが七瀬の顔を見た。見て、自分が言ってはいけないことを言ったことに気づいた。
「……七瀬ちゃん?」
七瀬がゆっくりと頷いた。一回だけ。
「教えてくれてありがとうございます」と七瀬が言った。
声は、普通だった。普通すぎるくらい普通だった。感情が処理されてから言葉になるのに時間がかかる人間と、感情が即座に言葉になる人間がいる。七瀬は後者だが、今この瞬間だけは、言葉より感情の処理が先に動いていた。
「……ごめん、言わない方がよかったかな」
「いいえ」と七瀬が言った。「知っておきたかったので」
七瀬が「失礼します」と言って廊下を歩いていった。
のんは廊下に一人残って、「やっちゃった」と小声で言った。
○
翌日、放課後。
七瀬が奈央の教室に来た。
奈央は帰り支度をしていた。七瀬が入ってきた気配を感じて、顔を上げた。
「七瀬さん」
「石山先輩」
二人の目が合った。
今日の七瀬の目には、いつもの直球の光とは少し違うものがあった。何かを確認しに来た目だった。確認して、その上で次の一手を打つための目だった。
「合宿の夜、音無先輩の部屋に行くつもりですか」
奈央は動かなかった。
「……誰から聞いたの」
「のん先輩から」
奈央がため息をついた。のんへの感情が三十パーセント、七瀬への感情が四十パーセント、自分への感情が三十パーセント、混ざり合ったため息だった。——これは後で推定したものだが、多分そのくらいの比率だったと思う。
「あたしが先に行きます」と七瀬が言った。
「……何を言ってるの」
「あたしが先に透先輩の部屋に行きます。石山先輩より先に」
奈央が七瀬を見た。
七瀬は本気だった。
「部屋割りでは同室できないって言われた。でも深夜に行くことは禁止されてないはずです」
「されてないというより、想定してないだけだよ」
「では、あたしも想定外の行動を取ります」
「七瀬さん」と奈央が言った。
「はい」
「……あなたって、なんでそんなに真っ直ぐなの」
七瀬が少し間を置いた。
「透先輩に最初からそうだったので」と七瀬は言った。「透先輩の前では、曲げる理由がないです」
奈央が何かを言いかけた。言いかけた言葉を、飲み込んだ。
「……わかった」と奈央は言った。「好きにして」
「石山先輩も行くんですか?」
「……それはあたしが決めること」
「はい。でも、あたしより先には行かせません」
「どうやって防ぐの」と奈央が言った。半分は呆れ、半分は本気で聞いていた。
「一緒に行きます」と七瀬が言った。「二人で行けば、どちらかが先ということにはならないので」
奈央が七瀬を見た。
少しの間があった。
「……それはない」
「なぜですか」
「二人で行く方がおかしい」
「二人で行く方が、むしろ自然です。透先輩に二人で話しかければいい」
「透先輩」という呼び方で、奈央が少し顔をしかめた。
「七瀬さん、あなたって本当に——」
「真っ直ぐすぎますか」
「……そう」
「それは直せないです」と七瀬が言った。「透先輩が好きなので」
奈央が少し下を向いた。
「……うるさい」
それだけ言った。怒っているのか、参っているのか、笑いをこらえているのか、判断できなかった——と後で奈央は言った。周囲で片付けをしていた他の二年生が、こっそり横を向いていた。
*
合宿前日。
最後の全体合奏があった。
コンクール自由曲を一曲通した。
今日の合奏は、今までで一番まとまっていた。七瀬のソロが、完成に近い形で出た。透明感と力強さが共存した音で、その一分間、音楽室の全員が静かになった。
金管パートは、コンサートマスターとして僕がまとめた。指示は短く出した。「もう少し前へ」「ホルン、厚みを足して」「トランペット、音の頭を揃えて」。短い言葉が、毎回一回で通った。
「いい合奏だった」と田中先生が言った。
珍しい言葉だった。先生は滅多に「いい」と言わない。具体的な修正を言う。それが「いい」という言葉になった時、それは本当に何かが揃っていたということだ。「いい」という言葉は、先生の辞書では希少語だ。
「明日、谷瀬荘でまた通そう」と先生が言った。「今日の音を持っていけるように」
全員が頷いた。一年生も頷いていた。橘陽が「はい!!」と言った。声量は相変わらずだった。双子は無言で頷いた。
七瀬がこちらを見た。僕も見た。目が合った。
七瀬が「明日も、よろしくお願いします」と口の形だけで言った。
「こちらこそ」と僕も口の形で返した。
奈央は、その方向を見ていなかった。
*
合宿前夜。
荷物をまとめた。三泊四日の荷物は去年より少し慣れていて、手際よくリュックに収まった。着替え、練習着、タオル、洗面用具。楽器は別に持つ。去年との違いは、今年は荷物の中に一つだけ、自分のスコアに書いた補足ノートが入っていることだった。
コンサートマスターとしての役割を書いた手帳だった。全体合奏のポイント、各パートへの指示、気になる箇所のメモ。去年の自分には書けなかったもの。一年の積み重ねが、そのノートの中にある。
スマホに、田村からメッセージが来ていた。
「明日から合宿?」
「そう」と返した。
「頑張れよ。あと気をつけろよ」
「何を」
「わからんけど気をつけろ、みたいな感じ」
田村の直感は、たまに鋭い。何かを言語化できていないが、何かを感じている。それが「気をつけろ」という言葉になって出てきた。「わからんけど気をつけろ」——これは陽キャにしか言えない言葉だと思う。陰キャは理由なしに警告を発することができない。根拠がないと言葉にならない。田村の言葉の軽さが、たまにうらやましい。
「わかった」と返した。
母親が「合宿の荷物、完璧?」と部屋に顔を出した。
「完璧」
「変なことしないように」
「去年も言われた」
「去年も言う必要があったから言った。今年も言う必要がある」
変なことの定義は相変わらず曖昧だった。
しかし今年は、去年より少しだけ「変なこと」の候補が増えている気がした。それはこちらの問題ではない。奈央と七瀬の問題だ——と思うことにした。自分に直接関係しているとしても、動かすことができないことは自分の問題として抱えない。これが陰キャの自衛策だ。
布団に入った。
明日の朝、学校前に集合。バスで奈良の谷瀬荘へ。三泊四日。去年と同じ場所。しかし去年と全然違うメンバーで。
男子は、一人だ。
六畳の部屋に、一人で眠る。
その事実を確認しながら、目を閉じた。
眠れた。意外にすんなり眠れた。
陰キャは、眠る前に抱えた問題を、眠ることで一時的に全部リセットできる。それが陰キャの数少ない特技の一つだった。どうせ明日になれば、また全部始まる。明日でいい。
山が、待っていた。
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(第四十話へ続く)
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