第三十八話「女の戦争、あるいは本音が滲み出る論争と秘密の計画について」
# 桜塚高校とかいう青春バカの集まりでド陰キャをかまし続けた3年間について。
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第三十八話「女の戦争、あるいは本音が滲み出る論争と秘密の計画について」
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本音と建前、という概念がある。
建前とは、表向きの理由だ。社会的に通用する言葉で包まれた、まともな主張のことだ。
本音とは、内側にある本当の理由だ。社会的には言いにくい、しかし感情としては本物のことだ。
人間は建前で話す。特に、感情が絡む場面では。感情そのものを出してしまうと、傷ついたり、傷つけたりする。だから建前で話す。建前は鎧だ。内側の柔らかい部分を守るための。
しかし、戦いが激しくなると、鎧に隙間ができる。
隙間から、本音が滲み出る。
この話は、そういう話だ。——もう少し正確に言うと、本音を出すことを選んだ人間と、本音を出せない人間の、対比の話でもある。どちらが正しいか、今は判断しない。どちらにも理由がある。ただ、その夜の音楽室で起きたことは、どちらかの正しさを証明するためではなく、両方の感情が、そこに確かに存在していたという記録だ。
*
七月の第三週。
衝突は、放課後の音楽室で起きた。
合奏が終わって、全員が片付けをしていた時間だった。
七瀬が、奈央のいる方向に向かって歩いてきた。奈央は椅子を片付けながら、七瀬が来るのを見た。どちらも止まらなかった。どちらも言葉が出る前から、この場所に向かっていたように見えた。
「石山先輩」
「七瀬さん」
短い呼びかけ。
周囲の部員が、ゆっくりと二人の方向を向き始めた。直接見るのではなく、視界の端に入れながら、片付けの手を続けている。——この「視界の端に入れながら手を動かす」行動は、吹奏楽部員に限らず、人間が集団の中で「見たいが見ていないふりをする」時の典型的な所作だ。
「はっきり聞きますね」と七瀬が言った。「石山先輩は、透先輩のことが好きですか」
音楽室の温度が一度下がった。
奈央が七瀬を見た。表情は動かさなかった。
「……それを聞いてどうするの」
「答えを聞いてから、考えます」
「あなたが好きだとしても、私が好きだとしても、それがなんで部屋割りの話と関係あるの」
「関係あります。石山先輩が透先輩のことを好きだから、あたしが一緒に寝ることに反対してるんじゃないんですか」
奈央が少し息を吸った。
「あなたに教える義務はない」と奈央が言った。
「ないですね」と七瀬が言った。「でも透先輩の部屋に一人でいかせたくない理由があるんじゃないですか。石山先輩には」
また、音楽室の温度が下がった。もう一度、下がった。
「七瀬さん」と奈央が声のトーンを少し下げた。
「なんですか」
「合宿の部屋割りは、規則で決まってる。理由や感情は関係なく、規則として同室は不可能。それだけ」
理論武装だった。奈央は感情を回収して、論理の鎧を着直した。見事な着直し方だった——というのは皮肉ではなく、純粋に技術として見事だと思った。感情を論理で包む速度が、奈央は早い。
「わかりました」と七瀬が言った。「でも——」
「でも?」
「透先輩のことが大切だから、そばにいたい。それは、あたしだけですか?」
奈央が答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
七瀬がそれを見た。
「……あたしは、先輩に正直でいようと決めてます」と七瀬が言った。「石山先輩は、正直じゃないと思います」
「余計なお世話」
「そうですね。余計なお世話です」七瀬が一礼した。「でも言いたかったので」
七瀬が自分のパートの席に戻った。
奈央は少しの間、その場に立っていた。周囲が視線を戻した。誰も何も言わなかった。しかし、何人かの顔に「見えてしまった」という表情があった。
のんが奈央のそばに来て、「大丈夫?」と小声で聞いた。
「大丈夫」と奈央は言った。
「顔が大丈夫じゃない」とのんが言った。
奈央はそれには答えなかった。
○
帰り道。のんとあやのが二人で歩いていた。
部活が終わった後、のんが「ちょっと話そ」とあやのを呼んで、音楽室から少し離れた場所に来た。
「あやの」
「うん」
「奈央の話」
「……奈央が何か?」
あやのは少し表情を変えた。——あやのの表情は変化が小さい。変化が小さいからこそ、何か感じた時にそれがわかる。動かない顔の、わずかな動きが、感情の指標になる。
「奈央ってさ、去年の合宿の時から計画してたんだよ」のんが少し声を低くした。「深夜に音無の部屋に行って、二人で話す計画」
「……知ってる」
「知ってたんだ!」
「奈央から去年の秋に聞いた」
あやのが答えた。静かな声で。
「去年の合宿でさ、奈央と音無があの『秘密いっぱい教えてあげる』みたいな話をしたって言ってたじゃん」
「うん」
「奈央はその続きを今年にやるつもりなんだよ。今度は二人で、音無の部屋に行って。合宿の夜に」
あやのが少し沈黙した。
「……奈央が自分からそれをするのは、珍しいね」
「そうなんだよ! 奈央って普通は動かないじゃん。音無が来るのを待つ側じゃん。でも今年は自分で動こうとしてる」
「それだけ、大事なんだよ」とあやのが言った。
「音無のこと?」
「今年の合宿のこと。奈央にとって、それが大事なんだと思う」
のんが少し考えた。
「でも七瀬ちゃんが割り込んできてさ……」
「七瀬さんには、まだ言わない方がいい」とあやのが言った。
「そうだよね」とのんが言った。
二人が歩き出した。
「のんはどっちの味方なの?」とあやのが聞いた。
のんが少し考えた。
「両方かな。どっちも応援したい」
「どっちも応援したら、どちらかが傷つく」
のんが黙った。
「……そうなんだよね」とのんが言った。
あやのが少し先を歩いた。夕方の住宅地を、二人が歩いていた。
○
音楽室では、その頃。
双子が片付けをしながら、話していた。
「のん先輩とあやの先輩が話してた」と静が言った。
「奈央先輩の計画の話」と凪が言った。
二人は同時に口を開いたが、今度はユニゾンではなく、静が言って凪が補足する形だった。
「聞こえてたの?」と橘陽が言った。橘陽がそこにいた。同じパートの先輩の楽器を片付ける手伝いをしながら、近くにいた。
「聞こえた」と静が言った。
「意図して聞いてたわけじゃないですけど」と凪が言った。
「なんか複雑なことになってるんですね」と橘陽が言った。
「複雑ですね」と静が言った。「しかし、構造は単純です」
「単純?」
「音無先輩を中心に、二人が螺旋状に巻きついている。一人は正面から。一人は内側から」
橘陽が首を傾けた。
「どっちが正面でどっちが内側?」
「七瀬さんが正面。石山先輩が内側」と凪が答えた。
「内側の方が深い、ということですか」と橘陽が聞いた。
静が少し間を置いた。
「深さより、方向の話です。七瀬さんは外側から向かう。石山先輩は中から作る。どちらの方法が正しいかは、音無先輩だけが知ってることです」
橘陽が少し考えた。
「難しいことを考えるなあ」
「難しくないです。見えてることを言っているだけです」と静が言った。
「でもあたしには見えないわ」と橘陽が言った。
「見えていないのではなく、見ようとしていないんじゃないですか」と凪が言った。
橘陽が「うーん」と言った。
双子が楽器をケースに収めた。二人とも同じ動作を、同じ速度でやった。
橘陽がその動作を見ていた。
「あんたたちって、ほんとに不思議だよな・・・」と橘陽が言った。
「よく言われます」と静が言った。
「よく言われます」と凪が言った。
ユニゾンだった。
*
その夜、僕は自分の部屋で一人、スコアを見ていた。
今日の音楽室の場面を、頭の中で何度か再生した。
七瀬と奈央の言い合い。
七瀬の「正直じゃないと思います」という言葉。奈央の「余計なお世話」という言葉。
どちらも正しかった。七瀬は正直だった。奈央は正直ではなかった。しかし奈央が正直でないのは、正直にする言葉を持っていないからで、それは臆病ではなく——言葉が感情に追いついていない状態だ。それは自分によく似ている、と思った。陰キャの名前のつかない感情の問題を、奈央も抱えているのかもしれない。あるいは奈央は僕とは別の理由で、言葉を持てないでいるのかもしれない。どちらかはわからない。わからないままにしておく。
田村に「最近どうよ」とメッセージが来ていた。
「まあ」と返した。
「まあってなんだよ」と田村が返した。
「部活がいろいろあって」と返した。
「後輩の話?」と田村が返した。
「後輩たちの話」と返した。
「複数形になったんだ」と田村が返した。
「なった」と返した。
「大変だな。頑張れよ」と田村が返した。
田村の「頑張れよ」は、シンプルだが毎回届く。届く理由がわからないが、届く。これは田村の言葉が特別なのではなく、「頑張れよ」という言葉が本来持っている射程距離の問題だと思う。正しいタイミングに放たれた「頑張れよ」は、どんな言葉より遠くまで届く。
合宿まで、一週間を切った。
名前のつかない感情の残高が、今日も増えた。今日の増加分は、七瀬と奈央の両方から来ていた。どちらが何をくれたのか、分類する方法がまだ見つかっていない。
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(第三十九話へ続く)
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