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第三十七話「部屋割りという名の戦場、あるいは七瀬のごり押し大作戦について」


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 第三十七話「部屋割りという名の戦場、あるいは七瀬のごり押し大作戦について」

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 交渉、という行為がある。


 複数の当事者が、それぞれの要求を持ち寄って、妥協点を探ること——というのが辞書的な定義だが、交渉にはもう一つの形がある。


 妥協点を探さない交渉だ。


 一方が妥協する気がまったくなく、ただ自分の要求を正面から持ち込んでくる場合。これは交渉というより、宣言に近い。「あなたの要求と私の要求が折り合う点を探しましょう」ではなく、「これが私の要求です。受け入れてください」という形の言語行動だ。


 七瀬あおいの「交渉」は、後者だった。


 成立しえない要求を、あきらめない人間の強さで持ち続けた。


 なぜ成立しえない要求を諦めないのか。


 その答えは、七瀬自身の感情の中にあった。——感情が理由になる時、それは最も強い理由だ。反論の余地がない。感情は感情で上書きするしかない。論理では太刀打ちできない。これは陰キャの一人称視点からの観察だが、七瀬のような人間を相手にする時に知っておくべき基本事項だと思う。




         *




 部屋割りが発表されたのは、合宿の二週間前だった。


 奈央が作ったスケジュール表と一緒に、部屋割りのプリントが配られた。


 今年の谷瀬荘の部屋割り:


 一年生女子:大部屋(定員十六名)

 二年生女子:A棟二部屋に分かれて、各部屋七名

 男子:離れ和室(定員三名)


 男子、とあったが、今年の男子部員は一人だった。


 音無透。二年生。トランペット。六畳の部屋に、一人。


 「広いな」と思った。


 去年は六畳に三人だった。今年は六畳に一人だ。布団も一枚でいい。誰かのイビキも聞こえない。静かに眠れる。


 悪くない、と思った。思ったその瞬間、隣から声がした。


 「透先輩」


 七瀬だった。


 七瀬がプリントを手に持って、こちらを見ていた。その目に、何かが宿っていた。目的を持った人間の、真っ直ぐな光だった。——この時点で、僕は何かを察すべきだった。七瀬の目がこの光を持っている時、それは「言っても無駄な会話」の始まりを意味する。


 「……なに」

 「男子の部屋、一人なんですよね」

 「そうだけど」

 「定員三名なのに、一人ですよね」

 「そうだけど」

 「つまり、あと二名分のスペースがありますよね」


 来た。


 「七瀬」

 「一緒に寝てもいいですか」


 音楽室が、一瞬静かになった気がした。正確には、静かになったのではなく、僕の周囲だけ音が消えた感じがした。耳鳴りに似た静寂だった。


 「……何を言ってるの」

 「一緒に寝たいです。透先輩は一人で広い部屋なので、スペース的には問題ないと思います」

 「スペースの問題ではなくて」

 「じゃあ何の問題ですか」

 「規則の問題」

 「規則は変えられます」

 「変えられない」

 「先生に聞いてみます」


 「聞くな」と言ったが、七瀬はもう先生の方に向かっていた。


 背筋が伸びている。歩幅が速い。目的地に向かう七瀬の引力は、どんな障壁も視界から外す。障壁が見えていないのではなく、見えているのに気にしない——のだと思う。七瀬にとって、障壁は除去するものではなく迂回するものだ。


 止める間もなかった。




         *




 七瀬は田中先生のところへ直談判に行った。


 「先生、音無先輩の部屋に一緒に入ってもいいですか」


 田中先生は少し考えた。考えて、首を横に振った。


 「男女別は合宿の基本ルールだから。それは変えられない」

 「でも透先輩、一人で寂しいんじゃないですか」

 「寂しくないと思うけど」

 「一人で広い部屋にいると、寂しくなります。あたしが経験者なので確かです」

 「それは七瀬さんの話でしょ」

 「共通点があると思います」

 「ない」

 「先生、試しに一晩だけ」

 「ない。以上」


 先生は書き物に戻った。


 七瀬は一礼して、廊下に出た。


 廊下で少しの間、考えた。


 先生がダメなら、他の方法がある。——七瀬は方法を探す人間だ。ルールの隙間を探すのではなく、ルールの外側に別の論理を作る。「透先輩と一緒にいたい」という感情は、どんな障壁の前でも変わらない。変わらないから、方法だけを変える。感情の一定性と方法の柔軟性が、七瀬という人間の構造だ。




         *




 放課後、帰り支度をしていたところで、七瀬が僕の教室に来た。


 奈央がいた。


 奈央は僕の席の隣で、明日の練習のスコアを確認していた。教室に一年生が入ってくる気配を感じて、顔を上げた。七瀬と目が合った。


 「石山先輩」と七瀬が言った。

 「七瀬さん」と奈央が言った。


 二人が同時に僕を見た。


 僕は自分が戦場の中心にいることを理解した。理解したところで逃げる場所はなかった。席に座っているので逃げ場が物理的にない。陰キャの宿命だ。


 「透先輩に話があって来ました」と七瀬が言った。

 「聞いた。合宿の部屋の話でしょ」と奈央が言った。


 七瀬が少し目を細めた。

 「誰から聞いたんですか」

 「のんから」

 「……のん先輩は声が大きいですね」

 「あなたが先生に直談判に行ったって話、もう全員知ってるよ」


 七瀬は少し間を置いた。間を置いたが、引いてはいなかった。


 「それで、何か問題がありますか」

 「問題しかないでしょ」と奈央が言った。


 奈央の声のトーンが、普段より少し硬かった。


 「透先輩の部屋は定員三名です。今は一人しかいない。スペースがある」

 「問題はスペースじゃなくて、男女の話」

 「一緒に寝たいと思うことは、おかしいですか」

 「おかしくはないけど、それが通ったら困ることがある」


 奈央が「困ることがある」と言った時、七瀬は少し反応した。


 困ること、とは何か。


 七瀬はわかっていた。奈央も、わかっていた。僕だけが、「困ること」の全貌をまだ知らなかった。——知らないことが、この物語の僕のデフォルト状態だ。周囲が知っていて、中心にいる僕だけ知らない。陰キャの構造的な情報格差がここにある。


 「石山先輩には関係ないと思います」と七瀬が言った。

 「関係あるから言ってる」と奈央が言った。

 「どう関係あるんですか」


 奈央が口を開いた。何かを言いかけた。しかし止まった。


 「……規則として。部活の先輩として。それで十分でしょ」


 建前だった。誰の目にも、建前だとわかった。建前として発言した奈央にも、おそらくわかっていた。


 「透先輩はどう思いますか」と七瀬が僕を向いた。

 「……困ってる」と僕は言った。

 「誰のことで困ってるんですか」

 「全体的に」


 全体的に困っている。正確な回答だった。部屋割りの問題で困っているのではなく、この状況全体で困っている。二人の間に挟まれながら、自分がどっちを向けばいいのかが、わからない。わからない。わからない。




         *




 帰り道。電車に乗った。奈央と二人だった。


 七瀬は部活に残るといって、先に分かれていた。


 電車の中、しばらく二人とも黙っていた。


 「……小学校の話、聞いた?」と奈央が言った。

 「何の話」

 「七瀬さんが言ってた、小学校の合宿で一緒に寝たっていう話」


 そういえば、七瀬は途中でそれを言いかけていた。全員がいる前では言い切らなかったが。


 「……聞いてない。何の話なの」

 「本人に聞いた方がいいと思う」と奈央は言った。「そのまんまの意味で」


 奈央が文庫本を出した。今日は読む気があるようで、最初のページを開いた。


 「奈央は七瀬のことを」と言いかけた。


 「なに」と奈央が本から目を上げた。


 「……嫌いじゃないよね」


 奈央が少しだけ間を置いた。


 「嫌いじゃない。でも——」


 電車が石橋駅に着いた。


 「でも?」

 「でもは、ない。降りる」


 奈央が立ち上がった。扉の前に立った。


 「でもは、ある」と僕は思った。しかし追及しなかった。


 扉が開いた。奈央が降りた。


 でも、の先に何があるのかを、今夜考えながら眠ることになった。男子部員一人の合宿まで、二週間を切っていた。




         *




 翌日の昼休み。七瀬が僕の教室に来た。


 「透先輩、少し話していいですか」


 奈央が昼食を持ってくる前の、わずかな時間だった。


 「昨日、石山先輩の前で言えなかったことがあって」と七瀬が言った。

 「なに」

 「小学校の合宿の話です」


 七瀬が真っ直ぐに僕を見た。


 「透先輩、覚えてますか。池田小学校の金管バンド、二泊三日の合宿」

 「……ぼんやりとは」

 「ぼんやりと、ですね。想像してましたけど」


 七瀬が少し息を吸った。


 「あの時、先輩があたしの隣に布団を敷いてくれたんです。あたし、初めての合宿で怖くて眠れなくて。先輩が気づいて、隣に来てくれた」

 「……」

 「先輩は何も言わなかった。ただ隣にいてくれた。それで眠れたんです」


 僕の記憶は、ぼんやりとしていた。


 しかしその「ぼんやり」の中に、小さな女の子と、暗い部屋と、自分の布団を持って移動した感触が、かすかに残っていた。残っていた——というより、七瀬の言葉が、記憶の中に眠っていた何かを呼び起こした、という感じだった。


 「覚えてないですよね」と七瀬が言った。


 「……少しだけ」

 「少しだけでも、よかった」


 七瀬が少し笑った。


 「だから先輩の隣がいいんです。高校の合宿でも。あたしは今も、先輩の隣だと安心するから」


 七瀬の言い方は、直球だった。飾りがない。計算がない。感じたことと言葉の間に、何の変換もない。それが七瀬あおいという人間の言葉の使い方だ。


 「……それでも、今年の合宿では一緒には寝られない」と僕は言った。


 「わかってます」と七瀬が言った。「でも言いたかったんです。理由だけは」


 「……ありがとう」


 七瀬は一礼して、廊下に出た。


 廊下の方を、少しの間見ていた。


 そこへ奈央がやってきた。弁当を持って。


 「七瀬さん、来てた?」

 「来てた」

 「小学校の話、した?」

 「……した」


 奈央が隣の席を引いて、弁当を開けた。


 「そう」と奈央は言った。


 それだけだった。「そう」の中に何が入っていたか、読み解く語彙を僕は持っていなかった。


 名前のつかない感情の残高が、今日もまた増えた。


 七瀬の「ただ隣にいてくれた」という言葉と、奈央の「そう」が、残高の中で重なりながら積み上がっていった。




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            (第三十八話へ続く)

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