第三十六話「一年生という新しい生態系、あるいは双子に翻弄される先輩の話」
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第三十六話「一年生という新しい生態系、あるいは双子に翻弄される先輩の話」
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生態系、という概念がある。
特定の環境の中で、複数の生物が関係し合いながら形成するシステムのことだ——と、生物の授業ではそう習う。吹奏楽部という生態系においては、先輩という上位種、後輩という下位種、顧問という管理者種が、複雑に絡み合っている。
もっとも、「上位種」「下位種」という分類に吹奏楽部を当てはめるのは正確ではないかもしれない。上下が音の上手さで決まる世界では、後輩が上位になることもある。七瀬あおいがその典型だが——いや、その話は前の話で散々したので繰り返さない。今回は別の話だ。
今回の話は、外来種の話だ。
外来種とは、外からやってきた生物が既存の均衡に予想外の影響を与えることをいう。外来種は時に益をもたらし、時に既存の秩序を崩す。いずれにせよ、外来種の侵入した生態系は、その前と同じ顔を保てない。
今年の一年生のうち、特定の二人が外来種だった。
桐島静と桐島凪。双子。低音木管の二人。
彼女たちが音楽室に入ってきた瞬間に、部内の何かが——静かに、しかし確実に——ずれ始めた。先に断っておくが、ずれ始めたのは秩序ではない。僕の心理的な平衡だ。
*
七月の第二週。音楽室。
今日から一年生が全体合奏に正式に参加する。六月はパート練習と見学が中心だったが、七月に入ってコンクール本番に向けた合奏練習が本格化した。音楽室に入ると、いつもより人数が多かった。一年生が自分のパートの席に収まっている。緊張した顔、期待に満ちた顔、何も考えていなさそうな顔。バリエーションがある。
一番最初に目に入ったのは、低音木管の位置に並んでいる二人だった。
桐島静と桐島凪——一年生。姉妹だ。双子だ。説明不要かもしれないが一応書く。今後何度も登場するので、最初にきちんと紹介しておいた方がいい。
見た目は似ているが、鏡像ではない。同じ素材で作られた、わずかに違う形の器、という感じだった。姉の静は黒縁眼鏡をかけていて、バリトンサックスを膝の上に置いていた。妹の凪は眼鏡をかけておらず、バスクラリネットを立てて持っていた。どちらも声が低い。どちらも表情が乏しい。どちらも周囲のざわめきから少し切り離されたところに座っている、という印象だった。
「透先輩」と七瀬が隣に来た。
「七瀬」
「一年生、今日から全体練習ですね」
「そうだね」
「音楽室が広くなった感じがします」
「広くはなってないけど、人は増えた」
「同じことです」
七瀬の言い方は、論理的には違うことを同じと言っているのだが、感覚としてはそうとも言える。人が増えると、空間の体感が変わる。僕にも七瀬にも共通した感覚なのだから、まあ同じことだ——と言ってしまうことにする。
「音無先輩」と声がした。
静だった。黒縁眼鏡の向こうから、こちらを見ていた。
「チューニングのA音はどこを基準にしますか」
「B♭管の楽器はB♭で」と七瀬が先に答えた。
「ありがとうございます」と静が言った。
「ありがとうございます」と凪が同じタイミングで言った。
ユニゾンだった。
言葉のユニゾン。音楽用語として正確な意味で、二つの声が同じ言葉を同じタイミングで出した。偶然ではない。精度が高すぎる。偶然ならここまで一致しない。
少し間があった。
「……双子、チューニングもユニゾンだ」とのんが小声で言った。
「精度高いね」と奈央が言った。
双子は、そのやり取りを気にしていなかった。二人で静かにチューニングを始めた。バリトンサックスとバスクラリネットの低い音が、音楽室の空気の底に敷かれた。
その音は、驚くほど合っていた。
*
「はいっ!!」
音楽室に大きな声が響いた。
トロンボーンパートのチューニングをとろうとした時、一年生の橘陽が返事をした。橘陽——一年生。トロンボーン担当。背が高い。百六十五センチはある。髪を高いところで結んでいて、目が大きくて、返事の声量がトロンボーンと同程度だった。——補足しておくと、「同程度」は比喩ではない。実測すれば多分そのくらいある。
「……声が大きい」と奈央がそのまま言った。
「すみません! 張り切りすぎました!!」と橘陽が言った。
声量は、変わっていなかった。
奈央が少し目を細めた。
「石山先輩って怖いですか」と橘陽が奈央に直接聞いた。
「……何がどうなってそういう質問になるの」
「声を注意された時の顔が厳しかったので」
「厳しくない。普通の顔」
「そうですか! ならよかったです!!」
橘陽はにこっと笑って、チューニングの体勢に戻った。
奈央がこちらを見た。
「普通の顔だよ」と奈央が言った。
「そうだね」と言った。
奈央の顔が普通かどうかについては、言及しない方が安全だった。陰キャの生存戦略は、触れない方がいい地雷を回避することだ。触れてしまった時のリカバリーコストが高すぎる。
*
合奏が終わった後、パート練習の時間になった。
「今日はコンクール自由曲の中盤から。七瀬、ソロのフレーズをまず一回」
「はい」と七瀬が答えた。
七瀬がソロを吹いた。先週より、また一段階よくなっていた。音の輪郭が明確になっている。息の支えが安定している。七瀬の成長速度は、目盛りのある物差しで測れない。気づいたら一段上にいる、という種類の成長だ。
金管全体が七瀬のソロを聴いた。
静かだった。
「先輩方、七瀬さんのソロ、好きですか」
横から声がした。
静だった。
いつの間にか金管パートの端に来て、バリトンサックスを持ったまま聴いていた。木管パートのはずだが。
「好きかどうかというより……」と僕が言いかけた。
「いい音だと思ってますか」と静が続けた。
「思ってる」
「どのくらい」
「どのくらい、って」
「羨ましいと思うくらいいい音ですか」
また的確だった。——いや、「また」と言ったのは、これが最初の「的確」ではないからだ。静は初対面からずっと的確だった。的確、的確、的確。外来種は場の空気を読まずに本質を突く。それが外来種の特徴だ。
「……静さん、木管パートじゃなかったっけ」
「来たくなりました」と静が言った。
「来たくなりました」と凪の声がした。
いつの間にか凪も来ていた。姉と少し離れた場所に、やはりバスクラリネットを持って立っていた。
双子がいつ来たのか、わからなかった。
「木管パートに戻ってください」と僕が言った。
「合点です」と静が言った。
「合点です」と凪が言った。
二人が音楽室の前半に戻っていった。
七瀬が「あの二人、不思議ですね」と言った。
「不思議だ」
「透先輩のことを観察してるような気がします」
「気のせいじゃないと思う」
七瀬が少し眉をひそめた。それは嫉妬の顔ではなく、純粋に「どういう人間なんだろう」という解析の顔だった。七瀬の感情は、顔に出る。全部、顔に出る。そこが七瀬の正直さの一つの形だ。
*
その週の部会で、合宿の係を決めた。
今年の合宿は七月の最終週。去年と同じ奈良の谷瀬荘。三泊四日。
「レク係やります」とのんが即座に手を挙げた。
「のんは去年もやったよね」と誰かが言った。
「またやります。今年は水鉄砲」
「水鉄砲?」
「山の中で水鉄砲、最高でしょ。暑い日に全員でびしょ濡れになって、それからお風呂入る。最高じゃん」
のんのビジョンには具体性があった。最終形が明確に描けている。陽キャの企画力は、ゴールの鮮明さから来ている——と思う。分析なので確証はないが、陽キャを長年観察してきた経験上、そういう傾向がある。
「スケジュール係、やります」と奈央が手を挙げた。
誰かがやらないといけないから、自分がやる。それが奈央のやり方だった。楽しいから、ではなく。使命感、とも違う。「穴を埋める」という感覚に近い。奈央という人間は、穴があると埋めずにはいられない性格をしている。
僕は金管パートリーダーとして、練習スケジュールの管理と全体合奏の進行を担うことになった。コンサートマスター的な役割だ。去年の「何かあれば動く・係なし」とは、重さが全然違った。
重い。重い。重い。
外側には出さなかった。それが、今の自分の立場だから。
「音無先輩」と声がした。静だった。
「何ですか」
「コンサートマスターというのは、具体的に何をするんですか」
「楽器全体の音をまとめることかな。金管を中心に、全体の音が揃うように引っ張る」
「大変ですね」と静が言った。
「大変ですね」と凪が言った。
ユニゾン。
「……ありがとうね」
「頑張ってください」と静が言った。
「頑張ってください」と凪が言った。
また、ユニゾンだった。
双子の後ろ姿を、少しの間だけ見送った。
今日だけで三回、的確なことを言われた。外来種は、侵入してきたばかりでもその場所の地形を読む。なぜ読めるのか、僕にはわからない。わからないことは、わからないと書いておく。わかったふりをするのは、陰キャの文章の性質に合わない。
名前のつかない感情の残高に、新しい種類の通貨が加わった。
双子から受け取った、観察されることの、奇妙な居心地の悪さと悪くなさが混ざったもの。そういう種類の通貨だった。
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(第三十七話へ続く)
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