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第三十三話「アモーレの招待、あるいはパフェという名の救済について」


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 第三十三話「アモーレの招待、あるいはパフェという名の救済について」

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 リフレッシュ、という言葉がある。


 疲れた状態から回復すること。蓄積した疲労や緊張を解放して、新しい状態に戻ること。コーヒーの豆を挽き直すように、あるいはパソコンの画面をリロードするように、状態をリセットする行為だ。


 しかしここに一つの問題がある。


 内側が詰まっている時、リフレッシュは外からかけないと起動しない、ということだ。外からのきっかけがなければ、ただ詰まり続ける。詰まったまま過ごす。詰まりが慢性化する。


 陰キャはそのきっかけを自分で作ることが苦手だ。外に出かけたい、誰かと話したい、気分転換したい——そういう要求が生まれても、それを行動に変換するまでの距離が長すぎる。考えているうちに機会が終わる。


 だから、外から来てくれる人間が必要だった。


 この話に登場するのは、そういう人間だ。




         *




 七月の第一週。


 数学の授業の途中から、僕の集中力はほぼ消えていた。


 黒板に並んでいる数式を眺めながら、頭の中では昨日の七瀬のソロが何度も再生されていた。うまかった。うまかったということと、自分が七瀬にきつく当たったということが、どちらも消えずに並んでいた。


 消えない理由は、どちらも本物だからだ。


 七瀬のソロは本物で、自分のきつい言い方も本物で、自己嫌悪も本物で、七瀬を大切に思っていることも本物だ。本物が複数重なって、どれを解決すれば全部が解決するかわからなくなっている。


 授業の後、田村が振り返って言った。


 「音無、今日は特にひどいな」

 「そうか?」

 「そうだよ。先生に当てられた時、マジで別の惑星から帰ってきたみたいな顔してた」

 「……何を答えたっけ」

 「答えてない。先生が諦めた」


 最悪だった。


 「なんかあった?」と田村が言った。

 「部活の話」

 「後輩に関する?」

 「まあ」

 「謝ったの?」

 「まだ」

 「謝った方がいいよ。引きずると互いにしんどいから」


 田村の言い方は、いつも素直すぎるくらい真っ直ぐだ。回り道をしない。複雑に考えない。謝るべき状況なら謝る、それだけだ。


 「……そうだね」と言った。


 田村は「じゃあランチ行こうかな」と言って、弁当を持って立ち上がった。


 話は終わった。田村にとって、それだけで十分だった。


 陽キャの会話は、問題を解決しようとするより、問題の横に座ってしまう。それが陽キャの付き合い方だと思う。解決しないが、一人じゃなくなる。




         *




 放課後。


 音楽室に向かう廊下で、後ろから声をかけられた。


 「音無くん」


 振り返ると、白石美月が立っていた。


 白石美月。ホルン。二年生。部内では「アモーレ」と呼ばれている。由来は平愛梨に似ているから——というのはのんからの説明だったが、実物を見ると確かに似ている。黒髪のセミロング、大きな目、すっと通った鼻筋。清楚、という言葉がそのまま立体化したような人間だ。


 なぜ白石が廊下で僕を呼び止めるのか、一瞬わからなかった。


 「白石?」

 「最近、元気ないよね」


 直球だった。


 「そうですか?」

 「そう見えてる。ホルンパートからは見えてるよ。音楽室での顔、変わったって話してた」

 「……音楽室での顔が、変わった」

 「なんか、固い。去年と比べて」


 去年と比べて、という言葉が刺さった。去年の自分は、今よりも何かが柔らかかったのか。林先輩がいて、三年生がいて、そのぶん気が楽だったのか。あるいは、今年になってから何かが詰まり始めたのか。


 「……部活のことで、少し」

 「言えそうなら聞くよ」と白石が言った。


 白石の言い方は、「聞いてほしかったら」でも「話して」でもなく、「言えそうなら」だった。強制しない。向こうの準備に合わせる。その距離感が白石らしかった。


 「言えそう……かどうかはわからないですが」

 「じゃあ、言えそうになるためにパフェ食べに行こ」


 「パフェ?」


 「石橋の駅前に、最近できたお店があって。パフェがおいしいって評判なの。あたし行きたかったんだけど、一人で行く気にはなれなくて」


 白石が少し笑った。その笑い方は、優しかった。清楚な顔の輪郭に沿った、薄くて柔らかい笑い方だった。


 断る理由がなかった。


 「……行きます」と言った。


 「よかった」と白石が言った。「着替えてから、音楽室の前で待ってて。一緒に行こう」


 白石が先に歩いていった。


 廊下に残って、少しの間、白石の背中を見ていた。


 アモーレ、という呼び名の由来はわかる。見た目の話だけではなく、その人間が持つ雰囲気にも、何かそういう名前が似合うものが漂っていた。




         *




 のんは、その日、何でも見ていた。


 廊下での白石と音無の会話。白石の笑顔。音無が「行きます」と答えた時の表情。


 のんが見たことは、翌朝、七瀬に伝わった。


 「七瀬ちゃん、昨日音無くんがアモーレと二人で石橋の方に歩いてくの見たよ」


 七瀬の動作が、一瞬止まった。


 弁当箱を持とうとして、止まった。止まってから、ゆっくりと再開した。


 「……二人で?」

 「そう。仲良さそうだったよ〜。あたし別に何の意図もなく言っただけだから」

 「のん先輩、意図ない時は言わない方がいいですよ」

 「あ、そう? 言わなかった方がよかった?」

 「……いいえ、教えてくれてよかったです」


 七瀬が弁当箱を棚にしまった。


 「どこのお店ですか」

 「確かめてないけど、石橋の駅前に最近できたパフェのお店らしいよ」


 七瀬が一礼して、廊下に出た。


 廊下に出てから、少しの間、一人で立っていた。


 石山奈央の教室の方向を、見た。


 七瀬の中で何かが決まった。


 决定の瞬間は、いつも静かに来る。




         *




 七瀬が奈央の教室に来たのは、その日の放課後だった。


 七瀬あおいが二年九組の教室の扉を開けて入ってきた。奈央が自分の席で帰り支度をしていた。


 奈央が七瀬を見た。七瀬が奈央を見た。


 二人が正式に向き合ったのは、これが初めてだったかもしれない。音楽室では同じ空間にいることが多いが、正面から向き合って話すことはほとんどなかった。


 「石山先輩」と七瀬が言った。

 「七瀬さん?」

 「少し話していいですか」


 奈央は鞄を肩にかけて、「廊下で」と言った。


 廊下に出た。二人。


 「何の話?」


 奈央の声は、温度がなかった。温度がない、というのは冷たい、ではなく、測られているような感じがした、という意味だ。


 「透先輩のことです」と七瀬が言った。


 奈央が少しだけ眉を動かした。


 「透先輩が最近元気ないのは、石山先輩も知ってると思います」

 「知ってる」

 「昨日、白石先輩と二人で出かけたみたいで。石橋の駅前のパフェ屋に行くって話を聞きました」

 「……のんから?」

 「はい」

 「それで」


 奈央は短く答えた。何を言い出すかを、黙って待っている顔だった。


 「一緒に見に行きませんか」と七瀬が言った。


 「見に行く、って……」


 「尾行です。心配だから」


 奈央が七瀬の顔を見た。


 七瀬の目は、まっすぐだった。後ろめたさもない。複雑さもない。ただ心配、という感情だけが透き通っていた。


 しばらくの沈黙があった。


 奈央は、何かを考えていた。


 「……今日?」


 「今日です」と七瀬が答えた。「お店に行くとしたら、今日の放課後だと思うので。今から行けば間に合うかと」


 「私と七瀬さんが並んで歩いたら、目立つんじゃない?」


 「一緒に歩かなければいいです。バラバラに行って、お店の近くで合流する」


 奈央が少し目を細めた。


 「……あなた、意外に計画的なのね」


 「透先輩のことになると、計画的になれます」


 その言い方は、直球すぎた。奈央は少しだけ顔を引きつらせた。しかし口元は、かすかに動いた。笑ったのか、それとも別の何かか。


 「……わかった。行く」


 奈央が言った。


 「ありがとうございます!」と七瀬が言った。


 「感謝されることはしてないと思うけど。石橋の駅前でしょ、そのパフェ屋」


 「はい」


 「どこのお店かは確認した?」


 「まだです」


 「調べる」と奈央は言った。スマホを取り出した。


 七瀬がその横で、奈央の画面を覗き込んだ。


 二人が並んで画面を見ていた。


 一年生と二年生。ヒロインAとヒロインB。休戦協定の瞬間だった。


 協定の成立条件が「透先輩の心配」であることに、二人とも気づいていたが、誰も口にしなかった。


 名前のつかない感情の残高に、僕が知らないところで、何かが加算されていた。




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            (第三十四話へ続く)

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