第三十二話「嫉妬という感情の扱い方、あるいは大切な後輩にきつく当たってしまう件について」
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第三十二話「嫉妬という感情の扱い方、あるいは大切な後輩にきつく当たってしまう件について」
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嫉妬と羨望の違いについて考えよう。
羨望は、相手が持っているものを自分も欲しい、という感情だ。ベクトルが自分に向いている。「あれが欲しい」という言葉で完結する。
嫉妬は、相手が持っているものを自分が持てないことを、相手のせいにしたくなる感情だ。ベクトルが相手に向く。「なんであいつが」という言葉が出てくる。
しかし実際のところ、羨望と嫉妬の境界線は極めて曖昧だ。
羨ましいという感情が積み重なると、いつの間にか嫉妬に変質する。変質の瞬間は本人にはわからない。気づいたら、ベクトルが変わっている。
もう一つ、名前がつけにくい感情がある。
相手のことが大切で、その相手が自分より遠くにいることが、悲しいような、寂しいような、誇らしいような——いくつかの感情が溶け合って、どれとも言えなくなった状態だ。
七瀬あおいへの感情は、この三番目に近かった。
近かった、と過去形で書いているのは、それが後で変質したからだ。
*
七月の最初の週。
現代文の授業の合間に、田村が前の席から振り返って言った。
「音無、なんか最近しんどそうじゃん」
「そうか?」
「俺の感覚ではそう」
「田村の感覚は当てにならない」
「当てになるよ。野球部は人の顔読むの得意だし」
「なんで野球部が人の顔読む必要があるの」
「サイン見るからだよ。サインって結局、顔の動きとか目の動きで読むんだよ。鍛えてる」
田村の説明は意外に筋が通っていた。
「部活のことか?」と田村が聞いた。
「……まあ」
「後輩に負けたとか?」
的外れに見えて、正確だった。
「負けた、というより——」
「似たようなものか」
「……似たようなものかもしれない」
田村が少し考えた。田村が考えるのは珍しい。
「俺も去年、一年生のピッチャーに先発取られたよ。悔しかったよ。でも二年目の秋にレギュラー戻ったから、まあ結果的によかったけど」
経験談だった。経験談は、時々、言葉より重い。
「音無はトランペットうまいの?」と田村が聞いた。
「普通より上だと思ってた。でも後輩がもっとうまかった」
「そっか。でもさ、後輩がうまいって、結局自分の育て方がよかったってことじゃないの」
「育てたのは僕じゃない」
「でも先輩として一緒にいたんでしょ」
田村の言い方は、雑だった。しかし雑なりに、どこかが刺さった。
チャイムが鳴った。
「次、物理か」と田村が言った。「物理、わかる?」
「わからない」
「俺も。一緒に先生の話半分だけ聞こうか」
「全部聞いた方がいいんじゃないか」
「半分がちょうどいいんだよ。全部聞いたら疲れる」
陽キャの哲学は、時々、生き方のヒントになる。
*
放課後のパート練習。
音楽室の隅で、七瀬とトランペットのパート練習をした。他のパートは別の部屋や廊下に散っていて、今日はトランペットだけがここを使っていた。
七瀬がソロを繰り返し練習していた。
同じフレーズを、何度も。同じ箇所を、くり返し。それが七瀬の練習スタイルだった。気になった部分を、合格ラインを超えるまでひたすら繰り返す。合格ラインが自分の中に明確にある。達したらすぐわかる。達するまで止まらない。
「七瀬、出だしのブレスが短くなってる」と言った。
「はい」と七瀬が素直に答えた。
もう一度吹いた。
直っていた。一回で直った。
一回で直ることの、不思議な快感と、それと同時に訪れる奇妙な感覚。直した七瀬がどこかまぶしかった。まぶしい、と思うと同時に、まぶしいと思う自分の感情が、どこかずれていると感じた。
「今度は中盤のフレーズ。音の頭が重い」
「どのくらい軽くすれば?」
「スコアの指示が『軽やかに』だから、もう少し風通しをよくするイメージで」
七瀬が頷いて、吹いた。
吹いた音は、また一段階よくなっていた。
指示を出すたびに上手くなる。指示の吸収速度が、他の部員と桁が違う。先生に「こういう音を目指せ」と言われると、次の瞬間にはそれに近い音が出てくる。
そういう後輩を持つ先輩の複雑さが、誰に話しても伝わるかどうかはわからない。
誇らしい。大切だ。うまくなってほしい。
しかし同時に、何かがじりじりと削れていくような感覚があった。
削れていく感覚が何なのか、この時点では言語化できなかった。
*
翌日のパート練習。
七瀬のソロに、技術的な問題はほとんどなくなっていた。一週間前に比べると、完成度が明らかに上がっている。あとは本番で出せるかどうか、という段階になってきた。
「透先輩、今日はどの部分を重点的にやればいいですか」
七瀬が聞いた。
「全部通してみよう」と答えた。
七瀬がソロを最初から最後まで吹いた。
問題は、なかった。
音程も、息のコントロールも、フレーズの処理も。技術的には完成に近い演奏だった。
しかし僕は、「いいと思う」と言わなかった。
「最後のロングトーン、音が下がってる」と言った。
七瀬が「下がっていましたか?」という顔をした。
「微妙にね」
もう一度、七瀬がそのフレーズだけを繰り返した。
正直に言えば、最初の演奏でもほとんど下がっていなかった。気になるかならないかのレベルだった。
なぜそれを指摘したのか、言い訳をすると——より完璧にするためのアドバイス、ということになる。
しかし実際は——わからない。
なぜ「いいと思う」と言わなかったのか。言えなかったのか。
「透先輩、今日は厳しいですね」と七瀬が言った。
「練習だから」と答えた。
声が少し冷たかった。自分で出した声が、自分の耳に硬く響いた。
七瀬が少し黙った。反発ではなく、何かを測るような沈黙だった。
「……はい」と七瀬は言った。
そのまま練習を続けた。
練習中、七瀬の声がわずかに小さくなった気がした。返事の音量ではなく、発声全体の強さが。少し内側に引いた、という感じだ。
練習が終わった後、七瀬は「失礼します」と言って先に部屋を出た。
いつもなら「透先輩、また明日!」か「透先輩、今日ありがとうございました!」と言って帰る。それが今日はなかった。
部屋に一人残った。
自分の楽器を布でふきながら、今日の自分の言葉を振り返った。
何かがおかしかった。
技術的な指摘の内容ではない。指摘の仕方が。声のトーンが。「厳しいですね」と七瀬に言われた時の、僕の返し方が。
何かがずれていた。
*
翌日の昼休み。
奈央が弁当を持って来る前に、のんが先に音無の席に来た。
「音無、聞いていい?」
のんの「聞いていい?」は、たいてい断れない問いかけだ。聞いていい、の時点で既に答えを持っている。
「なに」
「七瀬に何か言った?」
予感がした。
「パート練習でのことか?」
「そう。七瀬、昨日の練習の後、廊下でちょっと泣きかけてたよ」
「泣きかけて」という表現が、正確だった。「泣いてた」ではなく、「泣きかけてた」。七瀬は泣かなかった。泣く手前で止めた。それが七瀬らしかった。
「……指摘がきつかったかもしれない」
「きつかったんだ」
「意識してそうしたわけじゃないけど」
「意識してなかったからかえって伝わったんじゃないの」
のんのこの手の観察は、鋭い。陽キャだからといって、表面しか見ていないわけではない。むしろ、たくさんの人間を見てきた分だけ、感情の地形を読む能力が高い。
「……そうかもしれない」
「音無、七瀬のこと大切に思ってるじゃん」
「後輩だから」
「後輩だからじゃないでしょ」
のんはそれだけ言って、「奈央呼んでくるね」と言った。
来た。
少し後で、奈央がやってきた。
弁当箱を机の上に置いて、僕の横に座った。弁当を開けながら、最初は何も言わなかった。
「七瀬に何かしたの?」と奈央は、食べながら言った。
「のんから聞いたんだ」
「聞いた」
「……パート練習で、きつい言い方をしたかもしれない」
「七瀬が泣きかけてたって話も聞いた」
「そこまで知ってるんだ」
「知ってる」
奈央が卵焼きをつまんだ。
「音無、自分でわかってる?」
「……わかってる」
「何がわかってる」
「自分の言い方がおかしかった、ということは」
「なんでおかしかったの」
答えられなかった。
なんでおかしかったのか。七瀬のことが大切だから。七瀬に完璧になってほしいから。七瀬が天才だから。七瀬が自分より上だから。七瀬が——羨ましかったから。
どれが正しいか、全部正しいか、全部違うか。
「……わからない」
正直に言った。わからなかった。
奈央がため息をついた。小さな、しかし確実な、ため息だった。
「音無は正直だね」
「正直がいいことかどうかはわからないけど」
「今は、七瀬にちゃんと謝れる?」
「……今日は無理かもしれない」
「なんで」
「自分の中で整理がついてないから。謝るには、何に謝るかを決めてからじゃないと」
奈央がそれを聞いて、少し間を置いた。
「音無って、謝り方に手順があるんだね」
「……そういう性格なんだと思う」
「じゃあ整理がついたら謝ってね。七瀬、ちゃんと先輩として見てるから」
奈央の言い方には、刃のような角があった。
刃の向き——それは七瀬を守るための刃だったのか、僕を指し示すための刃だったのか——今でも判別できない。
どちらにせよ、刺さった。
*
放課後、自分の席で少し遅くまで残った。
教室に人が少なくなってから、窓の外を見た。
林先輩の言葉が頭をよぎった。
「怖くなくなる方法はない。怖いまま吹き続けて、怖さと並走できるようになるだけだ」
怖さと並走する。
僕は今、怖いのか。
何が怖いのか。
七瀬が——自分を追い越していくことが、怖い。追い越されること自体ではなく、七瀬がどこかへ行ってしまうような感覚が、怖い。七瀬は天才だ。いずれ、もっと大きな場所で吹くことになる。その時、自分は七瀬の何でもない先輩の一人になる。
それが怖い。
怖いくせに、怖いことを認めたくなくて、その感情が練習中の態度になって出た。七瀬に向けるべきではないものを向けた。それが昨日の自分だった。
自己嫌悪という言葉がある。
自分を嫌いになること。嫌いになる対象が、他者ではなく自分自身に向いたもの。
昨日の自分は、自己嫌悪の教科書のような行動をとっていた。
手元の教科書のページを繰った。授業の内容ではなく、ただページを繰りたかった。
謝らなければいけない。
でもまだ、何に謝るかを言語化できていない。
言語化できない感情は、行動に変換できない。
陰キャの宿命は、感情が言葉になる速度が、感情が生まれる速度に追いつかないことだ。
名前のつかない感情の残高が、また増えた。
今度の増加分は、後悔という名前がつきかけていた。
つきかけている、というのは、まだ完全についていない、ということだ。
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(第三十三話へ続く)
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