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第三十一話「ソロという名の重さ、あるいは後輩に追い越されることの意味について」


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 第三十一話「ソロという名の重さ、あるいは後輩に追い越されることの意味について」

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 継承、という言葉がある。


 受け継ぐこと。誰かが先に持っていたものを、後の誰かが引き受けること。部活という生態系においては、これは毎年繰り返されるサイクルだ。三年生が引退し、二年生が上になり、一年生が来る。先輩から受け取ったものを、いつかは後輩に渡す。バトンパスの形式だ。


 しかしバトンパスには、二種類ある。


 一つは、前の走者が先に止まって、後ろに待つ走者に手渡す形。順序がある。呼吸がある。タイミングを合わせて、一つのバトンを一つの手が受け取る。

 もう一つは、前の走者がまだ走っている最中に、後ろの走者が追いついて追い越す形。バトンという概念すら消えて、ただ前後が入れ替わる。


 どちらが正しいかではない。どちらもありうる。


 問題は、自分が前者だと思っていた時に、後者の形で後ろから来た人間がいた場合、どう受け止めるか、だ。


 受け止め方を、この話に書いておく。




         *




 六月の最終週。二年九組の教室。


 現代文の授業が終わり、チャイムが鳴った。


 窓際の後ろから二番目の席で、シャープペンを置いた。授業の内容は半分しか頭に入っていなかった。残りの半分は、放課後の練習のことを考えていた。具体的には、七月の地区大会のことを。さらに具体的には、今年のコンクール曲のことを。


 「音無、最近授業中ぼーっとしてんじゃん」


 後ろから声がした。田村大輔だった。野球部の、普通の男子だ。今年同じクラスになって、席が近いこともあって話すようになった。深い仲ではないが、話しやすい。表面をなぞるだけの会話をする。それが今は楽だった。


 「ぼーっとはしてない」

 「いや、してたよ。さっきから三十分くらい窓の外見てた」

 「……三十分は言いすぎだろ」

 「二十分は確実」


 田村はそこで笑った。責めているわけではない。観察した事実を報告しているだけだという顔をしていた。


 「部活、大変なの?」

 「まあ」

 「コンクールとかある?」

 「七月に地区大会がある」

 「そうなん。頑張れよ」


 田村の「頑張れよ」は、軽かった。しかし軽いことと中身がないことは違う。部活をやっている人間同士の、共通言語みたいなものだ。野球部の田村と吹奏楽部の僕では、大会の形式も規模も意味もほとんど違う。それでも「大会前に頑張れ」という言葉は、共通して届く。


 「ありがとう」と言った。


 田村はもう次の話に切り替えていた。陽キャの会話は流れが速い。僕はまだ、さっきの「頑張れよ」を抱えていた。




         *




 昼休みになった。


 奈央が弁当を持ってきた。「中庭で食べよう」と言った。六月の昼は、エアコンが強くて教室が寒い。外の方がいい。


 「今日から本格的に合奏が始まるね」と奈央が言った。弁当箱の蓋を開けながら、いつもと同じ平坦な声で。

 「先生が先週から言ってたもんね」

 「曲、難しくなかった?」

 「難しい。でも面白い曲だと思う」


 今年のコンクール自由曲は、田中先生が選んだ。重厚で、中盤に特徴的なソロが入っている。ソロを担当する楽器が、トランペットだ。


 それを今日の部活で正式に決めることになる。


 奈央が卵焼きをつまみながら、「音無、緊張してる?」と言った。

 「なんで」

 「顔に出てる」

 「出てるかな」

 「出てる。目が泳いでる」


 泳いでいる自覚はなかった。しかし奈央は、視線の揺れを見抜く人間だ。一度気づかれたら言い訳は通じない。


 「大丈夫」と言った。

 「どっちが大丈夫なの」

 「どっちも」

 「どっちも、ってことはどっちかが不安なんじゃないの」


 奈央の言葉の使い方は、時々、法廷の尋問みたいになる。言葉の隙間を見つけて、そこから入ってくる。


 「……そんなことはない」

 「そう?」


 奈央は納得した顔をしていなかった。しかし追及はしなかった。弁当の蓋を閉めて、「行こう」と言った。


 中庭の桜はとっくに散って、今は緑の葉だけが残っている。




         *




 放課後。音楽室。


 三年生が引退して初めて迎える、本格的なコンクールシーズンだ。


 柚木先輩も堀先輩も林先輩も、もうここにいない。定期演奏会で引退して、それきりだ。三人が作っていた音の厚みが、今の音楽室にはまだない。全体合奏をすると、どこかが薄い。先輩たちがいた場所に、空白がある。空白は見えない。しかし音を出すと、そこだけ空気の密度が違う。


 顧問の田中先生が前に立った。


 「確認したいことがある。コンクール自由曲のソロパートについて」


 音楽室の空気が、わずかに変わった。


 ソロ、という言葉は特別な重力を持っている。誰がやるか、誰に向いているか。その配置を巡る空気は、いつも独特だ。


 「今年のソロは、七瀬に任せようと思う」


 先生が言った。


 七瀬あおいが、一年生の席でわずかに体を固くした。驚きではなく、確認するような固まり方だった。


 周囲を見回した。異論を挟む気配は誰からもなかった。むしろ全員が「そうだろう」という顔をしていた。七瀬の実力は、部内の共通認識だ。入部してまだ三ヶ月、正式な部員として認められたばかりの一年生が、二年生以上の先輩全員よりもトランペットがうまい。これは感情的な話ではなく、耳で聴けばわかることだった。


 「音無はフォローをよろしく」と先生が言った。


 「はい」と答えた。


 声は出た。ちゃんと出た。


 当たり前だ。


 当たり前だ、と思った。七瀬が選ばれるのは当然の流れで、僕がそれを支える側になるのも自然だ。去年の自分が一年生の時に、林先輩に支えてもらったように、今年の七瀬を自分が支える。それがサイクルだ。継承だ。


 問題は、「当たり前だ」という言葉を何度も反芻するほど、その言葉が空洞になっていくことだった。


 七瀬がこちらをちらりと見た。


 その視線を受け止めて、頷いた。


 七瀬も、頷いた。


 ただそれだけだった。




         *




 パート練習が始まった。


 七瀬がソロを初めて通して吹いた。まだ本番ではない。仮の、最初の演奏だ。しかし——うまかった。


 ただうまい、という言葉では足りない。


 音に、透明感がある。トランペットは金管楽器で、本来は主張の強い音が出やすい。強く、厚く、前に来る。しかし七瀬の音は、透明度を保ったまま前に来る。強さと繊細さが矛盾なく共存している。


 ソロのパートは、曲の中盤で一分ほど続く。その一分を、七瀬は一息も崩さずに吹き切った。


 吹き終わった後、音楽室が一瞬静かになった。


 二年生の何人かが、小さくため息をついた。感嘆のため息だった。


 「すごい」と誰かが小さく言った。


 七瀬は「ありがとうございます」と言った。謙遜せずに受け取った。受け取り方も、天才のそれだった。うまいと言われることに慣れている。慣れているが、驕っていない。


 僕は自分の楽器を膝の上に置いて、聴いていた。


 聴きながら、一つの言葉が頭の中に生まれた。


 羨ましい。


 その言葉を、すぐに頭の中で捨てた。


 捨てたつもりだった。


 しかし捨てた言葉は、消えたのではなく、どこか見えないところにしまわれただけだった。




         *




 練習後、七瀬が廊下で待っていた。


 「透先輩」

 「七瀬」

 「あの……先輩のこと、考えてたんです。先輩の方が経験があって、去年もソロを担当してたのに。あたしがやっていいのかな、って」


 七瀬の言い方は素直すぎた。


 気を遣っているのはわかる。天才は、自分が天才であることを知っている場合、気を遣い方が難しくなる。七瀬はその難しさを、直球で解決しようとしていた。


 「七瀬が選ばれるのは当然だよ」と言った。

 「……当然、ですか」

 「七瀬の方が音がいい。それだけのことだ。おめでとう」


 七瀬が少し間を置いた。


 「……透先輩は、悔しくないんですか」


 予想外の質問だった。いや、予想できるべき質問だったかもしれない。七瀬は素直だから、こちらが言葉の裏に何か抱えているとすぐに気づく。


 「悔しくない」と言った。


 嘘ではなかった。

 嘘ではなかったが、本当でもなかった。


 七瀬が少し目を細めた。何かを言いかけて、やめた。やめたことが、わかった。


 「……ありがとうございます」と七瀬は言った。


 七瀬の「ありがとうございます」は、ありがとうというより、何か別の言葉の代わりに使われているように聞こえた。何の代わりかはわからなかった。


 七瀬が一礼して、部室の方へ戻っていった。


 廊下に一人残った。




         *




 帰り道。電車に乗った。奈央と二人。


 「七瀬のソロ、聴いた?」と奈央が言った。

 「聴いた」

 「どうだった」

 「うまかった」

 「それだけ?」

 「それだけ」


 奈央が文庫本を閉じた。今日はシャッターを下ろさない顔だった。


 「音無、悔しくない?」

 「……当たり前だと思ってる」

 「悔しくないって言ってないよね、今」


 言っていなかった。「当たり前だと思ってる」は、感情についての答えではない。状況についての答えだ。奈央はその差を見逃さなかった。


 「悔しくないことはないと思う」と言った。

 「正直だね」

 「でも、それは僕の問題だ。七瀬は実力があるから」

 「実力があるのと、悔しくないのは別の話でしょ」

 「……そうだね」


 窓の外を流れる住宅地を見た。六月の夕方は、雨上がりの匂いがした。


 「七瀬に何か言った?」と奈央が聞いた。

 「おめでとう、って言った」

 「どんな顔で言ったの」


 どんな顔で。


 自分の顔は見えない。鏡で確認したわけではない。だから正直に答えるしかなかった。


 「……わからない。当たり前だと思ってたつもりの顔だと思う」


 奈央がそれを聞いて、少し眉をひそめた。


 「つもりの顔、ね」


 それ以上は言わなかった。


 石橋駅に着いた。


 「音無」

 「なに」

 「悔しい気持ちを持つのは、別に悪いことじゃないと思うよ」


 扉が開いた。奈央が降りた。


 扉が閉まった。


 電車が動き出した。


 悔しい気持ちを持つのは、別に悪いことじゃない。


 その言葉を、僕は電車の揺れの中で何度か繰り返した。繰り返しても、その言葉が自分の中で定着するまでには、もう少し時間がかかりそうだった。


 名前のつかない感情の残高に、新しい種類の通貨が加わった。

 悔しさ、というよりは、悔しさと大切さが混ざり合って、どちらとも呼べなくなったものだった。




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            (第三十二話へ続く)

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