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第三十話「先輩になった陰キャが後輩に語る資格を持つかどうかについて」


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 第三十話「先輩になった陰キャが後輩に語る資格を持つかどうかについて」

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 先輩、という立場には、語る義務が発生する。


 後輩に何かを伝える義務。経験を共有する義務。知っていることを教える義務。これは明文化されたルールではないが、先輩という生態的地位に付随する暗黙の職責だ。後輩がいるから先輩がいる。先輩がいるから後輩が育つ。このサイクルが部活動という生態系を維持している。


 問題は、陰キャに語る能力があるかどうかだ。


 陰キャの特性として、自分の経験を他人に話す習慣が低い、というものがある。話すよりも考える。表現するよりも内側にしまう。一年間の出来事が全て頭の中に蓄積されていて、圧縮されていて、外に出てきていない。


 先輩になっても、陰キャは陰キャのままだ。


 これは前にも書いた。


 しかし、後輩がいる。

 後輩が聞いている。

 後輩が待っている。




         *




 現代文の授業が終わった。


 六月の二年生の教室。エアコンの人工的な涼しさが窓から漏れていく。チャイムが鳴った。教師が教室を出た。周囲がざわめいた。


 一年前の夏の記憶が、ゆっくりと現在の時制に戻ってきた。


 戻ってきた、というのは語弊がある。正確には、戻れた、だ。回想は侵入してくるが、引き上げるには意志が必要だった。現代文の授業の内容は一文字も頭に入っていなかった。谷瀬荘の風呂の匂いと、林先輩の「怖さと並走しろ」という声と、奈央の「私の秘密、いっぱい教えてあげる。」「今ここで感じてることは、ここでしか感じられない」という一言を抱えながら、四十五分間、窓の外を見ていた。


 教室を出ると、廊下に七瀬あおいが立っていた。


 放課後まで待っていたのではないと思う。たまたまこのタイミングで廊下を歩いていただけのはずだ。しかし七瀬は、僕を見た瞬間にまっすぐこちらに来た。


 七瀬には、目的地に向かう引力がある。目的が決まった瞬間に、他のことが見えなくなる。周囲を確認しながら歩く、という動作の中に「透先輩が見えたら直進」というルートが最優先で組み込まれているような動き方だ。


 「透先輩!」

 「七瀬。今日は見学?」

 「はい。あ、でも先輩に聞きたいことがあって」


 七瀬の「聞きたいことがある」は、いつも一つではない。二つか三つある。そして全部聞かずには引かない。


 「なに」

 「合宿のことです」


 タイミングが良すぎた。


 「合宿?」

 「七月の末に合宿があるって先輩から聞いて。どんな感じか知りたくて」


 一年生にとって、初めての合宿が近づいている。七月の末。去年と同じ、奈良の谷瀬荘。三泊四日。今年の合宿は、去年の合宿と同じ場所で、違うメンバーでやる。谷瀬荘に行くたびに、メンバーが変わる。施設だけが変わらない。


 「どんな感じって、どういうことを知りたい?」

 「全部です」

 「全部は長い」

 「じゃあ大事なことだけ」

 「……歩きながら話す」


 廊下を歩いた。七瀬が隣について歩いた。七瀬は少し歩幅が小さく、僕の半歩後ろに自然と入る。後輩の立ち位置を体が知っている。


 「合宿は、きつい」


 正直に言うことにした。


 「どのくらいきついですか」

 「逃げ場がない、というきつさ。学校の練習は終わったら帰れる。でも合宿は帰れない。嫌でも続く」

 「嫌になるんですか」

 「なる日がある。三日目の朝あたりが一番きつい。眠いし、体も重いし、練習の限界感がある。泣く人もいる」

 「泣くんですか」

 「泣いてた」

 「透先輩は泣きましたか」

 「泣かなかった」

 「なんで」

 「……泣くタイミングを逸した」


 正確には、泣くほど感情が外に出てこなかった、だ。感情が内側に全部しまわれていたので、泣くという出力が発生しなかった。それが陰キャの特性だ。感情の排熱システムが外向きに設計されていない。


 七瀬が少し笑った。

 「でも体には残るんですか。きつさ」

 「残る。でも、きつさより大事なものの方が多く残る」

 「大事なもの、って?」

 「……言葉にするのが難しい。でも、合宿に行く前と行った後では、音が変わる。自分の音も、全体の音も」

 「なんで変わるんですか」

 「一緒に苦しんだから、じゃないかな。同じ密閉空間で同じ時間を過ごして、逃げずに練習した人間たちの音には、共通する何かが入る」


 七瀬が目を大きくした。七瀬の目は元々大きいが、興味を持った時はさらに大きくなる。その動きが、視覚的にわかりやすい。


 「それ、どんな感じに聴こえるんですか」

 「言葉ではわからない。合宿に行って、帰ってきた後に自分の耳で聴くしかない」

 「じゃあ行ってみます」

 「行くしかないよ」


 七瀬が「そっか」と言った。


 しばらく歩いた後、七瀬が聞いた。


 「透先輩の合宿で、一番の思い出は何ですか」


 一番の思い出。


 いくつかの場面が浮かんだ。

 林先輩の「怖さと並走しろ」という言葉。

 村田先輩の大きなイビキ。

 男三人の六畳の部屋。

 女子の部屋のシャンプーの香り。

 布団から出られなかった夜と、のんの救出作戦と、奈央の廊下での「さっさと部屋に戻って」。

 泣いていた一年生とあやのの沈黙。

 最後の日の合奏で出た、縮んでいない音。


 どれが一番か。

 どれか一つを選べるか。


 「全部」と答えた。

 「全部は選べないじゃないですか」と七瀬が言った。

 「全部が一番だから仕方ない」

 「じゃあ、一番印象に残ってることは?」

 「林先輩に言われた言葉」

 「なんて言われたんですか」


 「怖くなくなる方法はない。怖いまま吹き続けて、怖さと並走できるようになるだけだ」


 七瀬が黙った。

 歩きながら、何かを考えている顔をしていた。七瀬が考える時、歩幅がさらに小さくなる。足を止めずに、でも内側に向いている感じがした。


 「林先輩……すごいですね」

 「うん」

 「引退しても、ちゃんと残ってるんだね、言葉が」


 七瀬らしい言い方だった。

 林先輩が引退して、部活の現場にはいない。しかしその言葉は僕の中にある。後輩に伝えられている。林先輩は今日この廊下にいないが、林先輩の言葉は今日この廊下に来た。


 「七瀬も、先輩の言葉を覚えてね」

 「覚えます!」

 「誰かに伝える日が来るから」

 「透先輩の言葉も、ちゃんと覚えます」

 「僕の言葉はまだそんなに蓄積してないけど」

 「これから蓄積しますよ。先輩はまだ二年生だから」


 七瀬の言葉には、未来に対する確信がある。ちゃんと先輩になれる、ちゃんと蓄積できる、という信頼が底に敷いてある。


 「合宿、楽しみ?」と聞いた。

 「すごく楽しみです! きついって聞いたのに、楽しみになってきました」

 「それが合宿の話を聞いた時の正しい反応だと思う」

 「正しい反応ってあるんですか」

 「正しいかどうかはわからない。でも楽しみになれる人は、合宿向きだと思う」

 「じゃあ透先輩は楽しみでしたか、去年」

 「……怖かった」

 「怖かったのに行ったんですね」

 「行かない選択肢がなかった」

 「それでも行ったんですね」

 「……そうだね」


 七瀬が微笑んだ。


 「透先輩って、怖くても行く人なんですね」


 その言い方は、評価だった。怖くても行く、というのは、勇気の形の一つだ。七瀬はそれを見ていた。僕の中の小さな、名前もついていない勇気を、七瀬の目は拾っていた。


 「七瀬は怖くないの? 合宿」

 「少し怖いけど、楽しみの方が大きいです」

 「楽しみの方が大きいならよかった」


 音楽室への廊下で、七瀬が「あと、一つだけ聞いていいですか」と言った。


 「なに」


 七瀬が少し間を置いてから聞いた。


 「合宿の部屋って、男女別々ですか」


 きた。


 「別々。女子と男子は部屋が違う」

 「そっか……残念」

 「残念って言うな」

 「でも透先輩と同じ部屋だったら、楽しいじゃないですか」

 「楽しいかどうかはともかく、ルール上それはない」

 「ルール、か」七瀬が少しむくれた。「ルールって時々邪魔ですね」


 むくれた七瀬もかわいかった。町一番の美少女のむくれ顔は一年前と変わらず町一番だったが、むくれに対して何も言わないのが先輩としての正しい姿勢だと判断した。


 判断だけして、何も言わなかった。陰キャ先輩の正解行動だ。




         *




 放課後。部活前の短い時間。


 奈央が来た。いつも通り弁当箱を持って返却に来るついでに寄る、という感じで。


 「七瀬と話してたね」と奈央が言った。

 「合宿の話を聞かれた」

 「何を話したの」

 「合宿はきついけど大事なものが残る、って話」

 「それだけ?」

 「あとは林先輩の言葉を教えた」

 「怖くなくなる方法はない、ってやつ」

 「奈央も覚えてるじゃん」

 「当たり前でしょ。あたしも同じ合宿にいたんだから」


 奈央が窓の外を見た。六月の青空が、窓枠の中に切り取られていた。


 「今年の合宿、どうなるかな」

 「どういう意味で」

 「去年と同じ場所だけど、三年生がいなくなって、一年生が増えて。同じ合宿でも、全然違うでしょ」

 「違うと思う」

 「音無はパートリーダーだから、今年は後輩引っ張る側だね」

 「……それを考えると少し怖い」

 「前に林先輩が言ってたよね。怖くなくなる方法はないって」

 「怖いまま並走しろってことだね」

 「そういうこと」


 奈央が少しだけ笑った。


 「音無、先輩っぽくなってきたよね」

 「なれてる気がしないけど」

 「外からは見えてるよ。七瀬が懐いてるでしょ」

 「懐く、というのは正確かな」

 「正確でしょ。あの子、目が違うよ、音無を見る時」

 「……それはどういう意味で」

 「見てのまんまの意味」


 奈央はそれ以上言わなかった。言わないが、言おうとしていた言葉は確かにあった気がした。


 奈央の残した余白に、僕は何も入れなかった。入れる言葉を持っていなかった。


 言葉を持っていない感情は、いつものように、残高に積み重なった。




         *




 七月まで、あと少し。


 合宿まで、あと少し。


 去年の僕は後輩として行った場所に、今年は先輩として行く。


 先輩、という言葉の定義について、この話の最初に書こうとして、書けなかった。今ならわかる。先輩とは、先に苦しんだことがある人間のことだ。技術が上だとか、人格が優れているとか、そういうことではない。ただ、先に同じ苦しみを経験して、それでも戻ってきた人間が先輩だ。


 林先輩がそうだった。村田先輩がそうだった。


 そして今年の合宿で、誰かにとっての僕も、そういう先輩になれるかもしれない。


 なれるかもしれない、というだけだ。

 確信はない。

 しかし確信がなくても、方向はある。


 七月が来る。

 山が呼んでいる。


 名前のつかない感情の残高に、新しい種類の通貨が加わった。

 期待、という名前がつきかけている通貨だった。


 つきかけている、というのは、まだ完全についていない、ということだ。

 完全についた時に、この話の続きを書こう。




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            (第三十一話へ続く)

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